【戦後80年×昭和百年】第2部・戦火(中) 特攻、心の疼き今も
【戦後80年×昭和百年】第2部・戦火(上) 痩せた頬、玉砕の現実
【満韓あちらこちら】(16) 嘗て旅順工科大生だった私…読者からの便り

嘗てそこに暮らし、学校で学んだ、懐かしい満州の地…。ところが、メディアで語られるのは、終戦前後にソビエト連邦軍(※当時)の侵攻によって辛酸を舐めさせられた苦しく、つらい体験ばかり。何故か、って? 満州での生活は「豊かで、進んでいて(※内地よりも!)、楽しかった」と語ることはタブー視され、多くのメディアが自ら“封印”してきたからだ。戦後78年経っても、その姿勢は変わらない(※勿論、ソ連の非道ぶりも決して忘れちゃならない!)。
満州出身者は“侵略者(?)の子供”等という理不尽な指弾に心を痛め、就職や結婚で故なき差別に苦しめられた人もいる。唯一、同じ体験をした人達の集まりである学校の同窓会や街の会(※大連会や長春会等)で満州唱歌や校歌を歌い、思い出話に興じるしかない。だが、年々会員の高齢化が進み、今やそうした会の殆どが解散を余儀なくされてしまった。
じゃあ、どうする? 「産経新聞があるじゃないか!」と思って下さったのかもしれない。この連載宛てに、多くの満州や日本統治時代の朝鮮半島の関係者の方々から、貴重な写真や資料を添えたお手紙が届く。そして“満州の真実”を書き、次代へ伝えてほしい…。そんな熱く、切ない願いを感じるのだ。
大阪府泉南市の城野伊一郎(97)は昭和20年の終戦時、旅順工科大学(※当時、日本の租借地だった関東州にあった旧制大)の予科2年生。本連載第10回を読んで、思い出を綴った文や同窓会の資料を送ってくれた。嘗て勤めた金融機関のOB会誌に寄せた文(※平成27年)を引こう。終戦前後、同大の混乱した様子が窺える。
〈…当時の満州は、食料も豊富にあり、空襲もなく市民生活は平穏で日本人は何不自由もなく暮らしていた。ところが、昭和20年8月9日、ソ連が突如、中立条約を破って参戦した…日本の関東軍は在満の成年男子を根こそぎ召集…市中は召集兵と見送りの家族で混乱した…1歳下の友人で戦死したり、シベリアに抑留された人も居た…〉。
城野は、8月15日の終戦の詔勅の放送を、予科学生寮(※興亜寮)の玄関で聞く。〈頭が真っ白になって、何を言われたか、はっきりとした記憶がない【中略】。(大学へ避難してきた)海軍の軍人は全員、着のみ着のままシベリアに連行された。終戦直後、進駐してきたソ連軍の兵隊はほとんど囚人兵と言われ、略奪、暴行を繰り返した【中略】学生寮もソ連軍の略奪にあい、金目のものはほとんど持ち去られた〉。
昭和20年9月、寮生はソ連軍から退去を命じられた。更に日本人は〈全員直ちに旅順退去を命じられ、徒歩か馬車で(隣の)大連まで移動した〉。ソ連軍政下の大連で日本人は苦しく、厳しい生活を強いられる。〈収入もなく、医者は勿論、薬もなく【中略】当時新聞もラジオ放送もなく、噂や断片的な情報に一喜一憂する毎日…日本人の生活は、困窮の頂点に達した…〉。
【満韓あちらこちら】(15) 満洲国に渡った司法家…“人治”を“法治”に変えた日本人

日本人が台湾や朝鮮、満州でやった“近代化”とは何か? 鉄道、道路、電力等のインフラや教育制度の整備、医療・衛生の充実、産業、農業の振興、治安の安定――。様々あれど、突き詰めれば“人治”から“法治”への転換に尽きるのではないか。“人治”とは、権力を握った者の恣意的な判断によって政治や司法、課税等が左右される国家や社会のことだ(※現代でもそんな国はある)。
わかり易い例を紹介しよう。東京地裁の判事から昭和9(1934)年、満洲国司法部に転じた前野茂が、張作霖(※日本が関与を強める前から満州地域を支配していた軍閥)時代の“司法の実態”について説明している。〈賄賂による裁判、要するに金がものを言う〉〈監獄を視察したんですが、廊下の隅に死骸の山〉(※『法曹』昭和45年5月号“あの人この人訪問記”から)。〈それをまともな裁判所に作りあげようというのですから、なかなか大変な仕事だったですよ〉。
前野は明治32(1899)年生まれ、東京帝国大学法学部を卒業して大正13年、司法官試補。満洲国では司法部次長(※日本の省庁の次官に相当)、文教部次長等を務めた。終戦後、中国共産党軍に拘束された後、シベリアで11年も抑留され、辛酸を舐めたことは前回も書いた通りである。前野が言う“大変な仕事”を語る前に、更に前の明治の時代、朝鮮や中国を視察した日本人司法家の記録を見てみよう。かの地の前近代的な“人治”の実態が当時の知識人の目にどう映っていたか? それがよくわかる。
満洲国参議府秘書局長として終戦前後、皇帝だった溥儀の逃避行に付き添った前澤忠成は、前野と司法官任官同期である。前澤の家系には父、母方とも法律家が多い。前澤の母方の祖父、加太邦憲(※1849-1929、右下画像、前澤弘成氏提供)は、明治政府がつくった司法省法学校の一期生。判事となり、大阪控訴院(※現在の高裁に相当)院長で退官した後は貴族院議員を務めた。
この幕末生まれの男の生涯は中々ドラマチックだ。会津藩等と共に“佐幕派最右翼”の一角を為す桑名藩の若き藩士として京都の警備に当たり、戊辰戦争(※1868~1869年)には幕府軍側として加わった。つまり“維新負け組”である。
薩長の藩閥政治が幅を利かす新政府で“負け組”が這い上がるには、プラスアルファ(※つまり運やコネ、勿論才能)が必要だ。例えば、台湾統治や満州経営の礎を築いた後藤新平(※1857-1929)は、医学・衛生の分野で実績を積んでチャンスを掴み、外地統治(※経営)を任されるポストを得る。
加太は洋学に活路を見いだし、日本の近代司法制度整備に携わってゆく。紹介したいのは、その加太の自叙伝である『自歴譜』の“支那・朝鮮旅行”の項だ。貴族院議員時代の明治45年6月から7月にかけて、加太は中国華中・華北から満州、日韓併合後の朝鮮半島を視察する。夏目漱石の満韓旅行の僅か3年後だが、日本が関わったかの地の発展は目覚ましい。漱石が蒸気船で渡った鴨緑江(※満州と朝鮮の国境)を、加太は日本の手によって完成した新鉄橋を鉄道で越えた。
【満韓あちらこちら】(14) 通化事件を危うく回避…満洲国官僚の脱出劇

昭和20年8月9日、ソビエト連邦(※当時)軍が『日ソ中立条約』を一方的に破って侵攻してくるまでの満州の暮らしは“楽園”に近い。空襲の恐怖に震え、モノが不足してゆく内地(=日本)に比べて、戦争の影は薄く、食料もあったから“安全な”満州を目指す疎開が盛んに行なわれたほどだ。
それが一転、地獄へと突き落とされてしまう。満州を守る関東軍は現地の根こそぎ動員でロートル兵までかき集めたが、碌な武器もない。敗色濃厚となると、日本軍は秘密裏に関東軍総司令部を満洲国の首都・新京から南部の通化へ下げることを決める。それを知らせなかったのは「軍の機密だから」と弁解されたところで、民間人が“置き去り”にされた事実は動かない。夥しい日本人の血が流された上、国際法を無視したシベリア抑留で辛酸を舐めさせられた。満州残留孤児の悲劇も然り。
満洲国政府と関東軍が退却拠点とした通化は山間の街である。終戦前後には満州各地から避難民が押し寄せ、日本人の数は約3万人に膨れ上がっていた。満洲国皇帝だった溥儀とその側近が新京から逃れてきた経緯は、前回書いた。ソ連軍は8月23日に通化へ入城、関東軍の部隊は武装解除される。満州各地では、中国の国民党軍と共産党軍(※八路軍)による主導権争い(※国共内戦)が激化し、通化ではソ連軍撤退後、共産党軍が覇権を握った。
ソ連軍進駐以降、通化に閉じ込められた日本人は苦境に立たされた。労働力として頻繁に徴用されるだけではない。暴行、略奪の恐怖に怯えながら、乏しい食料で命を繋ぎ、息を潜めるようにして、内地への引き揚げの日を待つしかなかった。旧満洲国官僚ら要人には身の危機が迫る。昭和20年秋頃から溥儀に付き添って通化へ来た日系官僚が相次いで拘束されてゆく。同国文教部次長(※日本政府の省庁次官に相当)だった前野茂の『生ける屍 ソ連獄窓十一年の記録』を参照したい。
11月中旬、奉天へ発つ溥儀一行を通化飛行場で見送った満系(※満や漢等)の通化省長と日系官僚計4人のうち、3人が共産党軍の留置場から連れ去られ、行方が消える。〈悲惨な運命はもはや確定的なもののように思われてならなかった〉(※同書から)。3人は処刑された、という見方が強い。
前野自身もまた11月末、共産党軍に捕らえられてシベリアの収容所へと送られた。そして、昭和31年に帰還するまで11年間の抑留生活を強いられてしまう。通化飛行場で溥儀を見送った4人のうち、唯一、拘束を免れたのは、新京から皇帝の逃避行に付き添った満洲国参議府秘書局長(※当時)、前澤忠成(※1899-1983。戦後に広島高裁長官)である。何故、前澤だけが無事だったのか?
前澤自身は〈私自身もいずれは自分がやられるだろうと覚悟はしていました〉(※『法曹』昭和46年5~8月号“あの人この人訪問記”から)と証言しているが、協力者の手引きによって間一髪、通化からの脱出に成功する。
【満韓あちらこちら】(13) 満洲国の崩壊…溥儀の逃避行に付き添った日本人

満洲国のことを書きたいと思う。昭和7(1932)年3月の建国から、昭和20年8月、日本の敗戦と共に終焉を迎えるまで約13年半。“五族協和”や“王道楽土”の高い理想を掲げたユートピアは、呆気なく崩れ去った。
清朝最後の皇帝から満洲国皇帝になった“ラストエンペラー”溥儀(※1906-1967、左画像の前列左)は、ソビエト連邦(※当時)軍の満州侵攻(※昭和20年8月9日)を聞いて13日、首都・新京(※現在の長春)を脱出する。溥儀は特別列車(※御召列車)で側近らと共に南の通化へ。更に朝鮮との国境に近い大栗子へと向かう。
“政権ごと”通化へ一旦下がり、総司令部を移すべく秘密裏に動いていた日本の関東軍と共に、再起を期すつもりだったらしい。だが、怒濤の如く南下を続けるソ連軍に対し、関東軍は主力を南方へと取られ、“張り子の虎”と化していた。追い詰められた溥儀は退位し、通化から飛行機で奉天(※現在の瀋陽)へ飛ぶ(※19日)。
だが、そこでソ連軍に拘束された。一行は奉天で大型機に乗り換え、日本を目指すつもりだったとされるが、予定の飛行ルートが変更される等、不可解な点も多い。今回の物語は、溥儀の逃避行に同行し、見送った日本人の話である。満洲国の参議府秘書局長、前澤忠成(※1899-1983、右下画像、前澤弘成氏提供)は、新京から通化へ向かう溥儀の御召列車に同乗した日本人官僚である。
判事出身の前澤は昭和19年1月に満洲国へ転出して、最高法院廷長審判官(※部長判事に相当)に就任。終戦間際には参議府秘書局長になっていた。参議府は皇帝の諮問機関で前澤によれば、秘書局長は〈(当時の日本の)「枢密院書記官長」にあたる〉(※『法曹』昭和46年5~8月号“あの人この人訪問記”から)。
皇帝に近い日本人の一人だったことは間違いない。前澤は〈(御召列車は)殆ど満系(※満・漢等)大官ばかりで…何とはなしに私が輸送指揮官みたいなことになってしまった〉とし、〈列車は…ノロノロガタガタして通化に着き、さらに臨江、大栗子に向ったのです〉(※同)と振り返っている。
溥儀の自伝『わが半生』も見てみよう。〈(新京から)通化を経て大栗子溝に通じる鉄道を、汽車は2日3晩走った〉〈8月13日にここ(※大栗子)に着き、恐慌と不安の2日間を過ごす…〉。事態は緊迫の度を増していた。ところで、皇帝一行は何故、通化から奥地の大栗子へ行くことになったのか? やはり満洲国の日本人官僚(※宮内府内務処長)だった岡本武徳の『青い焔 満州帝国滅亡記』に、その記述がある。