Posted in 02 2016
Posted
on
ヴェラ・キャスパリ『エヴィー』(論創海外ミステリ)
ヴェラ・キャスパリの『エヴィー』を読む。
著者は映画化もされた『ローラ殺人事件』で知られているが、おそらく知られているのはそれ一作ぐらいではなかろうか。一応、邦訳は小学館文庫の『愛と疑惑の間に』もあるけれど、日本で人気があるとはお世辞にもいえない作家である。
こんな話。広告代理店でコピーライターとしてばりばり働くルイーズ。モデルなどをこなしがら気ままな暮らしを送るエヴィー。タイプの違う二人だがなぜか気はあい、お互いのプライバシーには決して干渉しないことを不文律として、二人でフラットを借りて同居していた。
あるときルイーズはエヴィーに新しい恋人ができたことを知るが、その名前は教えてもらえず、ルイーズもまたいつものとおり、あえて聞くことはしなかった。ところがある夏、ルイーズが旅行に出ている間にエヴィーが殺害されるという事件が起こる……。

物語はルイーズの一人称で語られる。前半は主にエヴィーとルイーズの生活に焦点があてられ、事件が起こった後半はエヴィーの新しい恋人は誰なのか、事件の犯人は誰なのか、そして恋人と犯人は同一人物なのか、という興味で引っ張ってゆく。
まあ表面的にはオーソドックスなサスペンスという結構ではあるが、著者の書きたいのはおそらくそこではない。
ルイーズを通してエヴィーや事件を語りつつ、実はルイーズ自身のライフスタイルや心情をこそ描きたいのである。
物語の舞台は1920年代のシカゴ。まだ性差別も色濃く、女性の社会進出はまだまだ難しい時代である。そんな旧弊な時代にあって、自立する女性の仕事との向き合い方、恋愛、そして家族との関係など、ルイーズは常に悩み迷う。すべてに答を出せる自立した女性にはなりたいが、もちろん現実はそう簡単ではない。そんな葛藤するルイーズの内面を著者は丹念に描いてゆくのである。
そういう意味では力作であるし、また、1960年代に書かれた作品にしては驚くほど現代的な内容なのも見事だ。
だが、正直、これがきつかった。まずは単純にミステリとして弱いという面がひとつ。結末が全然意外じゃないとか、恋人の正体が案の定だとか、そういった弱さである。だが、それらはこの際ガマンする。そんなレベルのミステリは今までも嫌というほど読んでいる。
むしろ辛かったのは中盤で事件が起こるまで、いやいや事件が起こった後ですらも延々と描かれていく、ルイーズの内面描写である。ボリュームがもともとある作品なので、ルイーズに共感できるとかの思い入れが湧かないと相当厳しい。
もちろんそういう小説が読みたい人には迷わずおすすめするが、残念ながら管理人としては、もう完全に好みの圏外であった。
著者は映画化もされた『ローラ殺人事件』で知られているが、おそらく知られているのはそれ一作ぐらいではなかろうか。一応、邦訳は小学館文庫の『愛と疑惑の間に』もあるけれど、日本で人気があるとはお世辞にもいえない作家である。
こんな話。広告代理店でコピーライターとしてばりばり働くルイーズ。モデルなどをこなしがら気ままな暮らしを送るエヴィー。タイプの違う二人だがなぜか気はあい、お互いのプライバシーには決して干渉しないことを不文律として、二人でフラットを借りて同居していた。
あるときルイーズはエヴィーに新しい恋人ができたことを知るが、その名前は教えてもらえず、ルイーズもまたいつものとおり、あえて聞くことはしなかった。ところがある夏、ルイーズが旅行に出ている間にエヴィーが殺害されるという事件が起こる……。

物語はルイーズの一人称で語られる。前半は主にエヴィーとルイーズの生活に焦点があてられ、事件が起こった後半はエヴィーの新しい恋人は誰なのか、事件の犯人は誰なのか、そして恋人と犯人は同一人物なのか、という興味で引っ張ってゆく。
まあ表面的にはオーソドックスなサスペンスという結構ではあるが、著者の書きたいのはおそらくそこではない。
ルイーズを通してエヴィーや事件を語りつつ、実はルイーズ自身のライフスタイルや心情をこそ描きたいのである。
物語の舞台は1920年代のシカゴ。まだ性差別も色濃く、女性の社会進出はまだまだ難しい時代である。そんな旧弊な時代にあって、自立する女性の仕事との向き合い方、恋愛、そして家族との関係など、ルイーズは常に悩み迷う。すべてに答を出せる自立した女性にはなりたいが、もちろん現実はそう簡単ではない。そんな葛藤するルイーズの内面を著者は丹念に描いてゆくのである。
そういう意味では力作であるし、また、1960年代に書かれた作品にしては驚くほど現代的な内容なのも見事だ。
だが、正直、これがきつかった。まずは単純にミステリとして弱いという面がひとつ。結末が全然意外じゃないとか、恋人の正体が案の定だとか、そういった弱さである。だが、それらはこの際ガマンする。そんなレベルのミステリは今までも嫌というほど読んでいる。
むしろ辛かったのは中盤で事件が起こるまで、いやいや事件が起こった後ですらも延々と描かれていく、ルイーズの内面描写である。ボリュームがもともとある作品なので、ルイーズに共感できるとかの思い入れが湧かないと相当厳しい。
もちろんそういう小説が読みたい人には迷わずおすすめするが、残念ながら管理人としては、もう完全に好みの圏外であった。
Posted
on
石沢英太郎『視線』(講談社文庫)
石沢英太郎の短編集『視線』を読む。
著者は1960年代前半から1980年代後半にかかけて活躍した推理作家である。まさに『本格ミステリフラッシュバック』ど真ん中の世代であり、同書にも本作をはじめ二作が取りあげられている。
以下、収録作。
「視線」
「その犬の名はリリー」
「五十五歳の生理」
「アドニスの花」
「ガラスの家」
「一本の藁」
「ある完全犯罪」

これはよい。全体的には小粒な印象はあるし、大がかりなトリックとかはないけれど、仕掛けをきちんと盛り込んで、ラストできれいにサプライズを味わえる良質の短編集である。
しかもただの推理ゲームに終わらせず、しっとりとした人間ドラマをベースにしているのがまたよい。真相から浮かび上がる犯罪者の心情が切なく、作品によってはそれを描くことでミステリの部分にも貢献しているという、まさにひとつの理想型だろう。
また、小粒とは書いたが、内容的にはバラエティに富んでいるのも好印象である。
そんな著者の魅力が最大限に発揮されているのが巻頭の「視線」。銀行強盗に拳銃を突きつけられた銀行員が走らせた視線の先には、非常ベルに手をかけようとした同僚の姿が。結果、強盗はその同僚を銃殺してしまう。単純な事件ではあったが、捜査を担当した刑事には気になることがあった……。人間の心理を読み解く面白さがある。
「その犬の名はリリー」も悪くない。隣家の飼い犬リリーを巡って明らかになる真相はけっこうパンチ力があり、どんでん返しも効いている。
「五十五歳の生理」は定年退職がテーマ。退職で生き甲斐をなくしたかに見えた男の自殺に秘められた真相はそれほど驚くべきものではないが、ユーモラスにまとめつつもほろ苦い味わいがなかなか。
「アドニスの花」は主人公(と思われる人物)が最終的にカヤの外となる構成が珍しい。すぐにネタは割れてしまうだろうが、その背後のどろどろが読みどころ?
「ガラスの家」は今読んでも、というか今だからこそジワッとくる物語。事件が起こるたびに評論家やミステリ作家が意見を求められることはままあるが、それが与える影響を深く考えずに続けていると、やがては悲劇を招く。SNSやブログも然りである。こちらもミステリとしては弱いけれど、実に印象的な作品。
会社で使っていた料亭の女中が自殺した。彼女を死に至らしめたものはなんだったのか、というのが「一本の藁」。これは巧い。
「ある完全犯罪」は正当防衛を利用した完全犯罪を企む銀行員の物語。巻頭の「視線」と対になったような作品で、こういう構成も含めて良質の一冊といえるだろう。
梶龍雄のような変なプレミア価格もまだついていないし、古書店で見かけた方はぜひ。
著者は1960年代前半から1980年代後半にかかけて活躍した推理作家である。まさに『本格ミステリフラッシュバック』ど真ん中の世代であり、同書にも本作をはじめ二作が取りあげられている。
以下、収録作。
「視線」
「その犬の名はリリー」
「五十五歳の生理」
「アドニスの花」
「ガラスの家」
「一本の藁」
「ある完全犯罪」

これはよい。全体的には小粒な印象はあるし、大がかりなトリックとかはないけれど、仕掛けをきちんと盛り込んで、ラストできれいにサプライズを味わえる良質の短編集である。
しかもただの推理ゲームに終わらせず、しっとりとした人間ドラマをベースにしているのがまたよい。真相から浮かび上がる犯罪者の心情が切なく、作品によってはそれを描くことでミステリの部分にも貢献しているという、まさにひとつの理想型だろう。
また、小粒とは書いたが、内容的にはバラエティに富んでいるのも好印象である。
そんな著者の魅力が最大限に発揮されているのが巻頭の「視線」。銀行強盗に拳銃を突きつけられた銀行員が走らせた視線の先には、非常ベルに手をかけようとした同僚の姿が。結果、強盗はその同僚を銃殺してしまう。単純な事件ではあったが、捜査を担当した刑事には気になることがあった……。人間の心理を読み解く面白さがある。
「その犬の名はリリー」も悪くない。隣家の飼い犬リリーを巡って明らかになる真相はけっこうパンチ力があり、どんでん返しも効いている。
「五十五歳の生理」は定年退職がテーマ。退職で生き甲斐をなくしたかに見えた男の自殺に秘められた真相はそれほど驚くべきものではないが、ユーモラスにまとめつつもほろ苦い味わいがなかなか。
「アドニスの花」は主人公(と思われる人物)が最終的にカヤの外となる構成が珍しい。すぐにネタは割れてしまうだろうが、その背後のどろどろが読みどころ?
「ガラスの家」は今読んでも、というか今だからこそジワッとくる物語。事件が起こるたびに評論家やミステリ作家が意見を求められることはままあるが、それが与える影響を深く考えずに続けていると、やがては悲劇を招く。SNSやブログも然りである。こちらもミステリとしては弱いけれど、実に印象的な作品。
会社で使っていた料亭の女中が自殺した。彼女を死に至らしめたものはなんだったのか、というのが「一本の藁」。これは巧い。
「ある完全犯罪」は正当防衛を利用した完全犯罪を企む銀行員の物語。巻頭の「視線」と対になったような作品で、こういう構成も含めて良質の一冊といえるだろう。
梶龍雄のような変なプレミア価格もまだついていないし、古書店で見かけた方はぜひ。
Posted
on
ダグラス・マッキノン『SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁』
Twitterでも少しつぶやいたが、立川へ出かけて『SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁』を観てきた。BBCドラマの『SHERLOCK/シャーロック』の映画版、しかも舞台は現代ではなく、ヴィクトリア朝時代の19世紀のロンドンに移した正調ホームズ譚らしいというのでけっこう楽しみにしていたのだが、ううむ、これはいただけない。
1895年、冬のロンドン。トーマス・リコレッティの夫人が突如、街中で発砲事件を起こし、最後には自殺を図るという事件が起こる。そして数時間後、夫の前に死んだはずのリコレッティ夫人がウェディングドレス姿で現れ、今度はトーマスを銃殺する。遺体安置所には確かに夫人の遺体があるものの、夫のトーマスが夫人を見間違えるはずもない、トーマスの前に現れたのは霊界からの使者だったのか? そして事件はこれだけでは終わらなかった……。

今回にかぎりヴィクトリア朝時代の設定でやるのでテレビ版を観ていない人もこの機会にぜひ、とか、あるいはテレビ版のファンのためのサービス的なものだったら、多少内容がおそまつでも気にならなかったと思うのだが、なんというか恐ろしいほど一見さんお断りな作りにちょっと引いてしまったのが正直なところだ。
要は原作はもとより、テレビ版『SHERLOCK/シャーロック』を観ていないとまったく楽しめない内容なのである。なんせヴィクトリア朝時代を舞台にするというからてっきり正統派でくると思っていたら、現代がしっかり絡んでくるわけで、結局テレビ版のシリーズの補足をするような内容なのである。だから原作を読んでいないのはしょうがないとしても、少なくともテレビ版を観ていない人はまず話が見えないだろう。
テレビ版のスペシャルならともかく、これをロードショーでやりますかって話なのだが、なんと本国ではやはりテレビで放映されたものらしい。それを日本ではロードショーとして公開したわけで、まあ商売熱心だこと。
物足りなさはあるけれど、ヴィクトリア朝時代のパートはまあ悪くはない。「マスグレーヴ家の儀式」の冒頭に登場する”語られざる事件”をベースに「オレンジの種五つ」をまぶしたりホラーテイストにまとめるなど、それなりにまとめている。相変わらず事件の再現や推理部分の見せ方など、演出は素晴らしい。
加えて役者さんも同じキャラクターを現代とヴィクトリア朝時代で微妙に演じ分けていたりしているのはさすが。
まあ、キャラクターありきで観るならそれなりに楽しめるだろうが、見る人おいてけぼりのシナリオは辛すぎる。現代とヴィクトリア朝時代を行き来するのが悪いとはいわないが、基本的に本編一本で勝負できない内容は個人的にはご免こうむりたい。
1895年、冬のロンドン。トーマス・リコレッティの夫人が突如、街中で発砲事件を起こし、最後には自殺を図るという事件が起こる。そして数時間後、夫の前に死んだはずのリコレッティ夫人がウェディングドレス姿で現れ、今度はトーマスを銃殺する。遺体安置所には確かに夫人の遺体があるものの、夫のトーマスが夫人を見間違えるはずもない、トーマスの前に現れたのは霊界からの使者だったのか? そして事件はこれだけでは終わらなかった……。

今回にかぎりヴィクトリア朝時代の設定でやるのでテレビ版を観ていない人もこの機会にぜひ、とか、あるいはテレビ版のファンのためのサービス的なものだったら、多少内容がおそまつでも気にならなかったと思うのだが、なんというか恐ろしいほど一見さんお断りな作りにちょっと引いてしまったのが正直なところだ。
要は原作はもとより、テレビ版『SHERLOCK/シャーロック』を観ていないとまったく楽しめない内容なのである。なんせヴィクトリア朝時代を舞台にするというからてっきり正統派でくると思っていたら、現代がしっかり絡んでくるわけで、結局テレビ版のシリーズの補足をするような内容なのである。だから原作を読んでいないのはしょうがないとしても、少なくともテレビ版を観ていない人はまず話が見えないだろう。
テレビ版のスペシャルならともかく、これをロードショーでやりますかって話なのだが、なんと本国ではやはりテレビで放映されたものらしい。それを日本ではロードショーとして公開したわけで、まあ商売熱心だこと。
物足りなさはあるけれど、ヴィクトリア朝時代のパートはまあ悪くはない。「マスグレーヴ家の儀式」の冒頭に登場する”語られざる事件”をベースに「オレンジの種五つ」をまぶしたりホラーテイストにまとめるなど、それなりにまとめている。相変わらず事件の再現や推理部分の見せ方など、演出は素晴らしい。
加えて役者さんも同じキャラクターを現代とヴィクトリア朝時代で微妙に演じ分けていたりしているのはさすが。
まあ、キャラクターありきで観るならそれなりに楽しめるだろうが、見る人おいてけぼりのシナリオは辛すぎる。現代とヴィクトリア朝時代を行き来するのが悪いとはいわないが、基本的に本編一本で勝負できない内容は個人的にはご免こうむりたい。
Posted
on
中町信『女性編集者殺人事件』(ケイブンシャ文庫)
飽きもせず、ひとり中町信祭り。本日の読了本は『女性編集者殺人事件』である。
もとは日本文華社から刊行された『殺戮の証明』が、ケイブンシャ文庫で刊行される際に改題された作品。著者の長篇第三作目にあたり、力作を連発していた初期に書かれた作品である。
こんな話。医学系出版社の南林書房では労働争議の真っ最中。年末一時金の額で無茶な要求をする労働組合側と、びた一文増やすことはできないという会社側の主張が真っ向から対立していたのだ。
組合側の闘争手段はエスカレートし、時間外勤務拒否、外出拒否、電話応対拒否などは当たり前、社内中に管理職の写真入りで誹謗中傷を書いたステッカーまで貼る始末である。その組合の急先鋒が、先頭に立って誹謗中傷を繰り広げる組合員の久我富子だった。
そんな中、久我富子が電話交換室に乱入し、かかってきた電話を勝手にとって盗聴するという暴挙を犯す。すると彼女はなぜか笑みを浮かべ、そのままエレベーターで六階に上がっていったのだが、次に発見されたときは絶命寸前の状態だった。そして今際の際に彼女は、自らの血で犯人のヒントらしきものを書き記すが……。

ううむ、才気ほとばしる初期の作品群にあって、あまり話題に上ることのない本作だが、それもむべなるかな。『〜の殺意』や最近読んだ『田沢湖〜』『奥只見〜』に比べれば明らかに一枚落ちる出来である。
一番の弱点はやはりメイントリックの弱さだろう。本作ではダイイングメッセージとアリバイトリックの二つが大きな肝になるのだが、どちらも長篇をひっぱるほどのネタではなかろう。特にダイイングメッセージはほぼ瞬時にネタがわかってしまった。実はこのダイイングメッセージ、最初の種明かしからさらにもう一捻りあるのだけれど、二つ目の真相に無理がありすぎで、むしろ最初の種明かしで止めた方がよかったのではと思える始末だ。
なお、ミステリとしてどうこうではないのだが、労働争議の描写については非常にインパクトがあった。物語の舞台は1970年代後半になるが、当時の会社と組合の交渉がここまで熾烈を極めていたとはちょっと信じがたいほどである。
基本的には組合側の闘争手段が徹底したサボタージュと管理職への個人攻撃であり、特に後者が凄まじい。これがどこまで一般的だったのか、管理人もちょっと判断できないのだが、いや今これやったら明らかに訴訟ものだろう。もちろん創作なので著者が話を盛っている可能性はあるわけだが、いやあ、この毒気は相当なものだ。
まとめ。本格に対する著者のこだわりというか、いろいろやりたかったであろうことは伝わってくるが、全体的には小粒で物足りない。労働争議の描写のきつさも含めておすすめしにくい一作といえる。
もとは日本文華社から刊行された『殺戮の証明』が、ケイブンシャ文庫で刊行される際に改題された作品。著者の長篇第三作目にあたり、力作を連発していた初期に書かれた作品である。
こんな話。医学系出版社の南林書房では労働争議の真っ最中。年末一時金の額で無茶な要求をする労働組合側と、びた一文増やすことはできないという会社側の主張が真っ向から対立していたのだ。
組合側の闘争手段はエスカレートし、時間外勤務拒否、外出拒否、電話応対拒否などは当たり前、社内中に管理職の写真入りで誹謗中傷を書いたステッカーまで貼る始末である。その組合の急先鋒が、先頭に立って誹謗中傷を繰り広げる組合員の久我富子だった。
そんな中、久我富子が電話交換室に乱入し、かかってきた電話を勝手にとって盗聴するという暴挙を犯す。すると彼女はなぜか笑みを浮かべ、そのままエレベーターで六階に上がっていったのだが、次に発見されたときは絶命寸前の状態だった。そして今際の際に彼女は、自らの血で犯人のヒントらしきものを書き記すが……。

ううむ、才気ほとばしる初期の作品群にあって、あまり話題に上ることのない本作だが、それもむべなるかな。『〜の殺意』や最近読んだ『田沢湖〜』『奥只見〜』に比べれば明らかに一枚落ちる出来である。
一番の弱点はやはりメイントリックの弱さだろう。本作ではダイイングメッセージとアリバイトリックの二つが大きな肝になるのだが、どちらも長篇をひっぱるほどのネタではなかろう。特にダイイングメッセージはほぼ瞬時にネタがわかってしまった。実はこのダイイングメッセージ、最初の種明かしからさらにもう一捻りあるのだけれど、二つ目の真相に無理がありすぎで、むしろ最初の種明かしで止めた方がよかったのではと思える始末だ。
なお、ミステリとしてどうこうではないのだが、労働争議の描写については非常にインパクトがあった。物語の舞台は1970年代後半になるが、当時の会社と組合の交渉がここまで熾烈を極めていたとはちょっと信じがたいほどである。
基本的には組合側の闘争手段が徹底したサボタージュと管理職への個人攻撃であり、特に後者が凄まじい。これがどこまで一般的だったのか、管理人もちょっと判断できないのだが、いや今これやったら明らかに訴訟ものだろう。もちろん創作なので著者が話を盛っている可能性はあるわけだが、いやあ、この毒気は相当なものだ。
まとめ。本格に対する著者のこだわりというか、いろいろやりたかったであろうことは伝わってくるが、全体的には小粒で物足りない。労働争議の描写のきつさも含めておすすめしにくい一作といえる。
Posted
on
ジョルジュ・シムノン『小犬を連れた男』(河出書房新社)
久しぶりに河出書房新社の「シムノン本格小説選」から一冊。ものは『小犬を連れた男』。
メグレシリーズもよいし、根本的なところは同じだと思うのだが、それでもミステリから離れたノンシリーズになると、シムノンのペン先はより悲哀を帯びたものになる。それはやはり犯罪者に対するメグレからの客観的な視点と、主人公たる犯罪者の視点の差なのだろう。
本作もその例にもれず、その内容はあまりに切なく悲しい。
パリの街の片隅でプードルと暮らす孤独な一人の男。他人との積極的な接触を避け、プードルと散歩し、小さな本屋で店番のアルバイトを繰り返す日々。そんな彼が文房具店でノートを買い、今の境遇や心情、そして過去に起こった出来事を淡々と綴ってゆく……。

シムノンらしいといえばここまでシムノンらしい小説もないかもしれない。孤独な男の手記を通じて、男の暮らしぶりや、なぜこのような生活を送っているのかが語られてゆく。犬を飼い始めたきっかけ、本屋のアルバイト始めた理由、男が刑務所に入っていたらしいこと、家族がいるらしいことなどなど。そんなこんなが時系列など関係なしに、少しずつ明らかになってゆくという結構である。
そして最終的な興味は、男が何をしでかしたのか、また、その動機は何だったのか、この点に集約される。
もちろん今時こんなスタイルは珍しくもない。ただシムノンの巧いところは、過去と現在を往きつ戻りつしながら、その淡々とした口調のなかに男の心情を見え隠れさせるところにある。長編でありながら一瞬一瞬が勝負のようなところもあり、そのたびにこちらはページをくる手を休め、深いため息をつくことになる。
本屋の女店主との問答、愛犬ピブとの他愛ないやりとり、それらすべてが愛おしい。シムノンのファンならぜひ。
メグレシリーズもよいし、根本的なところは同じだと思うのだが、それでもミステリから離れたノンシリーズになると、シムノンのペン先はより悲哀を帯びたものになる。それはやはり犯罪者に対するメグレからの客観的な視点と、主人公たる犯罪者の視点の差なのだろう。
本作もその例にもれず、その内容はあまりに切なく悲しい。
パリの街の片隅でプードルと暮らす孤独な一人の男。他人との積極的な接触を避け、プードルと散歩し、小さな本屋で店番のアルバイトを繰り返す日々。そんな彼が文房具店でノートを買い、今の境遇や心情、そして過去に起こった出来事を淡々と綴ってゆく……。

シムノンらしいといえばここまでシムノンらしい小説もないかもしれない。孤独な男の手記を通じて、男の暮らしぶりや、なぜこのような生活を送っているのかが語られてゆく。犬を飼い始めたきっかけ、本屋のアルバイト始めた理由、男が刑務所に入っていたらしいこと、家族がいるらしいことなどなど。そんなこんなが時系列など関係なしに、少しずつ明らかになってゆくという結構である。
そして最終的な興味は、男が何をしでかしたのか、また、その動機は何だったのか、この点に集約される。
もちろん今時こんなスタイルは珍しくもない。ただシムノンの巧いところは、過去と現在を往きつ戻りつしながら、その淡々とした口調のなかに男の心情を見え隠れさせるところにある。長編でありながら一瞬一瞬が勝負のようなところもあり、そのたびにこちらはページをくる手を休め、深いため息をつくことになる。
本屋の女店主との問答、愛犬ピブとの他愛ないやりとり、それらすべてが愛おしい。シムノンのファンならぜひ。
Posted
on
エドガー・ウォーレス『淑女怪盗ジェーンの冒険』(論創海外ミステリ)
エドガー・ウォーレスの『淑女怪盗ジェーンの冒険』を読む。
二十世紀初頭の大ベストセラー作家エドガー・ウォーレスだが、まあ売れっ子の宿命というか、当時の批評家からはケチョンケチョン(死語)にけなされていたようだ。だがウォーレスの目指していたものは芸術ではなく、大衆のリクエストに最大限に応えることである。したがってテーマの深遠さや複雑な人物造形がないことをいちいちあげつらっても仕方ない。見るべきところはネタの幅広さやストーリーの面白さ。さらに言うなら読者が興味を持てるかどうかだ。
実際、近年に邦訳された『正義の四人/ロンドン大包囲網』などもアイディアやストーリーはそれほど悪いものではなかった。
本作では女怪盗を主人公にした物語ということで、そういう意味ではけっこう期待できそうな感じもないではないが、果たして?
ロンドンにすむ富豪たちの間で噂の女怪盗がいた。その名もフォー・スクエア・ジェーン。盗みをはたらいた証に、”J”と記された四角いカードを現場に残していくのがその由来だ。盗んだ金は病院などに寄付しており義賊だという見方もあるが、その正体はまったく謎に包まれていた。
そんなある日、資産家ルインスタインの屋敷で豪華なパーティが催されることになった。ルインスタインはジェーン対策としてロンドン最大の私立探偵事務所でも最高の女探偵を雇ったが……。

前半はジェーンの盗みの手口がいくつかの事件を通して披露される。連作短編集のような形式かと思っていると、徐々に趣が変わってきて、後半はジェーン自身のドラマが展開する。
なるほど、こういうところがベストセラー作家の巧さなんだろうなと思う。
盗みの手口はまあ悪くはないけれど、トリックメーカーではないのでそれほど引き出しがあるわけではない。そこで盗みのほうは印象的な事件を二つ三つほど見せて切り上げ、後半はキャラクターを活かしたスリラー劇に転換させていく。
ここで読者をひっぱるのはジェーンの正体だ。これが実はバレバレなんだけど、表面的には隠しておきながらバレバレにすることで、読者にははっきりとヒロインが認識できるという仕組み。並行してジェーンがなぜ怪盗になったのか、その動機も読者の大きな興味のひとつとなり、読者はさらに感情移入ができる。
まあ時代が時代なのでサスペンスの盛り上げとかはゆるいレベルだが、この時代のエンターテインメントとしてはOKだろう。
なお、本書には『三姉妹の大いなる報酬』というコメディタッチの短編も併録されている。ミステリタッチではあるけれど、こちらはさほど面白みを感じられず、短編にしてはやや長いのも辛かった。
二十世紀初頭の大ベストセラー作家エドガー・ウォーレスだが、まあ売れっ子の宿命というか、当時の批評家からはケチョンケチョン(死語)にけなされていたようだ。だがウォーレスの目指していたものは芸術ではなく、大衆のリクエストに最大限に応えることである。したがってテーマの深遠さや複雑な人物造形がないことをいちいちあげつらっても仕方ない。見るべきところはネタの幅広さやストーリーの面白さ。さらに言うなら読者が興味を持てるかどうかだ。
実際、近年に邦訳された『正義の四人/ロンドン大包囲網』などもアイディアやストーリーはそれほど悪いものではなかった。
本作では女怪盗を主人公にした物語ということで、そういう意味ではけっこう期待できそうな感じもないではないが、果たして?
ロンドンにすむ富豪たちの間で噂の女怪盗がいた。その名もフォー・スクエア・ジェーン。盗みをはたらいた証に、”J”と記された四角いカードを現場に残していくのがその由来だ。盗んだ金は病院などに寄付しており義賊だという見方もあるが、その正体はまったく謎に包まれていた。
そんなある日、資産家ルインスタインの屋敷で豪華なパーティが催されることになった。ルインスタインはジェーン対策としてロンドン最大の私立探偵事務所でも最高の女探偵を雇ったが……。

前半はジェーンの盗みの手口がいくつかの事件を通して披露される。連作短編集のような形式かと思っていると、徐々に趣が変わってきて、後半はジェーン自身のドラマが展開する。
なるほど、こういうところがベストセラー作家の巧さなんだろうなと思う。
盗みの手口はまあ悪くはないけれど、トリックメーカーではないのでそれほど引き出しがあるわけではない。そこで盗みのほうは印象的な事件を二つ三つほど見せて切り上げ、後半はキャラクターを活かしたスリラー劇に転換させていく。
ここで読者をひっぱるのはジェーンの正体だ。これが実はバレバレなんだけど、表面的には隠しておきながらバレバレにすることで、読者にははっきりとヒロインが認識できるという仕組み。並行してジェーンがなぜ怪盗になったのか、その動機も読者の大きな興味のひとつとなり、読者はさらに感情移入ができる。
まあ時代が時代なのでサスペンスの盛り上げとかはゆるいレベルだが、この時代のエンターテインメントとしてはOKだろう。
なお、本書には『三姉妹の大いなる報酬』というコメディタッチの短編も併録されている。ミステリタッチではあるけれど、こちらはさほど面白みを感じられず、短編にしてはやや長いのも辛かった。
Posted
on
北洋『北洋探偵小説選』(論創ミステリ叢書)
論創ミステリ叢書から本日は『北洋探偵小説選』。
北洋という名前は知っていたが、読んだことがあるのはアンソロジーで短編を一つ二つという程度。しかし「写真解読者」は香山滋を彷彿とさせる作風で強く印象には残っており、本書で著者の全探偵小説が読めるようになったのは嬉しいかぎり。いつものことながら編者、版元には感謝感謝である。
収録作は以下のとおり。ミステリとしての全作品が収録され、これに児童向けの中編「アトム君の冒険」、科学関連のエッセイが二作採られている。
「写真解読者」
「ルシタニア号事件」
「失楽園(パラダイス・ロースト)」
「無意識殺人(アンコンシャス・マーダー)」
「天使との争ひ」
「死の協和音(ハーモニックス)」
「異形の妖精」
「こがね虫の証人」
「清滝川の惨劇」
「展覧会の怪画」
「砂漠に咲く花―新世界物語」
「盗まれた手」
「アトム君の冒険」(ジュヴナイル)
「首をふる鳥」(物語風エッセイ)
「自然は力学を行う」(エッセイ)

北洋は戦後間もない頃から探偵雑誌『ロック』を中心に活躍した作家である。”活躍した”といっても、宿痾の喘息がもとで三十一歳という若さで亡くなったため、その期間は五年ほどと短く、大人向けの作品数はわずか十二作という少なさである。
作品数の少なさは北洋が兼業作家だったことも理由のひとつだ。その本業はなんと物理学者。しかも京都大学大学院ではあの湯川秀樹氏に師事し、専門書では氏との共著もあるというから恐れ入る。
ただ、だからといって理系一直線だったわけでもないようで、高校時代からは同時に文学にも目覚め、特にドストエフスキーやリラダンに傾倒したという。ドストエフスキーはともかくリラダンというキーワードには要注目。なんせリラダンといえばピグマリオン(人形偏愛症)テーマで知られる幻想系の作家である。理想の女性を追い求めるあまり、ついには自ら理想の女性を創り出すというテーマは、科学者であっても惹かれるのか、あるいは科学者だからこそ惹かれるのか。
そして北洋の作品は、正にこの物理学とピグマリオンという、北洋の嗜好する二つの要素がふんだんに盛り込まれているのが特長だ。もちろん全部が全部ピグマリオンテーマというわけではない。要は物理学という科学的かつ論理的なスタイルと、ピグマリオンをはじめとする幻想的なテーマの融合が特長的なのである。
もともと探偵小説は、不可思議かつ怪奇な事件によって起こる謎や恐怖を、論理によって鎮めるというスタイルで始まった。そういう意味ではその構成要件を最大限に生かしているが北洋の作風といってもよい。ただ、北洋の作品は謎や恐怖を論理で鎮めるのではなく、論理だけでは鎮まりきらない恐怖や謎を楽しむ、といったほうが適切だろう。事件は一応の決着を見せるが、それだけでは割り切れない真実の不思議、人の不思議さが浮かび上がるところに味わいがある。
そういう意味で管理人の好みは、「失楽園(パラダイス・ロースト)」「天使との争ひ」「異形の妖精」あたりで、どれも見事にピグマリオンテーマである(苦笑)。
正直、探偵小説としては全体的にはバランスが微妙であり、これは傑作というほどのものはない。ただ、上で書いたように北洋ならではのオリジナリティがたいへん感じられ、読んでいる間はまったく退屈しない。
ちょっと変わった探偵小説が読みたい人はお試しを。
北洋という名前は知っていたが、読んだことがあるのはアンソロジーで短編を一つ二つという程度。しかし「写真解読者」は香山滋を彷彿とさせる作風で強く印象には残っており、本書で著者の全探偵小説が読めるようになったのは嬉しいかぎり。いつものことながら編者、版元には感謝感謝である。
収録作は以下のとおり。ミステリとしての全作品が収録され、これに児童向けの中編「アトム君の冒険」、科学関連のエッセイが二作採られている。
「写真解読者」
「ルシタニア号事件」
「失楽園(パラダイス・ロースト)」
「無意識殺人(アンコンシャス・マーダー)」
「天使との争ひ」
「死の協和音(ハーモニックス)」
「異形の妖精」
「こがね虫の証人」
「清滝川の惨劇」
「展覧会の怪画」
「砂漠に咲く花―新世界物語」
「盗まれた手」
「アトム君の冒険」(ジュヴナイル)
「首をふる鳥」(物語風エッセイ)
「自然は力学を行う」(エッセイ)

北洋は戦後間もない頃から探偵雑誌『ロック』を中心に活躍した作家である。”活躍した”といっても、宿痾の喘息がもとで三十一歳という若さで亡くなったため、その期間は五年ほどと短く、大人向けの作品数はわずか十二作という少なさである。
作品数の少なさは北洋が兼業作家だったことも理由のひとつだ。その本業はなんと物理学者。しかも京都大学大学院ではあの湯川秀樹氏に師事し、専門書では氏との共著もあるというから恐れ入る。
ただ、だからといって理系一直線だったわけでもないようで、高校時代からは同時に文学にも目覚め、特にドストエフスキーやリラダンに傾倒したという。ドストエフスキーはともかくリラダンというキーワードには要注目。なんせリラダンといえばピグマリオン(人形偏愛症)テーマで知られる幻想系の作家である。理想の女性を追い求めるあまり、ついには自ら理想の女性を創り出すというテーマは、科学者であっても惹かれるのか、あるいは科学者だからこそ惹かれるのか。
そして北洋の作品は、正にこの物理学とピグマリオンという、北洋の嗜好する二つの要素がふんだんに盛り込まれているのが特長だ。もちろん全部が全部ピグマリオンテーマというわけではない。要は物理学という科学的かつ論理的なスタイルと、ピグマリオンをはじめとする幻想的なテーマの融合が特長的なのである。
もともと探偵小説は、不可思議かつ怪奇な事件によって起こる謎や恐怖を、論理によって鎮めるというスタイルで始まった。そういう意味ではその構成要件を最大限に生かしているが北洋の作風といってもよい。ただ、北洋の作品は謎や恐怖を論理で鎮めるのではなく、論理だけでは鎮まりきらない恐怖や謎を楽しむ、といったほうが適切だろう。事件は一応の決着を見せるが、それだけでは割り切れない真実の不思議、人の不思議さが浮かび上がるところに味わいがある。
そういう意味で管理人の好みは、「失楽園(パラダイス・ロースト)」「天使との争ひ」「異形の妖精」あたりで、どれも見事にピグマリオンテーマである(苦笑)。
正直、探偵小説としては全体的にはバランスが微妙であり、これは傑作というほどのものはない。ただ、上で書いたように北洋ならではのオリジナリティがたいへん感じられ、読んでいる間はまったく退屈しない。
ちょっと変わった探偵小説が読みたい人はお試しを。
Posted
on
市川崑『病院坂の首縊りの家』
市川崑、石坂浩二コンビによる金田一シリーズ最終作『病院坂の首縊りの家』を視聴。
渡米を考えていた金田一耕助は、その報告のため先生(横溝正史)のいる吉野市を訪れていた。ついでにパスポートの写真を撮るために立ち寄った写真館で、店の主人・本條徳兵衛から奇妙な依頼をされる。何者かに殺されそうになったので、その調査をしてほしいというのだ。
同じ日、写真館に一人の女性が訪れる。結婚写真を撮りたいので、迎えの者をやるから一緒にきてほしいという。その夜、若主人の本條直吉が迎えの男とともに向かった先は、地元で病院坂と呼ばれるところにある今は空き家の家であった。新郎新婦らしき男女の様子がおかしいものの、とりあえず仕事をこなす直吉。だが、後日、写真を届けにいった直吉は、新郎だった男の生首が風鈴のようにぶらさがっているのを発見する……。

正直、原作の内容をほとんど覚えていないのだけれど(苦笑)、それが逆によかったのか、けっこう楽しめた。
シリーズの他の作品よりは評価が落ちるようだけれども、おそらくこれは作品をイメージづける印象的なシーンが弱いことが大きいのではないか。また、原作がもともと長大で複雑なのだが、それを映像化するにあたってどうしても脚本に無理が出てきてしまったこともあるだろう(といっても140分近くあるのだが)。
とはいえ、それらはシリーズの他の作品に比べるからで、この作品を独立したミステリ映画とみるなら、決してまずい作品ではない。例によってテーマとなるのは古い因習や家、血にしばられた悲しき宿命である。とりわけ本作はわかりにくい設定ではあるのだが、ここまで再現してくれれば何とか合格点だろう。特に謎解きシーンではかなりの時間を費やし、事件の全容を示すとともに、ドラマとしての盛り上げ方も悪くない。
キャストでは佐久間良子や桜田淳子、草刈正雄の熱演も印象的、桜田淳子の演技も予想以上によかったが、やはり佐久間良子の存在感は圧倒的。こういうウェットな役柄は実に見事である。
なお、原作は金田一耕助の最後の事件として知られているが、映画のほうもこれで打ち止め感を強く出していて、所縁の俳優さんが多く登場しているのが感慨深い。小林昭二や三木のり平、大滝秀治、草笛光子、あおい輝彦、ピーター、中井貴惠等々。おまけに横溝正史までがけっこうな役どころである。
ま、そんなわけで個人的には全然OKの一作でありました。
渡米を考えていた金田一耕助は、その報告のため先生(横溝正史)のいる吉野市を訪れていた。ついでにパスポートの写真を撮るために立ち寄った写真館で、店の主人・本條徳兵衛から奇妙な依頼をされる。何者かに殺されそうになったので、その調査をしてほしいというのだ。
同じ日、写真館に一人の女性が訪れる。結婚写真を撮りたいので、迎えの者をやるから一緒にきてほしいという。その夜、若主人の本條直吉が迎えの男とともに向かった先は、地元で病院坂と呼ばれるところにある今は空き家の家であった。新郎新婦らしき男女の様子がおかしいものの、とりあえず仕事をこなす直吉。だが、後日、写真を届けにいった直吉は、新郎だった男の生首が風鈴のようにぶらさがっているのを発見する……。

正直、原作の内容をほとんど覚えていないのだけれど(苦笑)、それが逆によかったのか、けっこう楽しめた。
シリーズの他の作品よりは評価が落ちるようだけれども、おそらくこれは作品をイメージづける印象的なシーンが弱いことが大きいのではないか。また、原作がもともと長大で複雑なのだが、それを映像化するにあたってどうしても脚本に無理が出てきてしまったこともあるだろう(といっても140分近くあるのだが)。
とはいえ、それらはシリーズの他の作品に比べるからで、この作品を独立したミステリ映画とみるなら、決してまずい作品ではない。例によってテーマとなるのは古い因習や家、血にしばられた悲しき宿命である。とりわけ本作はわかりにくい設定ではあるのだが、ここまで再現してくれれば何とか合格点だろう。特に謎解きシーンではかなりの時間を費やし、事件の全容を示すとともに、ドラマとしての盛り上げ方も悪くない。
キャストでは佐久間良子や桜田淳子、草刈正雄の熱演も印象的、桜田淳子の演技も予想以上によかったが、やはり佐久間良子の存在感は圧倒的。こういうウェットな役柄は実に見事である。
なお、原作は金田一耕助の最後の事件として知られているが、映画のほうもこれで打ち止め感を強く出していて、所縁の俳優さんが多く登場しているのが感慨深い。小林昭二や三木のり平、大滝秀治、草笛光子、あおい輝彦、ピーター、中井貴惠等々。おまけに横溝正史までがけっこうな役どころである。
ま、そんなわけで個人的には全然OKの一作でありました。
Posted
on
エラリー・クイーン『摩天楼のクローズドサークル』(原書房)
原書房からスタートした「エラリー・クイーン外典コレクション」の二冊目『摩天楼のクローズドサークル』を読む。
ハウスネームとしてのエラリー・クイーン作品から本格テイストの傑作?を紹介するこの叢書。今回の実作者は、パルプ雑誌中心にライトなハードボイルドを量産した作家リチャード・デミングである。わが国ではポケミスの『クランシー・ロス無頼控』が知られているが、まあ、知られているといっても普通のミステリファンレベルでは、あまり読んだ人もいないだろう。むしろチャーリーズ・エンジェルや刑事スタスキー&ハッチのノヴェライゼーションを書くときのマックス・フランクリン名義の方が知られているかもしれない。
そんなクイーンとはかなり遠いところにいるイメージのデミングがどのような作品を書いたのか。興味はそこに尽きる。
友人の私立探偵チャック・ベアと仕事後の一杯をやろうとしていた隻眼の警部ティム・コリガン。だがバーについて間もなくニューヨークを未曾有の大停電が襲った。ティムが本部に連絡を入れると街はもちろん大混乱。騒ぎを収める警官も足りず、ティムは急遽、本部から捜査を指示される。
現場はニューヨークのとある高層ビル、その二十一階に事務所を構えるバーンズ会計士事務所。そこで死人が出たというのだ。苦労して現場にたどり着いたティムとチャックがさっそく現場を確認すると、当初は事故もしくは自殺と考えられていたが、その状況から明らかに殺人であることが判明する。果たして犯人は当時、二十一階にいた人物の中にいるのか……。

ううむ、シリーズ第一弾の『チェスプレイヤーの密室』がとりあえず本格の体をとっていたのに対し、本作はほぼハードボイルドタッチ。パルプ雑誌を主戦場にしていた代作者デミングが、そのまま自分の持ち味を生かしている印象だ。探偵役やその他のキャラクター、さらには彼らのやりとりもクイーンテイストはほぼナッシング。クイーンの聖典では滅多に見られないお色気描写も出てくるから驚く。
ただ、それらはあくまで文章のスタイルやキャラクターの話で、設定はなかなか本格テイスト。
何より邦題の『摩天楼のクローズドサークル』が示すように、舞台は停電のため一時的にほぼクローズドサークルと化した高層ビルの二十一階。限定された状況で物語が進行し、しかも連続殺人が発生するに及び、その場の中の誰かが犯人であることは決定的となるという展開は魅力的。サスペンスを盛り上げる上でも不可能犯罪興味の上でも俄然輝きを増してくる。
これでメイントリックがそこそこ良いとか、ロジックを押し出したクライマックスがあれば良かったのだが、その点は惜しくも力不足であった。
まとめ。クイーンを意識した過大な期待は禁物だが、B級スリラーあるいは軽ハードボイルドとしては途中で退屈もせず、うまくまとまった一作。ただ、個人的には『チェスプレイヤーの密室』の方が楽しめた。
ハウスネームとしてのエラリー・クイーン作品から本格テイストの傑作?を紹介するこの叢書。今回の実作者は、パルプ雑誌中心にライトなハードボイルドを量産した作家リチャード・デミングである。わが国ではポケミスの『クランシー・ロス無頼控』が知られているが、まあ、知られているといっても普通のミステリファンレベルでは、あまり読んだ人もいないだろう。むしろチャーリーズ・エンジェルや刑事スタスキー&ハッチのノヴェライゼーションを書くときのマックス・フランクリン名義の方が知られているかもしれない。
そんなクイーンとはかなり遠いところにいるイメージのデミングがどのような作品を書いたのか。興味はそこに尽きる。
友人の私立探偵チャック・ベアと仕事後の一杯をやろうとしていた隻眼の警部ティム・コリガン。だがバーについて間もなくニューヨークを未曾有の大停電が襲った。ティムが本部に連絡を入れると街はもちろん大混乱。騒ぎを収める警官も足りず、ティムは急遽、本部から捜査を指示される。
現場はニューヨークのとある高層ビル、その二十一階に事務所を構えるバーンズ会計士事務所。そこで死人が出たというのだ。苦労して現場にたどり着いたティムとチャックがさっそく現場を確認すると、当初は事故もしくは自殺と考えられていたが、その状況から明らかに殺人であることが判明する。果たして犯人は当時、二十一階にいた人物の中にいるのか……。

ううむ、シリーズ第一弾の『チェスプレイヤーの密室』がとりあえず本格の体をとっていたのに対し、本作はほぼハードボイルドタッチ。パルプ雑誌を主戦場にしていた代作者デミングが、そのまま自分の持ち味を生かしている印象だ。探偵役やその他のキャラクター、さらには彼らのやりとりもクイーンテイストはほぼナッシング。クイーンの聖典では滅多に見られないお色気描写も出てくるから驚く。
ただ、それらはあくまで文章のスタイルやキャラクターの話で、設定はなかなか本格テイスト。
何より邦題の『摩天楼のクローズドサークル』が示すように、舞台は停電のため一時的にほぼクローズドサークルと化した高層ビルの二十一階。限定された状況で物語が進行し、しかも連続殺人が発生するに及び、その場の中の誰かが犯人であることは決定的となるという展開は魅力的。サスペンスを盛り上げる上でも不可能犯罪興味の上でも俄然輝きを増してくる。
これでメイントリックがそこそこ良いとか、ロジックを押し出したクライマックスがあれば良かったのだが、その点は惜しくも力不足であった。
まとめ。クイーンを意識した過大な期待は禁物だが、B級スリラーあるいは軽ハードボイルドとしては途中で退屈もせず、うまくまとまった一作。ただ、個人的には『チェスプレイヤーの密室』の方が楽しめた。
Posted
on
中町信『奥只見温泉郷殺人事件』(徳間文庫)
先日読んだ『田沢湖殺人事件』がなかなか良かったので、中町信をもういっちょ。ものは『奥只見温泉郷殺人事件』。
中町信の主な執筆時期は1960年代後半から2000年にかけてだが、代表作が主に前半、1970年代から80年代に集中しているというのは衆目の一致するところだろう。創元で復刊された一連の『〜の殺意』はもちろん(ただし『三幕の殺意』は遺作)、そのあとに続く『田沢湖殺人事件』、そして本作もまた中町信の技巧を堪能できる一冊である。

※以下、ネタバレには十分注意しておりますが、例によって中町作品は内容の性質上、紹介が難しい面が多々あるため、未読の方は覚悟をもってお読みください。
まずはストーリー。出版社に務める牛久保は妻と娘を連れ、久々に家族旅行に出かけることにした。向かったのは奥只見温泉郷にある大湯温泉。ところがそこで、かつて彼の弟と結婚していた多美子という女性に出会う。
実は牛久保の娘は弟と多美子の間にできた子供だったが、弟が死んだあと、牛久保が引き取ったという経緯があった。その事実を娘は知らず、多美子はそれを種にして、牛久保を強請ろうとする。
とりあえずその場を繕った牛久保だが、翌日、思いがけない出来事がおこる。宿のスキーバスが川に転落し、五人の客が亡くなったのだ。その中には多美子も含まれていたが、彼女の死因は事故死ではなく、事故直後に絞殺されていたことが判明する……。
物語はこのあと多美子殺しの容疑を受けた牛久保が、無実をはらそうと独自に調査するという展開となる。まあ、これだけでは普通の推理小説っぽいが、もちろん中町信ならではの仕掛けがガッツリと張り巡らされている。
それが中町信おなじみのプロローグと、それに絡む日記の存在である。
プロローグが例によって胡散臭い(苦笑)。"私"が仏壇の据えられた部屋に座り、ある人物を自殺に追いやった責任は自分にあると悔恨し、傍らにある日記帳に目を通す様が描かれる。そして、その日記と覚しき内容が各章の冒頭に抜粋して記され、さらにはそれをなぞるようにして物語が進んでゆくという結構だ。
日記の書き手は妻である。そこで語られるのは、夫が調査を始めたらしいこと、しかし、実は夫が犯人ではないかという疑惑の念。本編は牛久保の一人称で語られるため、この日記との微妙なズレがサスペンスを生み、読者を煙に巻いてゆく。
プロットも見事。たまたま居合わせたかに思われた宿の客たちが、実はさまざまな因縁をもった人々であり、人間関係や事件の背景はけっこう複雑である。この偶然と必然が交差するカオスを、一人称で追いかけることによって意外にわかりやすく読ませるのは高ポイント(相変わらず美文とはいえないけれど、こういう内容だとまあ許せる範囲か)。
そもそもメイントリックなしでも一応は成立するミステリなのだが、もちろんそれだけでは物足りないわけで、そこに著者お得意のトリックをかませることで一気に傑作に高めた印象である。
『田沢湖殺人事件』同様、カバーとタイトルで損をした感は否めないが、内容的にはオススメである。創元さんは、ぜひこちらも改題復刊の方向で。
中町信の主な執筆時期は1960年代後半から2000年にかけてだが、代表作が主に前半、1970年代から80年代に集中しているというのは衆目の一致するところだろう。創元で復刊された一連の『〜の殺意』はもちろん(ただし『三幕の殺意』は遺作)、そのあとに続く『田沢湖殺人事件』、そして本作もまた中町信の技巧を堪能できる一冊である。

※以下、ネタバレには十分注意しておりますが、例によって中町作品は内容の性質上、紹介が難しい面が多々あるため、未読の方は覚悟をもってお読みください。
まずはストーリー。出版社に務める牛久保は妻と娘を連れ、久々に家族旅行に出かけることにした。向かったのは奥只見温泉郷にある大湯温泉。ところがそこで、かつて彼の弟と結婚していた多美子という女性に出会う。
実は牛久保の娘は弟と多美子の間にできた子供だったが、弟が死んだあと、牛久保が引き取ったという経緯があった。その事実を娘は知らず、多美子はそれを種にして、牛久保を強請ろうとする。
とりあえずその場を繕った牛久保だが、翌日、思いがけない出来事がおこる。宿のスキーバスが川に転落し、五人の客が亡くなったのだ。その中には多美子も含まれていたが、彼女の死因は事故死ではなく、事故直後に絞殺されていたことが判明する……。
物語はこのあと多美子殺しの容疑を受けた牛久保が、無実をはらそうと独自に調査するという展開となる。まあ、これだけでは普通の推理小説っぽいが、もちろん中町信ならではの仕掛けがガッツリと張り巡らされている。
それが中町信おなじみのプロローグと、それに絡む日記の存在である。
プロローグが例によって胡散臭い(苦笑)。"私"が仏壇の据えられた部屋に座り、ある人物を自殺に追いやった責任は自分にあると悔恨し、傍らにある日記帳に目を通す様が描かれる。そして、その日記と覚しき内容が各章の冒頭に抜粋して記され、さらにはそれをなぞるようにして物語が進んでゆくという結構だ。
日記の書き手は妻である。そこで語られるのは、夫が調査を始めたらしいこと、しかし、実は夫が犯人ではないかという疑惑の念。本編は牛久保の一人称で語られるため、この日記との微妙なズレがサスペンスを生み、読者を煙に巻いてゆく。
プロットも見事。たまたま居合わせたかに思われた宿の客たちが、実はさまざまな因縁をもった人々であり、人間関係や事件の背景はけっこう複雑である。この偶然と必然が交差するカオスを、一人称で追いかけることによって意外にわかりやすく読ませるのは高ポイント(相変わらず美文とはいえないけれど、こういう内容だとまあ許せる範囲か)。
そもそもメイントリックなしでも一応は成立するミステリなのだが、もちろんそれだけでは物足りないわけで、そこに著者お得意のトリックをかませることで一気に傑作に高めた印象である。
『田沢湖殺人事件』同様、カバーとタイトルで損をした感は否めないが、内容的にはオススメである。創元さんは、ぜひこちらも改題復刊の方向で。