Posted in 08 2019
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フレドリック・ブラウン『アンブローズ蒐集家』(論創海外ミステリ)
フレドリック・ブラウンの『アンブローズ蒐集家』を読む。全部で七作ある〈エド・アンド・アム・ハンター〉シリーズの第四作で、他の六作はすべて創元推理文庫から出ており、なぜかこれまで邦訳されていなかった最後の作品である。
こんな話。スターロック探偵社に探偵として勤めながら、二人で暮らしているアム(アンブローズ)・ハンターとその甥のエド・ハンター。ある日、依頼人との面談に出かけたアムが消息を絶ち、社長のスターロックは全社をあげて行方を追うが、手がかりはなかなか見つからない。
そんななか、行きつけのレストランで働く友人のウェイトレス、エステルが話した「もしかしたらアンブローズ・コレクターにコレクションされちゃったのかも」という言葉をヒントに、エドは調査を進めるが……。
恥ずかしながら〈エド・アンド・アム・ハンター〉シリーズは初めて読むのだが、他のブラウンのミステリとそこまで大きな違いはない。ワンアイデアを適度なサスペンスとユーモアで包んだライトな味わい、というのがブラウンミステリの印象だが、本作も軽ハードボイルドというスタイルをとっていることもあって、ベースは似たような感じである。
ただ、語り手がエド、つまり探偵としてはまだ発展途上の若者ということもあり、青春小説的な雰囲気が強いところが本作ならではの特徴、というよりは本シリーズの特徴というべきか。エドがアムの調査をなぞっていくところ、ガールフレンドとの恋の行方など、そういった要素が随所に効いていて、非常に心地よい気持ちにさせてくれる。
肝心のミステリとしての部分は、悪くはないけれども、過剰な期待は禁物だろう。そもそもアンブローズ・コレクターというキーワードが効きすぎている(苦笑)。
アンブローズとはもちろん『悪魔の辞典』などを書いた、あのアンブローズ・ビアスのこと。彼は生涯の最後を失踪で終えているのだが、実はその六年後、やはりアンブローズという名の人物が失踪したことで、何者かがアンブローズという名の人をコレクションしているのでは?という説が導入で示される。
こんな魅力的なネタをのっけからぶちこんでくれたら、そりゃ期待せずにはいられないのだが、その後は結局、賭博詐欺に絡んだりして、なんだやっぱり典型的な軽ハードボイルドじゃんというストーリー。
とはいえ失望するようなレベルではないし、先に書いたように持ち味はむしろエドのキャラクターにあり、口当たりもよしということで、ブラウンのファンなら買って損はないだろう。
こんな話。スターロック探偵社に探偵として勤めながら、二人で暮らしているアム(アンブローズ)・ハンターとその甥のエド・ハンター。ある日、依頼人との面談に出かけたアムが消息を絶ち、社長のスターロックは全社をあげて行方を追うが、手がかりはなかなか見つからない。
そんななか、行きつけのレストランで働く友人のウェイトレス、エステルが話した「もしかしたらアンブローズ・コレクターにコレクションされちゃったのかも」という言葉をヒントに、エドは調査を進めるが……。
恥ずかしながら〈エド・アンド・アム・ハンター〉シリーズは初めて読むのだが、他のブラウンのミステリとそこまで大きな違いはない。ワンアイデアを適度なサスペンスとユーモアで包んだライトな味わい、というのがブラウンミステリの印象だが、本作も軽ハードボイルドというスタイルをとっていることもあって、ベースは似たような感じである。
ただ、語り手がエド、つまり探偵としてはまだ発展途上の若者ということもあり、青春小説的な雰囲気が強いところが本作ならではの特徴、というよりは本シリーズの特徴というべきか。エドがアムの調査をなぞっていくところ、ガールフレンドとの恋の行方など、そういった要素が随所に効いていて、非常に心地よい気持ちにさせてくれる。
肝心のミステリとしての部分は、悪くはないけれども、過剰な期待は禁物だろう。そもそもアンブローズ・コレクターというキーワードが効きすぎている(苦笑)。
アンブローズとはもちろん『悪魔の辞典』などを書いた、あのアンブローズ・ビアスのこと。彼は生涯の最後を失踪で終えているのだが、実はその六年後、やはりアンブローズという名の人物が失踪したことで、何者かがアンブローズという名の人をコレクションしているのでは?という説が導入で示される。
こんな魅力的なネタをのっけからぶちこんでくれたら、そりゃ期待せずにはいられないのだが、その後は結局、賭博詐欺に絡んだりして、なんだやっぱり典型的な軽ハードボイルドじゃんというストーリー。
とはいえ失望するようなレベルではないし、先に書いたように持ち味はむしろエドのキャラクターにあり、口当たりもよしということで、ブラウンのファンなら買って損はないだろう。
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泡坂妻夫『湖底のまつり』(角川文庫)
本日の読了本はまたまた泡坂妻夫。そして、これまた再読となる『湖底のまつり』である。まずはストーリーから。
東北のとある山村へひとり傷心旅行に出かけた香島紀子。ところが急に水かさの増した川で流されそうになってしまう。そこを救ったのが村で暮らす埴田晃二と名乗る若者だった。
急速に惹かれあった二人は一夜を共にするが、翌朝、目覚めると晃二の姿はない。紀子は折りしも行われていた村の“おまけさん祭り”を見物しながら、村人に晃二のことを尋ねると、意外な返事が帰ってきた。晃二は一月前に毒殺されてしまったというのだ。では紀子が出会った晃二とは何物なのか……。
※以下、内容を紹介すると、本作の性質上、どうしてもネタバレの危険があります。未読のかたはご注意ください。
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本書は五章立てで、章のたびに視点が変わるという構成をとる。上で紹介したあらすじは一章にあたり、紀子の視点で物語が進められる。続く二章は晃二の視点、三章は事件を捜査する刑事……という具合なのだが、問題は一章と二章だ。
ここでは登場人物が違っているのに、なぜか同じ出来事が描かれているのである。
読み進むうち二章に描かれる事件が本筋となり、それなりに物語は展開するのだが、読者としては頭の隅には常に一章の存在があるわけで、この不可思議な出来事に加え、叙情的な語りと多用されるエロチシズムな描写、村の祭りのイメージが重なって、結果として作品全体からは幻想的な雰囲気が醸し出されている。そういった効果を著者が意識して狙っていたかどうかは不明だが、この味わいがなかなか心地よく、それだけでも読んでおく価値はあるぐらいだ。
肝心の一章に話を戻すと、読む人が読めばすぐに何らかの叙述トリックであることは想像できるだろう。正直、ちょっと強引すぎるネタなので、アンフェアなところがあるのも確かだし、ある程度まで読むと真相にも気づくかもしれない。
しかしながら、山ほど散りばめられた伏線や手がかりがあまりに鮮やかで、そういう欠点を帳消しにして、なおかつお釣りがくる。登場人物の何気ない動作や会話ぐらいまではこちらも想定内だが、濡れ場や情景描写に至るまで、ほぼすべてが伏線というのには恐れ入った。
再読なのでもちろんネタは知ったうえで読んでいたのだが、著者が最新の注意をはらって書き上げたことがあらためて理解でき、その真価を実感できた次第。
ついでに書いておくと、本作は著者がそれまでに書いたユーモラスな『11枚のとらんぷ』、あるいはハードボイルドチックな『乱れからくり』とも文体を変え、かなりリリカルで落ち着いた文体を用いている。もちろん雰囲気作りもあるだろうが、実はこういう美文調にすることで、比喩や直裁的ではない曖昧な表現が自然にでき、それによってカモフラージュする狙いもあったのではないだろうか。
文学的な探偵小説というのはままあるけれども、本作は文学的な手法すら探偵小説の手段(伏線)にしてしまったところに価値があるともいえる。
ともあれ相変わらずの美技を堪能できて満足。初期の長篇は『11枚のとらんぷ』や『乱れからくり』をはじめとして傑作揃いだが、それらとはまた異なるテクニックと雰囲気でチャレンジするあたり、さすがというしかない。
東北のとある山村へひとり傷心旅行に出かけた香島紀子。ところが急に水かさの増した川で流されそうになってしまう。そこを救ったのが村で暮らす埴田晃二と名乗る若者だった。
急速に惹かれあった二人は一夜を共にするが、翌朝、目覚めると晃二の姿はない。紀子は折りしも行われていた村の“おまけさん祭り”を見物しながら、村人に晃二のことを尋ねると、意外な返事が帰ってきた。晃二は一月前に毒殺されてしまったというのだ。では紀子が出会った晃二とは何物なのか……。
※以下、内容を紹介すると、本作の性質上、どうしてもネタバレの危険があります。未読のかたはご注意ください。
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本書は五章立てで、章のたびに視点が変わるという構成をとる。上で紹介したあらすじは一章にあたり、紀子の視点で物語が進められる。続く二章は晃二の視点、三章は事件を捜査する刑事……という具合なのだが、問題は一章と二章だ。
ここでは登場人物が違っているのに、なぜか同じ出来事が描かれているのである。
読み進むうち二章に描かれる事件が本筋となり、それなりに物語は展開するのだが、読者としては頭の隅には常に一章の存在があるわけで、この不可思議な出来事に加え、叙情的な語りと多用されるエロチシズムな描写、村の祭りのイメージが重なって、結果として作品全体からは幻想的な雰囲気が醸し出されている。そういった効果を著者が意識して狙っていたかどうかは不明だが、この味わいがなかなか心地よく、それだけでも読んでおく価値はあるぐらいだ。
肝心の一章に話を戻すと、読む人が読めばすぐに何らかの叙述トリックであることは想像できるだろう。正直、ちょっと強引すぎるネタなので、アンフェアなところがあるのも確かだし、ある程度まで読むと真相にも気づくかもしれない。
しかしながら、山ほど散りばめられた伏線や手がかりがあまりに鮮やかで、そういう欠点を帳消しにして、なおかつお釣りがくる。登場人物の何気ない動作や会話ぐらいまではこちらも想定内だが、濡れ場や情景描写に至るまで、ほぼすべてが伏線というのには恐れ入った。
再読なのでもちろんネタは知ったうえで読んでいたのだが、著者が最新の注意をはらって書き上げたことがあらためて理解でき、その真価を実感できた次第。
ついでに書いておくと、本作は著者がそれまでに書いたユーモラスな『11枚のとらんぷ』、あるいはハードボイルドチックな『乱れからくり』とも文体を変え、かなりリリカルで落ち着いた文体を用いている。もちろん雰囲気作りもあるだろうが、実はこういう美文調にすることで、比喩や直裁的ではない曖昧な表現が自然にでき、それによってカモフラージュする狙いもあったのではないだろうか。
文学的な探偵小説というのはままあるけれども、本作は文学的な手法すら探偵小説の手段(伏線)にしてしまったところに価値があるともいえる。
ともあれ相変わらずの美技を堪能できて満足。初期の長篇は『11枚のとらんぷ』や『乱れからくり』をはじめとして傑作揃いだが、それらとはまた異なるテクニックと雰囲気でチャレンジするあたり、さすがというしかない。
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泡坂妻夫『11枚のとらんぷ』(角川文庫)
このところ泡坂妻夫を久々に読みかえしているのだが、本日も久々の再読となる『11枚のとらんぷ』。
ミステリ作家としてデビューする以前から、すでに奇術師としての顔も持っていた泡坂妻夫。本作は泡坂妻夫の初長編作になるのだが、それまで培ってきた奇術師としての経験や知識を惜しみなく投入した作品でもある。
まずはストーリー。真敷市公民館の創立二十周年を祝うプログラムが開催された。その幕を開けるのは地元のアマチュア手品集団マジキクラブの面々である。アマチュアゆえのドタバタはありつつも何とかフィナーレを迎えたが、ラストでとんでもないことが。銃声を合図に〈人形の家〉から飛び出す予定だった美人マジシャン水田志摩子が消失したのである。
驚くべきことに、やがて彼女は自宅マンションで殺害された状態で発見される。そして、なぜか死体の周囲には手品のトリックに使われる小道具が並べられていた。しかもその小道具は、マジキクラブの代表・鹿川舜平が書いた奇術小説集「11枚のとらんぷ」に使われていたものだった……。
作家が長編デビューするとき、著者がそれまで温めていたネタや経験を活かすというのはよく聞く話だが、本作はその成功例のひとつ。しかも大成功といっていだろう。
そもそも奇術とミステリはトリックをはじめとする構成要素において共通する部分が多く、相性もいい。海外でも古いところではクレイトン・ロースンの諸作、新しいものではジェフリー・ディーヴァーの『魔術師』といった例はあるが(そうそうコロンボにもあった)、泡坂妻夫ほどミステリと奇術をここまで融合させた作家はいないだろう。
本書は大きく三部構成となっている。I部がマジックショーから犯行が発覚するまで、II部が作中作の奇術小説集「11枚のとらんぷ」、III部が世界国際奇術家会議を舞台に展開される推理と謎解きである。
のっけからとにかく奇術趣味全開。しかもコメディタッチで引っ張るので、ミステリとしてはいまいちなのかと思いきや。実はそんなI部とII部がほとんどこれ伏線の山となっているのがとにかく鮮やかだ。
とりわけ作中作「11枚のとらんぷ」はマジキクラブの登場人物紹介を兼ねつつ、普通に奇術小説としても楽しめ、しかも殺人事件のヒントにもなっているのは驚嘆に値する。著者の後の作品には、実はもっとトリッキーでトンデモないものもあるけれど、いや、こちらのテクニックも十分すごい。
それでいてミステリとしてのべーシックな部分もソツがない。犯人はマジキクラブの面々と関係者十人ほどに絞られているが、その時間はみな公民館でマジックショーの真っ最中であり、アリバイは万全。また、奇術小説集「11枚のとらんぷ」に書かれた手品の小道具が死体の周囲に並べられているのは何を意味するのか。そういった疑問がすべて解けていくラストは実に爽快である。どんでん返しもまたよし。
しいて欠点をあげるとすれば、全体にやや冗長なところか。もう少し登場人物は絞った方がよかったかなとは思うが、まあ、初めての長編でこれだけの作品を書いてくれたのだから細かいことはいいますまい。久しぶりの再読で、本作のプロットの確かさ、完成度の高さを再認識することができたのは収穫である。
ミステリ作家としてデビューする以前から、すでに奇術師としての顔も持っていた泡坂妻夫。本作は泡坂妻夫の初長編作になるのだが、それまで培ってきた奇術師としての経験や知識を惜しみなく投入した作品でもある。
まずはストーリー。真敷市公民館の創立二十周年を祝うプログラムが開催された。その幕を開けるのは地元のアマチュア手品集団マジキクラブの面々である。アマチュアゆえのドタバタはありつつも何とかフィナーレを迎えたが、ラストでとんでもないことが。銃声を合図に〈人形の家〉から飛び出す予定だった美人マジシャン水田志摩子が消失したのである。
驚くべきことに、やがて彼女は自宅マンションで殺害された状態で発見される。そして、なぜか死体の周囲には手品のトリックに使われる小道具が並べられていた。しかもその小道具は、マジキクラブの代表・鹿川舜平が書いた奇術小説集「11枚のとらんぷ」に使われていたものだった……。
作家が長編デビューするとき、著者がそれまで温めていたネタや経験を活かすというのはよく聞く話だが、本作はその成功例のひとつ。しかも大成功といっていだろう。
そもそも奇術とミステリはトリックをはじめとする構成要素において共通する部分が多く、相性もいい。海外でも古いところではクレイトン・ロースンの諸作、新しいものではジェフリー・ディーヴァーの『魔術師』といった例はあるが(そうそうコロンボにもあった)、泡坂妻夫ほどミステリと奇術をここまで融合させた作家はいないだろう。
本書は大きく三部構成となっている。I部がマジックショーから犯行が発覚するまで、II部が作中作の奇術小説集「11枚のとらんぷ」、III部が世界国際奇術家会議を舞台に展開される推理と謎解きである。
のっけからとにかく奇術趣味全開。しかもコメディタッチで引っ張るので、ミステリとしてはいまいちなのかと思いきや。実はそんなI部とII部がほとんどこれ伏線の山となっているのがとにかく鮮やかだ。
とりわけ作中作「11枚のとらんぷ」はマジキクラブの登場人物紹介を兼ねつつ、普通に奇術小説としても楽しめ、しかも殺人事件のヒントにもなっているのは驚嘆に値する。著者の後の作品には、実はもっとトリッキーでトンデモないものもあるけれど、いや、こちらのテクニックも十分すごい。
それでいてミステリとしてのべーシックな部分もソツがない。犯人はマジキクラブの面々と関係者十人ほどに絞られているが、その時間はみな公民館でマジックショーの真っ最中であり、アリバイは万全。また、奇術小説集「11枚のとらんぷ」に書かれた手品の小道具が死体の周囲に並べられているのは何を意味するのか。そういった疑問がすべて解けていくラストは実に爽快である。どんでん返しもまたよし。
しいて欠点をあげるとすれば、全体にやや冗長なところか。もう少し登場人物は絞った方がよかったかなとは思うが、まあ、初めての長編でこれだけの作品を書いてくれたのだから細かいことはいいますまい。久しぶりの再読で、本作のプロットの確かさ、完成度の高さを再認識することができたのは収穫である。
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海野十三『海底大陸』(河出書房新社)
河出書房新社の〈レトロ図書館〉で復刊された海野十三の『海底大陸』を読む。1937年から1938年にかけて雑誌『少年の科学』に連載されたジュヴナイルSFである。
以前に桃源社版『地球盗難』に収録された同作を読んでいるが、そのときアップした記事がけっこう素っ気ないので、記憶を新たにしたところで、ちょっと詳し目に書いてみた次第。まあ、全体的な印象はほぼ変わらないんだけど(苦笑)。
こんな話。英国の豪華客船クィーン・メリー号が航行中に消息を断った。英国政府はさっそく軍と警察の両軸で捜索にあたり、やがてブイに掴まって漂流している一人の少年を発見した。クィーン・メリー号でボーイをしていた三千夫という名の少年だった。
三千夫の話によると、船が鮭の大群と遭遇し、その鮭を大量に捕まえ、ディナーに供されたという。ところがその直後から皆が居眠りをはじめ、船内に異様な匂いが立ちこめたという。そして船が何かに衝突したような衝撃があり、そのとき海に投げ出されたというのだ。
その頃、クィーン・メリー号では皆が目を醒まし始めていたものの、ほとんどの船員。乗客の目が見えなくなっているという事態が発生していた。そんな彼らの前に現れたのは、海底で高度な科学文明を発展させた、異形の海底超人たちだった。果たして彼らの狙いは……?
海野十三のジュヴナイルSFはこれまでもいくつか読んでいるが、ある程度、どの作品にも共通する特徴がある。
まずは発想の自由さ。人類が何者かの手によって危機に見舞われるというベースとなる設定はお馴染みだけれど、この風呂敷の広げ方が豪快で面白い。本作ではそれがアトランティス大陸に着想を得た海底超人だったりするわけで、もちろん今となっては古くさいのだけれど、それを日本SFの父にいってどうするという話なので、当時としては珍しいネタを惜しげもなく放り込んでくる姿勢こそ評価すべきであろう。
ただ、科学知識を子供向けに持ってくるのはよいのだが、いつもアレンジや誇張が過剰すぎて、トンデモ度が高くなるのはご愛敬。本作でも海底超人がアトランティス大陸の子孫というところまではともかく、宇宙からのX線を長きにわたって浴びなかったことで、まるでウェルズ描くところの火星人みたいに進化したというのは、発想がすごいというか逆に安易というか(笑)。また、言葉が全然別物に変化ししてしまっているのは、よく考えると妙な話で、そこは別に変わる必要はないだろうと思わずつっこまずにはいられない。
でも今だからこうして笑ってツッコミを入れられるが、当時はこの発想が受けたはずで、実際、海野はいくつもこうした作品を残している。
もうひとつお馴染みの特徴として、時世を反映した国威高揚ものという部分。第二世界大戦直前ということもあり、ドイツやドイツ人に対しては比較的好意的だが、例によって連合国サイドにはかなりあたりが強い(特にイギリス)。
海野の場合、愛国心が強すぎて、とにかく描き方が極端になってしまうのが辛いところだが、こういう一方的な善悪の構造をつくったところも、実は人気を博した理由のひとつではあるのだろう。
最近のアジア情勢をみても、何やら似たような状況がうかがえるが、敵を貶めることで自分たちを正しく見せようという手法はいつの時代もあるようだ、というか、それこそ戦争を経て大きな教訓を得たはずなのに、実は精神的にほとんど成長していないという罠。人間とは基本的にこういう愚かな存在なわけで、まことに悲しいかぎりである。
ちょっと話が脇にそれたが、とりあえずそういう海野ならではの特徴、SF要素や国威高揚的な要素をのぞくと、本作、実はちゃんとヒューマンなドラマになっている。まあ、ジュヴナイルなので当たり前かなとも思うが(笑)、一応は海野の良心と捉えておきたい。
本作は前半こそクィーン・メリー号の失踪や異生物の出現など、サスペンスタッチで描くけれども、後半は海底超人と人類が一触即発という状況のなか、ひとり仲介役としてやってきた海底超人の王子ロローをめぐるドラマがメインとなる。それは争いや損得でしかものを考えられない各国要人たちと、友愛主義を貫いて王子を守ろうとする日本人科学者や三千夫少年たちの、対立のドラマでもある。
まあ、よくあるパターンではあるが、すぐに思い浮かぶのは映画『キングコング』だろう。完全に一致するわけではないが、それぞれの発表された時代を考慮すると、同作のテーマやプロットを拝借している可能性はある。終盤での海底超人の圧倒的な大暴れは、身勝手な人類への戒めであり、未来への警鐘で幕を閉じる。
ちなみにラストがまた意外というか。以前に読んだときは投げっぱなしにも思ったのだが、今回はこの結末にこそ海野の気持ちが強く入っているようにも思えた。妙な余韻が残り、こういうラストも悪くない。
というわけで、海野のジュヴナイルとしては必要最低条件は満たしており、標準作といったところだろう。この手の作品に免疫がない人にはとてもオススメできる代物ではないけれども(苦笑)。
以前に桃源社版『地球盗難』に収録された同作を読んでいるが、そのときアップした記事がけっこう素っ気ないので、記憶を新たにしたところで、ちょっと詳し目に書いてみた次第。まあ、全体的な印象はほぼ変わらないんだけど(苦笑)。
こんな話。英国の豪華客船クィーン・メリー号が航行中に消息を断った。英国政府はさっそく軍と警察の両軸で捜索にあたり、やがてブイに掴まって漂流している一人の少年を発見した。クィーン・メリー号でボーイをしていた三千夫という名の少年だった。
三千夫の話によると、船が鮭の大群と遭遇し、その鮭を大量に捕まえ、ディナーに供されたという。ところがその直後から皆が居眠りをはじめ、船内に異様な匂いが立ちこめたという。そして船が何かに衝突したような衝撃があり、そのとき海に投げ出されたというのだ。
その頃、クィーン・メリー号では皆が目を醒まし始めていたものの、ほとんどの船員。乗客の目が見えなくなっているという事態が発生していた。そんな彼らの前に現れたのは、海底で高度な科学文明を発展させた、異形の海底超人たちだった。果たして彼らの狙いは……?
海野十三のジュヴナイルSFはこれまでもいくつか読んでいるが、ある程度、どの作品にも共通する特徴がある。
まずは発想の自由さ。人類が何者かの手によって危機に見舞われるというベースとなる設定はお馴染みだけれど、この風呂敷の広げ方が豪快で面白い。本作ではそれがアトランティス大陸に着想を得た海底超人だったりするわけで、もちろん今となっては古くさいのだけれど、それを日本SFの父にいってどうするという話なので、当時としては珍しいネタを惜しげもなく放り込んでくる姿勢こそ評価すべきであろう。
ただ、科学知識を子供向けに持ってくるのはよいのだが、いつもアレンジや誇張が過剰すぎて、トンデモ度が高くなるのはご愛敬。本作でも海底超人がアトランティス大陸の子孫というところまではともかく、宇宙からのX線を長きにわたって浴びなかったことで、まるでウェルズ描くところの火星人みたいに進化したというのは、発想がすごいというか逆に安易というか(笑)。また、言葉が全然別物に変化ししてしまっているのは、よく考えると妙な話で、そこは別に変わる必要はないだろうと思わずつっこまずにはいられない。
でも今だからこうして笑ってツッコミを入れられるが、当時はこの発想が受けたはずで、実際、海野はいくつもこうした作品を残している。
もうひとつお馴染みの特徴として、時世を反映した国威高揚ものという部分。第二世界大戦直前ということもあり、ドイツやドイツ人に対しては比較的好意的だが、例によって連合国サイドにはかなりあたりが強い(特にイギリス)。
海野の場合、愛国心が強すぎて、とにかく描き方が極端になってしまうのが辛いところだが、こういう一方的な善悪の構造をつくったところも、実は人気を博した理由のひとつではあるのだろう。
最近のアジア情勢をみても、何やら似たような状況がうかがえるが、敵を貶めることで自分たちを正しく見せようという手法はいつの時代もあるようだ、というか、それこそ戦争を経て大きな教訓を得たはずなのに、実は精神的にほとんど成長していないという罠。人間とは基本的にこういう愚かな存在なわけで、まことに悲しいかぎりである。
ちょっと話が脇にそれたが、とりあえずそういう海野ならではの特徴、SF要素や国威高揚的な要素をのぞくと、本作、実はちゃんとヒューマンなドラマになっている。まあ、ジュヴナイルなので当たり前かなとも思うが(笑)、一応は海野の良心と捉えておきたい。
本作は前半こそクィーン・メリー号の失踪や異生物の出現など、サスペンスタッチで描くけれども、後半は海底超人と人類が一触即発という状況のなか、ひとり仲介役としてやってきた海底超人の王子ロローをめぐるドラマがメインとなる。それは争いや損得でしかものを考えられない各国要人たちと、友愛主義を貫いて王子を守ろうとする日本人科学者や三千夫少年たちの、対立のドラマでもある。
まあ、よくあるパターンではあるが、すぐに思い浮かぶのは映画『キングコング』だろう。完全に一致するわけではないが、それぞれの発表された時代を考慮すると、同作のテーマやプロットを拝借している可能性はある。終盤での海底超人の圧倒的な大暴れは、身勝手な人類への戒めであり、未来への警鐘で幕を閉じる。
ちなみにラストがまた意外というか。以前に読んだときは投げっぱなしにも思ったのだが、今回はこの結末にこそ海野の気持ちが強く入っているようにも思えた。妙な余韻が残り、こういうラストも悪くない。
というわけで、海野のジュヴナイルとしては必要最低条件は満たしており、標準作といったところだろう。この手の作品に免疫がない人にはとてもオススメできる代物ではないけれども(苦笑)。
ロバート・ルイス・スティーヴンスンとその義理の息子であるロイド・オズボーンの共著、『引き潮』を読む。
海洋冒険小説の名作『宝島』を著したスティーヴンスンは、他にもいくつかの海洋ものを残している。たとえば以前にはポケミスから『難破船』という作品が翻訳されたこともあって、そちらも楽しめる作品ではあるのだけれど、いわゆる海洋冒険小説としての面白さとは別種なもので、ちょっと肩すかしを食った感もあった。
さて本作はどうか、というところである。
こんな話。十九世紀末のこと。南太平洋タヒチの浜辺で、食べる物も住むところもなくたむろする三人の男がいた。オックスフォード大学卒業のインテリ・ヘリック、商船の元船長デイヴィス、ロンドン下町育ちの元店員ヒュイッシュ。みなヨーロッパの出身であり、それぞれの事情があって海外に身を投じたものの、見事に失敗してどん底に落ちてしまった者ばかりである。
しかし、そんな彼らに脱出のチャンスが巡ってきた。天然痘の発生で乗り手がいなくなった帆船を見つけ、荷物運搬を肩代わりしようというのである。しかし、元船長デイヴィスの狙いは別にあった。積み荷を適当に売りさばき、そのまま船で逃げようというのである。犯罪に加担するわけにはいかないし、そもそも船員の経験もないヘリックは最初は断るものの、結局は承諾し、三人は航海の旅に出発するのだが……。
とりあえず結果から書くと、スタイルとしては海洋冒険ものといってもよいだろう。本作は大きく二部構成になっており、一部では主人公たちのどん底生活から航海の様子までが描かれ、二部では彼らが立ち寄った孤島で巻き込まれたある事件が描かれる。
ただ、表面的には海洋冒険ものなのだが、著者の書きたいものはそういった血湧き肉躍る活劇ではなく、善と悪の間で葛藤し、揺れ動く三人の姿であり、それによって人間の倫理とは結局どういうものなのかを探ろうとする。
スティーヴンスンはとにかく三人を不安定な状況に置く。そういう極限的な状況でこそ、人が人としてすべてをさらけ出すわけで、そんなエピソードが次から次へと描かれる。ときには正義感から、ときには目の前の損得から行動する彼らだが、やがて最悪の状況が近づくと、その本性がむき出しになる。
ただ、喉元過ぎれば、という言葉もあるように、とりあえずひと山を超えるとまた油断してしまうのが人間の悲しいところだ。同じ過ちを彼らはまた繰り返してしまい、最後にはのっぴきならない状況に追い込まれてゆく。そのとき人はどう行動するのか。そういう話である。
巧いなあと思うのは、目の前の困難に対し、三人のダメっぷりをきちんと描き分けていること。性格の違いによって、そのダメっぷりがまた異なるわけで、長所短所の振り幅もきちんと見せつつ、実はだんだんとドツボにはまっていく展開がなんとも薄ら寒く、同時に先が読みたくて仕方なくなってくるのだ。
訳者あとがきで本作は『宝島』というより『ジキル博士とハイド氏』なのだというような指摘があったが、確かにそのとおりだろう。
海洋冒険小説の名作『宝島』を著したスティーヴンスンは、他にもいくつかの海洋ものを残している。たとえば以前にはポケミスから『難破船』という作品が翻訳されたこともあって、そちらも楽しめる作品ではあるのだけれど、いわゆる海洋冒険小説としての面白さとは別種なもので、ちょっと肩すかしを食った感もあった。
さて本作はどうか、というところである。
こんな話。十九世紀末のこと。南太平洋タヒチの浜辺で、食べる物も住むところもなくたむろする三人の男がいた。オックスフォード大学卒業のインテリ・ヘリック、商船の元船長デイヴィス、ロンドン下町育ちの元店員ヒュイッシュ。みなヨーロッパの出身であり、それぞれの事情があって海外に身を投じたものの、見事に失敗してどん底に落ちてしまった者ばかりである。
しかし、そんな彼らに脱出のチャンスが巡ってきた。天然痘の発生で乗り手がいなくなった帆船を見つけ、荷物運搬を肩代わりしようというのである。しかし、元船長デイヴィスの狙いは別にあった。積み荷を適当に売りさばき、そのまま船で逃げようというのである。犯罪に加担するわけにはいかないし、そもそも船員の経験もないヘリックは最初は断るものの、結局は承諾し、三人は航海の旅に出発するのだが……。
とりあえず結果から書くと、スタイルとしては海洋冒険ものといってもよいだろう。本作は大きく二部構成になっており、一部では主人公たちのどん底生活から航海の様子までが描かれ、二部では彼らが立ち寄った孤島で巻き込まれたある事件が描かれる。
ただ、表面的には海洋冒険ものなのだが、著者の書きたいものはそういった血湧き肉躍る活劇ではなく、善と悪の間で葛藤し、揺れ動く三人の姿であり、それによって人間の倫理とは結局どういうものなのかを探ろうとする。
スティーヴンスンはとにかく三人を不安定な状況に置く。そういう極限的な状況でこそ、人が人としてすべてをさらけ出すわけで、そんなエピソードが次から次へと描かれる。ときには正義感から、ときには目の前の損得から行動する彼らだが、やがて最悪の状況が近づくと、その本性がむき出しになる。
ただ、喉元過ぎれば、という言葉もあるように、とりあえずひと山を超えるとまた油断してしまうのが人間の悲しいところだ。同じ過ちを彼らはまた繰り返してしまい、最後にはのっぴきならない状況に追い込まれてゆく。そのとき人はどう行動するのか。そういう話である。
巧いなあと思うのは、目の前の困難に対し、三人のダメっぷりをきちんと描き分けていること。性格の違いによって、そのダメっぷりがまた異なるわけで、長所短所の振り幅もきちんと見せつつ、実はだんだんとドツボにはまっていく展開がなんとも薄ら寒く、同時に先が読みたくて仕方なくなってくるのだ。
訳者あとがきで本作は『宝島』というより『ジキル博士とハイド氏』なのだというような指摘があったが、確かにそのとおりだろう。
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泡坂妻夫『亜愛一郎の狼狽』(角川文庫)
久々に読んだ泡坂妻夫はやっぱりいいなぁということで、もう一冊。お次は短編集の『亜愛一郎の狼狽』である。こちらも久々の再読。
「DL2号機事件」
「右腕山上空」
「曲った部屋」
「掌上の黄金仮面」
「G線上の鼬」
「掘出された童話」
「ホロボの神」
「黒い霧」
奇術師という経歴をもつ泡坂妻夫らしく、その作品にはトリッキーな本格ミステリが多い。ただ、謎解き第一ではあるけれども、その作風は意外なほど軽妙で上質のユーモアを含み、ときにはハートウォーミングなものまで感じさせる。
本書もそういった特徴を非常に強く感じさせる一冊なのだが、その原動力となっているのが、主人公の探偵・亜愛一郎(あ あいいちろう)のキャラクターによるところが大きいだろう。
本職はカメラマンだが、その姿はカメラマンらしからぬお洒落なネクタイ姿、背は高くて容姿端麗という二枚目である。ところがその風貌とは裏腹に、行動はドジが多く、性格もビビリ。見た目の良さをあっという間に帳消しにしてしまうのだが、いやいや、ところがいざ難事件が起これば鋭い頭脳を発揮してたちまち解決に導いてしまうという、なんとも極端だが愛すべきキャラクターなのだ。
その推理法はどちらかというと直感型で、コロンボに近いかもしれない。目の前に起こった事件や出来事に対し、普通とは何かが違うことに気づき、その理由が何かを考え、そこから推理を巡らせてゆく。
この気づきの部分が肝で、見方を変えると、これは著者の伏線がいかに巧みかということでもあり、ラストでの謎解きに思わず膝を打つわけである。
本書は探偵雑誌『幻影城』の懸賞に受賞し、デビュー作となった「DL2号機事件」を筆頭に、その後『幻影城』で矢継ぎ早に掲載された亜愛一郎シリーズの作品をまとめた短編集だ。デビューが遅かったとはいえ、デビュー直後にこれだけの短編を毎月のように書き、しかもそのアベレージが高いことは驚異的といえるだろう。
個人的には「DL2号機事件」、「掌上の黄金仮面」、「G線上の鼬」、「黒い霧」あたりがお気に入りだが、それ以外も十分楽しめる作品ばかりなので、未読のかたはぜひ。
では最後に作品ごとの感想を。
記念すべき著者と亜愛一郎のデビュー作「DL2号機事件」は、爆破予告をされた旅客機DL2号をめぐる事件。いきなり泡坂妻夫の本質を見せられるような作品で、“奇妙な味”ならぬ“奇妙な論理”が読みどころ。ユーモアに包まれているが、実は伏線だらけというネタの数々に唸らされる。
「右腕山上空」は飛行中の気球での殺人事件。ある意味、これも密室事件の一種といえるのだろうが、普通に考えるとトリックはある程度読めてしまうのが弱点。とはいえ、手がかりや伏線の面白さで読ませる。
不良物件としかいいようがない美空ヶ丘団地で死体が発見され……という顛末を語るのが「曲った部屋」。トリックは有名なネタがいくつもあるので勘のいい人なら気づくかも。しかし、そこまでの持っていきかたが上手くて、レコードプレイヤーや壁のスイッチの伏線は鮮やかとしかいいようがない。
「掌上の黄金仮面」は、巨大な仏像の上からお札をばらまく黄金仮面という導入にまず引き込まれるが、そのお札が実は割引券のようなもので、さらに黄金仮面が射殺されるという事態に発展する。背後にある銀行強盗事件がこの事件にどう絡むのか。ここでも“奇妙な論理”が効いている。
「G線上の鼬」もいい。人間の心理をそのままトリックにしたような作品である。味付け部分というかキャラクター紹介的なシーンまでが実は伏線になっているという周到さ。この作品に限らず泡坂作品では基本的にむだな要素がないと思ってよい。と、思って読んでも裏をかかれてしまうんだよねぇ。あっぱれ。
珍しくも暗号ものの「掘出された童話」。正直、暗号解読は真っ向勝負すぎてそれほど面白さは感じないが、それよりも全体をおおう雰囲気が好きな作品。ただ、暗号の内容は正直、納得いかず。こんなことをこういう形で暗号にするかなという引っかかりはある。
以前に読んだときは普通に感心した作品だが、こちらの好みも少し変わったかな。
収録作のほとんどが異色作といえないこともない本書だが、「ホロボの神」はとりわけ珍しい設定。大戦時の舞台となったホロボ島へ遺骨を拾いにいく遺族や同期の仲間たち。その島では、かつて一族の長が自殺するという不思議な事件があったのだが……。異なる文明がぶつかりあうとき、人はどういう行動をとるのか。それを犯罪の動機に結びつけるのが見事。
「黒い霧」は「DL2号機事件」と並んで本書のベストを争う一作。ある商店街で起こる黒い霧事件。何者かが仕掛けたカーボンによって商品や住民が黒く汚れてしまい、それをきっかけに商店街で大乱闘が始まり、町中が真っ黒けになってしまう……。
誰が何のためにカーボンを仕掛けたのか、その一点だけで読ませるお話。前半のホステスの愚痴からカーボンのドタバタすべてにいたるまでの周到な伏線は本作でも健在。
「DL2号機事件」
「右腕山上空」
「曲った部屋」
「掌上の黄金仮面」
「G線上の鼬」
「掘出された童話」
「ホロボの神」
「黒い霧」
奇術師という経歴をもつ泡坂妻夫らしく、その作品にはトリッキーな本格ミステリが多い。ただ、謎解き第一ではあるけれども、その作風は意外なほど軽妙で上質のユーモアを含み、ときにはハートウォーミングなものまで感じさせる。
本書もそういった特徴を非常に強く感じさせる一冊なのだが、その原動力となっているのが、主人公の探偵・亜愛一郎(あ あいいちろう)のキャラクターによるところが大きいだろう。
本職はカメラマンだが、その姿はカメラマンらしからぬお洒落なネクタイ姿、背は高くて容姿端麗という二枚目である。ところがその風貌とは裏腹に、行動はドジが多く、性格もビビリ。見た目の良さをあっという間に帳消しにしてしまうのだが、いやいや、ところがいざ難事件が起これば鋭い頭脳を発揮してたちまち解決に導いてしまうという、なんとも極端だが愛すべきキャラクターなのだ。
その推理法はどちらかというと直感型で、コロンボに近いかもしれない。目の前に起こった事件や出来事に対し、普通とは何かが違うことに気づき、その理由が何かを考え、そこから推理を巡らせてゆく。
この気づきの部分が肝で、見方を変えると、これは著者の伏線がいかに巧みかということでもあり、ラストでの謎解きに思わず膝を打つわけである。
本書は探偵雑誌『幻影城』の懸賞に受賞し、デビュー作となった「DL2号機事件」を筆頭に、その後『幻影城』で矢継ぎ早に掲載された亜愛一郎シリーズの作品をまとめた短編集だ。デビューが遅かったとはいえ、デビュー直後にこれだけの短編を毎月のように書き、しかもそのアベレージが高いことは驚異的といえるだろう。
個人的には「DL2号機事件」、「掌上の黄金仮面」、「G線上の鼬」、「黒い霧」あたりがお気に入りだが、それ以外も十分楽しめる作品ばかりなので、未読のかたはぜひ。
では最後に作品ごとの感想を。
記念すべき著者と亜愛一郎のデビュー作「DL2号機事件」は、爆破予告をされた旅客機DL2号をめぐる事件。いきなり泡坂妻夫の本質を見せられるような作品で、“奇妙な味”ならぬ“奇妙な論理”が読みどころ。ユーモアに包まれているが、実は伏線だらけというネタの数々に唸らされる。
「右腕山上空」は飛行中の気球での殺人事件。ある意味、これも密室事件の一種といえるのだろうが、普通に考えるとトリックはある程度読めてしまうのが弱点。とはいえ、手がかりや伏線の面白さで読ませる。
不良物件としかいいようがない美空ヶ丘団地で死体が発見され……という顛末を語るのが「曲った部屋」。トリックは有名なネタがいくつもあるので勘のいい人なら気づくかも。しかし、そこまでの持っていきかたが上手くて、レコードプレイヤーや壁のスイッチの伏線は鮮やかとしかいいようがない。
「掌上の黄金仮面」は、巨大な仏像の上からお札をばらまく黄金仮面という導入にまず引き込まれるが、そのお札が実は割引券のようなもので、さらに黄金仮面が射殺されるという事態に発展する。背後にある銀行強盗事件がこの事件にどう絡むのか。ここでも“奇妙な論理”が効いている。
「G線上の鼬」もいい。人間の心理をそのままトリックにしたような作品である。味付け部分というかキャラクター紹介的なシーンまでが実は伏線になっているという周到さ。この作品に限らず泡坂作品では基本的にむだな要素がないと思ってよい。と、思って読んでも裏をかかれてしまうんだよねぇ。あっぱれ。
珍しくも暗号ものの「掘出された童話」。正直、暗号解読は真っ向勝負すぎてそれほど面白さは感じないが、それよりも全体をおおう雰囲気が好きな作品。ただ、暗号の内容は正直、納得いかず。こんなことをこういう形で暗号にするかなという引っかかりはある。
以前に読んだときは普通に感心した作品だが、こちらの好みも少し変わったかな。
収録作のほとんどが異色作といえないこともない本書だが、「ホロボの神」はとりわけ珍しい設定。大戦時の舞台となったホロボ島へ遺骨を拾いにいく遺族や同期の仲間たち。その島では、かつて一族の長が自殺するという不思議な事件があったのだが……。異なる文明がぶつかりあうとき、人はどういう行動をとるのか。それを犯罪の動機に結びつけるのが見事。
「黒い霧」は「DL2号機事件」と並んで本書のベストを争う一作。ある商店街で起こる黒い霧事件。何者かが仕掛けたカーボンによって商品や住民が黒く汚れてしまい、それをきっかけに商店街で大乱闘が始まり、町中が真っ黒けになってしまう……。
誰が何のためにカーボンを仕掛けたのか、その一点だけで読ませるお話。前半のホステスの愚痴からカーボンのドタバタすべてにいたるまでの周到な伏線は本作でも健在。
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泡坂妻夫『乱れからくり』(幻影城ノベルス)
先日訪れた企画展「暗がりから池袋を覗く〜ミステリ作家が見た風景」でも原稿などがいくつか展示されており、ちょっと気になりだしたのが泡坂妻夫である。
管理人が泡坂妻夫を熱心に読んでいたのは、角川文庫に収められた頃から90年代のあたりまで。最近はすっかりご無沙汰で、たまにアンソロジーなどで短編を読むことはあっても、それ以降の新刊は手つかずである。
そんなわけでそろそろイチから読み直したい衝動に駆られ始め、久しぶりに一冊、手に取ってみた次第。まずは代表作『乱れからくり』だが、四十年ぶりぐらいの再読になる。
こんな話。プロボクサーの夢を諦めた青年・勝敏夫は、雑誌の求人広告を見て、宇内経済研究所という会社を訪れる。それは宇内舞子という元警察官の女社長が一人で切り盛りする超零細企業。どうやら興信所の下請けとして、主に経済事件の調査などを行っているらしい。
あっさり採用が決まった敏夫は、さっそく舞子とともに、ある案件の調査を開始する。その背景には玩具業界の老舗・ひまわり工芸の一族の問題があった。社長の馬割鉄馬の息子・宗児は営業部長、その従兄弟にあたる甥・朋浩は製作部長をみていたが、その二人の間に軋轢があったのだ。
ところが朋浩とその妻・真棹を追跡している最中、二人を乗せた車が隕石の直撃を受け、朋浩は命を落としてしまう。そして、その事故をきっかけに、馬割一族は次々と悲劇に見舞われる……。
本当に久しぶりに読んだわけだが、やはりこれは傑作だわ。とにかく面白い。
まず舞台設定にやられる。
基本はオーソドックスな探偵小説というスタイルでである。一族にまつわる言い伝え、現代における因縁が、ねじ屋敷と呼ばれる奇妙な館、迷路状の庭園、地下洞窟、そしてトリッキーなからくり玩具といったギミックとともに渾然一体となり、独特の世界を創りあげる。
玩具にまつわる蘊蓄もやや過剰なぐらい盛り込まれ(このやや過剰なところがまたよい)、また、登場する玩具が可愛らしくもどことなく不気味な雰囲気も感じられて、現代劇でありながら、そのムードは戦後間もない頃の探偵小説を彷彿とさせる。蠱惑的とでもいおうか、実に妖しい魅力があるのだ。
これだけでも相当にポイントは高いのだが、ここに投入される連続殺人のひとつひとつがまた凝っている。なんとすべての事件において、からくり玩具が利用されるのだ。
からくりを使った殺人などと書くと、なかには「なんだ、機械的トリックか」と、人工的すぎたり必然性に欠けるなどの理由で毛嫌いする人もいるだろう。かくいう管理人もややその気はあるのだが(苦笑)、本作はものが違う。物理的・機械的トリックは単に道具として用いる意味合いが強く、そこに別の要素を絡めることで興味を高め、トリックの不自然さを抑えている。伏線やヒントもここかしこに忍ばせていて、ラストの謎解きでは思わず「やられた」となる。とにかく細かいところまでよく練られているのだ。
そして、それらのからくり玩具による連続殺人が、実は犯人の企てた、より大きなからくりによって構築されているという、この見事な構図。本作におけるからくりは、ギミックであると同時にトリックでもあり、そして事件全体を司るシステムでもあるのだ。まさに乱れからくり。
また、今回の再読によってあらためて感じたのが、そういったミステリの根本的な部分だけでなく、ストーリーを膨らませる工夫も意外に多いなということ。
舞子がこの仕事をやっている理由、舞子の助手である勝敏夫のロマンス、一族に伝わる隠し財産の行方といったところが、主なサブストーリーである。もちろん取ってつけたようなものはいただけないが、著者はこれらを単なる賑やかしではなく、きちんと本筋に絡めていて隙がない。
しいていえば敏夫の終盤の行動がちょっと無茶すぎて、いまひとつ説得力に欠けるところだが。
もちろん細かな瑕は他にもあるけれども、本作はそういう部分を補って余りある魅力に溢れている。
独特の世界観と純粋なミステリとしての要素、このふたつを非常に巧みに、高いレベルで融合させた一作である。未読の方はぜひ。
なお、管理人は今回少々いちびって幻影城ノベルスで読んでみたが、創元推理文庫や角川文庫、双葉文庫など版元も豊富である。
管理人が泡坂妻夫を熱心に読んでいたのは、角川文庫に収められた頃から90年代のあたりまで。最近はすっかりご無沙汰で、たまにアンソロジーなどで短編を読むことはあっても、それ以降の新刊は手つかずである。
そんなわけでそろそろイチから読み直したい衝動に駆られ始め、久しぶりに一冊、手に取ってみた次第。まずは代表作『乱れからくり』だが、四十年ぶりぐらいの再読になる。
こんな話。プロボクサーの夢を諦めた青年・勝敏夫は、雑誌の求人広告を見て、宇内経済研究所という会社を訪れる。それは宇内舞子という元警察官の女社長が一人で切り盛りする超零細企業。どうやら興信所の下請けとして、主に経済事件の調査などを行っているらしい。
あっさり採用が決まった敏夫は、さっそく舞子とともに、ある案件の調査を開始する。その背景には玩具業界の老舗・ひまわり工芸の一族の問題があった。社長の馬割鉄馬の息子・宗児は営業部長、その従兄弟にあたる甥・朋浩は製作部長をみていたが、その二人の間に軋轢があったのだ。
ところが朋浩とその妻・真棹を追跡している最中、二人を乗せた車が隕石の直撃を受け、朋浩は命を落としてしまう。そして、その事故をきっかけに、馬割一族は次々と悲劇に見舞われる……。
本当に久しぶりに読んだわけだが、やはりこれは傑作だわ。とにかく面白い。
まず舞台設定にやられる。
基本はオーソドックスな探偵小説というスタイルでである。一族にまつわる言い伝え、現代における因縁が、ねじ屋敷と呼ばれる奇妙な館、迷路状の庭園、地下洞窟、そしてトリッキーなからくり玩具といったギミックとともに渾然一体となり、独特の世界を創りあげる。
玩具にまつわる蘊蓄もやや過剰なぐらい盛り込まれ(このやや過剰なところがまたよい)、また、登場する玩具が可愛らしくもどことなく不気味な雰囲気も感じられて、現代劇でありながら、そのムードは戦後間もない頃の探偵小説を彷彿とさせる。蠱惑的とでもいおうか、実に妖しい魅力があるのだ。
これだけでも相当にポイントは高いのだが、ここに投入される連続殺人のひとつひとつがまた凝っている。なんとすべての事件において、からくり玩具が利用されるのだ。
からくりを使った殺人などと書くと、なかには「なんだ、機械的トリックか」と、人工的すぎたり必然性に欠けるなどの理由で毛嫌いする人もいるだろう。かくいう管理人もややその気はあるのだが(苦笑)、本作はものが違う。物理的・機械的トリックは単に道具として用いる意味合いが強く、そこに別の要素を絡めることで興味を高め、トリックの不自然さを抑えている。伏線やヒントもここかしこに忍ばせていて、ラストの謎解きでは思わず「やられた」となる。とにかく細かいところまでよく練られているのだ。
そして、それらのからくり玩具による連続殺人が、実は犯人の企てた、より大きなからくりによって構築されているという、この見事な構図。本作におけるからくりは、ギミックであると同時にトリックでもあり、そして事件全体を司るシステムでもあるのだ。まさに乱れからくり。
また、今回の再読によってあらためて感じたのが、そういったミステリの根本的な部分だけでなく、ストーリーを膨らませる工夫も意外に多いなということ。
舞子がこの仕事をやっている理由、舞子の助手である勝敏夫のロマンス、一族に伝わる隠し財産の行方といったところが、主なサブストーリーである。もちろん取ってつけたようなものはいただけないが、著者はこれらを単なる賑やかしではなく、きちんと本筋に絡めていて隙がない。
しいていえば敏夫の終盤の行動がちょっと無茶すぎて、いまひとつ説得力に欠けるところだが。
もちろん細かな瑕は他にもあるけれども、本作はそういう部分を補って余りある魅力に溢れている。
独特の世界観と純粋なミステリとしての要素、このふたつを非常に巧みに、高いレベルで融合させた一作である。未読の方はぜひ。
なお、管理人は今回少々いちびって幻影城ノベルスで読んでみたが、創元推理文庫や角川文庫、双葉文庫など版元も豊富である。
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「暗がりから池袋を覗く~ミステリ作家が見た風景~」@豊島区立郷土資料館
週末の宿題二つ目は、池袋の豊島区立郷土資料館で開催されている企画展「暗がりから池袋を覗く~ミステリ作家が見た風景~」である。
池袋に所縁のあるミステリ作家を通して、昭和初期から現代にかけての池袋・雑司が谷界隈の変遷を辿ろうというもの。取り上げられた作家は江戸川乱歩を筆頭に、大下宇陀児、飛鳥高、泡坂妻夫、京極夏彦という面々で、これは豪華だ。
池袋がつい最近までかなり危険な街だったことは、昔から住んでいる人間ならみな口にするところだが、ミステリ作家の資料でもそれを匂わせる描写は少なくない。池袋には戦後のヤミ市の暗部をそのまま現代まで引きずってきているようなところがあり、それがまた危険な魅力にもなっていた。
かくいう管理人も実は池袋駅から十五分ほど、旧乱歩邸からも五分ほどのところに住んでいたことがあり、池袋に魅せられていた一人である。
展示物全体でいうと、まあ、昨日の記事で紹介したコレクション展「仁木悦子の肖像」もそうだったが、こちらも規模が小さく、あっという間に見終わってしまうレベルなのは人によって不満の残るところだろう。ただ、こちらが年をとったせいもあり、逆にゆっくり集中して見るには程よい感じであった。
なかでも飛鳥高関連の展示というのはあまり記憶がなく、個人的には一番注目していたところである。仁木悦子と同様、プロットがチャート式で描かれていたり、トリックのメモがあったりと、こういうところに作家の性格や個性がはっきり現れるなぁと感心する。
なお、グッズとして図録、缶バッジ、手拭も販売していたが、この手のイベントとしてはなかなか良心的価格だったので、とりあえずすべて買ってしまう。乱歩はともかく飛鳥高や大下宇陀児のグッズというのはなかなか見ないしねぇ(笑)。
図録は小冊子というようなものだが、写真を載せてはいお終い、というのではなくテキストメインなのが嬉しい。しかも300円だし。
池袋に所縁のあるミステリ作家を通して、昭和初期から現代にかけての池袋・雑司が谷界隈の変遷を辿ろうというもの。取り上げられた作家は江戸川乱歩を筆頭に、大下宇陀児、飛鳥高、泡坂妻夫、京極夏彦という面々で、これは豪華だ。
池袋がつい最近までかなり危険な街だったことは、昔から住んでいる人間ならみな口にするところだが、ミステリ作家の資料でもそれを匂わせる描写は少なくない。池袋には戦後のヤミ市の暗部をそのまま現代まで引きずってきているようなところがあり、それがまた危険な魅力にもなっていた。
かくいう管理人も実は池袋駅から十五分ほど、旧乱歩邸からも五分ほどのところに住んでいたことがあり、池袋に魅せられていた一人である。
展示物全体でいうと、まあ、昨日の記事で紹介したコレクション展「仁木悦子の肖像」もそうだったが、こちらも規模が小さく、あっという間に見終わってしまうレベルなのは人によって不満の残るところだろう。ただ、こちらが年をとったせいもあり、逆にゆっくり集中して見るには程よい感じであった。
なかでも飛鳥高関連の展示というのはあまり記憶がなく、個人的には一番注目していたところである。仁木悦子と同様、プロットがチャート式で描かれていたり、トリックのメモがあったりと、こういうところに作家の性格や個性がはっきり現れるなぁと感心する。
なお、グッズとして図録、缶バッジ、手拭も販売していたが、この手のイベントとしてはなかなか良心的価格だったので、とりあえずすべて買ってしまう。乱歩はともかく飛鳥高や大下宇陀児のグッズというのはなかなか見ないしねぇ(笑)。
図録は小冊子というようなものだが、写真を載せてはいお終い、というのではなくテキストメインなのが嬉しい。しかも300円だし。
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「仁木悦子の肖像」@世田谷文学館
この週末はいくつかミステリ関係で片付けておきたい宿題があって、そのひとつが世田谷文学館で開催されているコレクション展「仁木悦子の肖像」。京王線で芦花公園駅下車、歩いて五、六分というところなので、いつもなら大した距離ではないのだが、この暑さでは辛い。あっという間に汗だくになって世田谷文学館到着である。
世田谷文学館といえば単なる文学におさまらず、映像や漫画、サブカルに至るまで、幅広い芸術を積極的に扱うことで知られているが、それでも仁木悦子の展示会とはなかなかやってくれる。
もちろん仁木悦子の業績については今さら説明するまでもない。優れた作家というだけでなく、大きな病気によるハンディを背負いながら、日本に「推理小説」を広く定着させた功労者として、日本のミステリ史に欠かせない人物である。
しかしながら、当時はともかく、今では一般的な知名度はそこまであるわけではない。というか彼女の業績を知らしめるようなイベントはこれまでもほとんどなかったはずで、そういう意味でも今回のコレクション展は実に意義のあることだろう。
規模的にはそれほど大きなものではなかったが、推理作家・仁木悦子としての業績、童話作家・大井三重子としての業績、兄を失った戦争関連の記録、そして寺山修司との交友記録とけっこう盛りだくさん。コンパクトゆえ、かえって展示物をじっくり見ることができて、結果的にはこれぐらいの規模でちょうどいいのかもしれないと思った次第。
個人的にもっとも興味深かったのが創作ノートの類。特にプロットは、登場人物ごとに時系列でチャート化されており思わずニヤリ。まさにミステリ作家のプロット作りのお手本のようであり、これを見れたのは大きな収穫だった。
▲中は残念ながら撮影禁止だが、入り口で猫がお出迎え。
▲無料のパンフレット。変形版でB5にして4ページ相当。
▲中はこんな感じ。展示もされていた日下三蔵氏による紹介文が全文載っているのが目を引く。
というわけで会期は来月9月23日までということなので、興味のある方はぜひどうぞ。
ちなみに10月からは「小松左京 展」とのこと。これまた楽しみである。
世田谷文学館といえば単なる文学におさまらず、映像や漫画、サブカルに至るまで、幅広い芸術を積極的に扱うことで知られているが、それでも仁木悦子の展示会とはなかなかやってくれる。
もちろん仁木悦子の業績については今さら説明するまでもない。優れた作家というだけでなく、大きな病気によるハンディを背負いながら、日本に「推理小説」を広く定着させた功労者として、日本のミステリ史に欠かせない人物である。
しかしながら、当時はともかく、今では一般的な知名度はそこまであるわけではない。というか彼女の業績を知らしめるようなイベントはこれまでもほとんどなかったはずで、そういう意味でも今回のコレクション展は実に意義のあることだろう。
規模的にはそれほど大きなものではなかったが、推理作家・仁木悦子としての業績、童話作家・大井三重子としての業績、兄を失った戦争関連の記録、そして寺山修司との交友記録とけっこう盛りだくさん。コンパクトゆえ、かえって展示物をじっくり見ることができて、結果的にはこれぐらいの規模でちょうどいいのかもしれないと思った次第。
個人的にもっとも興味深かったのが創作ノートの類。特にプロットは、登場人物ごとに時系列でチャート化されており思わずニヤリ。まさにミステリ作家のプロット作りのお手本のようであり、これを見れたのは大きな収穫だった。
▲中は残念ながら撮影禁止だが、入り口で猫がお出迎え。
▲無料のパンフレット。変形版でB5にして4ページ相当。
▲中はこんな感じ。展示もされていた日下三蔵氏による紹介文が全文載っているのが目を引く。
というわけで会期は来月9月23日までということなので、興味のある方はぜひどうぞ。
ちなみに10月からは「小松左京 展」とのこと。これまた楽しみである。
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松本清張『黒い樹海』(講談社文庫)
昭和の作家をぼちぼちと読み進めているが、本日の読了本は久々に松本清張から。ものは『黒い樹海』。
『ゼロの焦点』に続く六作目の長篇であり、1960年の刊行だが、作品自体は雑誌『婦人倶楽部』で1958〜1960年にかけて連載されたものだ。実はこの時期、清張は本作以外に『蒼い描点』、『小説帝銀事件』、『ゼロの焦点』、『波の塔』あたりを同時に連載させている。恐ろしいことに五冊すべてが重複した時期も三ヶ月ほどあったようだ。
『点と線が』が成功し、作家として大事な時期だったのはわかるが、それにしてもそのエネルギーには恐れ入るばかりである。
それはともかく『黒い樹海』である。
アパートで同居する姉妹、笠原信子とその妹の祥子。信子は新聞記者、祥子は貿易会社に勤務していたが、活発で深夜までバリバリ働き、しかも美人の信子を、祥子はいつも尊敬し、誇らしく感じていた。
あるとき久しぶりにまとまった休暇をとれた信子は、一人で仙台へ旅行に出かけていく。しかし、その数日後、祥子は信子が浜松付近のバス事故で死亡したという連絡を受ける。姉がなぜ浜松に? そんな疑問と悲しみを胸に抱きながら現地へ向かう祥子。
だが、遺品のスーツケースをきっかけに、祥子に新たな疑問が浮かぶ。姉の旅行には連れがいたのではないか、そしてその連れは姉を見捨てて事故から立ち去ったのではないか?
祥子は信子のいた新聞社に転職し、密かに信子の交友関係を調べ始めるが、事件はそれだけでは終わらなかった……。
『蒼い描点』と同じタイプ。サスペンスを主軸にしたトラベルミステリといってよいだろう。
基本的なストーリーラインは、主人公の祥子が姉の交友関係をもとに六人の容疑者を見つけ、社会部の若手記者・吉井とともに犯人を突き止めてゆくというもの。愛する姉の敵を討つという構図は読者の共感を呼ぶだろうし、その過程で上流階級の人間の浅ましさを暴きつつ、サスペンスや旅情を盛り込んでおり、味つけも十分。ミステリとしてはライトだが、先ほど書いたように掲載誌が一般女性誌ということもあるし、その狙い自体は悪くない。
ただ、意外と欠点も多く、最初は快調に読み進めたものの、途中でいろいろ気にかかってしまったのも事実。
本作は主人公・祥子を中心に、ほぼ一本道で物語を進めているのだが、その結果、非常に多くの役割を彼女に託してしまい、ここかしこに無理がきている。
たとえば彼女は特別な才女ではないのに、推理のひらめきは探偵顔負け。その割には不用意に容疑者と二人きりになる思慮の無さも随所に見せる。そうかと思えばアパートの部屋の外に聞こえる足音に怯え、そのくせ危機に何度か直面しても、なぜか警察には頼らない。
聡明な探偵役と浅はかなヒロイン、強い女性とか弱き乙女など、そういった役割をすべて一人に任せているので、彼女のとる行動がどうにもちぐはぐで腑に落ちないのである。
犯人の行動も負けず劣らず説得力に欠ける。最終的には連続殺人に発展する事件なのだが、連続殺人を犯す動機が弱いうえ、そもそも祥子さえ排除すれば、犯人は何の心配もないはず。祥子の調査で浮かび上がる関係者を次々と殺して回る展開は、非常に不思議である。
さらには、ストーリー展開も少々いただけない。六人の容疑者を強く打ち出し、最初はこの六人に対して一人ずつ対峙するような流れもあるのだが、結局、顔見せの段階をすぎるとあっという間に決めうちのような展開になってしまう。せっかくのストーリーの膨らみを著者自ら潰してしまっているようで実にもったいない。
『蒼い描点』もそうだったが、清張はごく普通の女性が困難を克服するという絵を見せたいあまり、他のいろいろな部分を犠牲にしている節はある。だから登場人物や表面的なストーリーだけ見れば、一見リアルに見えるのだが、意外とご都合主義なところも少なくないのだ。トータルでそれを帳消しにするような長所があればよし。なければ本作のようにごく普通のサスペンスドラマにとどまってしまう。
本作は映像化もかなりされているし、旅情ミステリとして初期の代表作にもあげられているようだが、これを代表作といってしまうと、清張の真価は伝わらないのではないか。駄作とまではいわないが、個人的にはちょっと期待はずれの一冊であった。
『ゼロの焦点』に続く六作目の長篇であり、1960年の刊行だが、作品自体は雑誌『婦人倶楽部』で1958〜1960年にかけて連載されたものだ。実はこの時期、清張は本作以外に『蒼い描点』、『小説帝銀事件』、『ゼロの焦点』、『波の塔』あたりを同時に連載させている。恐ろしいことに五冊すべてが重複した時期も三ヶ月ほどあったようだ。
『点と線が』が成功し、作家として大事な時期だったのはわかるが、それにしてもそのエネルギーには恐れ入るばかりである。
それはともかく『黒い樹海』である。
アパートで同居する姉妹、笠原信子とその妹の祥子。信子は新聞記者、祥子は貿易会社に勤務していたが、活発で深夜までバリバリ働き、しかも美人の信子を、祥子はいつも尊敬し、誇らしく感じていた。
あるとき久しぶりにまとまった休暇をとれた信子は、一人で仙台へ旅行に出かけていく。しかし、その数日後、祥子は信子が浜松付近のバス事故で死亡したという連絡を受ける。姉がなぜ浜松に? そんな疑問と悲しみを胸に抱きながら現地へ向かう祥子。
だが、遺品のスーツケースをきっかけに、祥子に新たな疑問が浮かぶ。姉の旅行には連れがいたのではないか、そしてその連れは姉を見捨てて事故から立ち去ったのではないか?
祥子は信子のいた新聞社に転職し、密かに信子の交友関係を調べ始めるが、事件はそれだけでは終わらなかった……。
『蒼い描点』と同じタイプ。サスペンスを主軸にしたトラベルミステリといってよいだろう。
基本的なストーリーラインは、主人公の祥子が姉の交友関係をもとに六人の容疑者を見つけ、社会部の若手記者・吉井とともに犯人を突き止めてゆくというもの。愛する姉の敵を討つという構図は読者の共感を呼ぶだろうし、その過程で上流階級の人間の浅ましさを暴きつつ、サスペンスや旅情を盛り込んでおり、味つけも十分。ミステリとしてはライトだが、先ほど書いたように掲載誌が一般女性誌ということもあるし、その狙い自体は悪くない。
ただ、意外と欠点も多く、最初は快調に読み進めたものの、途中でいろいろ気にかかってしまったのも事実。
本作は主人公・祥子を中心に、ほぼ一本道で物語を進めているのだが、その結果、非常に多くの役割を彼女に託してしまい、ここかしこに無理がきている。
たとえば彼女は特別な才女ではないのに、推理のひらめきは探偵顔負け。その割には不用意に容疑者と二人きりになる思慮の無さも随所に見せる。そうかと思えばアパートの部屋の外に聞こえる足音に怯え、そのくせ危機に何度か直面しても、なぜか警察には頼らない。
聡明な探偵役と浅はかなヒロイン、強い女性とか弱き乙女など、そういった役割をすべて一人に任せているので、彼女のとる行動がどうにもちぐはぐで腑に落ちないのである。
犯人の行動も負けず劣らず説得力に欠ける。最終的には連続殺人に発展する事件なのだが、連続殺人を犯す動機が弱いうえ、そもそも祥子さえ排除すれば、犯人は何の心配もないはず。祥子の調査で浮かび上がる関係者を次々と殺して回る展開は、非常に不思議である。
さらには、ストーリー展開も少々いただけない。六人の容疑者を強く打ち出し、最初はこの六人に対して一人ずつ対峙するような流れもあるのだが、結局、顔見せの段階をすぎるとあっという間に決めうちのような展開になってしまう。せっかくのストーリーの膨らみを著者自ら潰してしまっているようで実にもったいない。
『蒼い描点』もそうだったが、清張はごく普通の女性が困難を克服するという絵を見せたいあまり、他のいろいろな部分を犠牲にしている節はある。だから登場人物や表面的なストーリーだけ見れば、一見リアルに見えるのだが、意外とご都合主義なところも少なくないのだ。トータルでそれを帳消しにするような長所があればよし。なければ本作のようにごく普通のサスペンスドラマにとどまってしまう。
本作は映像化もかなりされているし、旅情ミステリとして初期の代表作にもあげられているようだが、これを代表作といってしまうと、清張の真価は伝わらないのではないか。駄作とまではいわないが、個人的にはちょっと期待はずれの一冊であった。
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アクセル・ハッケ『僕が神さまと過ごした日々』(講談社)
本日の読了本はちょっと趣を変えてアクセル・ハッケの『僕が神さまと過ごした日々』。著者はドイツのジャーナリストだが、同じくドイツの画家、ミヒャエル・ゾーヴァと組んで、大人のためのファンタジーをいくつか発表しており、本書もそのひとつ。
書くことを生業とする「僕」の身の回りには、なぜか不思議なことが起こる。電車での帰宅中、線路も通っていない道を通って自宅に着いたり、誰にも見えない「事務ゾウ」という小さなゾウが現れたりする。
そんなある日、墓地のベンチに座っていた僕の頭上へ、すぐそばのアパートの窓から地球儀が落下するという事件が起こる。しかし、間一髪、近くにいた老紳士が僕を突き飛ばしてくれたおかげで、僕は命拾いをすることができた。それがきっかけで、この老紳士と僕は話をするようになるが、次第にこの老紳士が「神様」であることが判明する……。
ストーリーは凝ったものではなく、ボリュームもそれほどではない。先ほども書いたように本作は大人のためのファンタジーであり、寓話といったようなものだ。芸術家肌の神様によって創造された人類。その人類が神様の予想を超えてやらかす出来事に嘆く姿が描かれ、主人公の「僕」もまた、それによって人の幸せについて考えていく。
ただ、テーマは重いけれども語り口はユーモラス。著者も読者にそこまで深刻に考えてもらうことは本意ではないはずで、ちょっと考えてみるきっかけになればよいのかなというスタンスだろう。非常に穏やかな物語と心に沁みてくるメッセージで、いっときの癒しとしたい一冊である。
そして、それを助けてくれるのが、ミハエル・ゾーヴァの挿絵である。タッチはリアルで緻密だが、描かれているものはユーモラスだったりシュールだったりして、非常に魅了される。実は管理人お気に入りの画家で、著者には申し訳ないが、正直いうと本書もゾーヴァの絵が目当てで買っている(苦笑)。
本作も読む前から挿絵だけをパラパラと眺め、ストーリーがわからないながらもその世界観を想像するのが実に楽しい作業であった。
書くことを生業とする「僕」の身の回りには、なぜか不思議なことが起こる。電車での帰宅中、線路も通っていない道を通って自宅に着いたり、誰にも見えない「事務ゾウ」という小さなゾウが現れたりする。
そんなある日、墓地のベンチに座っていた僕の頭上へ、すぐそばのアパートの窓から地球儀が落下するという事件が起こる。しかし、間一髪、近くにいた老紳士が僕を突き飛ばしてくれたおかげで、僕は命拾いをすることができた。それがきっかけで、この老紳士と僕は話をするようになるが、次第にこの老紳士が「神様」であることが判明する……。
ストーリーは凝ったものではなく、ボリュームもそれほどではない。先ほども書いたように本作は大人のためのファンタジーであり、寓話といったようなものだ。芸術家肌の神様によって創造された人類。その人類が神様の予想を超えてやらかす出来事に嘆く姿が描かれ、主人公の「僕」もまた、それによって人の幸せについて考えていく。
ただ、テーマは重いけれども語り口はユーモラス。著者も読者にそこまで深刻に考えてもらうことは本意ではないはずで、ちょっと考えてみるきっかけになればよいのかなというスタンスだろう。非常に穏やかな物語と心に沁みてくるメッセージで、いっときの癒しとしたい一冊である。
そして、それを助けてくれるのが、ミハエル・ゾーヴァの挿絵である。タッチはリアルで緻密だが、描かれているものはユーモラスだったりシュールだったりして、非常に魅了される。実は管理人お気に入りの画家で、著者には申し訳ないが、正直いうと本書もゾーヴァの絵が目当てで買っている(苦笑)。
本作も読む前から挿絵だけをパラパラと眺め、ストーリーがわからないながらもその世界観を想像するのが実に楽しい作業であった。
サー・エドムント・C・コックスの短編集『インド帝国警察カラザース』を読む。クラシックミステリの翻訳を手掛ける平山雄一氏が、個人で発行しているヒラヤマ探偵文庫からの一冊。
コナン・ドイルのホームズ譚が成功したことを受けて、当時、数多くの「シャーロック・ホームズのライバル」が誕生したが、本作のジョン・カラザース・シリーズはその中でもとびきりの異色作となる。
舞台がなんとインド。しかも時代は二十世紀初頭なので、当時はイギリス領インド帝国である。早い話がイギリスの植民地だった時代のインドを舞台にしたミステリなのだ。一見するとキワモノっぽいが、なんと著者自身がインドでの警察官として働いた経験があり、その経歴が存分に活かされた作品なのだ。
収録作は以下のとおり。
The Fate of Abdulla「アブドラの運命」
The Rajapur「ラジャプール事件」
The Priest and the Parchment「僧侶と羊皮紙」
The Sin of Witchcraft「魔法の罪」
The Stolen Despatch「文書盗難事件」
Tantia Maharajah「タンティアのマハラジャ」
Romeo and Juliet「ロメオとジュリエット」
The Dutch Engineer「オランダ人技師」
The Cotton Consignment「綿花の荷物」
The Wheels of the Gods「神々の車輪」
The Horns of a Dilemma「前門の虎」
The Last Story「最後の話」
いや、これは楽しい。
白人支配による当時のインドにおいては、警察機構の要職も白人が就き、本作の主人公ジョン・カラザースも本部長を務めている。在任期間中は数々の州に赴任し、各地で難事件を解決するというのが大まかなストーリーである。
書かれた時代が時代だし、これまで埋もれていたことを考えると、出来に関してはそれほど期待していなかったのだが、いや、これは良い意味で裏切られた。
そこまで驚くようなアイディアはないけれども、基本的なミステリの定石やツボは押さえているのが好印象。ホームズものの影響はここかしこに感じられるものの、当時のインドだからこそ起こりえた犯罪、生まれた動機などを見事にミステリとして消化させており、オリジナリティは抜群。欧米諸国のミステリでは絶対に味わえない楽しみがある。
当時のインドは混沌の地だ。今のインドよりも広い国土をもち、そのなかでさまざま人種、宗教、制度があり、そこに白人たちがもちこんだ思想や文化や仕組みが混じり合っている。そういった状況のなかで、ともすると法律のもつ意味は低くなるのだが、主人公のカラザースは武力ではなく、あくまで叡智でもって事件を解決するのがよい。ただ、権力はけっこう使うけれど(笑)。
気になる点もないではない。
特に引っかかったのが、探偵役カラザースの一人称で書かれていることだ。
ハードボイルドならまだしも、本格ミステリで主人公の一人称というのは、読者に対する情報の開示という点で、推理の過程などが変にぼかされてしまう。そのくせ感情の動きはストレートに伝えてくるので、(アンフェアとまでは言わないが)ややスッキリしないというか若干の消化不良感が残るのがもったいない。
物事を客観的に語っていくワトスン役の存在は、確かに重要なのだ。というか、本作の場合、ワトスン役の設定は難しいだろうから、普通に三人称でよかったのではないだろうか。
あと、主人公カラザースをはじめとする白人たちの特権階級意識や差別、偏見などがひんぱんに描写されるので、人によってはかなり不快に思うかもしれない。
ただ、これは歴史的な事実でもあり、当時の偽らざる状況。同時代の、それこそホームズものだって根底では似たようなレベルなのだが、本作の場合は舞台が舞台なだけに、より強調されてしまうのは致し方あるまい。
ここは変にめくじらを立てたり嘆いたりするのではなく、むしろ当時のリアルな情報がこうして文章として残っていることにより価値を見出すべきではないだろうか。
個々の作品で印象に残ったのは、まず「アブドラの運命」。キャンプ生活を送るカラザースのもとへ、鉄道橋を監視する仕事に就く男が、行方不明になった甥を助けてくれと懇願してくる。それこそインドでなければ成立しない作品で、動機も面白い。この冒頭の作品で気持ちを一気にもっていかれる。
「文書盗難事件」はイギリス人総督の屋敷から盗まれた公式文書を探す事件。ポオの「盗まれた手紙」っぽいなと思っていたら、なぜか一緒にバナナが盗まれるという手がかりがあり、ポオはポオでもあっちの事件であった(笑)。
「タンティアのマハラジャ」は義賊もの。名探偵カラザースがいっぱい食わされる展開が興味深く、そういった着想やストーリーの面白さ重視の部分が、ある意味、ホームズの正当なライバル(あるいは系統)であることを実感させてくれる。
「ロメオとジュリエット」はまあラストの予想はつくのだけれど、けっこうストーリーが面白く、本当に「ロメオとジュリエット」まんまである。
「オランダ人技師」は機械の修理を頼まれたオランダ人技師の奇妙な事件。解説にもあるとおり、コナン・ドイルの「技師の親指」を彷彿とさせるが、「赤毛組合」の読後感とも共通するものがあって好きな作品。
「最後の話」は唯一、カラザースがイギリスに帰ってきてからの話。ミステリとしてはけっこうな禁じ手を使っているが(苦笑)、まあ、後味もよいし、最後の作品として大目にみてあげてもいいだろう(笑)。
コナン・ドイルのホームズ譚が成功したことを受けて、当時、数多くの「シャーロック・ホームズのライバル」が誕生したが、本作のジョン・カラザース・シリーズはその中でもとびきりの異色作となる。
舞台がなんとインド。しかも時代は二十世紀初頭なので、当時はイギリス領インド帝国である。早い話がイギリスの植民地だった時代のインドを舞台にしたミステリなのだ。一見するとキワモノっぽいが、なんと著者自身がインドでの警察官として働いた経験があり、その経歴が存分に活かされた作品なのだ。
収録作は以下のとおり。
The Fate of Abdulla「アブドラの運命」
The Rajapur「ラジャプール事件」
The Priest and the Parchment「僧侶と羊皮紙」
The Sin of Witchcraft「魔法の罪」
The Stolen Despatch「文書盗難事件」
Tantia Maharajah「タンティアのマハラジャ」
Romeo and Juliet「ロメオとジュリエット」
The Dutch Engineer「オランダ人技師」
The Cotton Consignment「綿花の荷物」
The Wheels of the Gods「神々の車輪」
The Horns of a Dilemma「前門の虎」
The Last Story「最後の話」
いや、これは楽しい。
白人支配による当時のインドにおいては、警察機構の要職も白人が就き、本作の主人公ジョン・カラザースも本部長を務めている。在任期間中は数々の州に赴任し、各地で難事件を解決するというのが大まかなストーリーである。
書かれた時代が時代だし、これまで埋もれていたことを考えると、出来に関してはそれほど期待していなかったのだが、いや、これは良い意味で裏切られた。
そこまで驚くようなアイディアはないけれども、基本的なミステリの定石やツボは押さえているのが好印象。ホームズものの影響はここかしこに感じられるものの、当時のインドだからこそ起こりえた犯罪、生まれた動機などを見事にミステリとして消化させており、オリジナリティは抜群。欧米諸国のミステリでは絶対に味わえない楽しみがある。
当時のインドは混沌の地だ。今のインドよりも広い国土をもち、そのなかでさまざま人種、宗教、制度があり、そこに白人たちがもちこんだ思想や文化や仕組みが混じり合っている。そういった状況のなかで、ともすると法律のもつ意味は低くなるのだが、主人公のカラザースは武力ではなく、あくまで叡智でもって事件を解決するのがよい。ただ、権力はけっこう使うけれど(笑)。
気になる点もないではない。
特に引っかかったのが、探偵役カラザースの一人称で書かれていることだ。
ハードボイルドならまだしも、本格ミステリで主人公の一人称というのは、読者に対する情報の開示という点で、推理の過程などが変にぼかされてしまう。そのくせ感情の動きはストレートに伝えてくるので、(アンフェアとまでは言わないが)ややスッキリしないというか若干の消化不良感が残るのがもったいない。
物事を客観的に語っていくワトスン役の存在は、確かに重要なのだ。というか、本作の場合、ワトスン役の設定は難しいだろうから、普通に三人称でよかったのではないだろうか。
あと、主人公カラザースをはじめとする白人たちの特権階級意識や差別、偏見などがひんぱんに描写されるので、人によってはかなり不快に思うかもしれない。
ただ、これは歴史的な事実でもあり、当時の偽らざる状況。同時代の、それこそホームズものだって根底では似たようなレベルなのだが、本作の場合は舞台が舞台なだけに、より強調されてしまうのは致し方あるまい。
ここは変にめくじらを立てたり嘆いたりするのではなく、むしろ当時のリアルな情報がこうして文章として残っていることにより価値を見出すべきではないだろうか。
個々の作品で印象に残ったのは、まず「アブドラの運命」。キャンプ生活を送るカラザースのもとへ、鉄道橋を監視する仕事に就く男が、行方不明になった甥を助けてくれと懇願してくる。それこそインドでなければ成立しない作品で、動機も面白い。この冒頭の作品で気持ちを一気にもっていかれる。
「文書盗難事件」はイギリス人総督の屋敷から盗まれた公式文書を探す事件。ポオの「盗まれた手紙」っぽいなと思っていたら、なぜか一緒にバナナが盗まれるという手がかりがあり、ポオはポオでもあっちの事件であった(笑)。
「タンティアのマハラジャ」は義賊もの。名探偵カラザースがいっぱい食わされる展開が興味深く、そういった着想やストーリーの面白さ重視の部分が、ある意味、ホームズの正当なライバル(あるいは系統)であることを実感させてくれる。
「ロメオとジュリエット」はまあラストの予想はつくのだけれど、けっこうストーリーが面白く、本当に「ロメオとジュリエット」まんまである。
「オランダ人技師」は機械の修理を頼まれたオランダ人技師の奇妙な事件。解説にもあるとおり、コナン・ドイルの「技師の親指」を彷彿とさせるが、「赤毛組合」の読後感とも共通するものがあって好きな作品。
「最後の話」は唯一、カラザースがイギリスに帰ってきてからの話。ミステリとしてはけっこうな禁じ手を使っているが(苦笑)、まあ、後味もよいし、最後の作品として大目にみてあげてもいいだろう(笑)。