歌舞伎座「十二月大歌舞伎」は三部制。11月が劇場工事のせいで昼の部の興行しかなかったから、ここで3部の公演にして興行収入を確保しようという松竹の方針か。
第一部の「あらしのよるに」は以前見て面白かったけれども、童話が元であまり大人の再度の鑑賞には堪えないかと思ってチケットを取らなかった。12月初旬に第二部と第三部を見たので備忘記を。
第二部最初の演目は、河竹黙阿弥作、「盲長屋梅加賀鳶」いわゆる「加賀鳶(かがとび)」。
今まで道玄は、芝翫、團十郎(当時海老蔵)、白鸚(当時幸四郎)で見た。元々は五世菊五郎が河竹黙阿弥に脚本を依頼し、六世菊五郎が道玄中心の段だけを抜き出して演じるようになったのだという。当代の菊五郎では見た事がない。
今回、松緑が道玄を演じる。合わせて最初の場、加賀鳶の頭、天神町梅吉の二役。
序幕の「本郷木戸前勢揃い」は鯔背な加賀鳶連中が花道にずらりと並び、河竹黙阿弥の七五調のセリフを次々と回していく「ツラネ」が見どころ。
歌舞伎らしく派手で恰好良い場面だが、このあとで続く道玄の物語には、勘九郎演じる日蔭町松蔵以外一切関係しないという所が、なんとも歌舞伎らしい清々しい割り切り。
主役を張る松緑の威光があってか、息子の左近も、獅童と彦三郎の間に挟まれて花道の先頭の方で出てくるのだが、並ぶと両脇の獅童、彦三郎より背丈は随分と小さいのだなあ。親父の松緑が、自分とはニンが違うから女方の修行もさせようというのも分かる気がする。彦三郎、亀蔵兄弟はさすがに声が良い。
道玄を演じるのは松緑。禿のかつらで出てきた様は、祖父の二世松緑にも似ている。ギラついた鋭い眼光に、時折見せる素っ頓狂な表情。悪漢なのだが粗忽で妙な愛嬌がある道玄を、初役ながら印象的に演じた。
勘九郎演じる日蔭町松蔵は、竹町質見世の場で、店の主人を恐喝しようとする道玄の悪だくみを見抜き、他の大罪の証拠も突き付け、道玄の顔色を失わせて追い払う痛快な役。歌舞伎では大店を強請ると、大概失敗する。
強請られる伊勢屋主人は権十郎。大店の主人らしい風格あり。道玄に虐待される哀れな女房は芝のぶ。女按摩お兼は本来、はすっぱだが妙な色気があって魅力的に演じる事もできる悪女だと思うし、市川齊入が以前襲名披露でこの役を演じた時は感心した覚えがある。しかし雀右衛門がやると、どうも草臥れた世話女房風になって、どこか違う気がするんだよなあ。
しかし物語そのものは面白い。最後はだんまりの捕り物になって歌舞伎風味満載。
次の演目は「鷺娘(さぎむすめ)」。
2020年9月、コロナ禍での歌舞伎座四部制の玉三郎は、第四期歌舞伎座サヨナラ公演での自身の映像を使った凝った演出で、一部をライブで自分で踊り、客席は万来の拍手でカーテンコールまであったっけ。
七之助の鷺の精が舞ってみせる、娘の恋心、執着と情念。そして地獄の責め苦に雪の中倒れ伏す、哀しくも美しい姿。白無垢の登場から舞踊中に何度も引き抜いて鮮やかな衣装変わりを見せるのも歌舞伎の美。
上映記録では、歌舞伎座ではずっと玉三郎だけが勤めており、その前は2001年の福助まで遡るようだ。七之助は赤坂や大阪松竹座で上演しており、今回が3度目、初の歌舞伎座公演となった。二部上演後に「花篭」で食事。
第三部は、まず中村屋所縁の変化舞踊、「舞鶴雪月花(ぶかくせつげっか)」
十七世勘三郎のために作られた舞踊。勘九郎は、祖父の演じた桜の精、松虫、雪達磨という三役を踊り分ける。松虫では息子の長三郎も登場。
春、秋、冬と変わる背景の中で、娘の姿や松虫、滑稽な雪達磨と装束が変わり、すっぽんやセリも使って、勘九郎はその身体能力を一杯に使って踊ってみせる。なかなか見応えがあった。
この後の幕間、「花篭」で食事。
次の演目は、泉 鏡花 作、坂東玉三郎、今井豊茂 演出の「天守物語(てんしゅものがたり)」。
玉三郎の当たり役で、演出も手掛けるようになった作品。昨年12月の歌舞伎座公演では、自ら指導した七之助を主役の富姫に配し、自分は妹分の亀姫を演じて、これで演じ納めと玉三郎は考えていたのだという。しかし若手、市川團子の「ヤマトタケル」に触発され、團子を相手役に指名して、再び富姫役として歌舞伎座に戻ってきた。
姫路城の天守に存在する異形の世界。この世のものではない美しき姫と、現実を行き来する若者が結ぶ夢幻の恋。
玉三郎は幽玄の美を体現する。そして團子の真っ直ぐな図書之助は、口跡も良く凛々しいが、実は現世に身を置く所がない儚さも感じさせる所が実に良い。これは現実の澤瀉屋にあって、彼が置かれている孤高な境遇が投影されているのではないかという気もするのだった。
七之助の亀姫もまた素晴らしい。この人は、この世ではない異形な魂を持ったものを演じてみせるのに長けている。富姫と亀姫両方を経験し、やがて富姫は七之助の当たり役になるだろうと思わせる。
男女蔵の朱の盤坊は、親父の左團次が演じた役を初役で。生首を舐める門之助の舌長姥は、随分丁寧にやるので、ああ、あんな仕掛けなんだと面白かった。
獅童の近江之丞桃六は終盤を締める重要な役だが、割とサラサラと終わった印象。獅童は今月の歌舞伎座、自らが出ずっぱりで獅子奮迅の第一部「あらしのよるに」だけでなく、「加賀鳶」、「天守物語」三部全部に出演なので、最後は少々疲れていたのかねえ。
第一部の「あらしのよるに」は以前見て面白かったけれども、童話が元であまり大人の再度の鑑賞には堪えないかと思ってチケットを取らなかった。12月初旬に第二部と第三部を見たので備忘記を。
第二部最初の演目は、河竹黙阿弥作、「盲長屋梅加賀鳶」いわゆる「加賀鳶(かがとび)」。
今まで道玄は、芝翫、團十郎(当時海老蔵)、白鸚(当時幸四郎)で見た。元々は五世菊五郎が河竹黙阿弥に脚本を依頼し、六世菊五郎が道玄中心の段だけを抜き出して演じるようになったのだという。当代の菊五郎では見た事がない。
今回、松緑が道玄を演じる。合わせて最初の場、加賀鳶の頭、天神町梅吉の二役。
序幕の「本郷木戸前勢揃い」は鯔背な加賀鳶連中が花道にずらりと並び、河竹黙阿弥の七五調のセリフを次々と回していく「ツラネ」が見どころ。
歌舞伎らしく派手で恰好良い場面だが、このあとで続く道玄の物語には、勘九郎演じる日蔭町松蔵以外一切関係しないという所が、なんとも歌舞伎らしい清々しい割り切り。
主役を張る松緑の威光があってか、息子の左近も、獅童と彦三郎の間に挟まれて花道の先頭の方で出てくるのだが、並ぶと両脇の獅童、彦三郎より背丈は随分と小さいのだなあ。親父の松緑が、自分とはニンが違うから女方の修行もさせようというのも分かる気がする。彦三郎、亀蔵兄弟はさすがに声が良い。
道玄を演じるのは松緑。禿のかつらで出てきた様は、祖父の二世松緑にも似ている。ギラついた鋭い眼光に、時折見せる素っ頓狂な表情。悪漢なのだが粗忽で妙な愛嬌がある道玄を、初役ながら印象的に演じた。
勘九郎演じる日蔭町松蔵は、竹町質見世の場で、店の主人を恐喝しようとする道玄の悪だくみを見抜き、他の大罪の証拠も突き付け、道玄の顔色を失わせて追い払う痛快な役。歌舞伎では大店を強請ると、大概失敗する。
強請られる伊勢屋主人は権十郎。大店の主人らしい風格あり。道玄に虐待される哀れな女房は芝のぶ。女按摩お兼は本来、はすっぱだが妙な色気があって魅力的に演じる事もできる悪女だと思うし、市川齊入が以前襲名披露でこの役を演じた時は感心した覚えがある。しかし雀右衛門がやると、どうも草臥れた世話女房風になって、どこか違う気がするんだよなあ。
しかし物語そのものは面白い。最後はだんまりの捕り物になって歌舞伎風味満載。
次の演目は「鷺娘(さぎむすめ)」。
2020年9月、コロナ禍での歌舞伎座四部制の玉三郎は、第四期歌舞伎座サヨナラ公演での自身の映像を使った凝った演出で、一部をライブで自分で踊り、客席は万来の拍手でカーテンコールまであったっけ。
七之助の鷺の精が舞ってみせる、娘の恋心、執着と情念。そして地獄の責め苦に雪の中倒れ伏す、哀しくも美しい姿。白無垢の登場から舞踊中に何度も引き抜いて鮮やかな衣装変わりを見せるのも歌舞伎の美。
上映記録では、歌舞伎座ではずっと玉三郎だけが勤めており、その前は2001年の福助まで遡るようだ。七之助は赤坂や大阪松竹座で上演しており、今回が3度目、初の歌舞伎座公演となった。二部上演後に「花篭」で食事。
第三部は、まず中村屋所縁の変化舞踊、「舞鶴雪月花(ぶかくせつげっか)」
十七世勘三郎のために作られた舞踊。勘九郎は、祖父の演じた桜の精、松虫、雪達磨という三役を踊り分ける。松虫では息子の長三郎も登場。
春、秋、冬と変わる背景の中で、娘の姿や松虫、滑稽な雪達磨と装束が変わり、すっぽんやセリも使って、勘九郎はその身体能力を一杯に使って踊ってみせる。なかなか見応えがあった。
この後の幕間、「花篭」で食事。
次の演目は、泉 鏡花 作、坂東玉三郎、今井豊茂 演出の「天守物語(てんしゅものがたり)」。
玉三郎の当たり役で、演出も手掛けるようになった作品。昨年12月の歌舞伎座公演では、自ら指導した七之助を主役の富姫に配し、自分は妹分の亀姫を演じて、これで演じ納めと玉三郎は考えていたのだという。しかし若手、市川團子の「ヤマトタケル」に触発され、團子を相手役に指名して、再び富姫役として歌舞伎座に戻ってきた。
姫路城の天守に存在する異形の世界。この世のものではない美しき姫と、現実を行き来する若者が結ぶ夢幻の恋。
玉三郎は幽玄の美を体現する。そして團子の真っ直ぐな図書之助は、口跡も良く凛々しいが、実は現世に身を置く所がない儚さも感じさせる所が実に良い。これは現実の澤瀉屋にあって、彼が置かれている孤高な境遇が投影されているのではないかという気もするのだった。
七之助の亀姫もまた素晴らしい。この人は、この世ではない異形な魂を持ったものを演じてみせるのに長けている。富姫と亀姫両方を経験し、やがて富姫は七之助の当たり役になるだろうと思わせる。
男女蔵の朱の盤坊は、親父の左團次が演じた役を初役で。生首を舐める門之助の舌長姥は、随分丁寧にやるので、ああ、あんな仕掛けなんだと面白かった。
獅童の近江之丞桃六は終盤を締める重要な役だが、割とサラサラと終わった印象。獅童は今月の歌舞伎座、自らが出ずっぱりで獅子奮迅の第一部「あらしのよるに」だけでなく、「加賀鳶」、「天守物語」三部全部に出演なので、最後は少々疲れていたのかねえ。
日曜日は歌舞伎座十一月特別公演「ようこそ歌舞伎座へ」を見物に。
もともと例年11月の歌舞伎座は「吉例顔見世大歌舞伎」なのだが、施設改修工事に伴い、公演日程を変更して、午前中を中心に限られた人数の公演。打ち出しも1時42分といつもより早く一等席のチケットも9000円といつもの半額。同じ演目で夜の部があるのは2日だけ。空いた時間を工事に使うようだ。
入場してみると筋書きの販売はなく、薄いパンフレットが無料配布。「歌舞伎印巡」というスタンプラリーも行われており、館内のあちこちでスタンプを押す人の列が。なかなか面白い趣向である。
「ようこそ歌舞伎座へ」は、中村虎之介が案内役となり、まず幸四郎が歌舞伎座施設の裏側を紹介する映像が流れる。歌舞伎座施設の裏側は、今までTV番組や、坂東玉三郎の公演でも映像で紹介されたことがあるが、今回の映像は結構細部が面白かった。鳥居は2種類、つねに天井上にぶら下げてあるんだ。
その後は、虎之介の見得指導や、共演の萬太郎との軽い対談、そしてぬいぐるみ連中が出てきて、歌舞伎独特の「だんまり」の場面を見せた後、「この後の場面は撮影可能ですので、皆さんカバンからスマホを出してどうぞ撮影してください」と撮影タイムに。歌舞伎座で上演中の舞台を撮影できるのは初めてだなあ。
黒衣兼カメラマン兼英語通訳で出てきた音蔵の英語は実に達者。留学していたのかね。虎之介は親父の扇雀に似た男前で、軽妙な司会ぶりも手慣れたもの。自ら定式幕を引いて終わりと見せかけて、もう一度幕外に現れ、歌舞伎独特の口上で締める。面白かったね。
40分の幕間は花篭で花車膳。
次の演目は、「三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)」、大川端庚申塚の場。
左近は「妹背山婦女庭訓」の雛鳥で女方を玉三郎の指導を得て務めたが、この舞台ではお嬢吉三。勿論ベテランにはベテランの技芸があるのだが、若さゆえの美しさがある。親父の松緑は立役一本槍だが、音羽屋は御大菊五郎、菊之助、尾上右近など立役も女方も兼ねる役者が多いので、左近もその道を行くのだろうか。
駕籠から降りてきたお坊吉三、歌昇の台詞廻しには、どこか懐かしい播磨屋の響きが。坂東亀蔵が和尚吉三で場を収める。河竹黙阿弥の七五調の名台詞に歌舞伎の様式美が映える舞台。初めて歌舞伎を見る人も入りやすいだろう。
30分の幕間でも、スタンプラリーの列はあちこちで続く。結構、お客は入っていた。
最後の演目は、萬太郎、種之助、福之助、虎之介の若手を松緑が束ねる「石橋(しゃっきょう)」。20分程度の短い上演時間だが、松緑が一段と高い舞台に登場するのは若手が激しく毛振りをして徐々に疲れてきた頃。松緑は元気一杯であるから、若手はここからまた一段と頑張らなければならなくなる。まさにシゴキである。まあ体幹は鍛えられるだろうなあ(笑)
もともと例年11月の歌舞伎座は「吉例顔見世大歌舞伎」なのだが、施設改修工事に伴い、公演日程を変更して、午前中を中心に限られた人数の公演。打ち出しも1時42分といつもより早く一等席のチケットも9000円といつもの半額。同じ演目で夜の部があるのは2日だけ。空いた時間を工事に使うようだ。
入場してみると筋書きの販売はなく、薄いパンフレットが無料配布。「歌舞伎印巡」というスタンプラリーも行われており、館内のあちこちでスタンプを押す人の列が。なかなか面白い趣向である。
「ようこそ歌舞伎座へ」は、中村虎之介が案内役となり、まず幸四郎が歌舞伎座施設の裏側を紹介する映像が流れる。歌舞伎座施設の裏側は、今までTV番組や、坂東玉三郎の公演でも映像で紹介されたことがあるが、今回の映像は結構細部が面白かった。鳥居は2種類、つねに天井上にぶら下げてあるんだ。
その後は、虎之介の見得指導や、共演の萬太郎との軽い対談、そしてぬいぐるみ連中が出てきて、歌舞伎独特の「だんまり」の場面を見せた後、「この後の場面は撮影可能ですので、皆さんカバンからスマホを出してどうぞ撮影してください」と撮影タイムに。歌舞伎座で上演中の舞台を撮影できるのは初めてだなあ。
黒衣兼カメラマン兼英語通訳で出てきた音蔵の英語は実に達者。留学していたのかね。虎之介は親父の扇雀に似た男前で、軽妙な司会ぶりも手慣れたもの。自ら定式幕を引いて終わりと見せかけて、もう一度幕外に現れ、歌舞伎独特の口上で締める。面白かったね。
40分の幕間は花篭で花車膳。
次の演目は、「三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)」、大川端庚申塚の場。
左近は「妹背山婦女庭訓」の雛鳥で女方を玉三郎の指導を得て務めたが、この舞台ではお嬢吉三。勿論ベテランにはベテランの技芸があるのだが、若さゆえの美しさがある。親父の松緑は立役一本槍だが、音羽屋は御大菊五郎、菊之助、尾上右近など立役も女方も兼ねる役者が多いので、左近もその道を行くのだろうか。
駕籠から降りてきたお坊吉三、歌昇の台詞廻しには、どこか懐かしい播磨屋の響きが。坂東亀蔵が和尚吉三で場を収める。河竹黙阿弥の七五調の名台詞に歌舞伎の様式美が映える舞台。初めて歌舞伎を見る人も入りやすいだろう。
30分の幕間でも、スタンプラリーの列はあちこちで続く。結構、お客は入っていた。
最後の演目は、萬太郎、種之助、福之助、虎之介の若手を松緑が束ねる「石橋(しゃっきょう)」。20分程度の短い上演時間だが、松緑が一段と高い舞台に登場するのは若手が激しく毛振りをして徐々に疲れてきた頃。松緑は元気一杯であるから、若手はここからまた一段と頑張らなければならなくなる。まさにシゴキである。まあ体幹は鍛えられるだろうなあ(笑)
歌舞伎座の「錦秋十月大歌舞伎」。簡単に観劇の備忘を。
昼の部最初は、近松門左衛門歿後三百年と銘打った、「平家女護島(へいけにょごのしま) 俊寛」。
菊之助が初役で演じる俊寛は、亡き岳父吉右衛門の当たり役。「岳父の境地を目指して」と筋書きで語る。菊五郎も勤めていない役を、歌六、又五郎と播磨屋の重鎮を脇に得て演じる。
ニンには無いかと思ったが、岳父の芸を残す気迫を感じる熱演。演目自体も良く出来ている事もある。部屋子出身の吉太朗が千鳥を演じるが、どこか心細い孤島の身寄りの無い海女を演じて印象的。この「俊寛」も、菊之助が自分の演目として、播磨屋の縁として残していければよいが。
次の演目、「音菊曽我彩(おとにきくそがのいろどり)稚児姿出世始話」は、曽我物に題材を取った新作。御大菊五郎の誕生月を寿いで、孫の眞秀が尾上右近と、曽我兄弟の幼少期を演じる。曽我物独特、歌舞伎の様式美に満ちた華やかな舞台。
巳之助は、筋書きで自分でも語った通り、随分と曽我物で朝比奈を演じているのだが、これがまた似合う。芝翫、魁春も出て、最後の場面のみ菊五郎が工藤左衛門祐経で登場。誕生日月で目出度いね。
昼の部最後は、江戸の口碑に残る大岡政談「権三と助十(ごんざとすけじゅう)」。
大岡政談に題材を採った岡本綺堂の新歌舞伎。江戸長屋を舞台にした生世話物だが、最初はドタバタの喜劇調、そして推理激風になって、最後はめでたしめでたし。
権三を獅童、助十を松緑。家主六郎兵衛に歌六。気楽に見れてなかなか面白かった。
夜の部は、仁左衛門、玉三郎が出演だが、全体に歌舞伎色が薄い舞台。
最初は、泉 鏡花 作「婦系図(おんなけいず)」。新派を代表する名作で、仁左衛門も何度か若き頃に客演しているが、玉三郎との共演は初めて。今までもお蔦役は殆どが新派の女優で演じられている。
今回の歌舞伎座公演でも、新派の俳優が多数出演。全般に台詞回しも歌舞伎調ではなく、彌十郎の酒井俊蔵のセリフはあまり調子良くないように思えたが。
仁左衛門は、将来を案じた師匠に別れろと説教されて従う、頼りない早瀬主税を演じるのだが、役柄上、堂々たる場面はあまり無いものの、若々しく見えるのには感心。掏摸から預けられた財布を後で投げ返してやり、舞台切りの偶然の再開で、自分も師匠に見いだされるまではろくでもない巾着切りであったと述懐するところは心を打つ見せ場。
玉三郎のお蔦は、柳橋の芸者だった身分を咎められ、好きな男とせっかく持った世帯を追われる哀しい女を切実に演じて心に残る。明治の元勲は田舎から来たからか、次々と芸者上がりを奥方にしたのだが、まだ社会全体では、男の立身出世には芸者を奥方にしては邪魔になるという雰囲気が残っていたのだろうか。
次の演目は、坂東玉三郎が監修した「源氏物語(げんじものがたり) 六条御息所の巻」。
「源氏物語」に描かれた六条御息所は光源氏初期の恋人。先の東宮の后で、高貴な身分で美しく、知性、教養も極めて優れた女性であったが、プライドが高く、光源氏よりもかなり年上である事を気にして源氏を熱愛する自分を押し殺す。しかし次々と新しい恋を重ねる源氏の相手に嫉妬し、源氏の他の恋人の下人から賀茂の祭礼で非礼な扱いを受けた事を契機に、更に鬱々と心を病んで、ついには生霊となって、源氏の恋人たちに次々災厄をもたらすようになる。
大変有名な登場人物で、様々な物語や芸能に引用されている。玉三郎が演じる六条御息所の相手役である光源氏は染五郎。
生霊に悩まされる葵の上が時蔵。彌十郎、萬壽。
舞台美術は、数々の御簾だけを背景に配して周り舞台が展開する、現代的かつ幻想的なもの。一種の絵物語のような雰囲気を現出している。玉三郎演じる六条御息所のオーラは素晴らしく、闇と光に満ちた美しい舞台。ただ、歌舞伎味は少ないかな。
余談ながら、私の高校時代の古文教師は、六条御息所を「ろくじょうのみやすんどころ」と読んでいた。この舞台では「みやすどころ」と読む。人間の記憶というのは、実に細かい事を覚えているものだなあ(笑)
昼の部最初は、近松門左衛門歿後三百年と銘打った、「平家女護島(へいけにょごのしま) 俊寛」。
菊之助が初役で演じる俊寛は、亡き岳父吉右衛門の当たり役。「岳父の境地を目指して」と筋書きで語る。菊五郎も勤めていない役を、歌六、又五郎と播磨屋の重鎮を脇に得て演じる。
ニンには無いかと思ったが、岳父の芸を残す気迫を感じる熱演。演目自体も良く出来ている事もある。部屋子出身の吉太朗が千鳥を演じるが、どこか心細い孤島の身寄りの無い海女を演じて印象的。この「俊寛」も、菊之助が自分の演目として、播磨屋の縁として残していければよいが。
次の演目、「音菊曽我彩(おとにきくそがのいろどり)稚児姿出世始話」は、曽我物に題材を取った新作。御大菊五郎の誕生月を寿いで、孫の眞秀が尾上右近と、曽我兄弟の幼少期を演じる。曽我物独特、歌舞伎の様式美に満ちた華やかな舞台。
巳之助は、筋書きで自分でも語った通り、随分と曽我物で朝比奈を演じているのだが、これがまた似合う。芝翫、魁春も出て、最後の場面のみ菊五郎が工藤左衛門祐経で登場。誕生日月で目出度いね。
昼の部最後は、江戸の口碑に残る大岡政談「権三と助十(ごんざとすけじゅう)」。
大岡政談に題材を採った岡本綺堂の新歌舞伎。江戸長屋を舞台にした生世話物だが、最初はドタバタの喜劇調、そして推理激風になって、最後はめでたしめでたし。
権三を獅童、助十を松緑。家主六郎兵衛に歌六。気楽に見れてなかなか面白かった。
夜の部は、仁左衛門、玉三郎が出演だが、全体に歌舞伎色が薄い舞台。
最初は、泉 鏡花 作「婦系図(おんなけいず)」。新派を代表する名作で、仁左衛門も何度か若き頃に客演しているが、玉三郎との共演は初めて。今までもお蔦役は殆どが新派の女優で演じられている。
今回の歌舞伎座公演でも、新派の俳優が多数出演。全般に台詞回しも歌舞伎調ではなく、彌十郎の酒井俊蔵のセリフはあまり調子良くないように思えたが。
仁左衛門は、将来を案じた師匠に別れろと説教されて従う、頼りない早瀬主税を演じるのだが、役柄上、堂々たる場面はあまり無いものの、若々しく見えるのには感心。掏摸から預けられた財布を後で投げ返してやり、舞台切りの偶然の再開で、自分も師匠に見いだされるまではろくでもない巾着切りであったと述懐するところは心を打つ見せ場。
玉三郎のお蔦は、柳橋の芸者だった身分を咎められ、好きな男とせっかく持った世帯を追われる哀しい女を切実に演じて心に残る。明治の元勲は田舎から来たからか、次々と芸者上がりを奥方にしたのだが、まだ社会全体では、男の立身出世には芸者を奥方にしては邪魔になるという雰囲気が残っていたのだろうか。
次の演目は、坂東玉三郎が監修した「源氏物語(げんじものがたり) 六条御息所の巻」。
「源氏物語」に描かれた六条御息所は光源氏初期の恋人。先の東宮の后で、高貴な身分で美しく、知性、教養も極めて優れた女性であったが、プライドが高く、光源氏よりもかなり年上である事を気にして源氏を熱愛する自分を押し殺す。しかし次々と新しい恋を重ねる源氏の相手に嫉妬し、源氏の他の恋人の下人から賀茂の祭礼で非礼な扱いを受けた事を契機に、更に鬱々と心を病んで、ついには生霊となって、源氏の恋人たちに次々災厄をもたらすようになる。
大変有名な登場人物で、様々な物語や芸能に引用されている。玉三郎が演じる六条御息所の相手役である光源氏は染五郎。
生霊に悩まされる葵の上が時蔵。彌十郎、萬壽。
舞台美術は、数々の御簾だけを背景に配して周り舞台が展開する、現代的かつ幻想的なもの。一種の絵物語のような雰囲気を現出している。玉三郎演じる六条御息所のオーラは素晴らしく、闇と光に満ちた美しい舞台。ただ、歌舞伎味は少ないかな。
余談ながら、私の高校時代の古文教師は、六条御息所を「ろくじょうのみやすんどころ」と読んでいた。この舞台では「みやすどころ」と読む。人間の記憶というのは、実に細かい事を覚えているものだなあ(笑)
今月の歌舞伎座、「秀山祭九月大歌舞伎」。夜の部は、大相撲九月場所観戦とかぶらないように月の初めの日曜に予約。
かなり前の方の席だったのだが、前列が座高の低い爺さん婆さんばかりだったので舞台を見る邪魔にならず実に良かった。大体、前に一人はいるんだよねえ、座高が高くて頭が大きい人が。
まず最初の演目は、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)太宰館花渡し 吉野川」。
「吉野川」は両花道を使用する王代物の大作。蘇我入鹿が暴政を振るう奈良時代、吉野川を中心に下手側の妹山が女の情愛、貞節と恋の論理、上手側の背山が男と忠義、政治の論理を背景にしたシンメトリーな舞台。交互に語られる両世界はしかし次第に共鳴を始め、やがて大きな悲劇が川を隔てて交錯する。
この演目を最初に見たのは、2016年 歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」夜の部。玉三郎の太宰後室定高と吉右衛門の大判事清澄。玉三郎は前回も今回も、情愛と品格を見事に体現している。吉右衛門は、「雛流し」の婚礼で吉野川に弓を入れ、大事に大事に首を回収する大判事の慈しみと懸命さが実感を持って伝わってきた。
松緑は、昨年の「国立劇場さよなら公演「妹背山女庭訓」吉野川の部」で、萬壽になる前の時蔵が定高を演じる際に指名を受け大判事を経験している。
時蔵は技芸の人で、定高の品格、腹の座った覚悟、子供への深い情愛を余すところなく演じ切って見事なもの。松緑もこの大判事清澄という王代物屈指の大役に覚悟を決め、祖父の台本や音声を参照し、白鸚に助言を求めて臨んだだけあって、人物の懐の大きさ、子への情愛、主従の論理を受け入れる苦渋、そして肚の重さを見せて見事に成立していた。
今回の「吉野川」では秀山祭だけあって、更に吉右衛門に寄せたか「雛流し」で見せる慈しみはまさに吉右衛門を彷彿とさせるもの。玉三郎と渡り合う堂々たる出来。
重量級の主役ふたりの鏡像として進行するのが、両家の子供、お互いを思いやる雛鳥と久我之助の清冽な恋。皮肉な運命に翻弄された悲恋なのだが、久我之助が染五郎、雛鳥が左近。どちらも親の威光で得た役と言えばその通りなのであるが、ここは手練れの役者でなくとも若手で十分成立する。松緑息子の左近は、それほど女形の修行はしていないのではと思うが、玉三郎の細やかな指導が行き届いたか、悲恋に自分の命を捧げる可憐な娘の姿が印象的に浮かび上がった。
この後の幕間は「花篭」で食事。遅い時間の設定であるからか、割と人は少なかった。
最後の演目は、「歌舞伎十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)」。
ポスターの「二代目播磨屋 八十路の夢」にホロリとする。吉右衛門が生前常々語った80歳で弁慶を演じる夢。存命ならば今年が80歳になるはずだった。その「秀山祭」で甥の幸四郎が弁慶を演じるのだ。
染五郎時代に初役で演じた弁慶は、一点一画を疎かにしない楷書の如き弁慶。しかし大きさを求めるあまりか、背伸びして身体が反り返るような雰囲気もあった。新幸四郎襲名時の弁慶は、若干自分のニンに引き寄せている印象。悪く言えば最初より崩れているのだが、良く言えば新幸四郎らしい弁慶を模索し始めていたという印象。
そして2019年の秀山祭で仁左衛門と交代で演じた弁慶は高麗屋伝来の弁慶。骨太で安定した形で当代の幸四郎に受け継がれた。花道からクルクル回りながら舞台中央に戻る「滝流し」の所作が入るのが印象的。
そして、今回の「八十路の夢 弁慶」は、今までよりも一番吉右衛門に寄せている。どの時よりも大きく力強く、吉右衛門の幻影が脳裏をよぎった。
菊之助の富樫も実に良かった。理知の人のニンは富樫にピッタリだが、有能な官吏である彼が、山伏を義経主従であると見抜きながらも弁慶の決死の奮闘に胸を打たれて見逃してやる。岳父の弁慶で、自分の息子を義経で演じたかったろうなあ。
義経は染五郎。そして彼は花道を去る前、笠に手をかけふと前を見る。これを見て、前に書いたNHK「古典芸能への招待」 染五郎「勧進帳」を思い出した。
幸四郎が初めて弁慶を演じた時、富樫は実父の元白鸚で、義経が叔父の吉右衛門。そして吉右衛門義経は、最後の引込み、花道に差し掛かる際にちょっと笠に左手をかけて顔を上げ、ほんの少し遠くを見てから、すぐに顔を下げて一心に花道を走り去る。これが大変に印象的だったのだ。
弁慶の活躍で虎口を逃れ、安宅の関を去る際、ふと遠くを見つめた義経は、自らの暗い未来を幻視する。おそらく落ち延びられはしない。しかし家来を率いる主君として、彼はただ前に進まざるをえない。吉右衛門の所作はなんだかそんな風な印象をあたえて観客の心を打つ。現染五郎は勉強したビデオでこれを見て取り入れたんじゃないかな。当時確認した限りでは同じ所作をした義経の映像は無かったが。
弁慶が飛び六法で花道を去り、実に重厚な2本立てで打ち出し。しかし夜の部が「山の段」に「勧進帳」で9時打ち出しというのは結構疲れるものだなあ。それでも、髄所で今は亡き吉右衛門に会えたような懐かしい夜だった。
かなり前の方の席だったのだが、前列が座高の低い爺さん婆さんばかりだったので舞台を見る邪魔にならず実に良かった。大体、前に一人はいるんだよねえ、座高が高くて頭が大きい人が。
まず最初の演目は、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)太宰館花渡し 吉野川」。
「吉野川」は両花道を使用する王代物の大作。蘇我入鹿が暴政を振るう奈良時代、吉野川を中心に下手側の妹山が女の情愛、貞節と恋の論理、上手側の背山が男と忠義、政治の論理を背景にしたシンメトリーな舞台。交互に語られる両世界はしかし次第に共鳴を始め、やがて大きな悲劇が川を隔てて交錯する。
この演目を最初に見たのは、2016年 歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」夜の部。玉三郎の太宰後室定高と吉右衛門の大判事清澄。玉三郎は前回も今回も、情愛と品格を見事に体現している。吉右衛門は、「雛流し」の婚礼で吉野川に弓を入れ、大事に大事に首を回収する大判事の慈しみと懸命さが実感を持って伝わってきた。
松緑は、昨年の「国立劇場さよなら公演「妹背山女庭訓」吉野川の部」で、萬壽になる前の時蔵が定高を演じる際に指名を受け大判事を経験している。
時蔵は技芸の人で、定高の品格、腹の座った覚悟、子供への深い情愛を余すところなく演じ切って見事なもの。松緑もこの大判事清澄という王代物屈指の大役に覚悟を決め、祖父の台本や音声を参照し、白鸚に助言を求めて臨んだだけあって、人物の懐の大きさ、子への情愛、主従の論理を受け入れる苦渋、そして肚の重さを見せて見事に成立していた。
今回の「吉野川」では秀山祭だけあって、更に吉右衛門に寄せたか「雛流し」で見せる慈しみはまさに吉右衛門を彷彿とさせるもの。玉三郎と渡り合う堂々たる出来。
重量級の主役ふたりの鏡像として進行するのが、両家の子供、お互いを思いやる雛鳥と久我之助の清冽な恋。皮肉な運命に翻弄された悲恋なのだが、久我之助が染五郎、雛鳥が左近。どちらも親の威光で得た役と言えばその通りなのであるが、ここは手練れの役者でなくとも若手で十分成立する。松緑息子の左近は、それほど女形の修行はしていないのではと思うが、玉三郎の細やかな指導が行き届いたか、悲恋に自分の命を捧げる可憐な娘の姿が印象的に浮かび上がった。
この後の幕間は「花篭」で食事。遅い時間の設定であるからか、割と人は少なかった。
最後の演目は、「歌舞伎十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)」。
ポスターの「二代目播磨屋 八十路の夢」にホロリとする。吉右衛門が生前常々語った80歳で弁慶を演じる夢。存命ならば今年が80歳になるはずだった。その「秀山祭」で甥の幸四郎が弁慶を演じるのだ。
染五郎時代に初役で演じた弁慶は、一点一画を疎かにしない楷書の如き弁慶。しかし大きさを求めるあまりか、背伸びして身体が反り返るような雰囲気もあった。新幸四郎襲名時の弁慶は、若干自分のニンに引き寄せている印象。悪く言えば最初より崩れているのだが、良く言えば新幸四郎らしい弁慶を模索し始めていたという印象。
そして2019年の秀山祭で仁左衛門と交代で演じた弁慶は高麗屋伝来の弁慶。骨太で安定した形で当代の幸四郎に受け継がれた。花道からクルクル回りながら舞台中央に戻る「滝流し」の所作が入るのが印象的。
そして、今回の「八十路の夢 弁慶」は、今までよりも一番吉右衛門に寄せている。どの時よりも大きく力強く、吉右衛門の幻影が脳裏をよぎった。
菊之助の富樫も実に良かった。理知の人のニンは富樫にピッタリだが、有能な官吏である彼が、山伏を義経主従であると見抜きながらも弁慶の決死の奮闘に胸を打たれて見逃してやる。岳父の弁慶で、自分の息子を義経で演じたかったろうなあ。
義経は染五郎。そして彼は花道を去る前、笠に手をかけふと前を見る。これを見て、前に書いたNHK「古典芸能への招待」 染五郎「勧進帳」を思い出した。
幸四郎が初めて弁慶を演じた時、富樫は実父の元白鸚で、義経が叔父の吉右衛門。そして吉右衛門義経は、最後の引込み、花道に差し掛かる際にちょっと笠に左手をかけて顔を上げ、ほんの少し遠くを見てから、すぐに顔を下げて一心に花道を走り去る。これが大変に印象的だったのだ。
弁慶の活躍で虎口を逃れ、安宅の関を去る際、ふと遠くを見つめた義経は、自らの暗い未来を幻視する。おそらく落ち延びられはしない。しかし家来を率いる主君として、彼はただ前に進まざるをえない。吉右衛門の所作はなんだかそんな風な印象をあたえて観客の心を打つ。現染五郎は勉強したビデオでこれを見て取り入れたんじゃないかな。当時確認した限りでは同じ所作をした義経の映像は無かったが。
弁慶が飛び六法で花道を去り、実に重厚な2本立てで打ち出し。しかし夜の部が「山の段」に「勧進帳」で9時打ち出しというのは結構疲れるものだなあ。それでも、髄所で今は亡き吉右衛門に会えたような懐かしい夜だった。
歌舞伎座の「八月納涼歌舞伎」、お盆休み中に第一部と第二部を見たので備忘録を。
第一部は祝日の月曜に観劇。最初の演目は、山本周五郎原作の「ゆうれい貸屋(ゆうれいかしや)」。
芸者の幽霊に惚れられた職人が、幽霊を貸し出す商売を始めるという喜劇。元々、巳之助と児太郎で納涼に何か出そうと言う話になった際、2007年の納涼で、十世三津五郎と福助で演じたこの狂言を、その息子同士の共演で再び演じることにしたのだと。福助は監修にも名前が出ている。
巳之助は桶職弥六。腕の良い職人だが不運にも商売が上手くいかず、腐って飲んだくれ、女房も実家へ去る。ひょんな事から芸者の幽霊(児太郎)に惚れられ、仲間の幽霊たちを貸す稼業をしていくうちに人情の機微に触れ、幽霊たちを成仏させ、自分もやり直そうと改心する。巳之助は奇妙な状況下、軽妙な演技で観客を笑わせながらも、真面目な職人としての再起を力強く演じている。
芸者幽霊の児太郎は、時代物の大役も喜劇も器用にこなす器があり、達者な演技。勘九郎も幽霊役で付き合い、「何事も生きていてこそだ」と弥六を改心させる役を印象的に演じる。
94歳で初めて幽霊役をやったという市川寿猿さんの役は爺の幽霊友八。矍鑠として元気なもので、成仏してすっぽんに消える場面では観客の大きな拍手を受けた。このお話の幽霊たちは怖くないのがよいね。
彌十郎が家主平作。序幕で彌三郎が桶を受け取りにくる番頭役で出て、師匠の彌十郎が、「お前、名題昇進したんだってな。頑張りなよ」と芝居の流れの中で披露したのは粋な趣向。
最後は、旦那の心を入れ替えさせる為に敢えて家を出た新悟の弥六女房お兼も家に戻ってきてハッピーエンド。小品だが幽霊が出て納涼味もあり、後味が良い人情喜劇だった。
昼の幕間は花篭で花車膳で一杯。
次の演目は、山川静夫原案なる30分程度の松羽目舞台の舞踊「鵜の殿様(うのとのさま)」だったのだが、どうもいまいちピンと来るものがなかったので、スキップする事にして歌舞伎座を早めに後にした。
第二部を見たのは、お盆休み前半の日曜日。
まず最初は、河竹黙阿弥作の「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」 いわゆる「髪結新三」。
十八世勘三郎が主演した「髪結新三」のDVDは持っているが、実際に勘三郎の舞台を見物した事はない。今回、息子の勘九郎が、祖父も父も演じた髪結新三を初役で演じる。
初役とは言っても、この色気も愛嬌もある粋な江戸の悪党は確実に勘九郎のニンにもある。生世話名作の主役を、満を持して演じると言ってもよいだろう。舞台でのセリフも表情も、親父の勘三郎を彷彿とさせる。
そして七之助の手代忠七も初役。子供の頃から兄貴の現勘九郎と家で遊びで演じていた永代橋の場を歌舞伎座で演じるのは感慨無量だったろう。
家主長兵衛の彌十郎が、新三をやり込める場面で、「おめえはギャアギャアうるせえなあ」と言うと、勘九郎新三は「ギャアギャアうるせえのは親父だったよ」とふと天を仰ぐ。彌十郎は「俺はそれが好きだったよ」と応じる。ほろりとする歌舞伎の入れ事。きっと親父の勘三郎は今月の舞台、兄弟をずっと天から見ているだろう。
下剃勝奴は、いずれ新三も演じるであろう若手の有望株が演じる新三の子分。巳之助が立派に務めた。
湯から帰ってくる粋なゆかた、初カツオを売る棒手振りと、江戸の夏の風情が随所に出る世話物。
寿司屋に言わせると今年はカツオの当たり年。春先の薫り高い初カツオから脂が乗ってきた夏場まで、どこで食しても旨い。「髪結新三」の舞台でも、中村いてうの魚売りは江戸前を感じる粋な声でよかった。
弥太五郎源七は幸四郎。何の役をやっても達者できちんと上手いのだが、凄みと老残を示すかつての大親分役としては若干貫目が不足しているだろうか。
後家お常は扇雀で貫録あり。鶴松のお熊 芝のぶの下女。丁稚に長三郎。
閻魔堂橋前の場所では勘九郎と幸四郎が切り結び、ぱっと舞台が明かるくなって、切り口上で終わる。勘九郎新三の誕生を高らかに告げる実に印象的な舞台だった。
次の幕は、短い舞踊、「艶紅曙接拙(いろもみじつぎきのふつつか)」。浅草観音裏、富士浅間神社を舞台に紅翫という人物が様々な踊りを見せるという舞踊劇。
最初は、児太郎、巳之助が先導に、若手花形が次々登場して踊るのだが、そのあとで、25分の舞台中15分以上、橋之助が正面に出て一人で踊り、新悟、中村福之助、歌之助、勘太郎、染五郎、虎之介といった若手は後ろで手持無沙汰にずっと座っているだけ。
四世芝翫が初演した成駒屋由縁の演目ということで、橋之助が当代芝翫の長男として、堂々の主演ということなのだろうが、大勢出た他の若手にはあまりしどころがなく、ちょっと演目としてもバランスが悪いのではないだろうか。
納涼は三部制なので食事時間もちょっと違う。第二部は終了後に花篭で納涼御膳。
食事が終了しても6時過ぎ。第三部は見ないので、そのまま花篭からエレベータで1階まで。日はまだあるが暑さは少し和らいでいる。東銀座をぶらぶら歩いて地下鉄駅まで。
自宅に帰ると綺麗な残照の空だった。
第一部は祝日の月曜に観劇。最初の演目は、山本周五郎原作の「ゆうれい貸屋(ゆうれいかしや)」。
芸者の幽霊に惚れられた職人が、幽霊を貸し出す商売を始めるという喜劇。元々、巳之助と児太郎で納涼に何か出そうと言う話になった際、2007年の納涼で、十世三津五郎と福助で演じたこの狂言を、その息子同士の共演で再び演じることにしたのだと。福助は監修にも名前が出ている。
巳之助は桶職弥六。腕の良い職人だが不運にも商売が上手くいかず、腐って飲んだくれ、女房も実家へ去る。ひょんな事から芸者の幽霊(児太郎)に惚れられ、仲間の幽霊たちを貸す稼業をしていくうちに人情の機微に触れ、幽霊たちを成仏させ、自分もやり直そうと改心する。巳之助は奇妙な状況下、軽妙な演技で観客を笑わせながらも、真面目な職人としての再起を力強く演じている。
芸者幽霊の児太郎は、時代物の大役も喜劇も器用にこなす器があり、達者な演技。勘九郎も幽霊役で付き合い、「何事も生きていてこそだ」と弥六を改心させる役を印象的に演じる。
94歳で初めて幽霊役をやったという市川寿猿さんの役は爺の幽霊友八。矍鑠として元気なもので、成仏してすっぽんに消える場面では観客の大きな拍手を受けた。このお話の幽霊たちは怖くないのがよいね。
彌十郎が家主平作。序幕で彌三郎が桶を受け取りにくる番頭役で出て、師匠の彌十郎が、「お前、名題昇進したんだってな。頑張りなよ」と芝居の流れの中で披露したのは粋な趣向。
最後は、旦那の心を入れ替えさせる為に敢えて家を出た新悟の弥六女房お兼も家に戻ってきてハッピーエンド。小品だが幽霊が出て納涼味もあり、後味が良い人情喜劇だった。
昼の幕間は花篭で花車膳で一杯。
次の演目は、山川静夫原案なる30分程度の松羽目舞台の舞踊「鵜の殿様(うのとのさま)」だったのだが、どうもいまいちピンと来るものがなかったので、スキップする事にして歌舞伎座を早めに後にした。
第二部を見たのは、お盆休み前半の日曜日。
まず最初は、河竹黙阿弥作の「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」 いわゆる「髪結新三」。
十八世勘三郎が主演した「髪結新三」のDVDは持っているが、実際に勘三郎の舞台を見物した事はない。今回、息子の勘九郎が、祖父も父も演じた髪結新三を初役で演じる。
初役とは言っても、この色気も愛嬌もある粋な江戸の悪党は確実に勘九郎のニンにもある。生世話名作の主役を、満を持して演じると言ってもよいだろう。舞台でのセリフも表情も、親父の勘三郎を彷彿とさせる。
そして七之助の手代忠七も初役。子供の頃から兄貴の現勘九郎と家で遊びで演じていた永代橋の場を歌舞伎座で演じるのは感慨無量だったろう。
家主長兵衛の彌十郎が、新三をやり込める場面で、「おめえはギャアギャアうるせえなあ」と言うと、勘九郎新三は「ギャアギャアうるせえのは親父だったよ」とふと天を仰ぐ。彌十郎は「俺はそれが好きだったよ」と応じる。ほろりとする歌舞伎の入れ事。きっと親父の勘三郎は今月の舞台、兄弟をずっと天から見ているだろう。
下剃勝奴は、いずれ新三も演じるであろう若手の有望株が演じる新三の子分。巳之助が立派に務めた。
湯から帰ってくる粋なゆかた、初カツオを売る棒手振りと、江戸の夏の風情が随所に出る世話物。
寿司屋に言わせると今年はカツオの当たり年。春先の薫り高い初カツオから脂が乗ってきた夏場まで、どこで食しても旨い。「髪結新三」の舞台でも、中村いてうの魚売りは江戸前を感じる粋な声でよかった。
弥太五郎源七は幸四郎。何の役をやっても達者できちんと上手いのだが、凄みと老残を示すかつての大親分役としては若干貫目が不足しているだろうか。
後家お常は扇雀で貫録あり。鶴松のお熊 芝のぶの下女。丁稚に長三郎。
閻魔堂橋前の場所では勘九郎と幸四郎が切り結び、ぱっと舞台が明かるくなって、切り口上で終わる。勘九郎新三の誕生を高らかに告げる実に印象的な舞台だった。
次の幕は、短い舞踊、「艶紅曙接拙(いろもみじつぎきのふつつか)」。浅草観音裏、富士浅間神社を舞台に紅翫という人物が様々な踊りを見せるという舞踊劇。
最初は、児太郎、巳之助が先導に、若手花形が次々登場して踊るのだが、そのあとで、25分の舞台中15分以上、橋之助が正面に出て一人で踊り、新悟、中村福之助、歌之助、勘太郎、染五郎、虎之介といった若手は後ろで手持無沙汰にずっと座っているだけ。
四世芝翫が初演した成駒屋由縁の演目ということで、橋之助が当代芝翫の長男として、堂々の主演ということなのだろうが、大勢出た他の若手にはあまりしどころがなく、ちょっと演目としてもバランスが悪いのではないだろうか。
納涼は三部制なので食事時間もちょっと違う。第二部は終了後に花篭で納涼御膳。
食事が終了しても6時過ぎ。第三部は見ないので、そのまま花篭からエレベータで1階まで。日はまだあるが暑さは少し和らいでいる。東銀座をぶらぶら歩いて地下鉄駅まで。
自宅に帰ると綺麗な残照の空だった。
すっかり更新を忘れていた。歌舞伎座の公演は終了したのだが、個人の備忘録として。
六月中旬の日曜に、歌舞伎座「六月大歌舞伎」、夜の部観劇。
中村時蔵が名前を息子の梅枝に譲って、初代中村萬壽を襲名する披露狂言、現梅枝の息子が五代目中村梅枝を襲名しての初舞台、中村獅童の息子がそれぞれ初代中村陽喜、初代中村夏幹を名乗っての初舞台と、昔の三代目中村時蔵に連なる萬屋一門には盛り沢山な目出度い演目が続く。
最初は「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」。
原作は大作だが、この「円塚山の場」は、最初にちょっと芝居があるものの、花形が八犬士に扮して「だんまり」の芝居で顔を揃えるのが眼目という、30分の小品。歌昇、種之助、児太郎、染五郎、左近、橋之助、米吉、巳之助と賑やかに。
次の演目が、初代中村萬壽 襲名披露狂言として「山姥(やまんば)」。五代目中村梅枝 初舞台。劇中にて襲名口上申し上げ候とある。
当日、筋書を見るまで、「山姥」」というのは、てっきり奥州安達ケ原で旅人を泊めて、夜中に包丁研いで殺す鬼婆の話かと思っていたが、これは猿之助の「黒塚」で、こちらの「山姥」は、足柄山で金太郎を育てる婆さんの話なのであった。
とんだ勘違いをしていたが、この演目は、代々の時蔵が襲名披露に演じている狂言なのだそうである。時蔵改め萬壽は、隠居ではなくこれからも現役で舞台を頑張るという話。
時蔵で思い出すのは以前見た「毛谷村」。何の予備知識も無く見ていた所、花道から現れた虚無僧が追手と立ち回りとなるのだが、笠で顔を隠した男装のこの人物の動きを見ているうちに「あれ、これ女性じゃないの」と感じた。果たして笠を取ると、時蔵演じる女武道、お園が現れる。男装の立ち回りの動きだけで、この役が女性と分からせる女形の芸には感心したなあ。
「山姥」では、後の金太郎、怪童丸を梅枝の息子が五代目中村梅枝初舞台として勤める。そして怪童丸を慈しみ育てる山姥を時蔵改め萬壽が、安定の演技で。梅枝改め時蔵、獅童とその息子たち、陽喜、夏幹も登場。
そして菊五郎、歌六、又五郎が揃う劇中で、萬壽と獅童、両方の家族が列座して口上披露となる。芝翫、萬太郎、錦之助も揃って賑やかな襲名披露劇となった。
35分の幕間。
最後は、獅童が主演する、新皿屋舗月雨暈、「魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)」。
この演目は、獅童が、菊五郎の御大に「今度、宗五郎やれよ」と直接言われて実現したのだそうである。
親父が若い頃に役者を廃業した為、徒手空拳で挑んだ、後ろ盾が無い歌舞伎界。しかし、その他大勢の役の時に十八世勘三郎にその才を認められ、「超歌舞伎」や新作、映画やTVでもその地位を確立し、獅童も今や音羽屋十八番の演目で主演するまでになった。素晴らしい話である。
酒を持ってくる丁稚役で初代中村陽喜、初代中村夏幹が初舞台。宗五郎の酔態という面では、やはり初役の獅童に菊五郎の軽妙な円熟味は無く、むしろ本当に目が座っているのではないかというリアリズムを感じたが、これもまたご愛敬。
女房おはまに七之助、召使おなぎに孝太郎、鳶吉五郎に松緑、小奴三吉に萬太郎、
父太兵衛に権十郎、菊茶屋女房おみつに魁春。脇に実力者が揃って、見ごたえある舞台になった。
六月中旬の日曜に、歌舞伎座「六月大歌舞伎」、夜の部観劇。
中村時蔵が名前を息子の梅枝に譲って、初代中村萬壽を襲名する披露狂言、現梅枝の息子が五代目中村梅枝を襲名しての初舞台、中村獅童の息子がそれぞれ初代中村陽喜、初代中村夏幹を名乗っての初舞台と、昔の三代目中村時蔵に連なる萬屋一門には盛り沢山な目出度い演目が続く。
最初は「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」。
原作は大作だが、この「円塚山の場」は、最初にちょっと芝居があるものの、花形が八犬士に扮して「だんまり」の芝居で顔を揃えるのが眼目という、30分の小品。歌昇、種之助、児太郎、染五郎、左近、橋之助、米吉、巳之助と賑やかに。
次の演目が、初代中村萬壽 襲名披露狂言として「山姥(やまんば)」。五代目中村梅枝 初舞台。劇中にて襲名口上申し上げ候とある。
当日、筋書を見るまで、「山姥」」というのは、てっきり奥州安達ケ原で旅人を泊めて、夜中に包丁研いで殺す鬼婆の話かと思っていたが、これは猿之助の「黒塚」で、こちらの「山姥」は、足柄山で金太郎を育てる婆さんの話なのであった。
とんだ勘違いをしていたが、この演目は、代々の時蔵が襲名披露に演じている狂言なのだそうである。時蔵改め萬壽は、隠居ではなくこれからも現役で舞台を頑張るという話。
時蔵で思い出すのは以前見た「毛谷村」。何の予備知識も無く見ていた所、花道から現れた虚無僧が追手と立ち回りとなるのだが、笠で顔を隠した男装のこの人物の動きを見ているうちに「あれ、これ女性じゃないの」と感じた。果たして笠を取ると、時蔵演じる女武道、お園が現れる。男装の立ち回りの動きだけで、この役が女性と分からせる女形の芸には感心したなあ。
「山姥」では、後の金太郎、怪童丸を梅枝の息子が五代目中村梅枝初舞台として勤める。そして怪童丸を慈しみ育てる山姥を時蔵改め萬壽が、安定の演技で。梅枝改め時蔵、獅童とその息子たち、陽喜、夏幹も登場。
そして菊五郎、歌六、又五郎が揃う劇中で、萬壽と獅童、両方の家族が列座して口上披露となる。芝翫、萬太郎、錦之助も揃って賑やかな襲名披露劇となった。
35分の幕間。
最後は、獅童が主演する、新皿屋舗月雨暈、「魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)」。
この演目は、獅童が、菊五郎の御大に「今度、宗五郎やれよ」と直接言われて実現したのだそうである。
親父が若い頃に役者を廃業した為、徒手空拳で挑んだ、後ろ盾が無い歌舞伎界。しかし、その他大勢の役の時に十八世勘三郎にその才を認められ、「超歌舞伎」や新作、映画やTVでもその地位を確立し、獅童も今や音羽屋十八番の演目で主演するまでになった。素晴らしい話である。
酒を持ってくる丁稚役で初代中村陽喜、初代中村夏幹が初舞台。宗五郎の酔態という面では、やはり初役の獅童に菊五郎の軽妙な円熟味は無く、むしろ本当に目が座っているのではないかというリアリズムを感じたが、これもまたご愛敬。
女房おはまに七之助、召使おなぎに孝太郎、鳶吉五郎に松緑、小奴三吉に萬太郎、
父太兵衛に権十郎、菊茶屋女房おみつに魁春。脇に実力者が揃って、見ごたえある舞台になった。
6月最初の日曜日に歌舞伎座、「六月大歌舞伎」昼の部。
最初の演目は、「上州土産百両首(じょうしゅうみやげひゃくりょうくび)」
O・ヘンリーの短編「二十年後」を題材に昭和8年に歌舞伎化。六世菊五郎と初世中村吉右衛門のコンビで初演されたというが、それからあまり歌舞伎では上演されていない。
O・ヘンリーの原作は有名で、kindle版で持っている名作選にも掲載されている。20年後にNYの同じ場所で会おうと約束して別れた2人が、一人は指名手配された大物の犯罪者、もう一人は警官になっていたという、皮肉な都会の匂いがする短編。
この演目は、原作にヒントは得ているものの、世話物としてほとんど別の味わいを持つ物語になっている。
獅童演じる正太郎はスリであったが、菊之助演じる身を持ち崩していた幼馴染の牙次郎と会った事で改心し、お互いに堅気になり10年後に再会しようと別れる。
別れの場が浅草の待乳山聖天。ここへ来るまでの近道という設定で獅童と菊之助が客席に降りて、楽屋落ちの冗談で観客を笑わせる。
牙次郎は、人は好いがドジで頭のとろい弟分。菊之助にしては割と珍しい役柄。兄貴分の正太郎は、弟分はあの調子では10年後にもうだつは上がっていないだろう、俺が店でも持たせてやろうと一所懸命に板前として働いて金を貯めている。獅童はこんな人情ある人物を演じると実に上手いな。
菊之助がドタバタとぎこちない仕草で花道を去る滑稽な動作は、まるで吉本新喜劇の「アホの坂田師匠」を彷彿とさせる。どこかで見て取り入れたのでは(笑)
錦之助は道理の分かった親分だが、隼人がどうしようもないクズの手下、三次というのも珍しい配役。改心して働く正太郎と祝言の約束を交わした料亭の娘が米吉。しかし運命のいたずらで正太郎は三次を斬り、心ならずもお尋ね者へと転落していく。正太郎と牙次郎の聖天での再会がクライマックス。岡っ引き親分の歌六が、二人の友情を見て人情あふれる采配を見せる。なかなか出来た小品である。
35分の幕間。
「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら) 所作事 時鳥花有里(ほととぎすはなあるさと)」
「義経千本桜」の「道行所作事」のバリエーションとして江戸時代に作られた舞踊劇を再構成。
又五郎が源義経。「義経千本桜」は基本的に義経はほとんど登場しないのだが、この所作事にはずっと舞台に居るのが珍しい。義経家臣の染五郎が凛々しくて恰好良いなあ。
孝太郎率いる白拍子連は、左近、児太郎、米吉と皆美しい。お面を次々に変えて踊る種之助は大活躍。彼らは龍田の竜神とその神女であった。桜が満開の絢爛たる舞台。
さて、最後の演目は、昼の目玉。六代目中村時蔵 襲名披露狂言、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん) 三笠山御殿」。
この演目は、今回萬壽になる前時蔵と、玉三郎で見た事があるが、どちらも漁師鱶七実は金輪五郎今国は今回と同じく松緑だった。
梅枝改め新時蔵が演じる杉酒屋娘お三輪は女形の大役。梅枝は今までも様々な大役に挑んでいるが、若手の女形でも時代物の経験は頭一つ抜けている印象。
豆腐買おむらは仁左衛門が買って出て、劇中にて時蔵襲名と、その息子の梅枝初舞台の襲名口上を軽妙に仕切って見せる。曽祖父に遡る親戚筋とのことであるが、歌六、又五郎、獅童、錦之助なども、近い親戚なんだよなあ。まあ歌舞伎界全体が親戚同士みたいなものだが。
七之助の入鹿妹橘姫は美しい。そういえば中村屋も親戚。萬壽の演じる求女も高貴な雰囲気を持って印象的だが、出番は前半のみ。萬壽の襲名披露は夜の部なのであった。
、運命の糸に導かれて御殿に飛び込んで来た田舎娘が新時蔵の杉酒屋娘お三輪。彼女をさんざん馬鹿にして愚弄する御殿の官女たちは立役がやる決まりなんだそうであるが、今回は襲名を祝って親戚筋の、歌六、又五郎、錦之助、獅童、歌昇、萬太郎、種之助、隼人がずらりと勢揃いして新時蔵に盛大に意地悪をする。大変な豪華版である。
恋人に会う願いは叶わず、さらには橘姫と求女の婚礼の気配が奥から聞こえ、嫉妬に狂い「凝着の相」を見せたお三輪を、漁師鱶七実は金輪五郎今国の松緑が派手に登場して斬る。しかし、その血は恋人の敵、蘇我入鹿を倒すのだとお三輪に教える。
自分の死は無駄ではなく愛する者を救うのだという安堵、しかし最後に一目会う事はかなわないという哀しい結末を、新時蔵はなかなか印象的に演じてみせた。前の段から出したほうが苧環などの意味がよく分かったとは思うけれども、短い時間でよく整った襲名披露演目。面白かった。
最初の演目は、「上州土産百両首(じょうしゅうみやげひゃくりょうくび)」
O・ヘンリーの短編「二十年後」を題材に昭和8年に歌舞伎化。六世菊五郎と初世中村吉右衛門のコンビで初演されたというが、それからあまり歌舞伎では上演されていない。
O・ヘンリーの原作は有名で、kindle版で持っている名作選にも掲載されている。20年後にNYの同じ場所で会おうと約束して別れた2人が、一人は指名手配された大物の犯罪者、もう一人は警官になっていたという、皮肉な都会の匂いがする短編。
この演目は、原作にヒントは得ているものの、世話物としてほとんど別の味わいを持つ物語になっている。
獅童演じる正太郎はスリであったが、菊之助演じる身を持ち崩していた幼馴染の牙次郎と会った事で改心し、お互いに堅気になり10年後に再会しようと別れる。
別れの場が浅草の待乳山聖天。ここへ来るまでの近道という設定で獅童と菊之助が客席に降りて、楽屋落ちの冗談で観客を笑わせる。
牙次郎は、人は好いがドジで頭のとろい弟分。菊之助にしては割と珍しい役柄。兄貴分の正太郎は、弟分はあの調子では10年後にもうだつは上がっていないだろう、俺が店でも持たせてやろうと一所懸命に板前として働いて金を貯めている。獅童はこんな人情ある人物を演じると実に上手いな。
菊之助がドタバタとぎこちない仕草で花道を去る滑稽な動作は、まるで吉本新喜劇の「アホの坂田師匠」を彷彿とさせる。どこかで見て取り入れたのでは(笑)
錦之助は道理の分かった親分だが、隼人がどうしようもないクズの手下、三次というのも珍しい配役。改心して働く正太郎と祝言の約束を交わした料亭の娘が米吉。しかし運命のいたずらで正太郎は三次を斬り、心ならずもお尋ね者へと転落していく。正太郎と牙次郎の聖天での再会がクライマックス。岡っ引き親分の歌六が、二人の友情を見て人情あふれる采配を見せる。なかなか出来た小品である。
35分の幕間。
「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら) 所作事 時鳥花有里(ほととぎすはなあるさと)」
「義経千本桜」の「道行所作事」のバリエーションとして江戸時代に作られた舞踊劇を再構成。
又五郎が源義経。「義経千本桜」は基本的に義経はほとんど登場しないのだが、この所作事にはずっと舞台に居るのが珍しい。義経家臣の染五郎が凛々しくて恰好良いなあ。
孝太郎率いる白拍子連は、左近、児太郎、米吉と皆美しい。お面を次々に変えて踊る種之助は大活躍。彼らは龍田の竜神とその神女であった。桜が満開の絢爛たる舞台。
さて、最後の演目は、昼の目玉。六代目中村時蔵 襲名披露狂言、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん) 三笠山御殿」。
この演目は、今回萬壽になる前時蔵と、玉三郎で見た事があるが、どちらも漁師鱶七実は金輪五郎今国は今回と同じく松緑だった。
梅枝改め新時蔵が演じる杉酒屋娘お三輪は女形の大役。梅枝は今までも様々な大役に挑んでいるが、若手の女形でも時代物の経験は頭一つ抜けている印象。
豆腐買おむらは仁左衛門が買って出て、劇中にて時蔵襲名と、その息子の梅枝初舞台の襲名口上を軽妙に仕切って見せる。曽祖父に遡る親戚筋とのことであるが、歌六、又五郎、獅童、錦之助なども、近い親戚なんだよなあ。まあ歌舞伎界全体が親戚同士みたいなものだが。
七之助の入鹿妹橘姫は美しい。そういえば中村屋も親戚。萬壽の演じる求女も高貴な雰囲気を持って印象的だが、出番は前半のみ。萬壽の襲名披露は夜の部なのであった。
、運命の糸に導かれて御殿に飛び込んで来た田舎娘が新時蔵の杉酒屋娘お三輪。彼女をさんざん馬鹿にして愚弄する御殿の官女たちは立役がやる決まりなんだそうであるが、今回は襲名を祝って親戚筋の、歌六、又五郎、錦之助、獅童、歌昇、萬太郎、種之助、隼人がずらりと勢揃いして新時蔵に盛大に意地悪をする。大変な豪華版である。
恋人に会う願いは叶わず、さらには橘姫と求女の婚礼の気配が奥から聞こえ、嫉妬に狂い「凝着の相」を見せたお三輪を、漁師鱶七実は金輪五郎今国の松緑が派手に登場して斬る。しかし、その血は恋人の敵、蘇我入鹿を倒すのだとお三輪に教える。
自分の死は無駄ではなく愛する者を救うのだという安堵、しかし最後に一目会う事はかなわないという哀しい結末を、新時蔵はなかなか印象的に演じてみせた。前の段から出したほうが苧環などの意味がよく分かったとは思うけれども、短い時間でよく整った襲名披露演目。面白かった。
GW最後の日、祝日の月曜は、歌舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」昼の部。
最初の演目は舞踊劇。「鴛鴦襖恋睦(おしのふすまこいのむつごと)」。通称「おしどり」。
前半部分は、尾上右近演じる遊女喜瀬川を巡る恋の鞘当てから、松也の河津三郎と萬太郎の太郎の股野五郎が相撲を取るという趣向。河津がけで松也が勝利。そういえばもう次の日曜は大相撲夏場所の初日だ。
後半は股野に殺されたおしどりの精霊がお互いを探して夫婦での舞となる。引き抜きで衣装が変わってからは鳥の羽ばたきのような動作が美しい。初演は江戸時代に遡る古い演目。過去ログを見ると2014年の歌舞伎座でこの演目は見ているのだが、記憶に無いねえ(笑)
ここで35分の幕間。花篭で「ローストビーフ重」
次の演目は、四世市川左團次一年祭追善狂言、「歌舞伎十八番の内 毛抜(けぬき)」。
左團次の当たり役だった粂寺弾正を、追善で息子の男女蔵が演じる。男女蔵は平成16年の「新春浅草歌舞伎」で初演しており、この際は父親に教わったという。
二代目の左團次が当時上演が途絶えていた市川宗家歌舞伎十八番を復活させ、歴代の左團次の当たり役となった演目。
四代目左團次「いい加減、人生録」(2014年電子書籍版)によると、男女蔵の屋号は「滝野屋」。今でも親父と息子の屋号が違う。これは、三代目は二代目の養子であった為という。
四代目も、三代目をひいきにしていた関西の後援者と祇園の芸妓の間に生まれた養子(戸籍上は実子)。当の四代目も、当代の男女蔵が生まれてすぐに離婚しているので、肉親の縁は薄い家系。
四代目の親父さんは恬淡とした性格で、照れもあってか、あまり歌舞伎界での息子を押し出す後ろ盾にはなってくれなかったようだが、男女蔵も既に56歳。
これから親父さんの跡を追って活躍しなくては。柄の大きい敵役、老人、重みのある脇役として、髭の意休、「実盛物語」瀬尾、「身代座禅」奥方玉の井、「弁天娘」南郷力丸あるいは日本駄衛門、「熊谷陣屋」弥陀六などなど、左團次の当たり役は多いが、今や坂東彌十郎くらいしか競合相手は居ないのだから頑張ってもらいたい。
今回の粂寺弾正も輪郭をおろそかにしない確かな描写でおかしみもあり、なかなか立派に務まっていた。息子の男寅は髪の毛が逆立つ奇病に悩む姫役、錦の前。これからも女形で行くのであろうか。
菊五郎劇団を支えた左團次の追善だけあって大勢の役者が顔を揃える。
幕開きから、梅枝の秦秀太郎と松也の八剣数馬が剣を交える。
粂寺弾正の接待に出る腰元巻絹が時蔵。鴈治郎が小野春風、松緑が妹の腰元が死んだと訴え出る悪党の小原万兵衛を印象的に演じる。又五郎は後ろで全ての糸を引くこれまた悪漢の八剣玄蕃。大詰では菊五郎御大が小野春道で出て大団円となる。
市川宗家の團十郎が後見につき、幕外の引っ込みにも顔を出すというサービス。二代目左團次が復活させた歌舞伎十八番。團菊祭に相応しい追善演目であった。
幕間の後は最後の演目。
河竹黙阿弥作「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)」 「公平法問諍」。
実際に町奴の大侠客が武士の館で殺されたという史実に基づく作品。
舞台は、劇中劇から始まる。江戸古式の荒事が演じられている最中に、もめ事が起き、客席から仲裁に出てきた態で幡随長兵衛が登場するくだりは観客を自然に劇中に引き込んで良くできている。
團十郎は白目がちの眼光が鋭く、どこか暗い迫力がある長兵衛。吉右衛門の長兵衛は、女房と子供を気遣う人情ある長兵衛で、死ぬと分かっていても男伊達の面目を通さなければいけない男。彼が背負った悲しい運命と決断の重さがひしひしと感じられたよなあ。今回の團十郎は、比較的スッキリと格好良くトントン話が進む印象。
長兵衛を自宅湯殿で殺す事になる水野十郎左衛門役も興味深い役。決して単なる悪党ではなく、道理もわきまえ、胆力も鷹揚さもある立派な武士。しかし、その武士としての体面を維持するためには、どうしても町奴の頭を許す訳にはいかないという状況に陥ってしまうのである。
今回演じるのは菊之助。怜悧で道理もわきまえる武士が、論理の帰結として町奴を殺さなくてはならない。そんな状況を彷彿とさせる出来。これはこれで納得感あり。
菊之助の親父である当代の菊五郎が演じた際は、役に不気味な大きさがあり、湯殿で長兵衛に止めを刺す前「殺すには惜しい」の台詞に、長兵衛の人間性を認め、男を知る男の実感があって、主役を食う貫禄があった。松緑が演じた水野には、走り出すと止めようがない、心の奥に秘めた破滅型の狂気が感じられたっけ。役者によって色々とあるものだなあ。
花川戸長兵衛内の子分には、歌昇、尾上右近、廣松、男寅、鷹之資、莟玉など若手が大勢。家族の無い自分が代わりに死ぬと申し出る右團次の唐犬権兵衛は真に迫ってなかなかよかった。
児太郎の女房お時は、割と物分かり良い感じであったが、やはり團十郎の長兵衛に合わせるとそうなるのか。しかし、團十郎と菊之助ががっぷり組んだ、團菊祭らしい演目であった。
最初の演目は舞踊劇。「鴛鴦襖恋睦(おしのふすまこいのむつごと)」。通称「おしどり」。
前半部分は、尾上右近演じる遊女喜瀬川を巡る恋の鞘当てから、松也の河津三郎と萬太郎の太郎の股野五郎が相撲を取るという趣向。河津がけで松也が勝利。そういえばもう次の日曜は大相撲夏場所の初日だ。
後半は股野に殺されたおしどりの精霊がお互いを探して夫婦での舞となる。引き抜きで衣装が変わってからは鳥の羽ばたきのような動作が美しい。初演は江戸時代に遡る古い演目。過去ログを見ると2014年の歌舞伎座でこの演目は見ているのだが、記憶に無いねえ(笑)
ここで35分の幕間。花篭で「ローストビーフ重」
次の演目は、四世市川左團次一年祭追善狂言、「歌舞伎十八番の内 毛抜(けぬき)」。
左團次の当たり役だった粂寺弾正を、追善で息子の男女蔵が演じる。男女蔵は平成16年の「新春浅草歌舞伎」で初演しており、この際は父親に教わったという。
二代目の左團次が当時上演が途絶えていた市川宗家歌舞伎十八番を復活させ、歴代の左團次の当たり役となった演目。
四代目左團次「いい加減、人生録」(2014年電子書籍版)によると、男女蔵の屋号は「滝野屋」。今でも親父と息子の屋号が違う。これは、三代目は二代目の養子であった為という。
四代目も、三代目をひいきにしていた関西の後援者と祇園の芸妓の間に生まれた養子(戸籍上は実子)。当の四代目も、当代の男女蔵が生まれてすぐに離婚しているので、肉親の縁は薄い家系。
四代目の親父さんは恬淡とした性格で、照れもあってか、あまり歌舞伎界での息子を押し出す後ろ盾にはなってくれなかったようだが、男女蔵も既に56歳。
これから親父さんの跡を追って活躍しなくては。柄の大きい敵役、老人、重みのある脇役として、髭の意休、「実盛物語」瀬尾、「身代座禅」奥方玉の井、「弁天娘」南郷力丸あるいは日本駄衛門、「熊谷陣屋」弥陀六などなど、左團次の当たり役は多いが、今や坂東彌十郎くらいしか競合相手は居ないのだから頑張ってもらいたい。
今回の粂寺弾正も輪郭をおろそかにしない確かな描写でおかしみもあり、なかなか立派に務まっていた。息子の男寅は髪の毛が逆立つ奇病に悩む姫役、錦の前。これからも女形で行くのであろうか。
菊五郎劇団を支えた左團次の追善だけあって大勢の役者が顔を揃える。
幕開きから、梅枝の秦秀太郎と松也の八剣数馬が剣を交える。
粂寺弾正の接待に出る腰元巻絹が時蔵。鴈治郎が小野春風、松緑が妹の腰元が死んだと訴え出る悪党の小原万兵衛を印象的に演じる。又五郎は後ろで全ての糸を引くこれまた悪漢の八剣玄蕃。大詰では菊五郎御大が小野春道で出て大団円となる。
市川宗家の團十郎が後見につき、幕外の引っ込みにも顔を出すというサービス。二代目左團次が復活させた歌舞伎十八番。團菊祭に相応しい追善演目であった。
幕間の後は最後の演目。
河竹黙阿弥作「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)」 「公平法問諍」。
実際に町奴の大侠客が武士の館で殺されたという史実に基づく作品。
舞台は、劇中劇から始まる。江戸古式の荒事が演じられている最中に、もめ事が起き、客席から仲裁に出てきた態で幡随長兵衛が登場するくだりは観客を自然に劇中に引き込んで良くできている。
團十郎は白目がちの眼光が鋭く、どこか暗い迫力がある長兵衛。吉右衛門の長兵衛は、女房と子供を気遣う人情ある長兵衛で、死ぬと分かっていても男伊達の面目を通さなければいけない男。彼が背負った悲しい運命と決断の重さがひしひしと感じられたよなあ。今回の團十郎は、比較的スッキリと格好良くトントン話が進む印象。
長兵衛を自宅湯殿で殺す事になる水野十郎左衛門役も興味深い役。決して単なる悪党ではなく、道理もわきまえ、胆力も鷹揚さもある立派な武士。しかし、その武士としての体面を維持するためには、どうしても町奴の頭を許す訳にはいかないという状況に陥ってしまうのである。
今回演じるのは菊之助。怜悧で道理もわきまえる武士が、論理の帰結として町奴を殺さなくてはならない。そんな状況を彷彿とさせる出来。これはこれで納得感あり。
菊之助の親父である当代の菊五郎が演じた際は、役に不気味な大きさがあり、湯殿で長兵衛に止めを刺す前「殺すには惜しい」の台詞に、長兵衛の人間性を認め、男を知る男の実感があって、主役を食う貫禄があった。松緑が演じた水野には、走り出すと止めようがない、心の奥に秘めた破滅型の狂気が感じられたっけ。役者によって色々とあるものだなあ。
花川戸長兵衛内の子分には、歌昇、尾上右近、廣松、男寅、鷹之資、莟玉など若手が大勢。家族の無い自分が代わりに死ぬと申し出る右團次の唐犬権兵衛は真に迫ってなかなかよかった。
児太郎の女房お時は、割と物分かり良い感じであったが、やはり團十郎の長兵衛に合わせるとそうなるのか。しかし、團十郎と菊之助ががっぷり組んだ、團菊祭らしい演目であった。
GW終盤の週末。歌舞伎座の「團菊祭五月大歌舞伎」を見た。まず土曜日に夜の部。
歌舞伎座に到着すると横では神輿が。
最初の演目は「伽羅先代萩(めいぼくせんだのえんいはぎ)」。「御殿」と「床下」。仙台藩でのお家騒動を題材にした作品。
女形屈指の大役、乳人政岡を菊之助が演じる。2017年の團菊祭では、菊之助が9年ぶり2度目の政岡だったが、この際は有名な「飯(まま)炊き」の場面はカットされていた。昔、政岡を当たり役とした六世歌右衛門は、自らの茶道の心得をこの場面の所作に生かし、歌舞伎界に権勢を振るった晩年は、他の女形にこの場面をやらせないよう意地悪したと言うが、2017年には没後何年も経っているのだから、カットされたのは単に時間の都合だったのだろう。
今回はこの「飯炊き」シーンがあるのだが、子供たちとのやり取りを入れて30分以上かかる。そんなに動きがある訳でもなし、私もお茶のお点前に興味がある訳ではないので、退屈と言えば退屈なんだなあ。
2015年には、玉三郎の政岡、吉右衛門の仁木弾正の「伽羅先代萩」も見た。玉三郎政岡も良かったが、面明かりの中、雲間を行くが如き足取りで花道を去って行く吉右衛門は今でも忘れられない。
今回の菊之助政岡は、怜悧で男勝り。一子千松が八汐に惨殺される際も鶴千代君を守って平然と見守る凄まじい克己と忠義心を見せながら、しかし、人が去った後に千松をかき抱いて秘めていた内なる慟哭が溢れ出る。実に印象的であった。一子千松を菊之助実子の丑之助、鶴千代は歌昇の息子、種太郎で、両子役ともしっかりと演じている。
栄御前は雀右衛門だがあまり悪人に見えない所が持ち味といえば持ち味。八汐は歌六。立役がやる事に決まっている凄まじい悪役の女役。しかし安定感あり手慣れたものである。
「床下」では、短い出ながら、右團次の荒獅子男之助は荒事の大きさを見せてなかなか立派。團十郎の仁木弾正は、前にも見たが、すっぽんから煙と共に出現。観客が息を呑む怪異な圧力を持って屹立する。動き出すまで随分長い間立っており、花道の引っ込みもゆったりと時間をかけて。終了時間が5分押したのは弾正の出番が長くかかったからかな。
35分の幕間は、花篭で「花かご御膳」。夕食を取る際に、外がまだ明るい季節になってきた。
次の演目は、河竹黙阿弥作、「四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは)」。江戸城内の金蔵から四千両を盗んだ盗賊がいた実話を題材にした、いわゆる「白波物」。江戸時代の「三億円事件」だ。
事前に「歌舞伎美人」のあらすじを見ているとなんとなく記憶がある。過去blogを見ると2017年に菊五郎の野州無宿富蔵、梅玉の藤岡藤十郎のコンビで見ていたのであった。今回は富蔵を菊五郎に教わって松緑が演じる。梅玉が前回と同じく藤十郎。
一種のピカレスク・ロマンであるが、剛毅な盗賊である野州無宿富蔵を巡る人間模様があれこれ描かれて、これも面白い。
江戸時代の牢屋の内部については、河竹黙阿弥がいろいろと取材して内容を書き込んだらしい。畳を何枚も重ねた上にふんぞり返る牢名主はTVの時代劇などでもお馴染み。
牢内でも名主以下様々なヒエラルキーがある。そして投獄される時に持参した金(ツル)の多寡や罪状によって牢屋内の扱いが変わったり、死罪で牢から出される前日には牢名主が着物や帯を与える人情もある。牢名主に虐待される罪人を松江が滑稽に演じて客席が沸く。
全般的に気楽な世話物。ノンフィクションで「江戸監獄24時」を見ているかのように面白かった。
歌舞伎座に到着すると横では神輿が。
最初の演目は「伽羅先代萩(めいぼくせんだのえんいはぎ)」。「御殿」と「床下」。仙台藩でのお家騒動を題材にした作品。
女形屈指の大役、乳人政岡を菊之助が演じる。2017年の團菊祭では、菊之助が9年ぶり2度目の政岡だったが、この際は有名な「飯(まま)炊き」の場面はカットされていた。昔、政岡を当たり役とした六世歌右衛門は、自らの茶道の心得をこの場面の所作に生かし、歌舞伎界に権勢を振るった晩年は、他の女形にこの場面をやらせないよう意地悪したと言うが、2017年には没後何年も経っているのだから、カットされたのは単に時間の都合だったのだろう。
今回はこの「飯炊き」シーンがあるのだが、子供たちとのやり取りを入れて30分以上かかる。そんなに動きがある訳でもなし、私もお茶のお点前に興味がある訳ではないので、退屈と言えば退屈なんだなあ。
2015年には、玉三郎の政岡、吉右衛門の仁木弾正の「伽羅先代萩」も見た。玉三郎政岡も良かったが、面明かりの中、雲間を行くが如き足取りで花道を去って行く吉右衛門は今でも忘れられない。
今回の菊之助政岡は、怜悧で男勝り。一子千松が八汐に惨殺される際も鶴千代君を守って平然と見守る凄まじい克己と忠義心を見せながら、しかし、人が去った後に千松をかき抱いて秘めていた内なる慟哭が溢れ出る。実に印象的であった。一子千松を菊之助実子の丑之助、鶴千代は歌昇の息子、種太郎で、両子役ともしっかりと演じている。
栄御前は雀右衛門だがあまり悪人に見えない所が持ち味といえば持ち味。八汐は歌六。立役がやる事に決まっている凄まじい悪役の女役。しかし安定感あり手慣れたものである。
「床下」では、短い出ながら、右團次の荒獅子男之助は荒事の大きさを見せてなかなか立派。團十郎の仁木弾正は、前にも見たが、すっぽんから煙と共に出現。観客が息を呑む怪異な圧力を持って屹立する。動き出すまで随分長い間立っており、花道の引っ込みもゆったりと時間をかけて。終了時間が5分押したのは弾正の出番が長くかかったからかな。
35分の幕間は、花篭で「花かご御膳」。夕食を取る際に、外がまだ明るい季節になってきた。
次の演目は、河竹黙阿弥作、「四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは)」。江戸城内の金蔵から四千両を盗んだ盗賊がいた実話を題材にした、いわゆる「白波物」。江戸時代の「三億円事件」だ。
事前に「歌舞伎美人」のあらすじを見ているとなんとなく記憶がある。過去blogを見ると2017年に菊五郎の野州無宿富蔵、梅玉の藤岡藤十郎のコンビで見ていたのであった。今回は富蔵を菊五郎に教わって松緑が演じる。梅玉が前回と同じく藤十郎。
一種のピカレスク・ロマンであるが、剛毅な盗賊である野州無宿富蔵を巡る人間模様があれこれ描かれて、これも面白い。
江戸時代の牢屋の内部については、河竹黙阿弥がいろいろと取材して内容を書き込んだらしい。畳を何枚も重ねた上にふんぞり返る牢名主はTVの時代劇などでもお馴染み。
牢内でも名主以下様々なヒエラルキーがある。そして投獄される時に持参した金(ツル)の多寡や罪状によって牢屋内の扱いが変わったり、死罪で牢から出される前日には牢名主が着物や帯を与える人情もある。牢名主に虐待される罪人を松江が滑稽に演じて客席が沸く。
全般的に気楽な世話物。ノンフィクションで「江戸監獄24時」を見ているかのように面白かった。
昼の部に続いて、歌舞伎座「四月大歌舞伎」夜の部。
最初は、四世鶴屋南北作、「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)」。
大阪の質屋「油屋」のお嬢さん、お染めと丁稚の久松が心中した事件は大きな話題になり、様々な物語が作られたのだが、この物語もその一本。
玉三郎と孝夫のコンビがスタートした最初の作品で、評判が良く再演を重ねたが、近年では、玉三郎が演じる悪婆のお六と、仁左衛門演じるその亭主の鬼門の喜兵衛が出ている場だけを抜き出して上演。小悪党として金を稼ごうとして失敗するという滑稽な小品として、仁左玉が息の合った所を見せる。
安っぽい算段で強請に来て、簡単にバレて、しょうがねえなと諦めて、二人であらよっと籠を担いで帰って行く。人が死んだ、生き返ったという薄気味悪い南北風味もあるのだが、人気者がやると気楽な世話物として明るく成立するのがよい。錦之助の山家屋清兵衛は、きちんと場を締めている。時間も1時間と短いのがよいね。
次は、仁左玉の短い舞踊、「神田祭(かんだまつり)」。別の組み合わせで演じられる事もあるが、ほとんど二人の専売特許のようなもの。
粋で鯔背な鳶頭と艶やかな芸者のクドキ。頬を寄せてまるで口づけせんばかりの二人の美しい図に観客が陶酔する。しかし演じる役者の年齢を考えれば、歌舞伎の芸の魔法というものは凄いなあ。仁左玉コンビは、背丈もちょうどよい具合に揃っているのも舞台に映える要素なのだろう。感心して見ているうちに、あっと言う間の20分。
「於染久松色読販」が1時間。その後、35分の幕間。花篭で夕食。そして「神田祭」が20分。この後、1時間弱の舞踊劇「四季」があるのだが、朝から観劇で疲れたしお酒も飲んだ。明日は仕事。最後の幕はスキップすることにして歌舞伎座を後にした。
最初は、四世鶴屋南北作、「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)」。
大阪の質屋「油屋」のお嬢さん、お染めと丁稚の久松が心中した事件は大きな話題になり、様々な物語が作られたのだが、この物語もその一本。
玉三郎と孝夫のコンビがスタートした最初の作品で、評判が良く再演を重ねたが、近年では、玉三郎が演じる悪婆のお六と、仁左衛門演じるその亭主の鬼門の喜兵衛が出ている場だけを抜き出して上演。小悪党として金を稼ごうとして失敗するという滑稽な小品として、仁左玉が息の合った所を見せる。
安っぽい算段で強請に来て、簡単にバレて、しょうがねえなと諦めて、二人であらよっと籠を担いで帰って行く。人が死んだ、生き返ったという薄気味悪い南北風味もあるのだが、人気者がやると気楽な世話物として明るく成立するのがよい。錦之助の山家屋清兵衛は、きちんと場を締めている。時間も1時間と短いのがよいね。
次は、仁左玉の短い舞踊、「神田祭(かんだまつり)」。別の組み合わせで演じられる事もあるが、ほとんど二人の専売特許のようなもの。
粋で鯔背な鳶頭と艶やかな芸者のクドキ。頬を寄せてまるで口づけせんばかりの二人の美しい図に観客が陶酔する。しかし演じる役者の年齢を考えれば、歌舞伎の芸の魔法というものは凄いなあ。仁左玉コンビは、背丈もちょうどよい具合に揃っているのも舞台に映える要素なのだろう。感心して見ているうちに、あっと言う間の20分。
「於染久松色読販」が1時間。その後、35分の幕間。花篭で夕食。そして「神田祭」が20分。この後、1時間弱の舞踊劇「四季」があるのだが、朝から観劇で疲れたしお酒も飲んだ。明日は仕事。最後の幕はスキップすることにして歌舞伎座を後にした。
先週の日曜は、歌舞伎座の「四月大歌舞伎」。昼夜通しで。
実は今まで、疲れるので二部制の昼と夜とを同じ日に観劇した事は無いのだが、今月はチケットを取る時に曜日を間違えて同日に取ってしまったのであった。チケット松竹は一度とると変更が利かない。仕方ないなあ。
昼の部最初は、「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき) 引窓」。
以前の歌舞伎座、吉右衛門の濡髪で見た時は大変に感銘を受けた。今回の濡髪長五郎を演じる松緑は吉右衛門の厳しい指導を以前受けたのだという。
義理立てから止む無く人をあやめ、お尋ね者となった力士濡髪。彼は今生の別れに再婚している実母を訪れる。その母が再婚した相手の義理の息子、南方十次兵衛は濡髪を追う村の役人。侍に取り立てられたばかりの彼は、濡髪に気づくが、逃がそうと懸命な義母の態度から、彼が母の実子と気付き、自分の手柄を捨てて濡髪を見逃してやろうとする。しかしそれを悟って縄につこうとする濡髪。
母親を中心とした義理の息子と実の息子を巡る人間ドラマ。誰もが他者を思いやるよい話。
南方十次兵衛の梅玉は、最初は淡々としているが、東蔵の母親が実子を逃がそうとする葛藤に気づいた後の思いやり深い人物像が実に印象深く立ち上がる。
板挟みの葛藤を演じる母親、東蔵も実にしみじみと良い。縄につこうとする濡髪を、引き窓を開けて月光を入れ、もう夜が明けて自分のお役目は終わった。今日は放生会だと濡髪を逃がす場面の南方十次兵衛に、梅玉の真骨頂を見た。松緑も葛藤を内に秘めた演技は分厚く見応えがある。扇雀の女房お早も気働きの利いた同情深い女として印象深い。良い話であった。
次の幕は若手の舞踊劇、「七福神(しちふくじん)」。
歌昇の恵比寿は素顔が分からないほど滑稽に顔を作り大仰な踊りで奮闘。弁財天の新悟は隼人と同じ位背が高いのだなあと感心。歌昇と頭一つ分大きいね。他は鷹之資、虎之介、尾上右近、萬太郎。それぞれ七福神の扮装で踊るのだが、尾上右近はヒゲ以外はほぼ素顔で、いかにもつまらなそうにやっていた印象。役者にもあまりやり甲斐のない演目なのでは。いや、知らんけど(笑) 宝船が登場する舞台は明るく福々しくも目出度い。
昼の部最後は、「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」
よくかかる演目でもあり、吉右衛門の団七でも海老蔵の団七でも見たことがある。今回は愛之助。徳兵衛女房お辰で女形と二役という趣向。大阪の風情や人情が色濃く出た上方芝居であるが、元々関西出身の愛之助は地の関西弁で喋るので違和感なく芝居に溶け込む。
釣船三婦は歌六。関西風というのでもないが、何度も務めて慣れている。気風の良い年寄り。昔はさんざん暴れた器の大きい親方を安定感を持って演じて、物語に奥行きを与えている。
菊之助の一寸徳兵衛は愛之助とのコンビ2回目。ただちょっと印象は薄いか。
大詰「長町裏の場」で、団七と絡んで刃傷沙汰の場面を演じる、団七の因業な義父、三河屋義平次は、この役を当たり役として何度も務めている橘三郎。本当に欲の皮が突っ張って意地の悪い因業な爺様で、団七も腹が立つだろうなあ、と思わせる所が芸の力。髪結新三の大家同様、やりがいのある役なのだろう。
揉めているうちに弾みで刀が当たって傷がつき、それを「人殺し~」と大げさに騒ぎ立てるので、手を焼いた団七が「これは本当に殺すしかないか」と思い詰めていく心理も、前半からの爺様の嫌な野郎ぶりが効いている。
川を使った刃傷沙汰の部分は「泥場」と言うそうであるが、何度も斬られそうになっては抵抗し、傷を負って川に落ち、終わりかと思ったら、またまるでゾンビのようになって爺様が川から上がってくる。歌舞伎の様式美に満ちた「殺し」の場面。ただ何度も愛之助が見得を切り、「松嶋屋~!」と大向うがかかるので、こちらも拍手する訳なのだが、これがあまりにも何度も続くので、ちょっとうんざりしてくる。様式化されているものの、陰惨な刃傷沙汰だからなあ。このコッテリくどい感じは関西風味なのであろうか。
しかし背景で動く祭りの大提灯は大阪の夏の風情で美しい。そして神輿を担ぐ喧騒に紛れて風のように去る団七。殺しの場面は長いが、最後は美しく終了となる。
夜の部を待つ間、近隣の公園でお花見。セブンイレブンで買ったハイボールを飲みつつ。日本では外飲みは大丈夫だっけ(笑)
実は今まで、疲れるので二部制の昼と夜とを同じ日に観劇した事は無いのだが、今月はチケットを取る時に曜日を間違えて同日に取ってしまったのであった。チケット松竹は一度とると変更が利かない。仕方ないなあ。
昼の部最初は、「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき) 引窓」。
以前の歌舞伎座、吉右衛門の濡髪で見た時は大変に感銘を受けた。今回の濡髪長五郎を演じる松緑は吉右衛門の厳しい指導を以前受けたのだという。
義理立てから止む無く人をあやめ、お尋ね者となった力士濡髪。彼は今生の別れに再婚している実母を訪れる。その母が再婚した相手の義理の息子、南方十次兵衛は濡髪を追う村の役人。侍に取り立てられたばかりの彼は、濡髪に気づくが、逃がそうと懸命な義母の態度から、彼が母の実子と気付き、自分の手柄を捨てて濡髪を見逃してやろうとする。しかしそれを悟って縄につこうとする濡髪。
母親を中心とした義理の息子と実の息子を巡る人間ドラマ。誰もが他者を思いやるよい話。
南方十次兵衛の梅玉は、最初は淡々としているが、東蔵の母親が実子を逃がそうとする葛藤に気づいた後の思いやり深い人物像が実に印象深く立ち上がる。
板挟みの葛藤を演じる母親、東蔵も実にしみじみと良い。縄につこうとする濡髪を、引き窓を開けて月光を入れ、もう夜が明けて自分のお役目は終わった。今日は放生会だと濡髪を逃がす場面の南方十次兵衛に、梅玉の真骨頂を見た。松緑も葛藤を内に秘めた演技は分厚く見応えがある。扇雀の女房お早も気働きの利いた同情深い女として印象深い。良い話であった。
次の幕は若手の舞踊劇、「七福神(しちふくじん)」。
歌昇の恵比寿は素顔が分からないほど滑稽に顔を作り大仰な踊りで奮闘。弁財天の新悟は隼人と同じ位背が高いのだなあと感心。歌昇と頭一つ分大きいね。他は鷹之資、虎之介、尾上右近、萬太郎。それぞれ七福神の扮装で踊るのだが、尾上右近はヒゲ以外はほぼ素顔で、いかにもつまらなそうにやっていた印象。役者にもあまりやり甲斐のない演目なのでは。いや、知らんけど(笑) 宝船が登場する舞台は明るく福々しくも目出度い。
昼の部最後は、「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」
よくかかる演目でもあり、吉右衛門の団七でも海老蔵の団七でも見たことがある。今回は愛之助。徳兵衛女房お辰で女形と二役という趣向。大阪の風情や人情が色濃く出た上方芝居であるが、元々関西出身の愛之助は地の関西弁で喋るので違和感なく芝居に溶け込む。
釣船三婦は歌六。関西風というのでもないが、何度も務めて慣れている。気風の良い年寄り。昔はさんざん暴れた器の大きい親方を安定感を持って演じて、物語に奥行きを与えている。
菊之助の一寸徳兵衛は愛之助とのコンビ2回目。ただちょっと印象は薄いか。
大詰「長町裏の場」で、団七と絡んで刃傷沙汰の場面を演じる、団七の因業な義父、三河屋義平次は、この役を当たり役として何度も務めている橘三郎。本当に欲の皮が突っ張って意地の悪い因業な爺様で、団七も腹が立つだろうなあ、と思わせる所が芸の力。髪結新三の大家同様、やりがいのある役なのだろう。
揉めているうちに弾みで刀が当たって傷がつき、それを「人殺し~」と大げさに騒ぎ立てるので、手を焼いた団七が「これは本当に殺すしかないか」と思い詰めていく心理も、前半からの爺様の嫌な野郎ぶりが効いている。
川を使った刃傷沙汰の部分は「泥場」と言うそうであるが、何度も斬られそうになっては抵抗し、傷を負って川に落ち、終わりかと思ったら、またまるでゾンビのようになって爺様が川から上がってくる。歌舞伎の様式美に満ちた「殺し」の場面。ただ何度も愛之助が見得を切り、「松嶋屋~!」と大向うがかかるので、こちらも拍手する訳なのだが、これがあまりにも何度も続くので、ちょっとうんざりしてくる。様式化されているものの、陰惨な刃傷沙汰だからなあ。このコッテリくどい感じは関西風味なのであろうか。
しかし背景で動く祭りの大提灯は大阪の夏の風情で美しい。そして神輿を担ぐ喧騒に紛れて風のように去る団七。殺しの場面は長いが、最後は美しく終了となる。
夜の部を待つ間、近隣の公園でお花見。セブンイレブンで買ったハイボールを飲みつつ。日本では外飲みは大丈夫だっけ(笑)
歌舞伎座三月大歌舞伎 「夜の部」を見たのは次の週。開場直前に何時も以上に人がごった返している気がする。団体のお客さんか。
最初は、通し狂言 「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」。
伊勢参りで賑わう伊勢の遊郭、油屋で何人もの遊女を斬った実際の刃傷沙汰を歌舞伎に取り入れた作品。本作は、刃傷沙汰を骨格に、伊勢参りを司るコーディネータである「御師」を主人公に据え、伝家の妖刀、その折り紙、密書などの、ヒッチコック映画でいう所謂「マクガフィン」を入れ込んで大作に仕上げている。
歌舞伎座での通し上映は60何年かぶりというが、「追駈け」からは見た記憶がある。
主役の御師、福岡貢を幸四郎。何でも器用にそつなくこなす役者であるが、やはりこういった役が本役というべきだろうか。
今田万次郎が菊之助。愛之助の料理人喜助
前半の、「相の山」、「宿屋」、「追駈け」、「地蔵前」、「二見ヶ浦」などでは、それぞれの段でコミカルな場面も多く、出る役者にとっては、しどころもある芝居なのだろうが、どうもいまいち見ごたえがなかった。配役にも座組の限界があるかな。
「追駈け」では役者が舞台を降りて客席を巡る。すぐ近くまで歌昇が来て面白かった。かなり小柄なんだねえ。ただ、まあこんな役をやらなくてもとは感じたけれども。
よく上演される後半、「油屋」「奥庭」 の段では、伊勢遊郭の豪華な風情や伊勢音頭の総踊り、妖刀青江下坂に魅入られた貢の凄惨な刃傷など、見どころも多い。
彌十郎が演じる不器量な遊女油屋お鹿は、貢に恋慕するのだが、取り合ってもらえず、逆に万野が仕掛けで、金を無心する貢の偽物の手紙を信じて金を騙し取られ、最後は妖刀の力に操られる貢に斬られてしまうのだから、まあ踏んだり蹴ったりで誠にお疲れさま。
他にも、彦三郎、市蔵、高麗蔵、彌十郎、又五郎、雀右衛門、魁春など豪華出演陣なのだが、通しでやると物語が散漫で、取り敢えず最初から最後まで段取りでやってみましたという風で、なんとなく終わってしまったという感あり。
大詰では、まるで「籠釣瓶花街酔醒」のように、妖刀に魅入られた幸四郎、貢が次々人を切る。一種のホラー風味であるが、最後は奴を切って、愛之助の板前が血糊を拭き「お見事」と声をかける。見得が決まってチョンと柝が入り、舞台の明かりが煌々とついて終わりとなる。
あれよあれよという間に全部片付きましたという、いわば能天気な終わりなのだが、何人も人を斬っている訳だから、「お見事」で終わられてもなあという釈然としない気がするのであった。
つぎの演目は「喜撰(きせん)」。 松緑の喜撰法師も見たかったのだが、よんどころない事情で歌舞伎座を出て帰路に。
最初は、通し狂言 「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」。
伊勢参りで賑わう伊勢の遊郭、油屋で何人もの遊女を斬った実際の刃傷沙汰を歌舞伎に取り入れた作品。本作は、刃傷沙汰を骨格に、伊勢参りを司るコーディネータである「御師」を主人公に据え、伝家の妖刀、その折り紙、密書などの、ヒッチコック映画でいう所謂「マクガフィン」を入れ込んで大作に仕上げている。
歌舞伎座での通し上映は60何年かぶりというが、「追駈け」からは見た記憶がある。
主役の御師、福岡貢を幸四郎。何でも器用にそつなくこなす役者であるが、やはりこういった役が本役というべきだろうか。
今田万次郎が菊之助。愛之助の料理人喜助
前半の、「相の山」、「宿屋」、「追駈け」、「地蔵前」、「二見ヶ浦」などでは、それぞれの段でコミカルな場面も多く、出る役者にとっては、しどころもある芝居なのだろうが、どうもいまいち見ごたえがなかった。配役にも座組の限界があるかな。
「追駈け」では役者が舞台を降りて客席を巡る。すぐ近くまで歌昇が来て面白かった。かなり小柄なんだねえ。ただ、まあこんな役をやらなくてもとは感じたけれども。
よく上演される後半、「油屋」「奥庭」 の段では、伊勢遊郭の豪華な風情や伊勢音頭の総踊り、妖刀青江下坂に魅入られた貢の凄惨な刃傷など、見どころも多い。
彌十郎が演じる不器量な遊女油屋お鹿は、貢に恋慕するのだが、取り合ってもらえず、逆に万野が仕掛けで、金を無心する貢の偽物の手紙を信じて金を騙し取られ、最後は妖刀の力に操られる貢に斬られてしまうのだから、まあ踏んだり蹴ったりで誠にお疲れさま。
他にも、彦三郎、市蔵、高麗蔵、彌十郎、又五郎、雀右衛門、魁春など豪華出演陣なのだが、通しでやると物語が散漫で、取り敢えず最初から最後まで段取りでやってみましたという風で、なんとなく終わってしまったという感あり。
大詰では、まるで「籠釣瓶花街酔醒」のように、妖刀に魅入られた幸四郎、貢が次々人を切る。一種のホラー風味であるが、最後は奴を切って、愛之助の板前が血糊を拭き「お見事」と声をかける。見得が決まってチョンと柝が入り、舞台の明かりが煌々とついて終わりとなる。
あれよあれよという間に全部片付きましたという、いわば能天気な終わりなのだが、何人も人を斬っている訳だから、「お見事」で終わられてもなあという釈然としない気がするのであった。
つぎの演目は「喜撰(きせん)」。 松緑の喜撰法師も見たかったのだが、よんどころない事情で歌舞伎座を出て帰路に。
大相撲観戦と大阪遠征もあったので、すっかり更新をしていなかったが、blogで歌舞伎日記更新。歌舞伎座「三月大歌舞伎」の備忘録。
3月初日に昼の部。この日の席は花道七三近く。最初は「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ) 寺子屋」。
源蔵戻りの花道。愛之助の横顔が仁左衛門そっくりでびっくり。愛之助は別に一族じゃないのだから顔の仕方かな。役は勿論、初役の時に仁左衛門に習ったのだと。立派に成立している。
菊之助初役の松王丸は、凛とした口跡に息子や妻、そして桜丸への情愛が満ちて、これまた印象的。初役なのはやはりニンに合わないということで、時代物の立役はあまり演じてないのだろうかね。
勿論、前半部分は、いかにも時代物の仇役という太さと重みは控えめか。後半の息子と梅王丸への慈愛を語る所は、きちんと聞かせる。まあ、何代目の型がどうしたこうしたという話はよく分からないが。
鷹之資の涎くりは愛嬌十分。「天王寺屋」の大向こうが沢山かかる。花道で親父に「犬のデコピン買ってやる」と言われて喜ぶ所では客席が沸いた。大谷翔平は歌舞伎座でも。
梅枝の瓜実顔は、昔の女性なんかの写真を見るといたよねえといつも思う。
元々が良く出来た物語。義太夫も練られている。老優たちを呼んでこなくても、この座組で十分のような。
大向こうは初日だからか随分と賑やか。鶏爺さんの鳴き声も聞こえたかな。
次は舞踊劇。四世中村雀右衛門十三回忌追善狂言 「傾城道成寺(けいせいどうじょうじ)」。
花道七三近くの席だったので、雀右衛門がすっぽんからいきなり目の前に登場したのでびっくり。近くで見ると意外に重量感がありえらく立派だ。衣装がまた煌びやかである。
雀右衛門、友右衛門に松緑、廣太郎、廣松などが付き合い、眞秀も出て最後は導師尊秀で菊五郎が出て目出度く終了。
最後の演目は、「元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿(おはまごてんつなとよきょう)」。
2年前の歌舞伎座で、梅玉と松緑のコンビで見た。真山青果が膨大な資料を読み込んで、新たな解釈のもとで書き上げた忠臣蔵を描く新歌舞伎。
仁左衛門の綱豊卿は、鷹揚ながら知も情もあり、赤穂浪士に心を寄せる殿様を見事に演じる。一本気な富森助右衛門に、「赤穂の御家再興が成れば仇討ちは成らぬ」と理詰めで仇討ちの義を朗々と説く大詰も存在感が素晴らしい。梅玉もよかったが、仁左衛門はこの主人公が更に大きい。やがては将軍になって善政をほどこす人間の格の大きさが既に背後に見えているかのように感じるのだ。
幸四郎は富森助右衛門。仇討ちを図る赤穂浪士。幸四郎は、器用にどんな役でもやるが、逆に幸四郎でなくては、という役がないような気も。今回の赤穂浪士は、一本気な強直さや容易に人の意見を聞き入れないような頑なさは感じさせず、サラサラしてちょっと不思議な味わいである。
御座の間、梅枝の中臈お喜世は、セリフの多い主役二人に挟まれて大変であろう。ここで印象を残すのは難しい。歌六の新井勘解由は、この手の役をやると何時も通り安定の出来。総じて仁左衛門圧巻の舞台であった。
3月初日に昼の部。この日の席は花道七三近く。最初は「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ) 寺子屋」。
源蔵戻りの花道。愛之助の横顔が仁左衛門そっくりでびっくり。愛之助は別に一族じゃないのだから顔の仕方かな。役は勿論、初役の時に仁左衛門に習ったのだと。立派に成立している。
菊之助初役の松王丸は、凛とした口跡に息子や妻、そして桜丸への情愛が満ちて、これまた印象的。初役なのはやはりニンに合わないということで、時代物の立役はあまり演じてないのだろうかね。
勿論、前半部分は、いかにも時代物の仇役という太さと重みは控えめか。後半の息子と梅王丸への慈愛を語る所は、きちんと聞かせる。まあ、何代目の型がどうしたこうしたという話はよく分からないが。
鷹之資の涎くりは愛嬌十分。「天王寺屋」の大向こうが沢山かかる。花道で親父に「犬のデコピン買ってやる」と言われて喜ぶ所では客席が沸いた。大谷翔平は歌舞伎座でも。
梅枝の瓜実顔は、昔の女性なんかの写真を見るといたよねえといつも思う。
元々が良く出来た物語。義太夫も練られている。老優たちを呼んでこなくても、この座組で十分のような。
大向こうは初日だからか随分と賑やか。鶏爺さんの鳴き声も聞こえたかな。
次は舞踊劇。四世中村雀右衛門十三回忌追善狂言 「傾城道成寺(けいせいどうじょうじ)」。
花道七三近くの席だったので、雀右衛門がすっぽんからいきなり目の前に登場したのでびっくり。近くで見ると意外に重量感がありえらく立派だ。衣装がまた煌びやかである。
雀右衛門、友右衛門に松緑、廣太郎、廣松などが付き合い、眞秀も出て最後は導師尊秀で菊五郎が出て目出度く終了。
最後の演目は、「元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿(おはまごてんつなとよきょう)」。
2年前の歌舞伎座で、梅玉と松緑のコンビで見た。真山青果が膨大な資料を読み込んで、新たな解釈のもとで書き上げた忠臣蔵を描く新歌舞伎。
仁左衛門の綱豊卿は、鷹揚ながら知も情もあり、赤穂浪士に心を寄せる殿様を見事に演じる。一本気な富森助右衛門に、「赤穂の御家再興が成れば仇討ちは成らぬ」と理詰めで仇討ちの義を朗々と説く大詰も存在感が素晴らしい。梅玉もよかったが、仁左衛門はこの主人公が更に大きい。やがては将軍になって善政をほどこす人間の格の大きさが既に背後に見えているかのように感じるのだ。
幸四郎は富森助右衛門。仇討ちを図る赤穂浪士。幸四郎は、器用にどんな役でもやるが、逆に幸四郎でなくては、という役がないような気も。今回の赤穂浪士は、一本気な強直さや容易に人の意見を聞き入れないような頑なさは感じさせず、サラサラしてちょっと不思議な味わいである。
御座の間、梅枝の中臈お喜世は、セリフの多い主役二人に挟まれて大変であろう。ここで印象を残すのは難しい。歌六の新井勘解由は、この手の役をやると何時も通り安定の出来。総じて仁左衛門圧巻の舞台であった。
2月最初の週末に、歌舞伎座、十八世中村勘三郎十三回忌追善「猿若祭二月大歌舞伎」。最初に引かれた定式幕は江戸時代の猿若座由来、平成中村座でも使われた色使い。
夜の部は、A2ブロックの花道七三のすぐ近く。花道を使う演目は迫力あるのだが、中央や上手で起きている事は結構遠く感じる。
最初の演目は「猿若江戸の初櫓(さるわかえどのはつやぐら)」。
勘三郎の名跡は、血は繋がっていないものの、江戸時代の初代猿若勘三郎に由来する名前。この猿若が、京都から出雲の阿国と一緒に上京してきたという架空の設定で作り上げた、中村屋という家の祝祭劇。
前回の勘三郎追善で見た時は勘九郎が演じた猿若を、今回は息子の勘太郎が演じる。何時の間にか背は随分伸びて立派な姿。
猿若と出雲の阿国がまずは花道に出る。あれがお江戸だよと、花道に出た出雲の阿国、七之助はやはり甥に目を配っている様子が見える。勘太郎はこの後、高熱が出て何日か舞台を休んだようだがかなり気が張っていたのだろう。しかし立派に務めていた。
芝翫福助の兄弟が並んで舞台に出て華を添える。獅童、坂東亀蔵、児太郎、橋之助、鶴松なども出て賑やかに。いったん幕が閉まってから再び、昼の出演者松緑も入れて節分の豆まき。
次の演目は「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」すし屋。芝翫が初役でいがみの権太を演じる。
23年6月の歌舞伎座の仁左衛門は、関西型でどろ臭く人間味あふれる人物造形で実に感心したが、今回は「木の実」などの前の段がカットされている事もあってか、イマイチこの、いがみの権太に対する共感が持てず、親父に刺されてから延々とやる部分もやはりダレる気がした。芝翫は顔も大きく役者としての押し出しもあって立派なんだけどねえ。仁左衛門の時は随分感心したんだけどねえ。理由はよく分からない。
最後の演目は「連獅子(れんじし)」。
最近は「連獅子」ばかりという声もあるが、様々な役者が若い息子とのコンビネーションで演じるこの演目を見ると、大看板が次々亡くなっても、歌舞伎の伝統は着実に次の代に継承されているように思えてある意味心強いのだった。
今回の連獅子は、勘九郎とその次男、長三郎。
TVの中村屋密着などで見る長三郎は、おっとり福々しい坊ちゃん刈りの少年だが、舞台でも仔獅子は、福々しくおっとりしている印象。
前シテで谷底に突き落とされた仔獅子の精は、花道七三に座ってちょうど面前に居たのだが、なんだか小さいパンダのような気がしたなあ(笑)
後シテで花道から出てきた仔獅子が、前を向いたまま揚幕に向かってスーッと後ろに下がって行く見せ場があるのだが、長三郎仔獅子は、割とマイペースで焦ることなく、よっこらしょと長い毛を胸の前に折りたたみ、そして見事に花道を後ろに下がって行く。
親獅子と揃っての毛振りは、年齢も考えてか若干短めに切り上げ。しかし独自のカラーではあるが、きちんと仔獅子を踊りきったのは立派。随分と稽古したのだろう。橋之助、歌昇の宗論も面白い出来。
打ち出しは8時半頃。ちょっと「すし屋」が長いかなあという気もしないでもなかったが、よい追善公演。
夜の部は、A2ブロックの花道七三のすぐ近く。花道を使う演目は迫力あるのだが、中央や上手で起きている事は結構遠く感じる。
最初の演目は「猿若江戸の初櫓(さるわかえどのはつやぐら)」。
勘三郎の名跡は、血は繋がっていないものの、江戸時代の初代猿若勘三郎に由来する名前。この猿若が、京都から出雲の阿国と一緒に上京してきたという架空の設定で作り上げた、中村屋という家の祝祭劇。
前回の勘三郎追善で見た時は勘九郎が演じた猿若を、今回は息子の勘太郎が演じる。何時の間にか背は随分伸びて立派な姿。
猿若と出雲の阿国がまずは花道に出る。あれがお江戸だよと、花道に出た出雲の阿国、七之助はやはり甥に目を配っている様子が見える。勘太郎はこの後、高熱が出て何日か舞台を休んだようだがかなり気が張っていたのだろう。しかし立派に務めていた。
芝翫福助の兄弟が並んで舞台に出て華を添える。獅童、坂東亀蔵、児太郎、橋之助、鶴松なども出て賑やかに。いったん幕が閉まってから再び、昼の出演者松緑も入れて節分の豆まき。
次の演目は「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」すし屋。芝翫が初役でいがみの権太を演じる。
23年6月の歌舞伎座の仁左衛門は、関西型でどろ臭く人間味あふれる人物造形で実に感心したが、今回は「木の実」などの前の段がカットされている事もあってか、イマイチこの、いがみの権太に対する共感が持てず、親父に刺されてから延々とやる部分もやはりダレる気がした。芝翫は顔も大きく役者としての押し出しもあって立派なんだけどねえ。仁左衛門の時は随分感心したんだけどねえ。理由はよく分からない。
最後の演目は「連獅子(れんじし)」。
最近は「連獅子」ばかりという声もあるが、様々な役者が若い息子とのコンビネーションで演じるこの演目を見ると、大看板が次々亡くなっても、歌舞伎の伝統は着実に次の代に継承されているように思えてある意味心強いのだった。
今回の連獅子は、勘九郎とその次男、長三郎。
TVの中村屋密着などで見る長三郎は、おっとり福々しい坊ちゃん刈りの少年だが、舞台でも仔獅子は、福々しくおっとりしている印象。
前シテで谷底に突き落とされた仔獅子の精は、花道七三に座ってちょうど面前に居たのだが、なんだか小さいパンダのような気がしたなあ(笑)
後シテで花道から出てきた仔獅子が、前を向いたまま揚幕に向かってスーッと後ろに下がって行く見せ場があるのだが、長三郎仔獅子は、割とマイペースで焦ることなく、よっこらしょと長い毛を胸の前に折りたたみ、そして見事に花道を後ろに下がって行く。
親獅子と揃っての毛振りは、年齢も考えてか若干短めに切り上げ。しかし独自のカラーではあるが、きちんと仔獅子を踊りきったのは立派。随分と稽古したのだろう。橋之助、歌昇の宗論も面白い出来。
打ち出しは8時半頃。ちょっと「すし屋」が長いかなあという気もしないでもなかったが、よい追善公演。
2月最初の週末に、歌舞伎座、十八世中村勘三郎十三回忌追善「猿若祭二月大歌舞伎」。最初に引かれた定式幕は江戸時代の猿若座由来、平成中村座でも使われた色使い。
昼の部最初は、「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん) 野崎村」。
「中村勘三郎屋三番目の息子」部屋子の鶴松が初役でお光を演じる。これが素晴らしかった。気立ての良い初々しい田舎娘、お光は、奉公から帰って来た幼馴染の久松と祝言を上げさせるという親父の言葉に舞い上がり甲斐甲斐しく準備を始める。しかしそこに既に深い仲になった奉公先の娘お染が心中覚悟で現れる。
田舎娘の純朴な恋は成就しないというのが「歌舞伎あるある」なのであるが、今月は夜の部「すし屋」でも、同じような状況があり、昼夜で「びびびびび」とやるシーンがあって、なかなか珍しかった。
祝言に舞い上がった田舎者娘の歓喜は、お染の出現でぶち壊しになるのだが、好いた久松を思い身を引き、髪を下ろして彼らが心中しないようにと心で願う健気さ。回り舞台が転換した大詰めでは、菩薩の笑みで去る久松を見送り、お染の船さえも平常心で見送るのだが、彼らが遠くに消えようとした最後に後ろを向き、「お父っつぁん!」と親父の胸に顔を埋めてむせび泣く。
鶴松のお光は、田舎娘の純朴な可愛さと一途さ、しかし恋人を思って身を引く悲しく健気な決心を見事に演じた。十八世勘三郎が何故目をかけたのかよく分かる才能を示した素晴らしい出来の一幕。鶴松の当たり役になるだろう。
余談ながら、お光が祝言の準備で大根なますを作る際、大根を千切りにする速度が、トトトトトトトンと機関銃のような速さでこれには感心。相当包丁使いを練習したのでは。彌十郎の親父は何度も務めた安定の出来。七之助の久松は初役で、鶴松を見守るかのよう、児太郎のお染は、おっとりした大店の娘らしい風情がよかった。
ここで35分の幕間。花篭で海鮮ちらし重など。決して悪くないがHPに乗っている見本の写真とちょっと違うなあ(笑) イヤホンガイドでは勘九郎、七之助のインタビューがあったのだが、やたらに大声上げて騒ぐ団体がおり、大変に五月蠅い。あんなに騒ぐ団体は初めて出くわした。イヤホンガイドが聞こえないんだから。
次の演目は、「釣女」。
能に由来する松羽目物の喜劇舞踊。西宮戎神社が舞台。懐かしいね。妻を得ようと釣り針で美人を得た大名を見て、太郎冠者が真似をすると出てきたのは大変な醜女。今だとルッキズムだと批判されようが、まあ昔の演目ということで。
太郎冠者役の獅童も18世勘三郎がその他大勢で出ていた頃に見出して贔屓にしていた役者。芝翫が実に滑稽な顔の化粧で現れるがそのうちにそれが愛嬌に転じて行く。
昼の部最後の演目は、「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」。
勘九郎の佐野次郎左衛門も、七之助の八ツ橋も初役。開演時間になり暗転して真っ暗になった場内で定式幕が引かれ、次に煌々たる明かりが点くとそこは桜が咲き誇る吉原仲ノ町。現実とは思えないような煌びやかな廓の風情を見せる演出。勿論その背後には深い闇が潜んでいるのだが。
花魁道中は大変に豪華絢爛たる風情。芝のぶも兵庫屋七越で出演。七之助八ツ橋は実に美しい。仁左衛門の栄之丞も実に鮮明な色気があって印象的。松緑も物語に効果的な陰影を与えている。前回歌舞伎座で十八世勘三郎が佐野次郎左衛門を演じた時、八ツ橋は玉三郎で、栄之丞が仁左衛門。今回は良い追善になった。
七之助八ツ橋の愛想尽かしの場は客席が静まり返る。本来口を出す顔ではない下働きの店の若い者などが次郎左衛門がいかに良いお客であったかをおずおずと述べるのも、次郎左衛門が本当に良い客で、受けたこの仕打ちがいかに理不尽なものであったかを表して大変に気の毒な場面。
もっとも間夫との板挟みでどうしようもなくなった八ツ橋も、苦界に生きる彼女なりの重たい悲劇を背負っているのだ。
「籠釣瓶」は、箱に収めておけばお守りになるが、手に取ると人を殺してしまうという妖刀。大詰め、八ツ橋殺しの場、妖刀に操られるように、八ツ橋を殺して座敷に屹立する勘九郎は、もはや商人ではなくまるで闇から現れた異形の存在のよう。目に宿った深い狂気に客席は静まり返って声もなかった。
しかし、携帯音鳴らなくて良かったな(笑)
昼の部は「野崎村」「籠釣瓶」どちらも圧巻の出来。深い余韻を感じながら歌舞伎座を後にした。
昼の部最初は、「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん) 野崎村」。
「中村勘三郎屋三番目の息子」部屋子の鶴松が初役でお光を演じる。これが素晴らしかった。気立ての良い初々しい田舎娘、お光は、奉公から帰って来た幼馴染の久松と祝言を上げさせるという親父の言葉に舞い上がり甲斐甲斐しく準備を始める。しかしそこに既に深い仲になった奉公先の娘お染が心中覚悟で現れる。
田舎娘の純朴な恋は成就しないというのが「歌舞伎あるある」なのであるが、今月は夜の部「すし屋」でも、同じような状況があり、昼夜で「びびびびび」とやるシーンがあって、なかなか珍しかった。
祝言に舞い上がった田舎者娘の歓喜は、お染の出現でぶち壊しになるのだが、好いた久松を思い身を引き、髪を下ろして彼らが心中しないようにと心で願う健気さ。回り舞台が転換した大詰めでは、菩薩の笑みで去る久松を見送り、お染の船さえも平常心で見送るのだが、彼らが遠くに消えようとした最後に後ろを向き、「お父っつぁん!」と親父の胸に顔を埋めてむせび泣く。
鶴松のお光は、田舎娘の純朴な可愛さと一途さ、しかし恋人を思って身を引く悲しく健気な決心を見事に演じた。十八世勘三郎が何故目をかけたのかよく分かる才能を示した素晴らしい出来の一幕。鶴松の当たり役になるだろう。
余談ながら、お光が祝言の準備で大根なますを作る際、大根を千切りにする速度が、トトトトトトトンと機関銃のような速さでこれには感心。相当包丁使いを練習したのでは。彌十郎の親父は何度も務めた安定の出来。七之助の久松は初役で、鶴松を見守るかのよう、児太郎のお染は、おっとりした大店の娘らしい風情がよかった。
ここで35分の幕間。花篭で海鮮ちらし重など。決して悪くないがHPに乗っている見本の写真とちょっと違うなあ(笑) イヤホンガイドでは勘九郎、七之助のインタビューがあったのだが、やたらに大声上げて騒ぐ団体がおり、大変に五月蠅い。あんなに騒ぐ団体は初めて出くわした。イヤホンガイドが聞こえないんだから。
次の演目は、「釣女」。
能に由来する松羽目物の喜劇舞踊。西宮戎神社が舞台。懐かしいね。妻を得ようと釣り針で美人を得た大名を見て、太郎冠者が真似をすると出てきたのは大変な醜女。今だとルッキズムだと批判されようが、まあ昔の演目ということで。
太郎冠者役の獅童も18世勘三郎がその他大勢で出ていた頃に見出して贔屓にしていた役者。芝翫が実に滑稽な顔の化粧で現れるがそのうちにそれが愛嬌に転じて行く。
昼の部最後の演目は、「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」。
勘九郎の佐野次郎左衛門も、七之助の八ツ橋も初役。開演時間になり暗転して真っ暗になった場内で定式幕が引かれ、次に煌々たる明かりが点くとそこは桜が咲き誇る吉原仲ノ町。現実とは思えないような煌びやかな廓の風情を見せる演出。勿論その背後には深い闇が潜んでいるのだが。
花魁道中は大変に豪華絢爛たる風情。芝のぶも兵庫屋七越で出演。七之助八ツ橋は実に美しい。仁左衛門の栄之丞も実に鮮明な色気があって印象的。松緑も物語に効果的な陰影を与えている。前回歌舞伎座で十八世勘三郎が佐野次郎左衛門を演じた時、八ツ橋は玉三郎で、栄之丞が仁左衛門。今回は良い追善になった。
七之助八ツ橋の愛想尽かしの場は客席が静まり返る。本来口を出す顔ではない下働きの店の若い者などが次郎左衛門がいかに良いお客であったかをおずおずと述べるのも、次郎左衛門が本当に良い客で、受けたこの仕打ちがいかに理不尽なものであったかを表して大変に気の毒な場面。
もっとも間夫との板挟みでどうしようもなくなった八ツ橋も、苦界に生きる彼女なりの重たい悲劇を背負っているのだ。
「籠釣瓶」は、箱に収めておけばお守りになるが、手に取ると人を殺してしまうという妖刀。大詰め、八ツ橋殺しの場、妖刀に操られるように、八ツ橋を殺して座敷に屹立する勘九郎は、もはや商人ではなくまるで闇から現れた異形の存在のよう。目に宿った深い狂気に客席は静まり返って声もなかった。
しかし、携帯音鳴らなくて良かったな(笑)
昼の部は「野崎村」「籠釣瓶」どちらも圧巻の出来。深い余韻を感じながら歌舞伎座を後にした。
1月の歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」。八日に「夜の部」を。
最初は舞踊、「鶴亀(つるかめ)」。
舞台は宮中の新年祝賀の節会。中央に女帝役の福助が煌びやかに神々しく立つ。その周りで鶴と亀、そしてその従者が新年を寿ぎ、千年万年長寿の舞を披露するという能楽由来の目出度い舞踊。
亀は松緑、鶴は幸四郎、それぞれの従者に自分たちの息子、左近と染五郎を従えて舞う目出度一幕。こうして見ていると、歌舞伎にも若い世代が育ちつつあり、伝承も大丈夫ではないかという気分になる。まあ先の事は分からぬが。福助も元気そうで結構。
短い幕間の後、「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」。
歌舞伎特有の特徴ある人物をパッケージにして、決まったフォーマットで演じられる錦絵のごとき祝祭劇。昔は新年につきものの演目だったらしい。
工藤左衛門祐経に梅玉、曽我十郎祐成に扇雀、曽我五郎時致に芝翫、大磯の虎に魁春、化粧坂少将に高麗蔵、小林朝比奈に彌十郎とベテラン揃いの布陣。煌びやかな舞台、豪華な衣装。荒事に和事、傾城に道化、歌舞伎独特の登場人物が登場。あんまり目くじら立てて誰の演技がどうのこうのと言う気にはならないお決まりの目出度い演目。ただ、何故かはわからないが、芝翫はあまり感心しなかったなあ。顔は大きくて立派なんだけれども。
35分の幕間は「花篭」で「花かご御膳」。以前は「ほうおう膳」のほうが値段が高かった気がするが最近なぜか逆になっている。しかし値段に見合っているかと言うと、なんだかそんな気もしないなあという気がするのだった。
次の演目は「息子(むすこ)」。
海外の戯曲からの翻案だというが、登場人物は3名のみ。これを高麗屋親子3代で演じる。
頑固な火の番の老爺が白鸚。寒い雪の深夜、ふらりと訪れた男が幸四郎。老爺は男に暖を取るように勧め、この男が近在の出身で、大阪で博徒だったと知ると、9年前にこの村を出た自分の息子は、今は大阪で立派に成功している事だろうと語る。しかし今は落ちぶれて捕吏に追われるこの男こそが、その息子なのだった。
筋書の白鸚によると、最後まで男が自分の息子だと気づかないやり方もあるのだが、自分は途中で気づく形でやるのだと。落ちぶれ果てた息子と気づきながら、母親が亡くなった事を他人事として告げてやり、父親としての名乗りはあえてせずに別れる。人生の無情と悲哀を背中で受け止めながら、他人として「達者でな」と息子に告げる白鸚の台詞は心に迫るものがある。雪の中、立ち去る男を捕吏の染五郎が追う。火の番小屋の閉ざされた障子には、立ち尽くす老爺の影が。小品ながら印象的な一幕。
最後は京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ) 鐘供養の場。
白拍子花子は壱太郎が歌舞伎座初演で務める。後半は尾上右近が演じるというダブル・キャスト。玉三郎が晩年を迎えている今、真女方の最高峰と呼ばれる屈指の大曲を踊って人気興行として成立するベテランはもはや居らず、次々と有望な若手女方に芸が継承されて行く時期なのだろう。昔の誰それの芸が素晴らしかったと言っても、もはや見る訳には行かないものなあ。
衣装がまた映える。初日は引き抜きで手間取ったとも聞いたが、この日は気にならない。後見についても昔を知る年寄りがずっとやる訳にはいかない。新しいお弟子さんが次々と技術を継承していくのだろう。
壱太郎は美しく、踊りは特に前半、清新で明るく可憐に仕上がり舞台に映える。後半の最後の鐘への執着などは、濃厚な感じも。やはり関西系鴈治郎の系譜故だろうか。
勿論、老境に達した女方至高の芸というのもあるだろうが、時分の花に感嘆するのもまた歌舞伎の楽しみという気がする。大相撲初場所があるので、歌舞伎座は月初めを取ったが、後半の尾上右近も見比べたくなった。
最初は舞踊、「鶴亀(つるかめ)」。
舞台は宮中の新年祝賀の節会。中央に女帝役の福助が煌びやかに神々しく立つ。その周りで鶴と亀、そしてその従者が新年を寿ぎ、千年万年長寿の舞を披露するという能楽由来の目出度い舞踊。
亀は松緑、鶴は幸四郎、それぞれの従者に自分たちの息子、左近と染五郎を従えて舞う目出度一幕。こうして見ていると、歌舞伎にも若い世代が育ちつつあり、伝承も大丈夫ではないかという気分になる。まあ先の事は分からぬが。福助も元気そうで結構。
短い幕間の後、「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」。
歌舞伎特有の特徴ある人物をパッケージにして、決まったフォーマットで演じられる錦絵のごとき祝祭劇。昔は新年につきものの演目だったらしい。
工藤左衛門祐経に梅玉、曽我十郎祐成に扇雀、曽我五郎時致に芝翫、大磯の虎に魁春、化粧坂少将に高麗蔵、小林朝比奈に彌十郎とベテラン揃いの布陣。煌びやかな舞台、豪華な衣装。荒事に和事、傾城に道化、歌舞伎独特の登場人物が登場。あんまり目くじら立てて誰の演技がどうのこうのと言う気にはならないお決まりの目出度い演目。ただ、何故かはわからないが、芝翫はあまり感心しなかったなあ。顔は大きくて立派なんだけれども。
35分の幕間は「花篭」で「花かご御膳」。以前は「ほうおう膳」のほうが値段が高かった気がするが最近なぜか逆になっている。しかし値段に見合っているかと言うと、なんだかそんな気もしないなあという気がするのだった。
次の演目は「息子(むすこ)」。
海外の戯曲からの翻案だというが、登場人物は3名のみ。これを高麗屋親子3代で演じる。
頑固な火の番の老爺が白鸚。寒い雪の深夜、ふらりと訪れた男が幸四郎。老爺は男に暖を取るように勧め、この男が近在の出身で、大阪で博徒だったと知ると、9年前にこの村を出た自分の息子は、今は大阪で立派に成功している事だろうと語る。しかし今は落ちぶれて捕吏に追われるこの男こそが、その息子なのだった。
筋書の白鸚によると、最後まで男が自分の息子だと気づかないやり方もあるのだが、自分は途中で気づく形でやるのだと。落ちぶれ果てた息子と気づきながら、母親が亡くなった事を他人事として告げてやり、父親としての名乗りはあえてせずに別れる。人生の無情と悲哀を背中で受け止めながら、他人として「達者でな」と息子に告げる白鸚の台詞は心に迫るものがある。雪の中、立ち去る男を捕吏の染五郎が追う。火の番小屋の閉ざされた障子には、立ち尽くす老爺の影が。小品ながら印象的な一幕。
最後は京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ) 鐘供養の場。
白拍子花子は壱太郎が歌舞伎座初演で務める。後半は尾上右近が演じるというダブル・キャスト。玉三郎が晩年を迎えている今、真女方の最高峰と呼ばれる屈指の大曲を踊って人気興行として成立するベテランはもはや居らず、次々と有望な若手女方に芸が継承されて行く時期なのだろう。昔の誰それの芸が素晴らしかったと言っても、もはや見る訳には行かないものなあ。
衣装がまた映える。初日は引き抜きで手間取ったとも聞いたが、この日は気にならない。後見についても昔を知る年寄りがずっとやる訳にはいかない。新しいお弟子さんが次々と技術を継承していくのだろう。
壱太郎は美しく、踊りは特に前半、清新で明るく可憐に仕上がり舞台に映える。後半の最後の鐘への執着などは、濃厚な感じも。やはり関西系鴈治郎の系譜故だろうか。
勿論、老境に達した女方至高の芸というのもあるだろうが、時分の花に感嘆するのもまた歌舞伎の楽しみという気がする。大相撲初場所があるので、歌舞伎座は月初めを取ったが、後半の尾上右近も見比べたくなった。
正月五日は、歌舞伎座、一月「壽 初春大歌舞伎」。昼の部。、
昼の部はまず、「當辰歳歌舞伎賑(あたるたつどしかぶきのにぎわい)」として短い舞踊が二題。
「五人三番叟」は若手の五人が元気よく踊る。鷹之資が一番安定している気がするが、中村福之助、歌之助、玉太郎、虎之介もそれぞれに元気があり、動きに個性があって面白い。
次の「英獅子」は、江戸情緒溢れる吉原を舞台に、芸者と鳶頭が粋に踊る。こちらは雀右衛門、鴈治郎、又五郎の円熟味あるベテラン勢。
次の演目は、松緑が講談から歌舞伎化を企画した新作歌舞伎、「荒川十太夫(あらかわじゅうだゆう)」の再演。
竹柴潤一 脚本、西森英行 演出。
講談でも人気のある赤穂義士伝のひとつ。忠臣蔵外伝。吉良上野介を討って本懐を果たした義士達は、裁きが決まるまで幾つかの藩邸に預かりとなるのだが、御公儀の決定は切腹。堀部安兵衛を介錯した侍、伊予松山藩松平家の下級武士、荒川十太夫を巡る物語。
1年ほど前の初演から比べても、話の筋立てがスッキリした。
初演の時の堀部安兵衛は猿之助。使命を果たし終えた安堵と幸福感の中「冥途の土産に」と介錯人の名前と位を訪ね「立派な人に最期に立ち合って貰える自分は幸せ者だ」と語る姿は泣かせた。そしてこれが十太夫のトラウマとなる伏線。まあ今回の中車も悪くないのだが。
主演の荒川十太夫は松緑。無骨で真っすぐに思い詰める主人公は彼のニンにあり、実に印象的な人物造形となっている。
松平隠岐守定直は坂東亀蔵。怜悧で理に沿わぬ疑問については十太夫を鋭く問い詰めるが、理解も情もある殿様を爽やかに演じる。松緑との息もよく合っている。
松平家目付役、杉田五左衛門役の吉之丞は口跡も立派。厳格ながら道理を弁え部下への思いやりを持った上級武士としての懐深い貫禄を見せる。さすが吉右衛門の部屋子から鍛え上げた播磨屋という気がする。
大石主税は松緑の息子、左近。若干16歳で切腹の場に向かう内蔵助の息子役。切腹に向かう花道の回想シーンは、凛々しくも悲しい。
左近は正月の歌舞伎番組で「私事ながら今年で高校卒業、これからは勉学を気にせずに芸の習得に励めます」と語って、親父の松緑から「でもまだ卒業は決まってないよな」と釘を差されたのが面白かった。染五郎や團子など同世代の若い世代と切磋琢磨して歌舞伎を支える力になってほしいね。
小品ながら繰り返しの再演にも耐える良くできた演目。講談が語り継いで来た物語はあなどれない。これからも再演を続けてほしいものである。
35分の幕間には、玄関ロビーで、昔の火消し伝統を残す、江戸消防記念会による「木遣り始め」が披露され、三本締め。
昼の部、切りは、「狐狸狐狸ばなし(こりこりばなし)」。
喜劇仕立てで、毒婦と、間男されてもぼんやりしていたような旦那が見せる狐と狸の化かしあいのようなどんでん返し。
千住芸者上がりの奔放に生きる毒婦、おきわを尾上右近が達者に演じてなかなか印象的な活躍。最後は自分の三味線で「金毘羅船船」まで歌って見せる。
雇人又市を演じる染五郎も、なかなか達者な演技で新境地を開く役を立派に演じた。
幸四郎は、おきわと並ぶ主役である手拭い屋伊之助。元々なんでもやる芸域の広い人ではあるのだが、女房に間男されてもボンヤリしている「暖簾に腕押し」の部分はまだ良いにしても、後半のどんでん返し部分になると、この役の持っている奥底のあくどい所がちょっと持ちきれない感あり。
法印重善の錦之助も、色男ぶりは板についているが、やはり小悪党っぽい所になると、どうも役にはまらない。やはり本当は、凄みのある悪党も出来るが妙な愛嬌もあるようなアクの強い俳優たちが演じるべき役なのだろう。
結構客席は沸いたが、終わってみると演目に出てくるのは悪党ばかりで、若干後味は良くないか。まあどんでん返しの繰り返しで気楽に見れるといえばその通りだが。
歌舞伎座を出て、この日の夜は「新ばし しみづ」で本年初の寿司。
昼の部はまず、「當辰歳歌舞伎賑(あたるたつどしかぶきのにぎわい)」として短い舞踊が二題。
「五人三番叟」は若手の五人が元気よく踊る。鷹之資が一番安定している気がするが、中村福之助、歌之助、玉太郎、虎之介もそれぞれに元気があり、動きに個性があって面白い。
次の「英獅子」は、江戸情緒溢れる吉原を舞台に、芸者と鳶頭が粋に踊る。こちらは雀右衛門、鴈治郎、又五郎の円熟味あるベテラン勢。
次の演目は、松緑が講談から歌舞伎化を企画した新作歌舞伎、「荒川十太夫(あらかわじゅうだゆう)」の再演。
竹柴潤一 脚本、西森英行 演出。
講談でも人気のある赤穂義士伝のひとつ。忠臣蔵外伝。吉良上野介を討って本懐を果たした義士達は、裁きが決まるまで幾つかの藩邸に預かりとなるのだが、御公儀の決定は切腹。堀部安兵衛を介錯した侍、伊予松山藩松平家の下級武士、荒川十太夫を巡る物語。
1年ほど前の初演から比べても、話の筋立てがスッキリした。
初演の時の堀部安兵衛は猿之助。使命を果たし終えた安堵と幸福感の中「冥途の土産に」と介錯人の名前と位を訪ね「立派な人に最期に立ち合って貰える自分は幸せ者だ」と語る姿は泣かせた。そしてこれが十太夫のトラウマとなる伏線。まあ今回の中車も悪くないのだが。
主演の荒川十太夫は松緑。無骨で真っすぐに思い詰める主人公は彼のニンにあり、実に印象的な人物造形となっている。
松平隠岐守定直は坂東亀蔵。怜悧で理に沿わぬ疑問については十太夫を鋭く問い詰めるが、理解も情もある殿様を爽やかに演じる。松緑との息もよく合っている。
松平家目付役、杉田五左衛門役の吉之丞は口跡も立派。厳格ながら道理を弁え部下への思いやりを持った上級武士としての懐深い貫禄を見せる。さすが吉右衛門の部屋子から鍛え上げた播磨屋という気がする。
大石主税は松緑の息子、左近。若干16歳で切腹の場に向かう内蔵助の息子役。切腹に向かう花道の回想シーンは、凛々しくも悲しい。
左近は正月の歌舞伎番組で「私事ながら今年で高校卒業、これからは勉学を気にせずに芸の習得に励めます」と語って、親父の松緑から「でもまだ卒業は決まってないよな」と釘を差されたのが面白かった。染五郎や團子など同世代の若い世代と切磋琢磨して歌舞伎を支える力になってほしいね。
小品ながら繰り返しの再演にも耐える良くできた演目。講談が語り継いで来た物語はあなどれない。これからも再演を続けてほしいものである。
35分の幕間には、玄関ロビーで、昔の火消し伝統を残す、江戸消防記念会による「木遣り始め」が披露され、三本締め。
昼の部、切りは、「狐狸狐狸ばなし(こりこりばなし)」。
喜劇仕立てで、毒婦と、間男されてもぼんやりしていたような旦那が見せる狐と狸の化かしあいのようなどんでん返し。
千住芸者上がりの奔放に生きる毒婦、おきわを尾上右近が達者に演じてなかなか印象的な活躍。最後は自分の三味線で「金毘羅船船」まで歌って見せる。
雇人又市を演じる染五郎も、なかなか達者な演技で新境地を開く役を立派に演じた。
幸四郎は、おきわと並ぶ主役である手拭い屋伊之助。元々なんでもやる芸域の広い人ではあるのだが、女房に間男されてもボンヤリしている「暖簾に腕押し」の部分はまだ良いにしても、後半のどんでん返し部分になると、この役の持っている奥底のあくどい所がちょっと持ちきれない感あり。
法印重善の錦之助も、色男ぶりは板についているが、やはり小悪党っぽい所になると、どうも役にはまらない。やはり本当は、凄みのある悪党も出来るが妙な愛嬌もあるようなアクの強い俳優たちが演じるべき役なのだろう。
結構客席は沸いたが、終わってみると演目に出てくるのは悪党ばかりで、若干後味は良くないか。まあどんでん返しの繰り返しで気楽に見れるといえばその通りだが。
歌舞伎座を出て、この日の夜は「新ばし しみづ」で本年初の寿司。
先週の日曜日は、歌舞伎座第三部にポロっと戻りがあってチケットを取れたので、観劇前に早目に銀座に出て「鮨 み富」で一杯やってから歌舞伎座へ。ちょうど初日だ。
一階前方真ん中辺りの席。通路側にはガタイの良い外国人が居て、隣の日本人と思しい女性と英語でしきりに
愛想良く喋っているのだが、幕間でもキノコのように座ったまま動かないのがちょっと出入りに困るのだけどなあ。
最初の演目は短い舞踊「猩々(しょうじょう)」。
酒好きの霊獣、猩々達が酒を飲んでご機嫌になって踊るという趣向。松緑も勘九郎も踊りは達者であって、息を合わせて楽しげに踊る。松緑は力強く見えて繊細、勘九郎は線の太い行書を思わせる動きで、違いが面白い。
ここで35分の幕間。
続いて「天守物語(てんしゅものがたり)」。
姫路城を舞台に泉鏡花が書いた新歌舞伎。玉三郎演出。
姫路城の天守の闇に潜む夢幻の美しい世界。美しい異形の世界に生きる者とこの世の者との邂逅。夢幻の恋。
2014年7月の歌舞伎座、玉三郎、海老蔵でも見た。美しい富姫と図書之助の恋。玉三郎は妖艶にも美しく、海老蔵も美しかったが、どこか現世に見の置き所がないような雰囲気がまたよかった。
今回の富姫は七之助。玉三郎は妹分の亀姫に回る。図書之助は虎之介。
七之助は玉三郎に教わったと言うが、口跡は玉三郎によく似ている。富姫の幻想的、かつ妖艶で艶のある魅力を玉三郎からそのまま引き継いでいる。そして玉三郎が亀姫となって現れると、まるで二人のラブシーンのような濃厚な美しさが観客を魅了する。
虎之介の図書之助は凛々しくも若さに満ちてなかなか印象的。勘九郎、片岡亀蔵、獅童など。玉三郎の独壇場であったこの夢幻の世界は、七之助への引き継がれて行くのだろう。
2014年には、幕が閉まった後にカーテンコールがあったのだが、今回は無し。
一階前方真ん中辺りの席。通路側にはガタイの良い外国人が居て、隣の日本人と思しい女性と英語でしきりに
愛想良く喋っているのだが、幕間でもキノコのように座ったまま動かないのがちょっと出入りに困るのだけどなあ。
最初の演目は短い舞踊「猩々(しょうじょう)」。
酒好きの霊獣、猩々達が酒を飲んでご機嫌になって踊るという趣向。松緑も勘九郎も踊りは達者であって、息を合わせて楽しげに踊る。松緑は力強く見えて繊細、勘九郎は線の太い行書を思わせる動きで、違いが面白い。
ここで35分の幕間。
続いて「天守物語(てんしゅものがたり)」。
姫路城を舞台に泉鏡花が書いた新歌舞伎。玉三郎演出。
姫路城の天守の闇に潜む夢幻の美しい世界。美しい異形の世界に生きる者とこの世の者との邂逅。夢幻の恋。
2014年7月の歌舞伎座、玉三郎、海老蔵でも見た。美しい富姫と図書之助の恋。玉三郎は妖艶にも美しく、海老蔵も美しかったが、どこか現世に見の置き所がないような雰囲気がまたよかった。
今回の富姫は七之助。玉三郎は妹分の亀姫に回る。図書之助は虎之介。
七之助は玉三郎に教わったと言うが、口跡は玉三郎によく似ている。富姫の幻想的、かつ妖艶で艶のある魅力を玉三郎からそのまま引き継いでいる。そして玉三郎が亀姫となって現れると、まるで二人のラブシーンのような濃厚な美しさが観客を魅了する。
虎之介の図書之助は凛々しくも若さに満ちてなかなか印象的。勘九郎、片岡亀蔵、獅童など。玉三郎の独壇場であったこの夢幻の世界は、七之助への引き継がれて行くのだろう。
2014年には、幕が閉まった後にカーテンコールがあったのだが、今回は無し。
歌舞伎座11月「吉例顔見世大歌舞伎」は、大相撲九州場所が始まる前に見たのだが、記録をすっかり忘れていた。とりあえず最小限の備忘のみ。
昼の部は「極付印度伝 マハーバーラタ戦記」の通し上演。6年前に歌舞伎座で上演した新作歌舞伎の再演。
6年前はインド大使館後援となっていて、観客にも所々いかにもインド風な人が居たのだが、今回の歌舞伎座では日本人ばかりだなあ。
幕が開くと、インドの神様たちが鎮座する場所。下手黒御簾の下座音楽に上手演奏隊からいかにもインド風の楽器による演奏が重なって一風変わったインド風の雰囲気に。菊五郎、菊之助、楽善が絢爛豪華たる衣装で神々の座に並ぶこの冒頭、芝のぶがラクシュミーとして並んでいる。
ストーリーは全般に前回よりも整理され分かりやすくなっている気がした。菊之助の迦楼奈(かるな)は前回同様、インド古代叙事詩の主人公がきちんと歌舞伎の主人公として成立している。凛々しく高貴で、真っ直ぐで約束を違えない気品ある善人。無垢な善人であるが故に陥った闇も鮮やかに演じてみせる
彌十郎の太陽神(たいようしん)、 彦三郎の帝釈天(たいしゃくてん)など衣装も豪華で、両花道を使った演出も舞台に奥行きを与えている。
しかし特筆すべきは、鶴妖朶王女(づるようだおうじょ)を演じた芝のぶの圧倒的存在感。盲目ゆえに王位に就くことができなかった父親の復讐に燃え、邪悪な炎に身を焼く凄まじい前半の迫力。大詰めでは菊之助迦楼奈に感化され、自らの過去を振返る改心を見せる。絶命する階段落ち。周り舞台が回転して姿が見えなくなってもこの日一番の大きく長い観客の拍手が続いていた。心を打たれる圧巻の出来。この役は、6年前は七之助が演じて素晴らしかったが、それに勝るとも劣らない。
歌舞伎の世界は血縁主義で、歌舞伎の家に生まれた御曹司たちだけが主役を演じて興業が回り、国立劇場の俳優養成所出身者はずっと下積みが当然という慣行らしいが、力あるものに役を与える音羽屋の懐の深さだろうか。そうそう、「ナウシカ」の芝のぶも素晴らしかった。
インド古代叙事詩には凄まじい限りのこの世の破滅が綴られている。力によって世を統べようとするのは破滅への道。ウクライナ侵略やガザ紛争に揺れる今の世界を見ると、6年前よりもずっとこの作品のメッセージが切実に響いてくる。
大詰めで幕が降りた後、一度だけカーテンコール。これもまた、6年前の公演と同じ。インド古代叙事詩に題材を求めた素晴らしい歌舞伎公演であった。
幕間はいつも通り食堂で属したが、特に変わったものはなし。前回の「マハーバーラタ戦記」の時は、小さなカレーの小鉢が付いていたっけ。
2階のドリンクコーナーはちょっと前から休業。経営は階ごとに別なのかね。あるいは人手不足か。そういえば、筋書き売り場では交通系ICカードが使えなくなったのだが、イヤホンガイドやドリンクコーナーでは従来通り使える。この辺りもなぜ売り場ごとに違うのか不思議なところ。
夜の部最初の演目は、「秀山十種の内 松浦の太鼓(まつうらのたいこ)」。
松浦鎮信を演じる仁左衛門は、この通人で忠義と侍の心を忘れないが、愛嬌にあふれ粗忽なところもある殿様を、丁寧な描写で描いて観客の心を掴む。「秀山十種」と銘打った所には、出演できなかった9月の秀山祭と二世吉右衛門を偲ぶ気持ちが込められているのかもしれない。
松緑が初役で演じる大高源吾も実に印象的。胸に秘めた討ち入りの志を押し隠し、謎の付け句だけをを残して静かに去る大高源吾を、大詰めの場で観客は待ち、討ち入り成功の報告を聞いて大きなカタルシスを得る。二世松緑も父親の辰之助も演じていなかった役だそうだが、仁左衛門が松緑をこの役にと指名。確かに松緑のニンに合っている。
歌六の宝井其角はこの人の持ち役で、雪夜の邂逅や討ち入りの日の場面など随所で物語に膨らみを与えている。大変面白かったが、ただあまり大きな演目ではないので、折角の仁左衛門で見るなら他の演目でという気もしたのではあった。
次の演目は「鎌倉三代記(かまくらさんだいき)」。
歌舞伎で「三姫」と呼ばれる役のひとつ、時姫を梅枝が演じる。梅枝の瓜実顔は古風で美しい。余談ながら、うちの親父の年が離れた姉は、結構早くに亡くなったのだが、浮世絵に出てくる女性のような瓜実顔だったなあ。現代の美意識としては美人という範疇ではないかもしれないが、昔はもてたのかもしれない。いや、知らんけど(笑)
相手役の三浦之助義村は梅枝親父の時蔵。息子の売り出しに親父があんまり似合わない役に出て奮闘しているような感じもあるけれども。芝翫の佐々木高綱は井戸から急に姿形が変わって「実は」と出てくる元々印象的な役なのだが、これもなんだかピンとこなかったのは何故だろうか。
最後の演目は、「顔見世季花姿繪(かおみせづきはなのすがたえ)」と称して、「春調娘七種」「三社祭」「教草吉原雀」の舞踊三題。
「春調娘七種」は曽我物の舞踊。種之助、左近、染五郎若手3名。左近は静御前だが、女形でもなかなか綺麗に成立している。若いうちは立役でも女形を勉強したほうがよいと言うから、なかなか活躍の場が広がるのでは。
「三社祭」は、巳之助と尾上右近が悪玉と善玉に扮して軽妙に踊る。「教草吉原雀」は、又五郎、歌昇、孝太郎。
昼の部は「極付印度伝 マハーバーラタ戦記」の通し上演。6年前に歌舞伎座で上演した新作歌舞伎の再演。
6年前はインド大使館後援となっていて、観客にも所々いかにもインド風な人が居たのだが、今回の歌舞伎座では日本人ばかりだなあ。
幕が開くと、インドの神様たちが鎮座する場所。下手黒御簾の下座音楽に上手演奏隊からいかにもインド風の楽器による演奏が重なって一風変わったインド風の雰囲気に。菊五郎、菊之助、楽善が絢爛豪華たる衣装で神々の座に並ぶこの冒頭、芝のぶがラクシュミーとして並んでいる。
ストーリーは全般に前回よりも整理され分かりやすくなっている気がした。菊之助の迦楼奈(かるな)は前回同様、インド古代叙事詩の主人公がきちんと歌舞伎の主人公として成立している。凛々しく高貴で、真っ直ぐで約束を違えない気品ある善人。無垢な善人であるが故に陥った闇も鮮やかに演じてみせる
彌十郎の太陽神(たいようしん)、 彦三郎の帝釈天(たいしゃくてん)など衣装も豪華で、両花道を使った演出も舞台に奥行きを与えている。
しかし特筆すべきは、鶴妖朶王女(づるようだおうじょ)を演じた芝のぶの圧倒的存在感。盲目ゆえに王位に就くことができなかった父親の復讐に燃え、邪悪な炎に身を焼く凄まじい前半の迫力。大詰めでは菊之助迦楼奈に感化され、自らの過去を振返る改心を見せる。絶命する階段落ち。周り舞台が回転して姿が見えなくなってもこの日一番の大きく長い観客の拍手が続いていた。心を打たれる圧巻の出来。この役は、6年前は七之助が演じて素晴らしかったが、それに勝るとも劣らない。
歌舞伎の世界は血縁主義で、歌舞伎の家に生まれた御曹司たちだけが主役を演じて興業が回り、国立劇場の俳優養成所出身者はずっと下積みが当然という慣行らしいが、力あるものに役を与える音羽屋の懐の深さだろうか。そうそう、「ナウシカ」の芝のぶも素晴らしかった。
インド古代叙事詩には凄まじい限りのこの世の破滅が綴られている。力によって世を統べようとするのは破滅への道。ウクライナ侵略やガザ紛争に揺れる今の世界を見ると、6年前よりもずっとこの作品のメッセージが切実に響いてくる。
大詰めで幕が降りた後、一度だけカーテンコール。これもまた、6年前の公演と同じ。インド古代叙事詩に題材を求めた素晴らしい歌舞伎公演であった。
幕間はいつも通り食堂で属したが、特に変わったものはなし。前回の「マハーバーラタ戦記」の時は、小さなカレーの小鉢が付いていたっけ。
2階のドリンクコーナーはちょっと前から休業。経営は階ごとに別なのかね。あるいは人手不足か。そういえば、筋書き売り場では交通系ICカードが使えなくなったのだが、イヤホンガイドやドリンクコーナーでは従来通り使える。この辺りもなぜ売り場ごとに違うのか不思議なところ。
夜の部最初の演目は、「秀山十種の内 松浦の太鼓(まつうらのたいこ)」。
松浦鎮信を演じる仁左衛門は、この通人で忠義と侍の心を忘れないが、愛嬌にあふれ粗忽なところもある殿様を、丁寧な描写で描いて観客の心を掴む。「秀山十種」と銘打った所には、出演できなかった9月の秀山祭と二世吉右衛門を偲ぶ気持ちが込められているのかもしれない。
松緑が初役で演じる大高源吾も実に印象的。胸に秘めた討ち入りの志を押し隠し、謎の付け句だけをを残して静かに去る大高源吾を、大詰めの場で観客は待ち、討ち入り成功の報告を聞いて大きなカタルシスを得る。二世松緑も父親の辰之助も演じていなかった役だそうだが、仁左衛門が松緑をこの役にと指名。確かに松緑のニンに合っている。
歌六の宝井其角はこの人の持ち役で、雪夜の邂逅や討ち入りの日の場面など随所で物語に膨らみを与えている。大変面白かったが、ただあまり大きな演目ではないので、折角の仁左衛門で見るなら他の演目でという気もしたのではあった。
次の演目は「鎌倉三代記(かまくらさんだいき)」。
歌舞伎で「三姫」と呼ばれる役のひとつ、時姫を梅枝が演じる。梅枝の瓜実顔は古風で美しい。余談ながら、うちの親父の年が離れた姉は、結構早くに亡くなったのだが、浮世絵に出てくる女性のような瓜実顔だったなあ。現代の美意識としては美人という範疇ではないかもしれないが、昔はもてたのかもしれない。いや、知らんけど(笑)
相手役の三浦之助義村は梅枝親父の時蔵。息子の売り出しに親父があんまり似合わない役に出て奮闘しているような感じもあるけれども。芝翫の佐々木高綱は井戸から急に姿形が変わって「実は」と出てくる元々印象的な役なのだが、これもなんだかピンとこなかったのは何故だろうか。
最後の演目は、「顔見世季花姿繪(かおみせづきはなのすがたえ)」と称して、「春調娘七種」「三社祭」「教草吉原雀」の舞踊三題。
「春調娘七種」は曽我物の舞踊。種之助、左近、染五郎若手3名。左近は静御前だが、女形でもなかなか綺麗に成立している。若いうちは立役でも女形を勉強したほうがよいと言うから、なかなか活躍の場が広がるのでは。
「三社祭」は、巳之助と尾上右近が悪玉と善玉に扮して軽妙に踊る。「教草吉原雀」は、又五郎、歌昇、孝太郎。
9月の国立劇場大劇場では「妹背山女庭訓」のいわゆる「山の段」「吉野川の場」を上演。今まで実は国立で歌舞伎を見た事がなかったのだが、初めてチケットを取ってみた。「国立劇場さよなら公演」と称し、9月10月とこの演目が通しで出て、その後国立劇場は閉館し建て替えに入るのだとか。おそらくこれが今の施設への最初で最後の訪問になろうか。
以前、吉右衛門、玉三郎で歌舞伎座秀山祭に出た時には、実に素晴らしい演技と演目の構成に感心してブログに書いた。今回この演目の定高、女形最高峰の役に中村時蔵が挑むにあたり、松緑を相手役の大判事清澄に指名したのだという。現役の歌舞伎役者で定高を演じた事があるのは玉三郎、そして大判事清澄を演じた事があるのは白鸚しかいない。歌舞伎の重要な演目の継承としても重要な公演。
チケット買うのが面倒なんじゃないかと先入観があったのだが、国立劇場のサイトで直ぐに購入できる。場所が不便なのではとこれまた先入観があったが、有楽町線の永田町駅で降りて4番出口から出て劇場まで数分。
確かに外構部分と内装設備は少々古びてはいるが、館内のロビーは静かで広々と落ち着いた雰囲気。2階の食堂も昭和の大食堂の風情を残して、これまた広々としている。なかなか良い劇場。もっと前から来ればよかったなあ。後悔先に立たず。
今回の「妹背山女庭訓」は有名な「吉野川の場」の前に「春日野小松原の場」と「太宰館花渡しの場」がつく。これは悲劇に見舞われる久我之助清舟と太宰息女雛鳥の若き恋人たちがお互いを見初める場面と彼らを過酷な運命に追い込む蘇我入鹿の無理難題を描いた説明的な場面。そしてこれがあると次の「吉野川」の悲劇が一層身に染みて感じられるのであった。
座組は、太宰後室定高に中村時蔵。太宰息女雛鳥は中村梅枝、久我之助清舟に中村萬太郎と時蔵の息子たちを配し、大判事清澄が尾上松緑。
時蔵は初役とはいえ、さすがに手練れの女形だけあって、定高の品格、腹の座った覚悟、子供への深い情愛を余すところなく演じ切って見事なもの。松緑もこの大判事清澄という王代物屈指の大役に覚悟を決め、祖父の台本や音声を参照し、白鸚に助言を求めて臨んだだけあって、人物の懐の大きさ、子への情愛、主従の論理を受け入れる苦渋、そして肚の重さを見せて見事に成立していた。お互いを思いやる雛鳥と久我之助の清冽な恋、皮肉な運命に翻弄された悲恋の受容も見事。中村梅枝、中村萬太郎は2016年秀山祭の吉右衛門ー玉三郎「吉野川」に腰元役で出演していたのだそうで、奇しくもこの演目の継承に大変役立ったという事になる。
妹山側と背山側に居室を配し中央に吉野川が流れるシンメトリーな舞台装置も実に印象的。台本そのものも実によくできている。まだ初日なので、これから更に良くなるであろう。折しも歌舞伎座9月秀山祭は吉右衛門三回忌追善興行。2016年9月秀山祭の吉右衛門も鮮やかに思い出した。今月は国立劇場もまるで吉右衛門追善の如し。
以前、吉右衛門、玉三郎で歌舞伎座秀山祭に出た時には、実に素晴らしい演技と演目の構成に感心してブログに書いた。今回この演目の定高、女形最高峰の役に中村時蔵が挑むにあたり、松緑を相手役の大判事清澄に指名したのだという。現役の歌舞伎役者で定高を演じた事があるのは玉三郎、そして大判事清澄を演じた事があるのは白鸚しかいない。歌舞伎の重要な演目の継承としても重要な公演。
チケット買うのが面倒なんじゃないかと先入観があったのだが、国立劇場のサイトで直ぐに購入できる。場所が不便なのではとこれまた先入観があったが、有楽町線の永田町駅で降りて4番出口から出て劇場まで数分。
確かに外構部分と内装設備は少々古びてはいるが、館内のロビーは静かで広々と落ち着いた雰囲気。2階の食堂も昭和の大食堂の風情を残して、これまた広々としている。なかなか良い劇場。もっと前から来ればよかったなあ。後悔先に立たず。
今回の「妹背山女庭訓」は有名な「吉野川の場」の前に「春日野小松原の場」と「太宰館花渡しの場」がつく。これは悲劇に見舞われる久我之助清舟と太宰息女雛鳥の若き恋人たちがお互いを見初める場面と彼らを過酷な運命に追い込む蘇我入鹿の無理難題を描いた説明的な場面。そしてこれがあると次の「吉野川」の悲劇が一層身に染みて感じられるのであった。
座組は、太宰後室定高に中村時蔵。太宰息女雛鳥は中村梅枝、久我之助清舟に中村萬太郎と時蔵の息子たちを配し、大判事清澄が尾上松緑。
時蔵は初役とはいえ、さすがに手練れの女形だけあって、定高の品格、腹の座った覚悟、子供への深い情愛を余すところなく演じ切って見事なもの。松緑もこの大判事清澄という王代物屈指の大役に覚悟を決め、祖父の台本や音声を参照し、白鸚に助言を求めて臨んだだけあって、人物の懐の大きさ、子への情愛、主従の論理を受け入れる苦渋、そして肚の重さを見せて見事に成立していた。お互いを思いやる雛鳥と久我之助の清冽な恋、皮肉な運命に翻弄された悲恋の受容も見事。中村梅枝、中村萬太郎は2016年秀山祭の吉右衛門ー玉三郎「吉野川」に腰元役で出演していたのだそうで、奇しくもこの演目の継承に大変役立ったという事になる。
妹山側と背山側に居室を配し中央に吉野川が流れるシンメトリーな舞台装置も実に印象的。台本そのものも実によくできている。まだ初日なので、これから更に良くなるであろう。折しも歌舞伎座9月秀山祭は吉右衛門三回忌追善興行。2016年9月秀山祭の吉右衛門も鮮やかに思い出した。今月は国立劇場もまるで吉右衛門追善の如し。
今月の歌舞伎座は、「秀山祭九月大歌舞伎」。歌舞伎座新開場十周年と共に二世中村吉右衛門三回忌追善公演。
土曜日は、昼に国立劇場で「妹背山女庭訓」吉野川を見てから歌舞伎座に移動して夜の部。この日が初日。
最初の演目は「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」のうち、「車引」。歌舞伎の様式美にあふれた一幕。
松王丸を又五郎、息子の歌昇が梅王、種之介が桜丸。又五郎一家で三兄弟役を務める。
種之介桜丸は柔らかく品のある発声。艶やかに声が響く。歌昇梅王は力強く、声が割れんばかりの大音声で、荒事らしい人物造形。眼光鋭く見得は低く、どっしりとした安定感。以前、松緑が配信で、吉右衛門が若手につける厳しい稽古について述べながら、「大体、いつも一番怒られるのは歌昇なんだ(笑)」と冗談を言っていた事があったが、次世代の播磨屋を支える一番上の若手として、歌昇には目をかけていたんだ、きっと。
そして又五郎松王は、流石に堂々たる貫禄。そしてラスボスとして歌六が藤原時平。重厚で大きい。人間国宝にして今や播磨屋の大黒柱である。追善に、実に目出度い播磨屋の揃い踏み。「播磨屋」「播磨屋」と大向こうが大忙し。吉右衛門も何処かで「まだまだ」と言いながら、影ではにやりと笑っていたのでは。
そして次の演目、「連獅子」は、秀山祭初日夜の部の白眉。
菊之介の親獅子は剛より柔にして包容力のある親獅子。しかしその艷やかで優美な所作は、寸分の隙もない動きの正確性で裏打ちされている。
丑之助も眼差しをキリリと決めて一点一画をおろそかにしない端正な子獅子。出て来た時に随分小さいなと思ったが、まだ9歳。連獅子では最年少記録なのでは。
隈取のせいもあるが、後ジテでは亡き二世吉右衛門が乗り移ったかのような凛々しい顔。親子連獅子も色々見たが、やはり親に食いついて行くかのような子獅子が多い。しかし丑之助、菊之助の連獅子は、子が親を見据えるのではなく、お互いにここではない更なる高みに視線を送っているような素晴らしい出来。今まであまり見た事がないような、ストーンと見晴らしがよくなったような、清々しい連獅子だった。
今は泉下の吉右衛門は、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた孫の凛々しい舞台を、きっと何処かで相好を崩して見ていたに違いない。
夜の部最後は「一本刀土俵入(いっぽんがたなどひょういり)」
長谷川伸の名作。幸四郎が初役で駒形茂兵衛を演じる。序幕「取手の宿」。相撲取りを目指す純朴な田舎者だった駒形茂兵衛が酌婦のお蔦と出会う。身の上話をするうちに、母親を思う茂兵衛の情にほだされたお蔦が、一文無しの茂兵衛に「しっかりやりな」と意見して、巾着ごとのありったけと櫛も簪もくれてやる。
ただ、幸四郎はこの序盤で、茂兵衛を若干阿呆寄りに作りすぎているのではないかと感じた。以前見た白鸚はこのあたりさすがのバランスだったが、茂兵衛は、若く世間を知らず人擦れしていない若者であって、別に阿呆ではないと思うんだなあ。でないと、後半でまた取手にやってくる、目端が利く渡世人で昔の恩を忘れていないという設定の人物と同じと思えなくなるのだが。しかし幸四郎も、後半の渡世人になってからは素晴らしい出来。
お蔦の雀右衛門は、何度も演じているだけあって、まさに自分の役にしている印象。序盤は、捨て鉢になった酌婦というよりも、根底にある情の深さ、人の好さのほうがにじみ出ているのがこの人の持ち味なのだろう。吉右衛門の相手役としても長年一緒に様々な演目で支えて来たベテランの女形。
力士にも横綱にもなれず渡世人になった茂兵衛が、恩人のお蔦を訪ねる。そして、その博打狂の旦那がしでかした不始末で悪漢たちに追われる家族の窮地を救ってやる。横綱になってみせるという約束は果たせなかったが、落ち延びるお蔦たちを遠目に見送りながら、「しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」とつぶやく最後が泣かせる。これも吉右衛門の当たり役。
松緑は、初日の国立劇場で「吉野川」大判事という大役をこなし、指導を受けた白鸚を自宅に訪ねて挨拶し、歌舞伎座でお蔦旦那の辰三郎を演じるために歌舞伎座入りしたのだという。「吉右衛門のおじに受けた恩は語り尽くせるものではありません。せめて夜の部の最後の演目だけでも出演させていただき、少しでも恩返しができれば」と筋書きで語っている。由縁ある人々が集まり、素晴らしい追善公演になった。
土曜日は、昼に国立劇場で「妹背山女庭訓」吉野川を見てから歌舞伎座に移動して夜の部。この日が初日。
最初の演目は「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」のうち、「車引」。歌舞伎の様式美にあふれた一幕。
松王丸を又五郎、息子の歌昇が梅王、種之介が桜丸。又五郎一家で三兄弟役を務める。
種之介桜丸は柔らかく品のある発声。艶やかに声が響く。歌昇梅王は力強く、声が割れんばかりの大音声で、荒事らしい人物造形。眼光鋭く見得は低く、どっしりとした安定感。以前、松緑が配信で、吉右衛門が若手につける厳しい稽古について述べながら、「大体、いつも一番怒られるのは歌昇なんだ(笑)」と冗談を言っていた事があったが、次世代の播磨屋を支える一番上の若手として、歌昇には目をかけていたんだ、きっと。
そして又五郎松王は、流石に堂々たる貫禄。そしてラスボスとして歌六が藤原時平。重厚で大きい。人間国宝にして今や播磨屋の大黒柱である。追善に、実に目出度い播磨屋の揃い踏み。「播磨屋」「播磨屋」と大向こうが大忙し。吉右衛門も何処かで「まだまだ」と言いながら、影ではにやりと笑っていたのでは。
そして次の演目、「連獅子」は、秀山祭初日夜の部の白眉。
菊之介の親獅子は剛より柔にして包容力のある親獅子。しかしその艷やかで優美な所作は、寸分の隙もない動きの正確性で裏打ちされている。
丑之助も眼差しをキリリと決めて一点一画をおろそかにしない端正な子獅子。出て来た時に随分小さいなと思ったが、まだ9歳。連獅子では最年少記録なのでは。
隈取のせいもあるが、後ジテでは亡き二世吉右衛門が乗り移ったかのような凛々しい顔。親子連獅子も色々見たが、やはり親に食いついて行くかのような子獅子が多い。しかし丑之助、菊之助の連獅子は、子が親を見据えるのではなく、お互いにここではない更なる高みに視線を送っているような素晴らしい出来。今まであまり見た事がないような、ストーンと見晴らしがよくなったような、清々しい連獅子だった。
今は泉下の吉右衛門は、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた孫の凛々しい舞台を、きっと何処かで相好を崩して見ていたに違いない。
夜の部最後は「一本刀土俵入(いっぽんがたなどひょういり)」
長谷川伸の名作。幸四郎が初役で駒形茂兵衛を演じる。序幕「取手の宿」。相撲取りを目指す純朴な田舎者だった駒形茂兵衛が酌婦のお蔦と出会う。身の上話をするうちに、母親を思う茂兵衛の情にほだされたお蔦が、一文無しの茂兵衛に「しっかりやりな」と意見して、巾着ごとのありったけと櫛も簪もくれてやる。
ただ、幸四郎はこの序盤で、茂兵衛を若干阿呆寄りに作りすぎているのではないかと感じた。以前見た白鸚はこのあたりさすがのバランスだったが、茂兵衛は、若く世間を知らず人擦れしていない若者であって、別に阿呆ではないと思うんだなあ。でないと、後半でまた取手にやってくる、目端が利く渡世人で昔の恩を忘れていないという設定の人物と同じと思えなくなるのだが。しかし幸四郎も、後半の渡世人になってからは素晴らしい出来。
お蔦の雀右衛門は、何度も演じているだけあって、まさに自分の役にしている印象。序盤は、捨て鉢になった酌婦というよりも、根底にある情の深さ、人の好さのほうがにじみ出ているのがこの人の持ち味なのだろう。吉右衛門の相手役としても長年一緒に様々な演目で支えて来たベテランの女形。
力士にも横綱にもなれず渡世人になった茂兵衛が、恩人のお蔦を訪ねる。そして、その博打狂の旦那がしでかした不始末で悪漢たちに追われる家族の窮地を救ってやる。横綱になってみせるという約束は果たせなかったが、落ち延びるお蔦たちを遠目に見送りながら、「しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」とつぶやく最後が泣かせる。これも吉右衛門の当たり役。
松緑は、初日の国立劇場で「吉野川」大判事という大役をこなし、指導を受けた白鸚を自宅に訪ねて挨拶し、歌舞伎座でお蔦旦那の辰三郎を演じるために歌舞伎座入りしたのだという。「吉右衛門のおじに受けた恩は語り尽くせるものではありません。せめて夜の部の最後の演目だけでも出演させていただき、少しでも恩返しができれば」と筋書きで語っている。由縁ある人々が集まり、素晴らしい追善公演になった。
今月の歌舞伎座は、「秀山祭九月大歌舞伎」。歌舞伎座新開場十周年と共に二世中村吉右衛門三回忌追善公演でもある。
先週末に昼夜とも見物したので備忘録を。
昼の部最初は、「祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)」。いわゆる「金閣寺」
前半の浄瑠璃は竹本葵太夫。太く渋い声で場面を締める。
米吉の雪姫は可憐で美しい。そして強さが必要な場面ではそれもきちんと出ている。「爪先鼠」でどっと桜の花びらが落ちた中で演じる場面でも、魅惑的な不思議な魅力があった。今回の公演では児太郎とのダブルキャスト。時分の花というが、三姫も若手がどんどん演じて当然の時代になっているのだなあ。
慶寿院尼の福助は、体調不良で児太郎が代演と当日アナウンスあり。ちょっと心配。児太郎が雪姫を演じる日程の時までには復帰できる目途が立っているのだろうか。
歌六の松永大膳は押し出しよく大きな存在として成立。人間国宝にもなり、二世吉右衛門がこの世を去った今では播磨屋の大黒柱だ。歌昇、種之助の播磨屋勢が脇を固める。よい追善演目となった。
客演格の勘九郎、此下東吉は4度目とあって手慣れたもので颯爽として演じる。
昼の部次の演目は、新古演劇十種の内 「土蜘(つちぐも)」。
松羽目の舞台。幸四郎が吉右衛門の当たり役、叡山の僧智籌実は土蜘の精を初役で演じる。明かりも音も消した僧智籌、花道の登場はなかなか不気味。
又五郎が源頼光。息子の歌昇が番卒。その息子の種太郎は太刀持ち、秀乃介は式神でそれぞれ出演。爺様の又五郎は、孫の活躍が嬉しいやら、ちゃんとできるか心配やらで大変だろう。
土蜘の精の正体を現してからの幸四郎は、それほどの怪異さは感じない。
蜘蛛の糸は役者の家によって作るお弟子さんが決まっており、それぞれやり方が違うらしい。今回は高麗屋のお弟子さんが作ったのかな。縮れ系もあるのだが、今回のは細く直線的な糸。スープの絡みは悪いかな<ラーメンの麺じゃないんだよw
公演2日目の日曜、糸投げは、最初の登場の場と土蜘になっての花道で2度失敗したような。年中やっている訳ではないから、もう少し練習が必要だろう。しかし一度くらい投げてみたいねえ、あの蜘蛛の糸。
最後の演目は、秀山十種の内 「二條城の清正(にじょうじょうのきよまさ)」。淀川御座船の場。
老境に達した忠臣加藤清正と秀頼が心を通わせる一場面。
白鸚は、吉右衛門三回忌追善にあたり、弟と口三味線で歌舞伎の真似事をして遊んだ子供の頃を思い出すのだと筋書に。前の公演を体調不良で休演して8か月舞台から離れている。しかし、たった一人の弟の追善なので、どうしても出演したかったのだと。
お互いに血気盛んな頃は仲違いもあったと聞くが、老境に達した今、もはや全ては恩讐の彼方に消え去っているのでは。そして役者としてのバトンは息子の幸四郎、そしてこの演目で共演した孫の染五郎へと渡されようとしている。役者としての人生が二重写しになるような短い一幕。しかし見れてよかった。昼の部追善の素晴らしい締めくくり。
先週末に昼夜とも見物したので備忘録を。
昼の部最初は、「祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)」。いわゆる「金閣寺」
前半の浄瑠璃は竹本葵太夫。太く渋い声で場面を締める。
米吉の雪姫は可憐で美しい。そして強さが必要な場面ではそれもきちんと出ている。「爪先鼠」でどっと桜の花びらが落ちた中で演じる場面でも、魅惑的な不思議な魅力があった。今回の公演では児太郎とのダブルキャスト。時分の花というが、三姫も若手がどんどん演じて当然の時代になっているのだなあ。
慶寿院尼の福助は、体調不良で児太郎が代演と当日アナウンスあり。ちょっと心配。児太郎が雪姫を演じる日程の時までには復帰できる目途が立っているのだろうか。
歌六の松永大膳は押し出しよく大きな存在として成立。人間国宝にもなり、二世吉右衛門がこの世を去った今では播磨屋の大黒柱だ。歌昇、種之助の播磨屋勢が脇を固める。よい追善演目となった。
客演格の勘九郎、此下東吉は4度目とあって手慣れたもので颯爽として演じる。
昼の部次の演目は、新古演劇十種の内 「土蜘(つちぐも)」。
松羽目の舞台。幸四郎が吉右衛門の当たり役、叡山の僧智籌実は土蜘の精を初役で演じる。明かりも音も消した僧智籌、花道の登場はなかなか不気味。
又五郎が源頼光。息子の歌昇が番卒。その息子の種太郎は太刀持ち、秀乃介は式神でそれぞれ出演。爺様の又五郎は、孫の活躍が嬉しいやら、ちゃんとできるか心配やらで大変だろう。
土蜘の精の正体を現してからの幸四郎は、それほどの怪異さは感じない。
蜘蛛の糸は役者の家によって作るお弟子さんが決まっており、それぞれやり方が違うらしい。今回は高麗屋のお弟子さんが作ったのかな。縮れ系もあるのだが、今回のは細く直線的な糸。スープの絡みは悪いかな<ラーメンの麺じゃないんだよw
公演2日目の日曜、糸投げは、最初の登場の場と土蜘になっての花道で2度失敗したような。年中やっている訳ではないから、もう少し練習が必要だろう。しかし一度くらい投げてみたいねえ、あの蜘蛛の糸。
最後の演目は、秀山十種の内 「二條城の清正(にじょうじょうのきよまさ)」。淀川御座船の場。
老境に達した忠臣加藤清正と秀頼が心を通わせる一場面。
白鸚は、吉右衛門三回忌追善にあたり、弟と口三味線で歌舞伎の真似事をして遊んだ子供の頃を思い出すのだと筋書に。前の公演を体調不良で休演して8か月舞台から離れている。しかし、たった一人の弟の追善なので、どうしても出演したかったのだと。
お互いに血気盛んな頃は仲違いもあったと聞くが、老境に達した今、もはや全ては恩讐の彼方に消え去っているのでは。そして役者としてのバトンは息子の幸四郎、そしてこの演目で共演した孫の染五郎へと渡されようとしている。役者としての人生が二重写しになるような短い一幕。しかし見れてよかった。昼の部追善の素晴らしい締めくくり。
先週土曜日は、歌舞伎座「七月大歌舞伎」夜の部。
最初の演目は「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」
「エレキテル」の平賀源内が書いた人形浄瑠璃が原作。
「太平記」の時代が背景。矢口の渡し守りの家に、宿を求めてやって来た新田義峯に、その家の娘お舟が一目惚れする。しかしその親父である家の主、頓兵衛こそが義峯の兄、義興を殺した犯人であり、報奨を求めて更に義峯をも殺そうとするという物語。
主役のお舟は児太郎。純朴な娘が一心に相手の気を引こうとする「クドキ」は可憐に成立。赤面悪漢の父親に瀕死の傷を負わされても、好いた相手の命を助けたい一心で、なんとか櫓の太鼓を叩いて逃げる時間を与えようとする。死を賭けた娘の真っ直ぐな決意と情念を児太郎が見事に演じている。舞台が回り矢口の渡しの川面が広がった大詰めが実に印象的。
このお舟は若手の女形には大役。前に歌舞伎座で見た時には、梅枝が演じていたが、その時の脇が児太郎の傾城うてな。いつかは自分もと勉強していたに違いない。
最後まで悪漢を貫く渡し守頓兵衛は男女蔵。藪から怪異に登場して、家に鍵がかかっていると見るや壁をバリバリ壊して入っていく無法な様子や、鳴鍔を鳴らしながらの「蜘蛛手蛸足の引っ込み」など、随所に堂々たる迫力あり。大きく、サマになっている。
父親の四世左團次は先頃亡くなったが、物事に拘らない恬淡とした飾らない性格でファンも多かった。ただ、自伝の『いい加減、人生録』であっけらかんと語る自らの出自や離婚経験を読んでも、肉親への情は薄かった印象。
男女蔵が親父に教わった話を聞いても「目立つな」「変わった事をやるな」程度であって、息子に特に役を与えて引き立てる事もなかったような。それでもやはり頭の上の重しであったには違いなく、今回の好演には、なんだかあれこれ吹っ切れたような明るい力強さを感じる。
今更白塗りの二枚目という訳にも行くまいが、親父譲りのニンを生かして、「毛抜」の粂寺弾正、「助六」の髭の意休、「俊寛」の瀬尾、「身替座禅」の奥方玉ノ井などなど、悪役、老け役に活路を見出せば、今後は歌舞伎での前途洋々ではないか。更なる活躍を祈りたい。
次の演目は、「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ) め組の喧嘩」。
鳶と相撲取りの喧嘩を題材に、江戸の風俗が印象的な世話物。團十郎演じる「め組」辰五郎は青光りするような眼光が印象的な鳶頭。眼光が鋭すぎる所が音羽屋が演じる時と若干トーンが違うけれども、これはこれで粋で鯔背な鳶に仕上がっている。
四ツ車大八は右團次、男女蔵はこの演目にも九竜山浪右衛門で登場。次の日曜は大相撲名古屋場所の初日で名古屋遠征を計画していただけに、舞台に相撲取りが登場すると相撲観戦の前触れのようで楽しい。
辰五郎の女房お仲は、相撲取りへの仕返しをためらっているように見える辰五郎に、仕返しをして男を上げないのなら離縁すると啖呵を切る鉄火な江戸の女だが、ちょっと雀右衛門には似合わない感じがあるかな。
大詰め、いよいよ衝突になった際の立ち回りは大勢人が出て実に派手で賑やかなもの。新之助も登場。いよいよ雌雄を決する場面に。舞台にこれだけ大勢の役者が出るのは、コロナ禍が始まってから久しくなかったのでは。
最後は焚出し喜三郎が後方から梯子につかまり上方から、ギリシャ劇の「デウス・エクス・マキナ」の如き「裁定者」として群衆を分けて舞台に登場。町奉行、寺社奉行からぞれぞれ賜った法被を見せて見事にこの喧嘩を鎮める。又五郎の登場で、2時間の長い演目がきちんと締まった。
ここで30分の幕間。「花篭」で「花かご御膳」。
最後の演目は、「九世市川團十郎歿後百二十年」。
新歌舞伎十八番の内 「鎌倉八幡宮静の法楽舞(かまくらはちまんぐうしずかのほうらくまい)」。
「新歌舞伎十八番」は、歌舞伎十八番を制定した七世團十郎が更に自分の当たり役を網羅しようとして果たせず、その後を継いだ九世團十郎が制定。実際には40演目あって内容が伝わっていない演目も多い。この「静の法楽舞」は2018年に当時の海老蔵が復活上演した演目の再演。
助六でも登場する「河東節」に加え、常磐津、清元、竹本、長唄が勢ぞろいして掛け合いをするという大変豪華な演奏。
。
團十郎が、静御前、源義経、老女、白蔵主、油坊主など早変わりで何役も演じる。團十郎の子供、新之助、ぼたんも登場。歌舞伎らしい演出が随所にあってあれよあれよという間に最後は花道の「押し戻し」まで。気楽に見物できて、なかなか面白かった。
最初の演目は「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」
「エレキテル」の平賀源内が書いた人形浄瑠璃が原作。
「太平記」の時代が背景。矢口の渡し守りの家に、宿を求めてやって来た新田義峯に、その家の娘お舟が一目惚れする。しかしその親父である家の主、頓兵衛こそが義峯の兄、義興を殺した犯人であり、報奨を求めて更に義峯をも殺そうとするという物語。
主役のお舟は児太郎。純朴な娘が一心に相手の気を引こうとする「クドキ」は可憐に成立。赤面悪漢の父親に瀕死の傷を負わされても、好いた相手の命を助けたい一心で、なんとか櫓の太鼓を叩いて逃げる時間を与えようとする。死を賭けた娘の真っ直ぐな決意と情念を児太郎が見事に演じている。舞台が回り矢口の渡しの川面が広がった大詰めが実に印象的。
このお舟は若手の女形には大役。前に歌舞伎座で見た時には、梅枝が演じていたが、その時の脇が児太郎の傾城うてな。いつかは自分もと勉強していたに違いない。
最後まで悪漢を貫く渡し守頓兵衛は男女蔵。藪から怪異に登場して、家に鍵がかかっていると見るや壁をバリバリ壊して入っていく無法な様子や、鳴鍔を鳴らしながらの「蜘蛛手蛸足の引っ込み」など、随所に堂々たる迫力あり。大きく、サマになっている。
父親の四世左團次は先頃亡くなったが、物事に拘らない恬淡とした飾らない性格でファンも多かった。ただ、自伝の『いい加減、人生録』であっけらかんと語る自らの出自や離婚経験を読んでも、肉親への情は薄かった印象。
男女蔵が親父に教わった話を聞いても「目立つな」「変わった事をやるな」程度であって、息子に特に役を与えて引き立てる事もなかったような。それでもやはり頭の上の重しであったには違いなく、今回の好演には、なんだかあれこれ吹っ切れたような明るい力強さを感じる。
今更白塗りの二枚目という訳にも行くまいが、親父譲りのニンを生かして、「毛抜」の粂寺弾正、「助六」の髭の意休、「俊寛」の瀬尾、「身替座禅」の奥方玉ノ井などなど、悪役、老け役に活路を見出せば、今後は歌舞伎での前途洋々ではないか。更なる活躍を祈りたい。
次の演目は、「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ) め組の喧嘩」。
鳶と相撲取りの喧嘩を題材に、江戸の風俗が印象的な世話物。團十郎演じる「め組」辰五郎は青光りするような眼光が印象的な鳶頭。眼光が鋭すぎる所が音羽屋が演じる時と若干トーンが違うけれども、これはこれで粋で鯔背な鳶に仕上がっている。
四ツ車大八は右團次、男女蔵はこの演目にも九竜山浪右衛門で登場。次の日曜は大相撲名古屋場所の初日で名古屋遠征を計画していただけに、舞台に相撲取りが登場すると相撲観戦の前触れのようで楽しい。
辰五郎の女房お仲は、相撲取りへの仕返しをためらっているように見える辰五郎に、仕返しをして男を上げないのなら離縁すると啖呵を切る鉄火な江戸の女だが、ちょっと雀右衛門には似合わない感じがあるかな。
大詰め、いよいよ衝突になった際の立ち回りは大勢人が出て実に派手で賑やかなもの。新之助も登場。いよいよ雌雄を決する場面に。舞台にこれだけ大勢の役者が出るのは、コロナ禍が始まってから久しくなかったのでは。
最後は焚出し喜三郎が後方から梯子につかまり上方から、ギリシャ劇の「デウス・エクス・マキナ」の如き「裁定者」として群衆を分けて舞台に登場。町奉行、寺社奉行からぞれぞれ賜った法被を見せて見事にこの喧嘩を鎮める。又五郎の登場で、2時間の長い演目がきちんと締まった。
ここで30分の幕間。「花篭」で「花かご御膳」。
最後の演目は、「九世市川團十郎歿後百二十年」。
新歌舞伎十八番の内 「鎌倉八幡宮静の法楽舞(かまくらはちまんぐうしずかのほうらくまい)」。
「新歌舞伎十八番」は、歌舞伎十八番を制定した七世團十郎が更に自分の当たり役を網羅しようとして果たせず、その後を継いだ九世團十郎が制定。実際には40演目あって内容が伝わっていない演目も多い。この「静の法楽舞」は2018年に当時の海老蔵が復活上演した演目の再演。
助六でも登場する「河東節」に加え、常磐津、清元、竹本、長唄が勢ぞろいして掛け合いをするという大変豪華な演奏。
。
團十郎が、静御前、源義経、老女、白蔵主、油坊主など早変わりで何役も演じる。團十郎の子供、新之助、ぼたんも登場。歌舞伎らしい演出が随所にあってあれよあれよという間に最後は花道の「押し戻し」まで。気楽に見物できて、なかなか面白かった。
6月最初の日曜に、歌舞伎座「六月大歌舞伎」昼の部。この昼の部は当初予定から演目変更、代役が相次いだ。
最初の演目は「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」。
「傾城」も「反魂香」も出てこないが、今は演じられない別の段では出てくるのそうで。これも「歌舞伎あるある」。今回かかる演目の通称は「吃又」。劇中のセリフにも「吃り」とか「片輪」とか平気で出てくる。まあ、歌舞伎は放送禁止用語関係ないからなあ(笑)
「吃りの又平」を中車が演じる。中車が歌舞伎座の義太夫狂言で大きな役をやるのは初めてではなかろうか。従兄弟の猿之助が女房おとくで横についてサポートすればやりやすかろうという算段の演目選定だったのでは。しかし肝心の猿之助が突然出演不可能でエライ事に。
猿之助の代役は、一度この演目で女房おとくを演じた事のある壱太郎を充てたが、壱太郎は元々夜の部「すし屋」のお里にも出演予定。左團次さん休演で演目差し替えとなった昼の舞踊「扇獅子」にも出ることになり、そこに「吃又」も加わって大忙し。
ただ中車は、危機感もあったろうし、随分と事前に稽古を積んでいたのだろう。元々現代劇での演技力には定評がある訳で、違和感はなく芝居に溶け込んでいる。ただ敢えて言うなら、義太夫に乗ったセリフなどの歌舞伎味は若干薄いか。これはある意味当然で、スイスイ出来たら幼い頃から稽古している歌舞伎役者の立つ瀬が無かろう。
今まで見た又平では、喉を本当に掻きむしり指を噛み千切らんばかりの苦悶と自分自身への憤激と絶望を体現した吉右衛門を懐かしく思い出した。
壱太郎は2日目だったがよく奮闘している。ただ、言葉が不自由な旦那の分まで喋りまくる、旦那への情愛があふれた猿之助のおとくに比べると、「たくさんの台詞をよく覚えたな」のレベルに留まっている感あり。ただ、今月は大忙しであるから、これからもっと顕著に良くなってくるのだろう。芸は実に達者。
歌六が土佐将監光信。年功や手柄で名をやるのではない、師匠の名は自分の絵の腕によって勝ち取るのだ、厳しい態度で腕を磨けと諭す師匠を演じて場に重みと深みを与えている。女中役の寿猿さんも元気。團子が修理之助を凛々しく演じる。又平がこれがこの世の最後と渾身の力で手水鉢に描いた自画像が石を抜けて表にうかびでる奇跡。なかなかよく出来た「吃又」。
35分の休憩は「花篭」で食事。しかし休憩を挟んでまだ「吃又」が続くのはエラク長いなと思ったら、続く「浮世又平住家」の段は53年ぶりの上演だとか。大津絵の屏風に書かれた人物が現実化して踊るという、シュールな舞踊劇、「戯場花名画彩色」(かぶきのはなめいがのいろどり)の一幕。新悟、米吉、男寅、福之助、歌之助、笑也、猿弥、男女蔵など、賑やかに次々大勢出演してなかなか面白かった。
最初の演目は「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」。
「傾城」も「反魂香」も出てこないが、今は演じられない別の段では出てくるのそうで。これも「歌舞伎あるある」。今回かかる演目の通称は「吃又」。劇中のセリフにも「吃り」とか「片輪」とか平気で出てくる。まあ、歌舞伎は放送禁止用語関係ないからなあ(笑)
「吃りの又平」を中車が演じる。中車が歌舞伎座の義太夫狂言で大きな役をやるのは初めてではなかろうか。従兄弟の猿之助が女房おとくで横についてサポートすればやりやすかろうという算段の演目選定だったのでは。しかし肝心の猿之助が突然出演不可能でエライ事に。
猿之助の代役は、一度この演目で女房おとくを演じた事のある壱太郎を充てたが、壱太郎は元々夜の部「すし屋」のお里にも出演予定。左團次さん休演で演目差し替えとなった昼の舞踊「扇獅子」にも出ることになり、そこに「吃又」も加わって大忙し。
ただ中車は、危機感もあったろうし、随分と事前に稽古を積んでいたのだろう。元々現代劇での演技力には定評がある訳で、違和感はなく芝居に溶け込んでいる。ただ敢えて言うなら、義太夫に乗ったセリフなどの歌舞伎味は若干薄いか。これはある意味当然で、スイスイ出来たら幼い頃から稽古している歌舞伎役者の立つ瀬が無かろう。
今まで見た又平では、喉を本当に掻きむしり指を噛み千切らんばかりの苦悶と自分自身への憤激と絶望を体現した吉右衛門を懐かしく思い出した。
壱太郎は2日目だったがよく奮闘している。ただ、言葉が不自由な旦那の分まで喋りまくる、旦那への情愛があふれた猿之助のおとくに比べると、「たくさんの台詞をよく覚えたな」のレベルに留まっている感あり。ただ、今月は大忙しであるから、これからもっと顕著に良くなってくるのだろう。芸は実に達者。
歌六が土佐将監光信。年功や手柄で名をやるのではない、師匠の名は自分の絵の腕によって勝ち取るのだ、厳しい態度で腕を磨けと諭す師匠を演じて場に重みと深みを与えている。女中役の寿猿さんも元気。團子が修理之助を凛々しく演じる。又平がこれがこの世の最後と渾身の力で手水鉢に描いた自画像が石を抜けて表にうかびでる奇跡。なかなかよく出来た「吃又」。
35分の休憩は「花篭」で食事。しかし休憩を挟んでまだ「吃又」が続くのはエラク長いなと思ったら、続く「浮世又平住家」の段は53年ぶりの上演だとか。大津絵の屏風に書かれた人物が現実化して踊るという、シュールな舞踊劇、「戯場花名画彩色」(かぶきのはなめいがのいろどり)の一幕。新悟、米吉、男寅、福之助、歌之助、笑也、猿弥、男女蔵など、賑やかに次々大勢出演してなかなか面白かった。
先週末は歌舞伎座「六月大歌舞伎」夜の部。
館内では7月興行のチラシが撤去されている。猿之助休演が正式に決まったため刷り直ししているのだろう。
本日の演目は「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」。
「木の実」、「小金吾討死」、「すし屋」の段は仁左エ門以下、松嶋屋親子三代揃踏み。そしていわゆる「四の切」、「川連法眼館」は松緑が佐藤忠信と源九郎狐を演じる。
「木の実」は仁左衛門演じる「いがみの権太」登場の場。平維盛を訪ねる奥方一行を手玉に取って金をせしめる手慣れた計略と、自分の女房、子供に向ける深い情愛。人間臭い悪党を仁左衛門が印象的に演じて観客の心を掴む。
関西では「ゴンタ」というのは言うことを聞かない子供などに使うことがあって、子供のころいたずらなどをすると、婆様にはいつも「ゴンタな子やなあ」と言われていた。この演目から来ているという話だが、とても懐かしい言葉。人気の役だったんだなあ。最近ではもう使われてないだろうが。
「小金吾討死」では主馬小金吾を演じる仁左衛門の孫、千之助が。まだ前髪を落としていない凛々しい若い武士が主君の奥方と子供を守って決死の戦いを演じる。取り縄を使った印象的な立ち回り。若者が必死に頑張る所を観客に見せる段。千之助は頑張っている。深手を負い、守りきれなかったと観念して若葉の内侍を先に行かせる無念。
「すし屋」冒頭では壱太郎が、新しい奉公人弥助と祝言を上げる事が決まってウキウキの村娘お里を健康的な色気と共に演じる。達者なものである。周りのおばちゃん達は「あら可愛いわね」と口々に感心。ただ、歌舞伎では首実検の首は必ず偽物であるように、村娘の恋は成就しないのであった。
仁左衛門の演じる権太は、上方風で泥臭く人間味のある人物造形。「性根を捕えていれば型にこだわらない」とよく述べているが、観客には大変に分かりやすい作劇。寿司桶を巡るやり取りも段取りがよく分かる。
自分の妻と子供を身代わりにしたのだから、本当は喜ぶところではないのだが、自分の計略がうまく行き、親父のためにもなったと喜んで、「おい親父うまくいったぞ!」と」ばかり勇んで家に入った所で、「また金目当てにとんでもない事しやがってコノヤロー」と誤解して逆上した親父に腹をブスリと刺されるという突然の悲劇。親父役の鮓屋弥左衛門は歌六。権太の芝居をしっかり受け止め、物語に重みを与えている。
「すし屋」では権太が腹を刺されてから結構芝居があるのでちょっとダレるものだが、今回の上演ではほとんど気にならないのが珍しい。錦之助も場面が変わるとすっと高貴な殿様として成立する。主役も脇も揃った見どころある舞台。
最後の段、「川連法眼館」を松緑が演じるのは平成十四年の襲名披露以来、歌舞伎座では初めて。澤瀉屋型の派手な舞台もよいけれど、音羽屋型もなかなか面白い。
松緑は佐藤忠信/忠信実は源九郎狐の両方を演じて奮闘。川連法眼の東蔵は衣装をつけて舞台に上がって行くのは大変そうであったがなんとかこなす、源義経が時蔵、静御前が魁春、飛鳥が門之助と、脇役陣はあまりしどころが無い割には立派なラインアップ。
松緑は源九郎狐をなかなかの熱演。花道に明かりが付き揚げ幕の音がシャリンと鳴って叫び声がする。思わず花道を見て舞台に戻ると階段に源九郎狐が居るというのは、名作と言って良い伝統のミス・ダイレクションであって毎回引っかかるが、今回はさすがに大丈夫だったなあ。しかし狐が出たり消えたり、見慣れたギミックではあるが歌舞伎の楽しさが満載の一幕。
館内では7月興行のチラシが撤去されている。猿之助休演が正式に決まったため刷り直ししているのだろう。
本日の演目は「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」。
「木の実」、「小金吾討死」、「すし屋」の段は仁左エ門以下、松嶋屋親子三代揃踏み。そしていわゆる「四の切」、「川連法眼館」は松緑が佐藤忠信と源九郎狐を演じる。
「木の実」は仁左衛門演じる「いがみの権太」登場の場。平維盛を訪ねる奥方一行を手玉に取って金をせしめる手慣れた計略と、自分の女房、子供に向ける深い情愛。人間臭い悪党を仁左衛門が印象的に演じて観客の心を掴む。
関西では「ゴンタ」というのは言うことを聞かない子供などに使うことがあって、子供のころいたずらなどをすると、婆様にはいつも「ゴンタな子やなあ」と言われていた。この演目から来ているという話だが、とても懐かしい言葉。人気の役だったんだなあ。最近ではもう使われてないだろうが。
「小金吾討死」では主馬小金吾を演じる仁左衛門の孫、千之助が。まだ前髪を落としていない凛々しい若い武士が主君の奥方と子供を守って決死の戦いを演じる。取り縄を使った印象的な立ち回り。若者が必死に頑張る所を観客に見せる段。千之助は頑張っている。深手を負い、守りきれなかったと観念して若葉の内侍を先に行かせる無念。
「すし屋」冒頭では壱太郎が、新しい奉公人弥助と祝言を上げる事が決まってウキウキの村娘お里を健康的な色気と共に演じる。達者なものである。周りのおばちゃん達は「あら可愛いわね」と口々に感心。ただ、歌舞伎では首実検の首は必ず偽物であるように、村娘の恋は成就しないのであった。
仁左衛門の演じる権太は、上方風で泥臭く人間味のある人物造形。「性根を捕えていれば型にこだわらない」とよく述べているが、観客には大変に分かりやすい作劇。寿司桶を巡るやり取りも段取りがよく分かる。
自分の妻と子供を身代わりにしたのだから、本当は喜ぶところではないのだが、自分の計略がうまく行き、親父のためにもなったと喜んで、「おい親父うまくいったぞ!」と」ばかり勇んで家に入った所で、「また金目当てにとんでもない事しやがってコノヤロー」と誤解して逆上した親父に腹をブスリと刺されるという突然の悲劇。親父役の鮓屋弥左衛門は歌六。権太の芝居をしっかり受け止め、物語に重みを与えている。
「すし屋」では権太が腹を刺されてから結構芝居があるのでちょっとダレるものだが、今回の上演ではほとんど気にならないのが珍しい。錦之助も場面が変わるとすっと高貴な殿様として成立する。主役も脇も揃った見どころある舞台。
最後の段、「川連法眼館」を松緑が演じるのは平成十四年の襲名披露以来、歌舞伎座では初めて。澤瀉屋型の派手な舞台もよいけれど、音羽屋型もなかなか面白い。
松緑は佐藤忠信/忠信実は源九郎狐の両方を演じて奮闘。川連法眼の東蔵は衣装をつけて舞台に上がって行くのは大変そうであったがなんとかこなす、源義経が時蔵、静御前が魁春、飛鳥が門之助と、脇役陣はあまりしどころが無い割には立派なラインアップ。
松緑は源九郎狐をなかなかの熱演。花道に明かりが付き揚げ幕の音がシャリンと鳴って叫び声がする。思わず花道を見て舞台に戻ると階段に源九郎狐が居るというのは、名作と言って良い伝統のミス・ダイレクションであって毎回引っかかるが、今回はさすがに大丈夫だったなあ。しかし狐が出たり消えたり、見慣れたギミックではあるが歌舞伎の楽しさが満載の一幕。
GW最後の週末、歌舞伎座の「團菊祭五月大歌舞伎」、昼の部を見物。
最初の演目は「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」。昔の正月歌舞伎興行にはつきものだった曽我物の集大成。上演も多い。
歌舞伎の様々な役を登場させ、様式美に溢れた賑やかで美しい舞台。松也が曽我五郎、尾上右近が十郎という新進気鋭の組み合わせ。しかし松也の五郎を見たのは初めてではないが、荒事の隈取りをすると誰か分からない感じもある。巳之助、新悟、莟玉、魁春らも登場。座長格で工藤左衛門祐経を勤めるのは梅玉。
懸念であった名刀、友斬丸も曽我兄弟の元に戻ってくる。この場では敵討ちは実行できないが、富士の巻狩りの総奉行というお役目が終わったら「討たれてやろう」と、敵役である梅玉の工藤左衛門祐経が、狩場に入る切手(通行手形)を兄弟に自ら渡してやるという目出度い結末。梅玉が工藤を高貴かつ鷹揚に演じて、他の人がやるより何時もの2割増して目出度い感じがするなあ。
ここで35分の幕間。昼食は花篭で。「花かご御膳」を。最近、銀座も外国人客でごった返しているので、芝居が跳ねてから食事に出ても、土日は店が長蛇の列。歌舞伎座の中で食事済ませるほうが良いよなあ。
次の演目は「若き日の信長」。
そもそも11世團十郎に大佛次郎が当て書きした新歌舞伎。2015年11月の歌舞伎座。海老蔵の信長で見た事がある。今回は十二世市川團十郎十年祭を銘打った演目。
奔放な立ち振る舞いながらも、苦悩する心優しい純真な若者が、血みどろの戦国を智謀で乗り切らんとする勇敢な武者へと成長を遂げるカタルシスが、その時はなかなか印象的だったが、今回の印象は若干散漫。
2015年当時の海老蔵は実父の12世團十郎を2013年に失って家督を受け継いでそんなに経っていなかったから、役柄と当時の境遇が響きあって見えたというのもあるかもしれない。
僧覚円の齊入は台詞が所々入っておらず、袖から助け舟の声が出る。成田屋の長老で75歳だっけ。しかし年の割には元気。見るからにただの旅の僧ではない怪しい感じが出ている。児太郎の弥生は健気で一途に信長を思う心情が良い。右團次は木下藤吉郎で走り回っていたけれどもなぜか印象は薄い。
信長の成長をずっと見守り、最後に行いを改めよと諌言の書状を残して腹を切る育て役、平手中務政秀は今回、梅玉。悪くないのだけれども、前回の左團次は巧まずしてにじみ出る風格が実に良かった。遺言の字を一字一字息子たちに確認しながら、字を間違えれば「動揺していたのだ」と笑われ、死をもってする自分の最後の諫言が軽く思われる、と静かに述べる所は泣かせどころであった。
最後の演目は、「音菊眞秀若武者(おとにきくまことのわかむしゃ)」。
初代尾上眞秀初舞台として、狒々退治の物語を。團菊祭だけあって、松緑、菊之助、團十郎が揃って場を盛り上げる。眞秀は最初女童の恰好で登場、なかなか達者な踊りを見せるが実は男子であり、人々が困っているという狒々退治に行く事に。
眞秀はすらりとしてイケメン。顔は小さくスタイルが良い。これからまだまだ背も伸びるだろう。重心が低く顔が大きいのが良い役者と言われた昔の歌舞伎の常識は世につれて変わって行くのかもしれない。
せりふ回しもハキハキして、堂々とした舞台。少年剣士として狒々退治の立ち回りも見得も決まっている。最後は観客の目をくぎ付けにして花道を颯爽と引っ込む。万来の拍手。10歳にしてここまでやるかと感心した。
菊五郎御大も八幡神の役で台座に収まって舞台に登場。三月の「身替座禅」は松緑に代わってもらった由だが、足腰は大丈夫なのだろうか。
最初の演目は「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」。昔の正月歌舞伎興行にはつきものだった曽我物の集大成。上演も多い。
歌舞伎の様々な役を登場させ、様式美に溢れた賑やかで美しい舞台。松也が曽我五郎、尾上右近が十郎という新進気鋭の組み合わせ。しかし松也の五郎を見たのは初めてではないが、荒事の隈取りをすると誰か分からない感じもある。巳之助、新悟、莟玉、魁春らも登場。座長格で工藤左衛門祐経を勤めるのは梅玉。
懸念であった名刀、友斬丸も曽我兄弟の元に戻ってくる。この場では敵討ちは実行できないが、富士の巻狩りの総奉行というお役目が終わったら「討たれてやろう」と、敵役である梅玉の工藤左衛門祐経が、狩場に入る切手(通行手形)を兄弟に自ら渡してやるという目出度い結末。梅玉が工藤を高貴かつ鷹揚に演じて、他の人がやるより何時もの2割増して目出度い感じがするなあ。
ここで35分の幕間。昼食は花篭で。「花かご御膳」を。最近、銀座も外国人客でごった返しているので、芝居が跳ねてから食事に出ても、土日は店が長蛇の列。歌舞伎座の中で食事済ませるほうが良いよなあ。
次の演目は「若き日の信長」。
そもそも11世團十郎に大佛次郎が当て書きした新歌舞伎。2015年11月の歌舞伎座。海老蔵の信長で見た事がある。今回は十二世市川團十郎十年祭を銘打った演目。
奔放な立ち振る舞いながらも、苦悩する心優しい純真な若者が、血みどろの戦国を智謀で乗り切らんとする勇敢な武者へと成長を遂げるカタルシスが、その時はなかなか印象的だったが、今回の印象は若干散漫。
2015年当時の海老蔵は実父の12世團十郎を2013年に失って家督を受け継いでそんなに経っていなかったから、役柄と当時の境遇が響きあって見えたというのもあるかもしれない。
僧覚円の齊入は台詞が所々入っておらず、袖から助け舟の声が出る。成田屋の長老で75歳だっけ。しかし年の割には元気。見るからにただの旅の僧ではない怪しい感じが出ている。児太郎の弥生は健気で一途に信長を思う心情が良い。右團次は木下藤吉郎で走り回っていたけれどもなぜか印象は薄い。
信長の成長をずっと見守り、最後に行いを改めよと諌言の書状を残して腹を切る育て役、平手中務政秀は今回、梅玉。悪くないのだけれども、前回の左團次は巧まずしてにじみ出る風格が実に良かった。遺言の字を一字一字息子たちに確認しながら、字を間違えれば「動揺していたのだ」と笑われ、死をもってする自分の最後の諫言が軽く思われる、と静かに述べる所は泣かせどころであった。
最後の演目は、「音菊眞秀若武者(おとにきくまことのわかむしゃ)」。
初代尾上眞秀初舞台として、狒々退治の物語を。團菊祭だけあって、松緑、菊之助、團十郎が揃って場を盛り上げる。眞秀は最初女童の恰好で登場、なかなか達者な踊りを見せるが実は男子であり、人々が困っているという狒々退治に行く事に。
眞秀はすらりとしてイケメン。顔は小さくスタイルが良い。これからまだまだ背も伸びるだろう。重心が低く顔が大きいのが良い役者と言われた昔の歌舞伎の常識は世につれて変わって行くのかもしれない。
せりふ回しもハキハキして、堂々とした舞台。少年剣士として狒々退治の立ち回りも見得も決まっている。最後は観客の目をくぎ付けにして花道を颯爽と引っ込む。万来の拍手。10歳にしてここまでやるかと感心した。
菊五郎御大も八幡神の役で台座に収まって舞台に登場。三月の「身替座禅」は松緑に代わってもらった由だが、足腰は大丈夫なのだろうか。
GW最後の週末、歌舞伎座の「團菊祭五月大歌舞伎」、夜の部を見物。
最初の演目は「宮島のだんまり」。
「だんまり」は劇中で、様々な登場人物が真っ暗闇を手探りで動くという体で動く歌舞伎の手法だが、スローモーションのようにゆったりと動くので役者が見やすい。顔見世の興行などで契約した役者を観客に見てもらうため、舞踊劇として「だんまり」単体で演じられる事もあり、この出し物も。
宮島を舞台に女形の雀右衛門が「傾城浮舟太夫実は盗賊袈裟太郎」として主役を張る。途中で妖術を使って姿を消し、すっぽんから再登場。幕外の引っ込みは傾城六方。
上半身は荒事、下半身は女形の歩き方で揚幕に去っていく。以前、扇雀で見たがそんなに頻繁に上演される演目ではない。雀右衛門も傾城六方は忙しかっただろう。
又五郎、梅枝、歌昇、萬太郎、尾上右近、種之助など出演して、歌舞伎の様式美にのっとった美しい舞台。
25分の幕間の後、「春をよぶ二月堂お水取り」と添えられた舞踊劇「達陀(だったん)」。
1200年以上続く、奈良・東大寺二月堂の修二会(お水取り)を二世松緑が舞踊化した演目。菊五郎が何度か演じたが、今回当代の松緑が主役で祖父所縁の演目を歌舞伎座で再演する。修二会、青衣の女人と過去帳、五体投地、東大寺二月堂のお水取りを巡るアイコンが次々に。五体投地や作法など東大寺に教えを請うているのだとか。過去帳読み上げも歌舞伎俳優ではなくて本物の声の録音のようだ。
青衣の女人とは、勤行の一部、過去帳読み上げを昔の僧、集慶が行って居た際、青い衣をまとった女人の幻影が現れ「なぜ私の名前を読み飛ばしたか」と問い詰めたという故事から来ている。読み上げの際「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と呟くとその幻影は消え去ったのだと。
この狂言はここに、僧籍となる前の主人公、若き集慶と青い衣の女性との恋を挿入した。仏門に入る前にたった一人情を交わした女性の幻影が、極限の行法を行う際に現れる。二世松緑は、どちらも自分で演じたらしいが、やはり昔の回想は若者が演じたほうがよい。
若き日の集慶は松緑息子の左近。過去から現れた「青衣の女人」を演じる梅枝が儚くも美しい。左近は親父が元気なうちに沢山の経験を積ませて貰わねば。
クライマックスの総踊りには、左近、市蔵、松江、歌昇、萬太郎、巳之助、新悟、尾上右近、廣太郎、種之助、児太郎、鷹之資、莟玉、坂東亀蔵以下名題下も入れて40名の群舞。松緑は総監督として個々の身長や体格も考えて全体が対照のピラミッド型になるよう人の配置にまで気を配ったという。これも凄い。
研ぎ澄まされた準備もあって、大勢の練行僧による群舞は舞台を埋め尽くす迫力ある怒涛の修法として成立している。全員の動きがピタリと揃い、大きく強く高く深く、そしてここではないどこか遠くへと、祈りは炎と同時にうねりを生じて舞い上がって行くかのよう。正に言葉を無くす圧巻の出来。当代松緑の代表作となり、息子左近にも伝えられて行くだろう。
35分の幕間は、花篭でローストビーフ丼など食する。歌舞伎座で幕間に食事する以前が戻ってきて喜ばしい限り。狭い座席で弁当使うよりよいなあ。
最後の演目は、「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」。いわゆる「髪結新三」。菊之助が新三を演じる。
菊之助は女形もよいが、色悪、二枚目の悪党もなかなか似合う。永代橋の袂で急に悪漢の本性を現して手代忠七を足蹴にする所などは、怜悧な悪への転換に背筋がひやりとする出来。
幕開きの前に口上がある。人物相関図をスクリーンに映して解説するのだが、FFX歌舞伎から歌舞伎座に流れてきたファン向けだろうか。しかし「髪結新三」は通しでやるなら別だが現行の上演される部分は極めて簡単な物語だから、必要性はちょっと疑問。
音羽屋があちこちで総出の團菊祭ではあるのだが、他の演目に人を取られたか、髪結新三の菊之助は良いとして、弥太五郎源七に彦三郎は初役。売り出し中の新三にやり込められる老いが見えた親分にしては若いし、手代忠七の萬太郎、下剃勝奴の菊次も初役。ちょっと小粒でこなれてない感じはある。児太郎は、何度かお熊を演じているが、後半はあまりしどころのない役だからなあ。
家主長兵衛は脇が主役を食うこともある典型的な役で、過去の役者による名演も伝えられているが、今回の権十郎はこれまた初役。しかしなかなか好演したのでは。全般に物語が良くできてこなれているので、とてつもない名演の舞台になるという演目でもないが、逆にそんなに不出来になる事もないと言うか。
焔魔堂前の橋で、再会した新三と弥太五郎源七、命のやり取りで切り結んだ後、舞台が明るくなり、新三と弥太五郎源七が観客に向き直って「本日はこれぎり」と「切口上」の終わり。
本当はこの場面で新三は切られて死ぬのだが、なかなか観客に人気のある小悪党だったので、死ぬ場面まで見せる必要ないという事でこの場面になっていると、以前のイヤホンガイドで聞いた。これまた歌舞伎独特の演出。
最初の演目は「宮島のだんまり」。
「だんまり」は劇中で、様々な登場人物が真っ暗闇を手探りで動くという体で動く歌舞伎の手法だが、スローモーションのようにゆったりと動くので役者が見やすい。顔見世の興行などで契約した役者を観客に見てもらうため、舞踊劇として「だんまり」単体で演じられる事もあり、この出し物も。
宮島を舞台に女形の雀右衛門が「傾城浮舟太夫実は盗賊袈裟太郎」として主役を張る。途中で妖術を使って姿を消し、すっぽんから再登場。幕外の引っ込みは傾城六方。
上半身は荒事、下半身は女形の歩き方で揚幕に去っていく。以前、扇雀で見たがそんなに頻繁に上演される演目ではない。雀右衛門も傾城六方は忙しかっただろう。
又五郎、梅枝、歌昇、萬太郎、尾上右近、種之助など出演して、歌舞伎の様式美にのっとった美しい舞台。
25分の幕間の後、「春をよぶ二月堂お水取り」と添えられた舞踊劇「達陀(だったん)」。
1200年以上続く、奈良・東大寺二月堂の修二会(お水取り)を二世松緑が舞踊化した演目。菊五郎が何度か演じたが、今回当代の松緑が主役で祖父所縁の演目を歌舞伎座で再演する。修二会、青衣の女人と過去帳、五体投地、東大寺二月堂のお水取りを巡るアイコンが次々に。五体投地や作法など東大寺に教えを請うているのだとか。過去帳読み上げも歌舞伎俳優ではなくて本物の声の録音のようだ。
青衣の女人とは、勤行の一部、過去帳読み上げを昔の僧、集慶が行って居た際、青い衣をまとった女人の幻影が現れ「なぜ私の名前を読み飛ばしたか」と問い詰めたという故事から来ている。読み上げの際「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と呟くとその幻影は消え去ったのだと。
この狂言はここに、僧籍となる前の主人公、若き集慶と青い衣の女性との恋を挿入した。仏門に入る前にたった一人情を交わした女性の幻影が、極限の行法を行う際に現れる。二世松緑は、どちらも自分で演じたらしいが、やはり昔の回想は若者が演じたほうがよい。
若き日の集慶は松緑息子の左近。過去から現れた「青衣の女人」を演じる梅枝が儚くも美しい。左近は親父が元気なうちに沢山の経験を積ませて貰わねば。
クライマックスの総踊りには、左近、市蔵、松江、歌昇、萬太郎、巳之助、新悟、尾上右近、廣太郎、種之助、児太郎、鷹之資、莟玉、坂東亀蔵以下名題下も入れて40名の群舞。松緑は総監督として個々の身長や体格も考えて全体が対照のピラミッド型になるよう人の配置にまで気を配ったという。これも凄い。
研ぎ澄まされた準備もあって、大勢の練行僧による群舞は舞台を埋め尽くす迫力ある怒涛の修法として成立している。全員の動きがピタリと揃い、大きく強く高く深く、そしてここではないどこか遠くへと、祈りは炎と同時にうねりを生じて舞い上がって行くかのよう。正に言葉を無くす圧巻の出来。当代松緑の代表作となり、息子左近にも伝えられて行くだろう。
35分の幕間は、花篭でローストビーフ丼など食する。歌舞伎座で幕間に食事する以前が戻ってきて喜ばしい限り。狭い座席で弁当使うよりよいなあ。
最後の演目は、「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」。いわゆる「髪結新三」。菊之助が新三を演じる。
菊之助は女形もよいが、色悪、二枚目の悪党もなかなか似合う。永代橋の袂で急に悪漢の本性を現して手代忠七を足蹴にする所などは、怜悧な悪への転換に背筋がひやりとする出来。
幕開きの前に口上がある。人物相関図をスクリーンに映して解説するのだが、FFX歌舞伎から歌舞伎座に流れてきたファン向けだろうか。しかし「髪結新三」は通しでやるなら別だが現行の上演される部分は極めて簡単な物語だから、必要性はちょっと疑問。
音羽屋があちこちで総出の團菊祭ではあるのだが、他の演目に人を取られたか、髪結新三の菊之助は良いとして、弥太五郎源七に彦三郎は初役。売り出し中の新三にやり込められる老いが見えた親分にしては若いし、手代忠七の萬太郎、下剃勝奴の菊次も初役。ちょっと小粒でこなれてない感じはある。児太郎は、何度かお熊を演じているが、後半はあまりしどころのない役だからなあ。
家主長兵衛は脇が主役を食うこともある典型的な役で、過去の役者による名演も伝えられているが、今回の権十郎はこれまた初役。しかしなかなか好演したのでは。全般に物語が良くできてこなれているので、とてつもない名演の舞台になるという演目でもないが、逆にそんなに不出来になる事もないと言うか。
焔魔堂前の橋で、再会した新三と弥太五郎源七、命のやり取りで切り結んだ後、舞台が明るくなり、新三と弥太五郎源七が観客に向き直って「本日はこれぎり」と「切口上」の終わり。
本当はこの場面で新三は切られて死ぬのだが、なかなか観客に人気のある小悪党だったので、死ぬ場面まで見せる必要ないという事でこの場面になっていると、以前のイヤホンガイドで聞いた。これまた歌舞伎独特の演出。
三月の歌舞伎座、「三月大歌舞伎」は、大相撲春場所観戦の合間を縫ってどの部も観たのだが、Blogには感想を書き忘れていた。備忘の為にまとめて記録を。
第一部は、宇野信夫 作・演出の新歌舞伎、「花の御所始末(はなのごしょしまつ)」。現白鸚の幸四郎時代に、宇野信夫が「リチャード三世」に着想を得て書き上げたというピカレスク・ロマン。歌舞伎座での前の上演は昭和58年というから40年前だ。
幸四郎が奸計を持って将軍の座を手に入れる悪人、足利義教を演じる。高麗屋は「国崩し」の悪役もお家芸ではある。暴君義教は何しろやたらに呆気なく人を殺し、小姓の坊主、珍才、重才を呼んで後始末をさせるのだが、これが実に不気味。
親兄弟を手にかけ将軍に上り詰める悪事の手助けをするのが、芝翫演じる畠山満家。しかし、義教が野望を達成し、将軍となって栄華を欲しいままにするようになると、昔の秘密を知る彼は疎んじられるようになる。
明国使者謁見の後、年老いて病を得た満家は義教に、「数々の悪事を一緒に働いてきた私を何故遠ざけるのですか?」と迫る。父殺しの秘密も満家は知っている。いや、もっと言うなら、満家こそが義教の実父である事を義教が認識している事も。
言葉にしてはならぬ恐ろしい事情を隠しながらも二人が罵り合う台詞劇は圧巻の出来。悪党の末路の哀れさを演じた芝翫が良い。そして満家をも殺した義教は、次第に狂気に陥って行く。最後まで飽きずに見れた一幕。
第二部はまず、「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」十段目「天川屋義平内の場」。
「仮名手本忠臣蔵」は人気の演目だが、この段は滅多に出ない。筋書き巻末の上演記録では歌舞伎座で出たのは2回だけ。珍しい演目。3月の歌舞伎座は珍しい演目が多いな(笑)
討ち入りの為の道具一式の手配を任された町人の天川屋義平が、赤穂浪士に肩入れして、情報が洩れぬよう女房を離縁してまで力になるというお話だが、あまり上演がないのは、主人公が武士ではなく派手さがないのが原因か。
幸四郎の大星由良之助に秘密を守る腹があるかを試されて、命を懸ける覚悟で「天川屋義平は男でござる」の有名な台詞になる。討ち入りで格好いいの赤穂浪士だけではなく、町人にも負けず劣らず格好いい男がいたというエピソード。天川屋義平は芝翫。腹の座った町人の男気を見せて実に恰好良い。最近芝翫は当たりが多い気がする。
第二部次の演目は、新古演劇十種の内 「身替座禅(みがわりざぜん)」。
そもそも菊五郎の山蔭右京で上演予定だったが、腰の故障とかで事前に松緑に配役変更。松緑も太郎冠者を演じた事はあるが、山蔭右京は初役とのこと。奥方玉の井は鴈治郎。福々しくて上品な柔らかみがある。単にやきもち焼きで悋気が強いだけではない女房を好演。松緑も初役ながら役のフォーマットは決まっているので、滑稽な主人公を達者に演じる。いつもながら肩の凝らない軽妙一幕。
5時45分から始まる第三部は「玉三郎ナイト」。
まず最初は「髑髏尼(どくろに)」。六世歌右衛門が昭和37年に歌舞伎座で上演して以来の出し物。その時の台本ではなく更に原作に遡って玉三郎が演出。
源平の戦いの後、平家追討を図る源氏の武士に殺された愛息の髑髏を常に傍に置いて手放さない髑髏尼を玉三郎が演じる。
醜い鐘撞男が美しい尼さんに恋するというのは、「ノートルダムの鐘」を下敷きにしている、後半は愛之助扮する平重衡の亡霊が出現する幻想的な場面と、鐘撞男の恋が交錯し物語は叶わぬ恋が生む悲劇へと収斂していく。
鐘楼守七兵衛 福之助は大抜擢だが、横綱にぶつかっていく幕下力士の如し。あれが精一杯だったろう。もっとも全力は出せたのでは。
第三部の切は、夕霧 伊左衛門 「廓文章(くるわぶんしょう) 吉田屋」。
上方の雰囲気が漂う華やかな演目。正月の揚屋「吉田屋」の賑やかな風情から始まる。紙子を着て出てくる藤屋の若旦那伊左衛門は愛之助。成駒家の型ではなく松嶋屋型で演じる。
鴈治郎で見た時は、イジイジネチネチをたっぷりコッテリやってこれが上方和事なのかねとある意味感心したが、愛之助の上方若旦那役はどこかサラリとしている。今回の鴈治郎は吉田屋主人喜左衛門。人情も度量もある大店の主人役がはまっている。
玉三郎の夕霧は艶やかで美しい。背を向けて見せる打掛も豪華絢爛たるもの。しかし伊左衛門に病で臥せっていた事を伝える姿にはどこか夢幻の儚さを感じさせるのだった。
そして最後はなぜか突然、勘当が解け、夕霧の身受け金が運び込まれるというハッピーエンド。めでたしめでたしで幕。夜の部で悲しい結末はやだね。世の中には既に幾らでも悲しい出来事が転がっているのだから。そう、楽しいのがよいね。
第一部は、宇野信夫 作・演出の新歌舞伎、「花の御所始末(はなのごしょしまつ)」。現白鸚の幸四郎時代に、宇野信夫が「リチャード三世」に着想を得て書き上げたというピカレスク・ロマン。歌舞伎座での前の上演は昭和58年というから40年前だ。
幸四郎が奸計を持って将軍の座を手に入れる悪人、足利義教を演じる。高麗屋は「国崩し」の悪役もお家芸ではある。暴君義教は何しろやたらに呆気なく人を殺し、小姓の坊主、珍才、重才を呼んで後始末をさせるのだが、これが実に不気味。
親兄弟を手にかけ将軍に上り詰める悪事の手助けをするのが、芝翫演じる畠山満家。しかし、義教が野望を達成し、将軍となって栄華を欲しいままにするようになると、昔の秘密を知る彼は疎んじられるようになる。
明国使者謁見の後、年老いて病を得た満家は義教に、「数々の悪事を一緒に働いてきた私を何故遠ざけるのですか?」と迫る。父殺しの秘密も満家は知っている。いや、もっと言うなら、満家こそが義教の実父である事を義教が認識している事も。
言葉にしてはならぬ恐ろしい事情を隠しながらも二人が罵り合う台詞劇は圧巻の出来。悪党の末路の哀れさを演じた芝翫が良い。そして満家をも殺した義教は、次第に狂気に陥って行く。最後まで飽きずに見れた一幕。
第二部はまず、「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」十段目「天川屋義平内の場」。
「仮名手本忠臣蔵」は人気の演目だが、この段は滅多に出ない。筋書き巻末の上演記録では歌舞伎座で出たのは2回だけ。珍しい演目。3月の歌舞伎座は珍しい演目が多いな(笑)
討ち入りの為の道具一式の手配を任された町人の天川屋義平が、赤穂浪士に肩入れして、情報が洩れぬよう女房を離縁してまで力になるというお話だが、あまり上演がないのは、主人公が武士ではなく派手さがないのが原因か。
幸四郎の大星由良之助に秘密を守る腹があるかを試されて、命を懸ける覚悟で「天川屋義平は男でござる」の有名な台詞になる。討ち入りで格好いいの赤穂浪士だけではなく、町人にも負けず劣らず格好いい男がいたというエピソード。天川屋義平は芝翫。腹の座った町人の男気を見せて実に恰好良い。最近芝翫は当たりが多い気がする。
第二部次の演目は、新古演劇十種の内 「身替座禅(みがわりざぜん)」。
そもそも菊五郎の山蔭右京で上演予定だったが、腰の故障とかで事前に松緑に配役変更。松緑も太郎冠者を演じた事はあるが、山蔭右京は初役とのこと。奥方玉の井は鴈治郎。福々しくて上品な柔らかみがある。単にやきもち焼きで悋気が強いだけではない女房を好演。松緑も初役ながら役のフォーマットは決まっているので、滑稽な主人公を達者に演じる。いつもながら肩の凝らない軽妙一幕。
5時45分から始まる第三部は「玉三郎ナイト」。
まず最初は「髑髏尼(どくろに)」。六世歌右衛門が昭和37年に歌舞伎座で上演して以来の出し物。その時の台本ではなく更に原作に遡って玉三郎が演出。
源平の戦いの後、平家追討を図る源氏の武士に殺された愛息の髑髏を常に傍に置いて手放さない髑髏尼を玉三郎が演じる。
醜い鐘撞男が美しい尼さんに恋するというのは、「ノートルダムの鐘」を下敷きにしている、後半は愛之助扮する平重衡の亡霊が出現する幻想的な場面と、鐘撞男の恋が交錯し物語は叶わぬ恋が生む悲劇へと収斂していく。
鐘楼守七兵衛 福之助は大抜擢だが、横綱にぶつかっていく幕下力士の如し。あれが精一杯だったろう。もっとも全力は出せたのでは。
第三部の切は、夕霧 伊左衛門 「廓文章(くるわぶんしょう) 吉田屋」。
上方の雰囲気が漂う華やかな演目。正月の揚屋「吉田屋」の賑やかな風情から始まる。紙子を着て出てくる藤屋の若旦那伊左衛門は愛之助。成駒家の型ではなく松嶋屋型で演じる。
鴈治郎で見た時は、イジイジネチネチをたっぷりコッテリやってこれが上方和事なのかねとある意味感心したが、愛之助の上方若旦那役はどこかサラリとしている。今回の鴈治郎は吉田屋主人喜左衛門。人情も度量もある大店の主人役がはまっている。
玉三郎の夕霧は艶やかで美しい。背を向けて見せる打掛も豪華絢爛たるもの。しかし伊左衛門に病で臥せっていた事を伝える姿にはどこか夢幻の儚さを感じさせるのだった。
そして最後はなぜか突然、勘当が解け、夕霧の身受け金が運び込まれるというハッピーエンド。めでたしめでたしで幕。夜の部で悲しい結末はやだね。世の中には既に幾らでも悲しい出来事が転がっているのだから。そう、楽しいのがよいね。
2月の歌舞伎座は一月大相撲初場所にかまけてチケットを取り忘れていたのだが、2月になってチケット松竹を覗いてみると結構席が空いている。先週土曜日に歌舞伎座第二部。
最初の演目は短い所作事、「女車引(おんなくるまびき)」。江戸荒事の演目を女形が演じるのは「女暫」と同じ趣向。そもそもは吉原の「仁輪加」で花魁達によって演じられた余興が歌舞伎に取り入れられたものというイヤホンガイドの説明を聞いて、あれ?前にも見た事があるなと気がついた。筋書きを見ると令和元年6月に、今回と同じ魁春、雀右衛門、そして今回の七之助に変わって児太郎の公演だったようだ。
「菅原伝授手習鑑 車引」の松王丸、梅王丸、桜丸のそれぞれ女房達が集まって踊る趣向の舞踊劇。本家のほうは運命に導かれた兄弟の対立が描かれるが、こちらのほうは明るく陽気な雰囲気、最後は美しい総踊りとなる。
25分の幕間。次の演目が第二部の主眼。
五世中村富十郎十三回忌追善狂言。河竹黙阿弥 作「船弁慶(ふなべんけい)」。
中村富十郎が得意とした演目を、追善公演として長男、鷹之資が主演で演じる。鷹之資は富十郎69歳の時の子供。ほとんど孫のような年齢差。81歳で富十郎が亡くなった時の鷹之資はまだ11歳。20歳になったら富十郎を襲名させると稽古させていたらしいが、富十郎もさぞや心を残してこの世を去っただろう。しかし23歳になった息子は、歌舞伎座で追善の主演を張るようになったのだ。歌舞伎座に飾られているのは、五世冨十両の顔写真。
いわゆる松羽目物。能掛かりの舞台。頼朝と不和になり西国に落ち延びようとする義経一行。付き従っていた静御前は、都に戻るように言われ別れのl酒宴で涙ながらに最期の舞踊を。そして大物浦から出帆した義経一行の船には、壇ノ浦で討ち死にした平知盛率いる海に沈んだ平家の亡霊達が襲いかかる。
鷹之資が静御前と平知盛の霊を二役で演じる。源義経を扇雀、武蔵坊弁慶を又五郎。
義経との別れに舞う前シテの静御前は、能面の如く無表情で舞うのだが、一挙手一投足を疎かにしない、正確で静謐な舞いからは、透き通った悲しみが浮かんでくるかのよう。富十郎はお能に寄せて舞ったのだというが鷹之資も同様。最後に烏帽子がポトリと落ちるのも印象的。勿論、親父の域に達するにはまだまだ修行が必要なのだろうが、舞に見入って時間を忘れた。
静御前が去った後、能で言う間狂言となり、舟長三保太夫の松緑が登場。舟子を従えて船出を祝う船唄舞踊を賑やかに踊る。
船出の後は知盛の亡霊が出現。隈取りはまさに写真で見る昔の富十郎そのもの。怪しくも力強く大きな所作。怪異な迫力が存分に表れている。しかし亡霊は、弁慶の唱える経文の法力によって退散することになる。
知盛の亡霊最後は、幕外の引っ込み、花道を去る最後で回転し、まさに荒れ狂った海原を遠くに消えていく亡霊の如し。ロビーの五世中村富十郎は息子の好演に「よくやったな」と相好を崩しているかのよう。富十郎を覚えているお客さんも多いのか、鷹之資の立派な姿に、客席の拍手は長く鳴りやまなかった。勿論本人が筋書きで答えて居るように、これから一生かけて更に磨いていくべき演目。人間国宝の親父はとうに亡く、後ろ盾になっていた播磨屋も鬼籍に入った。しかし全ては本人の頑張り次第でもある。今後の役者人生に幸多かれと祈る。
最初の演目は短い所作事、「女車引(おんなくるまびき)」。江戸荒事の演目を女形が演じるのは「女暫」と同じ趣向。そもそもは吉原の「仁輪加」で花魁達によって演じられた余興が歌舞伎に取り入れられたものというイヤホンガイドの説明を聞いて、あれ?前にも見た事があるなと気がついた。筋書きを見ると令和元年6月に、今回と同じ魁春、雀右衛門、そして今回の七之助に変わって児太郎の公演だったようだ。
「菅原伝授手習鑑 車引」の松王丸、梅王丸、桜丸のそれぞれ女房達が集まって踊る趣向の舞踊劇。本家のほうは運命に導かれた兄弟の対立が描かれるが、こちらのほうは明るく陽気な雰囲気、最後は美しい総踊りとなる。
25分の幕間。次の演目が第二部の主眼。
五世中村富十郎十三回忌追善狂言。河竹黙阿弥 作「船弁慶(ふなべんけい)」。
中村富十郎が得意とした演目を、追善公演として長男、鷹之資が主演で演じる。鷹之資は富十郎69歳の時の子供。ほとんど孫のような年齢差。81歳で富十郎が亡くなった時の鷹之資はまだ11歳。20歳になったら富十郎を襲名させると稽古させていたらしいが、富十郎もさぞや心を残してこの世を去っただろう。しかし23歳になった息子は、歌舞伎座で追善の主演を張るようになったのだ。歌舞伎座に飾られているのは、五世冨十両の顔写真。
いわゆる松羽目物。能掛かりの舞台。頼朝と不和になり西国に落ち延びようとする義経一行。付き従っていた静御前は、都に戻るように言われ別れのl酒宴で涙ながらに最期の舞踊を。そして大物浦から出帆した義経一行の船には、壇ノ浦で討ち死にした平知盛率いる海に沈んだ平家の亡霊達が襲いかかる。
鷹之資が静御前と平知盛の霊を二役で演じる。源義経を扇雀、武蔵坊弁慶を又五郎。
義経との別れに舞う前シテの静御前は、能面の如く無表情で舞うのだが、一挙手一投足を疎かにしない、正確で静謐な舞いからは、透き通った悲しみが浮かんでくるかのよう。富十郎はお能に寄せて舞ったのだというが鷹之資も同様。最後に烏帽子がポトリと落ちるのも印象的。勿論、親父の域に達するにはまだまだ修行が必要なのだろうが、舞に見入って時間を忘れた。
静御前が去った後、能で言う間狂言となり、舟長三保太夫の松緑が登場。舟子を従えて船出を祝う船唄舞踊を賑やかに踊る。
船出の後は知盛の亡霊が出現。隈取りはまさに写真で見る昔の富十郎そのもの。怪しくも力強く大きな所作。怪異な迫力が存分に表れている。しかし亡霊は、弁慶の唱える経文の法力によって退散することになる。
知盛の亡霊最後は、幕外の引っ込み、花道を去る最後で回転し、まさに荒れ狂った海原を遠くに消えていく亡霊の如し。ロビーの五世中村富十郎は息子の好演に「よくやったな」と相好を崩しているかのよう。富十郎を覚えているお客さんも多いのか、鷹之資の立派な姿に、客席の拍手は長く鳴りやまなかった。勿論本人が筋書きで答えて居るように、これから一生かけて更に磨いていくべき演目。人間国宝の親父はとうに亡く、後ろ盾になっていた播磨屋も鬼籍に入った。しかし全ては本人の頑張り次第でもある。今後の役者人生に幸多かれと祈る。
先週日曜日には、歌舞伎座「十二月大歌舞伎」昼の部。先月から二か月連続で続く、市川海老蔵改め十三代目 市川團十郎白猿襲名披露、 八代目 市川新之助初舞台」公演でもある。
最初の演目は「鞘當(さやあて)」。
鶴屋南北の大作からの一場面だが、「鈴ヶ森」もそうなのだとか。歌舞伎は本当に人気のある場面しか残りませんな(笑)
桜が美しく咲き乱れる吉原仲ノ町、刀の鞘が当たった武士同士が切り合いになる場面に仲裁が入る。煌びやかな背景で、諍いを歌舞伎の様式美に満ちた動きで見せる短い一幕。侍は松緑と幸四郎。止めに入るのは猿之助。偶数日は市川中車が演じているようだ。久々に表舞台に復活の香川照之も見たかったな(笑)
25分の幕間。満員の館内は団体客も多いからか、この幕間でも席でしゃべりながら食事するお客さんが多く、賑やかで結構といえば結構だが、近くの席に座っている気はしないのでちょっと外へ。
次の演目は、「京鹿子娘二人道成寺(きょうかのこむすめににんどうじょうじ)」。菊之助と勘九郎が同じ白拍子花子を二人で舞い、最後に新團十郎の『歌舞伎十八番の内 押戻し』がつく。
菊之助の白拍子花子は特に後半になるにつれ、美しく妖艶で深い情念を感じさせる。踊りのどこに違いがあるかと問われてもいわく言い難いが、勘九郎の白拍子花子も踊りは良く似ているのだが、なんだか抜けた明るい感じになるのが面白い。勘九郎は初役なのだそうだが、普段は立役が多いのに、女形の踊りでもきちんとこなすのは身についた基本の稽古の賜物か。
歌舞伎十八番の「押し戻し」は台本のある狂言ではなく、怪異を押し戻すという荒事の一種の場面の名称。後シテで白拍子花子が清姫の怨霊と化してから、新團十郎が花道より豪華な隈取りかつ派手な衣装で登場。「竹馬の友の菊之助と、お世話になった中村屋に似ているな」などど戯言を入れて荒事の見得を豪快に切って見せる。やはりこんな場面は成田屋の独壇場である。彦三郎や坂東亀蔵も若手を引き連れ所化坊主につきあってご苦労さまであった。
ここで35分の幕間。さらにこの幕間では、場内もロビーも弁当食べる人やら喋る人やらで騒然と。成田屋贔屓の団体はやたら喋る人が多い気がするが、まあ場内満席のせいか。これまたやってられないのでしばし外に避難して散策。
最後は「歌舞伎十八番の内 毛抜(けぬき)」。八代目市川新之助初舞台相勤め申し候。
粂寺弾正は元々座頭級がやる大役。子供が粂寺弾正やって、学芸会みたいにならないかと心配したが、新之助は台詞がきっちり入っているし、ところどころの見得も決まる。相当稽古したんだな。
元々が、戯画的な造形をされた人物像であるし、荒事は子供の心でなどとも口伝がある。子供に入れ替わっても、まあそれほどの違和感はなかった。
勿論それは脇を固める役者が真剣にやっていたからでもある。雀右衛門の腰元巻絹、錦之助の秦民部、右團次の八剣玄蕃、芝翫の小原万兵衛、梅玉の小野春道など役者が揃ってしっかりとした演技を見せる。歌昇、新悟、児太郎、廣松ら若手も好演。粂寺弾正に普通に誰かが主演したら、なかなか重厚な一幕になっただろう。
ただ、この日の新之助は、最後の謎解き、槍を抱えてまず見得を切る所をすっ飛ばしてお姫様に挨拶したので、下手袖から声が掛かってやり直し。やはり親父が袖からずっと見ているのじゃないかなあ。まあ初演であるから時には間違うだろう(笑)
台詞については殆ど間違いはなく覚えているが、歌舞伎の台詞には独特の抑揚があり、きちんと覚えているものの子供の甲高い声で抑揚まで真似されるとちょっと違和感を感じる所あり。これは声変わりしてから稽古やり直しとなるだろうけれども、まあ仕方がない。
この芝居の粂寺弾正は芝居の途中でも時折客席に語りかける場面があるのだが、芝居の切り、幕外の引っ込みでも客席を見渡し「いずれも様のお力添えにより、この大役をなんとかやりおおせました」との台詞は、襲名初舞台に相応しいもの。館内は万雷の拍手。大向こうも沢山かかって場内を盛り上げる。
歌舞伎名門の御曹司として生まれるというのは、正しく特権的地位にいるという事。若いうちからどこへ行ってもちやほやされるだろうし、思い上がったり遊びまわったりグレたりするなと言われても、なかなかそれは難しかろう。うらやましがられる地位でもあるだろうが、本人に取っては重たい苦しい宿命でもあろう。親父を真似するのか違う道を行くのか、その前のご先祖に行くべき道を見出すのか。まだ若い当人には幸多かれとただ願うけれども。
最初の演目は「鞘當(さやあて)」。
鶴屋南北の大作からの一場面だが、「鈴ヶ森」もそうなのだとか。歌舞伎は本当に人気のある場面しか残りませんな(笑)
桜が美しく咲き乱れる吉原仲ノ町、刀の鞘が当たった武士同士が切り合いになる場面に仲裁が入る。煌びやかな背景で、諍いを歌舞伎の様式美に満ちた動きで見せる短い一幕。侍は松緑と幸四郎。止めに入るのは猿之助。偶数日は市川中車が演じているようだ。久々に表舞台に復活の香川照之も見たかったな(笑)
25分の幕間。満員の館内は団体客も多いからか、この幕間でも席でしゃべりながら食事するお客さんが多く、賑やかで結構といえば結構だが、近くの席に座っている気はしないのでちょっと外へ。
次の演目は、「京鹿子娘二人道成寺(きょうかのこむすめににんどうじょうじ)」。菊之助と勘九郎が同じ白拍子花子を二人で舞い、最後に新團十郎の『歌舞伎十八番の内 押戻し』がつく。
菊之助の白拍子花子は特に後半になるにつれ、美しく妖艶で深い情念を感じさせる。踊りのどこに違いがあるかと問われてもいわく言い難いが、勘九郎の白拍子花子も踊りは良く似ているのだが、なんだか抜けた明るい感じになるのが面白い。勘九郎は初役なのだそうだが、普段は立役が多いのに、女形の踊りでもきちんとこなすのは身についた基本の稽古の賜物か。
歌舞伎十八番の「押し戻し」は台本のある狂言ではなく、怪異を押し戻すという荒事の一種の場面の名称。後シテで白拍子花子が清姫の怨霊と化してから、新團十郎が花道より豪華な隈取りかつ派手な衣装で登場。「竹馬の友の菊之助と、お世話になった中村屋に似ているな」などど戯言を入れて荒事の見得を豪快に切って見せる。やはりこんな場面は成田屋の独壇場である。彦三郎や坂東亀蔵も若手を引き連れ所化坊主につきあってご苦労さまであった。
ここで35分の幕間。さらにこの幕間では、場内もロビーも弁当食べる人やら喋る人やらで騒然と。成田屋贔屓の団体はやたら喋る人が多い気がするが、まあ場内満席のせいか。これまたやってられないのでしばし外に避難して散策。
最後は「歌舞伎十八番の内 毛抜(けぬき)」。八代目市川新之助初舞台相勤め申し候。
粂寺弾正は元々座頭級がやる大役。子供が粂寺弾正やって、学芸会みたいにならないかと心配したが、新之助は台詞がきっちり入っているし、ところどころの見得も決まる。相当稽古したんだな。
元々が、戯画的な造形をされた人物像であるし、荒事は子供の心でなどとも口伝がある。子供に入れ替わっても、まあそれほどの違和感はなかった。
勿論それは脇を固める役者が真剣にやっていたからでもある。雀右衛門の腰元巻絹、錦之助の秦民部、右團次の八剣玄蕃、芝翫の小原万兵衛、梅玉の小野春道など役者が揃ってしっかりとした演技を見せる。歌昇、新悟、児太郎、廣松ら若手も好演。粂寺弾正に普通に誰かが主演したら、なかなか重厚な一幕になっただろう。
ただ、この日の新之助は、最後の謎解き、槍を抱えてまず見得を切る所をすっ飛ばしてお姫様に挨拶したので、下手袖から声が掛かってやり直し。やはり親父が袖からずっと見ているのじゃないかなあ。まあ初演であるから時には間違うだろう(笑)
台詞については殆ど間違いはなく覚えているが、歌舞伎の台詞には独特の抑揚があり、きちんと覚えているものの子供の甲高い声で抑揚まで真似されるとちょっと違和感を感じる所あり。これは声変わりしてから稽古やり直しとなるだろうけれども、まあ仕方がない。
この芝居の粂寺弾正は芝居の途中でも時折客席に語りかける場面があるのだが、芝居の切り、幕外の引っ込みでも客席を見渡し「いずれも様のお力添えにより、この大役をなんとかやりおおせました」との台詞は、襲名初舞台に相応しいもの。館内は万雷の拍手。大向こうも沢山かかって場内を盛り上げる。
歌舞伎名門の御曹司として生まれるというのは、正しく特権的地位にいるという事。若いうちからどこへ行ってもちやほやされるだろうし、思い上がったり遊びまわったりグレたりするなと言われても、なかなかそれは難しかろう。うらやましがられる地位でもあるだろうが、本人に取っては重たい苦しい宿命でもあろう。親父を真似するのか違う道を行くのか、その前のご先祖に行くべき道を見出すのか。まだ若い当人には幸多かれとただ願うけれども。