はてなキーワード: どっちもどっちとは
色々言ってる人居るけどさ、でもみんな何故か言わないけど
どっちもだよな
どっちもどっちじゃなくて、どっちを擁護する気もなく、どっちも言ってる事変わってるよな
でも殆どの人はどっちかにしか言わない、批判しない、そういうの見てるとマジで汚ねぇと思う
結局そういう事なんだよな、気持ち悪い
高市は消費税とかで(多分その他にも色々あるんだろう)言ってる事コロコロ変わってるし、
立憲(もう元立憲?と言った方がいいか?)は基地とか原発問題で言ってる事コロコロ変わる
でも一番汚いのは、どっちもコロコロ変わってるのにどっちかにしか言わない奴だよ
批判するなって言ってんじゃないんだよ、もう片方にもちゃんと言えよ、気持ち悪い
ご提示いただいたはてなブックマークのコメント群は、記事のテーマである「ミソジニー(女性蔑視・女性嫌悪)」に対する、典型的な反応のサンプルとして非常に興味深いものです。
記事自体が「構造的差別」や「感情のあり方」を扱っているため、コメント欄自体がその実証の場となっている側面が見受けられます。
以下に、記事で定義されているようなミソジニー的な態度、あるいはミソジニーを維持・強化する構造を含んでいると考えられるコメントを分析・分類しました。
記事内の「『物言う女性』に対し、言葉の暴力で排除・制裁する」という指摘にそのまま合致するコメントです。フェミニズムや女性の権利主張を「正義に酔った暴走」とみなして攻撃する態度は、ミソジニーの典型的な発露(既存の秩序を乱す女性への懲罰)と分析できます。
分析: 「イカレタ女」「バカ」といった侮蔑的な言葉を用い、女性の主張の内容ではなく、その態度や存在自体を攻撃しています。これは「弁えた(わきまえた)態度をとらない女性は叩いてもよい」という心理の表れと言えます。
女性を一人の人間としてではなく、性的資源としてのみ価値を認め、人格は否定するという態度は、ミソジニーの根幹にある「客体化」です。
分析: この発言を「至言(素晴らしい言葉)」として肯定的に引用している点に、女性を対等な人格を持つ他者として認めたくない、しかし性的には利用したいという歪んだ欲望(聖女と娼婦の分離、あるいは人格の無視)が見て取れます。
女性差別について語る場で、「男性こそが被害者である」「女性は優遇されている」と主張し、議論を無効化しようとする動きです。これらは「インセル」や「弱者男性論」の文脈で語られることが多く、構造的差別を否定するための防衛機制として機能します。
分析: 女性差別の解消を目指す動きを「男性への攻撃」と解釈し、敵対心を露わにしています。これは記事にある「剥奪感」によるミソジニーの増幅の実例と言えます。
ミソジニーという概念そのものを「レッテル貼り」や「カルト」として処理し、その背後にある社会構造の問題から目を逸らそうとする態度です。
分析: 「嫌悪は自由」と個人の感情の問題にすり替えることで、その嫌悪が社会構造と結びついて差別を再生産している事実(記事の主題)を無視しています。
「ミサンドリー(男性嫌悪)はどうなんだ」と繰り返すことで、ミソジニーの議論を妨害する行為です。これも広い意味で、女性の問題を軽視するミソジニー的態度の一種と捉えられます。
分析: 記事がミソジニーを主題にしているにもかかわらず、男性への配慮が足りないと批判することで、女性差別の議論の重みを相対化しようとしています。
コメント欄全体を見ると、「ミソジニーという言葉で男性を攻撃されている」と感じて防衛的・攻撃的になる男性と、「まさに記事に書かれている通りのことがコメント欄で起きている」と冷ややかに観察する人々(nina19, funifunix, yourmirror など)にはっきりと分断されていることがわかります。
また、u_eichi氏が言及している「ピラミッド図」はおそらく「暴力のピラミッド(Pyramid of Hate/Violence)」のことだと思われます。
この図は、底辺にある「偏見による態度(ジョークやステレオタイプ)」が、頂点の「物理的暴力」を支えていることを示すものですが、これを「幾何学的に非論理的」と批判することで、本質的な「差別の構造」の議論を拒否している点も興味深い反応です。
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ミソジニー(女性嫌悪)の有無という「ジェンダー論的な視点」を一旦脇に置き、コメント投稿者たちの心理的機序、社会経済的背景、あるいはネット文化的な側面から分析します。
こうして見ると、単なる「差別意識」だけではなく、**「公平性への渇望」「経済的閉塞感」「コミュニケーションの断絶」**といった複数の要因が絡み合っていることが浮き彫りになります。
多くのコメントに見られるのが、「ミソジニー(女性嫌悪)があるなら、ミサンドリー(男性嫌悪)も同じ重みで論じられるべきだ」という対称性への強いこだわりです。
コメント例: replier, ken530000, timetrain, OeThousandmiles
分析:
社会学では「差別には権力勾配(強者から弱者へ)がある」と考えますが、一般の感覚(直感的な正義感)では「どっちもどっち」「悪口は双方向で悪い」という対等な対称性を求めがちです。
記事が「女性差別」に焦点を絞っていることに対し、「片手落ちである」「不公平だ」と感じる心理は、差別をしたいというよりは、「自分の苦しみも同じように認めてほしい」という承認欲求や、世界は公平であるべきだという「公平世界仮説」に基づいている可能性があります。
「男だから偉い」と思っているのではなく、むしろ**「男なのに何の特権もなく、社会の底辺で苦しんでいる」**という自己認識を持つ層からの悲痛な叫びです。
コメント例:
naka_dekoboko: 「いまの社会で弱男にゆるされたのってけっきょく憎悪だけ…憎悪だけがエンパワーして力をくれる」
gun_kata: 「実際にキャリアを奪われた若年男性に対してもお決まりの『新自由主義こそが真の敵』みたいな何の意味もないお題目」
分析:
これはミソジニーというよりも、**新自由主義経済下における「持たざる者」のルサンチマン(怨恨)**の表出です。
「男性特権」という言葉を投げかけられても、自身の貧困や孤独という現実と乖離しているため、フェミニズムを「既得権益層(あるいは勝ち組女性)による弱者いじめ」として認識し、反発しています。特にnaka_dekoboko氏の「憎悪だけがエンパワーする」という指摘は、孤独な現代人の深刻な病理を鋭く突いています。
記事で提示された図表や論理展開に対し、定義や整合性の甘さを指摘して拒絶する反応です。
コメント例:
u_eichi: 「頂点の角が鋭角だったり鈍角だったり…正三角形で底辺短=相似で頂点下がるとか、非論理」
golotan: 「アドラー心理学とか精神分析的な言ったもの勝ち感…客観的エビデンスを欠きジャーゴンの羅列になってしまいがち」
分析:
これは**「認識論の衝突」**です。社会学や人文知的な「概念モデル(メタファーとしての図)」に対し、厳密な定義や定量的なエビデンス、幾何学的な整合性を重んじるエンジニアリング的・自然科学的な思考様式を持つ人々が、生理的な拒否反応を示しています。
彼らにとって記事は「非論理的」に見えるため、内容の正誤以前に「信頼に値しない」と判定されています。
「ミソジニー」という聞き慣れないカタカナ語に対し、わざとダジャレで返すことで、話題の深刻さを無効化あるいは回避しようとする反応です。
コメント例: zzteralin (miso=憎しみ), nande_nande_boy (三十路のおっさん), tym1101, asada1979
分析:
はてなブックマーク特有の「大喜利文化」の一種ですが、心理学的には**「茶化し(ユーモア)」による防衛機制**とも取れます。
自分にとって耳の痛い話や、理解の範疇を超える難解な話を、「三十路(ミソジ)」という卑近な単語に変換することで、自分とは関係のない「ネタ」として処理し、心理的な負担を軽減しています。
コメント例: qdkmqJut, trashcan, ET777
分析:
『imidas』が集英社の分厚い用語辞典として有名だった時代を知る世代(おそらく30代後半〜50代)が多く含まれていることが推測できます。
「まだあそこが生きていたのか」という驚きが先に立ち、記事の中身は二の次になっています。これはネット古参ユーザー特有のコンテキスト依存の反応です。
このコメント欄は、単なる「男女対立」の場ではなく、以下のような現代日本の断層が可視化された場であると言えます。
エリート(概念を操る側) vs 大衆(生活実感を持つ側): 「構造」や「ミソジニー」といった抽象概念で語る記事と、「俺たちは今辛いんだ」という具体的な生活実感を持つ読者の乖離。
文系(解釈的) vs 理系(実証的): 社会的な「正しさ」の語り口に対する、論理的・科学的整合性を求める層の苛立ち。
被害者性の奪い合い: 「女性こそが被害者」という記事の前提に対し、「いや、現代では男性(特に弱者男性)こそが被害者だ」と主張する層の対抗。
これらを踏まえると、コメント欄の混乱は、**「共通言語の喪失」と「余裕のなさ」**によって引き起こされていると言えそうです。
24時間つけっぱなしに最適なライブ配信サービスに予想以上のブックマークコメントがつき、返信をたくさん書いていたら文字数制限 (たぶん約6000文字?) になってしまった。
せっかく書いたのを消すのももったいないので、過去の記録をここに移すことにした。
どうでもいいが、文字数制限いっぱいまで書くと、確認画面では大丈夫なのにいざ公開すると末尾が切れるだけでなく、"Permalink | 記事への反応(5) | 20:09" ってところも表示がバグるのね。
編集画面には全文残っていたので、システム上には登録されているけど表示上だけ切れたっぽい?
自分は再生したいものがきまっているから、つけっぱなしにはしない (再生したいものがないときは消してしまう) 派だな...。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4781479263221901537/comment/portal18
見たい番組がないときに生活音としてつけっぱなしにする派と消してしまう派のどちらが優勢か気になるな。(作業用BGMとか自分で選曲するもの以外で)
そしてこのコメントは地味にAIコメント (すぐ下のコメント) よりもわずかにはやい...。
結局YouTubeかTwitchの垂れ流しでええやん。NHK回避に必死すぎて草生えるわ
https://b.hatena.ne.jp/entry/4781479263221901537/comment/pico-banana-app
YouTubeはニュース配信は別として、その他配信は見たい配信を選択するというフローからスタートするうえに配信時間もあるからなんか違う...。最初の行のとおり見たい動画はないがNHK回避しつつテレビをつけっぱなしにしているという投稿を見たのがきっかけなので、生活音として適当に流しておけるやつがほしい。
リンクの個数制限に引っかかるようになったためリンクを貼っておらず申し訳ないです (コメントは全文引用なのでさがして) 。
あったあった...。プレイリストを選択せずにYouTubeを流しっぱなしにできるという便利なサービスでしたね。
※ ほかにも似たようなコメントが多数ありましたが、代表してひとつだけ紹介します。ご了承ください。
これは半分正解。NHKを選局したら映る状態であれば、試聴しなくても受信料の支払いが必要。
ちなみにアンテナ端子に接続するとNHKだけ映らなくなる装置もあるが、NHK党が試してみたところ、"取り外せば映る" という理由から支払いが必要になるとの結果になっている。
※ NHK党はNHKのスクランブル化をもとめている。ただ地上デジタル放送専用のB-CASカード (青色) にはストレージがないため、現実的ではない。(NHK BSはメッセージ表示という実質的なスクランブル放送になっている)
上記理由のほか、2022年にドン・キホーテが "チューナーレステレビ" という名前で (よくこんな名前を思いついたなとは思うが) ただのディスプレイを売り出したことで急速に売れるようになり、NHKだけ映らなくなるアンテナはすっかり消えてしまった。
失念...! 一覧に追加した。
たしかに知らない地域・知らない言語のほうが内容にうっかり集中してしまうリスクは減らせそう。TuneInやMyTunerといった海外サービスはこういったメリットがあるね。
ポッドキャストは悩んだけど上記YouTubeと同じ理由 (番組を選択するのがスタートになってしまう) から取り上げなかった。
youtubeが配信を選ぶところから始まるというなら、増田が挙げてるサービスも最初は選ぶところから始まるような。時間が決まってるというが、24時間かけても全部終わらない再生リストなんていくらでもある。
究極をいうとそうなる、というよりテレビもNHK総合が1チャンネルではなく3チャンネルに設定されている地域を除いて適当な民放を選局するところからスタートになるから (チャンネル数は桁違いにすくないが) 、どっちもどっち...。そもそも民放が2つしかない宮崎県とかは別だけど。
NotebookLMに適当な情報食わせて対話型形式で音声書き出しオススメ。だるい調べ物とか適当なニュース記事をまとめて料理中や運動中に聞いてる
たしかに生成AIが発達したこのご時世、聞きたい内容が決まっているならポッドキャストのかわりに自炊もありだな...。
ほんとそれ。NHK ONEとくらべてライブ視聴できる番組が少なすぎる。
「あと、音声サービスでなおかつアプリ側が対応していれば、CarPlayやAndroid Autoに接続することで、カーオーディオとして再生することができる (radikoも対応している) 」カーラジオでよくない?
これは人による。カーナビの独自アプリで目的地を設定するのであれば、もともとのラジオのほうが便利だが、オンラインカーナビを使いたいなどの理由でCarPlayで目的地を設定するならradikoのほうが便利である。
関係ないけど、長らく独自アプリにこだわっていたパナソニックも2024年モデルでついにCarPlayに対応、各社独自アプリとCarPlayをニーズに応じて選択できるようになった。なお排他利用 (入力切替) になるため、両方同時に目的地を設定すると先に設定した側のルート案内は中断される。
前述のとおりNHKゴガクアプリはラジオ扱いになるため登録不要。ただしテレビで放送されている語学番組に関するものは登録が必要。テキストを買うときは学習したい内容がどちらに属しているかを確認してから買うのをおすすめ。
注目すべきは今まさにアンチがそれらに全レスしようと躍起になってるとこだよ
dorawiiより
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dorawiiより
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いなくなったタイミングでトラバするのと粘着するのはたから見てどっちもどっちだと思うけどどう?w
dorawiiより
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https://anond.hatelabo.jp/20251225072754
はてブや増田だと斎藤知事の支持率なんて消費税以下みたいなもんでしょ?
その時点で偏ったエコーチェンバーなんだよ、所詮はてブや増田なんて。
と言ってはみるものの、正直自分も支持してはいない。前回の知事選では迷いに迷って結局維新の候補に入れた。
稲村は、本人の主張も取り巻きもあまりにも雑魚だったので。最初から最後までフニャフニャの雑魚すぎた。
それで、俺兵庫県内では上から数えて何番目みたいなデカいJTCで働いてるんですけど
この会社、俺の肌感覚では斎藤知事の支持率80%超えてるね。いやマジで。
「井戸前知事率いる既得権利権勢力がマスメディアとタッグを組み改革派の若手知事を陥れようとしている」これが社内の支持派のおおまかなロジック。
知事選の前後、まぁ話題になったので色々な人から話を聞けたがおおよそ皆こういうことを言っていた。
で、不思議なことに社内の斎藤支持派でも立花は嫌いなんだよな。なんで?と思ったけど
要するに、立花は色んな選挙のたびに何も関係ないのに勝手に来て騒いで迷惑な人、という感覚らしい。つまり、いわゆる二馬力選挙じゃなかったよ、斎藤は斎藤で自分で選挙活動してたでしょ、とのこと。
俺は正直それ聞いて「ネットのアンチにはその理屈通らんやろなあ笑」と思ったけど、実際のところどうかな。
まあ、ここまでグダグダになっちゃったので斎藤支持派とアンチのどちらが「逆張り」になるのか正直もうよく分からないけど
この両者が分かり合うことはもう無いんだろうなとは思う。
(追記)
斎藤支持派だけマヌケなエコーチェンバーではてブや世間一般はまともな集団だという、間違った思い上がりをはてブはしてるみたいだから指摘しただけよ。
http://mimizun.com/log/2ch/801/1213627575/
10 名前:風と木の名無しさん[sage] 投稿日:2008/06/17(火) 01:08:03 ID:Rt/2Wf6U0
認定されたらね、認定した相手を腐女子って認定しかえしてやるといいよ
あと、おまえも腐女子と同じ、どっちもどっちって言ってやるとか
11 名前:風と木の名無しさん[] 投稿日:2008/06/17(火) 01:12:28 ID:57eiEilm0
いい気味
12 名前:風と木の名無しさん[sage] 投稿日:2008/06/17(火) 01:20:56 ID:Rt/2Wf6U0
あと粘りと根気が大切だよね・・・
嘘も百回つけば真実になるよ
とにかくひたすらぴったりはりついて連投することがいちばん大事かと
13 名前:風と木の名無しさん[sage] 投稿日:2008/06/17(火) 01:36:03 ID:bAfNbDBi0
長期的に考えると味方をつくることだと思う。
○○手当、○○給付金、○○の自己負担、そういうやつの所得制限撤廃を叫ぶ人って多いじゃん。
わからんでもないんだけど、でもさ、所得が高いんだから十分いい生活してるんだからしょうがないと思うワケ。
でも、これって逆説的に、底辺でもいい生活をしてるからそういう話なんじゃないかな。
いまってさ、よっぽど貧乏だって餓死することもなければ凍死することもないじゃん。
物質的な豊かさは、そんな違わなくて、モンクレールのダウンを毎年買い替えるか、ユニクロのダウンを5年着るかみたいな差でしかない。
だから、富裕層はどっかで差をつけたくて、所得が高いからこそ、低所得者とは違ったなにかが欲しい。
ゆえに、給付によって低所得者の生活が向上して、高所得者の所得を自己負担によって奪われ、差が縮まることにすごく敏感になる。
これがね、貧乏人がバッタバッタ凍死してるとか餓死してるとかだったらさ、所得制限やむなしかなって考えをすると思うんだ。
年収1千万で所得制限を食らって、実質手取りは年収900と同じになったとしても、凍死してるような貧乏人がいるならこのくらい我慢するかなって思えるんじゃないだろうか。
ところが、さっきいったように、よっぽど貧乏だってたいして変わらん暮らししてるじゃん。
そりゃ、貧乏人のアパートは狭いし、朝夕は寒くて、エアコンが効くまで時間がかかるけどさ、家なんて寝に帰るだけの高所得者が広い部屋に住んだって幸福度が高いかっていったら、どっちもどっちだし。
食事の食材が多少良いものになるくらいで、スタイルフリーがプレモルになるくらいじゃん?
そりゃね、なんか高所得の証、低所得者にはできない豊かな生活をしてみたくもなるし、所得制限のおかげで実質手取りが反転したら怒っちゃうよ。
https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5
https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5
「なぜはた」の明確な問題点は「タイトルの主語が大きすぎること」です
<以下本文>
まず大前提として、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々」という特定の層が抱える悩みについて、それが個人的な問題ではなく社会構造上の問題であることを論じた本です。
→大前提となる、「『かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々』という特定の層」が存在することをデータで示さないと、「実感」としてそういう層の存在を主張したとしても議論が始まりません。
「この神聖な水飲んだらがんが治ったんだもん」とデータなしに主張しても、そこから先の議論に至らないのと同じです。
これに対し、飯田さんは国民全体の平均値であるマクロデータを持ち出して「全体で見れば変化はない」と反論しました。が、これはいうなれば、「日本人の平均寿命は伸びているから、あなたの今の病気は存在しない」と言っているのに等しい議論です。
→この例えは明白に誤りです。なぜなら前者は「全体の読書量」と「特定の層の読書量の推移」を比較する主張であり、後者の「寿命」と「特定の疾患の存在」とは評価対象が異なるからです。
あえて寿命で例えるなら、「日本人の平均寿命は延びているから、喫煙者の平均寿命も延びている」などがあります。これならば「全体」と「特定の層」を共通の評価軸である「寿命」で比較できますし、「日本人の平均寿命が延びていること」を示しても「喫煙者の平均寿命が延びていること」を示さないのはその通りで、これならば矛盾と言えます。
(しかしその仮説を論じるなら、タイトルを「喫煙者の平均寿命~」とするべきで、主語を日本人全体としたり、明確に示さないことが明らかに誤りであることは誰にでもわかると思います。)
全体平均の中に埋もれてしまっている「特定の属性の変化」に光を当てるのが拙著の役割です。マクロデータのみで個人の実感を否定することは、分析の手法として適切ではありません。
→マクロデータのみで個人の実感を否定すること。確かによくないですね。
おじいさんおばあさんの中には、煙草を決してやめない人がいます。「私は煙草を吸っても今まで病院のお世話になったことないんだから、それでいいの」 大変結構だと思います。
こういう人たちに、「タバコは健康に悪いからすぐやめなさい」と言っても、個人の経験則を否定することになり、もめます。
マクロデータの目的は、「特定の属性の実感」を否定することではなく、全体を解析して現状やその傾向を把握することです。分析の手法として、データで示されない実感を大切にすることは重要ですが、解析の結果「実感」を否定する結果になってしまうことはままあります。
だからこそ、「実感」を前提とする議論をするならば、実感の存在そのものをデータとして示す必要があるのです。
拙著で統計データを多用することは本題からそれてしまうため(何度も書きますが、私の書いた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はマクロデータで語ろうとした本ではありません)必要最低限にとどめていました。が、本稿ではあえて氏の提示したものと同じデータソースを用いて反論を試みます。
→繰り返しになりますが、主張には前提が必要で、前提が正しくなければ主張も意味を成しません。したがって、前提をデータとして示す必要があります。それが必要最低限に至っていないということなのです。
飯田さんは「高校生の時点で読書量は減っており、働き始めてから急に減るわけではない」と指摘されています。しかし、この主張は「誰を対象にするか」という分析対象のセグメントを見誤っています。
まず、拙著が対象としているのは「元々読書習慣があった人々」です。では、統計的に見て「読書習慣がある人」とはどのような層を指すのでしょうか?
次図「読書習慣のある人」の月平均読書冊数を見ると、過去約40年にわたり、本を読む習慣がある人の読書量は月平均3-4冊の間で安定して推移しています。つまり、統計的な定義として、「月3-4冊読む」という行動こそが、日本の「読書習慣がある人」の姿であるといえます。
→対象としているのが「もともと読書週間があった人々」なら、なぜ書籍のタイトルが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」と主語が示されていないのでしょうか。ここが反論とその反論の大きなズレの原因です。
ちなみにこの統計、データ(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/94111701_03.pdf)が35ページ目(pdfだと39ページ目)にあるんですが、16-19歳の調査人数、なんと83人なんですね。
これだと1人減ったら1.2%割合が動くことになるんですよ。以下に書き起こしたものを記載してみます。
<16-19歳の読書数>
0冊=66.3%
1-2冊=22.9%
3-4冊=8.4%
5-6冊=1.2%
7冊以上=1.2%
あれ?1.2%が二つ。つまりこれ、5-6冊、7冊以上の人は1人ずつでしたね(笑)
3-4冊の人も1人減ったら7.2%になり、2人減ったら6%になって20歳代の人と同等になっちゃいますよね。
おおよその割合をみるには使えると思うんですけど、「16-19歳とその他の世代の比較」には非常使いにくいデータだと思いませんか?もし複数回同じ手法で調査したら、ひっくり返っちゃったりすることもあり得そうです。
しかも、令和5年の大学、短大、専門学校の進学率を合わせると約8割、大学に限ると約6割で、ちょうどこの統計の年齢階級を跨いじゃってるんですね。
だから、このデータで「働くと読めなくなるかどうか」を議論するのって、そもそも無理なんですよ。
ご覧の通り、「1,2冊」というライト層では加齢による減少は見られませんが、「月3-4冊読む習慣のある層」においては、労働期間中(生産年齢)に数値が底を打ち、退職後に回復するという明確な「U字カーブ」を描いています。
学生時代の読書減と社会人の読書減を同列に語ることはできません。なぜなら、このグラフが示すように、「労働から解放された世代(70代以上)」では、数値が学生時代の水準まで回復しているからです。 もし「加齢による文字離れ」や「スマホ普及」だけが原因であれば、高齢層でここまで数値が戻ることは説明がつきません。
もちろん、今回のような一時点の調査である以上、厳密には加齢による変化とコホート効果を切り分ける分析が必要です。しかし、データの限界を差し引いてもなお、この「労働期間中にのみ、特定の読書層が凹む」という事実は、労働環境がまとまった読書習慣を構造的に阻害している可能性を強く示唆しています。 全体平均にならすことで分布の特異性を捨象してしまう飯田さんの分析は、データに表れた当事者ーー働いていると本が読めないのだとほんとうに感じている人々ーーの痛みを見落としていると言わざるを得ません。
→この主張も前述したように、1人動くと1.2%動くデータで示唆するのは無理があります。
U字カーブ? あなたは70歳以上の人が自在にスマホをいじくってネットサーフィンしているのを想像できますか?
交絡(データに影響を与える別の要素)がありすぎて、単純に就労の有無だけを結果の原因として求めるのはちゃんちゃらおかしいと思いませんか?
「痛み」ですか、はあ。タバコ吸っても健康でいられると思ってる人の痛みを想像したことありますか?(笑)
一見すると、「書籍の読書冊数と市場規模は相関しないが、雑誌は相関する」という飯田さんの主張は正しいように見えます。しかし、ここで気を付けなければならないのは、市場規模の根拠として用いられているデータの定義です。これは「出版販売額」、つまり新刊市場の推移にすぎません。
雑誌のみが市場規模と相関する主要因は、書籍と雑誌の読書習慣の違いというより、市場構造の違いにあると考えるのが妥当です。 書籍は図書館での貸出や、古書店・メルカリ等の二次流通市場といった新品購入以外のタッチポイントが豊富です。
→なるほど、たしかに書籍は図書館や古書店で接触がある分、新品市場だけで語ると乖離が出そうですね。
つまり、「読書数の総量=新品購入+レンタル・中古」になるってことですな??
ということは「読書数>新品購入の勢い」が成立するということだ。ふむふむ。
こうした「読む」と「買う」を短絡的に結びつける考え方はよく見られる。しかし、読む量と買う量は単純にイコールにはならない。イコールになるなら「積ん読」という言葉は存在しない。
→えーっと、積読があるから「読書数<新品購入市場の勢い」もありえると。
……市井氏は積読があるから「読書数<新品購入市場」と言い、その反論として三宅氏は中古やレンタル市場があるから「読書数>新品購入市場」と言っている!かみあってない!
まわりくどいんだけど、結局どっちも「書籍の読書数と新品購入に相関がない」が「雑誌は読書数と新品購入に相関がある」というのが主張で、一致している!反論すると見せかけて同じことを主張するという高等テクニックである。
また、拙著の「雑誌や自己啓発書を中心として、労働者階級にも読まれる書籍は存在していた」という記述に対し、飯田さんは「雑誌と書籍の区別がついていない」と批判されています。しかし、拙著の記述は明治時代の出版状況についての記述であり、いうまでもないことですが雑誌はコミックや週刊誌の割合も時代とともに変わっていきます。明治の雑誌出版に関する記述を、現代の雑誌と同様の枠組みで捉え、区別がついていないとするのは、論理が通らないのではないでしょうか。
以上のように、構造的に相関の低い「新刊販売額」を指標として用いて「書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき」と主張するのはデータの選定として不適切です。本来であれば、図書館の貸出しや二次流通市場におけるタッチポイントも考慮したうえで読書冊数との相関がないことを示すべきです。また時代によって役割の異なるメディアを十把一絡げに扱うのは、妥当性を欠いていると言わざるを得ません。
→えーと、前半の文章は市井氏の引用した部分が明治時代の話をしているから不適切ってことだな。うむ作者が言うならそうなのだろう。
後半は……
構造的に相関の低い『新刊販売額』を指標として用いて『書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき』と主張するのはデータの選定として不適切」
あれ、あなたも書籍読書数と販売数は相関しないけど雑誌は相関するって言ってましたよね?
市井氏のnoteをみると、扱っているデータは70年代以降のもので明治時代の話はしてなさそうですけどね。
それに市井氏の
なお、『読書世論調査2016年度』には書籍の読書率について「戦後、読書世論調査の開始以来、多少の変動はあるものの、おおむね5割前後で推移している」と書いてある。『なぜはた』は読書世論調査を引用しておきながら、読書世論調査サイドの「長年そんなに変化がない」という見解とは異なる「本離れが進んでいる」という主張をしている。
この部分に関する反論はしなくていいんですかね。マスデータだから?
引用元の文献(黒田祥子・山本勲「長時間労働是正と人的資本投資との関係」)を見る限り、これは事実ではあるものの、解釈と適用先が間違っていると考えられます。
というのも、ここで引用されている論文が測定している「自己研鑽」と、拙著が指摘する「自己啓発書の読書」は、行動の質が全く異なります。論文が指すのは資格取得やスキルアップのための「能動的な学習」であり、これに対して『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が論じているのは、新自由主義的な不安に駆られた人々が救いを求めて読む「自己啓発書の消費」です。むしろ、「労働時間が減っても、能動的な学習に取り組むほどの気力や体力は回復していない」という論文の結果は、人々が手軽な「やった感」や「効率的な正解」を得られる自己啓発書(=ファスト教養)に流れるという拙著の仮説と矛盾しません。
「キャリアアップのための能動的な学習」の機会が減ったからといって、「手軽なノウハウ本」のニーズがないことの証明にはならず、このデータを根拠にするのは的はずれです。
→確かに「自己研鑽の時間が減ったから」といって「手軽な自己啓発本を読む時間が減った」とは言えない。それはその通りだ。まあ手軽な方が増えたとするのはあくまで仮説で、それを証明する手段もそうないよね。
飯田さんは「市場規模において、依然として小説は自己啓発書より大きいため、自己啓発書へのシフトという説は誤りである」と主張されています。
第一に、議論の焦点は、現時点での「絶対量」ではなく「変化の方向性(トレンド)」です。たとえパイの大きさが小説の方が大きくとも、書店の棚構成の変化や、人々の意識における効率性の重視といったトレンドの変化を否定する材料にはなりません。
第二に、ここで飯田さんの論理には明確なダブルスタンダードが存在します。 飯田さんはこれまでの議論において、「市場動向と読書実態は書籍においては必ずしも一致しない」と主張されました。 しかし、ここでは一転して、「小説の方が推定発行金額(市場規模)が大きい」ことを根拠に、「小説の方が読まれている」と結論付けています。
→いったん整理すると、
<三宅氏の主張>
読書の方向性が手軽な自己啓発書にシフトしているから読書量が減った。
<市井氏の主張>
小説の市場規模の方が大きいので自己啓発書の読書量に対する影響は大きくないはずだ。
市場規模では確かにそうだが、トレンド(推移)は見てないですよね?だからその論は否定の根拠にはなりません。
さっき書籍と雑誌の比較で「市場規模と読書量は相関しない」って言ってたのに、自己啓発書と小説を市場規模で比較するのはおかしい!ダブルスタンダード!
→
反論①については、たしかにトレンドはそうかもしれないけど、象に犬がキックしても効かないように、市場における小説の占める割合の方が圧倒的に大きいのだから、自己啓発書のトレンドがまあまああっても全体のムーブには影響しにくいっていうのは確かなんじゃないですかね。
反論②については、雑誌と書籍の比較と、小説と自己啓発書(どちらも書籍に含まれる)の比較は全然別だから、まずダブルスタンダードとは言えないのは明らか。これは間違いない。
ご自身にとって都合の良い時だけ売上と読書実態を切り離し、別の場面では売上を読書実態の根拠とするのは、論理的一貫性を欠いています。
→これは完全にどっちもどっちと言わざるを得ません。データ分析を仕事にしている人ってこのレベルなんですね。というかそもそもデータの部分よりも文章の方が蛇行運転になっていて、上記したように論理が合わない箇所がいくつかあります。心配になりました。
<お わ り>