Category: 街角探検
風待ち港
寝姿山からロープウエイでホテルへ戻り、風呂に入ってビール。
昼飯が点心だけだったので、腹をすかして下田の街を彷徨います。
ぐるぐる歩いて決めた第一候補の創作料理居酒屋は満席、第二希望の居酒屋は貸し切り、遠野に行った時と同じパターンです。店が少なくて混んでる。
ここはラーメン屋さんかな。名前は良いんだけれど。
下田に泊まったのは初めて(在京時代に伊豆は何十回も行っています)なんですが、金目鯛が名物らしく、駅前には看板が沢山。
結局上の写真の左上二階の定食屋さんへ。美咲という名ですが、親父さんが一人でさばきます。
相模灘に来たら、私は必ず、アジのたたき。
んんまい。
産まれて初めて食べたアジのたたきは、忘れもしない、中学生時代の腰越。片瀬江ノ島の東隣りですね。
父の会社の社員旅行で、ゴールデンウィーク(当時は5/4が新聞休刊日でした。)に初めて乗った釣り船で、サビキ釣りで釣った鯵を、父の同僚で、相馬出身のT沢さんが、自らさばいてくれたのです。
父は私に似て?刺し身好きだったのですが、光り物は完全NG。
当時はもちろん街の魚屋で買える鯵は、とても生では食えなかったと思いますが、海沿いで食える店に行ったとしても、チャンスはなかったと思います。
初めて食した鯵のタタキ、大きめの鉢に捌いてたたいた鯵をぶちまけて、醤油と生姜をぶっかけただけだったのですが、生涯忘れ得ぬ味のひとつです。
そしてピンぼけですが、これまた大好きな、揚げ出し豆腐。
これまた、んんまい。
プロが揚げた揚げ出し、当然ですがレンジでチンするいつものやつとは、全然違います。
地酒は、伊豆の里。冷酒はこれしかありませんでした。
そしてメインディッシュは、地魚丼、1800円。
金目鯛、ソイ、ムツ、オナガ、ブダイ、イカに、サービスのホタルイカだったかな、どれがどれやら、見分けが付きません。。
んんまかったぁ。
睡眠です。
その前に寅さんを観ました。池内淳子が、柴又でカフェを開いている回。
カウンターで、ドリップコーヒーを入れるのですが、注ぐ薬缶が、うちのと同じようなアルマイトのでかいやつ。
いいなぁ。
朝。改めてホテル・マルセイユです。ちょっとホテル・カリフォルニアみたいでしょ。
隣に、ひものの看板があるのが、伊豆っぽい。
一応一階にマクドがあって朝飯も食えるのですが、ちょっと歩きまわってみました。
ロープウエイのりば横の喫茶店が朝から営業中。
ここに入ってみます。
まるで店内で寝起きしているようなおかぁさんが出迎えてくれます。BGMのテレビは朝っぱらから韓流ドラマ。
モーニングセット。
コーヒー付きで600円ぐらいだったかな。
小雨が降ってきました。ホテルに戻って荷物をまとめます。
荷物をフロントに預けてチェックアウト。
外へ出たら雨が本格的になって来たので、ローソンのPONTAポイントでビニール傘をゲット。歩き始めます。
上は邪宗門という老舗のカフェですが、まだ閉まっています。
これは、なまこ壁が美しい、雑忠家。
東北の地方都市と同じような、狭い路地を歩きます。
昨日のブログ写真を見ても分かる通り、気仙沼や志津川のような、天然の良港で、典型的な港町です。
江戸時代には、江戸・大坂間、あるいは東・西廻海運の風待ち湊として栄え、「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」(下田ぶし1番)と唄われた。東海道の三島宿から伊豆半島中央部を南北に縦断する下田街道の終点。僧行基発見とされる蓮台寺温泉などがあり、総称して下田温泉と称している。
カッコイイ船もありました。
1854年(嘉永7年)、日米和親条約が締結されると、箱館とともに開港(下田は即時開港)。吉田松陰の米渡航失敗、ロシア使節プチャーチン提督乗船のディアナ号遭難、米国領事タウンゼント・ハリスと唐人お吉、商業写真の祖下岡蓮杖など、数々のエピソードを生んだ。
食堂、昇龍。やはり金目鯛がトレードマークです。
雨でずぶ濡れの、てるてる坊主たち。
駅前のホテルにも、そういえば津波避難場所の掲示がありましたね。
下田は1854年の安政東海地震で、大きな津波被害を受けています。
河津桜かな、その向こうに胸像が見えます。
ペリー艦隊来襲記念碑、じゃないね、来航記念碑。
ここが上陸地点のようでした。
吉田松陰が、黒船密航を企てた浜は、ちょっと遠くて行くのを諦めました。
散歩はまだ続きます。
昼飯が点心だけだったので、腹をすかして下田の街を彷徨います。
ぐるぐる歩いて決めた第一候補の創作料理居酒屋は満席、第二希望の居酒屋は貸し切り、遠野に行った時と同じパターンです。店が少なくて混んでる。
ここはラーメン屋さんかな。名前は良いんだけれど。
下田に泊まったのは初めて(在京時代に伊豆は何十回も行っています)なんですが、金目鯛が名物らしく、駅前には看板が沢山。
結局上の写真の左上二階の定食屋さんへ。美咲という名ですが、親父さんが一人でさばきます。
相模灘に来たら、私は必ず、アジのたたき。
んんまい。
産まれて初めて食べたアジのたたきは、忘れもしない、中学生時代の腰越。片瀬江ノ島の東隣りですね。
父の会社の社員旅行で、ゴールデンウィーク(当時は5/4が新聞休刊日でした。)に初めて乗った釣り船で、サビキ釣りで釣った鯵を、父の同僚で、相馬出身のT沢さんが、自らさばいてくれたのです。
父は私に似て?刺し身好きだったのですが、光り物は完全NG。
当時はもちろん街の魚屋で買える鯵は、とても生では食えなかったと思いますが、海沿いで食える店に行ったとしても、チャンスはなかったと思います。
初めて食した鯵のタタキ、大きめの鉢に捌いてたたいた鯵をぶちまけて、醤油と生姜をぶっかけただけだったのですが、生涯忘れ得ぬ味のひとつです。
そしてピンぼけですが、これまた大好きな、揚げ出し豆腐。
これまた、んんまい。
プロが揚げた揚げ出し、当然ですがレンジでチンするいつものやつとは、全然違います。
地酒は、伊豆の里。冷酒はこれしかありませんでした。
そしてメインディッシュは、地魚丼、1800円。
金目鯛、ソイ、ムツ、オナガ、ブダイ、イカに、サービスのホタルイカだったかな、どれがどれやら、見分けが付きません。。
んんまかったぁ。
睡眠です。
その前に寅さんを観ました。池内淳子が、柴又でカフェを開いている回。
カウンターで、ドリップコーヒーを入れるのですが、注ぐ薬缶が、うちのと同じようなアルマイトのでかいやつ。
いいなぁ。
朝。改めてホテル・マルセイユです。ちょっとホテル・カリフォルニアみたいでしょ。
隣に、ひものの看板があるのが、伊豆っぽい。
一応一階にマクドがあって朝飯も食えるのですが、ちょっと歩きまわってみました。
ロープウエイのりば横の喫茶店が朝から営業中。
ここに入ってみます。
まるで店内で寝起きしているようなおかぁさんが出迎えてくれます。BGMのテレビは朝っぱらから韓流ドラマ。
モーニングセット。
コーヒー付きで600円ぐらいだったかな。
小雨が降ってきました。ホテルに戻って荷物をまとめます。
荷物をフロントに預けてチェックアウト。
外へ出たら雨が本格的になって来たので、ローソンのPONTAポイントでビニール傘をゲット。歩き始めます。
上は邪宗門という老舗のカフェですが、まだ閉まっています。
これは、なまこ壁が美しい、雑忠家。
東北の地方都市と同じような、狭い路地を歩きます。
昨日のブログ写真を見ても分かる通り、気仙沼や志津川のような、天然の良港で、典型的な港町です。
江戸時代には、江戸・大坂間、あるいは東・西廻海運の風待ち湊として栄え、「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」(下田ぶし1番)と唄われた。東海道の三島宿から伊豆半島中央部を南北に縦断する下田街道の終点。僧行基発見とされる蓮台寺温泉などがあり、総称して下田温泉と称している。
カッコイイ船もありました。
1854年(嘉永7年)、日米和親条約が締結されると、箱館とともに開港(下田は即時開港)。吉田松陰の米渡航失敗、ロシア使節プチャーチン提督乗船のディアナ号遭難、米国領事タウンゼント・ハリスと唐人お吉、商業写真の祖下岡蓮杖など、数々のエピソードを生んだ。
食堂、昇龍。やはり金目鯛がトレードマークです。
雨でずぶ濡れの、てるてる坊主たち。
駅前のホテルにも、そういえば津波避難場所の掲示がありましたね。
下田は1854年の安政東海地震で、大きな津波被害を受けています。
河津桜かな、その向こうに胸像が見えます。
ペリー艦隊来襲記念碑、じゃないね、来航記念碑。
ここが上陸地点のようでした。
吉田松陰が、黒船密航を企てた浜は、ちょっと遠くて行くのを諦めました。
散歩はまだ続きます。