【WEEKEND PLUS】(510) ひめゆりの記憶を繋ぐ…ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長、戦争の悲惨さを克明に
今月上旬。沖縄県糸満市の『ひめゆり平和祈念資料館』では、修学旅行で訪れた中学生達がメモを取りながら展示を見て回っていた。有名な『ひめゆりの塔』と同じ敷地内にあり、多くの学生や観光客らが足を運ぶ。コロナ禍前までは元ひめゆり学徒達が来館者を迎えていたが、その姿はもうない。
第二次世界大戦末期の沖縄戦で日本軍による組織的戦闘が終結して、今日で79年。証言員として沖縄戦の体験を館内で語ってきた30人のうち、21人が世を去り、存命の元学徒達も90代半ばとなった。「彼女たちがいてこその資料館だったので、寂しさはある。コロナ禍が落ち着いたので『また戻りませんか?』と声をかけたが、『もう無理よ』という答えだった」。館長の普天間朝佳さん(64、左画像、撮影/喜屋武真之介)は残念がる。
資料館がオープンしたのは1989年。今日の沖縄慰霊の日で開館35年を迎え、これまでに約2400万人が訪れた。普天間さんは八代目で、初の戦後生まれの館長だ。
ひめゆりは、1945年に沖縄戦が始まった頃、那覇市安里で校舎を共有していた沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の愛称だった。両校には教員等を志す13~19歳の女子生徒達が県内各地から集まり、勉強や部活動に励んだ。だが、アメリカ軍の上陸が迫ると、15歳以上の上級生は日本軍の要請で戦場に駆り出された。丘に掘られた病院壕で約2ヵ月間、重傷を負った兵士達を看護した。
手術場では痛みに耐えきれず暴れる患者を押さえ、壊死を防ぐ為に切断された手足を壕の外に運んで捨てた。食事の運搬や兵士の遺体の埋葬も生徒達の仕事で、砲弾が飛び交う中を走り回った。
沖縄本島中部に上陸したアメリカ軍は南北に分かれて進攻した。首里(※現在の那覇市)にいた日本軍(※第32軍)の司令部は、アメリカ軍が迫ると本島南部へ後退。女子生徒達も南部の壕へ移ったが、その後になって軍から病院の“解散”を告げられた。爆撃の中に放り出される形となり、両校から動員された240人(※教師18人を含む)のうち、半数以上の136人(※教師13人を含む)が命を落とした。当時、編成された9つの女子学徒隊の中で、動員数、犠牲者数共に際立って多い。
ひめゆり学徒隊の悲劇は、戦後間もない1950年頃から小説や映画等で繰り返し紹介され、全国的に知られるようになった。1946年建立のひめゆりの塔には、1960年代以降、日本本土から観光客が押し寄せた。だが、生き残った元学徒達の多くは長い間、体験を公にすることはなかった。
その理由を普天間さんはこう語る。「『生きるも死ぬも一緒に』と誓い合った学友達が目の前で亡くなっていき、戦後、彼女達は『生き残って申し訳ない』という思いを抱いた。友達のご遺族と出会うのが怖くて、隠れるように生きていたという話も聞きました」。
元学徒達や両校の卒業生らが資料館建設に踏み出したのは1980年代。戦後40年近くが経ち、「亡くなった学友や先生の為にも戦争の実相を後世に伝えたい」という思いが次第に強くなった。卒業生でつくる同窓会が資金集めに奔走し、元学徒達は意を決して学友達が亡くなった壕に入り、遺品や遺骨を集めた。
迎えたオープンの日。雨天にも拘わらず、遺族や卒業生らが次々と訪れ、元学徒達が出迎えた。亡くなった生徒と教師の写真が並んだ展示室で涙を拭う来館者もいた。後日、普天間さんは、元学徒で七代目館長の島袋淑子さん(96)からこう聞いた。「実は、あの日を迎えるのが怖かったのよ。ご遺族にどう思われるかと。展示を見たご遺族が『これで、皆と一緒にいられるね』と喜んでくれて、私もほっとして涙が出てきた」。
普天間さんは戦後の1959年、同県中城村で7人きょうだいの末っ子として生まれた。沖縄戦では県民の4人に1人が亡くなったとされる。普天間さんの祖父や叔父、いとこら6人も本島南部で命を落とし、一緒に行動していた母と当時3歳だった姉はどうにか生き延びた。「母が生きたおかげで自分がいる」と思う。
琉球大学を卒業後、那覇市役所の職員や、地元の新聞社が発行する副読紙の記者等を務めたが、どれも長続きしなかった。29歳の時、開館を控えた資料館が職員を募集していることを新聞で知り、採用試験を受けた。「ここなら、やり甲斐のある仕事ができる筈だ」という予感があった。
開館時の職員は普天間さんら2人だけで、元学徒達は無報酬で館の運営や展示の説明等様々な仕事を担った。「私も結構忙しくて、『大変なところに来てしまった』と思った。でも、彼女達が60歳前後になって、慣れない仕事を一生懸命やっている姿を見ると、弱音は吐けなかった」。
館長は代々、沖縄戦を体験した元学徒らが務めていたが、2018年、普天間さんは館長を任された。「それまでの館長の存在の大きさを感じていたので、荷が重いと思った。でも、高齢となった体験者にこれ以上頑張ってもらうわけにはいかないというのが、一致した意見でした」。元学徒の思いが詰まった資料館。ところが、普天間さんが館長に就任して程なくして、存続の危機に直面する。