先週の金曜日は、「秀山祭九月大歌舞伎」夜の部を観劇。
最初の演目は、「菅原伝授手習鑑 寺子屋(てらこや)」。
体調不良で3日休演し、復帰して2日目の吉右衛門が演じるのは、病身という設定の「寺子屋」松王丸。松緑は代演ご苦労様。吉右衛門が復活した松王丸の、咳の場面など体調悪そうな描写が真に迫っているのは、芸の力か、あるいはまだ本調子ではないのか。あまり他の人の松王丸で体調悪そうな印象を持ったことは無いものの、やはり気になる。普通は、病鉢巻きをしていても堂々たる押し出しの元気に見える松王丸が多い気がするが。
義太夫狂言の名作。よくできた芝居である。
自らの計画とはいえ、知らぬ場所で身代わりに討たれた息子。首実検の後で正体を明かし、「さぞや未練だったでしょう」と尋ねて、「立派に笑って首を差し出して討たれました」と聞いた時の「笑いましたか」の泣き笑いは、恐ろしい悲痛と歓喜の入り混じった古径な大きさが真に迫ってくる。
忠義の為に子供を寺子屋に行かせ、立派に殺された。これは現代の心理ではなかなか素直に了解し難いが、歌舞伎が内包する封建の心性に慣れていると、自分の死を忠義と出来ず無駄死にであった「桜丸は不憫でござる」に実に良く繋がってくるのであった。
武部源蔵が幸四郎。「せまじきものは宮仕え」の思い詰める忠義の真面目さはニンにある。戸波が児太郎、千代が菊之助と若手が脇を固めてしっかりと成立していた。涎くり与太郎は、若干、墨を擦り過ぎじゃないかと余計な考えが浮かぶが(笑)、鷹之資が達者に演じる。
福助も園生の前役で、ヨロヨロとではあるが歩く場面があり、児太郎がそっと支える。回復が進んだという、復活の目出度い舞台でもあった。又五郎の春藤玄蕃は重厚な迫力があり、赤っ面として印象的。
30分の幕間は「花篭」で芝居御膳を。
次の演目は、「歌舞伎十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)」。
この日は偶数日で幸四郎が弁慶、錦之助が富樫左衛門。奇数日は、仁左衛門が弁慶で、幸四郎が富樫。どちらの日も義経は孝太郎、駿河次郎が千之助であるから、奇数日は松嶋屋三代揃い踏みの「勧進帳」となる。この日を遡る2週間ほど前、仁左衛門の「勧進帳」だけは見物したので、感想は両バージョンを。
「勧進帳」(幸四郎弁慶)
幸四郎の弁慶を観るのは三度目か。染五郎時代に初役で演じた弁慶は、一点一画を疎かにしない楷書の如き弁慶。しかし大きさを求めるあまりか、背伸びして身体が反り返るような雰囲気もあった。新幸四郎襲名時の弁慶は、若干自分のニンに引き寄せている印象。悪く言えば最初より崩れているのだが、良く言えば新幸四郎らしい弁慶を模索し始めていたという印象。
そして今回の「勧進帳」。高麗屋伝来の弁慶は、骨太で安定した形で当代の幸四郎に受け継がれた。堂々としてしっかりした弁慶であった。花道からクルクル回りながら舞台中央に戻る「滝流し」の所作が入るのは珍しかったが、最後の舞の部分であるから体力的には結構大変だろう。錦之助の富樫左衛門も堂々たるものであった。
「勧進帳」(仁左衛門弁慶)
筋書によると、当代仁左衛門は若い時に、実父十三世片岡仁左衛門が七世松本幸四郎から直々に習った勧進帳を教わったとのことである。七世幸四郎は弁慶を随一の当たり役としていたから、本家本流から学んだという事なのだが。
但し、所謂成田屋系の「荒事」の雰囲気はやや薄い。仁左衛門の弁慶は、荒ぶる魂よりも、知略と忠誠を重んじた人間味のある弁慶として印象的に成立している。
成田屋の山伏問答は、「外郎売」の如き早口言葉を叩きつけるような、富樫との火を噴くような応酬があるのだが、仁左衛門はそれとは対照的に、明瞭な口跡で、言葉がはっきり伝わるよう、ゆっくりと喋る。しかし、この弁慶は落ち着き払っているのではなく、全知全能を絞り切ってこの場を切り抜けようとしているのだというテンションがはっきりと伝わる。ゆっくり喋っているように思えるのだが逆に上演は短く感じる不思議。
富樫が去った後、安堵で金剛杖を持った手が緩み、杖が舞台にコツンと当たる。澤瀉屋に伝わった型なのだそうだが、これまた印象的。
これが荒事だという型からは外れているのかもしれないが、当代の仁左衛門にしかできない智謀知略に満ちた怜悧な弁慶である。表情ひとつとっても、写楽の「大首絵」のような眼をむいた誇張した荒事特有の表情ではない。
このポスターにあるように、仁左衛門は実に写実の弁慶。最後の飛び六法も実に自然。静かな天への深い感謝。そして六法に入る時にも、浮世絵のような大仰な表情はしないが、その眼は先を行く主君義経を待ち受ける運命を、突き刺すように見据えていたのだった。
荒唐無稽な「荒事」の「勧進帳」とは雰囲気が若干違って、リアリズムを希求する、パラレルワールドでの「勧進帳」を見たような実に不思議な気分のする、仁左衛門の弁慶。観れて良かった。
最後の演目は、三世中村歌六 百回忌追善狂言と銘打って、「秀山十種の内 松浦の太鼓(まつうらのたいこ)」。
昔の日本人は忠臣蔵が大好きであり、様々な形で歌舞伎になっているが、これは一種の外伝として、吉良の隣のお屋敷では何が起こっていたかを題材に歌舞伎ができている。
歌六に米吉、又五郎に歌昇、種之助の親子。三世中村歌六由縁の役者が揃う。当代の歌六は、ニンとしては俳人宝井其角の人であるが、急に「馬鹿馬鹿」と不機嫌になったり、機嫌が直ったりと天衣無縫で愛嬌のある殿様を芸達者に演じる。
ただ、やたらに座高が高く頭の大きなオジサンが斜め前におり、松浦邸の場での歌六演じる殿様は全く見えないという不運に。こればっかりは仕方ないなあ。最後は山鹿流の陣太鼓が響き、赤穂浪士が討ち入ったと喜んで、助っ人に行こうとする殿様に、又五郎の大高源吾が首尾よく主君の敵を討ったと報告に現れて大団円。
秀山祭は毎年充実した演目ばかり。この夜の部も、舞踊無く、3本きちんと芝居が続いてダレる所がない。歌舞伎座の夜を堪能した。
最初の演目は、「菅原伝授手習鑑 寺子屋(てらこや)」。
体調不良で3日休演し、復帰して2日目の吉右衛門が演じるのは、病身という設定の「寺子屋」松王丸。松緑は代演ご苦労様。吉右衛門が復活した松王丸の、咳の場面など体調悪そうな描写が真に迫っているのは、芸の力か、あるいはまだ本調子ではないのか。あまり他の人の松王丸で体調悪そうな印象を持ったことは無いものの、やはり気になる。普通は、病鉢巻きをしていても堂々たる押し出しの元気に見える松王丸が多い気がするが。
義太夫狂言の名作。よくできた芝居である。
自らの計画とはいえ、知らぬ場所で身代わりに討たれた息子。首実検の後で正体を明かし、「さぞや未練だったでしょう」と尋ねて、「立派に笑って首を差し出して討たれました」と聞いた時の「笑いましたか」の泣き笑いは、恐ろしい悲痛と歓喜の入り混じった古径な大きさが真に迫ってくる。
忠義の為に子供を寺子屋に行かせ、立派に殺された。これは現代の心理ではなかなか素直に了解し難いが、歌舞伎が内包する封建の心性に慣れていると、自分の死を忠義と出来ず無駄死にであった「桜丸は不憫でござる」に実に良く繋がってくるのであった。
武部源蔵が幸四郎。「せまじきものは宮仕え」の思い詰める忠義の真面目さはニンにある。戸波が児太郎、千代が菊之助と若手が脇を固めてしっかりと成立していた。涎くり与太郎は、若干、墨を擦り過ぎじゃないかと余計な考えが浮かぶが(笑)、鷹之資が達者に演じる。
福助も園生の前役で、ヨロヨロとではあるが歩く場面があり、児太郎がそっと支える。回復が進んだという、復活の目出度い舞台でもあった。又五郎の春藤玄蕃は重厚な迫力があり、赤っ面として印象的。
30分の幕間は「花篭」で芝居御膳を。
次の演目は、「歌舞伎十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)」。
この日は偶数日で幸四郎が弁慶、錦之助が富樫左衛門。奇数日は、仁左衛門が弁慶で、幸四郎が富樫。どちらの日も義経は孝太郎、駿河次郎が千之助であるから、奇数日は松嶋屋三代揃い踏みの「勧進帳」となる。この日を遡る2週間ほど前、仁左衛門の「勧進帳」だけは見物したので、感想は両バージョンを。
「勧進帳」(幸四郎弁慶)
幸四郎の弁慶を観るのは三度目か。染五郎時代に初役で演じた弁慶は、一点一画を疎かにしない楷書の如き弁慶。しかし大きさを求めるあまりか、背伸びして身体が反り返るような雰囲気もあった。新幸四郎襲名時の弁慶は、若干自分のニンに引き寄せている印象。悪く言えば最初より崩れているのだが、良く言えば新幸四郎らしい弁慶を模索し始めていたという印象。
そして今回の「勧進帳」。高麗屋伝来の弁慶は、骨太で安定した形で当代の幸四郎に受け継がれた。堂々としてしっかりした弁慶であった。花道からクルクル回りながら舞台中央に戻る「滝流し」の所作が入るのは珍しかったが、最後の舞の部分であるから体力的には結構大変だろう。錦之助の富樫左衛門も堂々たるものであった。
「勧進帳」(仁左衛門弁慶)
筋書によると、当代仁左衛門は若い時に、実父十三世片岡仁左衛門が七世松本幸四郎から直々に習った勧進帳を教わったとのことである。七世幸四郎は弁慶を随一の当たり役としていたから、本家本流から学んだという事なのだが。
但し、所謂成田屋系の「荒事」の雰囲気はやや薄い。仁左衛門の弁慶は、荒ぶる魂よりも、知略と忠誠を重んじた人間味のある弁慶として印象的に成立している。
成田屋の山伏問答は、「外郎売」の如き早口言葉を叩きつけるような、富樫との火を噴くような応酬があるのだが、仁左衛門はそれとは対照的に、明瞭な口跡で、言葉がはっきり伝わるよう、ゆっくりと喋る。しかし、この弁慶は落ち着き払っているのではなく、全知全能を絞り切ってこの場を切り抜けようとしているのだというテンションがはっきりと伝わる。ゆっくり喋っているように思えるのだが逆に上演は短く感じる不思議。
富樫が去った後、安堵で金剛杖を持った手が緩み、杖が舞台にコツンと当たる。澤瀉屋に伝わった型なのだそうだが、これまた印象的。
これが荒事だという型からは外れているのかもしれないが、当代の仁左衛門にしかできない智謀知略に満ちた怜悧な弁慶である。表情ひとつとっても、写楽の「大首絵」のような眼をむいた誇張した荒事特有の表情ではない。
このポスターにあるように、仁左衛門は実に写実の弁慶。最後の飛び六法も実に自然。静かな天への深い感謝。そして六法に入る時にも、浮世絵のような大仰な表情はしないが、その眼は先を行く主君義経を待ち受ける運命を、突き刺すように見据えていたのだった。
荒唐無稽な「荒事」の「勧進帳」とは雰囲気が若干違って、リアリズムを希求する、パラレルワールドでの「勧進帳」を見たような実に不思議な気分のする、仁左衛門の弁慶。観れて良かった。
最後の演目は、三世中村歌六 百回忌追善狂言と銘打って、「秀山十種の内 松浦の太鼓(まつうらのたいこ)」。
昔の日本人は忠臣蔵が大好きであり、様々な形で歌舞伎になっているが、これは一種の外伝として、吉良の隣のお屋敷では何が起こっていたかを題材に歌舞伎ができている。
歌六に米吉、又五郎に歌昇、種之助の親子。三世中村歌六由縁の役者が揃う。当代の歌六は、ニンとしては俳人宝井其角の人であるが、急に「馬鹿馬鹿」と不機嫌になったり、機嫌が直ったりと天衣無縫で愛嬌のある殿様を芸達者に演じる。
ただ、やたらに座高が高く頭の大きなオジサンが斜め前におり、松浦邸の場での歌六演じる殿様は全く見えないという不運に。こればっかりは仕方ないなあ。最後は山鹿流の陣太鼓が響き、赤穂浪士が討ち入ったと喜んで、助っ人に行こうとする殿様に、又五郎の大高源吾が首尾よく主君の敵を討ったと報告に現れて大団円。
秀山祭は毎年充実した演目ばかり。この夜の部も、舞踊無く、3本きちんと芝居が続いてダレる所がない。歌舞伎座の夜を堪能した。