『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』 佐々涼子
お元気ですか?
先日テレビで「高橋源一郎の飛ぶ教室」という番組を見た。ラジオで放送されている番組だがそのテレビ版。車で通勤していた時に聴いていた番組で懐かしく思った。
番組は二部構成になっていて一部「秘密の本棚」では高橋氏が取り上げる本の紹介がされている。
今回はドキュメンタリー作家の佐々涼子の本だった。
佐々氏はドラマ「エンジェルフライト国際霊柩送還士」の原作者で、私はテレビドラマではじめて知ったのだが、2012年の開高健ノンフィクション賞を受賞している。
番組ではエッセイ『夜明けを待つ』を中心に話が進められていた。老と死について書かれたらしいそのエッセイを読もうと図書館で佐々氏の本を検索したが多くの予約が入っている。18人待ちだった。だが、気になるタイトルの本を見つけた。『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』2014年の本だ。
石巻にある日本製紙石巻工場は2011年3月11日の東日本大震災で津波による被害を受けた。その復興の記録。
プロローグに「私たちは雑誌用紙がどこからやって来るのかを知らなかった。それは出版に携わる者にとって恥ずべきことに違いない。」と書いている。私も若い頃は出版の世界にいた。今でもその時に携わった本の多くを覚えている。しかも昨年は仙台に行った折に気仙沼までレンタカーで行き遅いお見舞いではあったが現地の様子を自分の目で見てきた。しかし途中である石巻の製紙工場のことは全く思いもしなかった。
日本製紙株式会社石巻工場は正規従業員514人、協力会社従業人を入れると1500人を超す大工場で、三交代勤務で昼夜機械を動かしている。被災前の生産量は年間約100万トン。日本の出版用紙の約四割を担う日本製紙の基幹工場だ。
被災当日1306人が勤務していた。幸いなことに過去の宮城県沖地震(2003年)、チリ地震(2010年)などの経験から避難訓練が繰り返され東日本大震災では死者を一人も出さずに済むというまさに奇蹟と言って良い幸運に恵まれている。
しかし製紙工場にとって津波による海水被害は深刻だ。原材料であるパルプや製品の紙の被害、至る所に入り込む海水や泥、津波で流された機材や設備、それらを目の当たりにしたら再び工場を稼働させることは想像することも難しいだろう。
だが工場長は半年で一台でも動けるようにして工場を再開させると宣言する。私はここにリーダーの決断の意義を強く感じる。当時石巻市の人口は16万人。その一割の人間が日本製紙石巻工場に働いている。そしてその人たちの暮らしを支える人たちが石巻で働いている。日本製紙石巻工場を再建させるということは石巻を存続させることに他ならない。同じく日本の出版用紙の四割を生産する石巻工場が閉鎖すれば日本の出版印刷の世界に大きな打撃を与えることになる。私たちが日頃親しむ文庫本や上製本、雑誌や新聞、広告用チラシやポスターなど生活には様々な紙が必要だ。その紙を大切にして仕事をしている様々な業界の人たちがいる。
そして目の前には家を無くし家族を亡くしこれからの生活さえも考えられなくなった従業員がいる。この従業員と家族に目標を与えていかなければ被災した現実から立ち上がることは出来ないだろう。
工場長の半年で再建するという宣言には強く深い思いがあったのだと私は確信するし、それがリーダーの取るべき役割だと私は思う。
しかし再建は現場の思惑だけでは進まない。比較的損傷の少なかった機械を動かせるよう進めるが、本社からは別の機械を動かすようにと指示がくる。それはお客様がどの紙を早く必要としているか、需要に応えなければいけないからだった。これもまた真実だろう。
大きく複雑な機械を組み合わせて製紙の機械は一つの姿になっている。オペレーターにも機械を熟知した経験が必要となる。普段でもそうであるのに、津波で被害を受け満身創痍であった機械を一から動かせるようにして行くのである。想像を絶する根気のいる作業があったことは想像に難くない。流れ込んだ瓦礫を掻き出し、電気設備を組み直し、機械の動きを一つ一つ確かめるように見て行く。きっと祈るような気持ちでみんなが見たことだろう。
そして震災から半年後の九月十四日、八号マシンと呼ばれる機械の初稼働の日が来る。全長110メートルの巨大マシーン。工場長がスイッチを押すと、原材料がポンプで運ばれ、パルプが吹き付けられシート状になって流れる。いくつかの工程をオペレーターの作業とともに流れて最後は巻きつけてロール状にしてゆく。これを通紙とか紙をつなぐというのだそうだ。そしてこの日奇蹟が起こる。通常では早くても1時間ほどかかる通紙がこの日は途中途切れることもなくスムーズに流れ、28分という新記録で出来たのだった。機械に心があるなら、そして機械に携わる大抵の人が感じているであることではあるが、機械にはその時どきのきげんがあるものなのだが、この日八号機は日本製紙石巻工場の全ての人たちの労に応えるかのように最大のエールを返してくれたのだった。
私はこのシーンを読みながら涙を流さずにはいられなかった。
この本は早川書房の副社長が工場を見学に行った事がきっかけになっているという。佐々涼子氏は編集者から工場のことを書くように依頼を受ける。出版に携わる者として日本製紙石巻工場の出来事は手を合わせるような気持ちで記録しなければいけないと佐々氏は思ったのではないか、私はそう思う。
佐々涼子氏は今年9月1日に亡くなっている。56歳だった。
良い本に巡り会えたと読み終えた今思うし、次回仙台に行った際には、毎年のように夏には仙台に行くのであるが、石巻に行ってみたいと強く思った。
ではまた。
先日テレビで「高橋源一郎の飛ぶ教室」という番組を見た。ラジオで放送されている番組だがそのテレビ版。車で通勤していた時に聴いていた番組で懐かしく思った。
番組は二部構成になっていて一部「秘密の本棚」では高橋氏が取り上げる本の紹介がされている。
今回はドキュメンタリー作家の佐々涼子の本だった。
佐々氏はドラマ「エンジェルフライト国際霊柩送還士」の原作者で、私はテレビドラマではじめて知ったのだが、2012年の開高健ノンフィクション賞を受賞している。
番組ではエッセイ『夜明けを待つ』を中心に話が進められていた。老と死について書かれたらしいそのエッセイを読もうと図書館で佐々氏の本を検索したが多くの予約が入っている。18人待ちだった。だが、気になるタイトルの本を見つけた。『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』2014年の本だ。
石巻にある日本製紙石巻工場は2011年3月11日の東日本大震災で津波による被害を受けた。その復興の記録。
プロローグに「私たちは雑誌用紙がどこからやって来るのかを知らなかった。それは出版に携わる者にとって恥ずべきことに違いない。」と書いている。私も若い頃は出版の世界にいた。今でもその時に携わった本の多くを覚えている。しかも昨年は仙台に行った折に気仙沼までレンタカーで行き遅いお見舞いではあったが現地の様子を自分の目で見てきた。しかし途中である石巻の製紙工場のことは全く思いもしなかった。
日本製紙株式会社石巻工場は正規従業員514人、協力会社従業人を入れると1500人を超す大工場で、三交代勤務で昼夜機械を動かしている。被災前の生産量は年間約100万トン。日本の出版用紙の約四割を担う日本製紙の基幹工場だ。
被災当日1306人が勤務していた。幸いなことに過去の宮城県沖地震(2003年)、チリ地震(2010年)などの経験から避難訓練が繰り返され東日本大震災では死者を一人も出さずに済むというまさに奇蹟と言って良い幸運に恵まれている。
しかし製紙工場にとって津波による海水被害は深刻だ。原材料であるパルプや製品の紙の被害、至る所に入り込む海水や泥、津波で流された機材や設備、それらを目の当たりにしたら再び工場を稼働させることは想像することも難しいだろう。
だが工場長は半年で一台でも動けるようにして工場を再開させると宣言する。私はここにリーダーの決断の意義を強く感じる。当時石巻市の人口は16万人。その一割の人間が日本製紙石巻工場に働いている。そしてその人たちの暮らしを支える人たちが石巻で働いている。日本製紙石巻工場を再建させるということは石巻を存続させることに他ならない。同じく日本の出版用紙の四割を生産する石巻工場が閉鎖すれば日本の出版印刷の世界に大きな打撃を与えることになる。私たちが日頃親しむ文庫本や上製本、雑誌や新聞、広告用チラシやポスターなど生活には様々な紙が必要だ。その紙を大切にして仕事をしている様々な業界の人たちがいる。
そして目の前には家を無くし家族を亡くしこれからの生活さえも考えられなくなった従業員がいる。この従業員と家族に目標を与えていかなければ被災した現実から立ち上がることは出来ないだろう。
工場長の半年で再建するという宣言には強く深い思いがあったのだと私は確信するし、それがリーダーの取るべき役割だと私は思う。
しかし再建は現場の思惑だけでは進まない。比較的損傷の少なかった機械を動かせるよう進めるが、本社からは別の機械を動かすようにと指示がくる。それはお客様がどの紙を早く必要としているか、需要に応えなければいけないからだった。これもまた真実だろう。
大きく複雑な機械を組み合わせて製紙の機械は一つの姿になっている。オペレーターにも機械を熟知した経験が必要となる。普段でもそうであるのに、津波で被害を受け満身創痍であった機械を一から動かせるようにして行くのである。想像を絶する根気のいる作業があったことは想像に難くない。流れ込んだ瓦礫を掻き出し、電気設備を組み直し、機械の動きを一つ一つ確かめるように見て行く。きっと祈るような気持ちでみんなが見たことだろう。
そして震災から半年後の九月十四日、八号マシンと呼ばれる機械の初稼働の日が来る。全長110メートルの巨大マシーン。工場長がスイッチを押すと、原材料がポンプで運ばれ、パルプが吹き付けられシート状になって流れる。いくつかの工程をオペレーターの作業とともに流れて最後は巻きつけてロール状にしてゆく。これを通紙とか紙をつなぐというのだそうだ。そしてこの日奇蹟が起こる。通常では早くても1時間ほどかかる通紙がこの日は途中途切れることもなくスムーズに流れ、28分という新記録で出来たのだった。機械に心があるなら、そして機械に携わる大抵の人が感じているであることではあるが、機械にはその時どきのきげんがあるものなのだが、この日八号機は日本製紙石巻工場の全ての人たちの労に応えるかのように最大のエールを返してくれたのだった。
私はこのシーンを読みながら涙を流さずにはいられなかった。
この本は早川書房の副社長が工場を見学に行った事がきっかけになっているという。佐々涼子氏は編集者から工場のことを書くように依頼を受ける。出版に携わる者として日本製紙石巻工場の出来事は手を合わせるような気持ちで記録しなければいけないと佐々氏は思ったのではないか、私はそう思う。
佐々涼子氏は今年9月1日に亡くなっている。56歳だった。
良い本に巡り会えたと読み終えた今思うし、次回仙台に行った際には、毎年のように夏には仙台に行くのであるが、石巻に行ってみたいと強く思った。
ではまた。
2024年 福岡の旅 3日目
お元気ですか?
遅い夏休みを取り、九州に観光旅行をしてきました。その記録です。
福岡の旅もいよいよ最終日。三日目は太宰府天満宮に伺います。学問の神様で知られる菅原道真をお祀りしていますが、詳しくは知らず、京都でも飛梅伝説の梅の木をいくつか見ていますが、やはり太宰府で見なければとすっかり観光客です。
博多から太宰府天満宮への行き方は色々あります。乗り換えの要らないのはバスで行く方法。40分ぐらいで着くそうです。私はバスが少し苦手なので、地下鉄で天神に出て西鉄大牟田線に乗り換えて二日市駅、西鉄太宰府線で太宰府に行く事にします。乗り換えに少し歩きますが、渋滞がないので時間通りに行くことが出来ます。
さて、菅原道真が学問の神様というのは多くの人が知っているでしょうが、ではいつの時代の何をした人と答える事ができるでしょうか。高校の日本史の教科書を読み直してみてもこれだと言えるものがわかりません。ここに学校での日本史教育の弱点があるようです。そこでちょっとお勉強です。
菅原道真はこんな人・・・大学祝典序曲を口ずさんでくださいね。
菅原道真は845年8月1日に儒家の中流貴族の家に生まれ903年3月26日に左遷先の大宰府で亡くなる。幼少から詩歌の才能があり870年官吏登用試験に合格すると順調に官位を得て出世する。886年讃岐守に任命されますが道真はこれを左遷と思い悲嘆したというから、エリート意識の高い感情家だったのかもしれない。
888年4月、阿衡事件が起こる。藤原基経と宇多天皇との間に起こった政治紛争だが、道真は事の発端であった橘広相を罰しないよう意見書を書いている。これがきっかけだったかどうかはわからないが橘広相が亡くなると宇多天皇は道真を自らの側近として抜擢し蔵人頭にする。その後も様々な官位を得て宇多天皇の側近としての立場を確かにしてゆく。
894年遣唐大使に任ぜられるが、当時唐は黄巣の乱(875年)にみられるように西アジアとの交易など対外政策の対応から国内情勢が不安定になり道真は遣唐使を再検討するよう申し立てている。907年唐が滅亡することにより遣唐使は廃止される。
897年6月、藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、二人が太政官の長となる体制となる。同年7月、宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位するがこの二人を重用するように伝えている。
901年1月、道真は娘婿である斉世(ときよし)親王を皇位に就けようと謀ったとして大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを止めようとしたが叶わなかった。この事件は藤原時平が画策したとされているが、必ずしも時平が主導したのではなく道真に反感を持つ貴族が時平を担いだのかも知れない。仕事でもプライベートでも親交のあった時平と道真。歴史のひだは文楽の菅原伝授手習鑑を楽しみたい。
道真は大宰府浄妙院で謹慎するが、一切の俸給も従者もなく政治に関わることは許されなかった。2年後の903年2月25日亡くなると遺体は牛車に乗せられ運ばれる。その牛が止まって動かなくなった所が遺言で墓地とされ、安楽寺が建てられ現在の延寿王院となる。菅原道真の子孫である西高辻家が太宰府天満宮の社家として宮司職を世襲している。
いかがですか。大宰府を訪れるまであまり知らなかった菅原道真。改めて整理してみると結構人物像が見えてきて理解が深まります。宇多天皇が時平と道真を重用したのも宇多天皇が政治より仏教に深く傾倒したためかもしれません。また道真自身も才能豊かだったでしょうが、それが返って周りの貴族の反感をかってしまったのかもしれません。
さて、観光に話を戻しましょう。参道を通り護神牛の像などを見ながら本殿へ向かいます。残念なことに今回は修復中で大きなシートに隠れていますが、これもお愛嬌。お目当ての飛梅の木は囲いの中に拝見することができました。
鷽(うそ)のおみくじやお札を見ながら友人の息子さんの学業が進みますように心の中で願います。
そして九州国立博物館へ。素晴らしい展示物を堪能します。
太宰府天満宮の観光で欠かせないのが大宰府政庁跡、遺跡の見学です。観光案内所の方からコミュニティーバスが便利と伺っていたので観世音寺前まで行きます。観世音寺は源氏物語の玉鬘巻に登場するお寺であり遣唐使として渡っていた空海が806年に戻り滞在していたお寺。隣には戒壇院という僧侶になるための試験を行った場所もあります。そして西に歩いて行くと大宰府政庁跡という礎石が並んだ広い土地があり草取りや整地作業をしている人たちが見え、私たちはその隣の大宰府展示館という建物に入りました。ここにはパネル展示、政庁跡のジオラマ、大宰府天満宮やそれを囲む山や水城といった大宰府全体の地形をジオラマにしたものなどを見る事ができます。私たちが伺った時にはちょうど研究者のグループが訪れていて説明をされていました。少し離れて拝見しているとガイドさんが「どちらから来ましたか」と声をかけてくださり、菅原道真の話をしてくださいます。また、この展示館が大宰府政庁を取り囲む大きな堀が発見されたためその保存のために建てられたということも教えてくださいました。
今回の福岡の旅行は行くところそれぞれでガイドさんに声をかけていただき、色々な事を教えていただきました。疑問晴れたこともあれば全く新し発見もあります。本当にガイドさんに良くしていただいた旅行でした。
私たちは政庁跡の礎石を見ながら西鉄の駅まで少し歩きます。西鉄都府桜前という駅です。ここから天神に戻ります。天神でお腹が空いていたのでうどんを頂きましたが、透明なお出汁で柔らかい麺。讃岐うどんのようにエッジのきいたしっかりしたうどんではありません。お出汁は私好みですごく美味しいです。私は蕎麦は江戸前のキリッとした汁、うどんは関西風の透明の優しい味が好きなのです。
お昼もいただいたので次の目的地福岡市立博物館に行きます。ここの目的はただ一つ、金印を見る事です。江戸時代に発見され中国の『後漢書』をもとに光武皇帝が倭奴国王に贈ったものとされています。色々な研究がなされ解釈もありますが、今回はそれはひとまず置いて、私はやはり実物を見る事の大切をしみじみと感じました。函館生まれの私は日本史で習うほとんどが教科書の中の世界です。試験のための勉強なら人の名前や年代を暗記したり事件の名称や概略を覚えればいいでしょう。でも歴史の醍醐味というのはそうではありません。例えば司馬遼太郎の歴史小説を読めば歴史上の人物が生き生きと動き回ります。興味を持った歴史上の人物がこの道を歩いていたんだと思うだけでワクワクしませんか。
私にとって旅行をするということはその地に生きる人、生きた人の姿を知ることです。それには本物が一番なのです。
さて、福岡市博館にはもう一つ嬉しい事がありました。はかた伝統工芸館という小さなスペースですが、博多織と博多人形を見る事のできる場所があるのです。私は着物を着る機会があるので博多帯には馴染みがあります。博多人形も一時期はどこのご家庭にも飾られていたものですから本場で見てみたいという思いがありました。それが出来たのです。
ここでもスタッフの方にいくつか質問をさせていただき、博多人形が作家さんが一人で作っていることを知りました。聞いてみないとわからないことです。
さぁ、福岡の旅もおしまいです。すっかり満足しましたので、ホテルに戻り夕ご飯としましょう。少しばかりのお土産も買いたいですね。
おまけの話
博多市博物館を楽しんで、今回の観光巡りを終了した私たちは、阪急デパートの地下で簡単なお土産を購入します。職場の方や弓仲間へのお土産、そして我が家へのお土産です。
そして最後の夜を〆るのはやはり地元のお寿司やさん。私はレストランやお寿司やさんで食事をする時に心からの開放感を味わう事ができます。まして今回のように充実した旅行が出来たのですから、お寿司やさんのカウンターで地元のものをいただきながら楽しむのは私にとって大切な時間の過ごし方なのです。
友人にお勧めのおすしやさんを教えていただいていましたが、ちょっと遠いのでホテルに近い所で良いお寿司屋さんを見つけました。さぁ、夜はこれからです。
ありがとう博多。ありがとう。
遅い夏休みを取り、九州に観光旅行をしてきました。その記録です。
福岡の旅もいよいよ最終日。三日目は太宰府天満宮に伺います。学問の神様で知られる菅原道真をお祀りしていますが、詳しくは知らず、京都でも飛梅伝説の梅の木をいくつか見ていますが、やはり太宰府で見なければとすっかり観光客です。
博多から太宰府天満宮への行き方は色々あります。乗り換えの要らないのはバスで行く方法。40分ぐらいで着くそうです。私はバスが少し苦手なので、地下鉄で天神に出て西鉄大牟田線に乗り換えて二日市駅、西鉄太宰府線で太宰府に行く事にします。乗り換えに少し歩きますが、渋滞がないので時間通りに行くことが出来ます。
さて、菅原道真が学問の神様というのは多くの人が知っているでしょうが、ではいつの時代の何をした人と答える事ができるでしょうか。高校の日本史の教科書を読み直してみてもこれだと言えるものがわかりません。ここに学校での日本史教育の弱点があるようです。そこでちょっとお勉強です。
菅原道真はこんな人・・・大学祝典序曲を口ずさんでくださいね。
菅原道真は845年8月1日に儒家の中流貴族の家に生まれ903年3月26日に左遷先の大宰府で亡くなる。幼少から詩歌の才能があり870年官吏登用試験に合格すると順調に官位を得て出世する。886年讃岐守に任命されますが道真はこれを左遷と思い悲嘆したというから、エリート意識の高い感情家だったのかもしれない。
888年4月、阿衡事件が起こる。藤原基経と宇多天皇との間に起こった政治紛争だが、道真は事の発端であった橘広相を罰しないよう意見書を書いている。これがきっかけだったかどうかはわからないが橘広相が亡くなると宇多天皇は道真を自らの側近として抜擢し蔵人頭にする。その後も様々な官位を得て宇多天皇の側近としての立場を確かにしてゆく。
894年遣唐大使に任ぜられるが、当時唐は黄巣の乱(875年)にみられるように西アジアとの交易など対外政策の対応から国内情勢が不安定になり道真は遣唐使を再検討するよう申し立てている。907年唐が滅亡することにより遣唐使は廃止される。
897年6月、藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、二人が太政官の長となる体制となる。同年7月、宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位するがこの二人を重用するように伝えている。
901年1月、道真は娘婿である斉世(ときよし)親王を皇位に就けようと謀ったとして大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを止めようとしたが叶わなかった。この事件は藤原時平が画策したとされているが、必ずしも時平が主導したのではなく道真に反感を持つ貴族が時平を担いだのかも知れない。仕事でもプライベートでも親交のあった時平と道真。歴史のひだは文楽の菅原伝授手習鑑を楽しみたい。
道真は大宰府浄妙院で謹慎するが、一切の俸給も従者もなく政治に関わることは許されなかった。2年後の903年2月25日亡くなると遺体は牛車に乗せられ運ばれる。その牛が止まって動かなくなった所が遺言で墓地とされ、安楽寺が建てられ現在の延寿王院となる。菅原道真の子孫である西高辻家が太宰府天満宮の社家として宮司職を世襲している。
いかがですか。大宰府を訪れるまであまり知らなかった菅原道真。改めて整理してみると結構人物像が見えてきて理解が深まります。宇多天皇が時平と道真を重用したのも宇多天皇が政治より仏教に深く傾倒したためかもしれません。また道真自身も才能豊かだったでしょうが、それが返って周りの貴族の反感をかってしまったのかもしれません。
さて、観光に話を戻しましょう。参道を通り護神牛の像などを見ながら本殿へ向かいます。残念なことに今回は修復中で大きなシートに隠れていますが、これもお愛嬌。お目当ての飛梅の木は囲いの中に拝見することができました。
鷽(うそ)のおみくじやお札を見ながら友人の息子さんの学業が進みますように心の中で願います。
そして九州国立博物館へ。素晴らしい展示物を堪能します。
太宰府天満宮の観光で欠かせないのが大宰府政庁跡、遺跡の見学です。観光案内所の方からコミュニティーバスが便利と伺っていたので観世音寺前まで行きます。観世音寺は源氏物語の玉鬘巻に登場するお寺であり遣唐使として渡っていた空海が806年に戻り滞在していたお寺。隣には戒壇院という僧侶になるための試験を行った場所もあります。そして西に歩いて行くと大宰府政庁跡という礎石が並んだ広い土地があり草取りや整地作業をしている人たちが見え、私たちはその隣の大宰府展示館という建物に入りました。ここにはパネル展示、政庁跡のジオラマ、大宰府天満宮やそれを囲む山や水城といった大宰府全体の地形をジオラマにしたものなどを見る事ができます。私たちが伺った時にはちょうど研究者のグループが訪れていて説明をされていました。少し離れて拝見しているとガイドさんが「どちらから来ましたか」と声をかけてくださり、菅原道真の話をしてくださいます。また、この展示館が大宰府政庁を取り囲む大きな堀が発見されたためその保存のために建てられたということも教えてくださいました。
今回の福岡の旅行は行くところそれぞれでガイドさんに声をかけていただき、色々な事を教えていただきました。疑問晴れたこともあれば全く新し発見もあります。本当にガイドさんに良くしていただいた旅行でした。
私たちは政庁跡の礎石を見ながら西鉄の駅まで少し歩きます。西鉄都府桜前という駅です。ここから天神に戻ります。天神でお腹が空いていたのでうどんを頂きましたが、透明なお出汁で柔らかい麺。讃岐うどんのようにエッジのきいたしっかりしたうどんではありません。お出汁は私好みですごく美味しいです。私は蕎麦は江戸前のキリッとした汁、うどんは関西風の透明の優しい味が好きなのです。
お昼もいただいたので次の目的地福岡市立博物館に行きます。ここの目的はただ一つ、金印を見る事です。江戸時代に発見され中国の『後漢書』をもとに光武皇帝が倭奴国王に贈ったものとされています。色々な研究がなされ解釈もありますが、今回はそれはひとまず置いて、私はやはり実物を見る事の大切をしみじみと感じました。函館生まれの私は日本史で習うほとんどが教科書の中の世界です。試験のための勉強なら人の名前や年代を暗記したり事件の名称や概略を覚えればいいでしょう。でも歴史の醍醐味というのはそうではありません。例えば司馬遼太郎の歴史小説を読めば歴史上の人物が生き生きと動き回ります。興味を持った歴史上の人物がこの道を歩いていたんだと思うだけでワクワクしませんか。
私にとって旅行をするということはその地に生きる人、生きた人の姿を知ることです。それには本物が一番なのです。
さて、福岡市博館にはもう一つ嬉しい事がありました。はかた伝統工芸館という小さなスペースですが、博多織と博多人形を見る事のできる場所があるのです。私は着物を着る機会があるので博多帯には馴染みがあります。博多人形も一時期はどこのご家庭にも飾られていたものですから本場で見てみたいという思いがありました。それが出来たのです。
ここでもスタッフの方にいくつか質問をさせていただき、博多人形が作家さんが一人で作っていることを知りました。聞いてみないとわからないことです。
さぁ、福岡の旅もおしまいです。すっかり満足しましたので、ホテルに戻り夕ご飯としましょう。少しばかりのお土産も買いたいですね。
おまけの話
博多市博物館を楽しんで、今回の観光巡りを終了した私たちは、阪急デパートの地下で簡単なお土産を購入します。職場の方や弓仲間へのお土産、そして我が家へのお土産です。
そして最後の夜を〆るのはやはり地元のお寿司やさん。私はレストランやお寿司やさんで食事をする時に心からの開放感を味わう事ができます。まして今回のように充実した旅行が出来たのですから、お寿司やさんのカウンターで地元のものをいただきながら楽しむのは私にとって大切な時間の過ごし方なのです。
友人にお勧めのおすしやさんを教えていただいていましたが、ちょっと遠いのでホテルに近い所で良いお寿司屋さんを見つけました。さぁ、夜はこれからです。
ありがとう博多。ありがとう。
2024年 福岡の旅 2日目
お元気ですか?
遅い夏休みを取り、九州に観光旅行をしてきました。その記録です。
福岡の二日目は今回とても楽しみにしていた宗像神社へのお参りです。今までテレビで見ていた大島や人が入ることの出来ない神聖な沖ノ島、なんとなく記憶していたところですが、浅葉なつさんの『神様の御用人』を読んでからぐっと身近に感じられて是非訪問してみたいと思っていたのです。
朝、ホテルの目の前にあるレンタカー屋さんに行き予約していた車を受け取ります。今回はETCカードとサングラスも忘れずに持って来ました。目指す宗像大社、辺津宮(市杵島姫神いちきしまひめのかみ)は車で約50分。高速道路にも乗りカーナビが案内してくれますが初めての訪問ですので丁寧な運転に心がけましょう。
ここで少し情報整理。
車の中から大島に渡るフェリー乗り場に電話をかけ時間を確認すると、11:15分の船があるとのことです。旅客船ですから車を置いて乗ることになります。
大島に渡るには神湊からフェリーに乗りますが、フェリー・旅客船は7便。大人は片道570円です。車を乗せるには3800円かかり往復で7600円必要になります。大島の中の移動はレンタサイクル1000円かレンタカー3500円、徒歩での観光は島に宿泊する健脚の方以外は無理でしょう。私たちは事前に九州出身の友人からレンタカーがいいと教えられていましたので、迷わずレンタカーを選択していました。
予定通り宗像大社辺津宮に到着しすぐ神社に向かいます。辺津宮(市杵島姫神いちきしまひめのかみ)は古事記によると天照大神(あまてらすおおかみ)が十拳の剣(とつかのつるぎ)を三つに折って口に入れ吐き出した時に出て来た三人の神様宗像三姉妹の二番目、中姉ちゃんです。神社に参拝し今回来られた事の御礼を心の中で申し上げます。入口にガイドさんがテントにいらっしゃったので、「これから大島に渡るのです」と声をかけると海の道むなかた館に寄ることをお勧めしてくださいます。神湊まで8分程で着きますので、30分程むなかた館を見学します。
ちょうど修学旅行なのか小学生が沢山映像の前にしゃがんでガイドさんの説明を聞いています。それを眺めていたら別のガイドさんから声をかけられました。壁に沿って並べられた世界遺産としての説明を伺います。興味深かったのは女性が海人(海女)として海に潜り漁をする文化は世界的に珍しく日本と韓国にしかなく北九州から日本海岸をつたって本州の東北まで伝わったという話。昨年城崎温泉に行った際、温泉の神社に宗像姉妹が祀られていたので、観光案内所の人に伺ったのですが、明確な答えをいただくことが出来ませんでした。それが今回ガイドさんの説明で分ったのです。旅をして人の話を伺う醍醐味はこうゆうところにあると改めて感動します。
フェリー乗り場で切符を買おうとしていると売り場の方が声をかけてくださいました。レンタカーを頼む予定だと言うと11:15分のフェリーに乗ると言えば用意して待っていてくれるというのです。教えていただいた通りフェリーに乗る前に電話をしました。大島への海は岩礁の多い難所なのだそうです。そんな玄界灘は魚の漁れる漁場でもあります。初めての玄界灘を眺めながら15分の渡船を楽しみます。
大島の港に着くと黄色いのぼりを立てた所で若い警察官とおばさんが話をしています。近づいて名前を名乗るとまさしくレンタカー屋さんです。軽自動車で3500円、ガソリン代込みで3時間。どうゆうふうに回るのが良いのか地図を見ながら教えていただきます。
まずは宗像大社沖津宮遥拝所を目指します。ここは49km北西にある沖ノ島を臨むために作られた拝所で、年に二回扉が開いて窓ごしに沖ノ島が見られるそうです。そしてこの日は素晴らしい晴天。レンタカー屋さんのおばさんが言っていたように私たちも沖ノ島を見ることが出来ました。
せっかく海の見えるところに来たのです。私は海岸に降りて靴を脱ぎ素足になって海に入ります。砂浜ではなく大ぶりの石がゴロゴロする海岸。私の玄界灘初体験です。
続くスポットは御嶽山展望台・御嶽神社です。ここが島で一番高く遠くまで見渡せるそうです。注意が必要なのは急な坂が続き落ち葉などもあるため滑りやすくなっています。そのため自転車で登るのは禁止されていました。レンタサイクルの人は自転車を置いて登らなければなりません。車も一台登るのがやっとの細い道です。すれ違いが出来るところもありますが、そこに退避するためにはバックしたりすることになりますので運転には注意が必要です。
幸い私たちの車は他の車と出会うこともなく頂上の展望台まで行き戻ってくることが出来ましたが、やはりレンタサイクルの方は歩いて登り途中で引き返していました。
もう一つ、展望台からは辺津宮の方が綺麗に見えます。そして沖ノ島を見ようとすると西の方に二つこぶ山になった島が見えます。この島は小呂島で人も住んでいる島です。観光客の方は沖ノ島と勘違いするそうで私たちも最初島が見えたと勘違いしそうになっていました。
展望台を降り、反対側の道に進むと風車展望所・砲台跡という次のスポットがあります。途中乗馬クラブの牧場がありきっとホーストレッキングをしているのでしょう。人馬に注意の看板があります。牧場の人が歩いているので会釈をしながら馬を眺めて進むと風車が見えてきます。バスの転回する広場に駐車して海の方に向かって歩いてゆくと第二次世界大戦の時に作られたトーチカと回転式砲台跡があります。そしてトーチカの遥か向こうに沖ノ島が見えます。赤い風車は何のために建てられたのかわかりませんが、若い女性の観光客が日傘を刺しながら写真を撮っています。モネかルノアールの絵画の中みたい。そんな気分を楽しんでいるのでしょうか。ここまでで約1時間かかりました。
次は島の西、神崎大島灯台です。ここには宗像三姉妹の長女田心姫神(たごりひめのかみ)が沖ノ島に馬に乗って飛び渡った時に出来た馬の足跡・馬蹄岩が有りますが、近くに行くには藪の中を分け入って進まなければなりません。私も途中まで行きましたが引き返しました。また三浦洞窟も通行止めになっています。素晴らしい眺望ですが、灯台のところで十分でしょう。
ここまで四か所のスポットを訪問し素晴らしい眺望を堪能しました。トーチカと砲台という戦争遺産も見ましたが、吉野ヶ里遺跡でも感じたように北九州は大陸との交流があった土地です。常に緊張と隣り合わせの歴史があったのでしょう。
さぁその土地を守って下さった宗像姉妹の三女、湍津姫神(たぎつひめのかみ)の中津宮にお参りしましょう。島の外周を回る道を下り港が見えてくると道路沿いに駐車場がありますので車を停めます。
境内にある天の真名井は延命招福のご利益があると言われていますし、末社は牽牛社と織女社が天の川を挟んで鎮まり、七夕伝説発祥の地とも言われています。紙の張子で出来た鯛のおみくじがありましたので備え付けの釣竿で釣ると大吉。おみくじのドキドキと安堵感でホッとしました。
ゆっくり中津宮を楽しみ、時計を見ると13:40分。車を返すまで1時間ほどあります。お昼も食べていないので何か口にしたいのですが、コンビニはありません。海鮮丼を食べさせるお店が道沿いにありましたが、そんなに確り食べたいわけでもありません。どうやらフェリーに乗る前に軽食を用意して乗るのが良いようです。
最後に大島交流館という施設に寄ることにしましょう。こちらでは映像展示やパネル展示で大島の歴史や生活の様子を伝えています。事務所に女性スタッフさんが居ましたので声をかけお話を伺いました。島の方のほとんどが漁業関係者であとは行政職員などです。中学生までの学生が40人程で学校の先生は船で通っていて嵐などで欠航になる場合には3日分くらいの寝泊まりの準備をしてくるそうです。医療機関は一つで医師一人、ドクターヘリのヘリポートがあります。夕方になると灯りは無くなるので夜外出することはなく、家族でBBQをしたりして楽しむのだそうです。
年に二度、春と秋に大祭があり、この時に遥拝所の窓が開らかれ巫女の舞が奉納されます。七夕の祭りの始まりは鎌倉時代まで遡り8月7日に行われます。
そして10月1日から三日間、みあれ祭りという沖津宮、中津宮の神様を船に乗せて辺津宮にお連れするお祭りが行われます。120隻の漁船が参加するお祭りは圧巻で女性は漁船には乗れませんが、最近では観光船を出して漁船と並走するそうで、観光客も間近に楽しめるそうです。お話を伺っていると是非お祭りを見にまた来たくなりました。
旅行をしていて楽しいのはガイドさんの説明を伺ったり新しい知識を得るのも勉強になりますが、暮らしている人のお話を伺うとその土地の空気が感じられて良いですね。私は旅先の温泉に入ったりすると地元のおじさんに話を聞かせて頂くようにしていますし、旅館や買い物をするお店などでも普通の生活の様子を伺うようにしています。そうゆう些細な会話からその土地の空気を感じるのが好きなのです。
さてちょっとお断りです。宗像大社の三姉妹は古事記と日本書紀では生まれてくる順番が違います。沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)は上のお姉さんで変わりがないですが、大島の中津宮、湍津姫神(たぎつひめのかみ)は古事記では三女、日本書紀では次女になっています。こうゆう違いはその書物が編纂された時の為政者の思惑や力関係が現れていたり、様々な事情があるのでどちらが正しいとかいう事はできません。そうゆう事に思いを寄せながら見るのも楽しいと思います。
大島交流館で楽しいお話を伺ったのですっかり乗船時間が近づいてきました。御礼を申し上げ、フェリー乗り場に帰りレンタカー屋さんに車を返します。フェリー乗り場の売店でパンを買い軽くお腹に入れ昼食はおしまいです。15分の船旅と玄界灘の海を惜しみながら神湊に戻ってきました。
さて、二日目のイベントはもう一つありました。最近観光スポットとして評判の糸島。神湊から約1時間のドライブです。ネットで福岡観光を調べると糸島が出てくるのと櫻井神社という古い神社があるというので行ってみたいと思ったのです。櫻井ニ見ヶ浦に櫻井神社の宇良宮(うらのみや)として2つの岩がお祀りされていて、向かって右が男性の神様で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)向かって左が女性の神様で伊邪那美命(いざなみのみこと)が鎮まっている御神体岩です。日本各地の海岸にある風景です。この二見ヶ浦は櫻井神社の岩戸宮と直線上にあるそうで、櫻井神社は縁結びの神様としてもご利益があります。
糸島の海岸線はこの二見ヶ浦を中心にサーフショップや飲食店が並び、関東で言えば湘南海岸のような雰囲気です。そしてこれは九州大学が伊都(糸島)に巨大な学園都市を造り出していることによるのです。学園都市は造り始めの頃は何もなく寂しく不便な所です。昔の筑波もそうでした。次第に店が出来、住宅・アパートが出来、そして遊ぶ所が出来て行きます。そんな九州大学の学園都市を眺めながらドライブをして櫻井神社と二見ヶ浦に来ましたので若い人をターゲットにした観光スポットが整備されているのが全く納得出来ます。ちょっと微笑ましいですね。
これで二日目の観光はお終い。宗像大社と大島への参拝。糸島の謎解きと二日目も充実した観光でした。お話を伺った人全てが親切でとても楽しい観光ができました。これも神様のお力でしょうか。御礼申し上げます。
レンタカーを返し、ホテルで一休みしますが、外食をするには少し疲れてしまいましたので、阪急デパートの地下でお惣菜やお弁当を買って部屋食です。私たちの旅では毎日外食するという事はなく、体調に応じて部屋食を取り入れています。それにより野菜もたっぷり取れますし地元の食材、今回は天ぷら(関東でいうところの練り物を揚げた)を頂きます。
さぁ、福岡観光もあと1日。私たちの楽しみはまだまだ続きます。
おまけの話
家に帰ってきてからパートナーさんが「不思議なんだけど」と言います。宗像大社の「みあれ祭出御祭り」は10月に行われます。つまり神無月、ならば三姉妹の神様は出雲に行かないで良かったのかしらというのです。尤もな疑問ですね。
たとへば今年2024年の出雲大社での神迎祭は11月10日。旧暦10月11日から17日まで7日間に神様が会議をされる神在祭が行われます。宗像大社のお祭では沖ノ島、中津島と神様をお迎えして辺津宮にお連れしますが、お帰りは神様任せだそうです。もしかしたらお祭りで三姉妹揃ったらそのまま出雲にお出かけになるのかも知れませんね。
遅い夏休みを取り、九州に観光旅行をしてきました。その記録です。
福岡の二日目は今回とても楽しみにしていた宗像神社へのお参りです。今までテレビで見ていた大島や人が入ることの出来ない神聖な沖ノ島、なんとなく記憶していたところですが、浅葉なつさんの『神様の御用人』を読んでからぐっと身近に感じられて是非訪問してみたいと思っていたのです。
朝、ホテルの目の前にあるレンタカー屋さんに行き予約していた車を受け取ります。今回はETCカードとサングラスも忘れずに持って来ました。目指す宗像大社、辺津宮(市杵島姫神いちきしまひめのかみ)は車で約50分。高速道路にも乗りカーナビが案内してくれますが初めての訪問ですので丁寧な運転に心がけましょう。
ここで少し情報整理。
車の中から大島に渡るフェリー乗り場に電話をかけ時間を確認すると、11:15分の船があるとのことです。旅客船ですから車を置いて乗ることになります。
大島に渡るには神湊からフェリーに乗りますが、フェリー・旅客船は7便。大人は片道570円です。車を乗せるには3800円かかり往復で7600円必要になります。大島の中の移動はレンタサイクル1000円かレンタカー3500円、徒歩での観光は島に宿泊する健脚の方以外は無理でしょう。私たちは事前に九州出身の友人からレンタカーがいいと教えられていましたので、迷わずレンタカーを選択していました。
予定通り宗像大社辺津宮に到着しすぐ神社に向かいます。辺津宮(市杵島姫神いちきしまひめのかみ)は古事記によると天照大神(あまてらすおおかみ)が十拳の剣(とつかのつるぎ)を三つに折って口に入れ吐き出した時に出て来た三人の神様宗像三姉妹の二番目、中姉ちゃんです。神社に参拝し今回来られた事の御礼を心の中で申し上げます。入口にガイドさんがテントにいらっしゃったので、「これから大島に渡るのです」と声をかけると海の道むなかた館に寄ることをお勧めしてくださいます。神湊まで8分程で着きますので、30分程むなかた館を見学します。
ちょうど修学旅行なのか小学生が沢山映像の前にしゃがんでガイドさんの説明を聞いています。それを眺めていたら別のガイドさんから声をかけられました。壁に沿って並べられた世界遺産としての説明を伺います。興味深かったのは女性が海人(海女)として海に潜り漁をする文化は世界的に珍しく日本と韓国にしかなく北九州から日本海岸をつたって本州の東北まで伝わったという話。昨年城崎温泉に行った際、温泉の神社に宗像姉妹が祀られていたので、観光案内所の人に伺ったのですが、明確な答えをいただくことが出来ませんでした。それが今回ガイドさんの説明で分ったのです。旅をして人の話を伺う醍醐味はこうゆうところにあると改めて感動します。
フェリー乗り場で切符を買おうとしていると売り場の方が声をかけてくださいました。レンタカーを頼む予定だと言うと11:15分のフェリーに乗ると言えば用意して待っていてくれるというのです。教えていただいた通りフェリーに乗る前に電話をしました。大島への海は岩礁の多い難所なのだそうです。そんな玄界灘は魚の漁れる漁場でもあります。初めての玄界灘を眺めながら15分の渡船を楽しみます。
大島の港に着くと黄色いのぼりを立てた所で若い警察官とおばさんが話をしています。近づいて名前を名乗るとまさしくレンタカー屋さんです。軽自動車で3500円、ガソリン代込みで3時間。どうゆうふうに回るのが良いのか地図を見ながら教えていただきます。
まずは宗像大社沖津宮遥拝所を目指します。ここは49km北西にある沖ノ島を臨むために作られた拝所で、年に二回扉が開いて窓ごしに沖ノ島が見られるそうです。そしてこの日は素晴らしい晴天。レンタカー屋さんのおばさんが言っていたように私たちも沖ノ島を見ることが出来ました。
せっかく海の見えるところに来たのです。私は海岸に降りて靴を脱ぎ素足になって海に入ります。砂浜ではなく大ぶりの石がゴロゴロする海岸。私の玄界灘初体験です。
続くスポットは御嶽山展望台・御嶽神社です。ここが島で一番高く遠くまで見渡せるそうです。注意が必要なのは急な坂が続き落ち葉などもあるため滑りやすくなっています。そのため自転車で登るのは禁止されていました。レンタサイクルの人は自転車を置いて登らなければなりません。車も一台登るのがやっとの細い道です。すれ違いが出来るところもありますが、そこに退避するためにはバックしたりすることになりますので運転には注意が必要です。
幸い私たちの車は他の車と出会うこともなく頂上の展望台まで行き戻ってくることが出来ましたが、やはりレンタサイクルの方は歩いて登り途中で引き返していました。
もう一つ、展望台からは辺津宮の方が綺麗に見えます。そして沖ノ島を見ようとすると西の方に二つこぶ山になった島が見えます。この島は小呂島で人も住んでいる島です。観光客の方は沖ノ島と勘違いするそうで私たちも最初島が見えたと勘違いしそうになっていました。
展望台を降り、反対側の道に進むと風車展望所・砲台跡という次のスポットがあります。途中乗馬クラブの牧場がありきっとホーストレッキングをしているのでしょう。人馬に注意の看板があります。牧場の人が歩いているので会釈をしながら馬を眺めて進むと風車が見えてきます。バスの転回する広場に駐車して海の方に向かって歩いてゆくと第二次世界大戦の時に作られたトーチカと回転式砲台跡があります。そしてトーチカの遥か向こうに沖ノ島が見えます。赤い風車は何のために建てられたのかわかりませんが、若い女性の観光客が日傘を刺しながら写真を撮っています。モネかルノアールの絵画の中みたい。そんな気分を楽しんでいるのでしょうか。ここまでで約1時間かかりました。
次は島の西、神崎大島灯台です。ここには宗像三姉妹の長女田心姫神(たごりひめのかみ)が沖ノ島に馬に乗って飛び渡った時に出来た馬の足跡・馬蹄岩が有りますが、近くに行くには藪の中を分け入って進まなければなりません。私も途中まで行きましたが引き返しました。また三浦洞窟も通行止めになっています。素晴らしい眺望ですが、灯台のところで十分でしょう。
ここまで四か所のスポットを訪問し素晴らしい眺望を堪能しました。トーチカと砲台という戦争遺産も見ましたが、吉野ヶ里遺跡でも感じたように北九州は大陸との交流があった土地です。常に緊張と隣り合わせの歴史があったのでしょう。
さぁその土地を守って下さった宗像姉妹の三女、湍津姫神(たぎつひめのかみ)の中津宮にお参りしましょう。島の外周を回る道を下り港が見えてくると道路沿いに駐車場がありますので車を停めます。
境内にある天の真名井は延命招福のご利益があると言われていますし、末社は牽牛社と織女社が天の川を挟んで鎮まり、七夕伝説発祥の地とも言われています。紙の張子で出来た鯛のおみくじがありましたので備え付けの釣竿で釣ると大吉。おみくじのドキドキと安堵感でホッとしました。
ゆっくり中津宮を楽しみ、時計を見ると13:40分。車を返すまで1時間ほどあります。お昼も食べていないので何か口にしたいのですが、コンビニはありません。海鮮丼を食べさせるお店が道沿いにありましたが、そんなに確り食べたいわけでもありません。どうやらフェリーに乗る前に軽食を用意して乗るのが良いようです。
最後に大島交流館という施設に寄ることにしましょう。こちらでは映像展示やパネル展示で大島の歴史や生活の様子を伝えています。事務所に女性スタッフさんが居ましたので声をかけお話を伺いました。島の方のほとんどが漁業関係者であとは行政職員などです。中学生までの学生が40人程で学校の先生は船で通っていて嵐などで欠航になる場合には3日分くらいの寝泊まりの準備をしてくるそうです。医療機関は一つで医師一人、ドクターヘリのヘリポートがあります。夕方になると灯りは無くなるので夜外出することはなく、家族でBBQをしたりして楽しむのだそうです。
年に二度、春と秋に大祭があり、この時に遥拝所の窓が開らかれ巫女の舞が奉納されます。七夕の祭りの始まりは鎌倉時代まで遡り8月7日に行われます。
そして10月1日から三日間、みあれ祭りという沖津宮、中津宮の神様を船に乗せて辺津宮にお連れするお祭りが行われます。120隻の漁船が参加するお祭りは圧巻で女性は漁船には乗れませんが、最近では観光船を出して漁船と並走するそうで、観光客も間近に楽しめるそうです。お話を伺っていると是非お祭りを見にまた来たくなりました。
旅行をしていて楽しいのはガイドさんの説明を伺ったり新しい知識を得るのも勉強になりますが、暮らしている人のお話を伺うとその土地の空気が感じられて良いですね。私は旅先の温泉に入ったりすると地元のおじさんに話を聞かせて頂くようにしていますし、旅館や買い物をするお店などでも普通の生活の様子を伺うようにしています。そうゆう些細な会話からその土地の空気を感じるのが好きなのです。
さてちょっとお断りです。宗像大社の三姉妹は古事記と日本書紀では生まれてくる順番が違います。沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)は上のお姉さんで変わりがないですが、大島の中津宮、湍津姫神(たぎつひめのかみ)は古事記では三女、日本書紀では次女になっています。こうゆう違いはその書物が編纂された時の為政者の思惑や力関係が現れていたり、様々な事情があるのでどちらが正しいとかいう事はできません。そうゆう事に思いを寄せながら見るのも楽しいと思います。
大島交流館で楽しいお話を伺ったのですっかり乗船時間が近づいてきました。御礼を申し上げ、フェリー乗り場に帰りレンタカー屋さんに車を返します。フェリー乗り場の売店でパンを買い軽くお腹に入れ昼食はおしまいです。15分の船旅と玄界灘の海を惜しみながら神湊に戻ってきました。
さて、二日目のイベントはもう一つありました。最近観光スポットとして評判の糸島。神湊から約1時間のドライブです。ネットで福岡観光を調べると糸島が出てくるのと櫻井神社という古い神社があるというので行ってみたいと思ったのです。櫻井ニ見ヶ浦に櫻井神社の宇良宮(うらのみや)として2つの岩がお祀りされていて、向かって右が男性の神様で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)向かって左が女性の神様で伊邪那美命(いざなみのみこと)が鎮まっている御神体岩です。日本各地の海岸にある風景です。この二見ヶ浦は櫻井神社の岩戸宮と直線上にあるそうで、櫻井神社は縁結びの神様としてもご利益があります。
糸島の海岸線はこの二見ヶ浦を中心にサーフショップや飲食店が並び、関東で言えば湘南海岸のような雰囲気です。そしてこれは九州大学が伊都(糸島)に巨大な学園都市を造り出していることによるのです。学園都市は造り始めの頃は何もなく寂しく不便な所です。昔の筑波もそうでした。次第に店が出来、住宅・アパートが出来、そして遊ぶ所が出来て行きます。そんな九州大学の学園都市を眺めながらドライブをして櫻井神社と二見ヶ浦に来ましたので若い人をターゲットにした観光スポットが整備されているのが全く納得出来ます。ちょっと微笑ましいですね。
これで二日目の観光はお終い。宗像大社と大島への参拝。糸島の謎解きと二日目も充実した観光でした。お話を伺った人全てが親切でとても楽しい観光ができました。これも神様のお力でしょうか。御礼申し上げます。
レンタカーを返し、ホテルで一休みしますが、外食をするには少し疲れてしまいましたので、阪急デパートの地下でお惣菜やお弁当を買って部屋食です。私たちの旅では毎日外食するという事はなく、体調に応じて部屋食を取り入れています。それにより野菜もたっぷり取れますし地元の食材、今回は天ぷら(関東でいうところの練り物を揚げた)を頂きます。
さぁ、福岡観光もあと1日。私たちの楽しみはまだまだ続きます。
おまけの話
家に帰ってきてからパートナーさんが「不思議なんだけど」と言います。宗像大社の「みあれ祭出御祭り」は10月に行われます。つまり神無月、ならば三姉妹の神様は出雲に行かないで良かったのかしらというのです。尤もな疑問ですね。
たとへば今年2024年の出雲大社での神迎祭は11月10日。旧暦10月11日から17日まで7日間に神様が会議をされる神在祭が行われます。宗像大社のお祭では沖ノ島、中津島と神様をお迎えして辺津宮にお連れしますが、お帰りは神様任せだそうです。もしかしたらお祭りで三姉妹揃ったらそのまま出雲にお出かけになるのかも知れませんね。
2024年 福岡の旅 1日目
お元気ですか?
遅い夏休みを取り、九州に観光旅行をしてきました。その記録です。
6月、パートナーさんが9月に夏休みを取れるので九州へ旅行がしたいと言いいます。それなら静岡空港から直行便が出ているのでと早速FDA(富士ドリームエアーライン)を予約。行先は福岡。
私は小倉や福岡に行ったことがありましたが、観光はしたことがありません。パートナーさんは初めての九州です。
家から静岡空港まで40分。我が家にはとても便利な静岡空港です。車を駐車場に預け小さなジェット機に乗ります。座席はゆったりとして座り心地は良くイヤホンやモニターなど無くシンプル。短い飛行ですから充分です。
富士山や瀬戸内海を見ながらあっと言う間に福岡に到着。福岡空港は地下鉄二駅で博多駅という便利な空港。博多駅のすぐ近くのホテルに直行してトランクを預け1日目の観光がスタートです。
1日目の観光は吉野ヶ里遺跡。
10:19分博多発の特急かささぎに乗ります。乗車券を買ってホームを探して階段を登ると特急券の券売機があります。こうゆうスタイルは初めてですので券売機の前でどうやるんだろうと見ていたら、後から男の人にいいですかと声をかけられちゃいました。男の人は慣れた感じで切符を買って列車に乗り込みます。それに倣って私たちも。電車の中では昔ながらに切符を拝見と検札の方が来ます。この時に特急券を買うと200円高くなるそうです。
博多駅から吉野ヶ里公園駅まで乗車券860円、特急券750円計1610円でした。着いたのは11:10分。
駅から700m程歩いて吉野ヶ里歴史公園の正面から入ります。入場券売り場のところにガイドさんが立っていたので、声をかけどうゆうふうに見て回ればいいか教えてもらいます。入園すると大きな川を渡りますが、すぐ先を尖らせた杭が並べられているのが目に入ります。戦国時代ではあるまいしとこの杭に違和感を持ちながら進んでいくと竪穴式建物がいくつも展示されています。ここでも王の建物や妃、娘の建物と表示されていて少し違和感を感じます。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代前期から後期までの1300年間程の長い期間同じ場所で営まれてきた珍しいと遺跡群です。紀元前の初期の頃には明確な階級社会では無いので王の家という表記は私には少し疑問に感じます。
少し見ていたらガイドさんが声をかけてくださって涼んでいきなさいと言います。集会所の遺跡で屋根と柱だけの建物に腰を下ろすと、ガイドさんが色々とお話を始めてくださいました。そのお話によると展示復元されている遺跡は5世紀くらいのもので吉野ヶ里遺跡の長い期間を考えるとごく一部であり決して全体像では無いこと、防護柵の内側は高台になっていて為政者が、外側は農耕をする人々の集落があることなどをお話しいただきます。
また吉野ヶ里は有明海が近く湾になっているため穏やかな海であり漁もしやすく、玄界灘の海とは違う話もされ、それと直接関係があるかどうかはわかりませんが、副葬品も質素なのに対し福岡の方で出てくる副葬品は沢山埋葬されているのだそうです。こうゆう話は教えて頂かないと分からない話です。
御礼を言い先に進むと今度は高床式の集落の展示があります。ガイドさんの説明の通り正方形に柱が立った建物で本来なら仏教が伝わって来てからの建築様式なのだそうですが、出土したので建てている。時代考証に謎が深まる遺跡群です。
最後は甕棺が出土した跡を展示館に入って見ます。
帰りは周回バスに乗って入り口へ。バスでは左側の席に座り見学してきた遺跡群を下から見上げるようにすると高い防護柵の向こうに為政者の建物が見えます。一般の人の気分。
約3時間の吉野ヶ里遺跡観光でした。
暑い日差しに体も少し疲れたので、駅に隣接されたコミュニティーセンターで涼ませていただき、電車が来るの待ちます。
帰りは吉野ヶ里公園駅(14:56)鳥栖(15:14)、鳥栖(15:16)博多(16:00) と各駅停車に乗って帰りました。九州はデザインを凝らした電車が多く、電車での移動も楽しめます。
ホテルに戻り、体を休めて夕ご飯。初日ですから駅に近い居酒屋さんで済まし、繁華街の夜の風景を覗きながら歩いていたらパートナーさんが博多ラーメンなら大丈夫というので、一蘭さんというラーメン屋さんに。パートナーさんがラーメンを食べてもいいというのは全く珍しい事なのです。私も同様で我が家の食にラーメンという選択枝は稀有なのです。
博多ラーメンは初めてなので感想は「こうゆうものなんだね」としか言えません。
午前中に福岡に着いたおかげで、吉野ヶ里遺跡をたっぷり楽しんだ1日目。静岡空港からのFDAの便利さを実感した初日でした。
この旅、明日も続きます。
おまけの話
家に帰ってから私が高校生の時に使っていた日本史の教科書を開いてみましたが、吉野ヶ里遺跡は書かれていません。
1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された遺跡だからです。
遅い夏休みを取り、九州に観光旅行をしてきました。その記録です。
6月、パートナーさんが9月に夏休みを取れるので九州へ旅行がしたいと言いいます。それなら静岡空港から直行便が出ているのでと早速FDA(富士ドリームエアーライン)を予約。行先は福岡。
私は小倉や福岡に行ったことがありましたが、観光はしたことがありません。パートナーさんは初めての九州です。
家から静岡空港まで40分。我が家にはとても便利な静岡空港です。車を駐車場に預け小さなジェット機に乗ります。座席はゆったりとして座り心地は良くイヤホンやモニターなど無くシンプル。短い飛行ですから充分です。
富士山や瀬戸内海を見ながらあっと言う間に福岡に到着。福岡空港は地下鉄二駅で博多駅という便利な空港。博多駅のすぐ近くのホテルに直行してトランクを預け1日目の観光がスタートです。
1日目の観光は吉野ヶ里遺跡。
10:19分博多発の特急かささぎに乗ります。乗車券を買ってホームを探して階段を登ると特急券の券売機があります。こうゆうスタイルは初めてですので券売機の前でどうやるんだろうと見ていたら、後から男の人にいいですかと声をかけられちゃいました。男の人は慣れた感じで切符を買って列車に乗り込みます。それに倣って私たちも。電車の中では昔ながらに切符を拝見と検札の方が来ます。この時に特急券を買うと200円高くなるそうです。
博多駅から吉野ヶ里公園駅まで乗車券860円、特急券750円計1610円でした。着いたのは11:10分。
駅から700m程歩いて吉野ヶ里歴史公園の正面から入ります。入場券売り場のところにガイドさんが立っていたので、声をかけどうゆうふうに見て回ればいいか教えてもらいます。入園すると大きな川を渡りますが、すぐ先を尖らせた杭が並べられているのが目に入ります。戦国時代ではあるまいしとこの杭に違和感を持ちながら進んでいくと竪穴式建物がいくつも展示されています。ここでも王の建物や妃、娘の建物と表示されていて少し違和感を感じます。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代前期から後期までの1300年間程の長い期間同じ場所で営まれてきた珍しいと遺跡群です。紀元前の初期の頃には明確な階級社会では無いので王の家という表記は私には少し疑問に感じます。
少し見ていたらガイドさんが声をかけてくださって涼んでいきなさいと言います。集会所の遺跡で屋根と柱だけの建物に腰を下ろすと、ガイドさんが色々とお話を始めてくださいました。そのお話によると展示復元されている遺跡は5世紀くらいのもので吉野ヶ里遺跡の長い期間を考えるとごく一部であり決して全体像では無いこと、防護柵の内側は高台になっていて為政者が、外側は農耕をする人々の集落があることなどをお話しいただきます。
また吉野ヶ里は有明海が近く湾になっているため穏やかな海であり漁もしやすく、玄界灘の海とは違う話もされ、それと直接関係があるかどうかはわかりませんが、副葬品も質素なのに対し福岡の方で出てくる副葬品は沢山埋葬されているのだそうです。こうゆう話は教えて頂かないと分からない話です。
御礼を言い先に進むと今度は高床式の集落の展示があります。ガイドさんの説明の通り正方形に柱が立った建物で本来なら仏教が伝わって来てからの建築様式なのだそうですが、出土したので建てている。時代考証に謎が深まる遺跡群です。
最後は甕棺が出土した跡を展示館に入って見ます。
帰りは周回バスに乗って入り口へ。バスでは左側の席に座り見学してきた遺跡群を下から見上げるようにすると高い防護柵の向こうに為政者の建物が見えます。一般の人の気分。
約3時間の吉野ヶ里遺跡観光でした。
暑い日差しに体も少し疲れたので、駅に隣接されたコミュニティーセンターで涼ませていただき、電車が来るの待ちます。
帰りは吉野ヶ里公園駅(14:56)鳥栖(15:14)、鳥栖(15:16)博多(16:00) と各駅停車に乗って帰りました。九州はデザインを凝らした電車が多く、電車での移動も楽しめます。
ホテルに戻り、体を休めて夕ご飯。初日ですから駅に近い居酒屋さんで済まし、繁華街の夜の風景を覗きながら歩いていたらパートナーさんが博多ラーメンなら大丈夫というので、一蘭さんというラーメン屋さんに。パートナーさんがラーメンを食べてもいいというのは全く珍しい事なのです。私も同様で我が家の食にラーメンという選択枝は稀有なのです。
博多ラーメンは初めてなので感想は「こうゆうものなんだね」としか言えません。
午前中に福岡に着いたおかげで、吉野ヶ里遺跡をたっぷり楽しんだ1日目。静岡空港からのFDAの便利さを実感した初日でした。
この旅、明日も続きます。
おまけの話
家に帰ってから私が高校生の時に使っていた日本史の教科書を開いてみましたが、吉野ヶ里遺跡は書かれていません。
1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された遺跡だからです。
ビリギャルとリッツ・カールトン
お元気ですか?
台風と長雨で被害を受けられた方にお見舞い申し上げます。
私は雨で道場に行けないため家に籠り本を読んで過ごしました。それも普段は読まないような本です。
タイトルは『キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語』小林さやか著マガジンハウス。
数年前に「ビリギャル」という言葉が流行りました。高校で偏差値を40以上あげて慶應大学に現役合格をした女子校生の物語。その主人公の女性小林さやかさんが書いたお話です。
「ビリギャル」の最初は『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話 』という塾の先生坪田信貴氏が書いた本です。
図書館で探してすぐ届いたのが小林さんの本でした。小学生の頃ちょっと引っ込み思案な女の子は自分を変えたいと思い、それには今の自分を知らない中学に入れば良いんだと考えます。小学校と同じ地域の子どもたちが集まる公立中学ではなく、私立の学校に入りたい。そう思って選んだ女子校は中学から大学まで進める学校でした。御母さんも応援し難しい私立中学に合格するためでしょうが、「中学に受かればもう勉強しなくて良いんだ」なんてちょっと怪しげな激励をしたりします。
熱意の甲斐あって私立中学に入学したさやかちゃんはクラブ活動やお友達と遊び明るい女の子に変身してゆきますが、同時に全く勉強もしなくなります。当然です。入学するのが目的で勉強し、それを果たしたのですからもう勉強は必要ないのです。それでも中学生活を楽しみ、エスカレーターで高校に進学します。学年最下位のクラスです。
高校2年の夏休み、転期が訪れます。お母さんが貰ってきた塾の案内を持ってさやかちゃんは坪田先生の勤める塾に行きます。全く勉強に興味がなかったにも関わらず、色んな話を聴いてくれる先生を面白い大人だと思ったからでした。
学校の先生はカリキュラムをこなし、エスカレーターで進学する生徒の時間が過ぎて行くことだけを考え生徒には向き合っていません。家庭ではお父さんは経営する会社と自分の夢だった野球のスパルタ指導を弟にして女の子姉妹には関心を払いません。そんな学校と家ですから友達と遊ぶのが楽しいのは当たり前です。
そんなさやかちゃんが出会った坪田先生は確かに面白い人だったしょう。塾の先生は生徒一人一人の学力や志望を聞いて希望する大学に合格させるのが仕事です。生徒と真剣に向き合わなくては仕事になりません。そう考えると友だちとお母さん以外に向き合ってくれる初めての大人だったのです。
こうしてさやかちゃんの受験勉強が始まります。
私はビリギャルことさやかちゃんと坪田先生の関係にたいへん興味を持ちます。心理学的手法を用いた指導や持ち前の明るさと素直さで必死にくらいつく生徒。それは単に塾の先生と生徒という関係ではなく人として向き合いながら一つの目標のために戦う戦友の物語なのです。
さて、無事慶應大学に入学することが出来たビリギャルことさやかちゃんは就職活動の相談を坪田先生にします。そして先生が薦めてくれた本『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』高野登著(かんき出版)を読んで感動したさやかちゃんはリッツ・カールトンに就職したいと思いホテルのフロントに行って事情を話ますが、リッツ・カールトンでは新卒の採用はしていないことを告げられます。
私が感動したのはその後です。ブライダル業界に進んださやかちゃんは知人の紹介で高野登さんに会うのです。そして高野さんは以前からさやかさんに会いたかったと「ビリギャル」の本を出して言うのでした。
これこそ私がいつも考えている出会いは準備されているという事の素晴らしい例だと言えるでしょう。
勉強をすることを知らないで高校でも最下位の生徒が集まるクラスにいた少女が塾の先生との出会いで慶應大学に進み、先生が書いた本のおかげでマスコミにも取り上げられたり講演をするような生活をしだす。そして就活で感動した本の著者高野氏に出会う。まるで出会いが準備されていたかのように世界が存在します。
しかしそれぞれの登場人物が自分のやるべきことをその都度必死になっていなければこの出会いの世界はまとまらない事を私は経験上知っています。大切なのはチャンネルが嵌った時にそれを感じ生かす事が出来るかどうかです。
今私は高野登さんの『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』読んでいますが、読みながら泣いてしまいます。素晴らしいホテルマン、経営理念とその実行について書かれた本ですが、読みながら全ての働く人に読んで欲しい本だと思うと同時に、私は家族や趣味の弓道で集まる仲間に対してこのような接し方が出来ているかと深く反省するのです。
実は「ビリギャル」を読もうと思ったのには理由がありました。学生時代私はあまり学校の勉強を一生懸命にしませんでした。受験のために良い成績をあげなくてはと思ったこともなかったため、自分の興味を持った勉強はやっていましたが、必ずしも学校の教科ではありませんでしたから学校は卒業できれば良いくらいに考えていたのです。
今、私はある本の翻訳をしているのですが、翻訳をしながら、私の英語力はどのくらいなんだろうと少し不安に思うことがあります。中学英語のレベル、高校英語のレベルと言う言葉がありますが、学校の勉強をして来なかった私にはその内容がわからないのです。
そんな理由で、「ビリギャル」を読んで参考にしてみようと考えたのでした。そして坪田先生の薦める英語の参考書を買ってみたりして楽しみながら読んでみたりしています。もちろん中学、高校英語という受験を目的にした参考書ですから自分の中で知識の整理という形で読んでいるのです。
そして、予期せず教えていただいた高野登さんの本。この本を読みながら仕事へのモチベーションがものすごく高まってくるのを感じています。
今やっている仕事を是非成功させて、リッツ・カールトンに泊まりたい。そう思っているのです。
私は一つの目標を持っています。それに向かって仕事をしているわけですが、なかなかモチベーションを維持するのが難しく成果が出ないまま苦戦しているのが実情です。でも、リッツ・カールトンに泊まるのをご褒美として用意してみたらなんだか楽しくなってきました。
台風で練習が出来ない間に読んだ「ビリギャル」とリッツ・カールトン。この夏の素晴らしい出会いを得たと私は考えています。ならばその出会いを活きたものにするかどうかは私の責任です。
さやかちゃんは言います。頭の良い人が行くと思った慶應大学に自分は必死になって勉強して入学した。だけど入学してみたら、周りの学生たちは、やはり必死に勉強して入ってきた人たちだった。と。
出会いは誰にでも同じようにあるものではありません。でも出会ったらそれに向き合い一生懸命になれる人。そうゆう人に運命は開かれているのだと思います。
さあ、私もさやかちゃんと一緒になって必死になって夢を追いかけて頑張ってみたいと思います。
ではまた。
台風と長雨で被害を受けられた方にお見舞い申し上げます。
私は雨で道場に行けないため家に籠り本を読んで過ごしました。それも普段は読まないような本です。
タイトルは『キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語』小林さやか著マガジンハウス。
数年前に「ビリギャル」という言葉が流行りました。高校で偏差値を40以上あげて慶應大学に現役合格をした女子校生の物語。その主人公の女性小林さやかさんが書いたお話です。
「ビリギャル」の最初は『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話 』という塾の先生坪田信貴氏が書いた本です。
図書館で探してすぐ届いたのが小林さんの本でした。小学生の頃ちょっと引っ込み思案な女の子は自分を変えたいと思い、それには今の自分を知らない中学に入れば良いんだと考えます。小学校と同じ地域の子どもたちが集まる公立中学ではなく、私立の学校に入りたい。そう思って選んだ女子校は中学から大学まで進める学校でした。御母さんも応援し難しい私立中学に合格するためでしょうが、「中学に受かればもう勉強しなくて良いんだ」なんてちょっと怪しげな激励をしたりします。
熱意の甲斐あって私立中学に入学したさやかちゃんはクラブ活動やお友達と遊び明るい女の子に変身してゆきますが、同時に全く勉強もしなくなります。当然です。入学するのが目的で勉強し、それを果たしたのですからもう勉強は必要ないのです。それでも中学生活を楽しみ、エスカレーターで高校に進学します。学年最下位のクラスです。
高校2年の夏休み、転期が訪れます。お母さんが貰ってきた塾の案内を持ってさやかちゃんは坪田先生の勤める塾に行きます。全く勉強に興味がなかったにも関わらず、色んな話を聴いてくれる先生を面白い大人だと思ったからでした。
学校の先生はカリキュラムをこなし、エスカレーターで進学する生徒の時間が過ぎて行くことだけを考え生徒には向き合っていません。家庭ではお父さんは経営する会社と自分の夢だった野球のスパルタ指導を弟にして女の子姉妹には関心を払いません。そんな学校と家ですから友達と遊ぶのが楽しいのは当たり前です。
そんなさやかちゃんが出会った坪田先生は確かに面白い人だったしょう。塾の先生は生徒一人一人の学力や志望を聞いて希望する大学に合格させるのが仕事です。生徒と真剣に向き合わなくては仕事になりません。そう考えると友だちとお母さん以外に向き合ってくれる初めての大人だったのです。
こうしてさやかちゃんの受験勉強が始まります。
私はビリギャルことさやかちゃんと坪田先生の関係にたいへん興味を持ちます。心理学的手法を用いた指導や持ち前の明るさと素直さで必死にくらいつく生徒。それは単に塾の先生と生徒という関係ではなく人として向き合いながら一つの目標のために戦う戦友の物語なのです。
さて、無事慶應大学に入学することが出来たビリギャルことさやかちゃんは就職活動の相談を坪田先生にします。そして先生が薦めてくれた本『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』高野登著(かんき出版)を読んで感動したさやかちゃんはリッツ・カールトンに就職したいと思いホテルのフロントに行って事情を話ますが、リッツ・カールトンでは新卒の採用はしていないことを告げられます。
私が感動したのはその後です。ブライダル業界に進んださやかちゃんは知人の紹介で高野登さんに会うのです。そして高野さんは以前からさやかさんに会いたかったと「ビリギャル」の本を出して言うのでした。
これこそ私がいつも考えている出会いは準備されているという事の素晴らしい例だと言えるでしょう。
勉強をすることを知らないで高校でも最下位の生徒が集まるクラスにいた少女が塾の先生との出会いで慶應大学に進み、先生が書いた本のおかげでマスコミにも取り上げられたり講演をするような生活をしだす。そして就活で感動した本の著者高野氏に出会う。まるで出会いが準備されていたかのように世界が存在します。
しかしそれぞれの登場人物が自分のやるべきことをその都度必死になっていなければこの出会いの世界はまとまらない事を私は経験上知っています。大切なのはチャンネルが嵌った時にそれを感じ生かす事が出来るかどうかです。
今私は高野登さんの『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』読んでいますが、読みながら泣いてしまいます。素晴らしいホテルマン、経営理念とその実行について書かれた本ですが、読みながら全ての働く人に読んで欲しい本だと思うと同時に、私は家族や趣味の弓道で集まる仲間に対してこのような接し方が出来ているかと深く反省するのです。
実は「ビリギャル」を読もうと思ったのには理由がありました。学生時代私はあまり学校の勉強を一生懸命にしませんでした。受験のために良い成績をあげなくてはと思ったこともなかったため、自分の興味を持った勉強はやっていましたが、必ずしも学校の教科ではありませんでしたから学校は卒業できれば良いくらいに考えていたのです。
今、私はある本の翻訳をしているのですが、翻訳をしながら、私の英語力はどのくらいなんだろうと少し不安に思うことがあります。中学英語のレベル、高校英語のレベルと言う言葉がありますが、学校の勉強をして来なかった私にはその内容がわからないのです。
そんな理由で、「ビリギャル」を読んで参考にしてみようと考えたのでした。そして坪田先生の薦める英語の参考書を買ってみたりして楽しみながら読んでみたりしています。もちろん中学、高校英語という受験を目的にした参考書ですから自分の中で知識の整理という形で読んでいるのです。
そして、予期せず教えていただいた高野登さんの本。この本を読みながら仕事へのモチベーションがものすごく高まってくるのを感じています。
今やっている仕事を是非成功させて、リッツ・カールトンに泊まりたい。そう思っているのです。
私は一つの目標を持っています。それに向かって仕事をしているわけですが、なかなかモチベーションを維持するのが難しく成果が出ないまま苦戦しているのが実情です。でも、リッツ・カールトンに泊まるのをご褒美として用意してみたらなんだか楽しくなってきました。
台風で練習が出来ない間に読んだ「ビリギャル」とリッツ・カールトン。この夏の素晴らしい出会いを得たと私は考えています。ならばその出会いを活きたものにするかどうかは私の責任です。
さやかちゃんは言います。頭の良い人が行くと思った慶應大学に自分は必死になって勉強して入学した。だけど入学してみたら、周りの学生たちは、やはり必死に勉強して入ってきた人たちだった。と。
出会いは誰にでも同じようにあるものではありません。でも出会ったらそれに向き合い一生懸命になれる人。そうゆう人に運命は開かれているのだと思います。
さあ、私もさやかちゃんと一緒になって必死になって夢を追いかけて頑張ってみたいと思います。
ではまた。