Category: 博物芸術
見事な幾何学文様
早いもので新年を迎えて、もう10日も経ってしまいました。
しかし、まだ元旦の朝の話題です。
湯の川温泉の宿を出て、市電に乗り、五稜郭公園前で降ります。
この夜泊まるホテルに荷物を預け、カメラとガイドブックだけ持って、雪上行軍開始。
すごい店がありました。
改めて眺めると、オムライスと、鉄板ミートスパゲティに惹かれますね。
そして、今回初訪問となった函館のお城。
お堀があるのですが、凍って雪が積もっているので、お堀には見えませんね。
国内に数ある名城と比べると、新しいだけあって見事というか堅固そうな石垣。
雪吊りも絵になります。
日本晴でした。
桜も多いようでしたが、函館だと染井吉野じゃないのかな?
本丸にあるのは、天守閣ではなくて、奉行所です。
箱館奉行所。
観光物産館や道の駅にもこんなデザインがあったりしますが、こちらは本物の奉行所を復元したものです。
たぶん雪が無い時の方が美しいと想像されます。
明らかに戦闘用ではありませんね。あとはウィキペディアから引用。
1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、幕府は松前藩領であった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(当時は松前藩の箱館奉行詰役所があった)に置かれた。初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内である箱館山に登れば奉行所を見下ろせることから防御に適さず、亀田方面への移転が必要であると上申。そして竹内・堀は江戸に戻ると、当時の大砲では箱館湾からの射程外である、鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を老中・阿部正弘に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した。
1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦コンスタンティーヌ号が箱館に入港した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された。当初は工事期間20年の計画であったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。
1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造を開始。建物については、1856年(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、1861年(文久元年)に奉行所庁舎建設を開始した。当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画であったが、当地は地盤が脆弱であり、冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた。
1864年(元治元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や付帯施設の工事も行われ、1866年(慶応2年)に全ての工事が完了した。
大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの各地で敗北、10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態であったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた。
同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。また、新政府軍は各所に陣地を築き大砲を並べ五稜郭を砲撃したため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にして畳を敷き屏風を立てて凌ぐ有様であった。その後、5月15日の弁天台場降伏および16日の千代ヶ岱陣屋陥落により五稜郭は孤立、5月18日に榎本らが降伏し、五稜郭は新政府軍に引き渡された。
五稜郭タワーにも登ってみました。
もちろんエレベータですが、ここも外国人観光客がメインです。土方歳三の格好良さは、わかんねえだろうなぁ。
箱館山方向、右手は恵山でしょうね。違いました、松前方向です。
真下も眺められました。
そして、そう、五稜郭全景。いやぁ、実に見事。
涙が出て来ました。
あの動乱の時代に、徳川幕府がこんなものを作っていたのですね。凄い。
この半月堡、本当はすべての角度、つまり五ヶ所に造りたかったのだそうです。
信州臼田の五稜郭には行ったことがありましたが、初函館五稜郭、感動しました。無粋ではありますが、確かにタワーを建てる意味があります。
今日のオマケ。下の売店でこんなものを買いました。
スマホが使える手袋ですね。手が小さいのでレディースです。今回の旅では、実に便利でした。五稜郭だけに指も5本です。
結局食い物飲み物以外で、函館で唯一のショッピングでした。
しかし、まだ元旦の朝の話題です。
湯の川温泉の宿を出て、市電に乗り、五稜郭公園前で降ります。
この夜泊まるホテルに荷物を預け、カメラとガイドブックだけ持って、雪上行軍開始。
すごい店がありました。
改めて眺めると、オムライスと、鉄板ミートスパゲティに惹かれますね。
そして、今回初訪問となった函館のお城。
お堀があるのですが、凍って雪が積もっているので、お堀には見えませんね。
国内に数ある名城と比べると、新しいだけあって見事というか堅固そうな石垣。
雪吊りも絵になります。
日本晴でした。
桜も多いようでしたが、函館だと染井吉野じゃないのかな?
本丸にあるのは、天守閣ではなくて、奉行所です。
箱館奉行所。
観光物産館や道の駅にもこんなデザインがあったりしますが、こちらは本物の奉行所を復元したものです。
たぶん雪が無い時の方が美しいと想像されます。
明らかに戦闘用ではありませんね。あとはウィキペディアから引用。
1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、幕府は松前藩領であった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(当時は松前藩の箱館奉行詰役所があった)に置かれた。初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内である箱館山に登れば奉行所を見下ろせることから防御に適さず、亀田方面への移転が必要であると上申。そして竹内・堀は江戸に戻ると、当時の大砲では箱館湾からの射程外である、鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を老中・阿部正弘に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した。
1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦コンスタンティーヌ号が箱館に入港した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された。当初は工事期間20年の計画であったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。
1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造を開始。建物については、1856年(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、1861年(文久元年)に奉行所庁舎建設を開始した。当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画であったが、当地は地盤が脆弱であり、冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた。
1864年(元治元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や付帯施設の工事も行われ、1866年(慶応2年)に全ての工事が完了した。
大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの各地で敗北、10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態であったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた。
同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。また、新政府軍は各所に陣地を築き大砲を並べ五稜郭を砲撃したため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にして畳を敷き屏風を立てて凌ぐ有様であった。その後、5月15日の弁天台場降伏および16日の千代ヶ岱陣屋陥落により五稜郭は孤立、5月18日に榎本らが降伏し、五稜郭は新政府軍に引き渡された。
五稜郭タワーにも登ってみました。
もちろんエレベータですが、ここも外国人観光客がメインです。土方歳三の格好良さは、わかんねえだろうなぁ。
箱館山方向、
真下も眺められました。
そして、そう、五稜郭全景。いやぁ、実に見事。
涙が出て来ました。
あの動乱の時代に、徳川幕府がこんなものを作っていたのですね。凄い。
この半月堡、本当はすべての角度、つまり五ヶ所に造りたかったのだそうです。
信州臼田の五稜郭には行ったことがありましたが、初函館五稜郭、感動しました。無粋ではありますが、確かにタワーを建てる意味があります。
今日のオマケ。下の売店でこんなものを買いました。
スマホが使える手袋ですね。手が小さいのでレディースです。今回の旅では、実に便利でした。五稜郭だけに指も5本です。
結局食い物飲み物以外で、函館で唯一のショッピングでした。
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