せいり‐がく【性理学】
せいりがく 【性理学】
宋明理学
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宋明理学(そうみんりがく)は、中国の宋代から明代にかけて流行した思想を指す言葉で、朱子学と陽明学のこと[1]。宋以後の思想史の中で最も重要な位置を占める[1]。宋代・明代の儒学を代表するテーマが「理」であることからその名がつき、単に「理学」とも呼ばれる。
その新しい思想傾向を強調して「新儒教」とも称され[2]、英語では Neo-Confucianism と訳される(現代の新儒家(現代新儒学)とは別物である)。また、宋明理学のうち、北宋・南宋の学術は特に宋学と呼ばれる[3]。
概要
その起源は中唐の韓愈や柳宗元らに求められる。それまでの経典解釈学的な儒学(漢唐訓詁学)は批判され、人間の道徳性や天と人を貫くことわり(理)を追求することこそ学問であるとされた。このことは文学史上の古文復興運動と連動しており、文章は修辞などによる華麗さを追求するものではなく、道を表現するための道具であるとされた。
宋代にはさまざまな流派が興ったが、やがて程顥・程頤(二程子)を祖とする道学が主流となった。天理人欲、理一分殊、性即理などを述べた。
道学の流れを汲み、他の流派の言説をも取り入れつつ、後世に大きな影響力のある学問体系を構築したのは南宋の朱熹である。朱熹の学派は道学の主流となり、このため程朱学派の名がある。朱熹は存在論として理と気を述べ、理気二元論を主張している。彼らの学問は性即理を主張したので性理学と呼ばれる。
一方、朱熹と同時代の陸九淵や明代中葉の王守仁(王陽明)のグループは心即理を主張したので、心学と呼ばれる。心学は明代中期に隆盛した。
理気論は宋代は理気二元論、明代は気一元論へと変化していった。
主要学派
朱熹以前
朱熹以後
- 朱子学(閩学・程朱学・程朱学派・性理学・性理学派・理学派) - 朱熹
- 心学(陸王心学・陸王学派・心学派)
- 事功の学(功利の学・事功学派・功利学派)
- 金華学派(婺学・呂学) - 呂祖謙
- 気の哲学
- 王廷相
- 王夫之
脚注
参考文献
- 島田虔次 著「思想史3」、島田虔次ら 編『アジア歴史研究入門』 3巻、同朋舎出版、1983年、249-286頁。ISBN 4-8104-0368-8。
- 西順蔵 著「宋学」、日原利国 編『中国思想辞典』研文出版、1984年、261-262頁。ISBN 4-87636-043-X。
性理学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 14:36 UTC 版)
太祖李成桂を助けて李氏朝鮮の建国に大きい功を立てた鄭道伝・趙俊などは、皆が朱子学の信奉者だった。彼らは儒学的な理想を新王朝に実現させようと、政治・宗教の指導理念に儒教を採択すると同時に、仏教を猛烈に排斥させた。李氏朝鮮では君主の進講をはじめとして、成均館・四学・郷校などの教育機関や科挙などにもその科目が採択され、国の政治は儒教政治のようになった。 一方、新しい王朝で官職につかず節義を守った吉再などは山林に入り、弟子たちが教育と朱子学の研究に力を尽くし、彼らの間で朱子学はさらに発達するようになった。吉再の門下で学んだ金淑滋・金宗直及びその後に続く金宏弼・鄭汝昌などの新進士類たちも、世宗の時からしだいに官界に就くようになり、また世宗の時に設置された集賢殿を通じて立派な儒学者たちがたくさん溢れ出た。そんな中で、世祖の簒位を契機に、儒学者は地方・思想・処世上のさまざまな学派として勲旧派・節義派・清談派・士林派の四つに大きく分かれた。勲旧派は建国初期から朝廷に基盤を持ち、継続して政権を握って来た学者だったのに対し、節義派や清談派は節義を守ったり清談だけに没頭し、現実の政権からは離れていたので、結局は勲旧派との対立的な勢力を成したのは士林派だった。 士林派は、初めは勲旧派と不和が生じ何回も迫害を受けたが、後には継続して要職に登用されて政治に直接参与する一方、正統的な朱子学を継承しながら李氏朝鮮時代の儒学の主流をなした。特に中宗の時に金宏弼の学統を継いだ趙光祖は、君主の厚い信任を受けて理想的な道学政治を実現するために、至治主義を標榜して儒教的教化事業を多くの方面で大きく興した事もあった。しかしこの時までの学風は、文字・訓詁を主にした。そのうち己卯士禍によって趙光祖以下多くの士類たちが死刑あるいは追い出されると、残りの士類たちは政界に進む考えを捨てて学問にだけ熱中する風潮が起き、学問の傾向も思索と理論の方面に一変して、朱子学の宇宙論、心理説などが深く研究された。この学風の先駆を成した学者は徐敬徳と李彦迪だったが、彼らの後を継いで現れた明宗・宣祖の時の李滉・李珥は特に目立ち、朝鮮儒学史上の代表的な学者として尊敬を受けている。しかしその後は、党争と結びつき、学問に対する研究は活発ではなかった。さらに朱子学の隆盛により台頭した礼論は、うるさい服制問題を惹起して党争に利用された。 李氏朝鮮時代の儒学は排他的だったので、中国で盛行だった儒学の分派である陽明学は、朝鮮では異端視されただけでなく、同じ朱子学派でも朱子と経註に反対してひどい非難を受けた。学説の違いは党争を誘発させ、政治・社会面にも深く影響を及ぼした。李氏朝鮮後期になってからは、清の考証学と西洋文物などに対する知識を得て貢献できる学問である実学が起き、柳馨遠・李瀷・丁若鏞など、この方面に目立つ学者たちが出て、新しい学風を見せた。しかし、これらも勿論、朱子学の枠から完全に脱け出すことはできなかった。 一方、大韓帝国末期の崔益鉉のような儒学者たちは、朱子学の名分論などを掲げて抗日運動を実践に移したこともあった。儒学を国教のように崇めた朝鮮では、儒学思想を社会に広く普及するにも力を尽くした。高麗末期に朱子学と一緒に伝来された朱子の家礼、家廟などの普及が、両班層はもちろん一般庶民にも儒教的な倫理観念を一般化させることに大きく作用した。またその倫理道徳を具体的に庶民に教えるために、孝子・忠臣・烈女などの事蹟を編纂したし、地方官たちもその教化に力を尽くした。このように儒学が朝鮮社会に及ぼした功績もあったが、一方では家族制度と階級思想を厳格にしたし、形式的な礼節と事大主義思想を生んで、商工業・芸術などを賤視するようにするなど弊害が多かった。
※この「性理学」の解説は、「李氏朝鮮の学問」の解説の一部です。
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