ながさき‐だいがく【長崎大学】
長崎大学(旧長崎高等商業学校)拱橋
名称: | 長崎大学(旧長崎高等商業学校)拱橋 |
ふりがな: | ながさきだいがく(きゅうながさきこうとうしょうぎょうがっこう)こまねきばし |
登録番号: | 42 - 0069 |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 基 |
構造: | 石造単アーチ橋、橋長17m、幅員9.1m |
時代区分: | 明治 |
年代: | 明治36年 |
代表都道府県: | 長崎県 |
所在地: | 長崎県長崎市片淵4-2-1 |
登録基準: | 国土の歴史的景観に寄与しているもの |
備考(調査): | |
施工者: | |
解説文: | 長崎大学経済学部構内の西側を南北に流れる西山川に架かる。橋長17m、幅員9.1mの石造単アーチ橋。表面を平滑に仕上げた切石で欠円アーチをつくり、路面縦断面線形を直線状とするなど、近代的な外観を呈する。旧長崎高等商業学校創立当初から残る遺構。 |
その他工作物: | 熊本県立玉名高等学校正門 粟島海洋記念館門柱 鹿児島県立鹿児島工業高等学校大煙突 |
土木構造物: | 長崎大学 |
建築物: | いなさ会館 お茶の水女子大学本館 お茶の水女子大学講堂 |
長崎大学
長崎大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 05:59 UTC 版)
1978年3月に長崎大学医学部を卒業。長崎大学医学部附属病院(現長崎大学病院)での最初の2年間の研修を第一内科高岡善人教授の下で過ごし、その後は神経班、内分泌代謝膠原病班、消化器班を経て、第三内科で橋場邦武教授に循環器について学んだ。臨床系大学院に戻り、和泉元衛そして長瀧重信教授の下で学んだ。1984年に長崎大学大学院医学研究科博士課程修了。長崎大学教授(当時)長瀧重信の支援により、1984年から1987年の3年間アメリカのロサンジェルスのシダーズ・サイナイ医療センター(Cedars-Sinai Medical Center)に研究留学 し、帰国後は文部教官に採用され、長瀧教授の下で長崎大学医学部第一内科助手として働いた。 1989年に医学博士の学位を取得、翌年の1990年に長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設(原研)教授に就任。当時は日本全国で1、2位の若さであり、講師、助教授を経ずに助手から教授となったため、毎日新聞に「三段跳び」と報道された。就任当時、山下は「原研である以上、被爆者の自覚をもって平和運動につながるような(医療面での)社会活動もしたい」と語っていた。
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「長崎大学」の例文・使い方・用例・文例
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