Posted in 01 2020
今月はプライベートでも仕事でもいろいろと大きな出来事があって、なかなか心身ともに休まらない。今日などは久々にゆっくりできたはできたのだが、今週も大きな会議やら接待やら、おまけに関西出張まであって、まことに忙しないかぎり。もうしばらくは我慢である。
そんな状況にあっても、とりあえず本は読む。本日の読了本は『砂漠の伏魔殿 大阪圭吉単行本未収録作品集2』。盛林堂が進めている大阪圭吉の単行本未収録作品集の一冊である。収録作は以下のとおり。
「花嫁の塑像」
「氷」
「沙漠の伏魔殿」
「人外神秘境」
「主なき貯金」
「現代小説 山は微笑む」
「濱田彌兵衛」
「創作喜劇台本 軍事郵便(一幕)」
「エッセイ・ハガキ回答・アンケート」

比較的、軽い作品が多いのは一巻や二巻と同様である。拾遺集的なシリーズなので、それは致し方ないところだが、それでも歴史ものや秘境もの、コントに戯曲まであるのは要注目。つい十年ほど前はここまで作風に幅がある作家だとはマニアでもあまり認識していなかったはずで、そういう作品が読めるだけでもありがたい。
個人的に気に入ったものは「氷」や「主なき貯金」、「現代小説 山は微笑む」といったところか。
「氷」は掌編レベルのボリュームで、一歩間違えればコントやホラーになりそうなところを、なんとも言いようのない複雑な読後感で着地させてくれる。「主なき貯金」も掌編レベルだが、この枚数で人間の割り切れない心について考えさせてくれるところがさすが。
「現代小説 山は微笑む」は炭鉱を舞台にした小説で、大阪圭吉作品で炭鉱といえば、当然すぐに「坑鬼」を連想するだろうが、こちらはそれとは真逆の明朗小説の世界である。それだけにオチも予想しやすいが、まあ楽しいからいいやね。
なお、本書発行人である小野氏の「あとがきにかえて」が巻末にあるのだが、これがけっこう見逃せない。内容としては大阪圭吉のご親族訪問記で、本書に収録している作品の発見された背景などが記されているなど、非常にドキュメンタリーちっく。実はこれが一番面白かった(笑)。
ちなみに本書はまだ盛林堂さんの通販で買えるようです。
http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca1/550/p-r-s/
そんな状況にあっても、とりあえず本は読む。本日の読了本は『砂漠の伏魔殿 大阪圭吉単行本未収録作品集2』。盛林堂が進めている大阪圭吉の単行本未収録作品集の一冊である。収録作は以下のとおり。
「花嫁の塑像」
「氷」
「沙漠の伏魔殿」
「人外神秘境」
「主なき貯金」
「現代小説 山は微笑む」
「濱田彌兵衛」
「創作喜劇台本 軍事郵便(一幕)」
「エッセイ・ハガキ回答・アンケート」

比較的、軽い作品が多いのは一巻や二巻と同様である。拾遺集的なシリーズなので、それは致し方ないところだが、それでも歴史ものや秘境もの、コントに戯曲まであるのは要注目。つい十年ほど前はここまで作風に幅がある作家だとはマニアでもあまり認識していなかったはずで、そういう作品が読めるだけでもありがたい。
個人的に気に入ったものは「氷」や「主なき貯金」、「現代小説 山は微笑む」といったところか。
「氷」は掌編レベルのボリュームで、一歩間違えればコントやホラーになりそうなところを、なんとも言いようのない複雑な読後感で着地させてくれる。「主なき貯金」も掌編レベルだが、この枚数で人間の割り切れない心について考えさせてくれるところがさすが。
「現代小説 山は微笑む」は炭鉱を舞台にした小説で、大阪圭吉作品で炭鉱といえば、当然すぐに「坑鬼」を連想するだろうが、こちらはそれとは真逆の明朗小説の世界である。それだけにオチも予想しやすいが、まあ楽しいからいいやね。
なお、本書発行人である小野氏の「あとがきにかえて」が巻末にあるのだが、これがけっこう見逃せない。内容としては大阪圭吉のご親族訪問記で、本書に収録している作品の発見された背景などが記されているなど、非常にドキュメンタリーちっく。実はこれが一番面白かった(笑)。
ちなみに本書はまだ盛林堂さんの通販で買えるようです。
http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca1/550/p-r-s/
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ジーン・ウルフ『書架の探偵』(新☆ハヤカワSFシリーズ)
ジーン・ウルフの『書架の探偵』を読む。普段それほどSFは読まないけれども、これはジーン・ウルフが書いたSFミステリ、しかも探偵役の設定が非常に面白そうなので気になっていた作品である。
まずはストーリーから。
時は二十二世紀。世界の総人口は十億まで減少し、科学文明は進んでいたが資源は尽きかけ、社会問題も蔓延していた。世界全体を厭世観が包む、いわゆるディストピアの世界である。
そんな世界で、図書館には「蔵者」と呼ばれる存在があった。一見、普通の人間に見える彼らは、作家の脳をスキャンされたリクローン(複生体)であり、図書館の書架で暮らし、利用者の求めに応じて知識を授けるのである。しかし、彼らはあくまで人間ではなく、リクローン(複生体)である。古くなったり、利用されない「蔵者」は処分されてしまう運命だった。
ある日、推理作家E・A・スミスのリクローンであるE・A・スミスは、コレットと名乗る女性の訪問を受ける。父と兄を立て続けに亡くした彼女は、兄から死の直前にスミスの著書『火星の殺人』を手渡されたという。兄の死には、この本が関係しているのか? コレットはその謎を解くために著者であるスミスを借り出し、父たちが住んでいた家を訪れるが、何者かに襲われてしまう……。

上でも書いたようにそれほどSFは強いわけでもなく、ジーン・ウルフの作品も初めて読むのでSF的な観点からはあまり大したことも書けないのだけれど、よくいえば意外にオーソドックスで読みやすく、悪くいえば少々古さを感じさせる内容で、あまり驚くような話ではなかった。
図書館や「蔵者」という設定、それにまつわるエピソードなどは面白い。例えば、彼らはあくまで本の代わりとして造られたクローンなので、唯一の存在ではない。つまり同じ作家のリクローンは他の図書館にもいるということ。この設定を利用してスミスが生前の妻だった詩人のアラベラと各地で顔をあわせるところなど、物語のアクセントにもなっている。
ただ、そのほかの点では、リクローンに関しては専ら人種差別問題を反映している程度で、これをあまり打ち出されても少々物足りないのも事実。彼らはあくまで「もの」であるため、いろいろな迫害を受けたり、自分という存在について苦悩したりもするが、さすがに今更な印象は否めない。それがストーリーの根本的なところに絡まないもどかしさもある。
素材はいいけれど、調理の仕方が古いのか。これを書いたときの作者の年齢が八十歳を超えていたことや、ミステリに寄せて書いたことも影響しているように思う。
ミステリに寄せて、と書いたが、基本的に本作のテイストはかなりハードボイルドに近い。捜査の一本道的な進め方、一人称という語り、主人公スミスの一貫した行動原理など、その空気はなかなか私立探偵的である。ときには脅されたり殴られたりしても減らず口をたたくところなど(口調こそ礼儀正しいけれど)、いかにもなやりとりに思わずニヤリとさせられる。
そういうわけで雰囲気は悪くないと思うのだが、結局これらによって明らかになる事実も含め、SFとしてはそこまで突き抜けたものではないのが最大の弱みだろう。まあ、個人的にはそこそこ楽しめたけれども、SFファンやウルフファンには物足りなく感じられるだろうなぁ。
まずはストーリーから。
時は二十二世紀。世界の総人口は十億まで減少し、科学文明は進んでいたが資源は尽きかけ、社会問題も蔓延していた。世界全体を厭世観が包む、いわゆるディストピアの世界である。
そんな世界で、図書館には「蔵者」と呼ばれる存在があった。一見、普通の人間に見える彼らは、作家の脳をスキャンされたリクローン(複生体)であり、図書館の書架で暮らし、利用者の求めに応じて知識を授けるのである。しかし、彼らはあくまで人間ではなく、リクローン(複生体)である。古くなったり、利用されない「蔵者」は処分されてしまう運命だった。
ある日、推理作家E・A・スミスのリクローンであるE・A・スミスは、コレットと名乗る女性の訪問を受ける。父と兄を立て続けに亡くした彼女は、兄から死の直前にスミスの著書『火星の殺人』を手渡されたという。兄の死には、この本が関係しているのか? コレットはその謎を解くために著者であるスミスを借り出し、父たちが住んでいた家を訪れるが、何者かに襲われてしまう……。

上でも書いたようにそれほどSFは強いわけでもなく、ジーン・ウルフの作品も初めて読むのでSF的な観点からはあまり大したことも書けないのだけれど、よくいえば意外にオーソドックスで読みやすく、悪くいえば少々古さを感じさせる内容で、あまり驚くような話ではなかった。
図書館や「蔵者」という設定、それにまつわるエピソードなどは面白い。例えば、彼らはあくまで本の代わりとして造られたクローンなので、唯一の存在ではない。つまり同じ作家のリクローンは他の図書館にもいるということ。この設定を利用してスミスが生前の妻だった詩人のアラベラと各地で顔をあわせるところなど、物語のアクセントにもなっている。
ただ、そのほかの点では、リクローンに関しては専ら人種差別問題を反映している程度で、これをあまり打ち出されても少々物足りないのも事実。彼らはあくまで「もの」であるため、いろいろな迫害を受けたり、自分という存在について苦悩したりもするが、さすがに今更な印象は否めない。それがストーリーの根本的なところに絡まないもどかしさもある。
素材はいいけれど、調理の仕方が古いのか。これを書いたときの作者の年齢が八十歳を超えていたことや、ミステリに寄せて書いたことも影響しているように思う。
ミステリに寄せて、と書いたが、基本的に本作のテイストはかなりハードボイルドに近い。捜査の一本道的な進め方、一人称という語り、主人公スミスの一貫した行動原理など、その空気はなかなか私立探偵的である。ときには脅されたり殴られたりしても減らず口をたたくところなど(口調こそ礼儀正しいけれど)、いかにもなやりとりに思わずニヤリとさせられる。
そういうわけで雰囲気は悪くないと思うのだが、結局これらによって明らかになる事実も含め、SFとしてはそこまで突き抜けたものではないのが最大の弱みだろう。まあ、個人的にはそこそこ楽しめたけれども、SFファンやウルフファンには物足りなく感じられるだろうなぁ。
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都筑道夫『三重露出』(講談社文庫)
都筑道夫の『三重露出』を読む。昭和の作家を消化するなかで、やはり都筑道夫も忘れてはならない作家だろう。高校ぐらいのころに次々と文庫化されていたこともあり、初期の代表作はけっこ読んでいるはずで、本作も三十五年ぶりぐらいの再読である(苦笑)。
こんな話。翻訳者の滝口が目下とりかかっているのはアメリカの作家、S・B・クランストンが書いたスパイ小説『三重露出』。なんと日本を舞台にし、アメリカ人の私立探偵もどきが女忍者やギャングと渡り合う破天荒な内容である。ところが作中で意外な人物が登場し、滝口を驚かせる。
意外な人物の名は沢之内より子。かつて滝口の知人らが集まっていたパーティーで変死を遂げた女性である。この小説は事件となにか関わりがあるのだろうか?

翻訳者・滝口が過去の事件を追う現実世界のパートと、作中作『三重露出』のパート、この二つが交互に語られてゆく異色の構成。初期の都筑作品らしい実にトリッキーな作品である。
最近では『カササギ殺人事件』というビッグネームがあるし、新本格系の作家にはちらほらあるようだが、作中作というネタを用いたミステリは決して多いわけではない。それはそうだろう。長編一作書くだけでも大変なのに、二作分を盛り込んだうえ、両者に重要な関連性を持たせなければ作中作というネタを用いた意味がない。そこには単なる作中作というアイディアだけではなく、おのずとメタ・ミステリというものに対するアプローチも生まれるわけで、都筑道夫はその点も抜かりはない。さまざまなミステリのネタやパロディ要素を盛り込み、加えて当時の翻訳やミステリに関する裏話までぶちこんでくる。
そういう意味において、本作は既成のミステリに対するチャレンジともいえるわけで、1960年代の初めにこういう試みをした都筑道夫はさすがとしか言いようがない。
ただし、その試みが成功しているかというと、ここはなかなか難しいところだ。特に弱いのは作中作のパートと現実世界のパートの関連が薄いところである。両者を結ぶ糸は“沢之内より子”という人物しかないのだが、それが終盤までそのまま流れてしまうのはいただけないし、自分が何か読み落としているのかと思ったぐらいあっけない。
もうひとつ気になるのは両パートのバランスの悪さか。ぶっちゃけいうと作中作のパートがあまりに弾けすぎていて、現実世界のパートが霞んでしまっている。
一応はスパイ小説だが、その方向性は007と山風の忍法帖をあわせたうえで、よりユーモアとお色気をパワーアップさせたような内容。これが実にバカバカしいのだがたまらなく面白い(笑)。
その面白さが現実パートで急にぶった切られてしまい、このつながりの悪さ、バランスの悪さが消化不良を起こしてしまう。
というわけで、個人的には先に書いたようにチャレンジ精神をこそ評価したい作品だが、今、人にオススメできるかどうかとなると微妙なのも確か。そんな作品である。
こんな話。翻訳者の滝口が目下とりかかっているのはアメリカの作家、S・B・クランストンが書いたスパイ小説『三重露出』。なんと日本を舞台にし、アメリカ人の私立探偵もどきが女忍者やギャングと渡り合う破天荒な内容である。ところが作中で意外な人物が登場し、滝口を驚かせる。
意外な人物の名は沢之内より子。かつて滝口の知人らが集まっていたパーティーで変死を遂げた女性である。この小説は事件となにか関わりがあるのだろうか?

翻訳者・滝口が過去の事件を追う現実世界のパートと、作中作『三重露出』のパート、この二つが交互に語られてゆく異色の構成。初期の都筑作品らしい実にトリッキーな作品である。
最近では『カササギ殺人事件』というビッグネームがあるし、新本格系の作家にはちらほらあるようだが、作中作というネタを用いたミステリは決して多いわけではない。それはそうだろう。長編一作書くだけでも大変なのに、二作分を盛り込んだうえ、両者に重要な関連性を持たせなければ作中作というネタを用いた意味がない。そこには単なる作中作というアイディアだけではなく、おのずとメタ・ミステリというものに対するアプローチも生まれるわけで、都筑道夫はその点も抜かりはない。さまざまなミステリのネタやパロディ要素を盛り込み、加えて当時の翻訳やミステリに関する裏話までぶちこんでくる。
そういう意味において、本作は既成のミステリに対するチャレンジともいえるわけで、1960年代の初めにこういう試みをした都筑道夫はさすがとしか言いようがない。
ただし、その試みが成功しているかというと、ここはなかなか難しいところだ。特に弱いのは作中作のパートと現実世界のパートの関連が薄いところである。両者を結ぶ糸は“沢之内より子”という人物しかないのだが、それが終盤までそのまま流れてしまうのはいただけないし、自分が何か読み落としているのかと思ったぐらいあっけない。
もうひとつ気になるのは両パートのバランスの悪さか。ぶっちゃけいうと作中作のパートがあまりに弾けすぎていて、現実世界のパートが霞んでしまっている。
一応はスパイ小説だが、その方向性は007と山風の忍法帖をあわせたうえで、よりユーモアとお色気をパワーアップさせたような内容。これが実にバカバカしいのだがたまらなく面白い(笑)。
その面白さが現実パートで急にぶった切られてしまい、このつながりの悪さ、バランスの悪さが消化不良を起こしてしまう。
というわけで、個人的には先に書いたようにチャレンジ精神をこそ評価したい作品だが、今、人にオススメできるかどうかとなると微妙なのも確か。そんな作品である。
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江戸川乱歩/編『世界推理短編傑作集4』(創元推理文庫)
リニューアルされた創元推理文庫の『世界推理短編傑作集4』を読む。江戸川乱歩のセレクトによる全五巻のアンソロジーの第四巻。収録作はすべて発表順に並べられており、第四巻ともなると黄金時代真っ只中ということもあって大御所の代表作が目白押し。さすがに内容自体に新鮮味はないが、それでも本書でしか読めないものもあるので、くどいようだがミステリファンには必読の一冊、必読のシリーズである。

トマス・バーク「オッターモール氏の手」
アーヴィン・S・コッブ「信・望・愛」
ロナルド・A・ノックス「密室の行者」
ダシール・ハメット「スペードという男」
ロード・ダンセイニ「二壜のソース」
ヒュー・ウォルポール「銀の仮面」
ドロシー・L・セイヤーズ「疑惑」
エラリー・クイーン「いかれたお茶会の冒険」
H・C・ベイリー「黄色いなめくじ」
収録作は以上。旧版との違いを例によってまとめておくと、まず旧版の四巻に収録していたヘミングウェイの「殺人者」、フィルポッツの「三死人」は『世界推理短編傑作集3』へ、同じく旧版のチャータリス「いかさま賭博」は『世界推理短編傑作集5』へ移動している。
反対にこれまで『世界推理短編傑作集3』所収のノックスの「密室の行者」、ダンセイニ「二壜のソース」、『世界短編傑作集5』所収のベイリー「黄色いなめくじ」は本書に収録された。
さらにバークの 「オッターモール氏の手」はこれまで割愛されていた冒頭部分を復活させた完訳版となり、クイーン「は茶め茶会の冒険」は「いかれたお茶会の冒険」に改題され、新訳となっている。
以下、復習も兼ねて各作品の感想など。
「オッターモール氏の手」は完訳版というのがまず嬉しいが、内容ももちろん素晴らしい。リッパーもの、サイコパスもののはしりという見方もでき、犯人の人物像はなかなかショッキング。中学生の頃に読んだときは、その犯人像ゆえにピンとこないところもあったのだが、久々に再読すると実にスリリングで怖い。語りも効果的。
「信・望・愛」は奇妙な味の犯罪小説というかミステリ的寓話というか。脱走犯の因果応報をシニカルに描いており、ジャーナリストならではの感性を感じる。おそらくミステリのプロパーであれば、ここまであからさまな展開にはしないだろうが、それがいい方に転がった感じだ。
「密室の行者」はいま読むと「バカミス」に分類されそうな気もするが、なぜ男は食料が豊富にある密室で餓死したのか、という謎はすこぶる魅力的だ。ミステリのトリックを語るとき、物理的トリックとか心理的トリックという言い方をすることがあるけれど、これは言ってみれば物理的トリックでもあり心理的トリックでもあるという類い稀な例である。そういう意味でも傑作。
ハードボイルドからはハメットの「スペードという男」が採られている。こういう中に入れられてしまうと、どうしても分が悪く感じられるが、実際、ハメットにはもっとよい作品があるわけで。本作はハメットにしては謎解き度合いが強い作品なので、おそらくそれがセレクトされた理由だろう。
「二壜のソース」はやばい作品である。乱歩が愛した「奇妙な味」の作品は本シリーズでもいくつか採られているが、なかでも本作はほぼトップに位置するのではないだろうか。同棲していたカップルのうち女性だけが消え失せ、その資産はすべて男のものに。いったい女性はどうなった? ぼんやりと状況が語られつつ最後の一行で明らかになる真実。そしてそのインパクト。
初読時もそうとうに驚愕した作品だが、何年か前にポケミスでダンセイニの短編集『二壜の調味料』が出たときに再読して、この作品の探偵がシリーズ化されていたこと、しかも犯人までレギュラー化していたことにもっと驚いたのも懐かしい思い出だ。
ウォルポールの「銀の仮面」も乱歩お気に入りの「奇妙な味」系の作品だが、これは今でいうなら「イヤミス」か。ストレートな恐怖描写や暴力描写がなくともここまで怖さを感じさせるというのは、文章力と構成力の賜物だろう。精神的な暴力が実は一番怖いのだ。
「疑惑」はピーター卿のシリーズものとはまた異なる味わいで、セイヤーズのダークサイドを感じさせる作品。日に日に体調が悪くなる夫妻。いま世間を賑わせている料理女による一家毒殺事件が、自分たちの身にも降りかかっているのではないかという疑惑の高まりがストーリーの軸となる。真相を予想することはそれほど難しくはないだろうが、それでもラストの二行にはゾクッとくる。
「いかれたお茶会の冒険」は『不思議の国のアリス』の世界をミステリに持ち込んだ佳作。旧版では「は茶め茶会の冒険」というタイトルであったことは上でも触れたが、さらにその前には「キ印ぞろいのお茶会の冒険」だったはず。ちなみに集英社文庫『世界の名探偵コレクション10 エラリー・クイーン』では「いかれ帽子屋のお茶会」、嶋中文庫『神の灯』では「マッド・ティー・パーティー」という邦題もあるようで、これだけ統一されていないタイトルも珍しいのではないか。
クイーンの作風といえばロジックの妙がよく言われることだが、本作はトリック重視。何者かが送ってくるプレゼントの意味には唸らされるが、強引っちゃ強引(苦笑)。
ラストを飾るのはベイリー「黄色いなめくじ」。もちろん謎解き小説としてのアイディアの秀逸さ、面白さもあるのだが、久々に読んでみるとフォーチュン氏のキャラクターや人間味に惹かれてしまう。ちょっとした中編レベルのボリュームがあり、重厚さすら感じさせる傑作である。

トマス・バーク「オッターモール氏の手」
アーヴィン・S・コッブ「信・望・愛」
ロナルド・A・ノックス「密室の行者」
ダシール・ハメット「スペードという男」
ロード・ダンセイニ「二壜のソース」
ヒュー・ウォルポール「銀の仮面」
ドロシー・L・セイヤーズ「疑惑」
エラリー・クイーン「いかれたお茶会の冒険」
H・C・ベイリー「黄色いなめくじ」
収録作は以上。旧版との違いを例によってまとめておくと、まず旧版の四巻に収録していたヘミングウェイの「殺人者」、フィルポッツの「三死人」は『世界推理短編傑作集3』へ、同じく旧版のチャータリス「いかさま賭博」は『世界推理短編傑作集5』へ移動している。
反対にこれまで『世界推理短編傑作集3』所収のノックスの「密室の行者」、ダンセイニ「二壜のソース」、『世界短編傑作集5』所収のベイリー「黄色いなめくじ」は本書に収録された。
さらにバークの 「オッターモール氏の手」はこれまで割愛されていた冒頭部分を復活させた完訳版となり、クイーン「は茶め茶会の冒険」は「いかれたお茶会の冒険」に改題され、新訳となっている。
以下、復習も兼ねて各作品の感想など。
「オッターモール氏の手」は完訳版というのがまず嬉しいが、内容ももちろん素晴らしい。リッパーもの、サイコパスもののはしりという見方もでき、犯人の人物像はなかなかショッキング。中学生の頃に読んだときは、その犯人像ゆえにピンとこないところもあったのだが、久々に再読すると実にスリリングで怖い。語りも効果的。
「信・望・愛」は奇妙な味の犯罪小説というかミステリ的寓話というか。脱走犯の因果応報をシニカルに描いており、ジャーナリストならではの感性を感じる。おそらくミステリのプロパーであれば、ここまであからさまな展開にはしないだろうが、それがいい方に転がった感じだ。
「密室の行者」はいま読むと「バカミス」に分類されそうな気もするが、なぜ男は食料が豊富にある密室で餓死したのか、という謎はすこぶる魅力的だ。ミステリのトリックを語るとき、物理的トリックとか心理的トリックという言い方をすることがあるけれど、これは言ってみれば物理的トリックでもあり心理的トリックでもあるという類い稀な例である。そういう意味でも傑作。
ハードボイルドからはハメットの「スペードという男」が採られている。こういう中に入れられてしまうと、どうしても分が悪く感じられるが、実際、ハメットにはもっとよい作品があるわけで。本作はハメットにしては謎解き度合いが強い作品なので、おそらくそれがセレクトされた理由だろう。
「二壜のソース」はやばい作品である。乱歩が愛した「奇妙な味」の作品は本シリーズでもいくつか採られているが、なかでも本作はほぼトップに位置するのではないだろうか。同棲していたカップルのうち女性だけが消え失せ、その資産はすべて男のものに。いったい女性はどうなった? ぼんやりと状況が語られつつ最後の一行で明らかになる真実。そしてそのインパクト。
初読時もそうとうに驚愕した作品だが、何年か前にポケミスでダンセイニの短編集『二壜の調味料』が出たときに再読して、この作品の探偵がシリーズ化されていたこと、しかも犯人までレギュラー化していたことにもっと驚いたのも懐かしい思い出だ。
ウォルポールの「銀の仮面」も乱歩お気に入りの「奇妙な味」系の作品だが、これは今でいうなら「イヤミス」か。ストレートな恐怖描写や暴力描写がなくともここまで怖さを感じさせるというのは、文章力と構成力の賜物だろう。精神的な暴力が実は一番怖いのだ。
「疑惑」はピーター卿のシリーズものとはまた異なる味わいで、セイヤーズのダークサイドを感じさせる作品。日に日に体調が悪くなる夫妻。いま世間を賑わせている料理女による一家毒殺事件が、自分たちの身にも降りかかっているのではないかという疑惑の高まりがストーリーの軸となる。真相を予想することはそれほど難しくはないだろうが、それでもラストの二行にはゾクッとくる。
「いかれたお茶会の冒険」は『不思議の国のアリス』の世界をミステリに持ち込んだ佳作。旧版では「は茶め茶会の冒険」というタイトルであったことは上でも触れたが、さらにその前には「キ印ぞろいのお茶会の冒険」だったはず。ちなみに集英社文庫『世界の名探偵コレクション10 エラリー・クイーン』では「いかれ帽子屋のお茶会」、嶋中文庫『神の灯』では「マッド・ティー・パーティー」という邦題もあるようで、これだけ統一されていないタイトルも珍しいのではないか。
クイーンの作風といえばロジックの妙がよく言われることだが、本作はトリック重視。何者かが送ってくるプレゼントの意味には唸らされるが、強引っちゃ強引(苦笑)。
ラストを飾るのはベイリー「黄色いなめくじ」。もちろん謎解き小説としてのアイディアの秀逸さ、面白さもあるのだが、久々に読んでみるとフォーチュン氏のキャラクターや人間味に惹かれてしまう。ちょっとした中編レベルのボリュームがあり、重厚さすら感じさせる傑作である。
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イーデン・フィルポッツ『チャリイの匕首』(湘南探偵倶楽部)
新年早々、身内で不幸があり、しばらく東京を離脱。仕事始めにもまったく間に合わず、この金曜からようやく日常に復帰した。
もちろん読書もまったく進まず。とりあえず軽いものから再開ということで、本日の読了本はイーデン・フィルポッツの『チャリイの匕首』。「新青年」の昭和四年夏季増刊号に収録された中編を湘南探偵倶楽部が復刻した一冊。

イギリス南西部に位置するデヴオン(デヴォン)州にある田舎町トワンブリ。その地で白石荘(ホワイトスーン荘)と呼ばれる大邸宅に、メアリ・メイデウという老嬢が暮らしていた。
しかし、ある朝のこと、メアリがナイフで刺殺されているのが発見される。ロンドン警視庁からジョン・リングローズ警部が呼ばれ、さっそく捜査を開始。メアリは決して人に好かれるタイプとはいえなかったが、殺害するほどの恨みをもつ者はおらず、かといって状況から外部の犯行とも考えにくい。
メアリの秘書兼話相手のフォレスタ嬢、秘書や料理人といった使用人たち、そしてロンドンから度々、泊まりに来るメアリの甥ヴィンセントから話を聞くリングローズは、ヴィンセントの様子がおかしいことに気がつき、やがてヴィンセントから思いもよらぬ告白を聞かされ……。
旧家を舞台に人間関係や財産などが絡んで事件が起こる、いわゆる「館もの」ミステリ。探偵小説黄金時代の香り濃厚で、これぞクラシックミステリという感じである。
ただ、「館もの」はやはり長編でこそ生きる。本作はいかんせん短めの中編といったボリュームで、基本的に目眩しの材料が少ない(登場人物の少なさなど)のが致命的だ。伏線も非常にわかりやすくなってしまい、長編ならもう少しいろいろできたのだろうなとは思う。
逆にいうと教科書どおりのオーソドックスな作品という見方もでき、当時であればけっこう普通に面白く読めたはずだ。
ちなみに探偵役のジョン・リングローズはいうまでもなく『闇からの声』と『守銭奴の遺産』にも登場する、フィルポッツの数少ないシリーズ探偵の一人。彼の活躍が読めるのは、本作を含めてこの三作しかないようなので、押さえておきたい作品ではある。
もちろん読書もまったく進まず。とりあえず軽いものから再開ということで、本日の読了本はイーデン・フィルポッツの『チャリイの匕首』。「新青年」の昭和四年夏季増刊号に収録された中編を湘南探偵倶楽部が復刻した一冊。

イギリス南西部に位置するデヴオン(デヴォン)州にある田舎町トワンブリ。その地で白石荘(ホワイトスーン荘)と呼ばれる大邸宅に、メアリ・メイデウという老嬢が暮らしていた。
しかし、ある朝のこと、メアリがナイフで刺殺されているのが発見される。ロンドン警視庁からジョン・リングローズ警部が呼ばれ、さっそく捜査を開始。メアリは決して人に好かれるタイプとはいえなかったが、殺害するほどの恨みをもつ者はおらず、かといって状況から外部の犯行とも考えにくい。
メアリの秘書兼話相手のフォレスタ嬢、秘書や料理人といった使用人たち、そしてロンドンから度々、泊まりに来るメアリの甥ヴィンセントから話を聞くリングローズは、ヴィンセントの様子がおかしいことに気がつき、やがてヴィンセントから思いもよらぬ告白を聞かされ……。
旧家を舞台に人間関係や財産などが絡んで事件が起こる、いわゆる「館もの」ミステリ。探偵小説黄金時代の香り濃厚で、これぞクラシックミステリという感じである。
ただ、「館もの」はやはり長編でこそ生きる。本作はいかんせん短めの中編といったボリュームで、基本的に目眩しの材料が少ない(登場人物の少なさなど)のが致命的だ。伏線も非常にわかりやすくなってしまい、長編ならもう少しいろいろできたのだろうなとは思う。
逆にいうと教科書どおりのオーソドックスな作品という見方もでき、当時であればけっこう普通に面白く読めたはずだ。
ちなみに探偵役のジョン・リングローズはいうまでもなく『闇からの声』と『守銭奴の遺産』にも登場する、フィルポッツの数少ないシリーズ探偵の一人。彼の活躍が読めるのは、本作を含めてこの三作しかないようなので、押さえておきたい作品ではある。
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小酒井不木『酩酊紳士』(湘南探偵倶楽部)
湘南探偵倶楽部が復刻した短編の小冊子『酩酊紳士』を読む。元は高島屋の広報誌「百華新聞」で、昭和三年に掲載されたもののようだ。
ときは昭和三年頃、名古屋は鶴舞公園前駐在所に勤務する龜田(かめだ)巡査が深夜の巡回に出掛けたときのこと。鶴舞公園内を見回っていると、何やらベンチで二人の紳士が話し込んでいる。どうやら一人は龜田も知っている本田という会社員だが、かなり酔っており、もう一人の男が送っていく途中らしい。しかし、男は用事があるために戻らなければならず、本田は一人で帰るから大丈夫だと言っている。
気になりつつも駐在所へ戻った龜田だが、なんとしばらくして本田の弟が現れ、兄が家の前で殺されているという……。

小酒井不木も変格の代表選手みたいに言われることが多いが、本作はけっこう端正な本格仕様。本田が殺害され、容疑者は本田から借金をしていた二人に絞られるが、どちらにもアリバイがあるという展開である。メイントリックは少々無理があるけれど、プロットは少し捻りがあって、まずまずだろう。
余談ながら、短いながらも当時の名古屋の様子が具体的に描かれていて興味深い。
導入部の舞台になっている鶴舞公園をはじめとする町名や動物園(東山動植物園)などは、昭和三年当時に実在したものである。鶴舞公園のなかに動物園があるという描写があって、今の人には「あれ、動植物園ってもう少し離れていなかったっけ?」と思うかもしれないが、当時は鶴舞公園内にあり、昭和十二年に今の場所に移設したのである。
また、警官が公園内を警邏して、深夜にたむろする若い恋人たちを苦々しく思う描写も微笑ましい。戦後に流行った有名な懐メロで「若いお巡りさん」という歌があるんだけれど(「も〜しもしベンチでささやくお二人さん」で始まるやつ)、これも似たような状況を歌にしており、こういった情景は昭和という時代ならではなのだろう。
そういった描写を楽しむのも戦前の探偵小説を読む楽しみのひとつである。
ときは昭和三年頃、名古屋は鶴舞公園前駐在所に勤務する龜田(かめだ)巡査が深夜の巡回に出掛けたときのこと。鶴舞公園内を見回っていると、何やらベンチで二人の紳士が話し込んでいる。どうやら一人は龜田も知っている本田という会社員だが、かなり酔っており、もう一人の男が送っていく途中らしい。しかし、男は用事があるために戻らなければならず、本田は一人で帰るから大丈夫だと言っている。
気になりつつも駐在所へ戻った龜田だが、なんとしばらくして本田の弟が現れ、兄が家の前で殺されているという……。

小酒井不木も変格の代表選手みたいに言われることが多いが、本作はけっこう端正な本格仕様。本田が殺害され、容疑者は本田から借金をしていた二人に絞られるが、どちらにもアリバイがあるという展開である。メイントリックは少々無理があるけれど、プロットは少し捻りがあって、まずまずだろう。
余談ながら、短いながらも当時の名古屋の様子が具体的に描かれていて興味深い。
導入部の舞台になっている鶴舞公園をはじめとする町名や動物園(東山動植物園)などは、昭和三年当時に実在したものである。鶴舞公園のなかに動物園があるという描写があって、今の人には「あれ、動植物園ってもう少し離れていなかったっけ?」と思うかもしれないが、当時は鶴舞公園内にあり、昭和十二年に今の場所に移設したのである。
また、警官が公園内を警邏して、深夜にたむろする若い恋人たちを苦々しく思う描写も微笑ましい。戦後に流行った有名な懐メロで「若いお巡りさん」という歌があるんだけれど(「も〜しもしベンチでささやくお二人さん」で始まるやつ)、これも似たような状況を歌にしており、こういった情景は昭和という時代ならではなのだろう。
そういった描写を楽しむのも戦前の探偵小説を読む楽しみのひとつである。
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J・T・ロジャーズ『死の隠れ鬼』(別冊Re-ClaM)
新年明けましておめでとうございます。
昨年は当ブログに足をお運びいただき、どうもありがとうございました。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
さて、今年の読了一冊目は、クラシックミステリの評論同人誌「Re-ClaM」が発行したJ・T・ロジャーズの中短編集『死の隠れ鬼』。
わが国では長編『赤い右手』以外、ほぼ読むことがかなわなかった(短編は雑誌とアンソロジーに二作ほど掲載あり)が、本国も似たような状況だったようで、本書の解説によると2004年になってランブルハウスという小出版社から長編が四冊復刻されたことで、その潮目が変わったらしい。
本書はそんな動きのなかで2006年に刊行された中短編集『Killing Time and Other Stories』から三編を抜粋したもの。収録作は以下のとおり。
Murder of the Dead Man「死者を二度殺せ」
The Crimson Vampire「真紅のヴァンパイア」
The Hidding Horror「死の隠れ鬼」

これはなかなか面白い中短編集だ。
『赤い右手』を読んだ人ならご存知だろうが、ロジャーズはかなりクセのある作家であり、本書の作品も非常に個性的である。もともとパルプ雑誌でミステリからSF、ホラー、冒険小説までジャンル問わず書き散らかしていたせいもあるのか、決して完成度が高いわけではないのだが、作品の熱量がとにかく高い。
内容は怪物を登場させたりするなど発想がまず突飛だし、なんというか著者の思ったことをそのまま原稿用紙に叩きつけている印象である。そのくせ伏線やミスディレクションはけっこう意識している節もある(とはいえ、こちらも完成度は低い)。
ぶっちゃけミステリとしての品質だけを問えば、かなり荒っぽい作りであることは間違いないのだが、それなのに惹きつけられる魅力がある。喩えが適切かどうか自信はないが、橘外男や大河内常平の諸作品に通じるものがあるかもしれない。
文章もそう。一人称三人称がごちゃ混ぜだったり、時系列もここかしこに不規則だったり、基本的には悪文ではあるが、テンションの高さが尋常ではなくて思わず引き込まれる。このあたりも橘外男っぽいのだ。
まあ、「真紅のヴァンパイア」だけはさすがにやりすぎて玉砕した感はあるが(苦笑)、「死者を二度殺せ」や「死の隠れ鬼」は一読に値する。この二作はどちらも被害者の視線で幕を開け、のっけからクライマックス。しかも、その後は現状すらはっきりしないまま、物語がどんどん転んでいくので、先が気になってしょうがない。発想や文章も含め、このリーダビリティの高さが最大の武器なんだろう。
ちなみに原書房からは『恐怖の夜、その他の夜』が予定されているようで(おそらく短編集)、これは絶対読まねばなぁ。
昨年は当ブログに足をお運びいただき、どうもありがとうございました。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
さて、今年の読了一冊目は、クラシックミステリの評論同人誌「Re-ClaM」が発行したJ・T・ロジャーズの中短編集『死の隠れ鬼』。
わが国では長編『赤い右手』以外、ほぼ読むことがかなわなかった(短編は雑誌とアンソロジーに二作ほど掲載あり)が、本国も似たような状況だったようで、本書の解説によると2004年になってランブルハウスという小出版社から長編が四冊復刻されたことで、その潮目が変わったらしい。
本書はそんな動きのなかで2006年に刊行された中短編集『Killing Time and Other Stories』から三編を抜粋したもの。収録作は以下のとおり。
Murder of the Dead Man「死者を二度殺せ」
The Crimson Vampire「真紅のヴァンパイア」
The Hidding Horror「死の隠れ鬼」

これはなかなか面白い中短編集だ。
『赤い右手』を読んだ人ならご存知だろうが、ロジャーズはかなりクセのある作家であり、本書の作品も非常に個性的である。もともとパルプ雑誌でミステリからSF、ホラー、冒険小説までジャンル問わず書き散らかしていたせいもあるのか、決して完成度が高いわけではないのだが、作品の熱量がとにかく高い。
内容は怪物を登場させたりするなど発想がまず突飛だし、なんというか著者の思ったことをそのまま原稿用紙に叩きつけている印象である。そのくせ伏線やミスディレクションはけっこう意識している節もある(とはいえ、こちらも完成度は低い)。
ぶっちゃけミステリとしての品質だけを問えば、かなり荒っぽい作りであることは間違いないのだが、それなのに惹きつけられる魅力がある。喩えが適切かどうか自信はないが、橘外男や大河内常平の諸作品に通じるものがあるかもしれない。
文章もそう。一人称三人称がごちゃ混ぜだったり、時系列もここかしこに不規則だったり、基本的には悪文ではあるが、テンションの高さが尋常ではなくて思わず引き込まれる。このあたりも橘外男っぽいのだ。
まあ、「真紅のヴァンパイア」だけはさすがにやりすぎて玉砕した感はあるが(苦笑)、「死者を二度殺せ」や「死の隠れ鬼」は一読に値する。この二作はどちらも被害者の視線で幕を開け、のっけからクライマックス。しかも、その後は現状すらはっきりしないまま、物語がどんどん転んでいくので、先が気になってしょうがない。発想や文章も含め、このリーダビリティの高さが最大の武器なんだろう。
ちなみに原書房からは『恐怖の夜、その他の夜』が予定されているようで(おそらく短編集)、これは絶対読まねばなぁ。