Category: 博物芸術
時移り代変じても
台風が接近中の仙台、昨日の帰宅時、マンション北向廊下から見る、近所の別のマンション。
やっと資材と、技術者が手配できたようで、震災後の修理を始めていました。
そうしたら、防音防塵シートが暴風に備えてか、こんな形に。
中世のお城か、xxホテルみたい。ちょっと驚かされました。
さて、多賀城のあやめ園があるのは、日本100名城の一つ、多賀城の城跡なんです。
762年に建てられた、多賀城碑、壷の碑は今はこんなお堂に囲われています。
某HPからの無断引用
「つぼのいしぶみ」は、実は歌枕であり、西行や藤原清輔、源頼朝らによって、未知なる陸奥の象徴として和歌に詠み込まれている。
「山家集」 西行
陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風
「家集」 藤原清輔
石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ
「拾玉集」 源頼朝
陸奥の磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ
松尾芭蕉を感動させた碑ですね。
碑の高さは196cmあり、最大幅が92cm、最も出っ張りの大きい所で70cmの厚みがある。今は、明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠すほどの苔で覆われていたことが「おくのほそ道」から知られる。
せっかく多賀城に来た(と言っても家から20km程)ので、初めてこの城跡を歩いて見ることにしたのでした。そこかしこにボランティアガイドのお父さんたちが立っていて、丁寧に色々教えてくれました。
此処からは、ウィキペディアからの引用です。
多賀城(たがじょう、たがのき)は、日本の律令時代に、陸奥国に設置された城である。
宮城県多賀城市市川字城前ほかに位置し、国府・鎮守府などに使われた。国の特別史跡に指定されている。
畿内の大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。
第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で762年(天平宝字6年)藤原恵美朝狩が改修してから780年(宝亀11年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観11年)の大地震による倒壊まで、第4期は869年 - 10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられる。
多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、黒川以北十群(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)に城柵・官衙とその付属寺院が設置・整備された。これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るものであり、多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地であった。
これにより当時の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城をおくこととなった。
多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する陸奥総社宮を奉ずる。陸奥国一ノ宮鹽竈神社を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竈湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市(のちに多賀国府(たがのこう)と呼ばれる)が築かれ、砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く繁栄した。
建武新政期と南北朝時代初期、多賀城には陸奥将軍府が置かれた。奥州将軍府は多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。
何故かポピーが咲いていました。
無造作に積み上げた石垣、いにしえの石とコンクリートブロックが混じってます。
花はマツバギクかな。
やっと資材と、技術者が手配できたようで、震災後の修理を始めていました。
そうしたら、防音防塵シートが暴風に備えてか、こんな形に。
中世のお城か、xxホテルみたい。ちょっと驚かされました。
さて、多賀城のあやめ園があるのは、日本100名城の一つ、多賀城の城跡なんです。
762年に建てられた、多賀城碑、壷の碑は今はこんなお堂に囲われています。
某HPからの無断引用
「つぼのいしぶみ」は、実は歌枕であり、西行や藤原清輔、源頼朝らによって、未知なる陸奥の象徴として和歌に詠み込まれている。
「山家集」 西行
陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風
「家集」 藤原清輔
石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ
「拾玉集」 源頼朝
陸奥の磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ
松尾芭蕉を感動させた碑ですね。
碑の高さは196cmあり、最大幅が92cm、最も出っ張りの大きい所で70cmの厚みがある。今は、明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠すほどの苔で覆われていたことが「おくのほそ道」から知られる。
せっかく多賀城に来た(と言っても家から20km程)ので、初めてこの城跡を歩いて見ることにしたのでした。そこかしこにボランティアガイドのお父さんたちが立っていて、丁寧に色々教えてくれました。
此処からは、ウィキペディアからの引用です。
多賀城(たがじょう、たがのき)は、日本の律令時代に、陸奥国に設置された城である。
宮城県多賀城市市川字城前ほかに位置し、国府・鎮守府などに使われた。国の特別史跡に指定されている。
畿内の大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。
第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で762年(天平宝字6年)藤原恵美朝狩が改修してから780年(宝亀11年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観11年)の大地震による倒壊まで、第4期は869年 - 10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられる。
多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、黒川以北十群(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)に城柵・官衙とその付属寺院が設置・整備された。これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るものであり、多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地であった。
これにより当時の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城をおくこととなった。
多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する陸奥総社宮を奉ずる。陸奥国一ノ宮鹽竈神社を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竈湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市(のちに多賀国府(たがのこう)と呼ばれる)が築かれ、砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く繁栄した。
建武新政期と南北朝時代初期、多賀城には陸奥将軍府が置かれた。奥州将軍府は多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。
何故かポピーが咲いていました。
無造作に積み上げた石垣、いにしえの石とコンクリートブロックが混じってます。
花はマツバギクかな。
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