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「秀山祭九月大歌舞伎」夜の部。「吉野川」と「二代目播磨屋八十路の夢」
今月の歌舞伎座、「秀山祭九月大歌舞伎」。夜の部は、大相撲九月場所観戦とかぶらないように月の初めの日曜に予約。

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かなり前の方の席だったのだが、前列が座高の低い爺さん婆さんばかりだったので舞台を見る邪魔にならず実に良かった。大体、前に一人はいるんだよねえ、座高が高くて頭が大きい人が。

まず最初の演目は、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)太宰館花渡し 吉野川」

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「吉野川」は両花道を使用する王代物の大作。蘇我入鹿が暴政を振るう奈良時代、吉野川を中心に下手側の妹山が女の情愛、貞節と恋の論理、上手側の背山が男と忠義、政治の論理を背景にしたシンメトリーな舞台。交互に語られる両世界はしかし次第に共鳴を始め、やがて大きな悲劇が川を隔てて交錯する。

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この演目を最初に見たのは、2016年 歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」夜の部。玉三郎の太宰後室定高と吉右衛門の大判事清澄。玉三郎は前回も今回も、情愛と品格を見事に体現している。吉右衛門は、「雛流し」の婚礼で吉野川に弓を入れ、大事に大事に首を回収する大判事の慈しみと懸命さが実感を持って伝わってきた。

松緑は、昨年の「国立劇場さよなら公演「妹背山女庭訓」吉野川の部」で、萬壽になる前の時蔵が定高を演じる際に指名を受け大判事を経験している。

時蔵は技芸の人で、定高の品格、腹の座った覚悟、子供への深い情愛を余すところなく演じ切って見事なもの。松緑もこの大判事清澄という王代物屈指の大役に覚悟を決め、祖父の台本や音声を参照し、白鸚に助言を求めて臨んだだけあって、人物の懐の大きさ、子への情愛、主従の論理を受け入れる苦渋、そして肚の重さを見せて見事に成立していた。

今回の「吉野川」では秀山祭だけあって、更に吉右衛門に寄せたか「雛流し」で見せる慈しみはまさに吉右衛門を彷彿とさせるもの。玉三郎と渡り合う堂々たる出来。

重量級の主役ふたりの鏡像として進行するのが、両家の子供、お互いを思いやる雛鳥と久我之助の清冽な恋。皮肉な運命に翻弄された悲恋なのだが、久我之助が染五郎、雛鳥が左近。どちらも親の威光で得た役と言えばその通りなのであるが、ここは手練れの役者でなくとも若手で十分成立する。松緑息子の左近は、それほど女形の修行はしていないのではと思うが、玉三郎の細やかな指導が行き届いたか、悲恋に自分の命を捧げる可憐な娘の姿が印象的に浮かび上がった。

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この後の幕間は「花篭」で食事。遅い時間の設定であるからか、割と人は少なかった。

最後の演目は、「歌舞伎十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)」

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ポスターの「二代目播磨屋 八十路の夢」にホロリとする。吉右衛門が生前常々語った80歳で弁慶を演じる夢。存命ならば今年が80歳になるはずだった。その「秀山祭」で甥の幸四郎が弁慶を演じるのだ。

染五郎時代に初役で演じた弁慶は、一点一画を疎かにしない楷書の如き弁慶。しかし大きさを求めるあまりか、背伸びして身体が反り返るような雰囲気もあった。新幸四郎襲名時の弁慶は、若干自分のニンに引き寄せている印象。悪く言えば最初より崩れているのだが、良く言えば新幸四郎らしい弁慶を模索し始めていたという印象。

そして2019年の秀山祭で仁左衛門と交代で演じた弁慶は高麗屋伝来の弁慶。骨太で安定した形で当代の幸四郎に受け継がれた。花道からクルクル回りながら舞台中央に戻る「滝流し」の所作が入るのが印象的。

そして、今回の「八十路の夢 弁慶」は、今までよりも一番吉右衛門に寄せている。どの時よりも大きく力強く、吉右衛門の幻影が脳裏をよぎった。

菊之助の富樫も実に良かった。理知の人のニンは富樫にピッタリだが、有能な官吏である彼が、山伏を義経主従であると見抜きながらも弁慶の決死の奮闘に胸を打たれて見逃してやる。岳父の弁慶で、自分の息子を義経で演じたかったろうなあ。

義経は染五郎。そして彼は花道を去る前、笠に手をかけふと前を見る。これを見て、前に書いたNHK「古典芸能への招待」 染五郎「勧進帳」を思い出した。

幸四郎が初めて弁慶を演じた時、富樫は実父の元白鸚で、義経が叔父の吉右衛門。そして吉右衛門義経は、最後の引込み、花道に差し掛かる際にちょっと笠に左手をかけて顔を上げ、ほんの少し遠くを見てから、すぐに顔を下げて一心に花道を走り去る。これが大変に印象的だったのだ。

弁慶の活躍で虎口を逃れ、安宅の関を去る際、ふと遠くを見つめた義経は、自らの暗い未来を幻視する。おそらく落ち延びられはしない。しかし家来を率いる主君として、彼はただ前に進まざるをえない。吉右衛門の所作はなんだかそんな風な印象をあたえて観客の心を打つ。現染五郎は勉強したビデオでこれを見て取り入れたんじゃないかな。当時確認した限りでは同じ所作をした義経の映像は無かったが。

弁慶が飛び六法で花道を去り、実に重厚な2本立てで打ち出し。しかし夜の部が「山の段」に「勧進帳」で9時打ち出しというのは結構疲れるものだなあ。それでも、髄所で今は亡き吉右衛門に会えたような懐かしい夜だった。




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