経歴・業績
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1933年、長崎県長崎市生まれ。終戦まで中華人民共和国の上海市で育つ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1958年に東京大学法学部を卒業後、農林省(現:農林水産省)入省。入省同期には浜口の後任として事務次官を務めることとなる京谷昭夫がいる。 経済局金融課長、大臣官房総務課長、大臣官房秘書課長、農蚕園芸局長、大臣官房長などを経て、1989年食糧庁長官に就任し、コメ行政に中心人物として携わった。在任中、食糧管理法で定められた正規のルートによらない「自由米」の取り締まり強化に取り組んだ。また、1991年3月に行われた国際食品・飲料展において、アメリカの農業団体が自国産米を展示したことは食糧管理法に違反するとして撤去を求め、外務省ルートでもアメリカ側に働きかけるよう松浦晃一郎(当時北米局長)に要請した。こうした強硬な対応は物議をかもしたが、浜口は「(日本人にとって)コメは小さな宗教のようなもの」と考えており、「淡々と処理しただけ」としている。 1991年8月に事務次官就任。当時、貿易自由化を目的とした通商交渉ウルグアイ・ラウンドが進められていたが、国際会議の場でミニマム・アクセス導入に断固反対するなど、コメに関しては日本国内での自給を維持することを主張した。国内農政に関しては、農家の後継者不足問題などが顕在化して農業を取り巻く環境が変化していたことを受けて、食糧管理制度を含めた全面的な見直しを進めた。1992年7月に退官。 農水省退職後、1993年6月生物系特定産業技術研究推進機構理事長に就任。1996年5月には京谷昭夫・前理事長の死去に伴い日本中央競馬会(JRA)の理事長に就任し、障害競走の振興に取り組んだほか、クラシック競争に外国産馬が出走できるようにするとともに賞金・ボーナスの増額を通じて国内の生産者を保護する方針を打ち出した。JRA退職後も農林中央金庫総合研究所理事長や日本穀物検定協会会長を歴任した。 2021年8月31日死去。87歳没。
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経歴・業績
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岡山県玉野市に生まれる。岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)で大原桂南に学び、丹羽海鶴、鈴木翠軒、加藤飯山に師事。比田井天来、松田南溟に益を受ける。 岡山第一中学校の教員を経て、香川師範学校教諭となる。戦後香川大学教育学部教授となり後進の育成につとめる。書道の歴史解説書「和漢書道史」、名跡筆法の字典「書源(新書道字典)」を編纂。中国陝西省西安市青龍寺の「空海記念碑」を揮毫する。 1986年文部大臣より「地域文化功労者」として表彰される。
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経歴・業績
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1940年1月5日、神戸市の住吉村で生まれた。父、武田鋭太郎(後に六代目武田長兵衛)、母、繁子(十代目國分勘兵衛の娘)の三男で、長男、彰郎(34年生)、二男、誠郎(35生)の三兄弟。武田家住吉別邸(銜艸居・現武田資料館)で育った(武田家長男は大阪の道修町本邸に住まい後継者として教育を受ける)。1944年甲南幼稚園に入園するが、母と2人で丹波大山に疎開。戦後は、住吉別邸がアメリカ軍によって自宅の3分の2が接収され、同居生活を送る。 1955年に甲南高等学校に進学、山岳部に所属する。1958年に甲南大学経済学部に入学する。それまで一度も入学試験を受けたことがなかった為、授業について行けず、大学時代は、三宮のパチンコ屋に通うのが日課であったという。1962年に武田薬品工業に入社し、経理部事業計算課に配属される。米アボット・ラボラトリーズとの合弁会社、米TAPファーマシューティカル・プロダクツのエグゼクティブ・バイスプレジデントなどを経て、1993年社長に就任。2003年6月に会長に就任した。 1980年、6歳年上の長兄で、翌年の創業200周年を機に社長に昇格し、7代目長兵衛を襲名する予定であった副社長の彰郎が、ジョギング中に倒れ46歳で急逝したため、当時の社長の小西新兵衛に後継者として指名される。それまでは創業家の厄介な三男坊として社内でも鼻つまみ者であったと本人は述懐している。 小西新兵衛以降、武田家以外からの社長が3代続いた間、小西新兵衛の指示によりアメリカ合弁会社に社長として派遣され、武田薬品のアメリカ本格進出に際して上市する製品として、当初の予定であった抗生物質ではなく前立腺癌の治療薬を社内の反対を押し切って投入した。これが功を奏して武田の米国事業が成長軌道に乗った。なお、当時既に抗生物質製剤はアメリカ国内では価格競争が進み成熟から衰退期に差し掛かっており、武田薬品が抗生物質を上市しても採算が取れる見込みは殆どなかったことが後に明らかになった。このときの判断は、経営者としての判断力を表すエピソードである。 また、この時に海外で武田薬品とは比較にならない位に大規模な欧米の製薬会社を間近に見て憶えた強烈な危機感が、後に武田國男を武田薬品の大改革実行へと突き動かすこととなる。社長就任後は、途中膀胱癌を患い自らの生命の危機に瀕しながらも、徹底的な社内改革と人事制度刷新を進めた。ノンコア事業であった動物向け医薬品、ビタミンバルク製造や食品、化学品、農薬などを次々に切り離し、コア事業である医薬品事業への経営資源の「選択と集中」を中心とした大改革を行った結果、2002年3月期、社長9年目の連結決算で売上高1兆円を達成、純利益は2356億円。武田薬品の営業利益3.4倍、時価総額は3倍となり注目される。座右の銘は「行くに径に由らず(ゆくにこみちによらず)」。 また、その社長時代に、武田薬品コンプライアンス・プログラムを実施し、企業倫理、コンプライアンスを重視した経営は、高く評価されている。 2009年6月に会長を退任。相談役や顧問などの役職には就かなかった。株主総会では「私も来年の総会から皆さんと同じ株主席に据わる事になる。その立場から武田薬品の成長を今後も見守っていきたい」と語った。 武田薬品は国内の主要スポーツイベントでスポンサーを務めており、会長退任まで、毎年北海道マラソンにスポンサー代表として参加。表彰式のプレゼンターなどを務めていた。
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経歴・業績
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ロシア帝国治世下のウッジに紡績工場主の息子として生まれる。ワルシャワ理工科大学に入学するも、父親が事業に失敗したために中退、職を転々とする。第一次世界大戦ではポーランド軍に一兵卒として従軍。復員後はダンツィヒで工学を学ぶも、再び父親が失業したために中退、以後、再び学生生活に戻ることはなかった。就職先のクレジット会社の統計調査係の事務員として働いて貯めたお金で新聞社を興してみたがほどなく経営に失敗。しかたなく経済系の新聞2紙に記事を投稿する臨時の仕事で生計を立てていたとき、カール・マルクスの再生産表式に興味を持ち、経済学の研究を独学で開始する。1933年に『景気循環理論概説』を発表し、ケインズに先立って有効需要の原理を論証した。この時期に精力的に書いた記事や論文が評判となり、スウェーデンから奨学金を得ることに成功、1935年スウェーデンに渡る。それまでのスウェーデンではスウェーデン学派の経済学者たちがカレツキ理論と似た理論を構築しようと苦心していたのであったが、カレツキはそれを解決していたのである。そんなとき、ジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』が出版された。 1937年にイギリスに渡る。当初ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにいたが、のちにケンブリッジ大学に移りケインズやケインズ・サーカスの経済学者と出会う。1939年にナチス・ドイツとソビエト連邦がポーランドに侵攻したため帰国できなくなり、その後もオックスフォード大学などで経済学・統計学の研究を続ける。 1945年、オックスフォード大学を離れる。理由は、自分の業績が正当に評価されないことに不満を感じたことであるが、これはカレツキの慎み深い性格が原因だった。移民であることでポスト獲得の上で差別を受けたことや、この期間にイギリス国籍取得の申請をしていなかった、ということも原因である。 戦後は国際連合事務局で経済部次長を務めるも、当時のアメリカで吹き荒れたマッカーシズムの圧力から親しい人々が次々と失脚していくことに失望し、ポーランドへの帰国を決める。帰国して後はワルシャワ中央計画統計大学(現ワルシャワ経済大学)で教鞭を取りながら社会主義政権下に於いて経済計画の策定に関与、 オスカー・ランゲやチェスワフ・ボブロフスキなどとともにイスラエル・メキシコ・インド・キューバで経済顧問を務めた。いっぽうで、若いころから好きだった数学の研究も続けた。 カレツキはポーランドに帰国後、その残りの人生を祖国ポーランドの経済発展に賭けた。共産圏で、実質的にソ連によってその生み出す富の多くを搾取される衛星国の状態にあったコメコン経済圏という祖国の政治・経済的制約のもとにおいてであるが、ポーランド経済はカレツキの指導の下で社会主義体制と市場経済とを自己の分配論をもってうまく組み合わせ、着実な地本蓄積による持続可能な発展経路を進んだ。 しかし、カレツキが第一線を退いた直後の1970年(カレツキは同年に死去)より、当時のエドヴァルト・ギェレク政権は国民の人気を得るためアメリカや日本など西側諸国からの対外債務を拡大し、コメコン加盟各国から消費財を輸入し国内に供給する一方、国内産業は輸出目的の資本財生産に極端に傾斜するいびつな経済構造を国内に発生させた。これは消費者信用を拡大する類の一種のバブル経済であり、数年後のオイルショックを契機に対外債務の利払いが負担となってポーランド経済は停滞、これによりせっかくそれまでカレツキが苦心して築き上げてきたポーランドの経済発展の持続可能性と経済的信用は完全に台無しとなって、1990年代初頭まで続くことになった「失われた20年」を招いている。 有効需要の原理を基本とした投資の増加が利潤の増加につながるというカレツキの持論はケンブリッジ・マクロ分配論として世に受け入れられ、ニコラス・カルドアや森嶋通夫にも影響を与えた。 いっぽう、資本主義を支配する法の知識によって人々は豊かかつ幸福になり、かつ経済的決定についてより責任ある態度が取るようになる、とのケインズの持論に対して、カレツキは異議を呈している。カレツキは、(資本主義とは限らずどのような経済制度のもとでも)政府が自らの都合の良いように世の中やその経済的条件を恣意的・強制的に動かしてしまうことによって、資本主義を支配する法の知識はケインズの結論とは逆の結果を導くことがある、と述べた。これは「政治的景気循環仮説」(Political business cycles hypothesis、PBCH)と呼ばれている。これは皮肉にも彼の死後になって、前述のギェレク政権によってカレツキ本人の祖国にて明白な形で実証されることになったのであるが、カレツキは自由選挙の制度を持つ国々では議会選挙を要因としてこの傾向がさらに顕著になることも指摘している。 1970年、ポーランドのワルシャワで死去(70歳)。
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経歴・業績
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1453年癸酉靖難に軍士を率いて皇甫仁・金宗瑞などを暗殺し、宮城を掌握し世祖即位後の靖難功臣2等官に叙勲されて礼曹参議となった。1455年には端宗の譲位を主導した功労で佐翼功臣3等官に叙勲された。 以降、礼曹参判、都鎮撫、礼曹判書などを歴任した。1460年に副将に任命されて大将申叔舟と一緒に女真族を討伐して帰って仁山君(インザングン、にんさんくん)に封爵された 。1467年に右議政、1468年に左議政、1469年に領議政を務めた。1471年に成宗の即位を支持した功労で佐理功臣1等官となって仁山府院君(インザンプウォングン、にんさんふいんくん)の爵位を受けた。
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経歴・業績
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神奈川県出身。慶應義塾普通部に入学、同大学工学部卒業後、同文学部を経て同大学院美学美術史学専攻博士課程単位取得退学。神奈川県立近代美術館学芸課、ボン大学留学 (DAAD)、北里大学教養部助教授から慶應義塾大学文学部助教授、教授。慶應義塾大学アート・センター所長、日本学術会議会員(20・21期)、大学評価・学位授与機構運営委員ほかを歴任。2009年退職後、中部大学人文学部教授、同大学特任教授、同大学国際人間学研究所所長、文部科学省独立行政法人評価委員会(国立美術館部会長) 。現在、形の文化会会長。
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経歴・業績
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ルネ・シェレールは1922年11月25日、チュール(フランス中央部ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏コレーズ県)に生まれた。ルネの兄はヌーヴェルヴァーグを代表する映画監督エリック・ロメール(本名ジャン=マリ・モリス・シェレール)である。 チュールのエドモン=ペリエ高校を卒業した後、高等師範学校に学び、パリ大学で博士号を取得した。 最初はフッサール、カント、ヘーゲル、マックス・シュティルナーなどのドイツ哲学、とりわけ、フッサールやハイデガーの現象学を中心に研究を進め、仏訳書を出版した。最初の書著は『フッサール ― 生涯と作品』(1964、未訳) である。 1967年にシモーヌ・ドゥブーにより初めて公刊されたシャルル・フーリエの『愛の新世界』がその後のシェレールの研究を方向づけた。権威主義的な既成秩序に抗議する学生運動に端を発した1968年の五月革命(Mai 68)の頃には、当時の多くの学生と同様にシェレールもマルクス主義に傾倒したが、文明により抑圧された情念の解放に来るべきユートビアを見出すフーリエの思想もまた、当時の学生たちにあって「ある種の共鳴現象を起こした」。シェレールは「マルクスの作品に欠けているもの、片隅に追いやられたもの、それがフーリエの作品の中心にある。すなわち、情念であり、欲望である」と考えた。 翌1969年には、五月革命の精神を受け継ぐ新しい高等教育機関、すべての人に開かれた大学として設立されたヴァンセンヌ大学 (CUEV)(現パリ第八大学)にミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、フランソワ・シャトレ、ジャン=フランソワ・リオタール、ジャック・ランシエールらとともに参加し、新しい学問分野(学部)を設置した。 さらに、1971年には、ギィー・オッカンガム(フランス語版)、クリスティーヌ・デルフィ、フランソワーズ・ドボンヌ、ダニエル・ゲラン、ピエール・アーン、ローラン・ディスポ(フランス語版)、エレーヌ・アゼラ(フランス語版)、ジャン・ル・ビトゥー(フランス語版)、パトリック・シャンドレールらとともにLGBT運動の発端となった同性愛革命行動戦線(フランス語版)(FHAR) を結成した。
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1943年: 東京都生まれ。 1964年: 東京農業大学農学部卒業。 1969年: 東京農業大学大学院農学部農業拓殖専攻中退。 1970年: 東北大学助手。 1973年: 東京大学助手。 1979年: 「Taxonomic studies on the subfamily Sedoideae (Crassulaceae), with special reference to the Old World genera(ベンケイソウ科マンネングサ亜科の分類学的研究 :特に旧世界の属について)」で東京大学理学博士。 1980年: 東京大学講師。 1981年: 東京大学助教授。 1996年: 東京大学総合研究博物館教授。 2006年: 東京大学定年退官、東京大学名誉教授。東京大学総合研究博物館特任研究員。
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経歴・業績
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申叔舟と鄭孝恒、金宗直の門下で性理学の修学し、1488年文科に及第して三司の主な官職を歴任した。1498年彼は戊午士禍で投獄されたが釈放され直提学と都承旨を過ごし、1504年、甲子士禍に巻き込まれ、全羅南道霊光郡に流刑された。 1506年中宗反正以後の釈放されたし1507年には明に入朝、中宗の冊封有名に受けてきた功労で原従功臣となった。以降、大提学と吏曹判書、礼曹判書、右賛成などを経て、1516年右議政、1518年左議政を務めた。 彼は勲旧派だったが、金宗直の門人がされ士林派に転向した。士だったが、弓術と乗馬、槍投げにあまねく精通している。彼は中宗が許さなかったし、病気で死んだ。
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経歴・業績
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愛知県渥美郡堀切村(現在の田原市堀切町)に生まれる。愛知県立第四中学校(現在の愛知県立時習館高校)を卒業後、地元の小学校の教員となるが、周囲の勧めで書道を深めていくことを志して上京、丹羽海鶴に師事した。こののち、二松學舍専門学校卒。晋代、初唐の楷書を研究し、嵯峨天皇、空海、良寛の書に造詣が深く、淡墨で知られる。小中学校の書道教育に参加し、国定甲種小学書方手本を揮毫した。1957年日本芸術院賞受賞、1968年文化功労者。弟子としては、中川雨亭(国際アカデミー賞受賞、室戸市名誉市民)が有名である。 1976年、心不全のため東京都済生会中央病院で死去。87歳。
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「イヴァン・ミチューリン」の記事における「経歴・業績」の解説
ロシア帝国コズロフ(現ミチュリンスク)の園芸家の家に生まれた。鉄道に勤務しながら独学で園芸を学んだのち品種改良の研究に従った。1897年にカナダを異常寒波が襲った際、ミチューリンの育成したサクランボの品種だけが冷害を免れ、カナダやアメリカ合衆国の学会で高く評価されたが、ロシアでは異端視された。1922年の十月革命後新政府に認められ、国家に援助を受けて全国の果樹品種改良を指導した。コズロフ国営果樹育成所所長を務め、1931年レーニン勲章を受章。1935年ソビエト連邦科学アカデミー会員。 チャールズ・ダーウィン『家畜と栽培植物の変異』(1868年)などを手引として、ロシアの気候風土に適した300種以上の品種を作り出した。その理論は、「環境による生物の変化は遺伝する」というトロフィム・ルイセンコの学説の基礎となるものである。コズロフに住んで、新しい品種をつぎつぎにつくったので、「コズロフの魔術師」といわれた。
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経歴・業績
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爆笑問題マネージャー。 橋下徹を政界へと手助けした劉昇一郎と共にチーフマネージャーとして爆笑問題をマネジメント。 その後も芸人長井秀和や フジテレビ退社アナウンサーの山中秀樹。 また、芸能プロダクションケイファクトリーにて歌舞伎役者、市川亀治郎(現、猿之助)、俳優役者佐々木蔵之介。 若手芸人、フリーアナウンサー、文化人、歌舞伎役者、俳優までマネジメントしている。 TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』では、田中裕二とのプライベート話や本人の間違いが話されていた。コーナー「思っちゃったんだからしょうがない」などが出来たきっかけとの事。フリートークより。格闘家・放送作家野口悠介とは同期。 田中裕二との草野球では主にキャッチャーとしてバッテリーを組んでいた。 (ラジオOPトーク) TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』のリスナーからもネタにされることが頻繁にある。 一部ネットでは当人のマネジメントを離れた後にタレントの不祥事、逮捕者など、問題が起こっており守神でもあり鬼でもあったのではと、言われている。
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経歴・業績
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「ヨハンネス・ベッサリオン」の記事における「経歴・業績」の解説
1403年に黒海沿岸の都市トレビゾンドに生まれる。修道士となり、コンスタンティノポリスで新プラトン主義哲学者のプレトンに師事した。 1437年にニカイアの府主教に任じられ、翌1438年のフェラーラ・フィレンツェ公会議に正教会・カトリック教会の合同賛成派のリーダーとして参加した。帰国後に湧き上がった反対意見によって教会合同は成らなかったが、公会議で示した東西宥和の活動と学識が認められ、1439年に教皇庁の枢機卿およびカトリック教会のコンスタンティノポリス総大司教(名義のみで実際のコンスタンティノポリス在住ではない)に任じられたことから、1440年にイタリアに移住しカトリックに改宗した。 イタリア移住後のベッサリオンは枢機卿の任務をこなす傍ら、対トルコ十字軍の提議や、亡命ギリシャ人の援助を熱心に行った。また、自宅に集うイタリア人と亡命ギリシャ知識人たちの間でアカデミーを形成し、1453年のコンスタンティノープルの陥落以後は、散逸しつつあった各地のギリシャ語写本を組織的に収集した。1468年にベッサリオンは、収集した全ての蔵書をヴェネツィア共和国のサン・マルコ寺院に寄贈し、その管理を委ねる契約を交わした。ベッサリオンの寄進とともに成立したサン・マルコ文庫は、今日でもギリシア語写本の世界最大のコレクションとなっている。 1472年にラヴェンナで死去した。
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経歴・業績
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1900年12月15日、日本統治時代の朝鮮でソウルにて大韓帝国陸軍の参事であった趙性根の息子として生まれた。また、義兄には史学者の李丙燾がいる。 近代の農学および生化学研究の先駆けとなる科学者で、伝統食品の研究を実際の国民の食生活と連携させ、農学および食品産業分野を発展させた。 豆、キムチ、伝統醤類などに関する研究を通して韓国の伝統食品に科学的かつ体系的にアプローチし種菌の開発や繁殖などの研究に貢献した。 すなわち、キムチの栄養価値、味噌玉麹カビの分類、コチュジャン成分分析などの伝統食品を農学へと発展させた。 豆もやしや山菜などを研究した1932年「豆芽製造中に起きる諸成分の変化に関して」(水原高等農林学校創立25周年記念論文集)、「韓国産野生食用植物の食品的価値について」(1932、銅像論文集)などは韓国人が発表した農学分野初の学術論文で、韓国近代農学研究の嚆矢として評価されている。 また肥料開発、米の生産性向上など国民生活及び健康と関連した実用的な分野に積極的に取り組み、立ち遅れている農業環境の改善に努めた。 特に原子力同位体を利用して稲作の合理的な方法を研究し、コメの生産性を向上させており、これは韓国初の国際協力共同研究であり、合理的是非体系の樹立に関する研究としても世界で初めて挙げられる。 研究方法および結果の解析についても国際原子力機関(IAEA)が絶賛した。 1965年原子力庁傘下に放射線農学研究所を創設し、稲の品種改良および肥料成分、環境汚染物質の土壌および水質環境での動態など農業現場の農業生産性向上に努め、農業および農産業分野の基礎を完成させた。 近代教育者として、1925年に水原農林専門学校に最初の韓国人講師として赴任し、教授を経て校長に就任し、1946年にはソウル大学農科大学の初代学長に就任し、韓国の農学教育および正常化に努めた。 韓国の大学を基盤とする設計のため、アメリカ政府と共にアメリカ「ミネソタ大学計画」を樹立し、この計画を通じて韓国農学分野の大学教育システムを樹立、教授の教育および研究能力向上のための海外研修派遣制度を設けた。 1954年には韓国農学会創設とともに会長を務め、1967年には韓国土壌肥料学会会長を歴任するなど、様々な農学学術会活動を行い、韓国農学会の近代化に向けて取り組み、1986年には農学分野の基礎研究をする研究者たちを励ますために私財を投じて化農奨学会および化農賞授賞制度を設立した。 晩年は同い年の農学者尹相元建国大学校名誉教授と互いにプロテスタントバプテストの交友を務めた。 1994年7月13日、93歳で亡くなった。
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経歴・業績
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長州藩士:中村粂吉の長男として長門国萩で生まれる。少年の頃松下村塾に学ぶ。1871年上京し、大学南校を経て1879年東京大学物理学科を卒業、内務省地理局(国土地理院の前身の一つ)測量課に入る。 1886年から1889年にドイツに留学。ベルリン大学、ハンブルク海洋気象台で気象学を修める。1890年に中央気象台技師となる。1893年にシカゴで開かれた万国博覧会に出品するため英語で「The Climate of Japan 日本の気候」を執筆、この論文により1902年2月10日に理学博士となった。1895年に中央気象台台長に就任、1923年まで務めた。1908年11月28日には帝国学士院会員に選任された。 公務のかたわら、1881年には寺尾寿、和田雄治らとともに東京物理講習所(のち東京物理学校、現東京理科大学)の設立に携わり、寺尾寿の後任として1896年から同校の校長となり、1930年に脳溢血で死去するまで在職、日本の理科教育にも大きく貢献した。 エスペラントおよびメートル法の普及に尽力した功績も大きい。財団法人日本エスペラント学会の初代理事長を1926年から1930年に務めた。 多磨霊園に眠る。
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経歴・業績
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実姉は第9代国王・成宗の実兄の月山大君の妻・昇平府夫人朴氏。また敬嬪朴氏は従妹であり、章敬王后は姪である。大伯母に第4代国王世宗の王妃・昭憲王后沈氏。 1485年(成宗17年)、武科に合格して成宗からの寵愛を受けていた。成宗が二度、文臣高位の官職を与えようとしたが武科出身と言うことで他の重臣から反対されていた。燕山君の即位後、当初は信任を得て官職を歴任するが次第に燕山君に疎まれるようになり地方へ左遷となる。 一時的に中央へ呼び戻されるが再度燕山君に疎まれて辞職となる。その後、燕山君自身による度重なる暴政と無差別粛清が進むと燕山君に左遷させられた朴の部下の成希顔、柳順汀、そして反正勢力側に寝返った柳子光などと共にクーデターを計画した。 1506年(燕山君12年)9月に起こしたクーデターは成功し、政治の主導権を掌握。燕山君の異母弟の晋城大君を推戴、即位させた。最終的に靖国功臣になり、平城君(ピョンソングン、へいじょうくん)に封じられ重職を歴任したが中宗即位から4年後の1510年に数え年の44歳で急死した。彼の死後は中宗の忠臣として宗廟に祀られた。
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経歴・業績
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阿部宇之八の三男として札幌区に生まれる。札幌区創成尋常小学校、札幌区創成高等小学校、北海道庁立札幌中学校を経て、1911年(明治44年)第一高等学校第二部甲類に無試験検定で入学、1914年(大正3年)同校第二部工科卒業。1917年(大正6年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。 同年逓信省に入省。翌1918年(大正7年)に九州逓信局水力課長となり、九州各地の河川水を発電に利用するための水量調査を行った。1923年(大正12年)に東京市道路局に転じたところ、同年関東大震災が起きたため、震災後の復興事業の一環として、道路のアスファルト舗装に携わる。1926年(大正15年)、鉄道省に入省。国鉄電化のため信濃川発電所の建設計画に携わるかたわら、丹那トンネル工事中の大出水の原因調査を行う。1939年(昭和14年)からは信濃川電気事務所所長として、信濃川発電所第一期工事、第二期工事を完成した。 1945年(昭和20年)に当時の北海道新聞社社長・滝本静良から要請を受け、同社取締役となる。翌1946年(昭和21年)社長に就任し、同社の労働争議収束に成功する。 1951年(昭和26年)に、北海道で最初の民間放送局となる北海道放送株式会社を設立、社長に就任する。1957年(昭和32年)のテレビ放送開始に当たっては、札幌市とNHKが進めた大通公園のさっぽろテレビ塔建設計画への参加を拒否し、より広い地域をカバーするため、より高い場所に送信所を設けるべきであるとして、当時未開であった手稲山山頂に送信所を建設した。同年、それまで兼任していた北海道新聞社社長を辞任し、北海道放送社長専任となる。 本業のかたわら、北海道総合開発委員会委員、共同通信社理事会長、北海道肢体不自由児福祉協会会長、北海道更生保護協会会長、日本赤十字社北海道支部副支部長、北海道社会福祉協議会会長、全国社会福祉協議会理事、札幌交響楽団理事長、北海道老人クラブ連合会会長、北海道社会復帰事業協会理事長などを務めた。 1972年(昭和47年)食道癌により死去。墓所は平岸霊園。
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経歴・業績
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当初アーヘン工科大学で建築学を志したが、すぐ自然科学に転じ、ボン大学・イェーナ大学と移り、1910年にフライブルク大学で博士号を所得した。第一次世界大戦が始まるまで、ドイツ領南西アフリカやインドネシアで研究し、戦後はプルトン(地下で凝固した溶岩の塊)とその内部構造の研究を始めた。1919年にブレスラウ大学の教授となり、弟のエルンスト・クロースとともに働いた。1926年にボン大学の教授となり、スカンジナビアやイギリス、北アメリカの調査旅行を行った。
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経歴・業績
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宮本は、1936年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、嵯峨根遼吉教授の指導下で理研のサイクロトロンを用いた原子核物理の実験研究を始めた。その後、東京大学教授に就任、1972年に定年退官した。東京大学退官後も、茨城大学、日本原子力研究所(特別研究員)等で教育と研究にあたった。 宮本は戦後いち早く高エネルギー物理学、なかんずくその必須の手段としての高エネルギー加速器の研究に着手し、1953年には文部省機関研究費を用いて東京大学強収斂電子シンクロトロンの建設を始め、1957年に130MeVの装置を完成した。これは後の東京大学原子核研究所の1.3GeV電子シンクロトロン建設に繋がった。 一方、1950年代中頃に世界で究極のエネルギー源としての核融合研究の機運が高まるや、プラズマによる核融合制御の研究に入り、幾多の実験装置の提案、建設をして、この分野に多数の人材を供給するとともに、日本学術会議「核融合特別委員会」などで我が国の核融合研究体制の確立に大きく寄与した。
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経歴・業績
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1890年、東京浅草に父菊蔵、母むげの長男として生まれる。逓信省勤務の父の同僚であった書家近藤雪竹の影響もあり、書に興味を抱く。 1902年、東京府第一中学校(現・都立日比谷高等学校)に入学。丹羽海鶴に師事。在学二年生の折、丹羽先生の推挙により、巖谷一六先生の葬儀に勲章を捧持し参列。兄弟弟子には、田代秋鶴、鈴木翠軒がいる。のちに島村節庵に学ぶ。寺内正毅元帥の秘書官だった島村先生に推されて朝鮮総督府属官として上奏文浄写を専任する。 1916年、文部省習字科教員検定試験(文検)合格。 1917年、日下部鳴鶴の門に入る。以来、書に貢献する功績は枚挙に遑がないが、特筆すべきは、大正天皇大礼記録謹書、及び『透視式説明 書道要訣』を執筆し、書道研究上に一大革新を与え、宮内庁及び各宮家の御買上を賜わる。 その後、決意するところあり、一切の中央書壇に関与しなかった。 1945年、京華学園の書道教諭に就任。大和書道院主宰。機関誌『和光』発行。 1951年、文部省検定教科書筆者となる。 1962年、京華学園退職。 以後、大和書道院にて門下生の訓育に努める。 三井銀行・第一勧業銀行・三井石油・同造船・同鉱山・同不動産・朝日火災・日本団体生命など十指をこえる職場の書道部を指導。 関係団体:日本書道連盟参与、全日本教育書道協会総務、全国高等学校書道研究会常任理事、社団法人日本学生書道振興会参与、中華民国芸苑評選員
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経歴・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 04:41 UTC 版)
長野県長野市生まれ。長野県長野高等学校、東京学芸大学教育学部国際理解教育課程日本研究専攻卒業、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野修士課程修了及び博士課程単位取得満期退学。東京大学大学院で島薗進に指導を受けた。 2010年4月に國學院大學着任後、2013年に博士(文学)を東京大学で取得。2015年の著書『宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学』で日本宗教学会賞を受賞。 國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所助教。2018年より上越教育大学大学院学校教育研究科助教。「宗教と社会」学会常任委員を務める。2021年より上越教育大学大学院学校教育研究科准教授。兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科准教授(兼職)。上越看護専門学校看護学科非常勤講師。
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経歴・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 06:08 UTC 版)
「ジャン・マリニャック」の記事における「経歴・業績」の解説
1817年にジュネーヴに生まれ、16歳でパリのエコール・ポリテクニークに入学して、1837年から1839年までエコール・デ・ミーヌ(国立鉱山学校)に学んだ。 1840年にギーセンのリービッヒの研究室に学び、一時セーブル磁器工場で働いた後、1841年にジュネーヴ大学の化学の教授となった。後に鉱物学も教えた。 希土類元素のイッテルビウムを1878年に、ガドリニウムを1880年に発見した。 希土類元素は非常によく似ていて、一緒に産出するため、その分離は困難であって、多くの化学者とともに苦心して分離していった。 原子量の算出は、すべての元素の原子量は水素の原子量の整数倍になるというプラウトの仮説の検証するもので、ベルギーのジャン・セルヴェ・スタと同様にプラウトの仮説は成立しないことを示した。また、タンタルの化合物とニオブの化合物を分離して、それらが同一の元素でないことを示した。
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経歴・業績
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1935年(昭和10年)生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1957年に長崎大学経済学部を卒業し、同年不二越入社。取締役、常務取締役、代表取締役専務などを経て、1998年2月社長に就任した。事業部門の再編や同業他社との業務提携を進めたほか、不二越の創業70年を記念してコーポレートマークの改定を行なった。また、第二次世界大戦中に強制労働を強いられたとして元女子勤労挺身隊員の3名が雇用企業である不二越に損害賠償と謝罪を求めていた「不二越訴訟」について、第一審・第二審ともに不二越側の全面勝訴であったにも関わらず、2000年7月に最高裁での和解に踏み切った。このことについて井村は謝罪する意向も罪悪感も無いとしながらも、世紀が改まるにあたって不毛な争いが続くことを避けたと説明している。このほか、日本ベアリング工業会会長、日本ロボット工業会会長(2006年 - 2008年)をはじめとした業界団体のトップや、富山県経営者協会会長、富山県機電工業会会長(2005年 - 2009年)など地元財界団体の要職を歴任した。2009年2月に不二越会長兼CEOとなるが、同年12月、健康上の理由により同職を退任した。
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経歴・業績
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東京都生まれ。平安時代から続く京方の笙を家業とする楽家に生まれたが、家業を継がず、桜井欽一が主催する鉱物愛好家の会「無名会」に入会して鉱物学を志す。秋田大学鉱山学部卒業、東京大学大学院工学系研究科修士課程修了、同理学系研究科博士課程中退。1981年2月「氷長石及び珪灰鉄鉱における秩序状態と生成条件の関係に関するX線的研究」で、理学博士(東京大学)。 東京大学総合研究資料館助手を務めたあと、旧工業技術院地質調査所(現独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)に入所。図幅調査や記載鉱物学を担当。和田石(Wadalite)・カリ(第一鉄)定永閃石(Potassic-(ferro-)sadanagaite)・プロトマンガン鉄直閃石(Protomangano-ferro-anthophyllite)をはじめとする多くの新鉱物の発見にかかわった。地質標本館館長を務めたのち退職。その後は豊富な記載鉱物学の経験を生かし、多くの国立大学や自治体が収蔵する鉱物標本の整理を引き受けて活躍。2006年には、それまで個人で収集してきた鉱物標本約4000点を、中国北京市にある中国地質博物館に寄贈したことでも有名である。なお、2009年に雅楽により日本芸術院賞を受賞した豊英秋氏は、同じ家系の親戚である(外部リンクの豊家家系図参照)。また、浜根大輔ほかにより、高知県いの町の鉄マンガン鉱床から発見され、2014年に承認された新鉱物は、豊遙秋の長年にわたる記載鉱物学への貢献をたたえて豊石(ぶんのせき、Bunnoite)と命名された。2015年には、上記の鉱物標本整理の実績により、日本鉱物科学会表彰を受けている。
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経歴・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/25 14:37 UTC 版)
長崎県立長崎東高等学校を経て、1971年に東京経済大学経営学部卒業後、マンパワー・ジャパン入社。各地の支店長、エリアマネージャーを務め、顧客拡大に取り組んだ。営業本部長、専務取締役、取締役副社長などを経て、2007年代表取締役社長に就任。同社は前年に設立40周年を迎えており、営業強化策の一環として派遣拠点の拡充を進めたほか、全国的にテレビコマーシャルを展開した。また、売り上げ至上主義ではなく、顧客と派遣スタッフのマッチング精度を向上させ顧客満足度を高める方針を示した。こうした取り組みの結果、同社としては初めて売上1000億円を達成した。2007年末には株式会社スタッフサービスの買収にも名乗りを上げるなど、人材業界内であまり見られなかったM&Aに取り組む姿勢も示した。2008年に社長を退任。
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経歴・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/12 07:35 UTC 版)
1932年長崎県生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1956年に学習院大学理学部物理学科卒業、1958年に同大学大学院自然科学研究科修士課程を修了。小林理学研究所を経て、1961年東京大学物性研究所助手となり、1965年に「鉄-アルミニウム系合金単結晶の磁場中冷却効果の研究」で理学博士号を取得。グルノーブル大学理学部客員助教授を経て、1967年東北大学助教授、1978年教授。磁気物性工学を専門とし、1977年には「DHCP結晶構造を持つコバルト・鉄合金の発見とその物性に関する研究」で松永賞を受賞。大学において研究・教育に取り組む傍ら、複数の学会で要職を歴任した。1996年に定年退官、東北大学名誉教授となったのち、関東学院大学工学部教授に就任。同年5月には紫綬褒章を受章した。
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経歴・業績
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第八高等学校を経て、1919年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。日本鉱業(現JX金属)の前身である久原鉱業に入社、調査課に勤務。1929年日本鉱業の創立から同社の鉱山部勤務となり、調査部門の業務を担当。この間、長年にわたって傘下の諸鉱山の地質調査・探査・探鉱・開発などを行った。特に福島県高玉鉱山の金鉱床については、鉱床の生成と母岩の変質に関する多くの事実を明らかにし、鉱化初期の珪化作用と後期のアルカリ化(氷長石化作用)の関係を論じた。これらの研究により、東京大学より理学博士の学位を取得。鉱山現業において、学究的な仕事をするのが困難な時代に、よく坑内外の調査研究を実施し、それを最新の鉱床成因論と結びつけ、探査を成功に導くという実例を多く残したことが特記される。鉱業審議会などに関与して、第二次世界大戦後の日本の鉱業復興のために尽力した功績も大きい。また日本地質学会における鉱床部会の立ち上げと、日本鉱山地質学会(現資源地質学会)の創立に努力し、その初代会長として、我が国の鉱床学・鉱床探査技術などの発展に寄与した。1980年日本地質学会名誉会員。
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経歴・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/13 05:34 UTC 版)
官は率府録事参軍になった。孫過庭の墓誌に記されたところによると、40歳ごろに任官したが讒言を受けて退き、貧困と病苦のなかに洛陽の植業里で没したとある。 書は二王を学び、臨模にすぐれ草書を得意とした。『書譜』・『草書千字文』はその代表作である。
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経歴・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/12 08:50 UTC 版)
1956年、東京大学理学部地学科卒業。指導教官渡辺武男教授の薫陶を受け、1958年、東京大学大学院修士課程修了。四国の佐々連鉱山を初めとする含銅硫化鉄鉱鉱床(キースラーガー鉱床)の研究を行った。 1958年 - 1964年、同和鉱業に就職し、秋田県北鹿地域の黒鉱鉱床の胚胎層準について調査する。その結果、黒鉱鉱床はキースラーガー鉱床などと同じく、周囲の岩石(母岩)の堆積時に、海底面上で形成された同成鉱床であることを立証した。 1964年、九州大学工学部、1972年、東京大学理学部を経て、1978年に富山大学理学部教授となり、地殻進化学講座を担当した。1998年退官。この間、1967年 - 1969年には、ドイツ・ノルウェーに留学し、火山性塊状硫化物鉱床の研究を行う。当時ヨーロッパに重くかぶさっていたキースラーガー鉱床の後成説を打破する論文と発言で、世界の鉱床学界に与えた影響は大きかった。 地向斜論が盛んであった日本の地質学界の中で、早くからプレートテクトニクス理論の重要性に気付き、学会の若手を先導したことでも知られる。 1993年資源地質学会の加藤武夫賞を受賞。没後に、資源地質学会は彼の業績をたたえるため、2012年発行の Resource Geology, No. 4 を、堀越叡追悼特集号とした。
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経歴・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/04 14:57 UTC 版)
長崎県長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1977年に慶応義塾大学経済学部を卒業後、本田技研工業(ホンダ)入社。同社では主に購買部門を担当し、2002年購買本部四輪購買一部長、2003年取締役、2005年執行役員を経て、2006年熊本製作所所長に就任した。同製作所は世界各地にある同社の二輪車生産拠点を支援するマザー機能を担うようになっていたが、海外製と比べ高価な日本製の部品を高い割合で調達しており、生産コストが高まっていた。これを受けて山下は、新興メーカーと競争しながらも日本で生産を続けたいと考え、現地調達率を引き下げ海外部品の調達を進める決断を下した。海外の生産拠点についても、現地調達率を高めてきた従来の方針から転換して、グローバル調達を進める方針を示した。2008年、購買本部長を経て常務取締役に就任。ホンダは当時、生産の効率化を目的として二輪車部品の仕様削減を進めており、残した仕様に各車種の部品を切り替えていく取り組みを主導した。取締役、常務執行役員を経て、2012年に常勤監査役となり、2016年に退任した。
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