大改革
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「アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)」の記事における「大改革」の解説
アレクサンドル2世は、旧弊な社会制度の象徴とされた農奴制の解体に着手し、1861年2月19日(3月3日)に農奴解放令(露: Манифест 19 февраля 1861 года об отмене крепостного праваと露: Общее Положение о крестьянах, вышедших из крепостной зависимости от 19 февраля 1861 годаを発布。17条からなる法律)を実施した。 長期的に見ればこの解放はロシアに工業発展の成果をもたらしたが、その実感は1860年代後半になってから現実のものとなったのであり、解放直後は不十分だとする不満が農民に根強かった。また、解放は約4700万人の農民の管理が地主から政府の手に移ったことを意味し、この社会的変化に対応するべく地方自治機関としてゼムストヴォが設置された(ヨーロッパ・ロシア地域のみ)。この機関は地方貴族に地方への影響力を残すと同時に国政参加の機会を与えたが、それでも児童教育・保健事業・貧民救済といった社会の影の部分に目が向けられた。 改革は多方面に及び、1864年に断行された司法権の行政権からの独立を始め、国家予算の一本化、徴税請負制の廃止、国立銀行創設といった政府内の構造的近代化・効率化のための施策が矢継ぎ早に行われた。またナショナリズムの要たる国民教育に関しても、ゴロヴニン文部相のもと、1863年の「大学令」で大学を自由化し、翌1864年の「初等国民学校令」「中等学校法」は無償の基礎的公教育を保障した。後任で保守派の代表格であるドミトリー・トルストイも教育改革を熱心に推進し、1871年に女性が教員や公務員となることが許可された。ロシアは女子教育に関しては西欧諸国をはるかに凌いでいた。軍事面での改革は陸相ドミトリー・ミリューチンの努力に負うところが大きい。ミリューチンは1867年に軍規を大幅に整備し、それまでの一部の志願兵や特例措置を廃して、1874年に完全徴兵制へ移行させた。ただし、装備などは西欧列強と較べると、いまだ格段に質が悪かった。また、聖務会院も変革を期待し、ロシア正教会への働きかけを強めた。 しかし、こうした改革は帝国に完全な安定をもたらすことは無かった。ポーランドではアレクサンドル2世の治世初期から自治を求める分離主義運動が活発で、デモが頻繁に起きた。ポーランド側は1862年に与えられた部分的な自治権には不満で、ついに1863年の年明けにはポーランドとリトアニアで旧ポーランド・リトアニア共和国を再建しようという一月蜂起が発生し、ベラルーシやウクライナでは民族主義の反乱が起きた。こうした騒乱の鎮圧には1年以上がかかり、ポーランドは自治権を失って、ヨーロッパ・ロシア各地域におけるロシア化政策が強化された。こうした動きや、1866年のカラコーゾフ事件(英語版)、保守派の政治家が政権に参与し始めたこともあって、アレクサンドルの改革は1860年代後半から反動化したという評価が一般的である。事実、ポーランド人とリトアニア人の多くがシベリアに流刑になるか、アメリカ合衆国へ亡命していった。しかし改革は全体的には続行されていたという説もロシアを中心に存在する。
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