Posted in 08 2018
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ロス・マクドナルド『死体置場で会おう』(ハヤカワミステリ)
ロス・マクドナルドの『死体置場で会おう』を読む。アーチャーものはひと休みして、今回はノンシリーズ作品。
『暗いトンネル』等、初期の非アーチャーもの四冊はけっこう昔に読んだのだが、まあロスマクとはいえ習作的にみなされることも多く、やはりそこまで満足できるものではなかった。しかし、本作は1953年の刊行。『象牙色の嘲笑 』と『犠牲者は誰だ』の間に書かれたものであり、それなりに期待はできそうだ。
まずはストーリー。
パシフィック・ポイント市に住む富豪エイベル・ジョンスンの息子ジャミイが誘拐された。犯人と目されたのは、その朝ジャミイと一緒に車ででかけた運転手のフレッド・マイナーである。脅迫状を読んだエイベルは警察に届けることを拒み、身代金を自ら渡す手はずを整えようとする。
一方、フレッドの妻エミイは地方監察官ハワード・クロスの事務所に出き、誘拐事件を伝えるとともに夫の無実を訴えた。ハワードはその日の朝にフレッドとジャミイに会っていたこともあり、この事件に不可解なものを感じるが……。

もともとシリアスな作品、文学を目指していたロス・マクドナルドだが、初期の作品はあくまで生活のために書いた娯楽作品。だがアーチャーものを書いていく中で、ハードボイルドの可能性に目覚め、後期の文学的な作風につながっていく。
本作はそんなロス・マクの過渡期的な雰囲気が感じられる。比較的落ち着いたストーリーで登場人物の描き方も深い。
特に本作の場合、結婚というテーマが幾重にも描かれているのが大きな特徴である。探偵役、事件関係者、被害者、加害者と、すべての者たちに対して夫婦(もしくは恋人)のドラマがあり、それらを対比させつつ、最終的にある種の希望を感じさせるのが嬉しいし、珍しいといえば珍しい。
ちなみにその点こそが、本作でアーチャーを起用しなかった大きな理由でもあると思われる。
ただ、そういった部分だけでなく、本作はミステリとしてもかなりの面白さである。ロスマクは本格ファンからも人気のある珍しいハードボイルド作家だが、それはもちろん謎解きや意外性がハイレベルであるからに他ならない。
本作では誘拐事件がベースになっているのだが、以前に起こったある交通事故が大きなカギを握っている。このつながり、交通事故の本当の意味を掴むというのがストーリーの柱になっているのだが、中盤ではその流れが単調になってしまうという欠点はあるものの、真相は完全にこちらの読みの上手をいく。
途中までは、さすがのロスマクもノンシリーズではやはり本領発揮とはいかなかったかと思っていたのだが、まあ、自分の読みの浅いことよ(苦笑)。しかも真相がまた本作のテーマをしっかりと感じさせるもので、これはもしかするとロスマク前期のベストといってもいいのかもしれない。
文庫化もされずノンシリーズということもあって知名度の低い本作だが、これは意外な傑作。古書価もそれほどではないので、ご縁があったらぜひどうぞ。
『暗いトンネル』等、初期の非アーチャーもの四冊はけっこう昔に読んだのだが、まあロスマクとはいえ習作的にみなされることも多く、やはりそこまで満足できるものではなかった。しかし、本作は1953年の刊行。『象牙色の嘲笑 』と『犠牲者は誰だ』の間に書かれたものであり、それなりに期待はできそうだ。
まずはストーリー。
パシフィック・ポイント市に住む富豪エイベル・ジョンスンの息子ジャミイが誘拐された。犯人と目されたのは、その朝ジャミイと一緒に車ででかけた運転手のフレッド・マイナーである。脅迫状を読んだエイベルは警察に届けることを拒み、身代金を自ら渡す手はずを整えようとする。
一方、フレッドの妻エミイは地方監察官ハワード・クロスの事務所に出き、誘拐事件を伝えるとともに夫の無実を訴えた。ハワードはその日の朝にフレッドとジャミイに会っていたこともあり、この事件に不可解なものを感じるが……。

もともとシリアスな作品、文学を目指していたロス・マクドナルドだが、初期の作品はあくまで生活のために書いた娯楽作品。だがアーチャーものを書いていく中で、ハードボイルドの可能性に目覚め、後期の文学的な作風につながっていく。
本作はそんなロス・マクの過渡期的な雰囲気が感じられる。比較的落ち着いたストーリーで登場人物の描き方も深い。
特に本作の場合、結婚というテーマが幾重にも描かれているのが大きな特徴である。探偵役、事件関係者、被害者、加害者と、すべての者たちに対して夫婦(もしくは恋人)のドラマがあり、それらを対比させつつ、最終的にある種の希望を感じさせるのが嬉しいし、珍しいといえば珍しい。
ちなみにその点こそが、本作でアーチャーを起用しなかった大きな理由でもあると思われる。
ただ、そういった部分だけでなく、本作はミステリとしてもかなりの面白さである。ロスマクは本格ファンからも人気のある珍しいハードボイルド作家だが、それはもちろん謎解きや意外性がハイレベルであるからに他ならない。
本作では誘拐事件がベースになっているのだが、以前に起こったある交通事故が大きなカギを握っている。このつながり、交通事故の本当の意味を掴むというのがストーリーの柱になっているのだが、中盤ではその流れが単調になってしまうという欠点はあるものの、真相は完全にこちらの読みの上手をいく。
途中までは、さすがのロスマクもノンシリーズではやはり本領発揮とはいかなかったかと思っていたのだが、まあ、自分の読みの浅いことよ(苦笑)。しかも真相がまた本作のテーマをしっかりと感じさせるもので、これはもしかするとロスマク前期のベストといってもいいのかもしれない。
文庫化もされずノンシリーズということもあって知名度の低い本作だが、これは意外な傑作。古書価もそれほどではないので、ご縁があったらぜひどうぞ。
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中相作『乱歩謎解きクロニクル』(言視舎)
江戸川乱歩研究家として知られる中相作氏の評論『乱歩謎解きクロニクル』を読む。氏の成果はサイト「名張人外境ブログ」でも読むことができるが、意外なことに評論の類が個人名義で出るのは初めてではないだろうか。知る人ぞ知る乱歩関連の書誌や資料などをまとめた『乱歩文献データブック』、『江戸川乱歩執筆年譜』、『江戸川乱歩著書目録』などはあるが、本書のような通常の商業出版としての意味で。

「涙香、「新青年」、乱歩」
第一章 「新青年」という舞台
第二章 絵探しと探偵小説
第三章 黒岩涙香に始まる
「江戸川乱歩の不思議な犯罪」
「「陰獣」から「双生児」ができる話」
「野心を託した大探偵小説」
「乱歩と三島 女賊への恋」
「「鬼火」因縁話」
「猟奇の果て 遊戯の終わり」
「ポーと乱歩 奇譚の水脈」
目次はこんな感じ。もっともボリュームがあるのが三章立ての「涙香、「新青年」、乱歩」となり、これはミステリー文学資料館が開催した「「『新青年』の作家たち」において行われた著者の講演をもとにしたもの。ほかは関連書籍等で掲載された解説などを収録している。
面白いのはやはりまとまった分量のある「涙香、「新青年」、乱歩」の項だろう。“絵探し”というキーワードを用いて、乱歩の創作に対する興味、嗜好をあらためて紐解き、そこから乱歩自身が提唱した探偵小説の定義に踏み込んでいく。
「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」
著者はここで、“謎”ではなく、“秘密”という言葉を用いられていることに着目する。似て非なるこの二つの語、その意味するところは何なのか。著者はそこから再び“絵探し”に戻り、乱歩が定義した探偵小説と“絵探し”との関係を解説する。
ご存じのとおり、乱歩自身は自らの定義に則った探偵小説をほとんど書いていない。多くは“絵探し”の物語であり、個人的な嗜好もそこに集約されている。その“絵探し”と構造的には真逆の“探偵小説”、このふたつに乱歩はどう折り合いをつけていったのか。最終的にはそれらが乱歩の自伝や少年ものに対する位置付けに帰結するという考察がなかなか興味深く、面白かった。
というわけで乱歩ファンならもちろん買い。十分満足できる一冊だろう。
なお、内容に比して本書の装丁や題名がちとライトすぎるのはどうなんだろう。てっきり中身も軽い蘊蓄本やエッセイ的なものを想像してしまうので、それはそれで売りやすい面もあるのだろうが、もう少しかっちりした形のほうが本書には相応しい気がするなぁ。

「涙香、「新青年」、乱歩」
第一章 「新青年」という舞台
第二章 絵探しと探偵小説
第三章 黒岩涙香に始まる
「江戸川乱歩の不思議な犯罪」
「「陰獣」から「双生児」ができる話」
「野心を託した大探偵小説」
「乱歩と三島 女賊への恋」
「「鬼火」因縁話」
「猟奇の果て 遊戯の終わり」
「ポーと乱歩 奇譚の水脈」
目次はこんな感じ。もっともボリュームがあるのが三章立ての「涙香、「新青年」、乱歩」となり、これはミステリー文学資料館が開催した「「『新青年』の作家たち」において行われた著者の講演をもとにしたもの。ほかは関連書籍等で掲載された解説などを収録している。
面白いのはやはりまとまった分量のある「涙香、「新青年」、乱歩」の項だろう。“絵探し”というキーワードを用いて、乱歩の創作に対する興味、嗜好をあらためて紐解き、そこから乱歩自身が提唱した探偵小説の定義に踏み込んでいく。
「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」
著者はここで、“謎”ではなく、“秘密”という言葉を用いられていることに着目する。似て非なるこの二つの語、その意味するところは何なのか。著者はそこから再び“絵探し”に戻り、乱歩が定義した探偵小説と“絵探し”との関係を解説する。
ご存じのとおり、乱歩自身は自らの定義に則った探偵小説をほとんど書いていない。多くは“絵探し”の物語であり、個人的な嗜好もそこに集約されている。その“絵探し”と構造的には真逆の“探偵小説”、このふたつに乱歩はどう折り合いをつけていったのか。最終的にはそれらが乱歩の自伝や少年ものに対する位置付けに帰結するという考察がなかなか興味深く、面白かった。
というわけで乱歩ファンならもちろん買い。十分満足できる一冊だろう。
なお、内容に比して本書の装丁や題名がちとライトすぎるのはどうなんだろう。てっきり中身も軽い蘊蓄本やエッセイ的なものを想像してしまうので、それはそれで売りやすい面もあるのだろうが、もう少しかっちりした形のほうが本書には相応しい気がするなぁ。
我刊我書房さんによる私家版『我もし参謀長なりせば』を読む。
著者が海野十三、大下宇陀児、甲賀三郎、蘭郁二郎、渡邊啓助という超豪華ラインナップなのがまず目を惹くが、これは昭和十四年、第二次世界大戦が勃発したときに雑誌「科学知識」が当時の探偵小説作家に依頼し、ドイツ側もしくは英仏側の参謀長という立場をとってもらって、勝利するにはどういう作戦をとるかという内容で書いてもらった、今でいう架空戦記みたいなものである。

「仮装潜望鏡」大下宇陀児
「蛸の鮑とり」甲賀三郎
「日本爆撃」海野十三
「極秘作戦」蘭郁二郎
「閑な参謀総長」渡邊啓助
収録作は以上。昨日読んだ久生十蘭『内地へよろしく』同様、戦争関連で読んでみたものの、こちらはまだ日本が戦争参入前ということもあり、全体的に能天気な感じは拭えない。「さすがに当代随一の探偵小説家たちが考えただけのことはある」などということは決してなく、それぞれの分量も少なく、当時の雑誌のお遊び的な記事といったところだろう。歴史的な資料性は高いのだろうが、残念ながら奇想を楽しむ読み物としてはいまひとつ。
また、無粋ながらひとつだけ発行元に注文をだしておくと、表紙の文字が紙色のせいで非常に読みにくくなっているのはまずかろう。私家版とはいえ売り物なのでもう少し気をつけてもらいたかったところである。
著者が海野十三、大下宇陀児、甲賀三郎、蘭郁二郎、渡邊啓助という超豪華ラインナップなのがまず目を惹くが、これは昭和十四年、第二次世界大戦が勃発したときに雑誌「科学知識」が当時の探偵小説作家に依頼し、ドイツ側もしくは英仏側の参謀長という立場をとってもらって、勝利するにはどういう作戦をとるかという内容で書いてもらった、今でいう架空戦記みたいなものである。

「仮装潜望鏡」大下宇陀児
「蛸の鮑とり」甲賀三郎
「日本爆撃」海野十三
「極秘作戦」蘭郁二郎
「閑な参謀総長」渡邊啓助
収録作は以上。昨日読んだ久生十蘭『内地へよろしく』同様、戦争関連で読んでみたものの、こちらはまだ日本が戦争参入前ということもあり、全体的に能天気な感じは拭えない。「さすがに当代随一の探偵小説家たちが考えただけのことはある」などということは決してなく、それぞれの分量も少なく、当時の雑誌のお遊び的な記事といったところだろう。歴史的な資料性は高いのだろうが、残念ながら奇想を楽しむ読み物としてはいまひとつ。
また、無粋ながらひとつだけ発行元に注文をだしておくと、表紙の文字が紙色のせいで非常に読みにくくなっているのはまずかろう。私家版とはいえ売り物なのでもう少し気をつけてもらいたかったところである。
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久生十蘭『内地へよろしく』(河出文庫)
今週は終戦記念日をまたいだこともあって、久生十蘭の戦争小説『内地へよろしく』を読む。
戦時中、久生十蘭は海軍報道班として南方に派遣された経験があり、そのときの経験をもとに帰国後、「週刊毎日」に連載されたのが『内地へよろしく』である。時期としては太平洋戦争後期、1944年の夏。サイパンが陥落し、その後マリワナ沖海戦でも大敗し、西太平洋での制空権を完全に奪われ、いよいよ戦局が悪化してくる頃である。
作者の分身とも思しき海軍報道班員の画家・松久三十郎。最前線の海軍警備隊の働きに心惹かれ、彼らの労苦の日々をこの目に焼き付けたいと、自ら志願して太平洋に浮かぶ日本最南端の領土へ向かう。そこでの兵士たちは毎日のように敵の攻撃に悩まされながらも、あくまで明るく前向きであった。
そんなある日、彼らが文通している内地の女性が悩んでいることを知り……。

戦況が悪くなる一方のなか、松久三十郎を狂言回しとして、戦時中の人々の姿を描く戦争小説である。だが、通常の戦記ものとは違い、十蘭の筆致はあくまで優しく、ユーモアを忘れない。登場する人々——前線の兵士だけでなく、自ら戦地に赴き、軍に協力しようとする一般人、あるいは内地に残って後方から支える人々——そんな彼らの姿は、戦況に反比例してどこまでも明るく、魅力的に描かれている。
同時代の実体験をベースにしているとはいえ、戦時に書かれた小説なのでもちろん反戦的な内容であるはずがなく、ここまで心豊かに生きられるはずもないだろう。実際はもっと悲惨な状況もあったはずだ。当然そのあたりはかなり差し引いてみなければならないのだが、結局はそんな彼らでさえも戦争の悲惨さから逃れられない。だからこそよけいに当時の兵士や市井の人々の純粋さに胸を打たれるのだ。
そこには単なる戦意高揚ものの小説とは異なる、十蘭ならではの人間賛歌が溢れている。
また、本作は戦争小説ではあるのだが、最終章のラスト一行で思いもよらない記述がある。実に探偵小説的ともいえるこの一文が十蘭の意図をより強く深いものにしており、しばらくは呆然としてしまったほどだ。
この衝撃も含めて、本作は十蘭を語るうえで忘れてはならない一冊といえるだろう。
戦時中、久生十蘭は海軍報道班として南方に派遣された経験があり、そのときの経験をもとに帰国後、「週刊毎日」に連載されたのが『内地へよろしく』である。時期としては太平洋戦争後期、1944年の夏。サイパンが陥落し、その後マリワナ沖海戦でも大敗し、西太平洋での制空権を完全に奪われ、いよいよ戦局が悪化してくる頃である。
作者の分身とも思しき海軍報道班員の画家・松久三十郎。最前線の海軍警備隊の働きに心惹かれ、彼らの労苦の日々をこの目に焼き付けたいと、自ら志願して太平洋に浮かぶ日本最南端の領土へ向かう。そこでの兵士たちは毎日のように敵の攻撃に悩まされながらも、あくまで明るく前向きであった。
そんなある日、彼らが文通している内地の女性が悩んでいることを知り……。

戦況が悪くなる一方のなか、松久三十郎を狂言回しとして、戦時中の人々の姿を描く戦争小説である。だが、通常の戦記ものとは違い、十蘭の筆致はあくまで優しく、ユーモアを忘れない。登場する人々——前線の兵士だけでなく、自ら戦地に赴き、軍に協力しようとする一般人、あるいは内地に残って後方から支える人々——そんな彼らの姿は、戦況に反比例してどこまでも明るく、魅力的に描かれている。
同時代の実体験をベースにしているとはいえ、戦時に書かれた小説なのでもちろん反戦的な内容であるはずがなく、ここまで心豊かに生きられるはずもないだろう。実際はもっと悲惨な状況もあったはずだ。当然そのあたりはかなり差し引いてみなければならないのだが、結局はそんな彼らでさえも戦争の悲惨さから逃れられない。だからこそよけいに当時の兵士や市井の人々の純粋さに胸を打たれるのだ。
そこには単なる戦意高揚ものの小説とは異なる、十蘭ならではの人間賛歌が溢れている。
また、本作は戦争小説ではあるのだが、最終章のラスト一行で思いもよらない記述がある。実に探偵小説的ともいえるこの一文が十蘭の意図をより強く深いものにしており、しばらくは呆然としてしまったほどだ。
この衝撃も含めて、本作は十蘭を語るうえで忘れてはならない一冊といえるだろう。
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ヘレン・マクロイ『牧神の影』(ちくま文庫)
ヘレン・マクロイの『牧神の影』を読む。
管理人のお気に入り作家の一人だが、本作もまた期待を裏切らない傑作である。
まずはストーリー。
アリスンは深夜に内線電話で起こされた。相手は従兄弟のロニー。二人の伯父である、かつてギリシア古典文学の教授を務めていたフェリックスが亡くなったというのだ。死因は心臓発作で不審なとところはないように思えたが、翌日、陸軍情報部の人間が現れたことで様相が変わってくる。なんとフェリックスは軍のために暗号を開発していたのだ。だが、大きな収穫もなく、陸軍情報部の人間は帰ってゆく。
その後、経済的な事情から山奥のコテージで暮らすことになったアリシアだが、その周囲に怪しい出来事が起こり始める……。

日本で紹介された当初はサスペンス作家という括りであり、その後翻訳が進むにつれ、本格のエッセンスが実はかなり多く含まれることが明らかになったマクロイ。本作はそのいいとこ取りというか、サスペンスと本格を見事に融合させている。
ベースはあくまでサスペンスであるといってよいように思う。主人公アリシアが一人暮らしを行う人里離れたコテージ。その周囲を正体不明の何者かが深夜に徘徊する。不審者の正体は? その目的は?
オーソドックスなスタイルなのだが、マクロイの場合、下手なサスペンス作家がよくやる主人公が自ら墓穴を掘るような馬鹿なストーリーとは無縁。きちんとそれなりの理由なり説得力なりがあるので、純粋に恐怖を楽しめるのがいい。
そしてこのサスペンス小説の上にどっさりと振りかけられているのが本格エッセンスである。メインとなるのは暗号だ。
フェリックスの残した暗号がストーリーのカギを握るのだが、単なるギミックとしてではなく、暗号そのものが謎として提示される。ミステリでも暗号をここまで真っ向からとりあげることはそれほど多くない。実際、暗号をきちんと解く読者はそうそういないだろうし(苦笑)、作者もそれは百も承知なのだろう。暗号小説の過去の傑作がそうであるように、本作もまた暗号をストレートに解くだけではなく、その扱い方に妙があり、だからこそ面白さが倍増するのである。
また、暗号だけではなく、限られた状況での意外な犯人、伏線の張り方なども見事。序盤の雰囲気作りすら伏線になっているという、この鮮やかさ。最初にも書いたが、サスペンス仕立てなのに読後感は完全に本格という、この融合ぶりが凄いのである。
褒めついでに書いておくと、犯人像がまた実によい。この辺りを詳しく書いてしまうとネタバレになるので現物を読んでくれとしか言いようがないのだが、表面的な動機とその裏にある犯人自身も自覚していない動機があって、それがまたプロットにも密接に関連するという徹底ぶり。しびれる、これはしびれます。
なお、解説も相当に気合の入ったもので、資料的にも役に立つ。それらも含めて大満足の一冊である。
管理人のお気に入り作家の一人だが、本作もまた期待を裏切らない傑作である。
まずはストーリー。
アリスンは深夜に内線電話で起こされた。相手は従兄弟のロニー。二人の伯父である、かつてギリシア古典文学の教授を務めていたフェリックスが亡くなったというのだ。死因は心臓発作で不審なとところはないように思えたが、翌日、陸軍情報部の人間が現れたことで様相が変わってくる。なんとフェリックスは軍のために暗号を開発していたのだ。だが、大きな収穫もなく、陸軍情報部の人間は帰ってゆく。
その後、経済的な事情から山奥のコテージで暮らすことになったアリシアだが、その周囲に怪しい出来事が起こり始める……。

日本で紹介された当初はサスペンス作家という括りであり、その後翻訳が進むにつれ、本格のエッセンスが実はかなり多く含まれることが明らかになったマクロイ。本作はそのいいとこ取りというか、サスペンスと本格を見事に融合させている。
ベースはあくまでサスペンスであるといってよいように思う。主人公アリシアが一人暮らしを行う人里離れたコテージ。その周囲を正体不明の何者かが深夜に徘徊する。不審者の正体は? その目的は?
オーソドックスなスタイルなのだが、マクロイの場合、下手なサスペンス作家がよくやる主人公が自ら墓穴を掘るような馬鹿なストーリーとは無縁。きちんとそれなりの理由なり説得力なりがあるので、純粋に恐怖を楽しめるのがいい。
そしてこのサスペンス小説の上にどっさりと振りかけられているのが本格エッセンスである。メインとなるのは暗号だ。
フェリックスの残した暗号がストーリーのカギを握るのだが、単なるギミックとしてではなく、暗号そのものが謎として提示される。ミステリでも暗号をここまで真っ向からとりあげることはそれほど多くない。実際、暗号をきちんと解く読者はそうそういないだろうし(苦笑)、作者もそれは百も承知なのだろう。暗号小説の過去の傑作がそうであるように、本作もまた暗号をストレートに解くだけではなく、その扱い方に妙があり、だからこそ面白さが倍増するのである。
また、暗号だけではなく、限られた状況での意外な犯人、伏線の張り方なども見事。序盤の雰囲気作りすら伏線になっているという、この鮮やかさ。最初にも書いたが、サスペンス仕立てなのに読後感は完全に本格という、この融合ぶりが凄いのである。
褒めついでに書いておくと、犯人像がまた実によい。この辺りを詳しく書いてしまうとネタバレになるので現物を読んでくれとしか言いようがないのだが、表面的な動機とその裏にある犯人自身も自覚していない動機があって、それがまたプロットにも密接に関連するという徹底ぶり。しびれる、これはしびれます。
なお、解説も相当に気合の入ったもので、資料的にも役に立つ。それらも含めて大満足の一冊である。
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トム・フランクリン『ねじれた文字、ねじれた路』(ハヤカワミステリ)
ポケミスが装丁をリニューアルしたのはもう八年ほど前になるのだが、やはりそれなりに気合いが入っていたのだろう、なかなかの力作が多かったように思う。アルテやランキン、ペレケーノスといったお馴染みの作家もいたが、ほぼ未紹介の作家も多くて、むしろそちらに意欲的な作品が多かったように覚えている。たとえばデイヴィッド・ベニオフの『卵をめぐる祖父の戦争』とかブライアン・グルーリーの『湖は餓えて煙る』とか。
そんなリニューアル当初の一冊が、本日の読了本、トム・フランクリンの『ねじれた文字、ねじれた路』である。
こんな話。親の自動車整備工場を継いだものの、世捨て人のような生活を送るラリー。友達づきあいもなく、唯一の楽しみはホラー小説だけであった。
そんな彼にも子供の頃は親しい友人がいた。今は治安官として働くサイラスである。
サイラスは幼い頃に母親とこの地に流れついた黒人の親子であり、二人の少年は密かに友情を育んでいた。だが、その関係もある出来事をきっかけに疎遠になってしまう。
それから二十五年の月日が経った。おりしも町では女子大生の失踪事件が発生し、ラリーに疑いの目が注がれる。そして悲劇が起こった……。

当時まったく予備知識なしで、CWA受賞と意味深なタイトルから何となくシュールな作品かと思っていたのだが、いや、これはベタベタのアメリカン・クライム青春ノベルだったのか。
とはいえこれは読めてよかった。ミステリ風味にはけっこう乏しいのだけれど、実に読みごたえのある内容であった。
それほど目新しいタイプの作品というわけではない。現在の事件が過去の事件と深くつながっているというやつで、ノスタルジーを強く押し出しつつ過去の出来事を明らかにしていく。過去と現代のストーリーが交互に描かれていくという手法もいまどき珍しいものではないだろう。
こういうタイプの作品は、一時期、アメリカのミステリではけっこう流行っていたようだし、特にランズデールとかルヘインとか同じような作品があったよなぁとか思っていると、案の定、本作もランズデールが絶賛していたらしい。アメリカ人、こういうの好きだよねえ。お家芸といってもいいかもしれない。
古き良き時代のアメリカの正義、そして人種差別に代表される誤った価値観がベースにあり、それらを踏まえつつも、現代に生きる俺らは未来に向かって踏み出すぜ、というような話である。
本作の場合、印象に残るのはやはり過去のパートだ。比較的裕福ながらおとなしい性格の白人のラリー、貧乏だが快活な黒人のサイラス。対照的な二人が拙いコミュニケーションによって、行きつ戻りつしながら徐々にわかりあう展開は、パターンどおりとはいえ、実に深くこちらの胸に染みてくる。
ただ、二人とも別に聖人君子ではない。短所も普通にあり、それぞれが失敗を重ね、そして最終的にはそれなりの代償を払って、ようやく明日への一歩を踏み出せるのである。そこに静かな感動が生まれるのだ。
ストーリー同様に派手さのない文章も好ましい。「アメリカ人はこういうの好きだよねえ」とか書いたけれど、それ以上にこういう小説を書かせると本当に上手い。
このままでも十分によい作品ではあるのだが、これでもう少しサプライズを強めにするなどしていれば、それこそオールタイムベスト級の大傑作になっただろう。
そんなリニューアル当初の一冊が、本日の読了本、トム・フランクリンの『ねじれた文字、ねじれた路』である。
こんな話。親の自動車整備工場を継いだものの、世捨て人のような生活を送るラリー。友達づきあいもなく、唯一の楽しみはホラー小説だけであった。
そんな彼にも子供の頃は親しい友人がいた。今は治安官として働くサイラスである。
サイラスは幼い頃に母親とこの地に流れついた黒人の親子であり、二人の少年は密かに友情を育んでいた。だが、その関係もある出来事をきっかけに疎遠になってしまう。
それから二十五年の月日が経った。おりしも町では女子大生の失踪事件が発生し、ラリーに疑いの目が注がれる。そして悲劇が起こった……。

当時まったく予備知識なしで、CWA受賞と意味深なタイトルから何となくシュールな作品かと思っていたのだが、いや、これはベタベタのアメリカン・クライム青春ノベルだったのか。
とはいえこれは読めてよかった。ミステリ風味にはけっこう乏しいのだけれど、実に読みごたえのある内容であった。
それほど目新しいタイプの作品というわけではない。現在の事件が過去の事件と深くつながっているというやつで、ノスタルジーを強く押し出しつつ過去の出来事を明らかにしていく。過去と現代のストーリーが交互に描かれていくという手法もいまどき珍しいものではないだろう。
こういうタイプの作品は、一時期、アメリカのミステリではけっこう流行っていたようだし、特にランズデールとかルヘインとか同じような作品があったよなぁとか思っていると、案の定、本作もランズデールが絶賛していたらしい。アメリカ人、こういうの好きだよねえ。お家芸といってもいいかもしれない。
古き良き時代のアメリカの正義、そして人種差別に代表される誤った価値観がベースにあり、それらを踏まえつつも、現代に生きる俺らは未来に向かって踏み出すぜ、というような話である。
本作の場合、印象に残るのはやはり過去のパートだ。比較的裕福ながらおとなしい性格の白人のラリー、貧乏だが快活な黒人のサイラス。対照的な二人が拙いコミュニケーションによって、行きつ戻りつしながら徐々にわかりあう展開は、パターンどおりとはいえ、実に深くこちらの胸に染みてくる。
ただ、二人とも別に聖人君子ではない。短所も普通にあり、それぞれが失敗を重ね、そして最終的にはそれなりの代償を払って、ようやく明日への一歩を踏み出せるのである。そこに静かな感動が生まれるのだ。
ストーリー同様に派手さのない文章も好ましい。「アメリカ人はこういうの好きだよねえ」とか書いたけれど、それ以上にこういう小説を書かせると本当に上手い。
このままでも十分によい作品ではあるのだが、これでもう少しサプライズを強めにするなどしていれば、それこそオールタイムベスト級の大傑作になっただろう。
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ジョーダン・ヴォート=ロバーツ『キングコング 髑髏島の巨神』
先日、久々に特撮映画でもと、未見だった『キングコング 髑髏島の巨神』をDVDで視聴。監督はジョーダン・ヴォート=ロバーツ。
『スーパーマン』や『スパイダーマン』、『バットマン』もそうだが、最近のハリウッド映画はけっこうリブートが多いようで、本作もまたリブート映画の一つである。
リブートとは、元の作品やこれまでのシリーズ作品をいったんチャラにし、設定を一から作り直した作品のこと。リメイクと似ているが、リメイクは文字どおり作り直し。原則として元の作品とだいたい同じような物語にするという点で、リブートとは大きな違いがある。
ということで『キングコング 髑髏島の巨神』。
時は1944年、第二次大戦中の南太平洋上において日米の戦闘機が激突。両機のパイロットはとある島に不時着する。二人は最後まで戦おうとするが、そこに巨大な生物が姿を現した……。
それから約三十年後。ベトナム戦争からの撤退が決まったパッカード大佐率いる部隊は、帰国直前に新たな命令を受ける。未知の島・髑髏島の地質調査に向かう民間調査隊の護衛がその任務であった。
調査隊長のランダをはじめ、元特殊空挺部隊隊員のコンラッド、カメラマンのウィーバーらも加わり、輸送船からヘリで島へ向かう一行。だが島の上空で調査用の爆弾を落としたとき、巨大なゴリラのようなモンスターに襲撃される。ヘリは全滅、わずかに生き残った調査隊も散り々々となってしまう。
島を脱出するには迎えのヘリがくる合流地点へ急がねばならない。一行は合流地点をめざすが、その島は巨大なゴリラ以外にもさまざまなモンスターが出没する、死の島であった……。

これまでの『キングコング』といえば、コングを捕獲する髑髏島での前半、脱走したコングがニューヨークで暴れまくる後半という設定だったが、本作は後半をごっそり削除。島のみを舞台に、とにかく人間とモンスターの戦い、モンスター同士の戦いに終始し、まさに典型的怪獣映画として成立している。ストーリーの骨子だけ見ても、ほぼ『エイリアン2』や『プレデター』と同じである。
モンスターもあくまで従来の動物を大きくしただけのような造型ではなく、クリーチャーとしてのアレンジがなされており、よりファンタジー色が強い。
このシンプルさが良くも悪くも本作の特徴であり、管理人はけっこう満足したが、まあ怪獣映画に思い入れがない人は絶対ダメだろう(笑)。
とりわけいいと思った点は、実はここが説明しにくいところなのだが、人間とモンスターとの戦い、モンスター同士の戦い、人間ドラマ、この三つの配分がよいということ。お約束的な設定ではあるが、目的のためには仲間の命すら厭わない科学者、復讐に狂った軍人がいて、彼らの確執を巧みにスト−リーに絡め、ストーリー的にも無理がない範囲で最大限の爽快感と恐怖を煽ってくれている。若い監督のはずだが、これがけっこう達者なのである。
ちなみにその監督のジョーダン・ヴォート=ロバーツは日本のポップカルチャーにも強く、ゲーム『メタルギアソリッド』の実写映画化の話も出ていた人だ。本作でもあちらこちらに日本のアニメ等へのへのオマージュが挿入されているが、こちらは書くのが面倒なので、ネットで検索していただければ、いろいろと小ネタが見つかるはずである(個人的には日本兵の名前がイカリ・グンペイというのにまずニヤッとした)。
ただ、この監督さん、ベトナムで不可解な事件に巻き込まれて瀕死の重傷を負い、現在は長期療養中だという。こちらも映画顔負けのミステリアスな事件なのだが、また元氣になって新作を撮ってもらいたいものである。
『スーパーマン』や『スパイダーマン』、『バットマン』もそうだが、最近のハリウッド映画はけっこうリブートが多いようで、本作もまたリブート映画の一つである。
リブートとは、元の作品やこれまでのシリーズ作品をいったんチャラにし、設定を一から作り直した作品のこと。リメイクと似ているが、リメイクは文字どおり作り直し。原則として元の作品とだいたい同じような物語にするという点で、リブートとは大きな違いがある。
ということで『キングコング 髑髏島の巨神』。
時は1944年、第二次大戦中の南太平洋上において日米の戦闘機が激突。両機のパイロットはとある島に不時着する。二人は最後まで戦おうとするが、そこに巨大な生物が姿を現した……。
それから約三十年後。ベトナム戦争からの撤退が決まったパッカード大佐率いる部隊は、帰国直前に新たな命令を受ける。未知の島・髑髏島の地質調査に向かう民間調査隊の護衛がその任務であった。
調査隊長のランダをはじめ、元特殊空挺部隊隊員のコンラッド、カメラマンのウィーバーらも加わり、輸送船からヘリで島へ向かう一行。だが島の上空で調査用の爆弾を落としたとき、巨大なゴリラのようなモンスターに襲撃される。ヘリは全滅、わずかに生き残った調査隊も散り々々となってしまう。
島を脱出するには迎えのヘリがくる合流地点へ急がねばならない。一行は合流地点をめざすが、その島は巨大なゴリラ以外にもさまざまなモンスターが出没する、死の島であった……。

これまでの『キングコング』といえば、コングを捕獲する髑髏島での前半、脱走したコングがニューヨークで暴れまくる後半という設定だったが、本作は後半をごっそり削除。島のみを舞台に、とにかく人間とモンスターの戦い、モンスター同士の戦いに終始し、まさに典型的怪獣映画として成立している。ストーリーの骨子だけ見ても、ほぼ『エイリアン2』や『プレデター』と同じである。
モンスターもあくまで従来の動物を大きくしただけのような造型ではなく、クリーチャーとしてのアレンジがなされており、よりファンタジー色が強い。
このシンプルさが良くも悪くも本作の特徴であり、管理人はけっこう満足したが、まあ怪獣映画に思い入れがない人は絶対ダメだろう(笑)。
とりわけいいと思った点は、実はここが説明しにくいところなのだが、人間とモンスターとの戦い、モンスター同士の戦い、人間ドラマ、この三つの配分がよいということ。お約束的な設定ではあるが、目的のためには仲間の命すら厭わない科学者、復讐に狂った軍人がいて、彼らの確執を巧みにスト−リーに絡め、ストーリー的にも無理がない範囲で最大限の爽快感と恐怖を煽ってくれている。若い監督のはずだが、これがけっこう達者なのである。
ちなみにその監督のジョーダン・ヴォート=ロバーツは日本のポップカルチャーにも強く、ゲーム『メタルギアソリッド』の実写映画化の話も出ていた人だ。本作でもあちらこちらに日本のアニメ等へのへのオマージュが挿入されているが、こちらは書くのが面倒なので、ネットで検索していただければ、いろいろと小ネタが見つかるはずである(個人的には日本兵の名前がイカリ・グンペイというのにまずニヤッとした)。
ただ、この監督さん、ベトナムで不可解な事件に巻き込まれて瀕死の重傷を負い、現在は長期療養中だという。こちらも映画顔負けのミステリアスな事件なのだが、また元氣になって新作を撮ってもらいたいものである。
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横溝正史『雪割草』(戎光祥出版)
横溝正史の『雪割草』を読む。地方紙に連載され、七十年以上もその存在が埋もれていた幻の長編作品である。
時局にふさわしくないという理由で、探偵小説が書けなくなった第二次大戦中のこと。正史は捕物帳などに活路を見出していたが、同じ頃に本作のような普通小説も執筆していた。地方紙での掲載、戦時中という状況が本作を幻の作品にしてしまったようだが、地方紙とはいえ半年にわたって連載された作品がなぜこれまで研究者の調べでも引っかからなかったのか、そちらもけっこうミステリアスな話だが、とりあえずこうして復刊されたのは実におめでたい話である。
信州は諏訪。地元の有力者である緒方順造の一人娘・有爲子は、旅館鶴屋の息子・雄司との婚約を突然解消される。有爲子が順造の実の娘ではないことがその理由であり、有爲子もまたその事実に呆然とする。悪いことは続くもので、順造は怒りから脳出血に倒れ、そのまま息を引き取ってしまう。
有爲子は順造が残した手紙をもとに、東京のある人物を訪ねることにしたが……。

これで内容が少しでも探偵小説的であれば最高だったのだが、さすがにそれはなかった。本作は純粋に普通小説あるいは家庭小説というようなものであり、そういう面での楽しみはないのだけれど、正史の職人魂というか、センスの良さはひしひしと感じることができる。
主人公のヒロインを待ち受ける数々の困難。ときに挫けそうになりながらも周囲の人々の協力もあってそれを克服し、徐々に立ち直ってゆく姿。まさに「おしん」を彷彿とさせる朝の連続ドラマ風でもあり、花登筐の根性ものを思い出せるところもあるけれど、この手の小説を初めて書いたはずの正史が、意外とそつなくまとめていることに驚く。特に中盤までのスピーディーな展開はなかなか達者なもので、このあたりはやはり探偵小説のプロット作りが生かされているのだろう。
ただ、この手の物語は風呂敷を広げすぎて終盤にまとめきれないことが往往にしてあるもので、正直、本作もその嫌いはあるのが惜しい。それまでのハードルが、ヒロインの特に大きなアプローチもないままにいろいろと解決してしまうのである。その点で大きな爽快感はないのだけれど、時局を考えるとそこまで颯爽としたヒロインを望むのは贅沢というものだろう。
むしろ探偵小説ファンとして興味深いのは、本作の登場人物、画家の青年・賀川仁吾の存在か。これは解説でも詳しく触れられているところだが、その風貌が金田一耕助と似ていることがひとつ。そしてもうひとつは病や創作に対する苦悩が正史その人を反映したものではないかということ。
特に後者は、仁吾の口を借りて正史が心情を吐露しているようなところも数多くあり、本作の一番の読みどころだろう。
内容が内容なので、今わざわざ一般の人に推すようなものでもないのだけれど、そういった正史の創作に対する姿勢の一端に触れることができるのは貴重だし、さらには本書が発掘された経緯や正史の次女・野本瑠美氏の寄稿など、周辺の情報も含めて本書はファン必携の一冊といえるだろう。
時局にふさわしくないという理由で、探偵小説が書けなくなった第二次大戦中のこと。正史は捕物帳などに活路を見出していたが、同じ頃に本作のような普通小説も執筆していた。地方紙での掲載、戦時中という状況が本作を幻の作品にしてしまったようだが、地方紙とはいえ半年にわたって連載された作品がなぜこれまで研究者の調べでも引っかからなかったのか、そちらもけっこうミステリアスな話だが、とりあえずこうして復刊されたのは実におめでたい話である。
信州は諏訪。地元の有力者である緒方順造の一人娘・有爲子は、旅館鶴屋の息子・雄司との婚約を突然解消される。有爲子が順造の実の娘ではないことがその理由であり、有爲子もまたその事実に呆然とする。悪いことは続くもので、順造は怒りから脳出血に倒れ、そのまま息を引き取ってしまう。
有爲子は順造が残した手紙をもとに、東京のある人物を訪ねることにしたが……。

これで内容が少しでも探偵小説的であれば最高だったのだが、さすがにそれはなかった。本作は純粋に普通小説あるいは家庭小説というようなものであり、そういう面での楽しみはないのだけれど、正史の職人魂というか、センスの良さはひしひしと感じることができる。
主人公のヒロインを待ち受ける数々の困難。ときに挫けそうになりながらも周囲の人々の協力もあってそれを克服し、徐々に立ち直ってゆく姿。まさに「おしん」を彷彿とさせる朝の連続ドラマ風でもあり、花登筐の根性ものを思い出せるところもあるけれど、この手の小説を初めて書いたはずの正史が、意外とそつなくまとめていることに驚く。特に中盤までのスピーディーな展開はなかなか達者なもので、このあたりはやはり探偵小説のプロット作りが生かされているのだろう。
ただ、この手の物語は風呂敷を広げすぎて終盤にまとめきれないことが往往にしてあるもので、正直、本作もその嫌いはあるのが惜しい。それまでのハードルが、ヒロインの特に大きなアプローチもないままにいろいろと解決してしまうのである。その点で大きな爽快感はないのだけれど、時局を考えるとそこまで颯爽としたヒロインを望むのは贅沢というものだろう。
むしろ探偵小説ファンとして興味深いのは、本作の登場人物、画家の青年・賀川仁吾の存在か。これは解説でも詳しく触れられているところだが、その風貌が金田一耕助と似ていることがひとつ。そしてもうひとつは病や創作に対する苦悩が正史その人を反映したものではないかということ。
特に後者は、仁吾の口を借りて正史が心情を吐露しているようなところも数多くあり、本作の一番の読みどころだろう。
内容が内容なので、今わざわざ一般の人に推すようなものでもないのだけれど、そういった正史の創作に対する姿勢の一端に触れることができるのは貴重だし、さらには本書が発掘された経緯や正史の次女・野本瑠美氏の寄稿など、周辺の情報も含めて本書はファン必携の一冊といえるだろう。
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木々高太郎『三面鏡の恐怖』(河出文庫)
木々高太郎の『三面鏡の恐怖』を読む。不定期ながらも着々と刊行が進んでいるKAWADEノスタルジック〈探偵・怪奇・幻想シリーズ〉の一冊である。
こんな話。病気で亡くした妻の母親、妹と三人で暮らす電気製品会社の社長・真山十吉。日本の将来を変える事業を夢見る彼は、以前の恋人・嘉代子の妹と名乗る女性・伊都子の訪問を受ける。十吉はかつて政略結婚のために嘉代子を捨て、そのため捨て鉢になった彼女は好きでもない男と結婚し、その後病死してしまったのである。しかし、伊都子は十吉を激しく責めるでもなく、別れたあとも姉が愛し続けた男の気持ちを確かめにきたようでもあった。
やがて十吉は姉と瓜二つの顔を持つ妹・伊都子を愛し、結婚する。だが、そこへ嘉代子に先立たれた弁護士の平原が現れ、十吉に接近する……。

帯に景気のいい推薦文が踊っているので、読む前は逆に不安なところもあったのだが、予想したよりは楽しめた。
ストーリーはいたって地味なのだが、要所々々で胡散臭いエピソードを放り込んでくるのがいい。重吉と伊都子の結婚(この結婚がまたとりわけ胡散臭い感じではあるのだが、意外にさらっと流している不思議)、平原の登場、そして新たな重要人物の登場と、いい意味で小骨を喉に引っかけるようなエピソードというか(笑)。そんなあれこれが前半で展開され、同時に登場人物の思惑が錯綜して、疑惑とサスペンスが高まっていくのがいいのである。
事件の発生を遅らせたせいで終盤はややバタバタしているけれども、それなりにハッタリやどんでん返しも効いているし、プロットの勝利といえるだろう。
ただ、著者自身はどの辺りを狙っているのかいまひとつ釈然とはしない。冒頭にある作者の言葉では相変わらず文学云々みたいなことも書いているのである。まあ、実際に読んだ限りでは本格とサスペンスの中間ぐらいのところか。映画原作というのも頷ける話である。
ちなみにこの「冒頭にある作者の言葉」だが、それ以外にも気になることが書いてある。
ここで著者は、本作が「心理的多元描写」というものにチャレンジしたと宣言しているのだが、これは要するに三人称ではあるが、各人の心理描写もやりますよというもの。
ただ、叙述トリックでもあるまいし、正直なぜ、それをミステリでやるのか意味がわからない。これはかなり上手くやらないと、むしろ説明過多になったりアンフェアになったりする弊害があるし、何より人物描写としては拙くみえてしまう。
まあ、それをあえて宣言してやるところが、探偵小説芸術論を唱えた木々らしいといえば木々らしいのだが。
あと注目すべき点としては、全編を通して描かれる登場人物たちの姿がある。戦後間もない頃、価値観が大きく変動した時代のなかにあって、著者は登場人物を大きく旧世代・新世代・中間世代というふうに分け、それぞれの行動や考え方をストーリーに落とし込んでいる。
いつの時代にも当てはまるといえば当てはまるのかもしれないが、著者が同世代や若い性代に対して感じているところが素直に表れていて興味深かった。ああ、もしかするとそれをやりたかったから、「心理的多元描写」なんてものを持ち込んだのかもしれないな。
こんな話。病気で亡くした妻の母親、妹と三人で暮らす電気製品会社の社長・真山十吉。日本の将来を変える事業を夢見る彼は、以前の恋人・嘉代子の妹と名乗る女性・伊都子の訪問を受ける。十吉はかつて政略結婚のために嘉代子を捨て、そのため捨て鉢になった彼女は好きでもない男と結婚し、その後病死してしまったのである。しかし、伊都子は十吉を激しく責めるでもなく、別れたあとも姉が愛し続けた男の気持ちを確かめにきたようでもあった。
やがて十吉は姉と瓜二つの顔を持つ妹・伊都子を愛し、結婚する。だが、そこへ嘉代子に先立たれた弁護士の平原が現れ、十吉に接近する……。

帯に景気のいい推薦文が踊っているので、読む前は逆に不安なところもあったのだが、予想したよりは楽しめた。
ストーリーはいたって地味なのだが、要所々々で胡散臭いエピソードを放り込んでくるのがいい。重吉と伊都子の結婚(この結婚がまたとりわけ胡散臭い感じではあるのだが、意外にさらっと流している不思議)、平原の登場、そして新たな重要人物の登場と、いい意味で小骨を喉に引っかけるようなエピソードというか(笑)。そんなあれこれが前半で展開され、同時に登場人物の思惑が錯綜して、疑惑とサスペンスが高まっていくのがいいのである。
事件の発生を遅らせたせいで終盤はややバタバタしているけれども、それなりにハッタリやどんでん返しも効いているし、プロットの勝利といえるだろう。
ただ、著者自身はどの辺りを狙っているのかいまひとつ釈然とはしない。冒頭にある作者の言葉では相変わらず文学云々みたいなことも書いているのである。まあ、実際に読んだ限りでは本格とサスペンスの中間ぐらいのところか。映画原作というのも頷ける話である。
ちなみにこの「冒頭にある作者の言葉」だが、それ以外にも気になることが書いてある。
ここで著者は、本作が「心理的多元描写」というものにチャレンジしたと宣言しているのだが、これは要するに三人称ではあるが、各人の心理描写もやりますよというもの。
ただ、叙述トリックでもあるまいし、正直なぜ、それをミステリでやるのか意味がわからない。これはかなり上手くやらないと、むしろ説明過多になったりアンフェアになったりする弊害があるし、何より人物描写としては拙くみえてしまう。
まあ、それをあえて宣言してやるところが、探偵小説芸術論を唱えた木々らしいといえば木々らしいのだが。
あと注目すべき点としては、全編を通して描かれる登場人物たちの姿がある。戦後間もない頃、価値観が大きく変動した時代のなかにあって、著者は登場人物を大きく旧世代・新世代・中間世代というふうに分け、それぞれの行動や考え方をストーリーに落とし込んでいる。
いつの時代にも当てはまるといえば当てはまるのかもしれないが、著者が同世代や若い性代に対して感じているところが素直に表れていて興味深かった。ああ、もしかするとそれをやりたかったから、「心理的多元描写」なんてものを持ち込んだのかもしれないな。