はてなキーワード: ブサメンとは
ざっと振り返ってみたが、どの本も細部がかなり記憶から零れ落ちている。ほぼ記憶が頼りだから極めていい加減だ。アラフォーの文学少年崩れなのでしょうがない。そして、当時感じていたひがみ根性を思い出して少し苦しくなってしまった。欲望のコントロールに苦しんでいた若いころの感想なので、今になって読み返したらまるで違った感想を持つことだろう。知識も増えたし。
そのドロドロした感情の半分くらいは過去のものとなっている。近頃は心の闇が薄れてきた。これは加齢によるものだろう。読書の好みもすっかり変わってしまった。たぶん今読み返したら全然違う感想を持つはずだ。今となっては、モテない悲哀には昔ほど心が動かされないのではないか。
モテない怒りというのは、自分がプラスの感情を渡したのにそれが返ってこなかったというのが根っこにあるのだろう。しかし、相手の気持ちがどう動くかってのは相手の自由意思なので、こちらの意のままになるはずなんてない。任意の相手の心を開く万能の鍵なんてない。相手をコントロールしようとするのは無駄だ。それで相手に怒りを覚えてしまうのは、共感的に深く理解できるが、己のわがままでしかなく、こんなこだわりはどこかで捨ててしまわないと苦しい。
話を戻そう。前ほど心を動かされないと書いた。そのせいだろうか、読書量は変わらないが、小説を読む量も減った。
今の自分は、何を読んでも似たような感想になってしまう。結局、何を読んでも同じことを思い出すのではあるまいか。そして、前述の感想を見るとわかるように昔からそうだったのだが、自分の境遇に引き寄せてしまって無数の誤読をしているはずだ。結局は自分が、我がどうこうという意識から離れられない。
もしかしたら、凝り固まった大人になってしまったのかもしれない。過去のエントリから大して感想は進歩していない。そしていつの間にか、たとえば「女性作家とはこういうものだ」「この国のこの時代の文学はすべてこうだ」という、偏見に満ちた思想が自分の中でどんどん育っていっているのを感じる。気づいた範囲で修正してはいるものの、怖い。しかもこの半年ばかり、小説を読んでいない。
文学にすがらないと生きていけない段階を、幸福なことに脱したのかもしれない。どろどろとした感傷はすべて過去のものとなり、深い眠りについたようにも見える。それに、小説を読んで感情を揺さぶることが、メンタルヘルスに対してプラスなのかどうかも疑わしくなってきた。穏やかに、つらい出来事の起きないフィクションに移行したほうが、幸福なのかもしれない。クラークが「2001年宇宙の旅」で、最後に生き残ったデイヴィッド・ボーマンが一人ぼっちで音楽鑑賞をするのだが、オペラにうんざりしてクラシックしか聞けなくなり、最後はバッハにたどり着いたのを連想する。人間社会から離れた彼は悲劇の筋書きに対して、「常識を働かせれば解決策があるのでは?」みたいな感想を持ってしまう。そして、感情の激流であるヴェルディのレクイエムにひどく打ちのめされ、物静かで抽象的な音楽に向かうのだ。
それとも、文学は僕にとって生きていくうえで出会う出来事への予行演習だったのかもしれない。今、何気なく「予行演習」と書いたが、これはかなりしっくりする表現だ。振り返れば、若い人間が生きるとはどんなことなのか先が見通せず、答えを得ようとしていたようだ。起こりうる様々な不幸に備えて心の準備をしていたのだろう。
いや、少し矛盾している。何を読んでも似た感想になってしまうのは、モテたいという気持ちがあった若いころもそうだった。感情で消耗するのに、単に疲れているのかもしれない。感情を動かされるのを避けていて、知識をいたずらに溜め込むことしかしていない。最近は阿部勤也の中世の本や、ブルーバックスの地質学の本を読んでいる。これはこれで楽しい。
⑤で触れた「エタンプの預言者」みたいに、最近の海外文学のあらすじを読むと、文学と価値観の変化の速さに正直ついて行けなくなっているようだ。実感をもって何かを理解する間に、すべてがどんどん先に進んでしまう。おそらくこのエントリも古い価値観で書かれていることだろう。僕はもう世界には追い付けない。職場でコンプライアンス違反にならないように表面を糊塗することしかできない。文学を読んで正しく真っ当な人間になろうとしたが、結局はあらゆる欲望からは自由になれなかった。むしろ、意識の高さは自己批判を強め、心のバランスを崩すことになった(余談だが、東大の有名な総長がタフであれと何度も言っていたけれども、心身の障害でタフになれなかった僕は苦しかった。また、十数年後の新入生式辞でジェンダーギャップについて述べたこれまた高名な社会学者がいて、これはニュースにもなった。理屈はまったく正しいし、性別による不平等や扱いの違いは僕も大嫌いなのだが、一方で新入生に私怨から祝福ではなく呪詛を浴びせたように思ったし、自分がされて嫌だったことを次の世代にぶつけているだけではないかと感じた。そして、そのせいで「自分が入学できたのは性別が理由なのか?」と、ものすごく努力していたのにもかかわらず、重篤なインポスター症候群に悩まされることになった。愚痴は以上である)。
そもそも、なんで文学が好きになったのかを考えると、はじめは頭が良くなりたかったからなのだが、究極的にはそこに人間の愚かさが表現されているからだろう。そこにいれば自分のひがみっぽさや醜さを受け入れることができる。少なくとも同じくらい大きくてネガティブな感情を抱えた人間が世界にはたくさんいるのだと慰められる。ダメなところを許してくれるのが文学だった。そんなものを読んでいても、大人は何も言わない。
文学が読めなくなった文学少年崩れになっても、はてな匿名ダイアリーから離れられなかったのも、それが理由だ。人間の偽らざる感情が増田の怪文書にはある。
ところで、僕は障害者であり、二級の手帳を持っている(ただし、弱者だと名乗るつもりはさらさらない。うちの大学を卒業した連中の平均の給与の半分どころか三分の一ももらってはないだろうが、弱者男性とかブサメンとか非モテとかそんな看板を立てるのは正直に働いている自分のプライドが許さない)。加えて、海外在住経験がある。にもかかわらず、社会派の文学にはほとんど心が動かされなかった。その多くで感情よりも理屈が優先されているからだ。政治的な主張がしたければ、直接論理的に分析したほうがわかりやすいし、散文なら書く方も読むほうも時間が短くて済む。イデオロギーに縛られていては展開だって予測できてしまう。政治的な作品で面白いのは全体の一割だろう。最後まで読みたいだけの魅力が薄い。
余談になるが、そういう意味でも、現代アートで深く刺さる作品は少ない。知的には面白いと思っても、心を動かされ、性欲を刺激され、あるいは激しく嫌悪し、内臓が理屈を超えて震えるのが、僕にとっての芸術だ。一昔前の表現でいうと前なら左脳ではなく右脳が刺激されるような作品がいい。ルネサンスや近世の西洋画のように、シンボルを読解するのはそこまで心が動かされない(ごくごく一部の高度に知的な作品、持てる知識を総動員しないと面白くない作品を除く。これは全力で取り組まないといけないため、別の良さがある。ジョイスとか円城塔とかエーコとかね)。そして、優れているのに、言語化が困難なものの評価が一番高い。その点、マグリットの、言葉遊びによる対象の置き換えをモチーフにした作品はピンとこなかった。理詰めで説明がたやすいのは良くない。
もっとも、あらゆる芸術の九割はそもそも刺さらないというのは、普遍的法則である可能性がある。なんであれ、世間がどう言おうとも、作品を好きに読んで好きに解釈する自由は、失われてはならない。唯一の正統的な解釈があるのはつまらん。「丁寧に読解しろ」ってのならわかるけど、どんなものであれ上から押さえつけられるのは相手が正しくても嫌いだ。人間にはどんなに歪んでいても、そして不道徳であっても、正直な気持ちを話せる心理的安全性が担保された場所が必要だ。そして、相手が世間的に正しいとされていると、こちらは反論できないし、反論すること自体が批判される。だからキレて暴れるしかない。正しさへの嫌悪ってそういうことなんじゃなかろうか?
ときどき、「どんな理屈をこねるよりも、目の前の相手に敬意を払うにはどうすればいいのかという実践にのみ意味があるのでは? 知識は参考にしかならんのでは?」って疑念が兆す。それとも、こうなってしまったのは文学に対して心を閉ざしてしまったからだろうか? だから前ほど心が震えなくなってしまった。だとしたら寂しいことだ。
近頃、文学に対して心を閉ざしているとしたらなぜだろう? 政治の季節は理由ではない。他に理由がある。僕は実はかつては小説家になろうとしていた。名作に手を出していたのはそれも理由だ。最終選考まで行ったこともある。だが、その願いは叶いそうにないと気づき、怒りから小説から遠ざかった。
同じ夢を持っていた友人・知人がデビューするのも見てきている。現代作家を読まなかったのもそれが一因だ。自分のほうがいいものが書けると傲慢にも思いこんでいたからだ。彼らの作品を読むと、そんな思い上がりは雲散霧消するけれどね。
今でも、数か月に一度目を覚ます飢えがある。発作的に何かを書きたいという欲望だ(実際、こうやってちょっとした短編小説くらいの長さのエントリを書いていてすごく楽しい。じゃあ増田じゃなくてブログでやればいいんだろうが、少なくとも同レベルのエントリは継続的に書けない。なぜならこの文学全集を読むのに十数年かかっている。こういうネタは量産できない。このエントリでいったい何冊の本に言及してるんだ?)。
しかし、最終選考の講評ではボコボコに批判されたし、これ以上自分の気持ちを書いても自分は幸せにならないと、諦めがついたはずだった。それに、小説は感情の垂れ流しではありえない。読者を楽しませる必要がある。少なくとも読者の受けるであろう感情を計算せねばならない。加えて、デビューした友人はものすごいインプットをしている。これは認めないといけない。活字を読む量は僕のほうが多いが、それ以外に漫画だとかソシャゲだとかエロゲとか映画とか、とかくジャンルを超えて摂取しているものが多い。例えば現代の女子高生を魅力的に書くには、そのキャラがかわいいことと、リアルなティーンエイジャーとしてありそうかという軸がいるが、僕にはどちらもできない!
どうやら俺、劣等感を克服してるわ
すごく不思議な感覚で言語化がしずらいが頑張ってみる。AIには頼らない。
驚きですよ!いつのまにか消えてんの
それがいつなのか、具体的なきっかけがあったのかわからない、覚えてない、恐らく原因なんてなくて
当然女にはモテない
悔しかった
神を恨んだ
筋トレやったり、髪の毛いじったり、服装にも気を使ったがなんら成果はなく20代中ごろで諦めた
運命を受け入れ惨めで哀れな生涯を全うする覚悟はでき始めていたが
それでも精神や思考は一枚岩ではない、時々猛烈な劣等感が襲い掛かる
涙を流したこともある
好きになった女性はいたが手が届くはずもない哀れな自分を嘆いた
当時よく見る夢があった。前に進もうとしても見えない力に押し戻され焦燥感が襲い掛かる。
叫びながら起きる
とはいえ30代にもなると客観的、冷静に自分を見つめることができるようになる、諦めの境地、プチ解脱
俺は個の幸福を追求し始めた
物理的、プリミティブな不快を排除し個体として最適な環境や生活を追求
つまり、寒い暑いを我慢しない、面倒くさいことはやらない、旨いものを食う
それなりに稼ぐようになり、毎晩飲み歩き食い散らかす生活のお陰でブサメンでチビで特技も無いバカのデブになっていた
しかしまだ定期的に猛烈な、以前よりもパワーアップした劣等感に苛まれた
とはいえ、涙を流すのは年に一度か、数か月に一度程度に減った
そして50を過ぎ、考えてみれば性欲の喪失が大きい要因かもしれないが
もう何年も劣等感に襲われていないことに気が付き
いやまじで無いんだよ
思えば随分遠回りしてここにたどり着いた
普通の人はもっと早くに克服するんだろうが、俺はバカだから時間かかったけど
俺もようやく到達できたわけで
うれしいなぁ
なんかね、凄くいい、わりと人生にも満足してるし、いいよこれ
増田はブサメンの音楽隊というタイトルの童話を知っているかな。
この物語は、一見すると冴えない外見を持つが、心には大きな夢と情熱を抱えている動物たちの物語です。
ある町に、見た目が少し変わっているために住民から疎まれていた動物たちが住んでいました。ブサイクであることが理由で、彼らは仕事を失い、行き場所をなくしていました。ある日、この動物たちは森の中で出会い、自分たちの魅力は内面の才能にあるのだと信じることを決意しました。
その中には、耳が垂れ下がって目が小さいが美しい歌声を持つ犬、背中が曲がっているけれども素晴らしいギタリストの猫、太っていて顔が歪んでいるがピアノの名手の豚、そして声がガラガラで羽がぼろぼろだけどリズム感のある鳥がいました。彼らは力を合わせて音楽隊を結成し、自分たちの音楽を町に届ける旅に出ることにしました。
旅の途中、困難や逆境にも直面しますが、動物たちは歌と音楽で数多くの心を癒していきます。やがて、彼らの評判は広まり、町の人々もその音楽に心を動かされ、見た目ではなく、内面の素晴らしさに感謝することを学びました。
最終的には、その音楽隊は町の大きな舞台で演奏することとなり、今まで遠ざけていた人々に大きな感動を与えました。彼らの姿に、自分の弱さを気にすることなく、個性を大切にすることの重要性を学ぶことができたのです。
この童話の教訓は、「本当の美しさは見た目ではなく、心の中にある」ということです。
https://anond.hatelabo.jp/20241107215040
ミサンドリストだけど、これがミサンドリストの全てだと思われてはかなわないから、これはミソジニストの創作または一部の事例にすぎないと思ってることを表明する
私がミサンドリーになったのは、他でもない、男の女叩きが原因だ
女性用の2ch板やガルちゃんにまで乗り込んで女叩きコピペペタペタ
何か言うとすぐにま〜ん連呼
「日本人女と結婚したら自殺率11倍に上がる」などとデマを流して女叩き
関係ない家庭板系まとめサイト記事のコメ欄でも当然のように女叩き
女が悪い話では当然女叩き、男が悪い話でも「どうせ女が悪いんだろ女は都合が悪い事は隠すからな」と女叩き
当時私は、まさにこんな心理になっていた
高校生の頃、狂ったように女叩きの記事を読んでいた時期があった
https://anond.hatelabo.jp/20151204005556
今のフェミニストは皆、女叩きへの不満からフェミニストになったものと思っている
男が乗り込んでこない会員制掲示板で女叩きへの不満をようやく吐き出せた。そこの掲示板の人たちは、男嫌い拗らせてたけど、「ま〜んw」しか言わない女叩き男よりもずっと冷静で論理的に見えた
それがきっかけでTwitter上で仲間を見つけてフェミニストになったけど、当時のフェミニストは今思えばまだまだ大人しかった
男達はあれほど女叩きしまくってるのに、何故こちらは「一部の男性が〜」だの「男性も被害に〜」だの気を遣わなくてはならないのか
そんな不満を溜めていた頃に、「ジャップオス」と言う人達が現れた
漸く女叩き男と同じところで戦える。そう道が開けた気がして、そちらの仲間入りをした
増田の言うような、ブスのくせに調子に乗ってる女への不満などは一切ない。どうでもいい。むしろブサメンと同じくらいブスでも調子に乗るくらいでないといけないと思う
「男に媚びてチヤホヤされる女」というか、「男と一緒に女叩きする女」への苛立ちはあるけど
こうしてミサンドリー拗らせてる間にもリアルでは大人しくしてたし嫌な男に会ったことはなかったし、彼氏もできて彼氏とディズニーにも行った(趣味垢のTwitterで繋がっていたから女叩きしないタイプだったと思う。当時は。今は別れたけどTwitterを見たら雲行き怪しくなってた)
リアルで嫌なことしてこない男もどうせネットでは女叩きしてそうだし(女叩き男自身が、リアルで女とうまくやってようとネットで女嫌い吐き出してるぜwって言ってたし)
尊敬できる男がいようと男嫌いは変わらない。むしろ、私の尊敬できる男を女叩き男はチン騎士と言って叩きまくるから益々嫌だ
女叩き男だって、「嫁いるし尊敬できる女性もいるけどそれはそれとして女叩きしてまーすw」って奴沢山いるし、
お互い様だと思ってる
とにかく、何が言いたいかというと、この増田とは同じミサンドリストでも全然違うってこと
それだけ
https://www.youtube.com/@QKmanab
少なくともオードリー・タンとかジンジャールートとか三浦大知レベルにはなれるんだよね
顔のせいでモテないんじゃなくて、シンプルに取り柄がないからモテないんだって認識して(顔の良さは「取り柄のなさ」を補う例外ルートの一つで全く必須じゃない)、なにか極めたら勝手に人が惚れてくれるし
友人に親切にしてたら勝手にその人がお前は幸せになるべき、って推してもらえるはずで
東大生ならイケメンじゃなくてもすげー!っていわれるししっかり稼いで結婚できそうって思う 表情に卑屈さがなくて 本当に楽しそうに人前で喋れる人はそれだけでいいなってなるよね
顔のせいでモテ無いっていう人はなぜ
取り柄のない奴の特殊非常口(親の遺伝子が全てのガチャでなんなら10代前半にあてにできるかおおよそ判断つく)を、まるで王道のように捉えてるんだろうと不思議になる
ドラ一枚を最後まで抱えて上がれないやつみたい
さっさと捨てて別の役みつければいいのに
顔気にする人ってつきつめるとそこな気がする。自分は愛せても子供に背負わせる覚悟がないっていうか。
ブサメン=絶対に子供をつくらないという強い意志の補強、ということでいかしてみたらどうか。
もって生まれたカードで戦うしか無いという点ではあるいみ人類平等なわけよ
女の人はそこで「仕事を3つ掛け持ちして1000万掴んで韓国に行く」レベルまでやって、やっと匿名でも「ああ本当に外見に努力したんだね」と思ってもらえるのが割と普通なので
(すごいひとは2000万~とかね)(骨に手入れするなら500万程度じゃ自らヤブ医者に突っ込むのと一緒だからっていうの常識だからね)
カウセ数件いった程度で折れたなら「なんだそこまで気にしてないじゃん」てなります、残念ながら。女性視点ではね。男性視点では違うのかもしれないが。
https://news.yahoo.co.jp/articles/75c597137a3ef80aa3699c4ca4ddbbcb9489e921
これは整形バレがきもちよくてわざわざ自分から目立とうとメディアに出てくるごく一部で
というわけで増田に伝えたいのは「外見への努力を課金額で自己紹介する界隈があるレベルなので「外見はすべて」は正しいし、そのうえで、客観的に、お前の努力は努力に入らないから真剣にやってから愚痴れ」だね。