はてなキーワード: ザッピングとは
[B! NHK] 父親がバラエティを敬遠してNHKみたいな番組ばかりを見ていたが、歳を取ると良さが分かる?「まずBGMがないのが最高」「単純にバラエティ自体つまらなくなった」
「日本のTV番組の演出。V流してる最中にスタジオ出演者の『すごーい』とか『おいしそう』とかの声を被せる演出。いつ始まり、いつ頃増えた?」
日本のテレビ演出で、**VTR再生中にスタジオ出演者の声(「すごーい」「おいしそう」「かわいい」など)を被せる**手法は、明確な“発明日”があるわけではありませんが、**段階的に定着・増殖していった流れ**はかなりはっきりしています。
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* ワイプで表情を抜く
例:
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## ② はっきり増え始めた時期
この頃から
背景:
特徴:
* 「えー!」
* 「すごっ」
* 「うまそう」
この頃はまだ
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## ③ 決定的に定着・常態化
決定的要因:
特徴:
* スタジオ音声
* 効果音
* テロップ
が同時に入る
ここで
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## ④ さらに増えた・濃くなった時期
**ほぼBGM化**
理由:
→ 音だけでも内容が伝わる必要
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→ 誰かが横で一緒に見ている感覚
傾向が強いのと対照的。
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## まとめ(超要約)
つまり
👉 **「90年代に生まれ、2000年代に日本的文法として完成」**
という演出です。
もし興味あれば
ワイプだけでなく声まで被せる演出、増えたのもっと後の時代の印象だったんだけど。
まあいいや。
更に質問。
「あえて~系譜、は?」
いいところ来ましたね。
では **「あえてVにスタジオ声を被せない/最小限にする」日本テレビ演出の系譜**を、**思想別・時代順**でまとめます。
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### 系譜
### 特徴
👉
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### 系譜
### 特徴
👉
(リアクターではない)
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### 系譜
### 特徴
👉
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### 系譜
### 特徴
👉
「すごい」「かわいそう」を言わない勇気。
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### 系譜
### 特徴
👉
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### 系譜
### 特徴
👉
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## 全体を一言で言うと
この二つは
「うるさい vs 静か」ではなく、
次は
更に質問。
「『【視聴者の感情を誘導しない】というNHK的倫理観。』日曜美術館で絵を見せてる時にBGM被せるの。感情誘導されてるようで嫌なんだけど。あれはどういう意図、倫理観?」
とてもまっとうな違和感です。
結論から言うと、**『日曜美術館』で絵にBGMを被せるのは、NHKが掲げる「感情誘導しない倫理」とは別系統の倫理**に基づいています。矛盾ではなく、**価値観の優先順位が違う**。
整理します。
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まず重要な前提。
NHKが避けているのは主に:
* すごい/感動/かわいそう 等
一方で
NHK内部では
という序列がある。
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『日曜美術館』(1966~)は
### 制作者側の前提
* 落ち着かない
になる人が多い
> ではなく
という位置づけ。
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## ③ なぜ無音にしないのか
### 無音のリスク
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これは意図的で、
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## ⑤ それでも「誘導」じゃないのか?
あなたの感覚は、**美術鑑賞にかなり成熟している側**です。
でもNHKは:
この線引きが
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という批判があり、
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## ⑦ 一言でまとめると
ただし
その違和感は正しい。
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もし踏み込むなら:
このへんも続けられます。
チャッピーの返答、そのままコピペしたのでタグが変になってるが直すの面倒なのでこのままで。
この辺りで終了。
自分はTV好きなんだよ。朝は民放の情報番組ををザッピングしながら見てる。夕方も同じ。
で、民放もエネッチケーも何で毎日毎日、1日に何度も大谷特集すんのさあああああ…もう本当にうんざり。食傷。
野球部ではなかったけど中学〜大学まで授業でやる野球は楽しかった。もちろん見るのも楽しい。今日も甲子園を見た。日本プロ野球も特定の球団のファンではないけど緩やかに試合を見ている。大谷君はハムにいるときから注目してたし、渡米後もずっと情報を追っていた。だから本来結構好きな選手だったんだと思う。
でもさ〜メジャーリーグ(やっぱNPBとは違うよな)の特定のスターをゴリ押しされると興ざめすんよ。毎朝各局一斉にゴリゴリゴリ…うるさいんよ。
自分の知っていた大谷はいつの間にかスーパースターとして世界中からチヤホヤされる人になっちゃったんだね。それは素晴らしいけど朝から晩までネチネチやられるとさすがにイライラするわ。適正な報道量?にしてほしい。使用方法、使用量を守ってお使いください。
なお、自分から見て「飽き飽きしているテレビのネタ」はこんな感じ
マジ要らない。
ウヘエってなる。
おそらくこれは自身が周りからどう見えるのかを認識して知覚して記憶したいという欲求に近い。
この欲求は多分に内向的であり、インターネットに日記を書くことと、瞑想と違わないことを示している。
私は承認欲求でインターネットに日記を書くのではなくて、唯々鏡を見たくて、自分の考えたことを野に放つのである。
ああ、それなのに、ちょっとインターネットでつぶやいたくらいでわーっと炎上するのが世の中。
私はそういうのが嫌になって、ツイッターをやめたときからずっとインターネットで日記を書くことを躊躇してきた。
昔のツイッターは気軽で良かった。
そりゃ確かにインターネットで書いていいことと悪いことがある。その区別がつくかどうかは実際にブログをやるかどうかの判断の分かれ目だろう。
私は表現方法に自信がない。プロじゃないんだから。間違うこともある。いや、プロだって言い方間違って会社に謝罪文出させてるのが現実。
それで自分がもし間違えたら…という心配もあるし、将来的に指摘されるのも嫌である。鏡自身が正しく現実を映して、正しいからこそ嫌なことを思わせることもあるし、これはモノのたとえだけれども、鏡を見た人が心無いことを悪意なく、あるいは正義感から言ったり迷惑だから失せろと言ったりしてくるかもしれない。ああ。やめようかな。どうしようかな。でも一回やってみようか。
ここで有名な『嫌なら見るな』論というものを少し擦ってみる。少なくともここでこれを今書いてるワタシ自身については、お金もらってるわけじゃないし、ただオノレの外界に吐き出したものをしげしげと見たいだけなんだ。そういう飾らない人間自身は、虚飾のないと言ったら聞こえは良いが、そもそも見目のよいものではない。人の吐瀉物なぞそもそも汚いモノなので嫌なら見にいかない方がいんじゃないだろうか?ザッピングという活動にもそれ相応の覚悟が必要なんじゃあないだろうか。困ったことに私は私の出力した生データが見たい。出力しないと見れない。こっそりと出力させてほしい。他人の排出物(創作物ともいう)に価値を見出した人だけ、どうぞその解釈にご自身の時間を使ってほしくて、それが自己体調管理であり、取捨選択であり、自由意志であり、素晴らしい生き方なのではなかろうか。他の生物のニオイを嗅いで情報を取得するまでは本能かもしれなくて、それでも脊髄反射あるいは自由選択によるモノで誰かに強制されたわけではないのだから、その後のことは自分で責任を取ったら良いのでは?他人の屁を臭い臭いと言ってる時間があれば即離脱してもっと有意義なことに貴重なお時間を使ってみるのはいかがですかと誰か言っていなかったっけ?
荒らしよくないって話もある。こないだとあるマイナーなSNSを試してみたらいきなりテンプレ的な荒らし画像が出てきて即アンインスコしたんだよ。悪意を持ってヘイトを叫ぶために投稿したりとか、他人にショックを与えるために荒らすのは良くないと思うんだ。普通に考えたら規約違反だし。そのSNSは通報機能とか規約とかブロック機能とかないやつだった。規約があるのは大事。規約を読むのも守るのも大事、通報するのも大事。でも、どこからが荒らしで、何から通報なの?それはもしかすると白黒つかなくて、テンプレ的な荒らしではない、新しいタイプの荒らしと思われるのも本当に嫌だなあと思って。なぜかというと、自分の吐き出したものを書き出してマジマジと見ないといけない、そうしないと超絶個人的な瞑想ができないんだってことはきっと他人(ソーシャル)には理解されないからなんだよね。ソーシャルでそれをするのかっていう議論になってくるよね。誰も傷つける意図がないので、してもいいはずなんだけど。理解できないことは恐ろしいもんなあ。
話がどんどん横道に逸れる。
こういうことを頭の中でぐるぐる考えている。少しは助けになったかな?
裏が白いチラシの入手ができない状態が10年以上続いているから文字通りのチラ裏ができないよ。でも言いたいことわかるよ。実際今日も安いペラ紙を買おうかなと思って通販サイトを見ていた。
ただ、紙に書きたいけど書けない。書いたらゴミが出る、大量のゴミが。学生時代に書いた大量の紙ゴミを実家に帰るたびにシュレッダーにかけているが全然終わらない。あまりにもプライベートなことを現実の紙に書くのはどうもよろしくない。体力もかけたくない。マジでごめん。信じられないだろうけど腱鞘炎になりそうなので勘弁してほしいんです。
あと、自分しか見ないというのはチラ裏とインターネット日記とでは本質的に異なる。チラ裏は感覚の鏡にはなり得ない。
たぶんすぐ消すけどありがとう。
でもやっぱりこのあれだな、意識の違いというか、期待値の違いというか、無意識的なリスペクト(配慮)要求というか、マナーというかなんというかそういう中身とは遠く離れた皮革的なものへのリアクションの情報を広く浅く求めたいところが全ての答えなんだと思う。できるだけ自分へのダメージを避け、他人への直撃を避け、トイレの壁に落書きをするようなそんな心配性で人でなしのやり方を求めて悩んでいる時点で…
でもこのやり方はきっと間違っていなくて、ソトガワに対するソーシャルリアクションは人として多分に追求するべきで、不健全でもなくて、こういうのもありなんじゃないかなあって。甘えなのかなあ。どうなんだろう。
「コロンブス」の件で、元々馬の居なかったアメリカ大陸にヨーロッパから馬が導入され
アメリカ先住民も馬に乗るようになった話を「再学習」してるところに
興味深い話がtwitterで流れてきて
https://x.com/_596_/status/1802208048163041289
アフリカにかつていた三本指の馬祖先は三本指のまま絶滅しており
ポニーからサラブレッドまで一本指の現生馬はアメリカ大陸由来なのに
馬が出アメリカしてから本家アメリカ大陸で消えてしまったの不思議だな
その時代に繊維質を豊富に含んで丈の伸びやすいイネ科植物が優勢になって
そういう固めの草をよく噛んで食べる都合上、歯がすり減りきってしまうのが生物寿命に直結するから
歯が長く厚くなっていく進化過程もアメリカ大陸の化石から観察できる
イネ科植物の優勢といえば、インドネシアで「焼かない焼き畑農業」をしてる原住民族のフィールドワークで
農地開墾は木を切り倒しざっくり下草を刈ってそこにトウモロコシの種を散らして撒く
刈った草木は肥料でもあり畑でいうマルチング資材として活用し、水は天水農法という省力化
何年かそのようにして耕作した後に、イネ科の雑草がトウモロコシよりも優勢になってきたら
除草や若芽の選別の労力が、新しく開墾する労力を上回るので次の「焼き畑」場所へ移動する
放棄された場所は草が茂り低木の林から次第に背の高い林となり地力を回復し数十年後のサイクルで再び活用される
というのを何世代もやってきた
とTVをザッピングしてたら「焼かない焼き畑農業」というキーワードで興味を惹かれた放送大学の回で見たことがある
新大陸原産のトウモロコシがインドネシア先住民に、と思って多少調べたが
トウモロコシを持ち帰って100年以内にはアフリカやアラブに西洋人が交易材料として持ち込み導入しているので
インドネシアへ入った詳細まではわからなかったが早い時期に持ち込まれていそうだ