はてなキーワード: 文教族とは
https://anond.hatelabo.jp/20231014043358
についての
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231014043358
のお話です。増田は自称財務省主計局の元中の人だけど、ホントかどうかの判断は自己責任でよろしく。
参考資料の学級規模と教員一人当たりの生徒数のギャップを見る限り先生余っているはずだけど公立の学校見ているとどうも余っている様子は全く見られないのなんでなんだろうなあ
足りないのは事務員なんだよね。自治体予算には限りがあって教育分野でも削らざるを得ない、でも教師の雇用・処遇は相対的に守られてきてそれほど減らせない、となると他の部分にしわ寄せが行って、事務員が足りなくなった分、教師が事務仕事をこなすことになって多忙になると。人件費単価は教師より事務員の方が低いから、教師の枠を事務員に振り替えれば、学校の従業者数を増加させることになって職場環境は改善できるんだろうけど、世の中うまくいかないよね。
とりあえず予算を査定する側とされる側が対等にバトルしているという幻想は捨てよう。実際、他省庁が財務官僚に「査定のお願い」に行く際、財務省側は二ランクか三ランク下の官僚が相手をする程の権力差がある。
よくある財務省ツエー論の根拠の一つとして挙げられる話だけど、実態は全然違います。9月の最初のヒアリングは、要求を網羅的に聞くから各課の課長が主査(課長より2ランク下の課長補佐クラス)に説明するけどーー各担当補佐が説明するとなると、ヒアリング日程の調整やヒアリング現場での説明者入替え等のオーバーヘッドがかさむんですよーー、その後は普通に主査と補佐で議論してるからね。まあ各省庁の文化の違いや課長のキャラで補佐に下ろさず課長が出てきがちな場合もあるけど、少なくとも主計側から「主査は補佐を相手にしない、課長を出せ」なんてことを強いているわけではありません。
ともあれここ数十年財務省の力が強くなり過ぎているのが国力を削ぐ結果に繋がっているので、財務省は分割解体されるべきである
こうした主張、はてブに限らずいろんなところで見るけど、なんで一定の説得力を持っているのかさっぱりわかりません。だって大蔵省・財務省にとっては、ここ数十年、国債残高を減らすことが悲願なわけですよ。で、それを一度たりとも成し遂げていません。バブル末期に赤字国債脱却はできたけど、その間も建設国債は増えていて残高は右肩上がり、バブル崩壊後はご覧のありさまですよ。増田は個人的には国債残高減少を金科玉条として目指すことには批判的ですが、だからこそ、財務省が悲願を実現するだけの力がない弱っちい役所でよかったなあ、としか思えません。
補正予算になると精査もせず30兆ぽんと出し、剰余金を一般会計に繰り入れて好き勝手に使う財務省。文科省にだけは強気だけど、他の省庁にもちゃんと物申したらどうですか。大蔵省の頃はやってたと思うよ。
農水省や国交省の中の人たちからすれば、文科省はうらやましい限りだと思うけどなあ。増田は主計局を離れてそこそこ経つので、例えば最近の防衛費増の受け止めはわかりませんが、増田がいた頃は、文教費は、社会保障や地財と並んで扱いが難しい予算だ、というのが一般的な認識だったと記憶してます。文教族は政治力強いからねえ。
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「私たちは官僚の矜持とは、政治から、不本意な政策が下りてきた時、それが理にかなわなければ「無理です」と説得する、もしそれがかなわずとも、その政策を、広く合理的に説明できる程度までしっかり練り直すものだと思っていました。」
止めたいと思っている役人はいるけど、止められる役人はいません。
そもそも、文科省の教育施策は、科学的なエビデンスというより、
◆中教審の会長が言った(大臣と仲がいい大学の学者や民間有識者など)
で大きな方針が決まっていて、それを実現するために利害を調整するのが役人。。。。
「そうはいっても、審議会や有識者会議でも審議して決定してるんだから、一方的な意見だけじゃなくて、反対意見もあるだろうから調整されるんじゃないの?」
そんな指摘もあると思うが、審議会や有識者会議は、大きな方針を実現するための装置でしかない。
有機者会議を開催する時点で、ある程度の結論は決まっていて、何を言われようが結論は変わらない。異論が出ても最後は、役人が根回しをした座長(議長)に報告書の決定が一任されてしまうので、役所が得たいような結論が出る仕組み。
対外的には、決定された内容については「第三者で構成される有識者会議で決定されました!」「審議会で決定されました」といった客観的な意見であると主張できる。
ただ、実態は、役人が手をまわしている都合が良い内容の報告書なので、当然、それ自体が本当にやるべきことが書いてあるものではないので、科学的なエビデンスになるわけではない。
しかし、それがエビデンスかのような政策手法が横行しているのが文科省・・・。
報告書の根拠は、有識者の意見です!と都合よく解釈しているけど、その有識者を選んだのも、有識者に言ってほしいことも根回しするのは文科省・・・。
こうして、文教族の国会議員などの一部の意見に基づく施策が展開され、諸外国の動向や、教育学者の意見はほとんど参考程度。
文科省の役人は、誰かが決めたことを忠実に遂行するための整合をとったり、利害を調整することには優秀。
だけど、どういう入試制度がいいか、エビデンスに基づいてしっかり考えていないから、政治家を説得する、ということができないんだろうな。
教育分野は他の分野と違って、みんなが教育を受けてるから、ある意味、自身の体験に基づく意見が施策に反映されがち。
だからこそ、他の分野よりも一層、エビデンスが求められると思う。
再発防止策は、役人の能力向上と、役人がちゃんと考えたことを実行できるという意味で、政治からの独立性(透明性)の確保、、、だと思う。
たぶんそんな案は出てこないだろうけどw
40過ぎの派遣社員だが悩みを聞いてもらいたい。
氷河期の煽りをモロにくらってマトモな就職がただの一度もできず、薄給(手取り15万円)、パワハラ、始発終電上等のブラック企業を渡り歩く。
ここが今まで務めた企業での待遇がウソみたいな超ホワイトっぷり。
給料もトンカツをいつでも食えるくらいもらえる、多少堅苦しさはあるものの職場の人間関係もいたって良好、10-18で残業は一切無し(1年務めたけどホントにただの一度もしたことがない)。
条件聞いたら勤務体系は今までと同じで、給料が800万円くらい、さらに役職付いたら1,000万円超えるらしい。その日の食費にすら事欠いてたワープアど真ん中の1年前から比べたら高低差で耳がキーンとなるくらいだ。
普通だったらノータイムで「なります! 正社員!」とこたえてるところだが、なかなか世の中うまくできてるものでこの会社が実は新興宗教団体なのだ。
今までは派遣社員だからとセミナーや研修会のお誘いをのらりくらりとかわしてきたけど、正社員ともなるとそういう訳にもいかないっぽい。
役職につく、ということはその宗教でステージが上がることを意味している。
さらに最悪なのが、この会社が日本会議とかとべったりでホメオパシーや親学の団体ともかなり深く繋がりがあるのだ。
こんなに待遇の良い仕事はこの先ないのはハッキリ分かってるんだけど、カルトの片棒担ぐのはまっぴらゴメンなのでめちゃくちゃ悩んでいる。
カルトじゃないけど、パワハラや反社の手先みたいになってるAKSや吉本興業の社員もこんな感じで悩んでたりするのだろうか。
初めて増田書いたんだけどこんなにかまってもらえて驚いてる。他人に気にかけてもらえるのって嬉しいものなのね。アドバイスやら助言、ありがとうございます😊
カルトって書いたけどこの団体自体は違法なことは自分の知ってる限りはやってない。むしろ官公庁からけっこう表彰されてる。
表面的にはマトモなこと言ってるし、なんなら政権与党とうまくやってて文教族の議員もセミナーにやって来る。
ただそのセミナーの排他的な雰囲気と、社内のそこかしこに創始者と2代目の写真が北の偉い人みたいな感じで飾られてるのを目にするたびに「きつー、、、」とおもってしまう。
https://this.kiji.is/207438898890506241
情報提供の受付
https://www.jbaudit.go.jp/form/information/index.html
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51052?page=2
「二次創作」の愛国教育は、戦後社会に見られるひとつの伝統芸であり、サブカルチャーであり、この分野に詳しい者にとっては見なれたものである。
「戦前っぽいもの」のパッケージは、戦後長らくつづいた保革対立のなかで形成されたものである。
保守勢力(自民党文教族、文部省など)は、教育の荒廃が叫ばれると、かならず国旗掲揚、国歌斉唱、「教育勅語」の再評価、修身の復活などを主張してきた。
国旗国歌問題に火をつけた第三次吉田茂内閣の天野貞祐文相は、その嚆矢である。内藤誉三郎(文部事務次官→参議院議員→第一次大平正芳内閣の文相)のように、「天壌無窮の神勅」を学校で教えるべきだと主張した例もある。
教育機関で国民国家の歴史や意義を教えることは必要である。国民国家は、現在の国際政治の基本的な単位だ。これを否定するつもりはない。
グローバリズムの時代、国民国家というシステムをいかに無理なく保守・管理・運用していくか。政府への盲従や排外主義などの欠陥は認識しつつも、こうした問題に取り組んでいくことは欠かせない。
パッケージを丸呑みするかいなかの二者択一は、あまりに単純すぎる。
ナショナリズムはいつどこで芽生えるか →戦争で負けている側である。
あるいは学歴を誇る人間はいつ登場するか。→落ちぶれてそこしか砦がなくなった時である
東大卒のりょーすけさんなどは、もう道具として使う。ふつうはそういうものだ。
東大生かくあるべし、みたいなことを言い出すのはかなり痛い
今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かるしかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化している
「ネットモブ」が「ネット右翼」と呼ばれたために、その主張も「保守」や「右翼」のものと勘違いされてしまった。この結果、昨今のナショナリズムの「再評価」とあいまって、歴史的な経緯に詳らかではないネットユーザーのなかで、劣化した議論が急速に肥大化してしまった。
1890年2月、帝国議会の開会を直前に控え、地方の治安維持をつかさどる県知事(内務官僚)たちは、「文明と云ふことにのみに酔ひ、国家あるを打忘れた」自由民権運動を抑制するため、「真の日本人」を育成する国民道徳の樹立を求めた。
→とはいえ、当初の「教育勅語」の内容は、後世の文書などにくらべて、意外にも慎ましいものだった。
「日本は神の国であり、世界を指導する権利がある」などという大それた神国思想は、「教育勅語」のなかに見られない。これは、『国体の本義』(1937年)や『臣民の道』(1941年)などで、教育界に広められたものである。
むしろ「教育勅語」の内容はかなり抑え気味だった。たしかに、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」「天壌無窮ノ皇運」など神話にもとづく記述もあった。だが、そこに掲げられた個々の徳目は現実的で、日常的な振る舞いに関するものが多くを占めた。
日本が日清戦争や日露戦争に勝利し、帝国主義列強の一角を占めるにいたって、かえって問題が指摘されるようになった。大国日本の国民道徳として、「教育勅語」はあまりに物足りないのではないかと注文がつきはじめた
→君主たるもの、特定の政治的、宗教的、思想的、哲学的立場に肩入れする言葉を使うべきではなく、またその訓戒も「大海の水」のごとくあるべきで消極的な否定の言葉を使うべきではない
また、井上は帝国憲法の起草者として立憲主義を尊重し、「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と述べて、「勅語」を軍令のように考える山県の構想も牽制した。
もちろん、自由民権運動対策が念頭にあったこともあり、独立自治などにつながる徳目が慎重に排除されていることは見逃せない。その一方で、その内容は、神国思想や軍国主義の権化のごとき過激なものでもなかった。
追加修正
西園寺公望は、明治天皇の内諾を得て、「第二の教育勅語」の起草に着手した。
1919年、『勅語衍義』の執筆者・井上哲次郎によって「教育勅語に修正を加へよ」という論考が発表された
この提言の背景には、同年に朝鮮で起きた三・一独立運動の衝撃があった。
結果的に、「教育勅語」の不足分は、ほかの詔勅の発布で補うかたちが取られた。1908年発布の「戊申詔書」、1939年発布の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがそれにあたる。
1948年6月の衆参両院の決議では、「教育勅語等」として「教育勅語」だけではなく「軍人勅諭」「戊申詔書」「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがセットで排除および失効確認されている。これらの詔勅が一体的に理解されていた証左だ
「教育勅語」は、狂信的な神国思想の権化ではないが、普遍的に通用する内容でもなく、およそ完全無欠とはいえない、一個の歴史的な文書にすぎない。その限界は、戦前においてすでに認識されていた。