【WEEKEND PLUS】(498) 患者らに働く場、医師の挑戦…医学博士の林和彦さん、ヨーグルト会社に全財産
日経平均株価が4万円を超え、春闘で賃上げ回答が相次いでいた今年3月下旬。夕食の支度をしていた妻から不安げに問われた。「この家がなくなったらどこに住んだらいいの?」。
林和彦さん(63、右画像中央、撮影/宮間俊樹)は、東京女子医科大学(※東京都新宿区)で35年、消化器外科や癌の専門医として患者と向き合った。同大病院副院長も務めた。しかし今、預金通帳の残高は数万円しかない。退職金も貯金も使い果たした。更に約3億円の借入金がある。自宅には抵当権が設定され、返済できなければ失う。林さんは「そうならないように頑張るよ」と答えるしかなかった。
多額の借金の理由は“ヨーグルト”だ。副院長になった2014年、病院で鎮静剤を投与された2歳の男児が死亡する医療事故が起きた。当時、医療安全の責任者を務めており、院内の調査に加え、警察や厚生労働省とのやりとりに追われた。教授室に寝袋を持ち込み、寝泊まりした。体調を崩し、重度の便秘症になった。
事故対応が終わっても体の不調は続いた。「消化器の専門家として、腸の機能を回復させる方法を自分で見つけるしかない」。研究者魂に火が付いた。目を付けたのが、腸内環境改善効果が指摘されるヨーグルトだった。ヨーグルトには様々な乳酸菌が含まれる。午後9時頃に帰宅し、自宅の台所で数百種類の乳酸菌から有望と考えられる菌を絞り込む実験を繰り返した。最初はどれも不味く、食べられたものではなかった。「毎日のように作っては捨て、作っては捨て、を繰り返した」。
本格的に取り組む為、嘗て長男が使っていた部屋を実験室にした。埃や微生物の混入を防ぐ研究用のクリーンベンチ(※作業台)と、細胞を培養するインキュベーター(※培養器)を購入した。一般的な食品メーカーは、温度管理した部屋でヨーグルトを発酵させる。だが、広い室内では場所によって温度に斑が生じる。林さんは「研究用インキュベーターなら、完璧に管理できる」と考えた。装置の配送業者は、民家での使用に「本当にここで使うんですか?」と驚いたという。
絶妙な温度管理が可能になったことで、これまで使っていなかった乳酸菌を扱えるようになった。その一つが、医薬品の整腸剤用の乳酸菌だ。製薬会社が製菓等向けに販売していた。実験を重ね、最終的に5種類を選んだ。「これだ」というヨーグルトの完成まで2年もかかった。
国が承認する医薬品以外で効能・効果を謳うことはできないが、自分にとっては満足できるヨーグルトになった。知人に贈ると「美味しい」と評判になり、購入希望者も現れた。商売にするつもりはなかった。でもその時、病院で出会った癌患者達がふと脳裏に浮かんだ。彼らの多くは「癌になっても働きたい」と願っていた。
癌は国民の2人に1人が罹る病気だ。最近は、医療の進展によって治る患者が増えている。治療の負担や体調の変化から元の生活を続けることが難しくなり、診断後に仕事を離れる患者が2~3割いるが、短時間勤務であれば復職できるという人も少なくない。林さんが知る患者も、能力や意欲はあるのに治療開始前と同じ働き方ができないこと等から、退職したり、パート等へ転職したりしていた。
“働き方”に悩むのは患者だけではなかった。以前、子育ての為に時短勤務を選んだ看護師が、多忙な職場で肩身の狭い思いをしていた様子も思い出した。病や子育て、介護等働き手の状況に応えられる会社が必要だ。癌患者でも意欲があれば胸を張って働ける職場を、このヨーグルトで作ることができるのではないか――。そんな思いから、2018年、乳製品の製造・販売会社『神楽坂乳業』を起業した。
目標は“経済的成功(=お金儲け)”でなく“社会的成功(=癌患者らへの貢献)”。大学に近い築40年のアパートの一室を借りて、工房」にした。工房で作ったヨーグルトは『神グルト』という商品名でインターネット販売した。昼は医師として働き、夜と休日にヨーグルトを作る。コスト度外視で開発した商品の為、1瓶700グラム入り3500円とヨーグルトとしては破格の高値で販売しても、利益は僅かだった。
設備を整える費用や日々の運転資金の為、お金はみるみる減っていく。還暦前の2020年6月に大学を退職し、ヨーグルト生産と販路拡大に専念することにした。にも拘わらず、2021年の大晦日に妻から言い渡された。「老後の蓄えも子供の結婚資金もなくなりました。赤字が続くようなら、もう止めて下さい」。
それでも諦めるわけにはいかなかった。旧知の患者やシングルマザー、介護で働けない人達から「私を雇ってほしい」との声が届き始めていたからだ。生産量を10倍に増やし、経営を軌道に乗せたい。その為に新しい工場を作る。無謀とも思える計画を実行に移すことにした。