理学部教授
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 10:36 UTC 版)
1926年(大正15年)山本等の「天文学の発展のためには、専門家でなくても天体観察ができる天文台が必要」だとする主張に啓発され、倉敷紡績専務原澄治の出資により倉敷天文台が竣工した。1929年(昭和4年)10月には京都帝国大学における前任者新城新蔵博士(後に第八代京大総長)から受け継いだ花山天文台が開台され、山本は初代台長に就任した。1935年(昭和10年)、パリで開催された国際天文学連合 (The International Astronomical Union:IAU) 第36回総会において黄道光委員会初代委員長に就任した。IAU委員会において日本人が専門部会の委員長となったのは山本が最初であった。1937年(昭和12年)3月には勲三等に叙され、同年に広島県瀬戸村(現福山市郊外)で黄道光観測所が開所した。 1935年(昭和10年)頃より、山本を嫉視する者から山本を中傷する匿名文書が大学や文部省・関係者に郵送され、果ては当時京都帝国大学内で起きた汚職問題に山本が絡んでいるとのデマまで出回り、1937年(昭和12年)には大学より辞職勧告を受けるに至った。山本としては理由が無い辞職はできず、汚職に関しては検事局が調査したが問題も出ず一年を越した所で、1938年(昭和13年)5月31日に大学を依願退職した。
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