先週土曜日は、歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」夜の部に。
今月は上手側に仮花道が設営してあり、両花道を使った公演。前に歌舞伎座で両花道観たのは、15年4月の四代目中村鴈治郎襲名披露「四月大歌舞伎」だったっけ。
最初の演目が、義太夫狂言の名作「妹背山婦女庭訓 吉野川(よしのがわ)」。吉右衛門、玉三郎コンビでのこの演目の公演は14年ぶりになるとか。染五郎に菊之助と豪華な布陣。これが大当たり。素晴らしくも圧巻の出来。
幕が空くと背景は満開の桜、舞台中央には吉野川の大きな清流が滔々と流れる。上手と下手にそれぞれ邸宅がしつらえてあり、義太夫も両側に分かれての掛け合いで。両花道が川岸で、中央の観客席はちょうど川の水底に存在するかのような壮大な舞台。
両岸に別れた妹山側と背山側のシンメトリーな世界を交互に巡る運命の輪。それに翻弄される人間達を襲う壮大な悲劇。親子の情愛と慟哭に満ちた別れ。相手を生かすために自分が死を選ぶ、自己犠牲に血塗られた若い恋人達の悲恋。観客は吉野川の水底からその全てを目撃する。
柿本人麿は刑死したという梅原猛の「水底の歌―柿本人麿論」を思い浮かべると、観客席にいる自分自身が、古代の権力者から死を賜って水底に沈んだ霊魂であるかのような気分になってくる。観客もまた舞台の一部。
舞台の序盤は、下手側の妹山が女の情愛、貞節と恋の論理、上手側の背山側が男と忠義、政治の論理と対象的に交互に語られるのだが、壮大な悲劇が舞台を覆うにつれ、吉野川を介して向かい合う二つの世界は共鳴し始める。
冒頭、はしゃいだ若い娘の恋心を描く雛鳥のクドキは一途で可憐。久我之助も凛々しく端正。後の恐ろしい悲劇が際立つ。そしていよいよ、吉右衛門と玉三郎、人間国宝2名が両花道に分かれての出となる。権力者蘇我入鹿に無理難題を押し付けられ、危機的な状況を背景にしての帰宅。
この応酬が大変に重厚。玉三郎演じる定高は自分の娘雛鳥が、入鹿の妾となるより自らの恋に殉じて死ぬ方が幸せであると女の情で分かっている。吉右衛門の大判事にとっては、帝を守り蘇我入鹿をいつか倒すためには、息子の久我之助に腹を切らせるしかないのが道理。しかし互いにその腹を隠しながら、女の情と男の論理が死と悲劇の濃厚な香りの中で吉野川を越えて朗々とせめぎ合う。
そして、背山側では久我之助の切腹、妹山側では、自らの死によって愛する久我之助が助かるのだと思い切った雛鳥の美しくも哀しい歓喜と、双方の親子を巡る悲劇が静かに進行する。
大判事と定高の二度目の対面。我が子を犠牲にして相手の子供を助ける心づもりが互いに食い違い、吉野川を挟んで身ぶりだけで伝えあう狼狽と慟哭も歌舞伎の様式美の中で、実に印象的に描かれている。
雛飾りと雛鳥の首だけが吉野川を渡って行く「雛流し」の婚礼も美しくも哀しい。吉野川に弓を入れて、大事に大事に首を回収する大判事の慈しみと懸命さも実感を持って伝わってくる。
しかし、大判事が雛鳥の首を手に取ったその時に携帯の電子音鳴らした馬鹿者がいて、なんとも残念な気分に。主電源から切れとあれほど言われていても、メールチェックした後でそのまま電源切らずに携帯をカバンに仕舞うオバサンを歌舞伎座で何人見ただろうか。そんなモンスターに注意しても絶対に他人の言う事は聞かないからなあ。
最後は定高と大判事が両岸で万感の思いで見つめ合う場面で幕。悲劇も涙も慟哭も、全てを吉野川が流し去って行く。客席からは万雷の拍手。人形浄瑠璃から移された歌舞伎の名作を名優渾身の名演で。息を呑んだ素晴らしい2時間だった。
30分の幕間は「吉野川」の感動を振り返りながら、花篭の「ほうおう膳」で一杯。
次の演目は、「眠駱駝物語 らくだ」。これは古典落語に題材を取った気楽な喜劇。一杯飲んでから見物するにはちょうど良い。染五郎は悲劇の貴公子から、愚図な紙くず屋に変身して、お客を大いに笑わせる。松緑も鉄火な江戸っ子のちゃきちゃきした口調が良い。「山の段を語らせるぞ」と凄む台詞に大笑い。大家の玄関外でなにやらしきりにらくだの死体とドタバタやる染五郎にもお客さんは大うけ。ただ上手側の席だと見えなかっただろうけど。歌六と東蔵の因業な大家も軽妙に成立。
しかし一番の敢闘賞はフグに当たって死んだ仏様役の亀寿。本当に全身の力を抜いていたらおそらく持ちあげるのも大変。死体のように見えながら、ちゃんと担がれたり投げ出されたりは演技であって、ある意味技術が必要だろう。結構妙な所に力が要ると思うなあ。米吉の気楽な町娘役もなかなか印象的。
25分の幕間の後は「元禄花見踊(げんろくはなみおどり)」。
元禄の上野。満開の桜の中での舞踊。桜の花びらが舞い散る暗がりを舞台中央のセリから玉三郎が幻想的な登場。そして群舞に。花形を従えて中心で踊る玉三郎は、妖艶にして背筋が凛と伸び、しかし舞は柔らかくも美しい。まるで若返ったかのような雰囲気あり。衣装を変えつつ最後まで中心に君臨する。亀寿は「らくだ」の仏様から今度は粋な元禄の男になって御苦労さま。梅枝、児太郎、米吉も艶やかに。色彩豊かで絢爛豪華な舞台で賑やかに打ち出し。
重厚かつ感動的な歴史物大作に、軽妙な喜劇、煌びやかな舞踊。演目の構成も素晴らしかった。吉右衛門と玉三郎が圧巻の印象を残した夜。
今月は上手側に仮花道が設営してあり、両花道を使った公演。前に歌舞伎座で両花道観たのは、15年4月の四代目中村鴈治郎襲名披露「四月大歌舞伎」だったっけ。
最初の演目が、義太夫狂言の名作「妹背山婦女庭訓 吉野川(よしのがわ)」。吉右衛門、玉三郎コンビでのこの演目の公演は14年ぶりになるとか。染五郎に菊之助と豪華な布陣。これが大当たり。素晴らしくも圧巻の出来。
幕が空くと背景は満開の桜、舞台中央には吉野川の大きな清流が滔々と流れる。上手と下手にそれぞれ邸宅がしつらえてあり、義太夫も両側に分かれての掛け合いで。両花道が川岸で、中央の観客席はちょうど川の水底に存在するかのような壮大な舞台。
両岸に別れた妹山側と背山側のシンメトリーな世界を交互に巡る運命の輪。それに翻弄される人間達を襲う壮大な悲劇。親子の情愛と慟哭に満ちた別れ。相手を生かすために自分が死を選ぶ、自己犠牲に血塗られた若い恋人達の悲恋。観客は吉野川の水底からその全てを目撃する。
柿本人麿は刑死したという梅原猛の「水底の歌―柿本人麿論」を思い浮かべると、観客席にいる自分自身が、古代の権力者から死を賜って水底に沈んだ霊魂であるかのような気分になってくる。観客もまた舞台の一部。
舞台の序盤は、下手側の妹山が女の情愛、貞節と恋の論理、上手側の背山側が男と忠義、政治の論理と対象的に交互に語られるのだが、壮大な悲劇が舞台を覆うにつれ、吉野川を介して向かい合う二つの世界は共鳴し始める。
冒頭、はしゃいだ若い娘の恋心を描く雛鳥のクドキは一途で可憐。久我之助も凛々しく端正。後の恐ろしい悲劇が際立つ。そしていよいよ、吉右衛門と玉三郎、人間国宝2名が両花道に分かれての出となる。権力者蘇我入鹿に無理難題を押し付けられ、危機的な状況を背景にしての帰宅。
この応酬が大変に重厚。玉三郎演じる定高は自分の娘雛鳥が、入鹿の妾となるより自らの恋に殉じて死ぬ方が幸せであると女の情で分かっている。吉右衛門の大判事にとっては、帝を守り蘇我入鹿をいつか倒すためには、息子の久我之助に腹を切らせるしかないのが道理。しかし互いにその腹を隠しながら、女の情と男の論理が死と悲劇の濃厚な香りの中で吉野川を越えて朗々とせめぎ合う。
そして、背山側では久我之助の切腹、妹山側では、自らの死によって愛する久我之助が助かるのだと思い切った雛鳥の美しくも哀しい歓喜と、双方の親子を巡る悲劇が静かに進行する。
大判事と定高の二度目の対面。我が子を犠牲にして相手の子供を助ける心づもりが互いに食い違い、吉野川を挟んで身ぶりだけで伝えあう狼狽と慟哭も歌舞伎の様式美の中で、実に印象的に描かれている。
雛飾りと雛鳥の首だけが吉野川を渡って行く「雛流し」の婚礼も美しくも哀しい。吉野川に弓を入れて、大事に大事に首を回収する大判事の慈しみと懸命さも実感を持って伝わってくる。
しかし、大判事が雛鳥の首を手に取ったその時に携帯の電子音鳴らした馬鹿者がいて、なんとも残念な気分に。主電源から切れとあれほど言われていても、メールチェックした後でそのまま電源切らずに携帯をカバンに仕舞うオバサンを歌舞伎座で何人見ただろうか。そんなモンスターに注意しても絶対に他人の言う事は聞かないからなあ。
最後は定高と大判事が両岸で万感の思いで見つめ合う場面で幕。悲劇も涙も慟哭も、全てを吉野川が流し去って行く。客席からは万雷の拍手。人形浄瑠璃から移された歌舞伎の名作を名優渾身の名演で。息を呑んだ素晴らしい2時間だった。
30分の幕間は「吉野川」の感動を振り返りながら、花篭の「ほうおう膳」で一杯。
次の演目は、「眠駱駝物語 らくだ」。これは古典落語に題材を取った気楽な喜劇。一杯飲んでから見物するにはちょうど良い。染五郎は悲劇の貴公子から、愚図な紙くず屋に変身して、お客を大いに笑わせる。松緑も鉄火な江戸っ子のちゃきちゃきした口調が良い。「山の段を語らせるぞ」と凄む台詞に大笑い。大家の玄関外でなにやらしきりにらくだの死体とドタバタやる染五郎にもお客さんは大うけ。ただ上手側の席だと見えなかっただろうけど。歌六と東蔵の因業な大家も軽妙に成立。
しかし一番の敢闘賞はフグに当たって死んだ仏様役の亀寿。本当に全身の力を抜いていたらおそらく持ちあげるのも大変。死体のように見えながら、ちゃんと担がれたり投げ出されたりは演技であって、ある意味技術が必要だろう。結構妙な所に力が要ると思うなあ。米吉の気楽な町娘役もなかなか印象的。
25分の幕間の後は「元禄花見踊(げんろくはなみおどり)」。
元禄の上野。満開の桜の中での舞踊。桜の花びらが舞い散る暗がりを舞台中央のセリから玉三郎が幻想的な登場。そして群舞に。花形を従えて中心で踊る玉三郎は、妖艶にして背筋が凛と伸び、しかし舞は柔らかくも美しい。まるで若返ったかのような雰囲気あり。衣装を変えつつ最後まで中心に君臨する。亀寿は「らくだ」の仏様から今度は粋な元禄の男になって御苦労さま。梅枝、児太郎、米吉も艶やかに。色彩豊かで絢爛豪華な舞台で賑やかに打ち出し。
重厚かつ感動的な歴史物大作に、軽妙な喜劇、煌びやかな舞踊。演目の構成も素晴らしかった。吉右衛門と玉三郎が圧巻の印象を残した夜。
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この記事へのコメント
Horiucciさん、ご無沙汰してます。
私も9月14日に歌舞伎座で、夜の部を観劇する予定です。
当日の朝に上京しますが、今年は台風が次々とやってきては、新幹線が運休になったりで、果たして14日は無事に上京することが出来ますかどうか。
とりあえず、生存報告をば。
それでは、いつかどこかのカウンターで。
私も9月14日に歌舞伎座で、夜の部を観劇する予定です。
当日の朝に上京しますが、今年は台風が次々とやってきては、新幹線が運休になったりで、果たして14日は無事に上京することが出来ますかどうか。
とりあえず、生存報告をば。
それでは、いつかどこかのカウンターで。
2016/09/08(木) 09:49:24 | URL | somekobo@山形 #-[ 編集]
>somekobo様
ご無沙汰です。お元気にお過ごしだったでしょうか。そうですか、今月歌舞伎座に。
秀山祭夜の部は、吉右衛門-玉三郎揃い踏みの圧巻で、お楽しみ頂けるのではと思います。
このところ台風続きで寿司屋にもすっかり足が遠のいておりましたが、秋風が吹き出したらまたあちこち再訪しようと思っているところです。どこかでお会いできることを祈りつつ。
ご無沙汰です。お元気にお過ごしだったでしょうか。そうですか、今月歌舞伎座に。
秀山祭夜の部は、吉右衛門-玉三郎揃い踏みの圧巻で、お楽しみ頂けるのではと思います。
このところ台風続きで寿司屋にもすっかり足が遠のいておりましたが、秋風が吹き出したらまたあちこち再訪しようと思っているところです。どこかでお会いできることを祈りつつ。
2016/09/08(木) 12:21:53 | URL | Y. Horiucci #-[ 編集]
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