【昭和&平成芸能スクープの裏側】(32) “昭和のスキャンダル女王”石川さゆり――日本中が涙する歌声、その裏に黒いカネがちらついた
昭和の歌謡史に残る『津軽海峡・冬景色』や『天城越え』等が大ヒット。『紅白歌合戦』(※NHK総合テレビ)の顔になったり、女優として大河ドラマ『麒麟がくる』(※同)にも出演し、芸能界の第一線を走り続ける歌手の石川さゆり。だが、そんな“演歌の女王”にも知られざる裏の顔がある。
「石川は高齢者だけではなく、女性ファンからも愛されていますが、過去にバブル実業家の愛人疑惑が浮上したり、巨額詐欺事件で逮捕された男が代表を務めていた会社の広告塔疑惑が噴出したりと、スキャンダラスな話には事欠きません。業界では“昭和のスキャンダル女王”との異名もあります」(音楽事務所幹部)。
石川は15歳だった1973年に当時、新興プロダクションだった『ホリプロ』から『かくれんぼ』で演歌歌手としてデビュー。アイドル的なルックスで話題となったが、既に同じ事務所からデビューしていた山口百恵と森昌子の陰に隠れて、存在感は薄かった。そんな劣等感もあってか、その後は徹底したレッスンを受け、1977年、遂に『津軽海峡・冬景色』で大ヒットを飛ばし、人気歌手の仲間入りを果たした。
ところが、その頃から事務所との関係に亀裂が兆していた。「ヒットで安定した人気を得た石川は1981年、マネージャーを務めていた馬場憲治氏と電撃結婚したのですが、その渦中に騒動が起きた。結婚式に、ホリプロの創業者で“石川の芸能界の育ての親”と言われた堀威夫会長を招待しなかったのです。報道では、人気歌手に手を出すというタブーを犯した馬場氏と堀会長のトラブルと言われましたが、百恵と森を可愛がっていた堀会長への石川の嫉妬という説もあったのです」(当時を知る元女性誌記者)。
そんな状況を押し切って結婚した石川だが、その後はスキャンダルが相次いだ。長女の佐保里を授かるも、馬場氏と石川の親族との折り合いが悪化し、当初は否定していたものの、その後離婚。その際に「事務所からも独立するのでは?」と注目が集まったが、思いとどまっている。その裏には、当時、バブル紳士と呼ばれた種子田益夫という男の存在があったとも言われた。
種子田氏は宮崎県で養豚場を経営していたが、暴力団金融の手形のパクリ被害に遭って宮崎を追われた。ところがその後、宮崎に戻って来た時に種子田氏は逆に“手形のパクリ屋”に変身。病院やゴルフ場乗っ取りで一躍悪名を馳せ、地銀やマスコミ関係者にまで恐れられる存在になった。
「悪名を轟かせた種子田氏は、ある時、地元でパーティーを主催しました。そこには東京から石川さゆりだけでなく、大物歌手の島倉千代子らも招待されたのですが、島倉が歌を披露したのに石川は歌わず、種子田氏の隣で愛人然として座っていたのです」。