第2次世界大戦で米国は日本の66都市を攻撃したが、それは対ソ連戦争の予行練習だった。
<記事原文 寺島先生推薦>
World War II: US Military Destroyed 66 Japanese Cities Before Planning to Wipe Out the Same Number of Soviet Cities
筆者:シェーン・クイン( Shane Quinn)
出典:Global Research 2024年8月8日
初出はGlobal Research 2019年6月18日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年8月21日
1945年8月6日、ヒロシマ
1945年8月9日、ナガサキ
この記事は、時機を得た歴史的な分析記事である。初出は2019年6月。ヒロシマとナガサキへの米国による爆撃から79年になる。
第2次世界大戦中、米国が日本に与えた荒廃の規模はほとんど知られていない。今でさえ。2500人の米国民を殺害した真珠湾攻撃への反撃として、米国の戦闘機が初めて日本に爆弾を投下したのは、1942年4月18日の午後のことだった。その攻撃により、首都東京と5つの主要都市、横浜と大阪、名古屋、神戸、横須賀が空襲を受けた。
「ドゥーリットル空襲」という名で知られている日本の領土に対するこの公開襲撃をおこなったのは、16機のそれほど大きくない米国B-25中型爆撃機で、この攻撃により50人の日本人が殺害されたが、総被害は深刻なものではなかった。それでもこの空襲が大日本帝国の上層部にとって恥となり、さらに日本人の精神状況に深い心理的な打撃を与えることになった。 傷口に塩を塗るかのように、の米国のB-25戦闘機は一機も撃墜されなかったのだ。この事件はその先に待ち受けていたことの兆候となった。
年月が流れるにつれ、その何倍もの破壊がおこなわれた。1945年の6月15日の時点で、日本の66都市が米空軍により全滅させられていたが、その空襲は主に、エンジンを4つ搭載した新たに開発されたB-29重爆撃機によるものだった。
上に示した日本の主要都市で破壊された都市の数は、1945年9月中旬に、国防総省がソ連を骨抜きにするために出した最終計画で示した都市の数と全く同数だった。実際ソ連の66都市が、204発の原爆により壊滅する対象として目を付けられていたのだ。それは1945年9月2日、日本の代表が降伏条件をのんで、ついに第2次世界大戦が終結してから2週間もたっていないときだった。
大日本帝国への原爆投下に関して、米軍参謀総長ジョージ・マーシャル将軍は1954年にこう発言している。「日本侵略の最初の計画では、3回の攻撃で9発の原爆を落とそうと考えていた」と。
しかし、ヒロシマへの原爆投下直前に有していた原爆は6発もなかった。
1945年8月に、日本の広島に投下された核兵器「リトル・ボーイ」の実物大模型の写真。これは、米国政府が初めて公開した(1960年に機密解除された)「リトル・ボーイ」爆弾の薬きょうの写真。 (出典:パブリック・ドメイン*)
*パブリック・ドメイン・・・著作権が切れた知的所有物を指す
世界で初めての核攻撃が、1945年8月6日現地時間8時15分、広島でおこなわれた。このとき、B-29戦闘機が上空から15キロトン爆弾を投下したのだ。投下44秒後、原子力爆弾「リトル・ボーイ」が広島市中心部の島病院上空で爆発した直後、その病院の医師や看護師、患者たちを灰と化した。その周辺にあったさらに何十もの病院や学校、歴史的な建物も焼き払われた。
何万もの人が即死し、現地の気温は瞬間的に摂氏3000度から4000度まで上昇した。爆心地から2キロ以内にいた人々のうち、11万2000人が1年以内(1946年8月10日時点)に亡くなった
さらに、半径2キロ圏外数百メートルのところにいた数千もの人々が、放射能汚染や激しい火傷のために亡くなった。亡くなったり瀕死の状況におかれた人の大多数は一般市民であり、年をとりすぎていたり病気のために徴兵されなかった男性や多くの女性や子どもたちだった。
広島市周辺に点在する重要な武器製造施設は、まったく被害を受けなかった。これらの工場は、広島市の総工業生産高の74%を占めていた。広島市の重要な港湾であり、太田川三角州にあった軍の乗船地点も無傷だった。広島市の工場労働者の約95%は、爆発後、無傷だった。
投下の数時間後に原爆のことを聞いたハリー・トルーマン大統領は、「史上最大の偉業」であり「非常な大成功」である、と褒め称えた。
その3日後の8月9日の現地時間午前11時2分、長崎市がより洗練された21キロトンの爆弾により攻撃を受けた。この爆弾が投下されたのは、長崎市の教育や文化、宗教の中心地だった。広島市と同様に、長崎市への爆撃でも市内の軍事工場のほとんどは、無傷なままだった。
核兵器「ファット・マン」の実物大模型(出典:パブリック・ドメイン)
この「ファット・マン」爆弾によりさらに何万もの人が殺害された。その中には、何百人もの学童がおり、長崎市の主要な病院や大聖堂、寺院や学校も破壊された。広島市と長崎市両方の医療機関が破壊されたことで、死者数は大きく増えることになった。
米国による原爆攻撃への支援の声をあげたのは、西側の報道機関であり、ほとんど例外はなかった。1945年8月上旬から12月下旬までにこの核爆発について595件の新聞論説が出されたが、20万人以上の人々を殺したこの攻撃に反対した論説は、そのうち2% にも満たなかった。
関連記事:The Real Reason America Used Nuclear Weapons Against Japan. It Was Not To End the War Or Save Lives.
報道機関は、ドイツや日本に対する空襲に対しても強固な支持を表明していた。じつのところこれらの報道機関は、「一般市民を標的にしたさらなる攻撃」を要求し、軍需施設や産業地域への空爆を非難することさえしていた。たとえば、ニューヨークのタイムズ誌は、10万人以上の死者を出した東京大空襲を賛美し、こう報じていた。「夢が実現した。適切な攻撃により、日本の様々な都市がまるで落ち葉のように焼かれることになるだろう」と。
日本側に目を移すと、日本の強硬派の軍国主義者たちが最後の一人になるまで戦うことを主張していたが、政府上層部は1945年8月15日に降伏を宣言せざるを得なかった。さらなる原爆攻撃に脅かされていたからだった。 米国の原爆計画を指揮していたレズリー・グローヴス将軍が、1945年8月10日にマーシャル将軍に伝えていたところによると、1945年8月24日以降に、別の長崎型プルトニウム爆弾が「標的に向けて」投下される準備ができている、とのことだった。
1945年8月8日の夜、ソ連が日本に宣戦布告をしたことも、日本側の降伏に影響を与えた。その日以降、ソ連の赤軍はバターをナイフで切るかのごとく、満州在留の日本の最先端の軍隊に対して快進撃を見せていた。それ以外の要因としてあげられることは、米国側が1945年8月11日に日本に対して、裕仁天皇の身柄を補償することを伝えていたことだ。具体的には、降伏後も、日本で神格化されていた天皇の実権は奪われるが、在位を継続できる旨を伝えていたのだ。
最初の原爆が落とされた直後、迫水久常内閣書記官長は日本が持ちこたえられるのは、よくてあと2ヶ月、すなわち1945年10月までだ、と考えていた。日本は航空戦ではずっと負けていたし、海戦でも同じだった。さらには原油やゴム、鉄鉱石の輸入は止まっていた。日本軍はビルマから、さらには太平洋上の領域から追い出されていた。
さらに、チェスター・ニミッツ提督(太平洋艦隊司令官)やウィリアム・リーヒー提督(トルーマン大統領参謀総長)のような上層部の人々は、進行中の壊滅的な日本の海上封鎖は、通常の空襲と相まって、数週間以内に日本側の降伏を誘発し、米国による地上侵攻や原爆投下を不要にする、と考えていた。つまり原爆は、実際には、1944年3月にグローヴス将軍が強調していたように、米国の新たな長期の敵であるソビエト連邦への警告信号として投下されたのである。
核を使用しない爆撃を通じて、日本の数十の首都圏の破壊は、カーティス・ルメイ少将によって監督されたが、同少将は次々と残忍な戦術を実行した。しかしだからといって、日本の軍隊機構も非常に嗜虐(しぎゃく)的で残忍であり、第二次世界大戦前から残虐行為をおこなっていたことを忘れてはならない。
ただし、米国の軍事力の矢面に立たされたのは日本の民間人だった。1945年5月30日、ルメイ少将は記者会見で、米国の空爆で100万人以上の日本人が死亡したことを公然と自慢していた。
1945年の夏までに、900万人以上の日本国民が家を失い、そのほとんどが緑地に逃げた。原爆投下直前には、日本の969の病院もアメリカの飛行機によって破壊されていた。
ほぼ4年前、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が表現したように、ハワイの真珠湾にある米海軍基地に対する日本の一見「挑発的で卑劣な攻撃」は、実際には十分に根拠のある恐怖に基づいていた。1941年12月7日の日本の空襲に先立つ5ヶ月間、米国政府はB-17重爆撃機を真珠湾などの太平洋の米軍基地や、フィリピンのクラーク空軍基地やデルモンテ飛行場に次々と移動させていた。
1941年半ばから、米国の大型爆撃機の半分は大西洋の領域から東の地平線に移されたが、この状況を日本側の戦略家は分かりすぎるくらい分かっていた。
この米国の軍事力増強の背後にある理由は、1940年後半に、米国の有名な戦前の計画立案者で空軍大将のクレア・シェンノートが、B-17が「本州と九州のあちこちの竹でてきた蟻塚に火をつける爆弾攻撃をおこない、帝国の産業中心部を焼き尽くす」と概説していたことにあった。ルーズベルト大統領は、この計画を聞いたとき「ただただ喜んだ」という。
日本が真珠湾を攻撃しようとも、米国はそれとは関係なく、日本と対立する形で、その後すぐに参戦することになっていただろう。真珠湾攻撃の3週間前の1941年11月15日、マーシャル将軍は「外に漏らさない発言」として記者団に対し、米国の航空機は「日本の紙でできたような諸都市に火をつけるだろう。 民間人を爆撃することにためらいはない」と述べていた。
その1年前の1940年12月19日、ルーズベルトは、日本の伝統的な宿敵である中国に対して、航空機の贈与を含む2500万ドルの軍事援助を承認していた。1940年の2500万ドルは、今日では5億ドル近くに相当する。1941年3月11日、この米大統領は武器貸与法に署名し、中国だけでなく、英国、ソビエト連邦、フランスなど、大日本帝国に対して慈悲深いとはほど遠い態度を見せていた他の国々にもさらなる物資を提供する計画を立てていた。
ルーズベルトは、1940年9月に日本が北フランス領インドシナを占領したことに対して、何ヶ月にもわたって日本に制裁と禁輸措置を課したが、それはその近隣における米国の利益を損なったからであった。
1941年7月26日、ルーズベルトは米国にある日本の全資産を凍結し、真珠湾攻撃の4ヶ月以上前に日本に対する経済戦争を宣言するほどの思い切った政策をとった。ルーズベルトの行動により、90%という驚異的な規模の日本の石油輸出を奪い、日本の対外貿易の75%を根絶した。
数日のうちに、日本軍は乏しい石油備蓄にすがることを余儀なくされ、そのままでは、日本軍がさらなる侵攻に乗り出さない限り、1943年1月までに石油を使い果たしてしまうことになった。
敵の数が同数であっても、その残酷さで悪評を得た日本兵の獰猛さに耐えられる相手はほとんどいなかった。日本の戦争計画者たちは、飢えた目でさらなる魅力的な征服をもくろみ 、資源豊かなビルマやフィリピン、マラヤ、シンガポール、オランダ領東インド(インドネシア)に目をつけ、実際これらの地域を1942年の前半に征服した。
戦争が進行し、形勢が徐々に逆転する中、西側同盟諸国な民間人地域へのテロ爆撃をおこなったが、このことは戦争犯罪として認められるだけでなく、紛争を迅速に終わらせるための努力という意味においても惨憺たる失敗となった。これらの道徳的に欠落した戦略については、誰も責任を問われず、実際には第二次世界大戦を長引かせる結果だけを産んだ。血まみれの空襲により人々の士気は打ち砕かれ、指導者に対する反乱に出ざるをえなくなる、というこれまで長らく考えられてきた展開は、まったくの幻想だった。
1945年の夏、日本の一般市民の関心は、戦争に勝つことよりも食料を入手することになっていた。米国の海上封鎖により日本は徐々に飢餓に苦しんでいたからだ。さらに、市民から反乱を起こそうという状況も生じにくかった。市民たちは、日本の軍事警察、つまり恐ろしい憲兵隊によって即座に排除される、と考えていたからだ。
西側の指導者たちは、1940年代初頭のドイツによる英国大空襲で得た教訓を見極めることができなかった。この空襲により、英国民の士気は弱まらず、逆に強化されることになった。この現実は、ドイツ国防軍の上層部ですぐに明らかになった。しかし、たウィンストン・チャーチルは、その事実から学ぶことができなかったようだ。何しろこの指導者は、戦争が終わろうとしていた1945年2月に、中世からの長い歴史を持つドレスデンという都市で意味のない抹殺行為をおこなおうと提唱していたのだから。
爆弾で女性や子どもたちを標的にしても、ドイツと日本の軍事関連施設はほとんど被害を受けなかった。ナチスの軍需大臣アルベルト・シュペーアは、ドイツ上空での連合軍の空爆のやり方に唖然としたほどだった。というのも、連合国はドイツ帝国の産業地域をほとんど攻撃しなかったからだ。
1944年においては一年中、シュペーアは、ヒトラーを大いに喜ばせ、驚かせた。それは彼が、ドイツ軍の航空機と装甲車の両方の生産の増加を実現し、1944年12月にフランスのアルデンヌ攻撃を優勢にすすめることを可能にしたからだった。
空爆の背後にあったこの現実は、ルメイや英国側の仲間であるアーサー・「ボンバー」・ハリスのような他の人々から注目されることはなかった。すべてが終わった後、ハリスは回顧録で、都市部に対する攻撃の根底にある戦略が「完全に不健全であることが証明された」ことを認めた。また、連合国の指導者たちは、1945年以前にナチス・ドイツと大日本帝国を終わらせるために、工場や通信信号、輸送線への砲撃をもっと頻繁にパイロットに向けるべきだったことも認めた。
ルメイは、日本人を大量に殺害したことや350万戸以上の家屋を破壊したことについては語っていたが、1945年半ばに日本の生活基盤施設の多くが攻撃を受けていなかったことには触れなかった。具体的には、北海道と本州を結ぶ日本の非常に重要な石炭フェリーも無事だったし、鉄道網は1945年8月まで無傷のままだったのだ。さらにはいくつかの工業地帯もそうだったのだ。その上空をルメイのB-29が飛び交っていたのにも関わらず。
World War II: US Military Destroyed 66 Japanese Cities Before Planning to Wipe Out the Same Number of Soviet Cities
筆者:シェーン・クイン( Shane Quinn)
出典:Global Research 2024年8月8日
初出はGlobal Research 2019年6月18日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年8月21日
1945年8月6日、ヒロシマ
1945年8月9日、ナガサキ
この記事は、時機を得た歴史的な分析記事である。初出は2019年6月。ヒロシマとナガサキへの米国による爆撃から79年になる。
第2次世界大戦中、米国が日本に与えた荒廃の規模はほとんど知られていない。今でさえ。2500人の米国民を殺害した真珠湾攻撃への反撃として、米国の戦闘機が初めて日本に爆弾を投下したのは、1942年4月18日の午後のことだった。その攻撃により、首都東京と5つの主要都市、横浜と大阪、名古屋、神戸、横須賀が空襲を受けた。
「ドゥーリットル空襲」という名で知られている日本の領土に対するこの公開襲撃をおこなったのは、16機のそれほど大きくない米国B-25中型爆撃機で、この攻撃により50人の日本人が殺害されたが、総被害は深刻なものではなかった。それでもこの空襲が大日本帝国の上層部にとって恥となり、さらに日本人の精神状況に深い心理的な打撃を与えることになった。 傷口に塩を塗るかのように、の米国のB-25戦闘機は一機も撃墜されなかったのだ。この事件はその先に待ち受けていたことの兆候となった。
年月が流れるにつれ、その何倍もの破壊がおこなわれた。1945年の6月15日の時点で、日本の66都市が米空軍により全滅させられていたが、その空襲は主に、エンジンを4つ搭載した新たに開発されたB-29重爆撃機によるものだった。
上に示した日本の主要都市で破壊された都市の数は、1945年9月中旬に、国防総省がソ連を骨抜きにするために出した最終計画で示した都市の数と全く同数だった。実際ソ連の66都市が、204発の原爆により壊滅する対象として目を付けられていたのだ。それは1945年9月2日、日本の代表が降伏条件をのんで、ついに第2次世界大戦が終結してから2週間もたっていないときだった。
大日本帝国への原爆投下に関して、米軍参謀総長ジョージ・マーシャル将軍は1954年にこう発言している。「日本侵略の最初の計画では、3回の攻撃で9発の原爆を落とそうと考えていた」と。
しかし、ヒロシマへの原爆投下直前に有していた原爆は6発もなかった。
1945年8月に、日本の広島に投下された核兵器「リトル・ボーイ」の実物大模型の写真。これは、米国政府が初めて公開した(1960年に機密解除された)「リトル・ボーイ」爆弾の薬きょうの写真。 (出典:パブリック・ドメイン*)
*パブリック・ドメイン・・・著作権が切れた知的所有物を指す
世界で初めての核攻撃が、1945年8月6日現地時間8時15分、広島でおこなわれた。このとき、B-29戦闘機が上空から15キロトン爆弾を投下したのだ。投下44秒後、原子力爆弾「リトル・ボーイ」が広島市中心部の島病院上空で爆発した直後、その病院の医師や看護師、患者たちを灰と化した。その周辺にあったさらに何十もの病院や学校、歴史的な建物も焼き払われた。
何万もの人が即死し、現地の気温は瞬間的に摂氏3000度から4000度まで上昇した。爆心地から2キロ以内にいた人々のうち、11万2000人が1年以内(1946年8月10日時点)に亡くなった
さらに、半径2キロ圏外数百メートルのところにいた数千もの人々が、放射能汚染や激しい火傷のために亡くなった。亡くなったり瀕死の状況におかれた人の大多数は一般市民であり、年をとりすぎていたり病気のために徴兵されなかった男性や多くの女性や子どもたちだった。
広島市周辺に点在する重要な武器製造施設は、まったく被害を受けなかった。これらの工場は、広島市の総工業生産高の74%を占めていた。広島市の重要な港湾であり、太田川三角州にあった軍の乗船地点も無傷だった。広島市の工場労働者の約95%は、爆発後、無傷だった。
投下の数時間後に原爆のことを聞いたハリー・トルーマン大統領は、「史上最大の偉業」であり「非常な大成功」である、と褒め称えた。
その3日後の8月9日の現地時間午前11時2分、長崎市がより洗練された21キロトンの爆弾により攻撃を受けた。この爆弾が投下されたのは、長崎市の教育や文化、宗教の中心地だった。広島市と同様に、長崎市への爆撃でも市内の軍事工場のほとんどは、無傷なままだった。
核兵器「ファット・マン」の実物大模型(出典:パブリック・ドメイン)
この「ファット・マン」爆弾によりさらに何万もの人が殺害された。その中には、何百人もの学童がおり、長崎市の主要な病院や大聖堂、寺院や学校も破壊された。広島市と長崎市両方の医療機関が破壊されたことで、死者数は大きく増えることになった。
米国による原爆攻撃への支援の声をあげたのは、西側の報道機関であり、ほとんど例外はなかった。1945年8月上旬から12月下旬までにこの核爆発について595件の新聞論説が出されたが、20万人以上の人々を殺したこの攻撃に反対した論説は、そのうち2% にも満たなかった。
関連記事:The Real Reason America Used Nuclear Weapons Against Japan. It Was Not To End the War Or Save Lives.
報道機関は、ドイツや日本に対する空襲に対しても強固な支持を表明していた。じつのところこれらの報道機関は、「一般市民を標的にしたさらなる攻撃」を要求し、軍需施設や産業地域への空爆を非難することさえしていた。たとえば、ニューヨークのタイムズ誌は、10万人以上の死者を出した東京大空襲を賛美し、こう報じていた。「夢が実現した。適切な攻撃により、日本の様々な都市がまるで落ち葉のように焼かれることになるだろう」と。
日本側に目を移すと、日本の強硬派の軍国主義者たちが最後の一人になるまで戦うことを主張していたが、政府上層部は1945年8月15日に降伏を宣言せざるを得なかった。さらなる原爆攻撃に脅かされていたからだった。 米国の原爆計画を指揮していたレズリー・グローヴス将軍が、1945年8月10日にマーシャル将軍に伝えていたところによると、1945年8月24日以降に、別の長崎型プルトニウム爆弾が「標的に向けて」投下される準備ができている、とのことだった。
1945年8月8日の夜、ソ連が日本に宣戦布告をしたことも、日本側の降伏に影響を与えた。その日以降、ソ連の赤軍はバターをナイフで切るかのごとく、満州在留の日本の最先端の軍隊に対して快進撃を見せていた。それ以外の要因としてあげられることは、米国側が1945年8月11日に日本に対して、裕仁天皇の身柄を補償することを伝えていたことだ。具体的には、降伏後も、日本で神格化されていた天皇の実権は奪われるが、在位を継続できる旨を伝えていたのだ。
最初の原爆が落とされた直後、迫水久常内閣書記官長は日本が持ちこたえられるのは、よくてあと2ヶ月、すなわち1945年10月までだ、と考えていた。日本は航空戦ではずっと負けていたし、海戦でも同じだった。さらには原油やゴム、鉄鉱石の輸入は止まっていた。日本軍はビルマから、さらには太平洋上の領域から追い出されていた。
さらに、チェスター・ニミッツ提督(太平洋艦隊司令官)やウィリアム・リーヒー提督(トルーマン大統領参謀総長)のような上層部の人々は、進行中の壊滅的な日本の海上封鎖は、通常の空襲と相まって、数週間以内に日本側の降伏を誘発し、米国による地上侵攻や原爆投下を不要にする、と考えていた。つまり原爆は、実際には、1944年3月にグローヴス将軍が強調していたように、米国の新たな長期の敵であるソビエト連邦への警告信号として投下されたのである。
核を使用しない爆撃を通じて、日本の数十の首都圏の破壊は、カーティス・ルメイ少将によって監督されたが、同少将は次々と残忍な戦術を実行した。しかしだからといって、日本の軍隊機構も非常に嗜虐(しぎゃく)的で残忍であり、第二次世界大戦前から残虐行為をおこなっていたことを忘れてはならない。
ただし、米国の軍事力の矢面に立たされたのは日本の民間人だった。1945年5月30日、ルメイ少将は記者会見で、米国の空爆で100万人以上の日本人が死亡したことを公然と自慢していた。
1945年の夏までに、900万人以上の日本国民が家を失い、そのほとんどが緑地に逃げた。原爆投下直前には、日本の969の病院もアメリカの飛行機によって破壊されていた。
ほぼ4年前、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が表現したように、ハワイの真珠湾にある米海軍基地に対する日本の一見「挑発的で卑劣な攻撃」は、実際には十分に根拠のある恐怖に基づいていた。1941年12月7日の日本の空襲に先立つ5ヶ月間、米国政府はB-17重爆撃機を真珠湾などの太平洋の米軍基地や、フィリピンのクラーク空軍基地やデルモンテ飛行場に次々と移動させていた。
1941年半ばから、米国の大型爆撃機の半分は大西洋の領域から東の地平線に移されたが、この状況を日本側の戦略家は分かりすぎるくらい分かっていた。
この米国の軍事力増強の背後にある理由は、1940年後半に、米国の有名な戦前の計画立案者で空軍大将のクレア・シェンノートが、B-17が「本州と九州のあちこちの竹でてきた蟻塚に火をつける爆弾攻撃をおこない、帝国の産業中心部を焼き尽くす」と概説していたことにあった。ルーズベルト大統領は、この計画を聞いたとき「ただただ喜んだ」という。
日本が真珠湾を攻撃しようとも、米国はそれとは関係なく、日本と対立する形で、その後すぐに参戦することになっていただろう。真珠湾攻撃の3週間前の1941年11月15日、マーシャル将軍は「外に漏らさない発言」として記者団に対し、米国の航空機は「日本の紙でできたような諸都市に火をつけるだろう。 民間人を爆撃することにためらいはない」と述べていた。
その1年前の1940年12月19日、ルーズベルトは、日本の伝統的な宿敵である中国に対して、航空機の贈与を含む2500万ドルの軍事援助を承認していた。1940年の2500万ドルは、今日では5億ドル近くに相当する。1941年3月11日、この米大統領は武器貸与法に署名し、中国だけでなく、英国、ソビエト連邦、フランスなど、大日本帝国に対して慈悲深いとはほど遠い態度を見せていた他の国々にもさらなる物資を提供する計画を立てていた。
ルーズベルトは、1940年9月に日本が北フランス領インドシナを占領したことに対して、何ヶ月にもわたって日本に制裁と禁輸措置を課したが、それはその近隣における米国の利益を損なったからであった。
1941年7月26日、ルーズベルトは米国にある日本の全資産を凍結し、真珠湾攻撃の4ヶ月以上前に日本に対する経済戦争を宣言するほどの思い切った政策をとった。ルーズベルトの行動により、90%という驚異的な規模の日本の石油輸出を奪い、日本の対外貿易の75%を根絶した。
数日のうちに、日本軍は乏しい石油備蓄にすがることを余儀なくされ、そのままでは、日本軍がさらなる侵攻に乗り出さない限り、1943年1月までに石油を使い果たしてしまうことになった。
敵の数が同数であっても、その残酷さで悪評を得た日本兵の獰猛さに耐えられる相手はほとんどいなかった。日本の戦争計画者たちは、飢えた目でさらなる魅力的な征服をもくろみ 、資源豊かなビルマやフィリピン、マラヤ、シンガポール、オランダ領東インド(インドネシア)に目をつけ、実際これらの地域を1942年の前半に征服した。
戦争が進行し、形勢が徐々に逆転する中、西側同盟諸国な民間人地域へのテロ爆撃をおこなったが、このことは戦争犯罪として認められるだけでなく、紛争を迅速に終わらせるための努力という意味においても惨憺たる失敗となった。これらの道徳的に欠落した戦略については、誰も責任を問われず、実際には第二次世界大戦を長引かせる結果だけを産んだ。血まみれの空襲により人々の士気は打ち砕かれ、指導者に対する反乱に出ざるをえなくなる、というこれまで長らく考えられてきた展開は、まったくの幻想だった。
1945年の夏、日本の一般市民の関心は、戦争に勝つことよりも食料を入手することになっていた。米国の海上封鎖により日本は徐々に飢餓に苦しんでいたからだ。さらに、市民から反乱を起こそうという状況も生じにくかった。市民たちは、日本の軍事警察、つまり恐ろしい憲兵隊によって即座に排除される、と考えていたからだ。
西側の指導者たちは、1940年代初頭のドイツによる英国大空襲で得た教訓を見極めることができなかった。この空襲により、英国民の士気は弱まらず、逆に強化されることになった。この現実は、ドイツ国防軍の上層部ですぐに明らかになった。しかし、たウィンストン・チャーチルは、その事実から学ぶことができなかったようだ。何しろこの指導者は、戦争が終わろうとしていた1945年2月に、中世からの長い歴史を持つドレスデンという都市で意味のない抹殺行為をおこなおうと提唱していたのだから。
爆弾で女性や子どもたちを標的にしても、ドイツと日本の軍事関連施設はほとんど被害を受けなかった。ナチスの軍需大臣アルベルト・シュペーアは、ドイツ上空での連合軍の空爆のやり方に唖然としたほどだった。というのも、連合国はドイツ帝国の産業地域をほとんど攻撃しなかったからだ。
1944年においては一年中、シュペーアは、ヒトラーを大いに喜ばせ、驚かせた。それは彼が、ドイツ軍の航空機と装甲車の両方の生産の増加を実現し、1944年12月にフランスのアルデンヌ攻撃を優勢にすすめることを可能にしたからだった。
空爆の背後にあったこの現実は、ルメイや英国側の仲間であるアーサー・「ボンバー」・ハリスのような他の人々から注目されることはなかった。すべてが終わった後、ハリスは回顧録で、都市部に対する攻撃の根底にある戦略が「完全に不健全であることが証明された」ことを認めた。また、連合国の指導者たちは、1945年以前にナチス・ドイツと大日本帝国を終わらせるために、工場や通信信号、輸送線への砲撃をもっと頻繁にパイロットに向けるべきだったことも認めた。
ルメイは、日本人を大量に殺害したことや350万戸以上の家屋を破壊したことについては語っていたが、1945年半ばに日本の生活基盤施設の多くが攻撃を受けていなかったことには触れなかった。具体的には、北海道と本州を結ぶ日本の非常に重要な石炭フェリーも無事だったし、鉄道網は1945年8月まで無傷のままだったのだ。さらにはいくつかの工業地帯もそうだったのだ。その上空をルメイのB-29が飛び交っていたのにも関わらず。
- 関連記事
-
- ウクライナ駐日大使が靖国神社を参拝したことで中・韓のSNSが大荒れ (2024/11/03)
- 日・韓・米の軍事的な統合に対する北朝鮮の立場 (2024/09/03)
- 第2次世界大戦で米国は日本の66都市を攻撃したが、それは対ソ連戦争の予行練習だった。 (2024/08/21)
- 日本、凍結されたロシア資産を使ってウクライナに数十億ドルを送金へ (2024/07/25)
- ロシア側に立ちウクライナと戦う理由を日本人志願兵が説明 (2024/05/27)
- バイデン大統領の「日本は外国人嫌い」発言に狼狽する日本 (2024/05/10)
- 米国は日本をアジアのNATOに引き込みたがっている、との報道 (2024/03/11)
- ほとんどの日本企業はロシアに留まった – 調査結果 (2024/03/01)
- ロシア、パトリオット問題で日本に警告 (2024/01/04)
- 富士山が「深刻な危機」に直面している (2023/09/19)
- 日本による放射能汚染水の海洋投棄に対して韓国で抗議集会 (2023/08/26)
- 日本、反ロシア制裁の拡大へ (2023/08/20)
- 帝国日本の恐るべき Dr. 死神、そして歴史上最も恥ずべき戦争犯罪『健忘症』 (2023/08/14)
- ヒロシマ、ナガサキ、ロシアンルーレット (2023/08/12)
- ヒロシマ原爆の日に、原爆を投下した米国の責任を問わない日本 (2023/08/10)