はてなキーワード: セジウィックとは
クィア理論は、ジュディス・バトラーやイヴ・コソフスキー・セジウィックらによって展開された、異性愛中心主義(ヘテロノーマティヴィティ)を脱構築する試みとして登場した。規範を「行為の反復」として相対化し、ジェンダーやセクシャリティを流動的なパフォーマンスとして再定義することで、抑圧からの解放を目指したはずである。しかし、21世紀に入りこの理論が制度化・政策化される過程で、皮肉にも新たな規範の再配置と生権力の装置として機能し始めた。ミシェル・フーコーが『性の歴史』や『監獄の誕生』で分析したように、権力は単に抑圧するのではなく、知識・言説を通じて主体を生産・分類・管理する。クィア理論は、旧来の生物学的性規範を批判しながら、自ら新しい「正常/異常」の線引きを導入し、人間本性を再定義し、さらには一部の逸脱者を「脱人間化」するプロセスを促進している。
代表的な事例が、女性専用スペースの「解放」政策である。英国では、性自認を重視した刑務所配置方針が長年続けられた結果、生物学的男性でありながら女性として認識されるトランス女性囚人の割合が急増した。2025年3月31日時点で、イングランド・ウェールズの刑務所には339人のトランスジェンダー囚人が確認されており、前年比15%増という急拡大を見せている。過去の公式データでは、こうしたトランス女性(出生時男性)のうち、性的犯罪歴を持つ者の割合が58.9%〜62%に達し、生物学的女性囚人(3.3%)や男性全体(約17%)と比較して極めて高い男性型犯罪パターンを維持していることが明らかになった。
同様の再配置はスポーツ分野にも及ぶ。国際オリンピック委員会(IOC)は2026年3月、女性カテゴリー参加資格を生物学的女性(SRY遺伝子スクリーニングによる一回限りの判定)に限定する新方針を発表した。これまで性自認を尊重した参加が認められてきた結果、生物学的男性の身体的優位性による不公平が深刻化し、女性アスリートの安全と競技の公正が脅かされる事例が相次いだ。トイレ、更衣室、温泉などの日常空間でも、性自認優先の通知や条例が導入され、生物学的性の境界が曖昧化された。
これらは、クィア理論が唱える「規範の撹乱」ではなく、新しい規範の再配置である。生物学的性を「社会的構築物」と位置づけ、性自認を優先する言説は、フーコーのいう生権力として、身体と生を新たな基準で管理する装置となった。旧来のheteronormativityを批判しながら、性自認という内面的真理を「知識/権力」の対象に据え、人口を分類・最適化する——まさにフーコーが警告した、権力が「生」を対象化するメカニズムだ。
クィア理論は、人間本性を「本質的」なものではなく、パフォーマティブに構築されるものとして再定義した。これにより、ジェンダー・ディスフォリアを抱える若者への「アファーマティブケア」(性自認肯定医療)が推進された。しかし、英国カス・レビュー(2024年最終報告)やその後の追跡調査では、思春期抑制剤やクロスセックスホルモン治療のエビデンスが「極めて弱い」ことが指摘され、長期的な精神衛生・身体的影響(骨密度低下、認知発達への懸念)が懸念されている。2025年以降、イングランドでは思春期ブロック剤の使用が原則禁止され、ホリスティック(包括的)な心理社会的支援へシフトする動きが加速した。
この再定義は、フーコーの医療化理論を逆手に取ったものだ。19世紀に同性愛が「逆性的感覚」という医学的カテゴリとして生産されたように、クィア理論は性自認を新しい「内面的真理」として医療・教育・法制度の対象に据えた。結果、生物学的現実(進化的に形成された性的二形性や犯罪パターンの性差)を「抑圧」と位置づけ、流動性を強制する新しい規範を生み出した。
ここで特に問題なのは、こうした人間本性の再定義が社会契約や民主的なプロセスをほとんど経ずに急速に制度化された点である。ホッブズやルソーが描いた社会契約は、個人の加害性や自由の限界を相互に認め、合意に基づく規範を構築する仕組みである。民主的プロセス(議会審議、科学的レビュー、国民的合意形成、公衆討議)は、これを支える現実的な装置だ。しかし、クィア理論の影響下で性自認優先政策がアカデミアや一部の運動から行政・法制度へ波及した過程では、こうしたプロセスが大幅にバイパスされた。生物学的現実や潜在的加害性の検討が十分に行われないまま、政策が「進歩的」トレンドとして導入された事例は枚挙にいとまがない。
社会契約や民主的プロセスは、一種の「遅延効果」を持つと見るべきだ。思想やトレンドの変化が熱狂的に進行する中で、即時的な制度反映を「遅らせる」安全装置。審議の時間、科学的エビデンスの蓄積、利害関係者の声の反映——これらがなければ、流動的な人間像の再定義が現実の害(身体的・心理的・社会的コスト)を十分に考慮せずに固定化されてしまう。クィア理論は脱構築を掲げながら、この遅延効果を「抑圧の装置」と位置づけ、民主的チェックを弱めながら生権力を再配置した。
ここで注目すべきは、医療基準自体の改定による「非医療化」が、フーコーの医療化理論でこそ最も鮮やかに説明できる点である。DSM-5(2013年)では「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」を「Gender Dysphoria(性別違和)」に改称し、アイデンティティそのものを病理化する表現を廃止した。ICD-11(2019年)では「Gender Incongruence(性別不一致)」を精神疾患章から「性的健康関連条件」章へ移動させ、精神疾患としての分類を正式に解除した。これらは一見、クィア理論が推進した「反医療化」の勝利のように見える。
しかし、フーコーの医療化理論から見れば、これは非医療化の名の下に行われる新たな医療化・生権力の再配置にほかならない。フーコーは、権力が「病理化」だけでなく「脱病理化」によっても主体を生産・管理することを繰り返し指摘した。旧来の病理化(行為を「種」として内在化し、管理対象とする)を批判するように見せかけつつ、「合意と害の不在」という新しい基準で逸脱を再分類する。適合する軽度の逸脱(規範撹乱的な多様性)は「正常な多様性」として保護・特権化され、適合しない重い衝動(非同意・暴力要素の強いパラフィリック障害)は、より強く「ただの犯罪」として切り捨てられる。これにより、クィア理論は反医療化を装いつつ、性自認を新しい内面的真理として医療・制度的介入の対象に据え、人口の生を再最適化する装置を構築した。まさにフーコーが警告した「権力の生産性」の典型である。
さらに深刻なのは、逸脱の「軽重」による選別が、犯罪者の脱人間化を促進している点だ。合意ベースの軽度パラフィリアや規範撹乱的な表現は、クィア理論によって「多様性」として保護・特権化される。一方、非同意・暴力要素の強い性的衝動(パラフィリック障害)は、「ただの犯罪」として切り捨てられ、道徳的・社会的に脱人間化される。DSM-5がパラフィリア自体を非病理化しつつ、害を伴うものを障害とする区別を設けたのも、この二重基準を制度化した例である。
フーコー的に見れば、これは生権力の典型的な逆説だ。クィア理論は「反医療化」を掲げて旧来の病理化を批判したが、結果として新たな分類装置を構築した。「クィアであること」が文化的・道徳的資本となり、十分に「クィア」でない逸脱者(重い反社会性+性的衝動の複合型)は、規範の外側に排除される。犯罪者は「宿命的な怪物」としてではなく、社会が管理すべき生として扱われるべきなのに、理論は「軽い逸脱」の保護と「重い逸脱」の脱人間化を同時に推進する二重基準を生んだ。これにより、管理される自由(自発的な衝動抑制治療や専用環境の選択肢)は十分に整備されず、宿命的な渇望を持つ人々をさらに孤立させる。
フーコーは、権力は「抑圧」ではなく「生産」であり、抵抗そのものが新たな権力装置を生むと繰り返し指摘した。クィア理論はまさにこの螺旋に巻き込まれた。規範を脱構築しようとしたはずの運動が、性自認という新しい真理を生産し、身体と生を再管理する生権力として機能している。人間本性を流動的に再定義した結果、生物学的現実や加害性の潜在性を直視する機会を失い、脆弱層(生物学的女性や子供)の安全権を再配分する事態を招いた。
社会契約や民主的プロセスという「遅延効果」を欠いた再定義は、こうした生権力の再配置を加速させた。人間らしい社会とは、逸脱の宿命を認めつつ、害の度合いに基づく透明な線引きと、加害衝動者への「選択肢」(任意の医療的介入や構造化された環境)を拡大する社会である。フーコーの物差しで測れば、クィア理論の実践は規範の単なる置き換えに過ぎない。脱構築の名の下に生まれた新たな抑圧を避ける——それが、今求められる成熟した視点だろう。
最近、自称ネットフェミニストがトランス差別から陰謀論的な思考に陥り
「トランスジェンダリズム」の責任を男社会などに押し付けている
はっきり言って異常だ
すこし調べれば分かる通り、日本に「トランスジェンダリズム」を輸入したのは
フェミニスト思想家・研究者であり、翻訳・理論化・普及に務めた
そのおかげで法制化が急速に浸透し、トランスジェンダーに配慮することが
バトラー/ミンハ/セジウィックなどのジェンダー理論学者の著作を翻訳しながら
中でもお茶の水女子大学ジェンダー研究センターでの活動は特に日本の学問に大きな影響を与えた
この時期は日本の大学院法人化や21世紀COEなどの研究予算システム変更の過渡期であり
彼女の育てたポスドクが日本全国の英米文学・ジェンダー理論などの
構築主義をベースとした社会批評や、クィア理論やジェンダー理論の地位は盤石なものとなった
その中に、「トランスジェンダーへの配慮」という社会正義の正当化もあるために
構築主義的な見地から、日本社会と男性社会への強力な批判を展開し続けている
上野千鶴子の地位は盤石であり、何より彼女らが引退したとしても
そのあとを継ぐのもやはり構築主義を前提に研究実績を積み重ねた学者であり
その理論的基盤が構築主義的なものであることはまず変わらないだろう
(トランプのような人間が法を無視して大学に手を突っ込むなどの例外を除く
この状況が男性社会のせいであるというのは明らかにおかしいだろう
むしろ男性社会を批判する見地から理論化され、徹底的に相互批判が行われ
それが間違っていると言うならまずフェミニズムの歴史を批判すべきだ
別にトランスジェンダーの人権擁護をすべて肯定しろと言っているわけではない
英文学者のイヴ・セジウィックが提唱した概念なんだけど、セジウィックによるホモソーシャル分析でもっとも根本にあるのは「男同士の連帯」。そしてこの男同士の連帯はホモセクシュアルな性愛関係ではないというので、「ホモソーシャル」という言い方で表されている。
男同士のホモソーシャルな関係は女の支配や交換、共有できる成り立ち、その維持のためにミソジニーやホモフォビアやトランスフォビアを内包しているとされる。例えば男同士で集まって誰かの彼女の写真を見て「こんどおれにもやらせろよ」みたいな冗談を言ったりするとき、それは仮想的にではあれ女を仲間内で共有するような絆の作り方をしている。あとは、女を手に入れるために男たちの飲み会に誰かの知り合いの女を呼びつけるとか。これは手持ちの女の仲間内での交換。
ホモソーシャルと言われるのはこうしたもので、ほかの人も言ってるが、男子運動部の仲間意識とかを考えるとわかりやすいが、別にそれに限ったものではない。
ホモフォビアやトランスフォビアが入り込むのは、女を一緒に支配し、交換し、共有するこの連帯を維持するのに、男を性的対象とする男や女のような人間はノイズになるためだろう。そういう人間は男らしくない気持ちの悪い存在として排除し、男同士の連帯を強める。
よっしゃ、ジェンダー・セクシュアリティの専門家による超わかりやすいホモソーシャル解説記事をソースとして貼るね。しっかり読めよ。
https://gendai.media/articles/-/83547
これね、ホモソーシャルはそもそも同性間の関係性に着目した言葉なのね。
元増田は、女性同士が関係性を構築するためにパートナーの性事情を「ネタ」にする、ということを書いているのでこれに該当する。
ネタにされることは間接的に被害ではあるし問題なんだけど、そこは注目点ではなくて同性の関係性が主題。
SNSなどでは、「ホモソ」と省略して使われているのをよく目にしますよね。その使われ方を見ていると、セジウィックが分析した上記のホモソーシャルの特徴のうち、どちらかといえば、「ホモフォビア」よりも「ミソジニー」に力点を置いた使われ方をしている印象を受けます
男性から女性に対する「からかい」や、そうした揶揄を通じて形成される内輪ノリのようなものがミソジニーにつながったり、ミソジニー的な感覚を培養したりして、ホモソーシャルを強化していくといった側面はあると思います。
SNSではミソジニー的に使われてるけど、仮にミソジニーの意味が含まれるとしてもそれは「嫌悪」であって、加害そのものではない。
加害の要因になり得るというだけ。
どう?わかった?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB#:~:text=%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%20(%E8%8B%B1%3A%20homosocial),%E5%90%8C%E6%A7%98%E3%81%AA%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%82%92%E6%8C%87%E3%81%99%E3%80%82
はい。
「ホモソーシャル (英: homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。友情や師弟関係、メンターシップ、その他がこれに該当する。対義語であるヘテロソーシャルは異性との同様な関係を指す。2人以上の人間が結ぶ関係は、ホモソーシャル(同性と)、ヘテロソーシャル(異性と)、バイソーシャル(両性と)のいずれかでありうる。
ホモソーシャルという言葉は、イヴ・セジウィックによる「男性のホモソーシャル(同性間の結びつき)への欲望」という議論によって普及した[1]。それよりも早い1976年に、ジーン・リップマン=ブルーメンが性的な意味ではなく、社会的な意味での、同性の仲間への選好をホモソーシャリティ(homosociality)と定義している[2]。」
「近年、ホモソーシャルは男性と男性の繋がりだと誤認されがちだが、女性と女性の繋がりもホモソーシャルとなる。(そもそも、「ホモ」は「同性」という意味である。)」
https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301
タイトルからはわかりにくいが、本論はアニメ『さらざんまい』の感想。
"ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。"という書き出しからゲンナリさせられるが(一生、インターネットを見るだけで終わるお前の人生)、
「主人公の少年3人がその繋がりを支えに未来に進む」という結末の解釈はごく妥当なものに思える。
本論をざっくりまとめると「男同士が女同士のように関係を築きにくく、そのため現状、男性間では人間関係が支えになりにくい。『さらざんまい』はそれを問題提起した」というものだ。
これはセジウィックの有名な「ホモフォビアを起点としたホモソーシャル」の議論を参考にしたものだろう。そのホモソーシャルの対極は、これまた有名なアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」だ。これは女同士だと友情と恋愛の境界は曖昧であり、このことを利用して男に頼らない女同士の絆、連帯を育もうというものだ。
主人公3人、一稀、燕太、悠は最終回までで簡単に言って三角関係になるのだが、最終回では悠の危機に3人の繋がりが強調されて、最終的には「友情サイコー!」という感じで3人で未来に進むことを決断するので、その読みは大きく外れてはいない。まあ要するに3カプですね、3カプ。
だが本論が合っているのはここまでだ。
なぜなら、第7話にも、第6話に大きな危機があり、それを克服したことで3人による友情を築いたような展開があるからだ。そして、それは三角関係によって崩壊してしまう…
『「男」に「男」は救えるか?』の記事はこのことを自覚的にか無自覚的にか、省いている。この記事の評者は曲学阿世の徒だ。
第7話と最終回(第11話)のあいだにどうした変化が起きたのかと言えば、主人公たち3人が自立した存在になったことだ。このことは「忘れないで。欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」という台詞で何度も作中で強調されている。
というか、作中で「つながり」という言葉は半分くらい「欲望をつなぐ」という文章で用いられているのに、『「男」に「男」は救えるか?』の記事は、やはり自覚的にか無自覚的にか、このことを省いて、「つながり」が作中で人間関係の繋がりを指しているかのように誤導している(もちろん、そういう用法で使われていることもままある。が、もっとも肝心な最終回では「欲望をつなぐ」という文章でしか用いられていない)。
この記事の評者にとって、あらゆる問題は同性間の人間関係によってしか救われてはならないらしい。だからこの評者は曲学阿世の徒だと言ったのだ。
さて、前述の「レズビアン連続体」、女同士の絆、連帯、いわゆるシスターフッドは20世紀に被抑圧者である女性たちが戦うために必要なものだった。では、仮に現在にブラザーフッドなるものが実現した場合、それはいかなるものになるのか。現状、多くの男たちがそうした関係を小馬鹿にしている。それは評者の言うとおりだ。
ただ、私はそうした評者の言う「弱者男性」たちがネット上で連帯し、女性叩きや中韓叩きに走ったときに、ブラザーフッドなるものを揚言していた女性が急に前言を翻す気がしてならないのだ。
女性叩きや中韓叩きに走るという仮定を不自然に思われるかもしれないが、もともとフェミニズム運動の公準は「私的なものは政治的なもの」であり、個人的な敵愾心を敷衍しないシスターフッド、ブラザーフッド存在しないし、仮に存在しても、意味がない。
また、評者は今、「生きづらさ」を描く作品が商業的に大きな成功を収めており、また、それはすべて女性を対象にしたものだと言う。
現在、世界的に女性の消費に占める割合は64%だ。人口の男女比が同じとして、女性の消費性向は男性より20%以上も高い。実際には男性の平均所得の方が高いから、差はより大きいものとなるだろう。そして、この差はあらゆる社会的な女性差別と相関している。
仮に「生きづらさ」を描く作品が商業的に成功して、それが女性に限定されたものなら、それは社会的な女性差別と連関したものに他ならない。
これは差別の原因だろうか、結果だろうか。
男性にもそうした「生きづらさ」があると言う評者の意見に従えば、性差別が特別に女性に「生きづらさ」をもたらしているため、結果的にそういう作品が女性を対象としてのみ存在していると言うことはできないだろう。つまるところ、そうした「生きづらさ」に過敏に反応し、感情論を振りかざし、問題の解決ではなく共感を求める姿勢こそが、現在の女性差別の一因になっているということになる。無論、これは男性にも「生きづらさ」があるにも関わらず、なぜか男性向けではそうした作品が存在しないし、女性である自分からしてみれば、そうした作品が存在すべきだ、という評者の意見に従えばの話だ。言うまでもなく、私はそのような意見に従うことはできない。
そもそも、『違国日記』が「生きづらさ」を描いたものだと言うなら、それはあまりに粗雑に過ぎ、作品を読んでいるといえるか疑問に思う。
『違国日記』は登場人物が登場人物がそれぞれ分節化されており、それは感情的な連帯とは一線を画している。
また、本作でおそらく評者が「生きづらさ」を抱えていると言いたいのは槙生だろうが、槙生は独力で生計を立てており、そのために朝に影響を与えることとなる(これが会社員、もしくは無職なら朝にとっては何の影響ももたらさない。ただ無職なら悪影響だけはもたらすかもしれないが)。そうしたエコノミーを営むことは、情緒的な「生きづらさ」とは対極のことだろう。エコノミーという語はもともと節倹、家計を指していた。無論、感情や資本主義を全否定するのはただの犬儒主義だが……それでも私は、「生きづらさ」を云々し、消費活動とSNSの利用に人生を費やしている人々には、「一生、『凪のお暇』を読んで、夜10時台のドラマを観て、SNSにお気持ちを投稿してろ」と言いたくなってしまうのだ。
一生、インターネットで男女問題を論じているだけで終わるお前の人生。
そもそも評者は幾原邦彦監督がこれまでシスターフッド的な関係を描くだけで、ブラザーフッド的な関係をとり落としてきたため、その姿勢を反省したという論を展開したいようだが……
幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』で、主人公のウテナとシスターフッド的な関係をもっているのは親友の若葉だ。若葉の劇中での扱いは……観たひとなら知ってるよね?
何にせよ、そうした感情的な連帯は、副次的な支えになりこそすれ、そのものが救済になることはない。少なくとも『さらざんまい』ではそうだ。
例えばねとらぼの社員である青柳美帆子はこんなツイートをしている。
「男性が男性の弱さに寄り添えないというのはいろいろな本で言語化されていて、「ケアの役割を女性に任せていた(なので訓練されていない)」「ホモフォビアが壁になる」「弱さの吐露=男性性の剥奪になるのでまず弱さを言えない」というのがあり、つまりその人個人というより社会が悪いのです。しかし男性が(限定された部分ではあるけど)弱さを吐露できるし、男性同士で連帯できる空間があるんですけど、それが運動部コミュニティなんですよね。「男らしさ」が担保されている空間であれば弱音を吐けるし連帯できる、けど限定的なので、まあやっぱり社会が悪い。そんな2019年のエンタメの中で登場人物全員に欠陥がありコミュニケーションがうまく成立してるとはいえないけど「漏洩」という強制的な弱音共有装置により男性たちがつながっていく作品が出てきてるのはすごいことだなと思っていて、今晩最終回の「さらざんまい」というアニメなんですけど…はい…」
「さらざんまい」という現象がそうした個人間の差異を強制的にとり去る装置であることは間違いないだろう。しかし、それはあくまでそういうメタ的なシステムであって、物語を進めるための小道具であり、劇中における日常的な物事ではない。
仮に感情的な連帯を結ぶことが救済なら、やがてそのことが自己目的化するだろう。ああ、でもいますよね。一生、人間関係だけやって終わりそうな人間。
一つには「インターネットで感情的なことを言うと気持ちいい」からだ。
このことはSNSに関する無数の社会実験が明らかにしている。代表的なものだと、フェイクニュースの方が真正なニュースより圧倒的に拡散の速度がはやいということの、幾つかの統計。
前述のセジウィックは有名な『クローゼットの認識論』で作品にセンチメンタリティの属性を付与することの危険を「解釈的暴力」と言っている。同人界隈のこじらせた腐女子みたいな言葉だが、まともな文芸批評の用語だ。
もう一つには……これがBL作品であるということ。竹村和子は『愛について』でユニセックス、セックスレスが標準となった社会では、ゲイネスが記号化して商品として流通しやすくなるということを分析している。『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者や、上述の青柳美帆子氏が「男性同士の連帯!」ということを言うときは、まるで目をキラキラさせてショーウィンドウの中のラッパを眺める少年のようだ。そこにはユニセックス、セックスレスが標準となった社会で、ゲイネスを商品として心地よく楽しみたいという欲望が潜んでいる。従順で飼いならされた消費者の姿。消費活動とSNSの利用に人生を費やす人々の姿……
『さらざんまい』は女性を顧客層として想定し、そのマーケティング戦略はまず成功したと言ってもいいだろう。そのことは喜ばしい。
しかし、まさにそのためのBL作品の外観のために、作品の解釈が「感情的で気持ちいい」ものに歪曲されて、そうした有害無益な「解釈」が、SNSで論理性を欠き「共感」だけで拡散されているとすれば、それは悲しむべきものではないかと思うのだ。理性と真実ではなく、共感と幻想のインターネット。図らずもそれは、『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者の揚言する「つながり」を体現している。
1869年、ドイツの生理学者フリードリッヒ・ゴルツ(Friedrich Goltz)による脳を切除したカエルを用いた実験が発端と見られる。
しかし、ゴルツの実験でも脳のあるカエルは摂氏25度から落ち着かない様子になり、温度が上がるごとに激しくもがき苦しみ42度で死んでしまった。
1873年、ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes)による追試験結果がネイチャーに掲載された。
この実験は、精神の所在(つまり、反射ではない意識)を探ろうとするものだったが、
1872年と1875年に生物学面からの反証、つまり十分穏やかに昇温(一例では0.002℃/秒)させれば脱出しない、とする報告が寄せられた。
1888年、アメリカの生物学者ウィリアム・トンプソン・セジウィック(William Thompson Sedgwick)は、温度変化の速度差が原因と解釈し、これが定着した。
元増田です。同性愛者というのは「異性愛」対して嫌悪感を抱くものだ、という定義のようなものをどこかで読んだような気がするのですが、もしそれが定義として正しいのであれば、私は同性愛者では無いということになると思います。街を歩くと、女性にばかり目がいきますから。顔、髪、胸のふくらみ、脚・・・。そして「この人はどんな毎日を送っているのかな」と想像をふくらませるのです(気持ち悪いですね(笑))。それに比べれば、街で男性を意識してみることはまれです。たまに「これだけイケメンだったらさぞモテるのかな」なんて想像をするくらいです。
ただ、自分が「ホモソーシャル」(体育会系のノリのような同性間の強い結びつき)には親和性があると認識しています。男数人が集まって酒を飲みながらわいわいするのが大好きす。
ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を基本的な特徴とする男性同士の擬似同性愛的な強い親愛・連帯関係。
それ自体、同性愛と見まがうような強い接触・親愛関係でありながら、同性愛者と女性を嫌悪・蔑視して排除し、異性愛男性同士で閉鎖的な関係を構築する。
男子校で6年過ごしたせいなのか、男性社会の中でどのように生きていくか、ということにばかり目がいき、女性は「性の対象」または「征服の対象」でしかないと心の底で認識しているということなのかも知れません。女性をどうしても馬鹿にしてしまうようなところがある。でも、もちろん、接するときにはそれを隠すようにします。隠すというか、「この人ばかりは素敵な人に違いない」と信じて接する。ですが、女性と深い関係にならないので、「こういうすごい考えを持った女性もいるんだなぁ。自分が女性を馬鹿にしていたのは間違いだったなぁ」というように感じる機会がないのです。ずっと書いておりますように「女って一体、何を考えてるんだ!」という感想を持つことになるばかりなのです。
さて、少し話を戻しますが、男性数人でわいわいやるのが楽しい。それは事実なのですが、それとは別に性欲は存在するわけです。そして私の性欲は女性にのみ向いています。露骨な話になって恐縮ですが、毎日「おかず」を使ってマスターベーションをする。だけれども、それだけではやはり満足できない。あの女性の柔らかい肉体に触れたいという思いは消えないわけです。そして毎日が、大きな苦しみに耐える苦しみの日々なのです。
ホモソーシャルについてさらに参考URL(ご興味のある方はどうぞ)
http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/nippon/nippon-2.html