へいあん‐じだい【平安時代】
平安時代 (へいあんじだい)
平安時代
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平安時代(へいあんじだい、延暦3年(784年)/延暦13年(794年) - 12世紀末)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を遷してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都からの約400年間を指す。
- 1 平安時代とは
- 2 平安時代の概要
平安時代(再興)
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「慈恩寺 (寒河江市)」の記事における「平安時代(再興)」の解説
天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が阿弥陀堂(常行堂)、釈迦堂(一切経堂)、丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。このとき山号を雷雲山と改め、鎮守として白山権現を加えた(『慈恩寺縁起』)。一切経の納入や丈六釈迦如来像の建立など藤原清衡の建立した天台宗毛越寺との類似点は多い。既に寛徳2年(1045年)の時点で寒河江荘は摂関家領として成立していたことから、天仁の再興時の荘園主で当時摂政だった藤原忠実が信仰していた天台宗の影響も考えられる。仁平年間(1151年 - 1153年)に興福寺の願西上人を本願者、平忠盛を奉行として再興した(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。興福寺は藤原摂関家の氏寺であり、法相宗の総本山であった。寒河江荘の荘園主である藤原氏の庇護と、公卿への昇進を目前に控えた忠盛の財力をうかがわせる。また、慈恩寺再建にあたっての藤原基衡から平忠盛への奉行の転換については、久安5年(1149年) - 仁平3年(1153年)にかけて奥州藤原氏と藤原摂関家が年貢増徴をめぐって争ったことが遠因ではないかとの指摘もある。 堀裕は「興福寺」願西上人は寒河江荘で活躍した法華経を信奉する修行僧ではなかったかと論じている。堀によれば、12世紀の慈恩寺の什物や建築物には天台宗の影響が色濃く見え、後の天台宗と真言宗の争いにより、天台宗が主流であった痕跡を寺伝から消すために、法相宗の総本山である「興福寺」願西上人を作り出したのではないか、とする。 鳥羽天皇が崩御した保元元年(1156年)、保元の乱が起こり実権を握った後白河天皇の勅宣により今熊野十二所権現を勧進して社殿を建立する。保元2年(1157年)に火災で本堂が焼失するも、永暦元年(1160年)に再建された。この前年(1159年)平治の乱が起こっており、後白河院と二条天皇の対立は膠着状態であったが、やがて二条天皇及び関白藤原忠通が実権を握っていく。しかし、長寛2年(1164年)に忠通が、翌1165年に二条天皇が立て続けに死去すると、幼少の六条天皇を忠通の子藤原基実が摂政として補佐するものの永万2年(1166年)に急死してしまう。基実に伝領されていた寒河江荘は藤原基通が成人するまでの間、平盛子が一時的に預かるという形で、盛子の父平清盛の影響下に入った。平家との協調路線を模索していた後白河上皇もこれを黙認し、後白河の院政が開始する。 しかし安元2年(1176年)に後白河の寵愛を受けた平滋子が死去すると後白河と清盛の間にも亀裂が入り、鹿ケ谷の陰謀・平重盛の死去で関係は修復不可能になっていく。 やがて治承3年(1179年)に平盛子が24歳で死去すると、盛子が一時的に相続した摂関家領の相続問題が発生する。盛子が准母となっていた高倉天皇への伝領を清盛が画策したのに対して、摂政氏長者松殿基房が伝領を求めて後白河へ訴えたのである。後白河はこれに介入して自己の管理下に置いてしまう。これが引き金となり治承三年の政変が起こり後白河は院政を停止され、藤原基通が関白・氏長者となり、寒河江荘も摂関家領に戻った。関白・藤原基通は平家の都落ちに際して京都に残り、後白河院の側近となって度々関白を務め、後白河の死後も関白・摂政を歴任した。 文治元年(1185年)、後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、瑞宝山の山号を賜った。この時、高野山(金剛峯寺)の弘俊阿闍梨により真言宗がもたらされ、翌文治2年(1186年)、法皇の院宣により熊野権現社殿が修造された。白山権現は鎮守から外れることになり、天台宗も中心的役割を失っていく。後白河法皇は生涯34度におよび熊野を詣でており、その信仰心がこの地方まで影響していたことを示している。弘俊は修験を導入し、葉山を奥の院として葉山修験の中心地となった。
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平安時代
出典:『Wiktionary』 (2021/08/15 05:43 UTC 版)
固有名詞
- 日本史(wp)の主要な時代区分(wp)の一つ。近年の最有力説では、桓武天皇(wp)による794年(延暦13年)の平安遷都(wp)から、政権の中心が鎌倉に移る(鎌倉幕府(wp)が成立する)1185年(元暦2年、文治元年)までの約390年間を指す。
語源
この期間、平安京(wp)が政治上唯一の中心であった(ごく短い一時期、平氏政権(wp)が福原京(wp)に遷都(wp)したが、すぐに還都(wp)している)ことから、「平安京の時代」という含意をもって「平安時代」と呼ぶようになった。
類義語
ほぼ同義語
関連語
- 平安 :《固有名詞》《日本史》 1.「平安時代」の略。 2.「平安期」の略。 3.「平安京」の略。
- 平安朝
- 桓武天皇(wp)
- 平安遷都
- 平安京(wp)
- 平安宮(平安京大内裏(wp)、平安宮大内裏)
- 平安貴族(wp)
- 源平藤橘
- 中古文学(wp)(平安時代文学、平安文学)
- 弘仁貞観時代、貞観時代。藤原時代。
- 主要時代区分
「平安時代」の例文・使い方・用例・文例
- そのことばは平安時代に初めて書き記された
- この習慣は近代[平安時代]に始まったものだ.
- 位禄定めという,平安時代の儀式
- 殿上人という平安時代の階級
- 歌合わせという,平安時代の遊び
- 平安時代の和歌を中心にした短い物語
- 平安時代の和歌を中心にした短い物語を集めたもの
- 打ち掛けという,平安時代の武官の胴衣
- 平安時代の貴婦人が上着の下に着た衣服
- 平安時代の男性が狩衣などの下に着た衣服
- 平安時代以降,宮中の絵画や装飾を管理する役所
- 平安時代以降,宮廷内の役所に所属した絵師
- 奈良時代と平安時代
- 大きく裁断しぬった平安時代の婦人の衣服
- 平安時代や鎌倉時代の,大番役という職務
- 平安時代や鎌倉時代の,大番役という職を務めた人
- 平安時代,男絵という力強い画風の絵
- 平安時代において,仏名会という,宮中の仏事
- 平安時代以降の女房用の牛車
- 平安時代末期から鎌倉時代において,高利貸しをすること
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