【本当は怖い戦国時代】(08) 姫路城の天守閣に隠れ住む刑部姫の怪異伝説

世界遺産にも登録されている姫路城は、歴史が古いだけに怪異伝説も数多い。興国7(1346)年に赤松貞範によって築城され、軈て関ヶ原の戦いに功のあった池田輝政が、現在知られる姫路城にした。その天守には、姫路城が建つ姫山にあった『刑部神社』の祭神・刑部姫(※長壁姫ともいう)が隠れ住んでおり、年に一度だけ城主と会い、城の運命を告げていたという。刑部姫の正体は、歳とった狐とも、井上内親王の子供、伏見天皇が寵愛した女房等、色んな説がある。しかし、何の因果か池田輝政が城主となって以来、姫路城は呪われ始める。夜半の子の刻になると、太鼓の音が鳴り響き、度々悪鬼が目撃された。更に、台所の大釜の上に切り取られた腕が発見されたり、ある家臣は白昼、傘を差して歩いているところ、突然、空中に引き上がられた。そして、約3mもあろうかという毛むくじゃらの腕に掴まれ、投げつけられ、悶絶死した。また、女中が何人も行方不明になったり、巨大な坊主が城で寝ている者たちの枕元に立つという噂が上がる等、9年の歳月をかけた巨大な城だけに、築城に駆り出された地元民の苦しみは、城の怪異譚に向かった。広い城内は暗がりが多く、幽霊話を生み易かったのだろう。刑部姫が隠れ住んでいるのは人間を嫌っている為であり、江戸時代の怪談集『諸国百物語』によれば、天主閣で藩主・池田輝政の病気平癒の為、加持祈橋をしていた比叡山の阿闍梨(※高貴な僧)の前に、30歳程の妖しい女が現われ、退散を命じた。
逆に阿闍梨が叱咤するや、身の丈2丈(※約6m)もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えたという。その為もあってか、池田家は城内に刑部神社を建立し、刑部大神を移した。しかし、それでも怪異は治まらず、輝政は慶長18(1613)年、御殿の周りを多数の鳥が飛び交い、突き当たったりするという怪異が起こる中、脳卒中になり、手当ての甲斐なく、息を引き取っている。刑部姫と宮本武蔵の話もある。武蔵は武者修行の旅の途上で、“宮本七之介”の名で、足軽として姫路城主の木下勝俊に仕えていたという。その頃、小刑部大明神を祀っていた姫路城の天守閣で、怪異が相次いでいた。夜番を命じられた武蔵が、灯りを手に天守閣に上がろうとすると、轟音が響く。無視してなおも五重目へと上がり、明け方まで過ごすと、小刑部大明神の神霊を名乗る女性が現れた。女性は「ここに巣食っていた齢数100年の古狐が、武蔵に恐れをなして逃げ出した」と告げ、武蔵に褒美として銘刀『郷義弘』を授けた。だが、これは女性に化けた狐の罠だった。郷義弘は豊臣秀吉から拝領した木下家の家宝であり、狐は武蔵に罪を着せて城から追い出そうとしたのである。狐の目論みは上手くいかず、武蔵は罪に問われなかった。狐はその後、中山金吾という少年に化けて武蔵に弟子入りしたところを、見破られて退治される。しかし、木下勝俊は実在したが、姫路城主にはなっていない。武蔵は、池田の後に城主となった本多忠政とは交流があり、姫路城の普請には貢献している。姫路城には、番町皿屋敷伝説で有名なお菊が投げ込まれたという井戸もある。約450年前の室町時代中期、姫路城執権の青山鉄山は、城を乗っ取ろうと、城主を増位山の花見の宴で毒殺しようと企てたが、スパイとして入り込んでいたお菊に気付かれてしまう。それを知った鉄山の配下の町坪段四朗によってお菊は責め殺され、預かっていた皿を割られて井戸に投げ込まれる。その後、井戸の中から「1枚、2枚…」と悲しげに皿を数えるお菊の声が聞こえるようになるのだ。

