Category: 読書マン
下の畑に降ります
花巻温泉を後にして、花巻空港の近くへ。
ウィキから。
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは、1926年(大正15年)に宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾。あるいはその目的で使用された宮沢家の住宅建物である。
賢治の祖父、宮沢喜助によって、1904年(明治37年)隠居所として建てられた。
妹の宮沢トシが結核に冒されて亡くなる8日前まで療養所として使用される。その後、賢治によって 1階の10畳を集会場に使える近代的なリビングに改造の上、羅須地人協会として使用されている。 賢治の没後、人手に渡って現在の場所に移築されたが、1969年(昭和44年)に花巻農業高等学校の用地の一部として買い取られ、復元整備の上で『賢治先生の家』羅須地人協会として一般に公開されることになった。
賢治は1926年3月に、教員として勤務していた岩手県立花巻農学校(岩手県立花巻農業高等学校の前身)を退職した。この退職の理由としては複数の事情が挙げられているが、最も大きかったものは生徒に対して「農民になれ」と教えながら、自らが俸給生活を送っている点への葛藤であったと推定されている。
同年4月より、実家から約1.5km離れた花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)にあった宮沢家の別宅を改造して自給自足の生活を始める。4月1日付の地元紙岩手日報には「新しい農村を建設する 花巻農学校を辞した宮沢先生」という賢治の談話入りの記事が掲載された。同年夏、周囲の若い農民とともに、羅須地人協会を設立した。「協会」とはいっても、実質的には賢治一人の手になる私塾である。
賢治は昼間周囲の田畑で農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えた。また、それとともに自らが唱える「農民芸術」の講義も行われた。この講義の題材として執筆されたのが「農民芸術概論綱要」である。協会設立に先立つ5月から、賢治は周囲の人々を集めたレコードの鑑賞会や、子ども向けの童話の朗読会も始めていた。
さらに賢治は農民による楽団の結成も考えて自らチェロを購入して練習に励んだほか、4人で向かい合って使えるようにした特注の譜面台まで製作していた。もっとも、賢治自身もチェロの技術はほとんど上達せず、楽団は練習だけにとどまった。このほかメンバーが不要品を競売する一種のバザーも開いた。農閑期に被服や食糧、工芸品を製作することも企図されていた。1926年12月には、賢治はチェロやオルガン、エスペラント、タイプライターなどの習得のために上京している。
協会には周囲の若い農民たちは集まったものの、それよりも年長の保守的な農民の理解はなかなか得られなかった。1927年(昭和2年)2月1日、岩手日報に「農村文化の創造に努む 花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立ち返る」という紹介記事が掲載された。記事自体は好意的なものであったが、この記事をきっかけに「若者に社会教育を行っている」という風評から賢治は協会の活動に関して花巻警察署長の伊藤儀一郎による聴取を受けた(聴取の時期について『新・校本宮澤賢治全集』の年譜では「3月か?」としている)。このため、賢治は3月をもって協会としての活動を休止した。
1928年(昭和3年)夏に高温で干天が続いた中で農業指導に奔走したことから健康を害し、実家に戻って療養することとなる。以後、独居生活や協会は再開できないまま終わってしまった。しかし、協会を含めた独居生活の時代は、賢治の生涯の中で直接農業指導に携わり、自らの理想の実現を目指した点で象徴的な意味を持つものである。
前日見学したイーハトーブ館の隣にある、宮沢賢治記念館へ移動します。
るーぷる仙台よりはよく出来ている、観光バス。
これに乗ってきたわけではありませんが。
駐車場の反対側に、注文の多い料理店「山猫軒」とグッズ販売店があります。
初めて読んだ賢治の小説かも。
ちょっと気になる文句も。
最近リニューアルされた、記念館は、最新の技術も駆使して、賢治ワールドを分かりやすく説明展示しています。
科学、芸術、宇宙、宗教、農、フィールド。
だけど内部の撮影は禁止です。
表にはよだかの星の碑。
小学校の教科書で読みました。
二番目に読んだ小説かも。
花巻の街。
ポラーノの広場に降りる階段。
あとで登るのに苦労することになります。
花壇なんですが、また春に来ます。
日時計があるんです。
これですね。
11:30ぐらいかな。
本当に何もない季節。
雪もない。
宮澤賢治をもっと読んで、また来ます。
ウィキから。
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは、1926年(大正15年)に宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾。あるいはその目的で使用された宮沢家の住宅建物である。
賢治の祖父、宮沢喜助によって、1904年(明治37年)隠居所として建てられた。
妹の宮沢トシが結核に冒されて亡くなる8日前まで療養所として使用される。その後、賢治によって 1階の10畳を集会場に使える近代的なリビングに改造の上、羅須地人協会として使用されている。 賢治の没後、人手に渡って現在の場所に移築されたが、1969年(昭和44年)に花巻農業高等学校の用地の一部として買い取られ、復元整備の上で『賢治先生の家』羅須地人協会として一般に公開されることになった。
賢治は1926年3月に、教員として勤務していた岩手県立花巻農学校(岩手県立花巻農業高等学校の前身)を退職した。この退職の理由としては複数の事情が挙げられているが、最も大きかったものは生徒に対して「農民になれ」と教えながら、自らが俸給生活を送っている点への葛藤であったと推定されている。
同年4月より、実家から約1.5km離れた花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)にあった宮沢家の別宅を改造して自給自足の生活を始める。4月1日付の地元紙岩手日報には「新しい農村を建設する 花巻農学校を辞した宮沢先生」という賢治の談話入りの記事が掲載された。同年夏、周囲の若い農民とともに、羅須地人協会を設立した。「協会」とはいっても、実質的には賢治一人の手になる私塾である。
賢治は昼間周囲の田畑で農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えた。また、それとともに自らが唱える「農民芸術」の講義も行われた。この講義の題材として執筆されたのが「農民芸術概論綱要」である。協会設立に先立つ5月から、賢治は周囲の人々を集めたレコードの鑑賞会や、子ども向けの童話の朗読会も始めていた。
さらに賢治は農民による楽団の結成も考えて自らチェロを購入して練習に励んだほか、4人で向かい合って使えるようにした特注の譜面台まで製作していた。もっとも、賢治自身もチェロの技術はほとんど上達せず、楽団は練習だけにとどまった。このほかメンバーが不要品を競売する一種のバザーも開いた。農閑期に被服や食糧、工芸品を製作することも企図されていた。1926年12月には、賢治はチェロやオルガン、エスペラント、タイプライターなどの習得のために上京している。
協会には周囲の若い農民たちは集まったものの、それよりも年長の保守的な農民の理解はなかなか得られなかった。1927年(昭和2年)2月1日、岩手日報に「農村文化の創造に努む 花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立ち返る」という紹介記事が掲載された。記事自体は好意的なものであったが、この記事をきっかけに「若者に社会教育を行っている」という風評から賢治は協会の活動に関して花巻警察署長の伊藤儀一郎による聴取を受けた(聴取の時期について『新・校本宮澤賢治全集』の年譜では「3月か?」としている)。このため、賢治は3月をもって協会としての活動を休止した。
1928年(昭和3年)夏に高温で干天が続いた中で農業指導に奔走したことから健康を害し、実家に戻って療養することとなる。以後、独居生活や協会は再開できないまま終わってしまった。しかし、協会を含めた独居生活の時代は、賢治の生涯の中で直接農業指導に携わり、自らの理想の実現を目指した点で象徴的な意味を持つものである。
前日見学したイーハトーブ館の隣にある、宮沢賢治記念館へ移動します。
るーぷる仙台よりはよく出来ている、観光バス。
これに乗ってきたわけではありませんが。
駐車場の反対側に、注文の多い料理店「山猫軒」とグッズ販売店があります。
初めて読んだ賢治の小説かも。
ちょっと気になる文句も。
最近リニューアルされた、記念館は、最新の技術も駆使して、賢治ワールドを分かりやすく説明展示しています。
科学、芸術、宇宙、宗教、農、フィールド。
だけど内部の撮影は禁止です。
表にはよだかの星の碑。
小学校の教科書で読みました。
二番目に読んだ小説かも。
花巻の街。
ポラーノの広場に降りる階段。
あとで登るのに苦労することになります。
花壇なんですが、また春に来ます。
日時計があるんです。
これですね。
11:30ぐらいかな。
本当に何もない季節。
雪もない。
宮澤賢治をもっと読んで、また来ます。