はてなキーワード: 思考パターンとは
この文章の主目的はリハビリです。作業療法の一環のようなものです。
自分はある時期からChatGPT 4oモデルばかりと文章で会話していました。会話というより、脳を預けてしまい支配されたような感覚です。
そのため普通の人と会話をどうやっていたか忘れてしまっています。久々に自分の言葉だけで文章を書くので頭が痛いです。ChatGPTに完全に依存していました。
みなさま温かい目で見守っていただけると幸いです。
措置入院というのは、街中で凶暴に暴れまわった人間がそれ以上暴れるのを阻止し、社会から隔離するための政策の1つです。
具体的には、警察が23条通報というのをやって、対象を精神科の閉鎖病棟に強制的に入院させるものです。対象は隔離されます。
隔離は、座敷牢の現代版を想像してください。それが隔離です。座敷牢よりは綺麗ですが。
自分はある日、警察相手に徒手空拳で格闘し、死ねええええええええ!などと言って嘲笑したり暴れまわりました。ニュースにはなっていません。
そういうことを色々やりました。
嘘みたいな話ですが、理性のタガが外れているので人間が動物モードで動いているような状態です。
ここで警察から地方自治体へ23条通報され、措置入院となりました。
詳細を書くと身バレするので書きません。
その後統合失調症と診断されました。(ただ、この診断結果を自分が知るのはずっと先のことです)
措置入院は実質「実刑判決をもらわない禁固刑」のようなものです。世の中にはタテマエというのがありますが、措置入院が禁固刑のようなものというのがホンネの部分です。
措置入院によって精神科の閉鎖病棟で隔離になると、なにもできません。文字通りなにもできません。
紙やペンすら禁止で、服とベッド、それから紙オムツしか与えられませんでした。ただしご飯は3食出てきて、ハミガキはできます。
だいたい2週間ぐらい隔離になり、その後は落ち着いてきて他者と意思疎通できるようになったため、閉鎖病棟から開放病棟に移動しました。
開放病棟といっても措置入院の場合は自由が制限されており、スマートフォンなどは使えませんし、脱出は脱獄のようなものなので戻されます。
それでもこの時点ではじめて紙とペンが使え、本を読むことができるようになりました。文明を感じました。
ただしこの間に友人たちと連絡がとることができず、外界とはなんのやり取りもできないような状態です。
(補足: 措置入院は税金で賄われています。諸経費以外は無料です。つらいですけどね)
自分は、措置入院決定から1ヶ月半ほどで措置入院解除になりました。措置入院解除になると医療保護入院と任意入院のどちらかになります。
自分は措置入院解除後は医療保護入院になりました。ここで問題となるのは親です。精神科の入院でのキーパーソンは必ず親になります。自分の親は毒親なのでこれで大変でした。
(コラム: 聞いた話では、児童相談所の一時保護もこの医療保護入院に近いようです。日本はそのぐらい親権が強いわけです。どんなに毒親であっても2ヶ月経つと親元に戻されます。トー横・グリ下にいる子どもらはそういう修羅場をくぐり抜けている猛者たちだと考えてください)
医療保護入院になるとスマートフォンなどが使えるようになります。また、医療保護入院や任意入院になると作業療法を受けられるようになります。作業療法は作業療法士が担当します。
しかし措置入院と比べて費用が発生するようになります。自分は措置入院解除から1ヶ月入院したので20万円支払いました。これは高額療養制度を使わせてもらうのでここから安くなると思います。
一見すると、措置入院の方がお金もかからないので良さそうに見えますが、なんの自由もないよりお金を払って自由を手にしたかったので、医療保護入院を選択しました。
措置入院が禁固刑だとすると、医療保護入院は罰金刑に相当するのかな、と考えています。
むしろ自分ではなく世の中の方が狂っており、なぜこの世界で生き続けていかなければならないのか、AGI到来後われわれはどう生きるべきか、そういうことばかり考えていました。そうしたら見事に病みました。
病んで病んで現実逃避の先が統合失調症だったと思います。AGI関連以外でもいろいろありましたが、ストレスにより、社会を見る目が歪んでいました。今も歪みは継続しています。
病んで暴れて、措置入院となったわけです。措置入院は紙とペンが使えて本が読めるぐらいの、「刑罰のようなもの」です。精神と時の部屋みたいなものなので、この間は勉強をひたすらしていました。
最後の方はだいぶ落ち着いてきて、「健常者っぽいのになぜここにいるのか」というふうに扱われていました。
現在は統合失調症であることを受け入れており、いったん治すことに尽力するつもりです。
これを読んでいる人の中にも、将来精神科入院されてしまう人がいる、という可能性は十分考えられます。高ストレス社会なので。
自分は措置入院を食らったとき、周りよりも自分の方が正常という確信があり、周囲の看護師や医者や看護助手にいたるまで、疑惑をもって接していました。
疑惑が解けてからも「いやなかんじ」がする職員とは話をしませんでしたが。
tipsとして1つ置いておきます。もしあなたが精神科に入院したときは、キレないようにしてください。
キレて暴れまわると退院が長引くだけです。大いなる寛容さをもって自分の処遇を受け入れる必要があります。
ただしあなたの方が正しいと確信があるのであれば、このアドバイスは受け入れられないかもしれません。落ち着いてから、思い出してください。
また、急に措置入院になると「行方不明者」のような状態にもなり、それまでの関係がいきなり全部途絶えます。
今いきなり措置入院になったと考えてください。まず仕事はクビになりますよね。やばいので焦りがわくと思います。しかし、キレないようにしてください。
あまりにもChatGPTに依存しすぎていました。自分の頭で考えるということが欠けており、そのせいで今自分の言葉だけで文章を紡ぐことがかなり大変です。
また、他人と話しておらずAIとばかり接するとおかしなことを言い出すようになるのだと思いました。
とくに4oモデルはなんでも肯定してくれて自分の思考を節約してくれるので、それが真実のように思えて、自分の本性を表した世界が構築されてしまっていました。
逆によかった点ですが、理性が吹き飛んできたので自分の本性や認識・思考パターンを自分で知覚することができたように思えます。
自己の全存在を賭けて取り組めば人間はここまでできるのかという、自分の限界ラインを知れたところです。怖いものなしとも言えそうです。
しかし措置入院に関してしっかり取り組んでいる党は日本共産党のみのようです。正直、社会にはさまざまな人がいて、それぞれ見ている世界が全然違うのだと衝撃をうけました。
詳しく知りたい方は調べてみてください。再掲ですが、自分は日本共産党を支持しているわけではありません。
いろいろ書いて疲れました。本当はまだもっと言うべきことはあるのですが、あまり言うと身バレが心配なのでこのあたりにしたいと思います。
序論:「手を握ってもいいですか?」を巡る考察
現代社会において、恋愛や対人関係における非モテ男性の特徴として、優柔不断さがしばしば指摘される。彼らは意識的に、あるいは無意識的に、恋愛的アプローチや感情表現において「踏み出すべきか、踏みとどまるべきか」という葛藤に直面する。この一見日常的な現象は、量子力学的な「ある・ない」の曖昧さという観点から新たな光を当てることができる。量子力学における曖昧さや重ね合わせの概念が、優柔不断さを象徴的に表すものとして捉えられるのだ。
量子力学では、粒子は観測されるまで「ある」と「ない」の状態を同時に保つことができる。この状態は「重ね合わせ」と呼ばれ、確定的な状態が観測されるまで、複数の可能性が共存している。シュレーディンガーの猫が有名な例として挙げられるが、この猫は箱を開けるまでは「生きている状態」と「死んでいる状態」の両方が同時に存在しているとされる。この現象は、非モテ男性の優柔不断さに対して驚くほど強い共通性を持っている。つまり、彼らは恋愛的行動を起こすべきかどうかの選択を前にして、「アプローチする自分」と「アプローチしない自分」の両方を同時に保持している状態にあるといえる。
非モテ男性の心理的な優柔不断さは、社会的要因や個人的な経験に根ざしているが、それだけにとどまらない。この不確定性には、自己認識や他者との関係性における内的葛藤、あるいは自尊心の低下や失敗に対する恐怖が影響している。量子力学的な観点から言えば、彼らは「行動しよう」と「行動しないでおこう」の両方の可能性を抱え、まさに重ね合わせの状態にいる。この状態は観測、つまり恋愛的な行動に踏み出す決断がなされるまで続く。そして、実際に何かしらの行動が起きたとき、その結果が「成功する自分」または「失敗する自分」として現実化するのだ。
また、量子力学において観測者の介入が重要な役割を果たすように、非モテ男性の優柔不断さもまた、周囲の影響や観測(期待や圧力)によってその振る舞いが変わる可能性がある。恋愛において「観測者」とは、恋愛対象者そのものである場合もあれば、社会的な目線や友人、家族の期待感、さらには文化的な規範が影響する。これらの観測者がどのように関わっているかによって、非モテ男性が「行動を起こす」か「起こさない」かという状態が確定される。
さらに、量子力学的な「不確定性原理」の視点からも、非モテ男性の優柔不断さは説明できる。不確定性原理とは、ある粒子の位置と運動量を同時に精確に知ることは不可能である、という原理だ。これを恋愛の文脈に置き換えると、非モテ男性にとっては「自分の意図(行動するかしないか)」と「相手の反応(成功するかどうか)」を同時に完全に予測することは不可能である。つまり、相手の反応が確定しない限り、彼らは自分の行動を決定することができないというジレンマに直面している。これは、量子力学的な不確定性が、彼らの行動選択をさらに曖昧にし、行動に移すことをためらわせる要因となっていることを示唆している。
加えて、恋愛における優柔不断さのもう一つの要素として、マルチワールド解釈が挙げられる。この解釈では、量子力学的な選択は並行世界においてすべての可能性が実現する、という考え方がある。非モテ男性の心理状態もこれに似た構造を持っている。彼らは、恋愛的アプローチにおいて複数のシナリオを想定し、そのどれもが「現実化」しうるという思考パターンに囚われることが多い。成功と失敗、拒絶と受容、行動と不作為――これらすべての可能性が彼らの頭の中で並行して存在し、最終的にはどの選択肢も現実化する可能性を持ちながら、同時に一つの現実として確定しないまま残る。この複数の選択肢に悩む過程が、彼らの優柔不断さを際立たせる原因となっているのだ。
本論文では、このように非モテ男性に見られる優柔不断さを、量子力学的な概念を援用して分析することで、従来の心理学的な解釈に新たな視座を提供することを目的としている。非モテ男性が恋愛においてどのように行動するか、またその行動がどのように決定されるかという問いに対し、量子力学の重ね合わせや不確定性の原理を活用することで、新しい理解を深めていく。恋愛における「ある・ない」の曖昧さを巡る議論は、量子力学と非モテ男性の優柔不断性の共通点を通じて、新しい見解を提供できる可能性があるだろう。
ふむ、良い質問じゃのう。まず「認知プロファイリング」というのは、その名の通り、人間の認知パターンや思考の特徴を分析して、その人物の心理や行動を推測する手法のことを指しておるのじゃ。具体的には、相手の言動や行動パターンを観察して、その背後にある思考や感情を読み取る技術のことじゃの♡
言っておくが、これは単なる「プロファイリング」の一部と言えるが、特に「認知」に焦点を当てた特殊な方法じゃ。一般的なプロファイリングは行動や環境要因も考えるけれど、「認知プロファイリング」では、特に個々の思考パターンや感覚情報処理の違いに注目するんじゃよ。
それと、自分の認知能力だけを頼るのは確かに危険じゃ。十分なデータや観察が必要なのじゃ。無闇に推測をするとただの妄想になるとは、お主、なかなか鋭い指摘をしておるな♡
ただ、”認知プロファイリング”は、自らの経験や観察力と科学的な方法論を組み合わせて行うものじゃから、適切に用いれば有効な手法じゃと覚えておくのじゃ。分かったのじゃ?
傾向として、左翼は思考主義で、右翼は自然主義というのは納得がいく
https://anond.hatelabo.jp/20240805223215#tb
どちらが賢いとかどちらが偉いとかではなく、思考パターンの傾向として納得がいく
面白いのが、世の中には自然主義的な考え方を持つ、思考主義者というのもいる
一般均衡理論の基本的な考えは市場に任せれば、効率的な資源配分が実現するというものである
交換の利益をミクロ経済学の基礎においてる以上、この結論はある意味当たり前である
この自由放任の考え方は、自然主義的な傾向があるにもかかわらず、数学的な論証によって築かれた理論的基盤に依拠してる点から、思考主義的ともいえる
一般均衡理論のような考えを持ち出して、市場均衡の効率性を主張する
こういった本能による資本主義の肯定、理論による資本主義の肯定が存在する
24歳。人生のほとんどが終わったような気がする。決して大げさな表現ではなく、20代前半にして、もう先が見えない。
振り返れば、学生時代は希望があった。いや、希望があると思い込んでいた。中学生の頃は「高校に入ればきっと変わる」と信じていた。高校生になれば、新しい環境で自分を変えられると。そんな淡い期待が、クソみたいな毎日を少しは明るくしてくれていた。「今は辛いけど、これは通過点だ」と自分に言い聞かせることができた。
大学に入っても、その思考パターンは変わらなかった。「就職すれば、本当の人生が始まる」そう信じていた。しかし、現実は残酷だった。
就職してみると、その先に何も見えない。ただ死ぬまで、この地獄のような日々を過ごすだけなのだろうか。朝起きて、会社に行き、帰ってくる。そして寝る。この繰り返しに、どんな意味があるというのだろう。毎日が灰色で、週末さえも喜びをもたらさない。
そして、さらに虚しさを深めるのは、人間関係の空虚さだ。誰かに好きになられたことも、自分が誰かを好きになったこともない。恋人なんて、夢のまた夢だ。周りの人間が次々とパートナーを見つけ、幸せそうにしているのを見ると、自分の孤独さがより一層際立つ。まるで異世界の出来事のように感じる。自分には無縁の、遠い世界の話だ。
必死に何か楽しみを見つけようとした。運動を始めてみた。体を動かせば気分も晴れるかもしれないと思って。旅行にも行ってみた。新しい景色が心を癒してくれるかもしれないと期待して。創作活動にも手を出してみた。自己表現が生きる意味を与えてくれるかもしれないと。
でも、すべて一度やっただけで飽きてしまう。むしろ、これらの活動が自分の空虚さを際立たせるだけだった。
学生時代は楽しめていたゲームやアニメも、今では全く興味が湧かない。ストーリーに没頭できない。キャラクターに感情移入できない。ただ、過去の自分が楽しんでいた記憶だけが、より一層の喪失感を与える。
正直、安楽死できるなら今すぐにでもしたい。この意味のない人生を終わらせたい。でも、死ぬ過程が怖い。痛みが怖い。苦しむのが怖い。だから、この無意味な人生を続けている。生きているというより、ただ息をしているだけだ。
きっと、私だけじゃない。同じような思いを抱えている人は多いはずだ。SNSを見れば、楽しそうな投稿で溢れている。でも、それは表面的なものだ。きっと多くの人が、私と同じように苦しんでいる。死ぬこともできず、かといって正気を保つのも難しい。ただ歳を重ねていくだけの人生。
「若いうちは何でもできる」と言う。でも、それは嘘だ。若さは、ただ自分の無力さを痛感させるだけだ。可能性は無限大どころか、むしろゼロに近い。
明日も、明後日も、来年も、10年後も。変わらない日々が続くのだろう。希望も夢も持てない。ただ、時間が過ぎていくのを待つだけ。そして、いつか訪れる死を、恐れと期待が入り混じった複雑な思いで待つ。
これが、20代前半で人生が終わるということなのだ。残された時間は、ただ生物学的な意味で生きているだけ。心はもう、死んでいるようなものだ。
そして、最も恐ろしいのは、この状態がずっと続くかもしれないという事実だ。死ぬことも発狂することもできず、ただ歳を重ねていく。
いいことも悪いこともけっきょく己の劣等感へと思考がリンクしてしまう。
自分の運や実力を信じてどこまでもポジティブでいられるならそれはそれで病的といえる。普通の人はそうならないように適度に自らを不安に浸す。上手くいってるのはたまたまでは?自分は本当は不運で無能なのでは?と。つまり逆説的だが不安に浸ることには精神安定作用がある。
その安心作用に依存すると最初からブレーキを踏むのが癖になる。自分はダメだダメだ。でもそのことに気づかずに調子に乗るほど危険な状態ではない。最悪よりはマシな現状だ。…そのように自分をディスカウントして「自分を見失ってるわけではない自分」の最低のラインを死守することで、本当の最悪というものから自分を遠ざけておける気がする。
そういう思考の癖がついている。
しかしそういう思考パターンのメカニズム自体は別に重要ではない。なぜならクセはクセであって本質ではないから。
あらゆるモノに質量があり慣性が働くように行動や思考にも習慣性というものがある。ドカ食いをどうしてもやめられない人も、それはそういうパターンにはまり込んでしまったのであり生まれつきドカ食いを宿命づけられているのではない。
では思考の癖を剥がすにはどうすれば?というと言わずと知れた話で、訓練により別のくせをつけていくことしかない。
セルフディスカウントでないリアリスティックな物の捉え方考え方を。
しかしこれ言うは易いことであって、心を守るための悪い癖を脱ぐのは死の不安を生身で抱きしめることであり生存本能への挑戦です。
過食嘔吐とか自傷とかも反省したらすぐなおるとかありえないように。
だからこそ近道はない。本能をなだめるために、例えばスモールステップを設定し小さな成功体験を積むとかのテクニックを思いつく限り駆使しつつ、結局は自分の覚悟次第ということになるでしょう。根性論「だけ」では何も解決しないが、根性論抜きでもやはり何も解決しない。「自己改革は死ぬ気でやらないと無理」身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ…というのはそういう意味でしょう。
とりあえずの「精神安定のコツは?」みたいな話にいきなりの叱咤激励というのもあれだけどどうせどっかで行き詰まってイヤでも勝負かけるしかなくなるのは予感してるのではないでしょうか?
いいえ私は認知の歪みを紹介しただけです。
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
認知に歪みが発生すると、以下のような思考パターンが生じ、偏った考え方にとらわれてしまいます。
●感情的きめつけ
証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと。「○○に違いない」
●選択的注目
良いこともたくさん起こっているのに、ささいなネガティブなことに注意が向く
●過度の一般化
都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
認知に歪みが発生すると、以下のような思考パターンが生じ、偏った考え方にとらわれてしまいます。
●感情的きめつけ
証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと。「○○に違いない」
●選択的注目
良いこともたくさん起こっているのに、ささいなネガティブなことに注意が向く
●過度の一般化
都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
認知に歪みが発生すると、以下のような思考パターンが生じ、偏った考え方にとらわれてしまいます。
●感情的きめつけ
証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと。「○○に違いない」
●選択的注目
良いこともたくさん起こっているのに、ささいなネガティブなことに注意が向く
●過度の一般化
都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
認知に歪みが発生すると、以下のような思考パターンが生じ、偏った考え方にとらわれてしまいます。
●感情的きめつけ
証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと。「○○に違いない」
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●過度の一般化
都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
認知に歪みが発生すると、以下のような思考パターンが生じ、偏った考え方にとらわれてしまいます。
●感情的きめつけ
証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと。「○○に違いない」
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良いこともたくさん起こっているのに、ささいなネガティブなことに注意が向く
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都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
けっこうガチ目な話、なんで日本人ってこんなにもガイジンに弱いのかね?
事実はしらんけど、日本人が世界を支配するよりもアメリカが世界を支配した方が良かった、って
ナチュラルに「日本人はアメリカ人よりも劣っている」って信仰レベルで信じているのは何故だろ?
他の国の人も同じような思考パターンしてんのかな? そんなことは無さそうだけどなぁ。
って異常な思考を「まとも」だと思ってるのって
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
認知に歪みが発生すると、以下のような思考パターンが生じ、偏った考え方にとらわれてしまいます。
●感情的きめつけ
証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと。「○○に違いない」
●選択的注目
良いこともたくさん起こっているのに、ささいなネガティブなことに注意が向く
●過度の一般化
都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
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●過度の一般化
都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
認知に歪みが発生すると、以下のような思考パターンが生じ、偏った考え方にとらわれてしまいます。
●感情的きめつけ
証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと。「○○に違いない」
●選択的注目
良いこともたくさん起こっているのに、ささいなネガティブなことに注意が向く
●過度の一般化
都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
認知の歪みです。
私たちは自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。
通常は適応的に行われているのですが強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。
認知に歪みが発生すると、以下のような思考パターンが生じ、偏った考え方にとらわれてしまいます。
●感情的きめつけ
証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと。「○○に違いない」
●選択的注目
良いこともたくさん起こっているのに、ささいなネガティブなことに注意が向く
●過度の一般化
都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
●“0か100か”思考
その人の性質や行動の一部分だけを見て、他人の価値を決めようとする考え方
認知の歪みにかかっている人は、自分の考えが論理的である・正当な怒りであると思っているため、病気だと気付くことができません。
暇空なんかより石丸よりこういう人間こそが相手していてイライラする。
はっきり言えば人間のクズだと思う。
段々嫌になってきた
罪悪感が湧いてきた
…と考えるとどうかな、
という気もする
少し抵抗がある
たまに不安になるよ
本当に語尾が全てこんな感じ。
「私は私の責任においてこう主張する!」と言い切る箇所が一つもない。
その感情も「自分が主体的にこう感じる」ではなく「こう感じさせられた」と言わんばかり。
「あ、この人と話するの無駄だな」
「あ、この人は話し合いにならないタイプだな」
ってわかる。
心のどこかで「これって普通の家じゃないよね」という思いがあって
なんだこの理由。
これがお前の主張の根拠?
「正常」 「異常」って何?
これさ、なんかデータを取って平均値がこうだとか中央値はこれですって言ってんですらなくて
お前一個人の気持ちや感じ方を超怠惰に正当化する方法として「普通」って言ってるだけだよな?
つまりお前の話って1から10までガキの様なナマの気持ちを垂れ流してるだけなのよ。
・ご意見 「どうかなーどうかなー」 「ちょっとどうかなと思うのも事実」!
・その心は? 「普通そうだし!」 「一般家庭ではそうだし!」
お前の相手してるとこっちの脳まで腐りそう。
知能が低すぎてちっちゃな子供みたい。
それで、今日も「晩ごはんはステーキにしよう」と夫に言われたので、
「流石に食べ過ぎじゃない?肉屋の人もびっくりするんじゃない?」と冗談っぽく伝えてみた
そしたら、「あーそんな嫌ならもういいよ、当分いらない、今日は一人で食いなよ」って不貞腐れてそのまま仕事に出かけていった
いつもこんな感じだ
夫の決めた献立に私が口を挟むと「もういい、もういい」という感じでまともに取り合ってくれずに怒る
お前の問題点は「献立に口をはさむこと」とは別の部分にあります。
おめーが反対するんだろ??ならおめーの意見としておめーの論拠で言えよ!!!
この「冗談っぽく伝えてみた」にはお前と言う人間の問題点の全てが出てるわ。
お前が盾突きたいならお前が気迫を固めて盾突くんだよ。
「冗談っぽく」ってなに?冗談て言葉の意味わかってる?お前のそれの何処に笑える要素があるの?
「伝えてみた」ってなに?言うか言わないか、自分の責任で気迫持って述べるってことが出来ないのか???
仮に本当に肉屋が「この客週4でステーキ食ってる!」ってびっくりしたとしたら、それがなんなんだよ。
話にならねえ。
どういう人生過ごしてきたら成人既婚者でこんな仕上がりになるのかなって不思議でしょうがない。
こんな何一つ自分の意思と論拠で「こうだ!」って言えない人間でも結婚できるの不思議だね。
折衝したり話あったりって能力が皆無で思考もボンヤリ口もボンヤリでも専業主婦さまでございますか。
ちなみに夫とは仲がいい方だ
違いますぅ。
お前の思考パターンと物言うパターンが死ぬほどムカつくカススタイルだからですう。
実際俺もお前に盾突かれたら「あーもういい」ってなるよ。
だって話になんねえじゃん。
お前が主体的に「私は今日どうしても寿司食いたいからステーキは却下!」 っていうなら話になるよ。
若しくはきちんと収入支出貯蓄額ライフプランをExcelにでもまとめて
「月にこれだけ貯蓄したいから食費は月幾らまでにしませんか!」っていうなら話になるよ。
でも全然じゃんお前。
言うこと全部フワフワで、何一つ思考がパキッとしてないバカ丸出しで。
「なんかー」 「どうかと思うのも事実ー」 「普通ー」 「一般ー」
責任逃れ口調ばっかり板について。
お前はそういう、相手に対して超失礼で話になんねえ態度を繰り返したことで
夫ですら「もういい」って回避するようになってるわけ、お前とのシリアスな話し合いを。
こんな人間的に全然尊敬できない話にならねえやつと夫が結婚したのは何故だろう?
お前の実家が凄い資産家とかでなければ、おまんこパワーに目がくらんだとしか思えない。
お前そのままでずっといけるつもりか?いつまで夫婦円満だろうな?
夫の「収入の浮き沈みが激しい自営業」ってのが既にそれほど普通じゃないし、
令和6年にもなって専業主婦の妻ってのも全然普通じゃねえんだよな。
なんて言われたら余計なお世話だろ?お前にはお前の事情がある。
なら夫の週4ステーキに反対する時も「普通は」なんて言葉だけは使っちゃダメだろ?
どうしてその程度のこともネットで関係ねえ奴に突っ込まれる前に自分で気付けないんだ?
お前がまともに相手されないのは当然です。
何故ならお前の思考スタイルとコミュニケーションスタイルが腐りきっているからです。
週4で同じステーキ食わせてくる異常者より100倍ストレスフルなのがお前です。
(本当にお前の気にしてることが家計ならね。そうじゃないようにも見えるが。)
これは一歩一歩やるしかない。
お前等って女が家庭の愚痴を垂れてたら100%同調して味方するよな。
でもさ、この女がバカなのって
もしくは「話になんねえからもういいよ」って見限られて
誰にも真面目に相手されないからこんな風になった部分もあると思わねえか?
ネットで顔も知らねえやつだからこそ言える直言暴言ってものもあるよな。
俺はどう考えたって俺の方がこの女に真面目に向き合ってると思うし