年が明けてから、週末は歌舞伎やら相撲やらで毎週予定が入ってたのだが、今週末は久しぶりに何も無し。のんびりグータラ過ごす週末w
午後は録画しておいたNHK「古典芸能への招待」で、「吉例顔見世大歌舞伎 初世松本白鸚三十三回忌追善」夜の部、市川染五郎が初めて弁慶を演じた「勧進帳」を。
染五郎弁慶は、昨年歌舞伎座で2回観ており、過去日記でも感想を書いたし、他にも吉右衛門弁慶や海老蔵弁慶も去年観たが、TV録画で再見すると、劇場で観るのとは違い、役者のアップなどがあってなかなか面白い。
番組解説で演劇評論家水落潔が「一画もゆるがせにしないで演じる楷書の芸」、「立派な弁慶」と述べていたが、これは期せずして、観劇後に歌舞伎素人の私が過去日記に書いた感想と同じで、水落君もなかなか分かってるじゃないかと思うなあ←オイ、コラ。
今回のNHK放映で初めて気付いたのだが、吉右衛門義経は、最後の引込み、花道に差し掛かる際にちょっと笠に左手をかけて顔を上げ、ほんの少し遠くを見てから、すぐに顔を下げて一心に花道を走り去る。これが大変に印象的。
歌舞伎は「型」が基本の演劇だが、役者のちょっとした演出が観客のイマジネーションをかき立て狂言の深みを増す時がある。元々「勧進帳」の元となった能の「安宅」では富樫は単に騙されて義経主従を通す役だった。しかし歌舞伎で演じられるうち、義経打擲の後、弁慶の主を思う忠義の心に打たれた富樫が涙を堪えて去るという演出を役者が工夫する。このちょっとした演出で、富樫という役が弁慶に比すほど大きくなったのだ。
今回の「染五郎弁慶」での吉右衛門義経の花道の引込み。弁慶の活躍で虎口を逃れ、安宅の関を去る際、ふと遠くを見つめた義経は、自らの暗い未来を幻視する。おそらく落ち延びられはしない。しかし家来を率いる主君として、彼はただ前に進まざるをえない。吉右衛門の所作はなんだかそんな風な印象をあたえて観客の心を打つ。巧いねえ。
富樫は自らが、義経主従を見逃した詮議をいずれ受け、死を賜ることを予感している。そして彼の武士としての魂を震わせた弁慶と、その主君義経が結局のところ落ち延びられぬだろうことも。幕引きの富樫の見得は、お互いの死を予感した今生の別れ。
そして弁慶は、主君を守るために、ただただ必死になって先に発った義経一行を追いかけて行く。なんとも印象的なラストだ。
劇場で観た時は気づかなかったこの、義経が花道前でふと笠に手をやって先を見やり、再びうつむき加減で去って行く、吉右衛門流の引込みは普通なのかと、手元のDVDをチェック。
「勧進帳」七世松本幸四郎バージョンで義経は六世菊五郎なのだが、残念ながら義経の引込みは映っていない。
「勧進帳」十二代團十郎バージョンの義経は当代の尾上菊五郎だが、立ち上がってからずっと真っ直ぐ前を向いて花道を下がって行く。
「勧進帳」東大寺記念公演の弁慶は当代の松本幸四郎。義経役の市川高麗蔵は若干伏し目がちながら、基本的には当代尾上菊五郎同様、立ってから一度も目線を上げずに花道を去って行く。
こう比較してみると、やはり吉右衛門の工夫なんだなあ、きっと。
午後は録画しておいたNHK「古典芸能への招待」で、「吉例顔見世大歌舞伎 初世松本白鸚三十三回忌追善」夜の部、市川染五郎が初めて弁慶を演じた「勧進帳」を。
染五郎弁慶は、昨年歌舞伎座で2回観ており、過去日記でも感想を書いたし、他にも吉右衛門弁慶や海老蔵弁慶も去年観たが、TV録画で再見すると、劇場で観るのとは違い、役者のアップなどがあってなかなか面白い。
番組解説で演劇評論家水落潔が「一画もゆるがせにしないで演じる楷書の芸」、「立派な弁慶」と述べていたが、これは期せずして、観劇後に歌舞伎素人の私が過去日記に書いた感想と同じで、水落君もなかなか分かってるじゃないかと思うなあ←オイ、コラ。
今回のNHK放映で初めて気付いたのだが、吉右衛門義経は、最後の引込み、花道に差し掛かる際にちょっと笠に左手をかけて顔を上げ、ほんの少し遠くを見てから、すぐに顔を下げて一心に花道を走り去る。これが大変に印象的。
歌舞伎は「型」が基本の演劇だが、役者のちょっとした演出が観客のイマジネーションをかき立て狂言の深みを増す時がある。元々「勧進帳」の元となった能の「安宅」では富樫は単に騙されて義経主従を通す役だった。しかし歌舞伎で演じられるうち、義経打擲の後、弁慶の主を思う忠義の心に打たれた富樫が涙を堪えて去るという演出を役者が工夫する。このちょっとした演出で、富樫という役が弁慶に比すほど大きくなったのだ。
今回の「染五郎弁慶」での吉右衛門義経の花道の引込み。弁慶の活躍で虎口を逃れ、安宅の関を去る際、ふと遠くを見つめた義経は、自らの暗い未来を幻視する。おそらく落ち延びられはしない。しかし家来を率いる主君として、彼はただ前に進まざるをえない。吉右衛門の所作はなんだかそんな風な印象をあたえて観客の心を打つ。巧いねえ。
富樫は自らが、義経主従を見逃した詮議をいずれ受け、死を賜ることを予感している。そして彼の武士としての魂を震わせた弁慶と、その主君義経が結局のところ落ち延びられぬだろうことも。幕引きの富樫の見得は、お互いの死を予感した今生の別れ。
そして弁慶は、主君を守るために、ただただ必死になって先に発った義経一行を追いかけて行く。なんとも印象的なラストだ。
劇場で観た時は気づかなかったこの、義経が花道前でふと笠に手をやって先を見やり、再びうつむき加減で去って行く、吉右衛門流の引込みは普通なのかと、手元のDVDをチェック。
「勧進帳」七世松本幸四郎バージョンで義経は六世菊五郎なのだが、残念ながら義経の引込みは映っていない。
「勧進帳」十二代團十郎バージョンの義経は当代の尾上菊五郎だが、立ち上がってからずっと真っ直ぐ前を向いて花道を下がって行く。
「勧進帳」東大寺記念公演の弁慶は当代の松本幸四郎。義経役の市川高麗蔵は若干伏し目がちながら、基本的には当代尾上菊五郎同様、立ってから一度も目線を上げずに花道を去って行く。
こう比較してみると、やはり吉右衛門の工夫なんだなあ、きっと。