Category: 街角探検
時を経て、錯誤して
昨日のサッカー代表戦、サプライズ大久保、やりましたね、四人に囲まれた中での四点目。素晴らしいゴールでした。
梅雨入り前のツーレポに戻ります。
湯野上温泉を後にします。
国内唯一の萱葺きの駅舎を見学しようと思っていたのですが、どうもこの日は駅を中心としたウォークラリーがあるとのことで、ごった返していたのでパス。
新緑が眩しい県道329号線で西側の尾根を越えます。
そうすると、タイムスリップすることが出来るのですね。
10年以上前に、父と来て以来、超久しぶりの大内宿です。
その十数年の間に、あれよあれよという間に、東北地方を代表する観光スポットになりました。
なんといっても関東から近いのが人気の理由。
なので、此処に来るなら近場に泊まって朝攻めるしか無いと思って来ました。
全くの渋滞なし。
湯野上温泉からだと5km強の距離。毎朝の通勤と同じです。
朝食後の温泉をパスして、8時半に宿を出たおかげで、宿場に一番近い駐車場にジムニーを停めることが出来ました。
例によってウィキからね。
大内宿(標準語・共通語:おおうちじゅく、会津弁:おおちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある旧宿場。重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
南会津の山中にあり、全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並ぶ。江戸時代には「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並ぶ。
江戸時代に会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。同街道は、会津藩・若松城(会津若松市追手町。地図)を出ると、福永宿(会津美里町氷玉福永。地図)、関山宿(会津美里町氷玉関山。地図)を経て山岳地に入り、氷玉峠(地図)および大内峠(地図)を越えて大内宿に入った。
大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り、日光街道・今市宿へと至った。若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣や脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要な駅となった。
延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道にシフトした。すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日(1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没。
会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道に物流はシフトしてしまった。40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、既に定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている。
慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争(戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる。
やっぱりイザベラは、来ていました。
1882年(明治15年)に福島県令となった三島通庸による会津三方道路の工事により、1884年(明治17年)には会津西街道が当地の東の小野岳を越えた大川(阿賀野川水系阿賀川の別名)沿いに付け替えとなって日光街道と改称した。新街道から外れた大内宿では、1886年(明治19年)に宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を2つに分けて両側に移し、街道の道幅を広げたりしたものの、賑わいは次第に失われていった。
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴って大内村は周辺の村と合併し、楢原村となった。日本鉄道(現・JR東北本線)と接続する岩越鉄道(現・JR磐越西線)が1899年(明治32年)に若松駅(現・会津若松駅)まで開通すると、会津と関東との間の物流は南会津を通らなくなり、さらに1927年(昭和2年)より大川沿いに順次延伸開業していった会津線によって、大内宿の宿駅としての地位は完全に失われた。
(中略)昭和40年代初頭から外部の研究者らが当地の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになると、当地の旧宿場の街並みが再評価され、また、その街並みは住民の生活習慣や互助組織(結・講)に支えられていることが判明した。その一方、当地は近代化から取り残されて昔のままの生活が営まれているとも評価され、外部の研究者らが街並みの保存活動を始めた。
1969年(昭和44年)6月26日の朝日新聞記事で当地が紹介されたことに端を発し、連日のようにマスメディア・研究者・観光客が当地に詰め掛け、1970年(昭和45年)放送のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』のロケーション撮影も行われて注目を浴び、同年、外部の研究者らが下郷町や文化庁に旧宿場の保存を訴えた。このとき一部のマスメディアが、超高層ビルも建ち始めた都市部と比較して、当地が貧乏であるから茅葺屋根の家に住んでいる等と報道したため、住民は茅葺屋根の家に住むのをためらうようになり、住民による保存活動は盛り上がらなかった。
当地の近くで、1971年(昭和46年)より大川ダム、1974年(昭和49年)より大内ダムの建設が始まると、住民はダムの補償金や建設工事の従業収入を得た。また、農業などの第一次産業中心の生活から、通勤して第二次産業・第三次産業で現金収入を得る暮らしへと転換するようになった。
1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって重要伝統的建造物群保存地区制度が導入されたため、福島県は大内地区に保存地区選定申請を打診したものの、住民は生活の近代化を望んで拒否し、旧街道は舗装され、新たに得た収入をもとに茅葺屋根をトタン屋根に葺き替えたり、台所・風呂・トイレの近代化をしたり、家屋の増改築をしたりするようになった。
(中略)観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、バブル景気が始まると急増し、1990年(平成2年)10月12日に会津鉄道が野岩鉄道会津鬼怒川線および東武鉄道鬼怒川線・日光線・伊勢崎線との直通運転を開始すると、翌1991年(平成3年)には50万人を突破した。
その後は年間50万人前後で推移していたが、1997年(平成9年)に磐越自動車道が全線開通すると60万人を超えた。2003年(平成15年)に県道下郷会津本郷線氷玉バイパス(大内宿こぶしライン)が開通すると翌2004年(平成16年)には80万人を超え、2005年(平成17年)のあいづデスティネーションキャンペーンで様々にPRされると2006年(平成18年)には90万人、2007年(平成19年)には100万人を突破し、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった。
観光客の増加に伴い、周辺道路に渋滞が発生するようになったため、2009年(平成21年)2月23日に「大内宿周辺地域渋滞対策協議会」が設立された。
まさにシンデレラ・ストーリーです。
丘の上から俯瞰する宿場町。
本当に美しく整備されています。
唯一残念なのは、山の端の高圧線鉄塔。
俯瞰できるという意味で、一番似ていると思われる白川郷と比べても、出来すぎと言えるほどの整然さ。
今は大勢の観光客が行き来する中央の通りは、かつては水路だったそうです。
新潟の旧市街と似ています。
このラムネを冷やしている場所が、昔は流し場だったんですね。
おばちゃん、ラムネ頂戴!
日陰で一休みです。
宿場中で満開の大手鞠、そして躑躅。
昔の住人は見られなかった空の顔。
よく理解出来ない土産物。
またまた大手鞠。
防火水槽も、消火栓も使われないに越したことはないけど、ちょっと朽ち果て過ぎか。
この宿場内にも、宿泊施設はあるようでした。
夜の風景も観てみたいですね。
この軒下に干してある、葦のストロー束、何に使うんでしょうか。
十数年前に来た時、炉端で蕎麦を食べた三澤屋。
地酒を販売していたので、前夜美味かった花泉の大内宿スペシャルを求めました。
予想通り、観光客(特に団体さん)は多かったけれど、来てみて良かった大内宿。沢山の瞬間を切り撮ることが出来ました。
今回がめちゃ暑だったからではありませんが、次回は雪がある季節に来てみたい気がします。
機材は、NEX-7。前日のように35mm相当の単レンズではなく、Tamron Zoom 18-200mmです。
梅雨入り前のツーレポに戻ります。
湯野上温泉を後にします。
国内唯一の萱葺きの駅舎を見学しようと思っていたのですが、どうもこの日は駅を中心としたウォークラリーがあるとのことで、ごった返していたのでパス。
新緑が眩しい県道329号線で西側の尾根を越えます。
そうすると、タイムスリップすることが出来るのですね。
10年以上前に、父と来て以来、超久しぶりの大内宿です。
その十数年の間に、あれよあれよという間に、東北地方を代表する観光スポットになりました。
なんといっても関東から近いのが人気の理由。
なので、此処に来るなら近場に泊まって朝攻めるしか無いと思って来ました。
全くの渋滞なし。
湯野上温泉からだと5km強の距離。毎朝の通勤と同じです。
朝食後の温泉をパスして、8時半に宿を出たおかげで、宿場に一番近い駐車場にジムニーを停めることが出来ました。
例によってウィキからね。
大内宿(標準語・共通語:おおうちじゅく、会津弁:おおちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある旧宿場。重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
南会津の山中にあり、全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並ぶ。江戸時代には「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並ぶ。
江戸時代に会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。同街道は、会津藩・若松城(会津若松市追手町。地図)を出ると、福永宿(会津美里町氷玉福永。地図)、関山宿(会津美里町氷玉関山。地図)を経て山岳地に入り、氷玉峠(地図)および大内峠(地図)を越えて大内宿に入った。
大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り、日光街道・今市宿へと至った。若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣や脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要な駅となった。
延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道にシフトした。すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日(1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没。
会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道に物流はシフトしてしまった。40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、既に定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている。
慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争(戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる。
やっぱりイザベラは、来ていました。
1882年(明治15年)に福島県令となった三島通庸による会津三方道路の工事により、1884年(明治17年)には会津西街道が当地の東の小野岳を越えた大川(阿賀野川水系阿賀川の別名)沿いに付け替えとなって日光街道と改称した。新街道から外れた大内宿では、1886年(明治19年)に宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を2つに分けて両側に移し、街道の道幅を広げたりしたものの、賑わいは次第に失われていった。
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴って大内村は周辺の村と合併し、楢原村となった。日本鉄道(現・JR東北本線)と接続する岩越鉄道(現・JR磐越西線)が1899年(明治32年)に若松駅(現・会津若松駅)まで開通すると、会津と関東との間の物流は南会津を通らなくなり、さらに1927年(昭和2年)より大川沿いに順次延伸開業していった会津線によって、大内宿の宿駅としての地位は完全に失われた。
(中略)昭和40年代初頭から外部の研究者らが当地の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになると、当地の旧宿場の街並みが再評価され、また、その街並みは住民の生活習慣や互助組織(結・講)に支えられていることが判明した。その一方、当地は近代化から取り残されて昔のままの生活が営まれているとも評価され、外部の研究者らが街並みの保存活動を始めた。
1969年(昭和44年)6月26日の朝日新聞記事で当地が紹介されたことに端を発し、連日のようにマスメディア・研究者・観光客が当地に詰め掛け、1970年(昭和45年)放送のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』のロケーション撮影も行われて注目を浴び、同年、外部の研究者らが下郷町や文化庁に旧宿場の保存を訴えた。このとき一部のマスメディアが、超高層ビルも建ち始めた都市部と比較して、当地が貧乏であるから茅葺屋根の家に住んでいる等と報道したため、住民は茅葺屋根の家に住むのをためらうようになり、住民による保存活動は盛り上がらなかった。
当地の近くで、1971年(昭和46年)より大川ダム、1974年(昭和49年)より大内ダムの建設が始まると、住民はダムの補償金や建設工事の従業収入を得た。また、農業などの第一次産業中心の生活から、通勤して第二次産業・第三次産業で現金収入を得る暮らしへと転換するようになった。
1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって重要伝統的建造物群保存地区制度が導入されたため、福島県は大内地区に保存地区選定申請を打診したものの、住民は生活の近代化を望んで拒否し、旧街道は舗装され、新たに得た収入をもとに茅葺屋根をトタン屋根に葺き替えたり、台所・風呂・トイレの近代化をしたり、家屋の増改築をしたりするようになった。
(中略)観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、バブル景気が始まると急増し、1990年(平成2年)10月12日に会津鉄道が野岩鉄道会津鬼怒川線および東武鉄道鬼怒川線・日光線・伊勢崎線との直通運転を開始すると、翌1991年(平成3年)には50万人を突破した。
その後は年間50万人前後で推移していたが、1997年(平成9年)に磐越自動車道が全線開通すると60万人を超えた。2003年(平成15年)に県道下郷会津本郷線氷玉バイパス(大内宿こぶしライン)が開通すると翌2004年(平成16年)には80万人を超え、2005年(平成17年)のあいづデスティネーションキャンペーンで様々にPRされると2006年(平成18年)には90万人、2007年(平成19年)には100万人を突破し、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった。
観光客の増加に伴い、周辺道路に渋滞が発生するようになったため、2009年(平成21年)2月23日に「大内宿周辺地域渋滞対策協議会」が設立された。
まさにシンデレラ・ストーリーです。
丘の上から俯瞰する宿場町。
本当に美しく整備されています。
唯一残念なのは、山の端の高圧線鉄塔。
俯瞰できるという意味で、一番似ていると思われる白川郷と比べても、出来すぎと言えるほどの整然さ。
今は大勢の観光客が行き来する中央の通りは、かつては水路だったそうです。
新潟の旧市街と似ています。
このラムネを冷やしている場所が、昔は流し場だったんですね。
おばちゃん、ラムネ頂戴!
日陰で一休みです。
宿場中で満開の大手鞠、そして躑躅。
昔の住人は見られなかった空の顔。
よく理解出来ない土産物。
またまた大手鞠。
防火水槽も、消火栓も使われないに越したことはないけど、ちょっと朽ち果て過ぎか。
この宿場内にも、宿泊施設はあるようでした。
夜の風景も観てみたいですね。
この軒下に干してある、葦のストロー束、何に使うんでしょうか。
十数年前に来た時、炉端で蕎麦を食べた三澤屋。
地酒を販売していたので、前夜美味かった花泉の大内宿スペシャルを求めました。
予想通り、観光客(特に団体さん)は多かったけれど、来てみて良かった大内宿。沢山の瞬間を切り撮ることが出来ました。
今回がめちゃ暑だったからではありませんが、次回は雪がある季節に来てみたい気がします。
機材は、NEX-7。前日のように35mm相当の単レンズではなく、Tamron Zoom 18-200mmです。
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