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97年から書き続けたweb日記を、このたびブログに移行。
もちろん死刑でよいのだが
千葉大女子学生殺害、竪山被告に死刑判決

裁判員裁判の死刑判決は8例目で、このうち1人殺害では2例目なのだそうだ。

今までの裁判官の裁判は、いわゆる最高裁で確定した、永山基準に引きずられてた感があるのだが、この基準では(もちろん他の要素あるものの)まず3人殺さないと死刑にならなかった。

しかし、これは1960年台の、凶悪犯罪が実に多い、いわゆる「犯罪バブル」の時の犯罪。世の中が平和になった最近に、「1名殺しても死刑ではありませんよ、3名殺さないと」というのは、どう考えてもバランスとしておかしい気がする。

まあ、そんな意味では、犯罪者が今回のように、刑務所出所から3ヶ月でまた強盗傷害やら強姦やらの事件起こして、さらに殺人を犯す本件では、根っからの犯罪体質なのだし、民の内から永久に絶たれてしかたない。無期懲役だとまた社会に出てきかねないから、死刑で妥当な気がする。これはこれで裁判員裁判を導入した意味があったのでは。

ただ、一般市民として召喚され、死刑判決を下さねばならなかった本件の裁判員には心の底から同情する。もちろん彼らの判決は正しかったと思うが、人が人を裁くというのは実に大変な仕事だったろう。職業裁判官は、その大変な仕事に見合う地位をずっと保証され、高給も貰っている。しかし、くじで当たった裁判員は、その裁判の時に義務だけ果たし、後に残るのは人に死刑判決を下してしまったというとてつもない心の重荷だけ。これはちょっとおかしいよなあ。

この制度は、今まで、検察の求刑の7割か8割でポンと機械的に判決下す職業裁判官に、「市井の市民は罪と罰についてこんな風に考えてるのだ」という、「世の中の常識」というものを鉄槌として教えてやる「再教育」の役割はあるのだろうが、死刑求刑案件では、あまりにも裁判員に選ばれた普通の市民の心理的負担が大きい。

やはり、死刑判決の重荷は、それに見合う地位が保証され、高い報酬を貰ってる職業裁判官だけが負うべきだ。アメリカの陪審員だって、有罪か無罪かだけ決め、量刑は職業裁判官が下しているのだし。

日本のこの制度は、職業裁判官が、「そうか、このあたりまでは死刑なのか」と市民感情と自分の判断のバランスを調整できたなら、適当なタイミングで廃止したほうがよいと思うのだが。