Posted in 08 2013
Posted
on
ローランド・エメリッヒ『GODZILLA』
先日、『パシフィック・リム』を観たせいか、ハリウッドの怪獣ものをもう少し観たくなる。そこで選んだのがローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』。1998年に後悔、いや公開されたハリウッド製ゴジラである。
ゴジラのイメージを貶めた作品として当時はかなり酷評されたものだが(日本だけでなく本国アメリカでも)、管理人もロードショーで観てガッカリしたものであった。
さて今回、十五年ぶりに再視聴したわけだが、怪獣映画としてはそれほど悪くない出来だなと考えを改めた。
個人的な見解ではあるが、そもそも怪獣映画に怪獣はそれほど出なくてもよいのである。人間と怪獣がどのように戦うか、そしてどうやって倒すのか、確かにそこがポイントではあるけれども、怪獣が出ずっぱりで延々、人間との戦いを見せられても飽きがくるだけである。そこで作り手としてはストーリーが単調にならないよう、人間ドラマを加味する。
エメリッヒ監督はそこのところがそつないというか、まあ、浅いドラマではあるけれど、主人公のロマンスに軍隊の師弟関係、スパイの活躍などを絡めてまとめあげ、退屈させない工夫は大したものだ。
怪獣映画やホラー映画、パニック映画としてのまとめ方も悪くない。冒頭の核実験のエピソード、ゴジラを登場させるまでのひっぱり具合もほどよく、見せ方に『ジュラシックパーク』や『エイリアン』のパクリらしき部分が多いのは困ったものだが、トータルでの出来映えはさすがエメリッヒである。
そう、最初に書いたように、怪獣映画としてはそれほど悪くないのだ。
ただ、残念ながらゴジラファンとしてみれば、やはりこれは悲惨な出来である。イグアナの怪獣であれば特に文句もないけれど、「ゴジラ」を扱うのであれば、それなりの愛と敬意が必要ではないか。
もう面倒なので気にくわない部分は箇条書きで挙げる。
・上半身(特に正面)が人間的フォルムで怪獣らしくない
・動きが敏捷すぎて怪獣王としての重み、貫禄がない
・怪獣が魚を主食にしているようではいけない(ゴジラは放射能等のエネルギー源を)
・上でも書いたが他の映画(特にジュラシックパーク)パクリ過ぎ
・ヘリに追われて逃げるようでは弱すぎる
・しかもミサイルを避けるようではあまりに弱すぎる
・さらにミサイルで死ぬようではとことん弱すぎる……etc
ある意味、日本のゴジラとまったく違う方向性でいきたかったのだろうが、それなら「ゴジラ」と呼ぶのをそもそも止めてもらいたい。後のインタビューでエメリッヒが語っていることだが、彼は最初から『ゴジラ』を撮る意識はなく、むしろ『原子怪獣現る』をモチーフにしたというから、何をかいわんや。
ただし、エメリッヒも監督を要請された際、最初は首を盾に振らず、三、四回は断ったという話なので、責任は彼を起用した側にあるのかもしれない。
アメリカでは再び『ゴジラ』を制作しているようだが、ぜひとも次はハリウッドの底力を見せてほしいものである。
ゴジラのイメージを貶めた作品として当時はかなり酷評されたものだが(日本だけでなく本国アメリカでも)、管理人もロードショーで観てガッカリしたものであった。
さて今回、十五年ぶりに再視聴したわけだが、怪獣映画としてはそれほど悪くない出来だなと考えを改めた。
個人的な見解ではあるが、そもそも怪獣映画に怪獣はそれほど出なくてもよいのである。人間と怪獣がどのように戦うか、そしてどうやって倒すのか、確かにそこがポイントではあるけれども、怪獣が出ずっぱりで延々、人間との戦いを見せられても飽きがくるだけである。そこで作り手としてはストーリーが単調にならないよう、人間ドラマを加味する。
エメリッヒ監督はそこのところがそつないというか、まあ、浅いドラマではあるけれど、主人公のロマンスに軍隊の師弟関係、スパイの活躍などを絡めてまとめあげ、退屈させない工夫は大したものだ。
怪獣映画やホラー映画、パニック映画としてのまとめ方も悪くない。冒頭の核実験のエピソード、ゴジラを登場させるまでのひっぱり具合もほどよく、見せ方に『ジュラシックパーク』や『エイリアン』のパクリらしき部分が多いのは困ったものだが、トータルでの出来映えはさすがエメリッヒである。
そう、最初に書いたように、怪獣映画としてはそれほど悪くないのだ。
ただ、残念ながらゴジラファンとしてみれば、やはりこれは悲惨な出来である。イグアナの怪獣であれば特に文句もないけれど、「ゴジラ」を扱うのであれば、それなりの愛と敬意が必要ではないか。
もう面倒なので気にくわない部分は箇条書きで挙げる。
・上半身(特に正面)が人間的フォルムで怪獣らしくない
・動きが敏捷すぎて怪獣王としての重み、貫禄がない
・怪獣が魚を主食にしているようではいけない(ゴジラは放射能等のエネルギー源を)
・上でも書いたが他の映画(特にジュラシックパーク)パクリ過ぎ
・ヘリに追われて逃げるようでは弱すぎる
・しかもミサイルを避けるようではあまりに弱すぎる
・さらにミサイルで死ぬようではとことん弱すぎる……etc
ある意味、日本のゴジラとまったく違う方向性でいきたかったのだろうが、それなら「ゴジラ」と呼ぶのをそもそも止めてもらいたい。後のインタビューでエメリッヒが語っていることだが、彼は最初から『ゴジラ』を撮る意識はなく、むしろ『原子怪獣現る』をモチーフにしたというから、何をかいわんや。
ただし、エメリッヒも監督を要請された際、最初は首を盾に振らず、三、四回は断ったという話なので、責任は彼を起用した側にあるのかもしれない。
アメリカでは再び『ゴジラ』を制作しているようだが、ぜひとも次はハリウッドの底力を見せてほしいものである。
Posted
on
大坪砂男『大坪砂男全集2天狗』(創元推理文庫)
創元推理文庫版の大坪砂男全集から第二巻の『天狗』を読了。テーマ別に編まれた本全集だが、第二巻は奇想&時代篇という構成。
第一部 奇想篇
「天狗」
「盲妹」
「虚影」
「花束(ブーケ)」
「髯の美について」
「桐の木」
「雨男・雪女」
「閑雅な殺人」
「逃避行」
「三ツ辻を振返るな
「白い文化住宅」
「細川あや夫人の手記」
第二部 時代篇
「ものぐさ物語」
「真珠橋(またまばし)」
「密偵の顔」
「武姫伝」
「河童寺」
「霧隠才蔵」
「春情狸噺」
「野武士出陣」
「驢馬修業」
「硬骨に罪あり」
「天狗」(初稿版)
「変化の貌」(「密偵の顔」異稿版)
収録作は以上。他にも大坪砂男について書かれた乱歩や都筑道夫、夫人らのエッセイ類も多く収録されており、相変わらず編者日下三蔵氏の仕事は素晴らしい。
以前にも書いたが、大坪砂男の作品の特徴は練りに練った文章にある。その文章から語られるのは人間の心理の機微であり、それをなぜか論理でもって料理しようとすることで、結果、誰にも真似できないアンバランスな魅力を備えた作品として昇華するのである。
だが本書を読んで、そのストーリーテラーぶりや発想の豊かさも見直すことができたのは収穫。とりわけ時代物は現代物に比べるとより自由に書かれている印象を受け、文章の呪縛から少し逃れているようにも思える。
特に「密偵の顔」は猿飛佐助をネタにした、山田風太郎を彷彿とさせる時代物。先に書いたように発想の凄さを感じさせる一篇だ。
現代物では何といっても「天狗」。
「天狗」ばかりが取り上げられることが多い大坪作品だが、他の作品にも良いものがまだまだあり、この全集でそんな魅力が広く伝わればよいなぁと、まるで版元のような気持ちにすらなっていたのだが(笑)、いや、やはり「天狗」は頭ひとつ抜けている。
二十ページにも満たない小品。今でいうストーカー男の企てが、非常に密度の濃い文章でみっちりと描かれる様は正に大坪砂男の真骨頂。ちんけな動機がとんでもなロジックでシュールな犯罪へと化けていくその過程に唸る。
個人的には、珍しく二人の登場人物による対話がほとんどを占める「白い文化住宅」も好み。科学者の妻の死の真相をめぐる対決が、徐々にシュールな色合いを帯びてくるのが大坪テイストである。
さて、これで全集も折り返し地点。残り二冊もとっくに刊行されているが、大事に大事に読んでいきたい。
第一部 奇想篇
「天狗」
「盲妹」
「虚影」
「花束(ブーケ)」
「髯の美について」
「桐の木」
「雨男・雪女」
「閑雅な殺人」
「逃避行」
「三ツ辻を振返るな
「白い文化住宅」
「細川あや夫人の手記」
第二部 時代篇
「ものぐさ物語」
「真珠橋(またまばし)」
「密偵の顔」
「武姫伝」
「河童寺」
「霧隠才蔵」
「春情狸噺」
「野武士出陣」
「驢馬修業」
「硬骨に罪あり」
「天狗」(初稿版)
「変化の貌」(「密偵の顔」異稿版)
収録作は以上。他にも大坪砂男について書かれた乱歩や都筑道夫、夫人らのエッセイ類も多く収録されており、相変わらず編者日下三蔵氏の仕事は素晴らしい。
以前にも書いたが、大坪砂男の作品の特徴は練りに練った文章にある。その文章から語られるのは人間の心理の機微であり、それをなぜか論理でもって料理しようとすることで、結果、誰にも真似できないアンバランスな魅力を備えた作品として昇華するのである。
だが本書を読んで、そのストーリーテラーぶりや発想の豊かさも見直すことができたのは収穫。とりわけ時代物は現代物に比べるとより自由に書かれている印象を受け、文章の呪縛から少し逃れているようにも思える。
特に「密偵の顔」は猿飛佐助をネタにした、山田風太郎を彷彿とさせる時代物。先に書いたように発想の凄さを感じさせる一篇だ。
現代物では何といっても「天狗」。
「天狗」ばかりが取り上げられることが多い大坪作品だが、他の作品にも良いものがまだまだあり、この全集でそんな魅力が広く伝わればよいなぁと、まるで版元のような気持ちにすらなっていたのだが(笑)、いや、やはり「天狗」は頭ひとつ抜けている。
二十ページにも満たない小品。今でいうストーカー男の企てが、非常に密度の濃い文章でみっちりと描かれる様は正に大坪砂男の真骨頂。ちんけな動機がとんでもなロジックでシュールな犯罪へと化けていくその過程に唸る。
個人的には、珍しく二人の登場人物による対話がほとんどを占める「白い文化住宅」も好み。科学者の妻の死の真相をめぐる対決が、徐々にシュールな色合いを帯びてくるのが大坪テイストである。
さて、これで全集も折り返し地点。残り二冊もとっくに刊行されているが、大事に大事に読んでいきたい。
Posted
on
ヴィンセント・マケヴィティ『新・刑事コロンボ/かみさんよ、安らかに』
またまたコロンボ消化。シリーズ通算五十三作目の『新・刑事コロンボ/かみさんよ、安らかに』。監督はヴィンセント・マケヴィティ。
シリーズ作品の楽しみのひとつとして一種の様式美があり、だからこそ逆にパターンを裏切る楽しみというものもある。
コロンボも然り。勧善懲悪倒叙推理という確固たるスタイルをとりながら、ときには犯人を明かさないままストーリーが進行したり、コロンボに一度は完敗を味わわせたり、コロンボに逮捕をさせなかったり等々。
制作者がマンネリに陥らないよう工夫をしている部分でもあるし、様式美を利用した視聴者へのトリックともいえる場合もある。ただ、コロンボに関していうと、失礼ながら意外に失敗しているケースが多いかも(笑)。
まあ、それはともかくとして。本作『かみさんよ、安らかに』もまた異色という点ではシリーズ中でもトップクラスであろう。なんせ冒頭いきなりコロンボのかみさんの葬儀で幕を開けるのである。そして悲しみに暮れるコロンボを憎しみの目で見つめる謎の女。
実は彼女こそ本作の犯人役。かつて殺人罪でコロンボに逮捕され、獄死した夫の恨みを晴らすべく、コロンボにも自分と同じ苦しみを与えるための所業だったのである。しかもコロンボに接近するため、夫を裏切った現在の自分の上司をまず殺害するという凝りよう。
葬儀のシーンから過去を振り返る形で物語は進み、ラストは再び葬儀のシーンへ。そしてコロンボの逆トリックが炸裂するという案配で物語は決着する。
何といってもコロンボとその家族が犯人の標的になるという点、さらにはそれを利用した逆トリック、回想という形で進むストーリーなど、意欲的な作品であることは間違いなく、十分に楽しめる作品。
難を挙げるとすれば、犯人の目的があくまで復讐であり、しかも精神を病んでいるということか。これがコロンボ最大の魅力である犯人との知的対決という部分において緊張感を危うくしており、加えて後味が悪い。コロンボの逆トリックにひっかかった犯人が最後にコロンボの顔を平手打ちする場面があるけれど、これも上記の理由によって犯人の悲しみや悔しさがいまひとつ伝わらないのが残念。
ただ、コロンボがかみさんに電話をするラストシーンで、そんなもどかしさもきれいに払拭してくれるのが救い。電話とはいえ、ここまでコロンボとかみさんのやりとりを見せたことはないんじゃないかな。
意外に世評は高くないようだけれど、個人的には満足。
シリーズ作品の楽しみのひとつとして一種の様式美があり、だからこそ逆にパターンを裏切る楽しみというものもある。
コロンボも然り。勧善懲悪倒叙推理という確固たるスタイルをとりながら、ときには犯人を明かさないままストーリーが進行したり、コロンボに一度は完敗を味わわせたり、コロンボに逮捕をさせなかったり等々。
制作者がマンネリに陥らないよう工夫をしている部分でもあるし、様式美を利用した視聴者へのトリックともいえる場合もある。ただ、コロンボに関していうと、失礼ながら意外に失敗しているケースが多いかも(笑)。
まあ、それはともかくとして。本作『かみさんよ、安らかに』もまた異色という点ではシリーズ中でもトップクラスであろう。なんせ冒頭いきなりコロンボのかみさんの葬儀で幕を開けるのである。そして悲しみに暮れるコロンボを憎しみの目で見つめる謎の女。
実は彼女こそ本作の犯人役。かつて殺人罪でコロンボに逮捕され、獄死した夫の恨みを晴らすべく、コロンボにも自分と同じ苦しみを与えるための所業だったのである。しかもコロンボに接近するため、夫を裏切った現在の自分の上司をまず殺害するという凝りよう。
葬儀のシーンから過去を振り返る形で物語は進み、ラストは再び葬儀のシーンへ。そしてコロンボの逆トリックが炸裂するという案配で物語は決着する。
何といってもコロンボとその家族が犯人の標的になるという点、さらにはそれを利用した逆トリック、回想という形で進むストーリーなど、意欲的な作品であることは間違いなく、十分に楽しめる作品。
難を挙げるとすれば、犯人の目的があくまで復讐であり、しかも精神を病んでいるということか。これがコロンボ最大の魅力である犯人との知的対決という部分において緊張感を危うくしており、加えて後味が悪い。コロンボの逆トリックにひっかかった犯人が最後にコロンボの顔を平手打ちする場面があるけれど、これも上記の理由によって犯人の悲しみや悔しさがいまひとつ伝わらないのが残念。
ただ、コロンボがかみさんに電話をするラストシーンで、そんなもどかしさもきれいに払拭してくれるのが救い。電話とはいえ、ここまでコロンボとかみさんのやりとりを見せたことはないんじゃないかな。
意外に世評は高くないようだけれど、個人的には満足。
Posted
on
パトリック・マクグーハン『新・刑事コロンボ/完全犯罪の誤算』
コツコツとDVDでコロンボを消化。シリーズ通算五十二作目の『新・刑事コロンボ/完全犯罪の誤算』は、旧シリーズでもおなじみのパトリック・マクグーハンが犯人役と監督を務める一作。
弁護士のオスカー・フィンチは親友のマッキー下院議員のブレーンも務める多忙な男である。そんな彼のもとにステイプリンという男から電話が入った。ステイプリンはかつてフィンチに証拠隠滅をしてもらったおかげで逮捕を免れた過去があり、今回もフィンチに助けを求めてきたのだ。
協力を断るフィンチを、過去の一件を持ち出して脅迫するステイプリン。しかしィンチはこんなこともあろうかと事前にアリバイ工作を行っており、その上でステイプリンを射殺し、自殺に偽装する。
だが、実はステイプリンはフィンチと会う直前、旅先の妻にジョークをファクシミリで送っていたことが発覚。コロンボはこれから自殺する男がそんなことをするのは不自然だと考え、捜査を開始する。
新シリーズには珍しく、ケレン味のないオーソドックスな筋立てと演出が心地よく、新シリーズのなかでも上位に入る出来といえるだろう。これは旧シリーズでも監督や犯人役を数度務めたパトリック・マクグーハンの功績が大きいのではなかろうか。変な言い方だが、安心して見られる対決というか、犯人とコロンボががっぷり四つに組む意味(できればやや犯人有利)をマクグーハンはよく理解している。
とはいえ最高傑作なのかというと、ミステリ的にはいくつか残念な点もちらほら。とりわけ決め手となるコロンボの一手は弱く、鮮やかなオチというにはちょっと物足りない。ただ、これはあくまで爽快感に欠けるという意味であり、コロンボの言っていることはもっともではあるんだけど。
また、コロンボにその一手を打たせてしまった犯人のミスも気になる。あれだけ完璧にやって最後にそんなミスするかという不自然さ。用意周到で切れ者の犯人だけに、このボーンヘッドだけは流れから浮いてしまっている。
ということで、いくつか残念なところもあるにはあるが、まあ、あまり厳しくは言いますまい。拳銃と血痕の関係性についての推理、マッキー下院議員へコロンボが詰め寄るシーン、犯人の犯行準備から犯行シーンまでの緊迫感など、見せ場もまた多い。
何より旧シリーズのテイストを復活させてくれたことが嬉しい一作である。
弁護士のオスカー・フィンチは親友のマッキー下院議員のブレーンも務める多忙な男である。そんな彼のもとにステイプリンという男から電話が入った。ステイプリンはかつてフィンチに証拠隠滅をしてもらったおかげで逮捕を免れた過去があり、今回もフィンチに助けを求めてきたのだ。
協力を断るフィンチを、過去の一件を持ち出して脅迫するステイプリン。しかしィンチはこんなこともあろうかと事前にアリバイ工作を行っており、その上でステイプリンを射殺し、自殺に偽装する。
だが、実はステイプリンはフィンチと会う直前、旅先の妻にジョークをファクシミリで送っていたことが発覚。コロンボはこれから自殺する男がそんなことをするのは不自然だと考え、捜査を開始する。
新シリーズには珍しく、ケレン味のないオーソドックスな筋立てと演出が心地よく、新シリーズのなかでも上位に入る出来といえるだろう。これは旧シリーズでも監督や犯人役を数度務めたパトリック・マクグーハンの功績が大きいのではなかろうか。変な言い方だが、安心して見られる対決というか、犯人とコロンボががっぷり四つに組む意味(できればやや犯人有利)をマクグーハンはよく理解している。
とはいえ最高傑作なのかというと、ミステリ的にはいくつか残念な点もちらほら。とりわけ決め手となるコロンボの一手は弱く、鮮やかなオチというにはちょっと物足りない。ただ、これはあくまで爽快感に欠けるという意味であり、コロンボの言っていることはもっともではあるんだけど。
また、コロンボにその一手を打たせてしまった犯人のミスも気になる。あれだけ完璧にやって最後にそんなミスするかという不自然さ。用意周到で切れ者の犯人だけに、このボーンヘッドだけは流れから浮いてしまっている。
ということで、いくつか残念なところもあるにはあるが、まあ、あまり厳しくは言いますまい。拳銃と血痕の関係性についての推理、マッキー下院議員へコロンボが詰め寄るシーン、犯人の犯行準備から犯行シーンまでの緊迫感など、見せ場もまた多い。
何より旧シリーズのテイストを復活させてくれたことが嬉しい一作である。
Posted
on
梶龍雄『天才は善人を殺す』(徳間文庫)
久々に梶龍雄を一冊。長篇第四作目にあたる『天才は善人を殺す』。
芝端敬一の父は会社で服毒自殺をして亡くなった。親戚から借金をした直後に大金を騙し取られたことが原因だと思われた。父の後妻であり、敬一には義母となるめぐみは、その死を忘れるため、敬一に金を騙し取った犯人を一緒に捜してくれるよう懇願する。
義母にほのかな恋心を抱いていた敬一は、大学の友人であるお京や四辻、探偵小説マニアの高村らと調査に乗り出すが、その前にキャッシュカードの問題が立ちはだかり、そして父の死に隠された真相が徐々に浮かび上がる……。
主人公が若者ということで、デビュー作の『透明な季節』や二作目の『海を見ないで陸を見よう』が連想されるが、これらは過去を舞台にしたリリカルな作品だった。ところが本作では舞台を現代におき、しかも若者の風俗をかなり盛り込んで思いのほかコミカルな雰囲気でまとめている。
加えて探偵小説マニアを登場人物に配することで、積極的に推理する過程を物語の芯に据えたり、随所に探偵小説談議を展開するなど、随分とゲーム性・娯楽性を前面に押し出したスタイルになっている。
当時、『透明な季節』や『海を見ないで陸を見よう』などが探偵小説的な味に乏しいという批判もあったようで、本作は著者なりの挑戦あるいは回答なのであろう。
だがその挑戦は正直、それほど効を奏していない。そもそもこれが本当に著者のやりたかったことなのかという疑問がある。
というのもバリバリの謎解きメインの本作においても、著者は主人公敬一の父に対する想い、義母への愛情を絡めた三角関係など、これまでの作品のテーマに通じるような題材をもきっちりと盛り込んでいるからである。だが先述のとおりいかんせんコミカルな作風の本作において、それらの要素はどうしてもただの添え物にすぎず、見事な融合を見せていた『透明な季節』や『海を見ないで陸を見よう』には及ぶべくもないのだ。
それでも本格探偵小説として強烈な何かがあれば話は別だが、こちらもパンチ不足。密室をはじめいろいろなネタを仕込んではいるのだけれど、仰天の真相というには程遠い。梶龍雄ならとにかく何でも読んでやろう、という人向けか。
芝端敬一の父は会社で服毒自殺をして亡くなった。親戚から借金をした直後に大金を騙し取られたことが原因だと思われた。父の後妻であり、敬一には義母となるめぐみは、その死を忘れるため、敬一に金を騙し取った犯人を一緒に捜してくれるよう懇願する。
義母にほのかな恋心を抱いていた敬一は、大学の友人であるお京や四辻、探偵小説マニアの高村らと調査に乗り出すが、その前にキャッシュカードの問題が立ちはだかり、そして父の死に隠された真相が徐々に浮かび上がる……。
主人公が若者ということで、デビュー作の『透明な季節』や二作目の『海を見ないで陸を見よう』が連想されるが、これらは過去を舞台にしたリリカルな作品だった。ところが本作では舞台を現代におき、しかも若者の風俗をかなり盛り込んで思いのほかコミカルな雰囲気でまとめている。
加えて探偵小説マニアを登場人物に配することで、積極的に推理する過程を物語の芯に据えたり、随所に探偵小説談議を展開するなど、随分とゲーム性・娯楽性を前面に押し出したスタイルになっている。
当時、『透明な季節』や『海を見ないで陸を見よう』などが探偵小説的な味に乏しいという批判もあったようで、本作は著者なりの挑戦あるいは回答なのであろう。
だがその挑戦は正直、それほど効を奏していない。そもそもこれが本当に著者のやりたかったことなのかという疑問がある。
というのもバリバリの謎解きメインの本作においても、著者は主人公敬一の父に対する想い、義母への愛情を絡めた三角関係など、これまでの作品のテーマに通じるような題材をもきっちりと盛り込んでいるからである。だが先述のとおりいかんせんコミカルな作風の本作において、それらの要素はどうしてもただの添え物にすぎず、見事な融合を見せていた『透明な季節』や『海を見ないで陸を見よう』には及ぶべくもないのだ。
それでも本格探偵小説として強烈な何かがあれば話は別だが、こちらもパンチ不足。密室をはじめいろいろなネタを仕込んではいるのだけれど、仰天の真相というには程遠い。梶龍雄ならとにかく何でも読んでやろう、という人向けか。
Posted
on
ギレルモ・デル・トロ『パシフィック・リム』
話題の夏休み映画がこぞって公開され始めたので、一番気になっていた『パシフィック・リム』を観る。監督はギレルモ・デル・トロ。
ときは近未来。太平洋のある海溝から巨大な生物が突如現れ、ロサンゼルスが襲われた。米軍が総力を挙げて戦った結果、なんとか倒すことには成功したが、それはこの先何年にもわたって続く悲劇の幕開けに過ぎなかった。巨大生物は一匹ではなく、その後も次々と出現し、世界各国の都市を襲撃し始めたのだ。
「カイジュウ」と名付けられた巨大生物を対すべく、人類の叡智が集結。そして開発されたのが二足歩行型の巨大ロボット兵器「イェーガー」だった。イェーガーは絶大な成果を上げたが、やがてカイジュウも進化適応し、人類は徐々に苦戦を強いられる。そしてイェーガー計画そのものが消滅したとき、司令官は政府から独立した組織として、最後の賭けに打って出ようとする……。
日本が世界に誇る二大コンテンツ、巨大ロボットと怪獣の戦いを真っ向から取り上げた大作。いろいろと引っかかる部分もあるにはあるが、まずはこれだけやってくれれば十分だろう。
監督のギレルモ・デル・トロはメキシコ人だが、メキシコでは数多くの日本製特撮映画やテレビアニメが放映されており、ギレルモは子どもの頃からそういったものでどっぷりと純粋培養され、生粋のオタクとして成長した方である。そんな彼が自分の思いを徹底的にぶちこんだのが本作。
したがって日本の特撮やアニメに対するリスペクトがここかしこに窺われ、一見はいかにも今どきのハリウッドSF大作だが、ギミックや演出は意外に懐かしい感じがするのがよろしい(もちろん日本の怪獣ファンにとってだが)。怪獣やロボットの動きに、いかにも日本的な決めポーズが入ったり(○○パーンチ!とか)、怪獣プロレスをシングルだけでなくタッグマッチでも見せたり、この監督の理解度は半端じゃない。
ロボットの操縦が二人のパイロットの脳をシンクロさせて行うというアイディアも悪くない。二人の記憶を同調させることが重要なので、パイロットは兄弟や親子という関係であればより相性が良くなるのだが、そこに絆を軸としたドラマも生まれるわけで、しかもこれがラストの科学者の活躍にもつながるという巧みさ。
ただ、正直描き方は浅く、ちょっともったいない気はするのだけれど、まあ、この映画のメインディッシュはそこじゃないから良しとする(笑)。
決着のつけ方がいかにも最近のハリウッドSF映画的で(このパターン多すぎるような)、そこは残念なところのひとつだが、まあ、そこも許す。
この手の映画を真面目に作ってくれるなら、管理人としてはそれだけで十分なのである。
ときは近未来。太平洋のある海溝から巨大な生物が突如現れ、ロサンゼルスが襲われた。米軍が総力を挙げて戦った結果、なんとか倒すことには成功したが、それはこの先何年にもわたって続く悲劇の幕開けに過ぎなかった。巨大生物は一匹ではなく、その後も次々と出現し、世界各国の都市を襲撃し始めたのだ。
「カイジュウ」と名付けられた巨大生物を対すべく、人類の叡智が集結。そして開発されたのが二足歩行型の巨大ロボット兵器「イェーガー」だった。イェーガーは絶大な成果を上げたが、やがてカイジュウも進化適応し、人類は徐々に苦戦を強いられる。そしてイェーガー計画そのものが消滅したとき、司令官は政府から独立した組織として、最後の賭けに打って出ようとする……。
日本が世界に誇る二大コンテンツ、巨大ロボットと怪獣の戦いを真っ向から取り上げた大作。いろいろと引っかかる部分もあるにはあるが、まずはこれだけやってくれれば十分だろう。
監督のギレルモ・デル・トロはメキシコ人だが、メキシコでは数多くの日本製特撮映画やテレビアニメが放映されており、ギレルモは子どもの頃からそういったものでどっぷりと純粋培養され、生粋のオタクとして成長した方である。そんな彼が自分の思いを徹底的にぶちこんだのが本作。
したがって日本の特撮やアニメに対するリスペクトがここかしこに窺われ、一見はいかにも今どきのハリウッドSF大作だが、ギミックや演出は意外に懐かしい感じがするのがよろしい(もちろん日本の怪獣ファンにとってだが)。怪獣やロボットの動きに、いかにも日本的な決めポーズが入ったり(○○パーンチ!とか)、怪獣プロレスをシングルだけでなくタッグマッチでも見せたり、この監督の理解度は半端じゃない。
ロボットの操縦が二人のパイロットの脳をシンクロさせて行うというアイディアも悪くない。二人の記憶を同調させることが重要なので、パイロットは兄弟や親子という関係であればより相性が良くなるのだが、そこに絆を軸としたドラマも生まれるわけで、しかもこれがラストの科学者の活躍にもつながるという巧みさ。
ただ、正直描き方は浅く、ちょっともったいない気はするのだけれど、まあ、この映画のメインディッシュはそこじゃないから良しとする(笑)。
決着のつけ方がいかにも最近のハリウッドSF映画的で(このパターン多すぎるような)、そこは残念なところのひとつだが、まあ、そこも許す。
この手の映画を真面目に作ってくれるなら、管理人としてはそれだけで十分なのである。
Posted
on
ピーター・ディキンスン『生ける屍』(ちくま文庫)
いや、今日は暑かった。甲府では四十度を超えたとかで、いったいどんな暑さなんだこれは。東京でも三十七度オーバーだったが、仕事の絡みもあり、覚悟を決めてコミケをのぞきにいく。当然ながら壮絶な人出と熱気で、あちらこちらで倒れる人続出。そりゃそうだわな。こちらも噴き出す汗で頭から水をかぶったような状態になり、早々に退散。
読了本はピーター・ディキンスンの『生ける屍』。
効き目揃いのサンリオ文庫にあってトップクラスの効き目といわれた本書。古書価格数万という状態が続いていたが、つい二ヶ月ほど前にちくま文庫で復刊され、ようやく手にとることができた。長年の憑きものがひとつ落ちた感じで、実はそれだけで満足なのだが(苦笑)、やはり一応は読んでみなければ。
カリブ海の島に派遣された薬品会社の実験薬理学者フォックス。そこはいまだに魔術を信じる島民が住み、独裁者が秘密警察を使って支配する地であった。しぶしぶ研究に従事するフォックスだったが、とある陰謀に巻き込まれ、殺人の容疑をかけられてしまう。そしてそこへ現れた警察により、反体制側の囚人への人体実験を強制される……。
表面的には小国のクーデターに巻き込まれた主人公の冒険スパイスリラー。
だが、もちろんピーター・ディキンスンが手掛けるからにはそんな単純なジャンルで収まるわけがない。そのテイストは以前に読んだ『眠りと死は兄弟』や『盃のなかのトカゲ』に近く、エキゾチックかつ特異な世界観と独特のぼやかした描写によって、非常にシュールな空気を漂わせている。
このディキンスンならではの空気感がまず読みどころなのだが、逆にいうと、これに乗れなければディキンスンは楽しめない。管理人も以前は?なときもあったのだが、久々にこのディキンスンワールドに触れるとこれが実に心地よい。
読みどころをもうひとつ、というか、むしろこっちがメインテーマなのだが、何といっても題名にある「生ける屍」の存在である。これは主人公の姿そのものを指しているわけだが、これがまた巧いのである。
本作で描かれるファシズムの有り様と、それに踊らされる民衆の間で、主人公の自我の曖昧さは異様に際だっている。英国の冒険スパイスリラーの主人公とは思えないその第三者的な意識。クールや醒めた目というのとは違う。むしろ無関心といってよいぐらいの、世界との関わりの薄さが実に「生ける屍」=「ゾンビ」的なのである。
自分の道を模索している、つまり成長の物語という見方もできるが、やはりここは世界とのつながりにおいて未熟な人間というものの存在を危惧していると理解したい。おそらく著者は専門馬鹿的な技術者や役人を意識して書いているのだろう。だがその姿は、奇しくも本書が復刻された今の日本人の姿にこそより近いのではないだろうか。
なお、サンリオ文庫のディキンスン本はこれで『キングとジョーカー』、『生ける屍』が復刻されたことになる。残るは『緑色遺伝子』のみなので、これもどこかで復刊してくれれば幸い。
読了本はピーター・ディキンスンの『生ける屍』。
効き目揃いのサンリオ文庫にあってトップクラスの効き目といわれた本書。古書価格数万という状態が続いていたが、つい二ヶ月ほど前にちくま文庫で復刊され、ようやく手にとることができた。長年の憑きものがひとつ落ちた感じで、実はそれだけで満足なのだが(苦笑)、やはり一応は読んでみなければ。
カリブ海の島に派遣された薬品会社の実験薬理学者フォックス。そこはいまだに魔術を信じる島民が住み、独裁者が秘密警察を使って支配する地であった。しぶしぶ研究に従事するフォックスだったが、とある陰謀に巻き込まれ、殺人の容疑をかけられてしまう。そしてそこへ現れた警察により、反体制側の囚人への人体実験を強制される……。
表面的には小国のクーデターに巻き込まれた主人公の冒険スパイスリラー。
だが、もちろんピーター・ディキンスンが手掛けるからにはそんな単純なジャンルで収まるわけがない。そのテイストは以前に読んだ『眠りと死は兄弟』や『盃のなかのトカゲ』に近く、エキゾチックかつ特異な世界観と独特のぼやかした描写によって、非常にシュールな空気を漂わせている。
このディキンスンならではの空気感がまず読みどころなのだが、逆にいうと、これに乗れなければディキンスンは楽しめない。管理人も以前は?なときもあったのだが、久々にこのディキンスンワールドに触れるとこれが実に心地よい。
読みどころをもうひとつ、というか、むしろこっちがメインテーマなのだが、何といっても題名にある「生ける屍」の存在である。これは主人公の姿そのものを指しているわけだが、これがまた巧いのである。
本作で描かれるファシズムの有り様と、それに踊らされる民衆の間で、主人公の自我の曖昧さは異様に際だっている。英国の冒険スパイスリラーの主人公とは思えないその第三者的な意識。クールや醒めた目というのとは違う。むしろ無関心といってよいぐらいの、世界との関わりの薄さが実に「生ける屍」=「ゾンビ」的なのである。
自分の道を模索している、つまり成長の物語という見方もできるが、やはりここは世界とのつながりにおいて未熟な人間というものの存在を危惧していると理解したい。おそらく著者は専門馬鹿的な技術者や役人を意識して書いているのだろう。だがその姿は、奇しくも本書が復刻された今の日本人の姿にこそより近いのではないだろうか。
なお、サンリオ文庫のディキンスン本はこれで『キングとジョーカー』、『生ける屍』が復刻されたことになる。残るは『緑色遺伝子』のみなので、これもどこかで復刊してくれれば幸い。
Posted
on
ダリル・デューク『新・刑事コロンボ/だまされたコロンボ』
昨日は某パーティで昼の三時頃から夜の九時頃まで飲んだのだが、久しぶりにヘロヘロになってしまった。それほど飲んだわけでもないし、帰宅時間もそれほど遅くなかったが、家に着いたとたんリビングでダウン。目が覚めたら朝の三時という始末である。夏風邪はだいぶ治まってきたのだが、やはりまだ体調が万全じゃなかったのだろう。本日は大人しく家で寝てました。
DVDでダリル・デューク監督の『新・刑事コロンボ/だまされたコロンボ』を視聴。シリーズ通算五十一作目。
人気男性誌のオーナーでイメージシンボルでもあるブラントリーは、広大な屋敷でたくさんの美人モデルと暮らす毎日。しかし、実験を握る共同経営者のダイアンが、イギリスの実業家に株を売り払い、ブラントリーを追放すると宣言する。ところが契約のためロンドンへ向かったダイアンが、その途中で行方不明となる事件が起こる。コロンボはイギリスの警察から捜査協力を依頼され、ダイアンの行方を追うが……。
冒頭の殺人シーンを見せず、いつもの倒叙とはひと味違う展開を見せる異色作。
状況証拠はすべてブラントリーが犯人であることを示唆しているが、肝心の死体が見つからず、このあたりは『パイルD3の壁』を彷彿とさせる。ただ、先に書いたように冒頭の殺人シーンがないため、視聴者とすればここに最大のヒントが隠されていることがわかり、ある程度は先が読めてしまう。
もっとも作中のコロンボはそんなことなどわかるはずもないので、オーソドックスに犯人を追い詰めていくのだが、少々いつものキレがないのがガッカリ。
救いは二つめの事件での、ラストの鮮やかさ。このラストの演出はシリーズのトップクラスに匹敵する。
だがいかんせん、ひとつ目の事件でフラストレーションがたまってしまっており、それを払拭するまでには至っていない。結局はコロンボをだますというより、シリーズファンをだまそうとする狙いが強く、好き嫌いでいうと断然嫌いな作品である(苦笑)。全体的にはよくできたストーリーなのだが、これはコロンボではない作品でやってほしかったかな。
DVDでダリル・デューク監督の『新・刑事コロンボ/だまされたコロンボ』を視聴。シリーズ通算五十一作目。
人気男性誌のオーナーでイメージシンボルでもあるブラントリーは、広大な屋敷でたくさんの美人モデルと暮らす毎日。しかし、実験を握る共同経営者のダイアンが、イギリスの実業家に株を売り払い、ブラントリーを追放すると宣言する。ところが契約のためロンドンへ向かったダイアンが、その途中で行方不明となる事件が起こる。コロンボはイギリスの警察から捜査協力を依頼され、ダイアンの行方を追うが……。
冒頭の殺人シーンを見せず、いつもの倒叙とはひと味違う展開を見せる異色作。
状況証拠はすべてブラントリーが犯人であることを示唆しているが、肝心の死体が見つからず、このあたりは『パイルD3の壁』を彷彿とさせる。ただ、先に書いたように冒頭の殺人シーンがないため、視聴者とすればここに最大のヒントが隠されていることがわかり、ある程度は先が読めてしまう。
もっとも作中のコロンボはそんなことなどわかるはずもないので、オーソドックスに犯人を追い詰めていくのだが、少々いつものキレがないのがガッカリ。
救いは二つめの事件での、ラストの鮮やかさ。このラストの演出はシリーズのトップクラスに匹敵する。
だがいかんせん、ひとつ目の事件でフラストレーションがたまってしまっており、それを払拭するまでには至っていない。結局はコロンボをだますというより、シリーズファンをだまそうとする狙いが強く、好き嫌いでいうと断然嫌いな作品である(苦笑)。全体的にはよくできたストーリーなのだが、これはコロンボではない作品でやってほしかったかな。
Posted
on
高城高『夜明け遠き街よ』(東京創元社)
高城高の『夜明け遠き街よ』を読む。
日本ハードボイルドの祖でありながら、若くして執筆から遠ざかり、幻の作家と称されていた高城高。しかし、2006年に仙台の出版社荒蝦夷から傑作集が刊行されたのを機に執筆活動を再開、今では定期的に作品を発表するまでになり、復帰後だけでもすでに三冊の短編集を上梓しているから、実に見事な復活劇といえるだろう。
しかも、ただ昔の名前だけで帰ってきたわけではない。著者が凄いのは、長いブランクがあるにもかかわらず、いささかの衰えもなかったこと。むしろより円熟味を増しての復活を為し遂げた印象である。
デビュー当時の作風はどちらかというと殺伐とした雰囲気、あるいは凍てつくような寂寥感を漂わせた世界観が多く、登場人物たちもまたその世界にふさわしい者たちであった。
ところが復活後の作品にはある種の余裕が加わったように思う。比較的近い過去の、だが混沌とした舞台。興味深いのは、その世界のなかを意外なほど軽やかに泳いでいる者たちの姿だ。彼らは時代に反骨する部分はもちつつも、変化を受け入れて利用するしたたかさも持ち合わせている。その点にこそ、過去の作品と復活後の作品の大きな違いを感じるのである。
そして高城高が新たに選んだ舞台は、なんとバブル景気に沸き返る1980年代後半の札幌ススキノである。
国全体が浮かれ騒いだ1980年代。ここ札幌ススキノも例外ではなく、夜ごと欲望と金が乱れ飛ぶ。クラブ経営を夢見るホステス、地上げ騒動の蔭で跳梁跋扈する面々、暴力団に役人、政治家、実業家……。時代の徒花と知ってか知らずか、消費のための日々に蠢く男女をクールに見つめるのは、キャバレー〈ニュータイガー〉の黒服・黒頭悠介である。
これはしびれる。
ひとくせもふたくせもある連中、欲に溺れるどうしようもない輩、さまざまな者たちの物語が連作短編集という形で描かれる。一応はそれぞれ独立した短編ではあるのだが、相互に関連するエピソードが仕掛けられており、通して読むことで、バブルススキノというイメージがいっそう際立ってくるという結構である。
また、それをさらに効果的にしているのが文体。『函館水上警察』も良かったが、高城高の研ぎすまされた文体は、やはり裏社会にこそよく似合う。この時代、風俗が実に活きいきと描写され、当時のススキノを知らない人であっても、この熱気だけは伝わるだろう。おすすめ。
日本ハードボイルドの祖でありながら、若くして執筆から遠ざかり、幻の作家と称されていた高城高。しかし、2006年に仙台の出版社荒蝦夷から傑作集が刊行されたのを機に執筆活動を再開、今では定期的に作品を発表するまでになり、復帰後だけでもすでに三冊の短編集を上梓しているから、実に見事な復活劇といえるだろう。
しかも、ただ昔の名前だけで帰ってきたわけではない。著者が凄いのは、長いブランクがあるにもかかわらず、いささかの衰えもなかったこと。むしろより円熟味を増しての復活を為し遂げた印象である。
デビュー当時の作風はどちらかというと殺伐とした雰囲気、あるいは凍てつくような寂寥感を漂わせた世界観が多く、登場人物たちもまたその世界にふさわしい者たちであった。
ところが復活後の作品にはある種の余裕が加わったように思う。比較的近い過去の、だが混沌とした舞台。興味深いのは、その世界のなかを意外なほど軽やかに泳いでいる者たちの姿だ。彼らは時代に反骨する部分はもちつつも、変化を受け入れて利用するしたたかさも持ち合わせている。その点にこそ、過去の作品と復活後の作品の大きな違いを感じるのである。
そして高城高が新たに選んだ舞台は、なんとバブル景気に沸き返る1980年代後半の札幌ススキノである。
国全体が浮かれ騒いだ1980年代。ここ札幌ススキノも例外ではなく、夜ごと欲望と金が乱れ飛ぶ。クラブ経営を夢見るホステス、地上げ騒動の蔭で跳梁跋扈する面々、暴力団に役人、政治家、実業家……。時代の徒花と知ってか知らずか、消費のための日々に蠢く男女をクールに見つめるのは、キャバレー〈ニュータイガー〉の黒服・黒頭悠介である。
これはしびれる。
ひとくせもふたくせもある連中、欲に溺れるどうしようもない輩、さまざまな者たちの物語が連作短編集という形で描かれる。一応はそれぞれ独立した短編ではあるのだが、相互に関連するエピソードが仕掛けられており、通して読むことで、バブルススキノというイメージがいっそう際立ってくるという結構である。
また、それをさらに効果的にしているのが文体。『函館水上警察』も良かったが、高城高の研ぎすまされた文体は、やはり裏社会にこそよく似合う。この時代、風俗が実に活きいきと描写され、当時のススキノを知らない人であっても、この熱気だけは伝わるだろう。おすすめ。