■ DF松田直樹 亡くなる有り余る才能、恵まれた体格、旺盛な攻撃力、ところどころに見せる攻撃的なセンス。センターバックとしての資質は申し分なかった。トルシエ監督が「カンナバーロになれる。」と言ったのも、決してお世辞ではなかったと思う。国際Aマッチは40試合出場。W杯に1回、五輪に2回、ワールドユースに1回、U-17世界大会に1回出場と、輝かしい経歴を残している。
一方で、乗り気でないときに見せた気持ちのこもっていないプレーのいくつか。敵・味方関係なく怒鳴り散らす姿、監督あるいは社長にも食って掛かりそうな性格は、全く優等生とは程遠く、サッカー人生の中で余計なまわり道をすることも多かった。たぶん、もう少しだけ気持ちを抑える術を持っていたら、キャップ数は「100」に近づいていただろう。
誤解されることも多かった。ただ、そういった「人間っぽいところ」が人を惹きつけて、マリノスを、日本代表を、松本山雅を引っ張っていったことも、事実である。
2002年の日韓W杯のドキュメントDVDの「6月の勝利の歌を忘れない」は、松田直樹だけでなく、多くの代表戦士のありのままの姿を映し出した名作であるが、「3バックを組む仲間たちと戦術について語り合う姿」、「トルシエ監督に対する過激な発言をする姿」、「試合後に勝利をもぎ取って歓喜する姿」、「リラックスした表情で昔の話をする姿」、「同級生で15歳のときから苦楽を共にしてきた中田英寿をプールに突き落として子供のようにはしゃぐ姿」・・・。今、思い出される。
やり残したことは、たくさんあったと思う。「松本山雅をJ2に上げるということ」、「戦力外となった宣告されたマリノスにリベンジすること」などなど。天皇杯の舞台なのか、はたまた、Jリーグの舞台なのかは分からないが、マリノスを背負ってきた選手がマリノスを撃破する姿を観てみたかった・・・というのは、ほとんどのサッカーファンに共通する思いだろう。
個人的には、指導者として、チームを率いる姿も見てみたかった。攻撃大好きでならしたディフェンダーが、指導者になった途端、堅実で、面白みのない、守備的なチームを作ることはよくあることである。「それは、松田監督、ちょっと違うんじゃないの?」と、そんなことを言う機会もなくなってしまった。
34歳での死は「若すぎる」と言わざる得ない。ただ、全力で駆け抜けたサッカー人生。自分の好きなことを、自分の意思で、思うがままに、精一杯やり遂げた人生。これほど、密度の濃い人生もないだろう。
日本サッカー界は、偉大な選手を亡くしてしまった。立ち上がることは大変なことであるが、立ち上がるしかない。できることというと、天国でも大好きなサッカーがプレーできるように祈ること、そして、彼のサッカー人生に敬意を表して、そのプレーをずっと後世まで語り継いでいくことだろう。おつかれさまでした、そして、ありがとうございました。
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