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【水曜スペシャル】(705) 「俺にしかできない音を俺自身も聴きたい」――Charさん(ギタリスト)インタビュー

20240131 09
「テクニックは勿論必要だけど、それだけで良い音を出すことはできない」――。日本ギター界のレジェンド、Char(※左画像、撮影/手塚耕一郎)に“他人の心を打つ音楽”を奏でる為の秘訣を問えば、楽器の良い音は勿論のこと、雷や鳥の鳴き声といった自然界の良い音、或いは嫌な音を知っていることが先ず大事だと説く。「俺が好きなのは、その奏者がどういう人間なのか見えてきたり、それ以外の景色を見せて勝手に想像させてくれたりする演奏。例えば、速弾きに『すげぇ!』とは思うけど、もう一度聴きたいとはならない。聴いた人が理屈じゃなく、『何か良い』『もう一回聴きたい』と思えるような音楽じゃなかったら、只のBGM。だったら無いほうがいいと思うんだよね」と信念を語る。そんなCharが今月、最新アルバム『SOLILOQUY』を携えた全国ツアーを開始する。タイトルは日本語で“独り言”。敬愛するジェフ・ベックにインスピレーションを受けて書いた『JEFF-SOLILOQUY-』を始め、収録した全12曲の作曲、編曲、演奏、プロデュース等、制作に関わる一切をChar一人で手がけたことに由来する。「以前は曲のアイデアがあっても、欲しい楽器の音を重ねていくには沢山の人の関与が必要だったけど、今はデジタル技術の向上で、クオリティーの高い音源を機材から引き出し、聴き応えのある表現が一人でもできるようになった。落書き(=思い浮かんだフレーズやテーマ)から色んな色(=音源)を使って、自分の絵(=楽曲)が描けるのは楽しい」と話す。

だが、一方で「バンドを組んでいるヤツらが羨ましい」とも。「あったらあったでうざいんだよ。作った瞬間、解散したくなる」と、これまでの経験を振り返って目尻を下げて笑うが、「何年かに一度、一緒に演奏しているとゾーンに入ることがあって、『ああ、コイツらとやっててよかった』と思うことがある。もうそれは言葉では言い表せない程」と明かす。今回のツアーでは、ほぼ初対面に近い腕利きの3人をバンドに起用した。「会ったことのない人間同士で新しいものを生むには、其々の個性や得手不得手を短い期間で把握し、判断しないといけない。それが楽しいんだよ。新しい解釈や発見に導かれ、自分を育てることもできる」。唯一、メンバーの採用時に確かめたのは「お前、たばこ吸う? 酒飲む?」だけ。喫煙者であり、酒を愛するChar流の仲間集め。「バンドを作るっていうのは、いつの時代もそういうところから入るから」。そう冗談を交えながら、「演奏が上手いのは当たり前」と一流の余裕を見せた。8歳でギターを始めてから、今年で60年になる。『ギター・マガジン』の〈ニッポンの偉大なギタリスト100〉で1位に選ばれる等、日本ロック界の重鎮だが、「音楽はやればやるほど若い時よりも深さを知っちゃって、終わらないんだよ」と困ったように笑う。「6本の弦と21のフレットの組み合わせで、未だ自分が弾いたことのない表現に辿り着く瞬間が嬉しい。俺にしかできない音を俺自身も聴きたい」と言う。どこまでも高みを目指して立ち続けるステージ。酒は好きだが、飲んで上がることはしないという。理由を尋ねれば、「声が半音下がって、喉が閉まっちゃう」と話す。そして、「あとなんだろうな」と言葉を選んで、こう付け加えた。「しらふで音楽に酔いたいよね」。 (取材・文/東京本社学芸部 伊藤遥)


キャプチャ  2023年11月8日付夕刊掲載

テーマ : J−POP
ジャンル : 音楽

【水曜スペシャル】(704) 本紙記者が“死”を疑似体験…棺で思う、大切な貴方へ

〈棺に入った時、あなたは何を思うのでしょう〉。記者(34)は、こんな文言が書かれたイベントの案内文を目にし、興味を引かれた。宮城県内のお寺で『死の体験ワークショップ』を開き、参加者には実際に棺の中に入ってもらうのだという。一体、心境にどんな変化が起こるのだろうかと、取材に行ってみたところ――。 (取材・文/仙台支局 土江洋範)

20240131 08
会場に着くと、ワイシャツにネクタイを締めた主催者の女性が笑顔で出迎えてくれた。仙台市出身で埼玉県在住の納棺師、大森あきこさん(53)。38歳で営業職から転職して以来、4000人を超える故人の見送りを手伝い、2年前に現場を離れてからは後進の育成に尽力している。「必ずくる大切な人とのお別れに、何ができるのか知ってもらいたい」。コロナ禍を経て葬儀の縮小・簡略化が更に進む中、死について語る場を日常に作ろうと、各地でワークショップを開いているという。記者の他に参加者は40~70代の女性6人。棺に入る前に、幾つか記入欄のある葉書サイズのカードを1枚ずつ、大森さんから手渡された。「若し自分が死んだら」と想像しながら、残された人宛てに書くメッセージで、先ずは亡くなる年齢、時期や季節、死因から埋めていく。記者には妻(36)と長女(5)がいる。「あんまり長生きしても迷惑かけるかなぁ」。寒さが和らいできた3月に老衰により80歳で死去、と書いた。ハッとした。妻や娘に先立たれることはないと当然のように考えていることに気付いた。続けて、「大切な人への感謝と謝罪、お願いしたいことを書いて下さい」との指示。大森さんによると、遺族が故人にかける言葉で多いのが「ありがとう」と「ごめんね」なのだという。ところが、記者のペンは中々進まない。家族、親類、友人、尊敬する上司――。沢山の人の顔が頭に浮かぶものの、言葉にするのは難しい。しようとしても、こっぱずかしくなる。〈妻と娘に。楽しい時間を感謝しています。妻に。小言をネチネチ言ってしまったことを謝りたいです。娘に。好きなことに一生懸命取り組んでほしいです〉。偽りはないものの、我ながら浅い。取り敢えず空欄を埋めた、というモヤモヤした感じも残った。

この後、参加者は順番に棺に入っていき、先程自作したメッセージカードを大森さんに読み上げてもらった。〈夫へ。私が思う通りの人生を歩めるように応援し、支えてくれて感謝〉〈義理のお父さんへ。つらい気持ちを分かってあげられなくてごめん〉〈子どもたちへ。人と比べることなく自分らしく、やりたいことを我慢せずに人生を生き切って〉――。他の人達の言葉が胸にジーンとくる。前日に東京都内で開いたワークショップでは夫婦揃っての参加があり、普段なら口にしないラブレターのようなメッセージの交換になったという。最後に記者の番が回ってきた。棺の蓋を閉められると、小窓のアクリル板から外は見えるものの、たった数㎝の板で別の世界に隔絶されたような感覚になった(※右上画像、大森さん撮影)。〈土江洋範さん。寒さが和らいできた3月に――〉。目を閉じ、大森さんの声に耳を傾ける。その後、小窓も閉められた暗闇の中で45秒間、ただ静かに考える。「おかえりなさい!」。大森さんが蓋を開けてくれた時には、先ず身近な人達のありがたみを頭の中で整理することから始めようと決意した自分がいた。イベントの最後、参加者の一人が語った感想に大きく頷いた。「“本番”の時には、周りの人達からどんな声をかけられるのだろうかと気になった。自分は今から何を残していけるのか、人との関わり合い方を見つめ直す機会になった」。大森さんは、「皆さん今、生きています。今日の『ありがとう』と『ごめんね』は、是非伝えてあげて下さい。大切な人を見送る時がきたら、棺の中で感じたことを思い出してほしいです」と締め括った。この日は、見送る側の遺族の立場を体験する模擬納棺式も行なわれた。少しだけ紹介したい。納棺式は、通夜・告別式の前までに着せ替えや化粧といった故人の身支度を整えて体を棺へと移す儀式だが、全ての遺族が行なうわけではない。大森さんによると、行なうとしてもどこまで立ち会えるかは葬儀会社によって様々で、最後の確認だけ遺族がするというケースもある。記者自身、納棺までの流れを初めて見た。先ず、大森さんが故人役のイベント参加者を白い着物に着せ替える。その動きは無駄がなく、美しい。見とれて涙を流す参加者もいた。そして、遺族役の記者らが体を棺に移し、思い出の品を入れていく。大勢の友人との記念写真や御朱印帳を見ると、「旅行が好きでアクティブだったんだな」と“生前”の姿に思いを巡らせることができた。約40分の模擬納棺式はあっという間に終わった。初対面の相手ですらこうだ。一般的に納棺式は1時間~1時間半。大切な家族であれば短過ぎるだろう。それでも、葬儀の対応に追われる遺族にとっては、落ち着いて故人との別れに向き合える貴重な時間だと大森さんは言う。「日常に戻った時に『涙を流す場所がなかった』と思う遺族が多い。周りを心配させまいと、掃除機をかけている時に泣いたという人もいた。納棺式は短い時間だが、故人との繋がりに気付き、その縁を別の形に結び直せる。納棺式を行ないたいと思ったら、葬儀会社に相談してほしい」。


キャプチャ  2023年11月7日付夕刊掲載

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

【村西とおるの「全裸で出直せ!」】(231) “他人の不幸は我が身の不幸”と思える心の幸せ

人気の松本人志氏と“恐怖の一夜”を過ごしたとの女性の告白記事が話題となっています。事の真贋は予想される裁判の結果を待たなければ判明しないことは明らかですが、世相は「弱い立場の女性はいつだって被害者で、嘘を吐く筈がない」と、被害を訴えている女性に同情的でございます。被害を訴えている女性は、8年前の当時のLINEで「本当に素敵で…ご縁に感謝します」と御礼のメッセージを紹介者のお笑いタレントに送っていたことについても「パニックになっていたから」で、「何故それが“性的合意”の証明になるのか」と申されております。が、ハワイの拘置所のシャワー室で、同室の巨漢悪党3人に犯された経験のある私は、「そんなバカな!」と異議を唱えるのでございます。犯されてから直後、たとえこの身が滅ぼうとも、強姦魔の3人は生かしておかぬ、と復讐を誓ったからです。たとえパニックになったといっても、御礼のメッセージを送ることなど金輪際ない、と経験者の私は申し上げることができるのでございます。嘗て草津町長は、「町長と肉体関係を持った、それも犯されて…」と町議女性の訴えに遭いました。メディアや“偽フェミニスト”は、草津町長や草津町を「レイプの草津町」「草津に行けばレイプされる」として糾弾したのですが、町長側が刑事、民事での名誉毀損の裁判を起こすと、被害を訴えていた女性町議は一転、訴えは虚偽であったことを認めたのです。

こうした事例に照らし、女性の「犯されました」の告発は全て真実であることはなく、女性の告発なら嘘も許されるといった道理がないことを改めて確認する必要が、と考えます。恥ずかしながら、このエロ事師、仕事上を含め女性と接触する機会が多い分、女性の嘘に悩まされ、苦しまされてまいりました。恥の上塗りとお笑い下さい。50年前の最初の離婚は、女房どのが間男を留守の家に引き入れたことが原因となりました。その後、AV監督となった時にも、ギャラ欲しさに21歳の姉の身分証を「自分だ」と偽った17歳の女性の騙しに遭い、AVを撮影。その後、事実が明らかになり、逮捕の憂き目に遭っています。処女喪失AVに出演した素人女性が、実は吉原の人気ソープ嬢であることがわかり、販売ビデオの回収に追い込まれたことも。ラブホテルの入口で「絶対イヤ」と抗い、観葉樹を引き抜いた女性が、翌朝見ると自前の歯ブラシとパンティーを持参していたことがありました。只今の女房どのも、結婚前は「おならの仕方がわからない」と頬を染めていましたが、出産後は茶の間で耳を突く程の轟音放屁で何食わぬ顔、です。斯くの如き女性の嘘にはホトホト酷い目に遭い、恐怖と口惜しさを抱いている身では、松本人志氏の休業が何とも痛ましく感じてなりません。


村西とおる(むらにし・とおる) AV監督。本名は草野博美。1948年、福島県生まれ。高校卒業後に上京し、水商売や英会話教材のセールスマン等を経て裏本の制作・販売を展開。1984年からAV監督に転身。これまで3000本の作品を世に送り出し、“昭和最後のエロ事師”を自任。著書に『村西とおるの閻魔帳 “人生は喜ばせごっこ”でございます。』(コスモの本)・『村西とおる監督の“大人の相談室”』(サプライズBOOK)等。


キャプチャ  2024年2月1日号掲載

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体

【ミズグチケンジの「今日も地球のどこかから」】(10) ムイアンバ(ガボン)――生き物とは思えない身体能力と想像もできない生命の力

20240131 07
「アフリカだ!」――初めてその地を踏んだ時、何度もそう言った。アフリカでしか見られない、感じられない、人も動物も空気も匂いも。ファインダーの中にいるペリカンの目には、僕が写っている。カメラの焦点距離を変えようと左手を動かせば、彼らが一斉に羽ばたく為の動作をする。しかも何千羽が同時に、だ。ペリカンが群れる。ざわざわと群れている。4000羽もの大型鳥が飛び、水面を泳ぎ、捕食する。営巣し、卵を産み、幼鳥を育てる為に密集する地を訪れた。いや、偶然にそこへ辿り着いたのだ。その驚きで足の裏が痺れて感覚がなくなったようになり、そこから両足を通って内蔵から背筋、そして頭頂の脳まで何度も通電したような感覚に陥る。何度もスワッスワッというのを繰り返し、電気が流れているような痺れる感覚。まさに圧倒的な野性。勢いある生命感。ペリカンってこんなに大きいんだ! 体長は1.5m程、広げた翼はその倍の3mもある。生息地で実物を見ると迫力が違う。オンサ(※豹)に出会ってしまった時も当然ながら、動物園で見ているのとは全く違った。そりゃそうだ、“喰われる”状態に陥っているわけだから。動物の生命力の強さや凄さを肌で感じると、人間は自分の命の存在を確かめようとする。あのペリカンも生きている。僕も生きている。同じように心臓が動き、血を体の隅々まで通わせている。食べて胃が膨らみ、眠り、つがいとなり、子を育てる。彼らは幼鳥を育て、長距離を飛べるようになると、パキスタンやインドまで飛んで行くのだという。己の肉体だけで飛ぶ。想像ができない。このペリカンは果たしてどれだけの距離を飛ぶのだろう。何日、旅をするのだろう。何を見るのか。今、何を考えているのだろうか。知っているつもりで、知らなかったことだらけ。知ることができるペリカンのサイズと迫力、でも彼らが旅で見る景色を僕らが見ることはないだろう。どんな空を、海を、森を見ているのか、これからも知ることはできない。でも、だからロマンがあると思うんだ。ではまた! 来月手紙を書くね。


ミズグチケンジ(水口謙二) 写真家・『ジェットスロウ』代表。雑誌編集者として、2003~2010年、『ルアーマガジン』・『ルアーマガジンソルト』・『ルアーマガジンリバー』・『磯釣りスペシャル』・『ちぬ倶楽部』等の定期刊行物の編集長を務める。多くのムック誌と映像作品をプロデュースし、2011年3月に独立。


キャプチャ  2023年7月号掲載

テーマ : アフリカ
ジャンル : 海外情報

【裏金・悪弊の果て】(02) 還流依存、安倍派に脈々

https://www.yomiuri.co.jp/national/20240121-OYT1T50015/


キャプチャ  2024年1月21日付掲載

テーマ : 政治のニュース
ジャンル : ニュース

【裏金・悪弊の果て】(01) 首相、全派閥解散へ賭け

https://www.yomiuri.co.jp/politics/20240120-OYT1T50065/


キャプチャ  2024年1月20日付掲載

テーマ : 政治のニュース
ジャンル : ニュース

【能登地震の現場から】(下) 高齢者、動けず孤立



20240131 04
「毎日が不安で怖くて仕方なかった。自衛隊員の姿を見た時は涙が出た」。石川県輪島市小池町の干場静雄さん(82)、光江さん(82)の夫婦は、市街へ通じる道を塞がれた集落で、10日間以上も動けずにいた。蛇口から水は出ず、電気も止まり、冷凍庫の食材は全部だめになった。寒さに耐えられない時だけストーブを焚いたが、灯油も僅かしかない。携帯電話も繋がらず、「頭がどうにかなりそうだった」。50人程の集落の住民は大半が70~80代。地滑りも起きていた山中を歩いて下りることなどできなかった。自衛隊員が運んできてくれる救援物資が命綱だった。元日の地震で、能登半島北部の奥能登地方では道路網が寸断され、山間に孤立集落が続出した。石川県が市町等を通じて把握した分だけで、その数は最大24地区3345人に上った。平地が少なく、海沿いを走る幹線道路の直ぐ傍に山が迫る。その道路や集落に繋がる道で崩落等が相次ぎ、山間の集落は軒並み“陸の孤島”と化した。車の走行ルートを確保する為の道路の応急工事に加え、自衛隊等のヘリコプターによる住民の救出活動が進み、孤立集落は昨日現在、輪島市、珠洲市、能登町の計8地区143人になった。ただ、道路が開通しても直ぐには自力避難ができない高齢者もおり、余震の恐怖に震えている。穴水町を含めた奥能登2市2町は、若者の流出による人口減少が止まらず、珠洲市では、2000年に33.2%だった高齢化率(※人口に占める65歳以上の割合)が50%を超えた。災害弱者が増え、避難等を助ける現役世代が減る地域を大地震が直撃した。

津波の被害を受けた珠洲市の漁師・尾久庄造さん(62)は地震直後、家を飛び出したところで、うろたえていた高齢者らを見つけた。軽トラックの荷台に3人を乗せ、高台に避難した。市内では80代の男性らが津波で亡くなっている。「若い人が沢山いれば…」。県の災害危機管理アドバイザーを務める神戸大学の室崎益輝名誉教授(※防災計画)は、「能登の地震は、過疎と高齢化が進む他の地域にも課題を突きつけている」と指摘。「避難支援に加え、初動時の医療支援で高齢者の健康をどう守るか等、国や自治体は早急に検討するべきだ」と語った。能登半島地震で甚大な被害が出た石川県では、昨日現在も1万6000人超が避難所にいる。連日の冷え込みに、断水の長期化による衛生環境の悪化が重なり、新型コロナウイルス等感染症が広がりつつある。能登町の避難所・松波中学校は、身を寄せる約150人の7割が65歳以上の高齢者だ。12日には男女約10人の発熱患者が教室で毛布に包まり、ぐったりした様子で横になっていた。近くの病院は医療機器が壊れ、職員も被災した為、外来診療を休止した。「感染が広がっても打つ手がない」。町の担当者は頭を抱える。10日には、この中学校に避難していた、心臓に持病のある男性(86)が急性心不全で亡くなった。家族によると、体育館の床に敷かれたマットの上で寝泊まりしていたが、日に日に元気がなくなり、食欲も落ちていったという。町は、避難生活に伴う体調悪化等で死亡する“災害関連死”として県に報告した。避難所の高齢者らが口々に訴えるのが寒さだ。「夜の底冷えが堪える」「上着を何枚も重ね着して何とか凌いでいる」。電気が復旧しておらず、数台の灯油ストーブでは足りない。奥能登には地震発生直後から全国の医療従事者らが駆けつけ、被災者の診療や救急搬送、健康相談にあたっている。だが、過酷な生活環境は低体温症や感染症に限らず、様々な健康被害のリスクを高める。避難所で医療支援を続ける国際医療NGO『AMDA』(※本部は岡山市)の鈴記好博医師は、「今後も災害関連死が起きかねない」と警鐘を鳴らす。鈴記医師は、「被災直後は興奮状態だが、2週間を過ぎると疲れがピークに達し、肩が凝ったり眠れなくなったりする。先々の不安も増していく」と避難者の現状を語る。『日本歯科医師会』は週内にも、被災者の口腔ケアにあたるチームを全国から現地へ派遣する。飲み込む力が弱くなった高齢者に起こり易い誤嚥性肺炎を防ぐ為だ。同じ姿勢を長く続けることや、脱水が招くエコノミークラス症候群等の循環器疾患の対策も急がれる。

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テーマ : 地震・天災・自然災害
ジャンル : ニュース

【能登地震の現場から】(中) 海底活断層、警戒薄く



20240131 03
今月1日午後4時10分頃の地震で能登半島が激しい揺れに襲われた直後、石川県輪島市の漁師・萬正俊介さん(39)は、津波が来る前に輪島港の漁船を沖に出そうと、船のエンジンをかけた。しかし、動かせない。M7.6の地震の凄まじいエネルギーで、十分な水深があった筈の海の地盤が隆起し、船が座礁したのだ(※左画像は鹿磯漁港の様子。撮影/木田諒一朗)。最大4mに上った隆起で、半島北西部の風景は一変した。萬正さんは、「今月末からノドグロ等の底引き網漁が盛んになる筈だったが、全く先が見通せない」と途方に暮れた。1日の本震後も、同日中に余震が360回近く発生した。日本海側の海底活断層を長年調査してきた東京大学の篠原雅尚教授は、テレビを前に唸った。地震の発生状況から、海底の岩盤がずれた範囲が長さ150㎞に及ぶことは明らかだったからだ。「これほどの規模で活断層が連動するのは、完全に想定外だった」。今回の地震は異例の経過を辿った。半島では2020年12月から地震活動が活発化し、震度1以上の地震は昨年末までに500回以上起きた。昨年5月にはM6.5の地震が起き、半島先端部は最大震度6強に見舞われた。地震はその後、減り始め、「収束に向かうか」「大地震に引き続き警戒を」との相反する見方が交錯したまま、「能登地方では数千年に一度」と専門家が見る大地震が襲った。メカニズムも特殊だ。一帯の地下には水のような流体が大量に存在。これが潤滑油のような働きをして、地中に潜む岩盤の割れ目を滑り易くさせ、群発地震を誘発したとみられる。相次ぐ地震が、北岸の海底活断層を刺激して岩盤を破壊させた可能性がある。

内陸直下で地震を引き起こして大きな被害を齎す活断層の調査は、阪神淡路大震災(※1995年)を契機に本格的に始まった。政府の地震調査研究推進本部(※地震本部)は、列島の114主要活断層について、想定される地震の規模や30年以内の発生確率等を公表している。ただ、海底活断層の調査は途上で、能登半島沖は未評価だった。海底の調査は、船上から音波を発して地形をくまなく調べたり、堆積物を採取したりと、手間とコストがかかる為だ。評価が公表済みなのは、九州から中国地方にかけた一部地域にとどまる。海底活断層を十分に考慮してこなかった為、能登半島の地震リスクは、巨大海溝型地震の発生を見込む太平洋側等に比べ、低く受け止められて油断が生じた可能性もある。地震本部の地震調査委員会で昨日、能登半島地震の発生メカニズムについて議論が交わされた。会議終了後、委員長である東京大学の平田直名誉教授は、「大地震が起きる可能性があるというメッセージが伝わらなかったとすれば残念。もっとわかり易く伝えるべきだった」と悔やんだ。今回の能登半島地震では、石川県や奥能登の自治体にとって想定外が積み重なり、被害の拡大に繋がった。「2025年度の策定に向け、被害想定の見直しを行なっている最中だった」。石川県の飯田重則危機管理監はそう話す。半島は約3年前から群発地震が続き、対応を迫られていた時にM7.6の地震が起きた。県の地域防災計画では、福井県境付近、金沢市を含む加賀平野等、震源域毎に地震を4パターンに分け、其々被害規模を想定している。そのうちの一つに、M7を想定した“能登半島北方沖の地震”がある。今回の能登半島地震と重なるものだ。1997年度に作られた被害想定は、比較的大きな被害が生じるとされる“冬の夕方”の発生を前提にしている。被災中心域は輪島市、珠洲市で、予想される災害の概況は、両市と能登町、穴水町の2市2町を範囲とする「ごく局所的な災害で、災害度は低い」。被害予測は、全体で死者7人、避難者数2781人、建物の全壊は120棟。実際は、死者222人、避難者は一時3万人を超えた。県が事前に策定していた被害想定は、これよりもずっと軽微な内容だったことになる。今回の地震の発生時間は、午後4時10分頃。“冬の夕方”の想定通りだった。想定外だったのは、滞在者の増加が見込まれる元日に発生したことだ。「おせち料理を食べようと、食卓に並べている時だった」。輪島市河井町の長岡正容さん(72)は、自宅の階段が崩れる等の被害を受けた。この日は80代後半の母親と近くの中学校に身を寄せ、9日には県内の旅館へ二次避難した。「この後、どうすればいいのか」。長岡さんは悲嘆に暮れた。震源に近い輪島、珠洲、能登の3市町には地震発生時、年末年始の帰省や観光で、通常の休日より3割多い人が滞在していたとみられる。

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テーマ : 地震・天災・自然災害
ジャンル : ニュース

【水曜スペシャル】(703) 学徒出陣から80年、きけ“上原家の戦争”…「靖国行かぬ」と誓って散った兄

1943年10月21日に明治神宮外苑競技場(※後の国立競技場)で開かれた『出陣学徒壮行会』から80年を迎えた。凡そ10万人とされる出征学徒の中で、広く知られているのは上原良司さんだろう。“自由主義者”を自認しながら航空特攻で戦死。戦没者の遺稿集『きけ わだつみのこえ』に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」等と記した遺書が掲載され、読み継がれてきた。だが、良司さんが家族に「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことは、あまり知られていない。5人きょうだいの末っ子で次女の登志江さん(93)に、“上原家の戦争”を振り返ってもらった。 (取材・文/東京本社学芸部専門記者 栗原俊雄)



20240131 01
「はっきり覚えているのが嫌なんですよ。悲しいというか…。あまり考えないように、自分の頭の中ではずっと暈しながら生きてきました」。今年9月。千葉県内の自宅で登志江さんは記者にそう話しつつも、亡くなった3人の兄達や残された家族のことを語り始めてくれた。良司さんは長野県七貴村(※現在の池田町)で、開業医だった父・上原寅太郎さんと母・与志江さんの3男2女の三男として生まれた。この時代の家庭には珍しく、上原家には膨大な量のスナップ写真が残っている。例えば、中国に軍医として出征していた父の寅太郎さんに送る為、1938年春に安曇野で撮られた写真。長男の良春さん、次男の龍男さん、三男の良司さんに長女の清子さん、登志江さんの5人が其々紙を持ち、〈父・サン・頑・張・レ!!〉と励ますものだ(※右画像、登志江さん提供)。「2番目の兄がアイデアマンで。優しくて、面白いことを色々考えていました」。登志江さんはそう振り返る。こうした写真群からは、豊かで幸福だった家族の生活が伝わってくる。長男の良春さん、次男の龍男さんは慶應義塾大学医学部に進み、良司さんは同大経済学部に進学した。龍男さんは子供好きで、夏休みに帰省した時等に近所の子供達を集めて幻灯の上映会をしたり、庭で“お化けごっこ”をしたりした。良司さんは「ハーモニカが好きで、よく吹いていました。航空機のグラビア写真を見せてくれて、『これは凄いんだよ』等と話していました」。良司さんと登志江さんが一緒に本を読む写真が残っている。平和な生活だった。しかし、日本は戦争を続けていた。1937年に始まった日中戦争に続き、1941年12月には米英等との戦争も始めた。龍男さんは海軍軍医となった。

「絶対沈まない、凄い潜水艦に乗っている」。帰省した時、登志江さんにそう話していたという。だが、既に日本の潜水艦はアメリカ軍に次々と撃沈されていた。そのことを知っていながら、家族を安心させようとしたのだろうか。龍男さんが乗艦していた潜水艦『伊182』は1943年10月22日、南太平洋のニューヘブリデス諸島方面でアメリカ軍に撃沈され、龍男さんは戦死した。当初、大学等高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが、戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集された。学徒出陣だ。龍男さんの死の前日である21日。明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれ、約2万5000人が参加。雨空の下、銃を担いだ学生達が行進する映像が残っている。12月、学徒達は陸海軍に其々入った。良司さんは陸軍に入り、飛行訓練を積んだ。登志江さんは、「航空隊に入って、凄いんだと誇りに思っていました。それがどういうことに繋がるか等は考えませんでした」と振り返る。過剰な精神主義、個人の自由より国家、組織の秩序が優先。理不尽な指導や体罰が罷り通る軍での生活は、良司さんが信条とした自由とは程遠い環境だった。しばしば上官と衝突した。例えば『修養反省録』。良司さんらが訓練の内容や考えたこと等を書き、教官が返事を書くものだ。1944年6月27日、良司さんは「汝、宜しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」等と記している。教官に「貴男は人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。階級社会で上官の命令は絶対という軍隊にあっては、極めて異例であった。これを受けて、教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為すべきことをなせ。学生根性を去れ!」等と書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。1944年、登志江さんは母と共に、館林教育隊(※群馬県)に所属していた良司さんの面会に行った。刀を下げた軍人が言った。「今日は会わせることはできません」。登志江さんは、「理由は説明されませんでした。とりつくしまもなかったですね。今思うと、上官の反感をかっていたからかもしれません」と想像する。「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるかわかっていた。それでも上原君は黙っていなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。1945年4月。良司さんが最後の帰省をした。登志江さんと手伝いの人らを交えて夕食を食べていた時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは、「日本は強い、絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから」。だから、兄の思いもしない“日本必敗”の発言に、「びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかと覗いたのを記憶しています」。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

【火曜特集】(705) ダライ・ラマの後継者選定で高まる対立…中国共産党はチベット問題を永遠に抱えたいのか、解決したいのか?



20240130 06
今年7月のある雨の降る木曜日の朝、インド北部ダラムサラの『ナムギャル僧院』には何千人もの人々が集まった。チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世の88歳の誕生日を祝う為だ。大勢の観衆を前に、ダライ・ラマは「私は今後何十年も人道に尽くすつもりです」と述べた。未だ歯を一本も失っておらず、何でも食べられると冗談めかし、「皆さんも私の長寿を祈って下さい」と訴えた。しかし、その裏では、チベット亡命政府と中国指導部の双方が、既にダライ・ラマ逝去に向けた準備を進めている。その死は、国際政治における極めて大きな対立の火種となる可能性がある。各代のダライ・ラマが亡くなると、その生まれ変わりを“発見”し、後継者に任命するという方法が取られてきた。14世の死後、その選定をどちらがやるのか、今後争いが起きる可能性がある。また、この対立はインドやアメリカも巻き込むかもしれない。亡命チベット社会の政治指導者達は、「後継者選定プロセスは宗教的な枠組みを持ち、全てダライ・ラマの統制下にある」と言う。特定の非常に熟達したラマ(※師僧)は輪廻転生し、“化身”に生まれ変わると信じられている。「生まれ変わるのはダライ・ラマ法王だからです」と、インドに本部を置くチベット亡命政府のシキョン(※政治最高指導者)であるペンパ・ツェリン首相は述べる。「ですので、転生者を探すのは、ご本人からそう任された人々や機関です。どこで生まれ変わるのか、法王が明確なサインを残すかもしれません」。同時に、亡命チベット政府はダライ・ラマ逝去に伴うロジスティクスや、その他の手配の準備を始めているそうだ。若し彼がダラムサラで亡くなった場合、国際社会とどうコミュニケーションをとるか、また同地を訪れる大勢の外国人をどのように受け入れるか、等だ。

「世界中の他の政府と同様に、行政として、いつそのような事態が起こっても対応できるよう、プロトコルを作成する必要があります」とツェリンは話す。一方で中国は、嘗て清朝最後の皇帝がそうであったように、「この人事の最終決定権は我々にある」と主張している。亡命チベット人や海外の専門家によると、中国も独自に選考プロセスの準備を進めているという。それは1995年、チベット仏教第二の高僧であるパンチェン・ラマを中国が任命した時と似たものになるかもしれない。亡命者達によると、中国の任命したラマはチベット人の殆どが認めていない。この後継者問題は、中国とインドの間の新たな対立の火種になり得る。ダライ・ラマが1959年に亡命したインドは、中国と国境を巡って長い間対立してきた。また、米中関係も更に緊張するだろう。2020年に超党派の支持を得て可決された『チベット政策支援法』は、ダライ・ラマ14世を含むチベットの指導者選出に干渉する中国当局者に制裁を科すものだ。昨年12月、アメリカ政府は2人の中国の役人に対し、チベットにおける“深刻な人権侵害”の疑いで制裁を科した。中国共産党にとって、スムーズに後継者を選定することは極めて重要である。約700万人のチベット人を政治的に支配するだけでなく、最も不安定な国境の安定を確保する為だ。チベット自治区は少数民族居住地区として、中国の法律下で、名目上は教育や言語等の分野における独立が保証されている。中国政府は「我々は同地域に多大な発展と観光業を齎した」と主張してきた。しかし、実際には非常に厳しい支配があったと批判されている。1980年代には戒厳令が敷かれ、厳しい検閲、宗教指導の統制、反体制派の逮捕が続いた。中国共産党は1950年以降、それまで独立国だったチベットを経済的後進国と封建的農奴制から“解放”したと語ってきた。若しチベットの後継者選定プロセスが面倒な問題になったり、ダライ・ラマ15世が共産党の支持者でなかったりすれば、そのような歴史観の維持は難しいだろう。「ダライ・ラマが2人選ばれた場合、チベットの人々がどう反応するかにかかっています。共産党は最終的にチベット人を説得できるのでしょうか。彼らは、これまであまりチベットの人々に相談してきませんでした」と、上海ニューヨーク大学のタンセン・セーン教授(※歴史学)は指摘する。ダライ・ラマ14世は、13世の死から4年後の1937年、現在の青海省にあるタクツァーの農村で発見された。輪生したラマがどこにいるかは、高僧が見る幻影等、儀式によって大まかに特定される。亡くなったラマの信奉者達は特定の子供達を訪ね、その子が彼らに引き寄せられているか、或いは故人の持ち物に詳しいかを確認する。「通常、ラマが亡くなると、その信者達が捜索隊を結成し、様々な場所に行って、その年頃の子供を探します。そして、その家族に何か特別なこと、変わったことがなかったかどうか等を尋ねるのです」。そう説明するのは、ダラムサラにある『チベット図書資料館』館長を務める僧侶のラクドルだ。

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テーマ : 中国問題
ジャンル : 政治・経済

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