はてなキーワード: 韻律とは
高3のときにかかった統合失調症について自分の身に起こった症状を経過とともにまとめておく。まず秋の三者面談で担任に友達がいない=それだけコミュ力がないことを指摘された。
当時官僚に憧れていたが、そのことを知っていた他人は学力もそうだがそこを改善したところでその社交性の無さをどうにかしなければどうにもならないことを言ってきたのだ。
それに私は心底動揺したようで、母によれば帰りの電車でチック症状が出ていたらしい。そこから、受験勉強も頑張りつつ立派な人格者になろうと奮起したことでだろうか、だんだん行動と思考がおかしくなっていく。
柄にもなく今まで話したことも無いような生徒に話しかけるようになる。記憶力が良くなったような気分になる。化学式が水を吸い込むスポンジのようにすらすら頭に入っていく気分だった。
実際少しは記憶力が上がったのかもしれないが気分の部分が大きかったように思える。気分が高揚し何故か授業中でも教科書に書かれた偉人を模写するようになった。
普段の私は不器用な方で模写などできるようなタチでもなく、したとしてもゆっくり書いても線は歪にるし顔のパーツのバランスも元のようには書けなかったはずなのだが、そのときはなぜかさらさらと筆が運んだ。各パーツの境界等を線ではなく元の絵通り濃淡で表すなんて普段の私にはできないことを普通にしていた。数学の教科書のガウスを描いたときが特に印象に残っている。風邪でもないのに熱が出て学校の中で倒れるということが起こるようになった。何度か親に送り迎えされることがあった。
私は中学のころまでは学校の人間をいじめていたことがあったのだが、急にそのことを思い出し心底恥じ入る気持ちになり号泣した。そして旧友がどうなっているのか訪ねに行った。受験生なのに何をしてるのかと思うだろう?私にもわからない。
塾の特別講座や模試を受けに都心に行ったときはひどいものだった。湯島聖堂に行って人が引くような感服をした。ピンクのハトを見て神がかり的な力を感じてしまった。(ピンクのハト自体は幻覚ではなく写真に残っているしそもそもそこまで珍しいものではないと思われる)
興が乗りゲームセンターに行ってヴィクトルーパーズというゲームを体験する。プレイ時に自分の反射神経に関して今までとは違うものを感じて全能感を感じた。
そして確かリフレクビートみたいな音ゲーを他人がプレイしているところの画面をなぜかタッチした。当然苦言を呈された記憶がある。でもそのときの自分は意に介していなかったと思われる。
夜になっても秋葉原を闊歩してあるときは自分の腕力に自信を感じ筐体を動かせるかどうか試していた。
今思えば実際は持ち上げていたのではなく引っ張る程度でなんの腕力の証明にもなっていないのだがあのときはこう理詰めで考える力を失っていたように思う。
釣り合わないおっさんと若い女性が一緒に歩いている姿を見て、犯罪の匂いを感じ制裁してやろうとか思った(今思えばコンカフェのサービスに過ぎないだろう)。
街中で大学生と思しき数人の男女の組を見つけて話しかけて自分の志望大学について語る。あのときは普通に対応されたけど陰でやばい奴認定されていたのではないか。
道路にポスターが筒状に丸められたものが落ちていて、アキバでの土産として持ち帰るつもりだったのに、振り回したり膝に当てて曲げたりしていた。思考の滅裂が伺える。
結局その夜は終電を逃し、教科書等が入って10kgになっているリュックを背負ってほとんど休まず冬の夜を始発まで歩き続けていた。それは冬に露地で寝たら凍死するという、ここだけはまだ高校生としてまともなイメージによるものだった。
その最中、座って休んでいたときはとめどなく出てくる感じの英語を、どうせ誰もいないからと気持ちよく口に出した。まるで通訳ならそういう境地であるかのように、自然に英語で思考が言葉として頭に浮かんでくるのだ。これも今までにないことだった。今までの学んだことの蓄積が一気に爆発的にアウトプット可能なものへと昇華されたような感じだ。第三者がいないので、これが実は文法が滅茶苦茶だった空喜びだ可能性もある。
そうして家族には捜索願を出す迷惑をかけさせるなか帰宅した。保護入院のXデーは近い。またあるとき横浜へ行くと、キャリアになるような人間は高い志を持っていなければならないという心境で、ゴミ掃除をした。受験生なのに。
掃除しているところを見たお巡りさんから未来の官僚様へというふうな感じでブラックサンダーと栄養ドリンクをもらった記憶がある。ということは自分の希望進路をこの警官に行ったことになるのだが、だとすればこの警官の労いは奇妙な行動をする学生を生暖かい目でからかうことを意図したものだったかもしれない。自宅の近所に1000年前からあるという由緒のある神社と正一位の神格がある寺院に目を付け、この地域は稀に見る神聖な土地なのだという気持ちになる。
またその影響からかこのころから神のお達しを感じるようになったり(幻聴ではなくテレパシーのような感じ)自分に女性キャラクターが乗り移ったような感覚が現れることが起こるようになる。口調も普段から変わってしまう。
当時の社会情勢の悪さを神的なものとに結びつけ、寺社に赴いた記憶がある。おこがましくも何かを助言した記憶がある。別に神職者だって宗教を信じてないことが多いのに本物のやばい奴が来てしまったという感じだろうな。
マムシ=蛇の出没も神的なものと結び付け両側が藪の道を木の枝を下に向けて振り回しながら歩く。当時の本人にはマムシを追い払うことでマムシが持つとする瘴気を払うことを意図したものだろう。
またあるときは公園で木の枝を持ってこれが神風だという感じで大げさに振り回す。あくまで高校までの化学の知識から着想を得た「核戦争にも耐えられる強化外骨格」の設計ラフを書いた小切れなどを河原にばらまいたりもした。
夜寝てもすぐ起き上がって漢文がひらめくことが多くなりまともに寝なくなる。当時の自分としてはそれが漢文のいい訓練になるものだと思っていたことを覚えているが、志望大学は漢文の比重が重いものではないので、ほとんど無駄だったと思われる。
滑稽なのは四声も知らないのに(いや受験生としては問題ないんだが)漢詩等を次々書いて悦に入っていたことである。文法はともかく古代中国語として韻律のめちゃくちゃなものだった可能性が高い。
でもこんなことをしていたのには訓練以上に、漢文に書かれた思想に感じ入っていたところも大きい。
おかしくなった私の目標は立派な仕事に恥じない人格者になることだった。そして湯島聖堂に行ったときに孔子の深遠さに衝撃を受けた。
もちろん孔子自体は以前から知っていたが、偶然「聖地」を見つけ赴いてしまったことで、自分なりに感じた霊験あらたかさに、彼と彼の思想がいっそう素晴らしいものに感じるようになってしまった。
普通の受験生にとっては教材でしかない漢文から仁徳を感じ取るたびに感動し、過去の不徳な自分と対比して大泣きして大真面目に反省するという情緒不安定も起こっていた。
電車で、密着して二人の世界に入っている男女に話しかけたりもした。今考えれば当然のガン無視をされた。しかしやっぱり躁状態になっている私は誰とでも話せる人間になろうという思いが強かったのか意に介さないのである。
テレビでちょうどやっていたイスラム国関連のニュースの映像を見たときとてつもなく怖いものが見えたように感じ体を丸めて怯えたような記憶がある。あの心理状況はどういう原理だったか。
イスラム国はどうにかしなけばならないという義憤を感じてツイッターでアラビア語?で検索してイスラム国関係者と思しきツイートに直接リプライしたり、また当時の漢文にハマっていた自分らしくSNSのアカウント名を「莫歯牙(しがない)○○」をしたりそこで椅子子羊(イスラム)なる言葉を使って打倒を呼び掛けていた記憶がある。
世界中から反響があった感覚があったが、実際はただ日本人以外からなにがしかのリプライが来たと言うだけで、数としては数件に過ぎなかったのではないか。
でも当時は確かにカバオコピペのように「今までにない熱い一体感を感じ」ていた。
テレビのイスラム国に関する報道が自分の行動とリンクしているようにも見えていた。自分が世界に影響力を与えている気分になっていた。
調子が悪そうなことをした親に総合診療科に連れられたこともあり、そこで血液検査をしたらCK値の上昇が認められそこで筋肉が壊れてきていることを指摘された。
冬の夜通しの闊歩が祟った結果だと思われる。とはいえ今思うと自衛隊員は数十キロの装備を身に着けることもあるし、強力(ごうりき)はそれこそ100kg近くを背負って運搬するわけだから、ちょっと虚弱過ぎやしないかと思う。
しかし当時の私は筋肉が壊れるほど肉体を酷使している自分に対してこれまた全能感をこじらせ酔っていた記憶があるから滑稽だ。
また当時気になっている子がいたのだが、学校帰りに駅前のブティックに足を運んで何万、何十万かするビロードのような服を品定めしていこともあった。
そういう服を対象にしたのはすっかり自分が上流の人間の気分になっていたから。
そして将来は官僚になってこういうものを好きな子にプレゼントするんだと店員に息巻いていたと思う。
近くの受験が見えなくたって遠い不確定の可能性の低い将来を前提とした行動をとる、まさに統失仕草だったと思う。
卒業間際好意を伝えたときやんわり振られるオチまでついている。
こうしていろいろあって親は養護教諭に電話相談して、精神科への入院を勧められ、私の同意のもと保護入院することになったのだった。
※ブコメから知ったこととして保護入院とは家族の同意のもと行われる強制入院の一つだという事実があるが、私の場合入院したいか、それとも受験するどうかをあくまで私の意思を尊重する形で家族に確認されたため、法的なことはともかく実態としては任意の入院なのだった。
そこで統合失調症という診断が下されたが、診断名は変わる可能性があると言われた。
統合失調症は全段階として6か月未満の統合失調様症状というものがあり、中学のときのエピソードして、自分は悪魔になってしまったという発言や、ナイフの図鑑を買ったりポッカキットで処刑映像を見ていたことを統合失調症の期間として含めるべきかをはっきり判断できないからだということだそうだ。まあ今思えばさすがにこれはただの中二病だろうと思うが。
なお、記憶力や模写等脳の能力に関しての向上を記述したが、これが統失の症状としてあり得ることだったのか、私固有の現象だったのかはわからない。
統合失調症は服薬し続けず「治る」ケースがごく稀な病として有名だが、幸い私は薬も飲んでないが上記のような明らかな妄想も出ることなくただの発達障害(医療機関による診断済み)として暮らせている。
いろいろなことをした、「記憶はある」が、なぜそうしたのか今の自分では全く理解できないことが、過去あったその妄想と現在の現実を区別できる能力が回復している何よりの証拠だと思う。
ほんとう、記憶はあるが秩序のあるものとして理解できず、記憶を記録するにあたってはただあったことを羅列しているだけという気分が拭えないという部分は朝起きる直前の夢に似ているような感じがする。
この長文を書いたのは、統合失調症は脳機能の低下を起こすから患者になったことがある人本人に「書ける」人が少なく、このような本人直筆の体験談は貴重と考えたためで、使命感を持って書いた。
(使命感とかいうとまだ統合失調症が治ってないだろとか言う人が出てくるのかなと思いつつ)
【追記】
実はあれから既に十年以上経っている。
もし統合失調症が治っていない状態で薬をやめていた場合はだいたい長くとも1、2年で、もっとひどい状態で症状がぶり返すのが通例だ。
脳機能も一度目の急性期後より格段に落ちると聞いている。壁に自分の排泄物を塗りたくるようなレベルの廃人になるということだ。
しかし私は御覧の通りこうして記事が書ける程度の理性や知性をいまだ残せている。
それは、薬の副作用にアカシジアというものがあって、その、四肢の気持ち悪い感覚が苦痛だったからだ。
今も、断薬の承諾を得た精神科医本人から三か月おきに診察を受け経過を見てもらっているので、統失が治っていないということについては心配しないでほしい。
その医者の対応に対する違和感を書いてもらって思い出したが、それ以上に著しい倦怠感や思考の鈍麻が起こっていたことについて親が見兼ねたというのが大きかった。
統失の治療薬のイメージとしては躁的な症状をもたらす過剰な神経物質をブロックするというものだが、このころは既に陰性期あるいは寛解状態にあった。
つまり健康体の人間に投薬するのと変わらない状態で、症状を相殺するのを通り越して過度のドーパミン不足を誘発したのかほとんど寝たきりで毎日を過ごすような時期があったのだ。
こんなところにいたら殺される(滝山病院の例もあるので大げさな考えとは思われない)と心配した母親が担当医の忠告、「お母さんあなたも精神病ではないか」という苦言を振り切って入院期間を繰り上げたのだった。最初の急性期を見て薬を処方した入院先で断薬許可をもらったわけではなかったのだ。
ただセカンドオピニオンでかかった他の大学病院の医者も、以前のその病院の処方薬や量の内容を見てこれは多すぎると言っていたようだ。
今かかっているクリニックはこれらの統合失調症や発達障害の診断やそれに伴い我が家庭ではどう対処してきたかという経緯を理解したうえで、基本的にこちらの考えを尊重しときには睡眠の習慣を整えるためにロゼレム?を服用してはどうかと言われては、悪夢を見るから嫌だ、いやこれは他の睡眠薬と違って悪夢は見ないよ、でもちょっと抵抗があるから見送らせて欲しいとかああだこうだ忌憚なく相談できる関係性を築いている。
模写した絵などは残っていない。というのも数年前まで私の部屋は受験期にコレクションした参考書がずらりとならぶ、いかにも子供部屋おじさんの極致にあるような有り様だった。
しかし親に、いい加減高校時代のことに固執してもしょうがないだろうと、絵も描かれたノート類とともにすべて処分することを催促され、応じるしかなかった。化学の新研究とかぐらいは、通読してみたかったなと思っていたのだが。
絵の証拠写真を挙げないのでは一連の記述が創作と思えて仕方がないこと、もっともなことだ。信じる人が信じるだけでもこれ幸いというものだ。
少し退院後のその後の事を書くと、まず予備校に入って再度大学を目指そうとした。
しかし当時の自分は統失の余波か薬の副作用か大変疲れやすく、体験授業後にチューターには母の口から、授業中にも寝てしまうことも有り得ることが伝えられた。
また数か月か、あるいは一年ほど経った頃だったか、入院中も見舞ってくれた担任が定期的に会いに誘ってくるようになった。
と、このあたりのことを書くと俺がどこ高校出の誰かか特定される可能性が1%ぐらいは出てきてしまうと思っているのだが、そうなったらそうなったらでこの記事が創作でないことの証明にもなるわけなので、気にせず書いてしまおうと思う。
そうして職業訓練校を目指すことになった。その訓練校が試験で出す問題と同レベルのSPIとかの練習問題を解いた当時の自分としては、問題自体は大学受験とは雲泥の差の易しさだが、それでも油断はできなかった。
統合失調症と長い間机に向かっていなかった影響で、筆記スピードというあくまで肉体面の要素が著しく落ちていたからだ。
そんな私にアドバイスしてくれたり、数学の先生だったので、私が趣味で取り組んでいた数学に話を合わせ付き合ってくれた。
それに前後して北里か東海大(ここ記憶が曖昧)や、クリニックの児童精神科医にセカンドオピニオンを仰いでいた。
そこでいわゆるウェクスラーを受け、言語性IQが130で動作性が90前後という結果だった。その大学病院が役所に提出する用の親展の封筒を、やっぱり使わないと親が開けて見てしまった中身の書類の記述によると、大変頭の出来がいいというニュアンスの表現でべた褒めする内容だったそうだ。
言語性IQなんていかに成人向けに最適化されたテストといえど受験期等の蓄積で簡単に高成績が出る脆弱性がありそうでならないと私は思っているので、これは私より圧倒的に優秀な大学教授の心の余裕から来るリップサービスのようなものではないかと今は分析している。でも認知機能のテストの一種か何かで、100から次々7を引いた答えをどんどん言ってくださいという問いに自分なりになるべく速く答えたその反応に対しても早い早いと言っていたから、まんざら嘘ではなく、そういうことを総合してなのかな。
ともかくもしこの書類を出していたら障害者手帳の申請は通らなかったからこれでよかったということを親は言っていた。申請に使った診断書等はクリニックが書いたものだったと思う。そのクリニックだが今は児童 Permalink | 記事への反応(1) | 18:05
金烏臨西舎
鼓声催短命
泉路無賓主
此夕離家向
夕陽が沈む。
寺では鐘が鳴っている。私の命はきわまった。
冥府には主もなく客も来るまい。
この夕暮れに家を離れ、私はそこへと向かうのだ。
懐風藻。大津皇子辞世。六朝体の流麗な韻律を維持し乱れない。後世の仮託とされるが詩にあるとおり皇子は夕刻に連行され翌日処刑された。遺体は近江の二上山に葬られた。望まぬ争いに巻き込まれ継母によって殺される二十三歳の青年の最期の声が聞こえるだろうか。
最初に声を聞いたのは古い時代の歌人や詩人だった。いつのころからか伝承が生まれた。曰く「皇子は無実」と。沈潜する伝承に形をあたえたのは明治時代の折口信夫だった。しかしこの時代、『日本書紀』を疑うことは禁じられていた。折口は『死者の書』という不気味な小説を著わしこれを表象した。戦後の歴史学者がそれを受けた。『日本書紀』の詳細な解読が始まったのだ。暗喩に満ちた断片的な記述が発掘で得られた傍証史料とあわせて詳細に検討された。緊迫した皇位争い、持統女帝のすさまじい性格が浮かび上がっていく。考古学者は近江朝における二上山の位置と意味を検討し、それが反逆者にふさわしくない手厚い葬礼であることを指摘した。不比等のかけた封印が解かれた。皇位争いは、皇子の意志をはるかに超えた次元で、大津、草壁それぞれを擁立しようとする天智系、天武系という巨大な勢力どうしの闘争として行なわれていた。このとき国家の中枢では、ふたたび「壬申の乱」のような状況におちいることとシンボルの1人が犠牲になることの費用対効果が、非情にも計量されたのだった。皇子は政治的犠牲として殺害され、そこには後の持統天皇が関与していた可能性が高いという現代の学説はこうして築かれた。そのために費やされた時間は1000年を超えている。微細な記録の断片から何らかのメッセージを読み取り忘却の彼方に沈んだ記憶に光をあてる歴史学は、ときにはこのような作業に信じがたいほどの労力を傾注する。それを可能としたのは懐風藻なのか、それとも後世の歌人や研究者なのか。答えは両方であろう。
アーカイブはただ記録する。その声を聞けとまでは言わない。聞くかどうかは閲覧者にゆだねられる。アーカイブの価値は基本的にはその編纂手法によって決定されるのだが、より厳密には、その価値は送り手と受け手の関係性の中に存在する。アーカイブはそれを、ときには時空を越えて繋ぐ。
最近の短歌に関する増田の記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。
短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌のテーゼ」と勝手に呼んでいる。
あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌はどうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すかを試行錯誤している節がある。
だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼを意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風を確立させて行くのである。
であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼが存在しないことを意味しない。
以下、私はこれが短歌のテーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験や短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌のテーゼを網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌のテーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。
また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事が果たして読まれるのか?という疑念はあるのだが……)
ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である。穂村弘は歌人の中でも一般的に知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌のテーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後の短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである。
短歌は本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。
歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌の描写にリアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容であると判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである。
"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的に言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来の短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。
短歌は日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的な話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。
短歌は、風景の描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである。風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。
ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来の短歌ではない。短歌には詠み手の情念が表現されなければならない。
短歌は日本語を支える伝統文化である。王朝時代以来の和歌の歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである。和歌や過去の名歌を鑑賞し、日本文化を象徴するような風流な事物を題材として歌を詠め。
追記:
ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的に否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である。
増田は存外いいところをついているよ。
この句は文法的に破綻していて直感的に意味がとれず、さまざまな手法で分析したところでたいしたものが出てくるわけでもない、ようするにしょせんは素人の不出来な句。選者はおびただしい素人の句からとにかくひとつを選ばないと格好がつかない。
で、選者は安西篤。平気で韻律を崩し単語どうしのせめぎ合いや唐突な比喩を楽しむ、ただし徹底的に描写の人。時にユーモアさえ帯びた言葉の奥に何かの意味があることもあればないこともある、そんな作風の人。この人はこういう句、好きかもしれない。
ではこの句はいいものかというとそんなことはない。しょせんは素人の仕事。日本語として文法的に破綻しているのがいちばんのネック。
「洗いて」というのはなんだ。意味は口語だが文語っぽく似せているのか、文語で活用を誤っているのか判然としない。
夕立や象を洗ってまたたく間
夕立や象を洗ひてまたたく間
どっちなのだろう。
どっちでもいいのだが、ともかく未然形や連用形が体言にかかって終わったら意味が通じない。わざと壊して余韻にする手法はあるが、この作品はレベルが低すぎて話にならない。ようするにただ単語を並べただけにしか見えない。ここについてはもっとましな表現があるのではないかと考えている。
全く好意的なことは書いていないので、ご留意のうえお読み下さい。
Shazamで調べると、「踊ってばかり国」というバンドの「東京」という曲だった。
(以下引用)
1 2 3と歩幅を 皆合わせて
肉を食って進む 花を踏んで生きる
命の尊さ気付かず 哀れな働き蟻
(引用終了)
(詞ということを考慮して、多少の意味の通じなさに目を瞑ったとしても、)
「東京」「政治家」「子供」等々どれも、パッケージ化された単語で、実在を感じない。
そこに浮かぶものは、まるで、90年代のティーンエイジャー向けドラマの亡霊のようだ。
本当に真剣に対象と向き合って、それを自分の中で咀嚼して世界に吐き出した結果がこれなんだろうか。
アイドルやポップグループのように、一種の工業的な音楽ならいざ知らず、こういったスタンスのバンドで、ステレオタイプな文字の羅列しかアウトプットできないのは、致命的じゃないだろうか。
感じたものをそのまま表現することは、一部の特別な才能を持った人々以外には、
とても困難なことだ。
「二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。」
ということになるだろう。
東日本大震災から、雨後の筍のように現れたこの手の音楽や言説には、もういい加減うんざりだ。
詩を名乗る以上韻律や抒情を持ち、言葉は厳しく吟味されているべきではないか。
詩のこの厳しさと一般の文章を対比して、「散文的(まとまりがなくとっ散らかった)」という表現が生まれたくらいである。
Qiitaの「ポエム」タグは技術的な視座からでなく、詩的観点から批評を浴びせられるべきだと思う。
そして「ポエム」を名乗りつつも詩の体をなしていないものは即非公開にし、投稿者は出入り禁止に付すべきである。
かような厳しい批評を受ければ、「ポエム」を軽々しく名乗ることも減り、「所感」や「私感」と言った適当な表現に落ち着くのではないか。
現状のような倒錯が続けば技術コミュニティの疲弊が進むのみならず、詩を含む文芸全般への軽視の風潮さえ招きかねないと危惧する。
「ときめきアイドル」という言葉には「ときめきメモリアル」にあったセンスを感じない。なぜか。
改めて考えると、「ときめきメモリアル」という言葉はとても語感がいい。
まず「ときめき」という響きがパワーを持っている。「とき」「めき」と、「き」を繰り返す韻律を持っている。
その後に「メモ」が続くのがよい。「き」の韻律から「め」の韻律へ展開して期待を煽っている。
と思ったら「リアル」で締めるのがなんといってもすごい。「ときめきめも」までなら日本語でもありえる音韻だが、そこに「リアル」という日本語にない音が続くことで、実は「メモリアル」という外来語だったことが判明する。ここで2文字のリズムから3文字のリズムへ広がるダイナミズムもすごい。
様式の違いとテーマ性の大雑把さだな。
古典になればなるほど、テーマがある作品じゃなくて、この世のありとあらゆることを詰め込もうとしてる作品を目指してる。
聖書やイリアスくらい、口伝が入り混じったような古い話だと、テーマもつかめなければ様式も無茶苦茶。
「起」、「承」、「転」、「結」でなはくて、つらつらと始まり、説明がなくなにかがはじまり、延々と詩歌が続き、盛り上がり続け、盛り下がり続け、突然おしまい。
記録と文学の境が曖昧。伝説と事実がまぜこぜだし、詩吟の要素まで含んでいてカオス。
紀元後になってくると、さすがに散文と詩が区別されて、科学の視点も含まれてきて書いてる人の頭の中で整理してから書き始めてるのがわかる。
っていっても、それは当時書かれた文章の中のごく一部で、大半はカオスで謎の文章だったんだと思う。
つい100年くらいまえの手紙とかでも、わけわかんない文章あるじゃん。
識字率が低くて、ほとんど代筆屋に書かせてたんだろうし、口語と文章の違いについて考えなかったんだろうな。
で、洋の東西ほぼ同時に、様式美の整理がAD200~800くらいか?
現代に生きる俺らからすると、「様式美うんぬんよりまずテーマだろ」って思うんだけど、ただ様式美をなぞるだけとか、逆にこの世の全てを一つの作品に落とし込もうとする無謀なことを20世紀初頭くらいまでやったりしてる。
でもあれか、恋愛小説もミステリーもラノベも、テーマなんかないな。
多少パラメータとスキームを変えて、同じ様式をなぞるだけだしな。
西洋はルネッサンス以降、中国は明代以降に書かれてれば、様式もよくしった形、テーマも設定されてるし、エンターテイメント性もバッチリ。
風刺目的だったりするわけで、権力者に楯突く手段としての文学ってことでなんか気合が違うわな。
19世紀、国家間の相互作用や社会変革が目まぐるしくなったせいかな?
この時代はまた世界の全てを一つの作品に落とし込もうとする無謀なことばかりやってた気がする。
でも頭冷やしてストーリーを整理してみると、ただの不倫の話じゃね?っという。
"モノガタリ"としての完成度は19世紀末から20世紀初頭が一番だったんじゃないだろうか。
20世紀以降は、既に固まった様式美から脱皮しようとする動きで、後退したり前進したり、多方向に向かってるけど、一つのピークは19世紀末だと思う。
あいつらのいうように、英語化の流れを推進することが日本の国益になるなんてことはどう考えてもあり得ないわけだが。
日本という環境は英語を学ぶためには最悪な環境であって、実際たいがいの人間はどんだけ苦労したってTOEIC900点レベルにも到達できないわけだろ。それで「英語ができる」なんて言うつもりなんだろうか。TOEICなんて、TOEFLをまともに受けるに値しないレベルの人間の実力を測る試験でしかないわけだが。
正直、「国際英語とはブロークンイングリッシュです(キリッ」とか言ってる奴がどれだけ英語できるのか見てみたいものだよ。まあ「カタカナ発音で何が悪い(キリッ」とかいう意見が賛同を集める時点で聞くのも野暮なわけだがね。少なくとも、ちょっとでも「グローバル」な現場での英語の使われ方を観察していれば、ブロークンしか使えなくてネイティブと対等にやり合えるなんて妄想は絶対に出てこないはずなんだがね。
所詮、こいつら「言語」ってものを舐めすぎだと思うんだよ。お前らのどんだけが日本語でまともに敬語を間違いなく使えるのだと。日本語の言葉づかいで損をしなくなるまでは、他言語でそんなことなんてできるはずがない。日本人でも敬語の使い方に戸惑うのは日本語が非論理的だからでもなんでもなく(つーか言語が「非論理的」って意味不明すぎ)、社交という非常に繊細で高度な状況に対応することが求められるからだ。要するに「ビジネス日本語」はネイティブでも訓練しなければ難しいということだ。そして、英語にも敬語は存在し、文法化されていないだけ余計に難しい(とりあえずwould, could, please使っておけばそれらしくなるという大雑把な原則はあるが)。決まり文句や礼儀作法、本音と建前、そういうものも全部存在する。そういうものが全部日本独自の因習だと思ってる奴は「日本文化の精妙さは世界一」とか言ってるネトウヨ君たちの裏返しでしかない。
そんなことができるのか?できるわけがない。ヨーロッパ人ならまだしも、日本人にはほとんど望みがない。帰国子女か語学オタクかでもない限りな。日本語と英語は言語学的に何の関係もなく、日本は英語圏と歴史的にも地理的にも関係が薄く、そして文化的なコードさえ全く一致していないのだ。何?韓国は英語が得意だから日本にもできるはず?あのねー、移民以外で英語が得意な韓国人なんて見たことないけど?TOEICの点数とかその辺のレベルの低い争いでは日本より上かもしれないが、その程度でしかないよ?
自慢じゃないが、俺はTOEICでは900ぐらい余裕で取れて、論文とかなら英語の読み書きに不自由せず、話す方も得意じゃないとはいえプレゼン程度ならどうにかこなせるよ。周囲からは「英語ペラペラ」とぐらい思われてる。しかしこんなの、ヨーロッパ人の基準で見れば英語力の「中の下」でしかないんだよ?語学に苦労した記憶のない圧倒的大多数のネイティブから見れば「物真似の上手い猿」レベルでしかない。どう考えても「グローバル」でネイティブと対等に喧嘩するのは、のび太がジャイアン百人に喧嘩を売るのと同じぐらい無謀だ。
はっきり言って英語のことを考えると絶望して泣き叫びたくなる。どうしても英語をものにしたければ、仕事の後、英語ネイティブが家族や友人との余暇を楽しんでいる時間に俺は孤独に英語の勉強をするでもしなければ無理だ。それでやっと「類人猿」レベルの英語力にしかならない。だがそんな生活の何が楽しいんだ?お前らの大嫌いな「社畜」ならぬ「英畜」になれというようなものじゃないか。自分で言うのもなんだが子供の頃から一貫して学業優秀だった俺でもこの程度でしかないのに、学歴ルサンチマンを募らせたお前らにいったいどれだけのことができるんだ?できもせんくせにふざけるんじゃないよ。
英語という風車にむかって「撃ちてしやまむ」とかほざいてバンザイ突撃をかけるのは勝手だが、お前らの下らない一億玉砕に巻き込まれたくなんかないんだよ。自爆するなら勝手にやってろってんだ。
どうも悲しいほどに言いたいことが伝わっていない懸念があるので、もう一つ記事を挙げておく。これも俺が書いたものだが、こちらを読むと真意が伝わりやすいかもしれない。
あと、以下は俺が書いたものではないが、俺が言いたいことを俺以上に煽り抜きで的確に表現し、かつ有益な補足をしてくれてくれている人がいるので挙げておく。
酔った勢いで愚痴をぶちまけた記事にすごい勢いでブクマが集まってびっくり。
Akimbo まあそんなに英語にコンプレックス持たなくてもいいだろうと思うが。一点、TOEICは英語圏での日常生活能力を判断する試験、TOEFLは英語圏の大学で講義が受けられるかを判断する試験。どっちが上ということはないよ。 2010/07/31
建前では、ね。TOEICがTOEFLと比べてどれだけ易しいかは受けてみたことがあればわかると思うけど。どちらにしても、TOEICは「読み」「聴き」という受身の能力しか測ってなくて、「書き」「話し」のテストがない時点で信頼性がなさすぎる。本当はTOEFLではなくてケンブリッジ英検とか挙げたかったのだが、知名度がなさ過ぎるのでTOEFLを挙げたまで。
tanakamak ヨタ 自然言語しか念頭にないからこうなる。数式とかも言語の一種と分かっているのかね。 2010/07/31
悪いが「ヨタ」はあんただ。数式とかプログラミング言語とかの人工言語は自然言語に比べてはるかに単純だ(目的が限定されている時点で当たり前だが)。それに自然言語といっても韓国語と英語じゃ英語の方が圧倒的に難しい(日本人にとっては)ことぐらいわかるだろう。そんな低レベルな話をしてるんじゃないんだよ。
JvdW 昨今の英語反対論者はなんで欧米しか見えないのかね?現実的にアジアの人たちと何語でコミュニケーションするつもりなのだろうか。つもりがあれば、基本英語+ローカル語の冗談とか普通に覚えるだろ。頭でっかちが。 2010/07/31
そんな話をしてるんじゃない。日本人はネイティブに太刀打ちできないって話をしてるんだが。それともフィリピン人やシンガポール人やインド人の英語ネイティブ相手なら英語で太刀打ちできるとか思ってんの?おめでたいね。
だいたい、本来アジアの言語でない英語で「アジアの人たち」と意思疎通するっておかしいと思わないの?参考までにEUは加盟国の公用語すべてがEUの公用語。「アジアの人たち」と意思疎通するためには本来そういう枠組みがあってしかるべき。
そんなことは百も承知。そこでなんで共通言語が英語でなければならないか、それでいいと思ってるのかだよ。ラテン語とかならまだしも。
mobanama 英語 "「グローバル」な現場"で何を想定しているんだ?"観察していれば"主張を通す人間は、必ずしも正統的英語使いばかりでないだろ(ブロークンはちと違うと思うが)。「ツール」ばかり見てないで主張の中身を育てろよ。 2010/07/31
じゃあ日本人がそういう場で主張を通せることがあると思うか?日本の経済力に見合ったレベルの頻度でね。そうやって主張を通せる日本人が日本人のなかで例外的な存在でないか?日本人の有能な研究者が国際学会で、プレゼンは原稿棒読みで質問はろくに聞けず答えられずなんてむしろそっちがデフォルトなんですが。それで日本人がどれだけ損してるかわからないし、ちょっと大げさなことを言えばこのあたり、日本人のノーベル賞受賞が欧米に比べて少ないことの一つの遠因ではあるよ。いわんやビジネスをや。
tezawaly 英語ネイティブじゃないヨーロッパ人って、語彙や言い回しが意外にワンパターンで、発音もよく聞くと母国語のアクセント丸出しだったりで日本人と同レベルだと思う 2010/07/31
それが「同レベル」と思えるあなたのおめでたさがうらやましい。あと何度も言うけど、英語においては日本・韓国・中国なまりとドイツ・フランス・イタリアなまりでは後者に比べて前者が聞き苦しいのは否定できないと思うけど?発音という意味でも間違い方という意味でも。相槌のタイミング一つ取っても日本人の言動は思いきり不自然の域を出ることができないよ。バリバリのガラパゴス日本人の俺でもそう感じるのに、権力者たるネイティブはどう感じてると思う?
what_a_dude TOEIC900点はそこそこの努力で続ければ取れるだろ。生活英語漬けでなくても英語ハック駆使しなくても取れたよ。900オーバーのヒエラルキーの上位に入るのはつらいだろうけど。 2010/07/31
だから、少なくとも「900オーバーのヒエラルキーの上位に入る」程度の能力がなけりゃ「グローバル」で喧嘩なんかできないだろって話だよ。
それは「英語なんて簡単だ」っていってるマンセー信者に言ってくれ。英語(支配)なんて嫌いだっていってる俺にそれを求めるのはお門違い。
mori99 増田の英語と欧米への憧憬の強さにたじろいだ。世界には、日本と欧米以外の文化も存在するよ? 2010/07/31
だから?「グローバル」な場で欧米の力がどれだけ強いか考えてそういうこといってるわけ?マナー一つにしても欧米の文化コードが暗黙のうちに強要されてるわけで。憧憬も何も、欧米人と対等に喧嘩できずに「グローバル」なんてあり得ないだろって言ってんだよ。
nuke 妄想 自慢じゃないが、俺はTOEICでは900ぐらい余裕で取れて、論文とかなら英語の読み書きに不自由せず、話す方も得意じゃないとはいえプレゼン程度ならどうにかこなせるよ。ただし日本語に限る。 2010/07/31
それが「妄想」に聞こえる時点であんたは「英語(キリッ」とかいう資格はないということだ。言っとくがその程度のレベルの英語力など本気で全然大したことはないぞ。本文中にも書いたが、ヨーロッパ人基準なら「中の下」程度だ(詳しくは"CEFR"でぐぐれ)。この程度では向こうの高校生のガキにもまるで太刀打ちできないんだよ。それのどこが「妄想」だ?
何の反論になってる?それは明らかに、テニスという場が言語と関係なく明白に優劣がつけられる場であるからというだけのことでしょ。
naotoj この人はTOEICで900点とった嬉しさで中二病にかかったと想像。 2010/07/31CommentsAdd Star
と、英語マンセーのグローバル信者は「不都合な真実」に目を塞ぐのでした。冗談抜きで、TOEIC900がどれだけ低レベルかはもっと認識されるべき。
hakoda-te-kun それじゃ増田の理想は何なのだと聞きたい/増田は外国人からつたない日本語でビジネスの話をされたら、相手にしないのか?/僕は、世界人類の共通語はあった方がいいと思う。今たまたまそれに近いのが英語 2010/07/31
理想は「どの自然言語とも似ていない人工言語」だ。次善の策として、漢文とかラテン語とかの死語、あるいはエスペラントのように「特定の自然言語を基礎にした人工言語」だ。いずれにしても英語ネイティブだけが不当な利益を得られる現状よりはマシなはず。
あと、「つたない日本語」の件は英語と一緒にできない。英語国民(と敢えて言う)のうち、外国人が英語を話しても感謝を覚えるのは残念ながらごく一部に過ぎない。"The Economist"とか"Newsweek"とかその類の一流メディアでさえ、トヨタの社長とか潘基文とか外国人の英語の訛りをくさすようなことを言っている。どう見ても人種差別なんだが、奴らの認識なんてその程度。特にイギリス人はひどい。アメリカ人でさえ発音で差別するんだぜ。いわんや非母語話者をや。
malark スパイにでもなろうとしない限り、そんな高いレベルの英語って求められないんじゃないかな。日本語をしゃべる外国人の事を考えてみればわかる。 2010/07/31
とんでもない!「日本語をしゃべる外国人」の日本語レベルは非常に高いのですよ。そして、日常会話ならともかく仕事で使えるレベルに持ってこられている人なんて漢字文化圏の人以外ではほとんど見たことないですが。
youshow 話の組み立て方が英語的でない。 2010/07/31
そりゃそうでしょう。この記事の言語はまごうかたなく日本語。それとも英語を勉強すれば文章の書き方が英語的になると思っているとか?それはつまり英語が何らかの意味で日本語より優位にあると思っていらっしゃるということですが、一体何を根拠にそんな迷信を?
emuemu_1976 分かりやすいところで、任天堂の岩田社長あたりの英語プレゼンを見るといいんでね? おそらく流暢な英語ではないんだろうが、あれの価値には何の関係もないんだろう。 2010/07/31
そりゃ、岩田社長が「ニンテンドー」の社長だからみんな聞いてくれるだけですよ。どこの有象無象でもない私が同じことをやったって誰も聞いてくれない。そして、「グローバル」な世界では英語で話を聞いてもらえないことには「有象無象」の域を出ることができないと、見事に詰んでるわけです。
ところで、任天堂はグローバル化の数少ない成功例とされているわけで、このことからも英語マンセーの根拠薄弱さは裏付けられるわけです。
いやそれを俺に言われても。「国益」という言葉は明らかに「グローバルマンセー派」の主張の要約として書いたことであって俺の主張ではないわけだが、それが読み取れないか?…と、日本語なら誤読された場合「それはお前の誤読だ」と言い返すこともできるが、英語ならネイティブに誤読された場合反論の余地がないわけだよ。その場にいる誰かの母語を共通語にすることの問題がこれでわかるだろ。
誰が「勉学」を否定したわけだ?もう一度ちゃんと読んで欲しい。俺が反対しているのは、日本人が英語の国際語化を積極的に追認し、そこに飛び込んでいこうという一億玉砕戦略であるに過ぎない。英語圏の文化を楽しむための英語の勉強ならどんどんやったらよい。しかし「英語ができない奴はクビ」みたいな奴は平成の牟田口廉也(ぐぐってね)だと思うということだ。
tetracarbonyl ラテン語から英語にシフトするのに時間がかかった、英語が最先端である限りは隷従しかない。日本語が上流階級の言語になる可能性は皆無だし。教育資本のない日本は育てる余裕ないから英語特攻しかない。 2010/07/31
だからどうして現役のただ一つの自然言語を世界語にするという選択肢しかないのだ?EUの公用語は全加盟国の全公用語だし、国歌(?)はラテン語。国際連盟(第一次大戦後にできた方。国連に非ず)ではエスペラントが作業言語に採用されかけた。中立的な人工言語をつくって採用するという試みはあってよいし、英語非ネイティブが団結すればそれは無理なことではない。現に、ロジバン(ぐぐってね)のようにそういう試みは草の根ではなされつつある。
hiroyuki1983 すでに今グローバルな世界で話されているのは「シングリッシュ」や「ジャパニッシュ」のような英語を元にした人工言語。ネイティブの連中だけがあれを「英語」だと勘違いしてる。今後原形とどめない位変化するよ 2010/08/01
一般の英米人がシングリッシュをどれだけ馬鹿にしてるか知ってからそういうことを言って下さい。東京人が東北弁を馬鹿にするなんてレベルじゃないよ?そして東北人が標準語を身につけるのですらラジオ・テレビなしには難しかったのに(標準語の韻律構造には東北弁にない要素があるから)、日本人が馬鹿にされない英語を身につけるのがどれだけ無理なことかわかるでしょ?
kizuki25 増田, 英語 英語を駆逐するための活動を行っている人のお話。俺なんかは現状を変えるより自分を変えるほうがまだ簡単だと考えてしまうので、こういう活動は無理なんだよな。 2010/08/01
だからなんで「英語マンセー強要反対」を「英語反対」と読み違えるのさ。「天皇万歳強要反対」と「天皇制反対」は似て非なるものであることぐらいわかるでしょ?現状に対応するために英語を仕方なく勉強しつつ英語支配に反対するってのは可能なことだし、俺もそうしてるよ。
r-west ポジティブ信仰蔓延のせいで事態を勘違いしてる人が多い。途上国の物乞いが片言の英語出来たりするじゃん。日本が経済的にあれと同レベルに落ちぶれつつあるって事。不可避の敗退戦術に文句垂れても… 2010/08/02
その認識は誤り。明治時代の日本は絶対的にも相対的にもはるかに現代のそれよりも貧しかったが、高等教育を日本語化することはかなり早い段階でできていた。
steam_heart 作文は英語能力だけでやるもんじゃないからなあ。/みんなにハードルが高い言語なんてナンセンスの極み。ビジネス~は敬語もテンプレなんでテンプレでOK。 2010/08/03
一部の人にだけハードルが低い言語なんで不公平もいいところ。なぜそちらの方がナンセンスでないと考えるのかそのこと自体がナンセンス。あと、テンプレで通用するのはテンプレな用途だけだ。あなたも私も日本語の言葉づかい一つに苦労しないことはないはずだ。いわんや第二言語(外国語)をや。