先週土曜日、日比谷に出て「沈黙 サイレンス」を観た。
遠藤周作の小説「沈黙」を、マーティン・スコセッシが映画化。
「神」という概念が生まれて以来、人の心を惑わせてきた深刻な問いが「神の沈黙」。
天災や戦乱や病苦。この世は至るところ悲惨や不幸に満ち、義人にすら時として苛酷な運命が待ちうけ、恐ろしい艱難辛苦が与えられる。それらは本当に全てが神の御意志なのか。我らが神を求めても、神は何一つ我らにその声をお聞かせにならないではないか。神は本当に存在するのか。これは宗教そのものの存立を脅かす実に危険な問いでもある。
先にキリスト教布教のために来日した師が棄教したと聞き、その真相を確かめるために日本に来たポルトガルの宣教師。日本で弾圧をうけるキリスト教に帰依する農民たちと共に生き、しかし自らの為に農民たちが次々と拷問を受けて死んでゆく地獄の中で問うた「神よ、あなたは何故沈黙しているのですか」という血を吐くような問いと、クライマックスで脳裏に響くキリストの声。実に印象的なシークェンス。
日本人の俳優は実に重厚。よくあんな昔風の顔ばかり集めることができたと感心。田舎の旧家に行くと、昔の御先祖様の白黒写真が障子の桟の上に飾ってあったりするが、正にそんな顔だ。
貧しい農民を演じる塚本晋也の、黒光りするような存在感が素晴らしい。CG使っていると思うが、磔にされて海の波に翻弄される場面はこの映画全編を通じて弾圧されるクリスチャンを象徴する圧巻の迫力。
キチジローは、ユダでもあり、狂言回し、トリックスターでもあるのだが、人間の矮小さと醜さ、それでも残る信仰心と原罪とを一気に体現している印象的な役柄。これを窪塚洋介が見事に演じている。
通辞役の浅野忠信、井上筑後守役のイッセー尾形は、腹に一物あり、冷酷でしたたかな、封建時代の支配層を描いて実に鮮やかに成立している。外国人監督が演出して、日本人役の演技にここまで違和感が無いというのも驚き。
実際には彼らが農民を虐殺しているのだが、司祭に「お前たちの栄光のために農民たちが死んでゆくのだ」と迫る巧妙なレトリックも彼らの冷徹な知性を象徴している。
前に居た宣教師が覚えた日本語は「ありがたや」一言。日本の全てを下に見ていた彼は、教えようとするばかりで何一つ学ばなかった。キリスト教はこの日本には根を張れないのだ、とロドリゴに畳みかける台詞は、「神の栄光を伝える我らのみがこの世の正義」というカトリック宣教の傲慢を皮肉な一面から照射して、司祭を棄教へと追い詰めてゆく。井上筑後守役が常に扇子で虫を払っているのは、「蝿の王」であることを寓意しているのではとさえ思わせるシーン。
以前、キリシタン一揆で有名な天草に行った事があるが、小さな島が連なり、平地は少なく山ばかり、港に適した場所も少なく見るからに貧しい土地。あんな所で苛酷な年貢を課されたら生きてゆくだけでも大変だったに違いない。現世が地獄であるからこそ、ここではない楽土「パライソ」を希求する心が芽生えたのだろうなと納得のゆくような風土。エンドロールを見ると、どうもほとんど台湾で撮影したようだが、長崎、熊本辺りの寒村を実に良く現しているなあと感心。シーンは悲惨だが、映像は素晴らしく美しい。暗く重たいが、魂をゆざぶる素晴らしい映画。
過酷な弾圧を受けた貧しい農民たちが、血と涙の中で夢見た「パライソ」は、まだこの世に顕現していない。
遠藤周作の小説「沈黙」を、マーティン・スコセッシが映画化。
「神」という概念が生まれて以来、人の心を惑わせてきた深刻な問いが「神の沈黙」。
天災や戦乱や病苦。この世は至るところ悲惨や不幸に満ち、義人にすら時として苛酷な運命が待ちうけ、恐ろしい艱難辛苦が与えられる。それらは本当に全てが神の御意志なのか。我らが神を求めても、神は何一つ我らにその声をお聞かせにならないではないか。神は本当に存在するのか。これは宗教そのものの存立を脅かす実に危険な問いでもある。
先にキリスト教布教のために来日した師が棄教したと聞き、その真相を確かめるために日本に来たポルトガルの宣教師。日本で弾圧をうけるキリスト教に帰依する農民たちと共に生き、しかし自らの為に農民たちが次々と拷問を受けて死んでゆく地獄の中で問うた「神よ、あなたは何故沈黙しているのですか」という血を吐くような問いと、クライマックスで脳裏に響くキリストの声。実に印象的なシークェンス。
日本人の俳優は実に重厚。よくあんな昔風の顔ばかり集めることができたと感心。田舎の旧家に行くと、昔の御先祖様の白黒写真が障子の桟の上に飾ってあったりするが、正にそんな顔だ。
貧しい農民を演じる塚本晋也の、黒光りするような存在感が素晴らしい。CG使っていると思うが、磔にされて海の波に翻弄される場面はこの映画全編を通じて弾圧されるクリスチャンを象徴する圧巻の迫力。
キチジローは、ユダでもあり、狂言回し、トリックスターでもあるのだが、人間の矮小さと醜さ、それでも残る信仰心と原罪とを一気に体現している印象的な役柄。これを窪塚洋介が見事に演じている。
通辞役の浅野忠信、井上筑後守役のイッセー尾形は、腹に一物あり、冷酷でしたたかな、封建時代の支配層を描いて実に鮮やかに成立している。外国人監督が演出して、日本人役の演技にここまで違和感が無いというのも驚き。
実際には彼らが農民を虐殺しているのだが、司祭に「お前たちの栄光のために農民たちが死んでゆくのだ」と迫る巧妙なレトリックも彼らの冷徹な知性を象徴している。
前に居た宣教師が覚えた日本語は「ありがたや」一言。日本の全てを下に見ていた彼は、教えようとするばかりで何一つ学ばなかった。キリスト教はこの日本には根を張れないのだ、とロドリゴに畳みかける台詞は、「神の栄光を伝える我らのみがこの世の正義」というカトリック宣教の傲慢を皮肉な一面から照射して、司祭を棄教へと追い詰めてゆく。井上筑後守役が常に扇子で虫を払っているのは、「蝿の王」であることを寓意しているのではとさえ思わせるシーン。
以前、キリシタン一揆で有名な天草に行った事があるが、小さな島が連なり、平地は少なく山ばかり、港に適した場所も少なく見るからに貧しい土地。あんな所で苛酷な年貢を課されたら生きてゆくだけでも大変だったに違いない。現世が地獄であるからこそ、ここではない楽土「パライソ」を希求する心が芽生えたのだろうなと納得のゆくような風土。エンドロールを見ると、どうもほとんど台湾で撮影したようだが、長崎、熊本辺りの寒村を実に良く現しているなあと感心。シーンは悲惨だが、映像は素晴らしく美しい。暗く重たいが、魂をゆざぶる素晴らしい映画。
過酷な弾圧を受けた貧しい農民たちが、血と涙の中で夢見た「パライソ」は、まだこの世に顕現していない。