大西巨人について
大西巨人氏が亡くなった。「子午線」2号のインタヴューでも述べたが、氏の文学に対して私の態度はまだ揺れ動いている。しかし戦後文学の文字通り最大の巨人だったことは確かであり、その文学はこれから本当の意味で読まれることになるだろう。しかるべき編集者のもとに網羅的な大西巨人全集が出て、是非その全貌を明らかにしてほしいと願わずにはいられない。
私は大西氏とは面識はない。新宿の風花の朗読会で、満員の店内からはじき出されて、外から氏の朗読を聞いたのが唯一の思い出である。『神聖喜劇』の一節だったが、張りのある立派な声だと思ったことを覚えている。また氏の九州男児らしい面魂も「かっこいい」と思った。
「子午線」で話したことでもあるが、「重力」をやっていた頃、鎌田哲哉氏からの手渡しで、『春秋の花』というアンソロジーをいただいたことがある。このアンソロジーの中に徳田秋声の「爛」の一節が入っていて、「「愛慾描写の技巧神に入り、簡潔細緻を究」めた作物である」と評されている。大西氏は10代後半にこの作品を読み、そして六十過ぎでもう一度再通読し、印象がまったく変化しなかったことを確認したと言う。私が秋声について批評を書いていることを知って贈られたようだが、その時私は氏に会いに行って秋声の話を聞いておくべきだったのだろう。人見知りと臆病のせいで機会を逃したのは残念だった。
それにしても秋声の中で「爛」を選ぶところに、大西氏の個性が感じられる。『神聖喜劇』の東堂の恋人のように、氏の作品には「かっこいい」男に尽くすちょっと古風な女が現れることがあり、私は時々そこにある種の「スノビスム」を感じるのだが、それが「爛」(秋声の作品の中で最も「粋」(「いき」というよりは「すい」という感じか)に近い男女関係を描いている)を好むことと通じているような気がしなくもない。氏の文学が「大正」的なものとつながっていることを感じさせると共に「爛」を大西氏の視点から読み直す可能性も考えられるかもしれない。
以前「群像」の編集者と何かの弾みに大西氏の話題になった時、私が大西文学を褒めると、その編集者は大西氏は書く場所がない時に自分で「大西巨人論」を書いて「群像」に持ち込んで来た人間で評価できないという意味のことを、怒った口調で言った。私にはなぜそれが怒るべきことなのか全く分からなかったが、あるいは自画自賛的内容のものだったのかもしれない。しかしいかにも大西氏らしいエピソードだとは思う。その没にされた「大西巨人論」は是非読んでみたい。原稿など残っていないものだろうか。
私は大西氏とは面識はない。新宿の風花の朗読会で、満員の店内からはじき出されて、外から氏の朗読を聞いたのが唯一の思い出である。『神聖喜劇』の一節だったが、張りのある立派な声だと思ったことを覚えている。また氏の九州男児らしい面魂も「かっこいい」と思った。
「子午線」で話したことでもあるが、「重力」をやっていた頃、鎌田哲哉氏からの手渡しで、『春秋の花』というアンソロジーをいただいたことがある。このアンソロジーの中に徳田秋声の「爛」の一節が入っていて、「「愛慾描写の技巧神に入り、簡潔細緻を究」めた作物である」と評されている。大西氏は10代後半にこの作品を読み、そして六十過ぎでもう一度再通読し、印象がまったく変化しなかったことを確認したと言う。私が秋声について批評を書いていることを知って贈られたようだが、その時私は氏に会いに行って秋声の話を聞いておくべきだったのだろう。人見知りと臆病のせいで機会を逃したのは残念だった。
それにしても秋声の中で「爛」を選ぶところに、大西氏の個性が感じられる。『神聖喜劇』の東堂の恋人のように、氏の作品には「かっこいい」男に尽くすちょっと古風な女が現れることがあり、私は時々そこにある種の「スノビスム」を感じるのだが、それが「爛」(秋声の作品の中で最も「粋」(「いき」というよりは「すい」という感じか)に近い男女関係を描いている)を好むことと通じているような気がしなくもない。氏の文学が「大正」的なものとつながっていることを感じさせると共に「爛」を大西氏の視点から読み直す可能性も考えられるかもしれない。
以前「群像」の編集者と何かの弾みに大西氏の話題になった時、私が大西文学を褒めると、その編集者は大西氏は書く場所がない時に自分で「大西巨人論」を書いて「群像」に持ち込んで来た人間で評価できないという意味のことを、怒った口調で言った。私にはなぜそれが怒るべきことなのか全く分からなかったが、あるいは自画自賛的内容のものだったのかもしれない。しかしいかにも大西氏らしいエピソードだとは思う。その没にされた「大西巨人論」は是非読んでみたい。原稿など残っていないものだろうか。