2016年5月、『6代目山口組』と『神戸山口組』の“和解交渉”が密かに進められようとしていた。交渉は何故、決裂したのか? “六神抗争”の行方を左右する神戸山口組の“切り込み隊長”織田絆誠若頭代行が、6代目山口組『清水一家』の高木康男総長との交渉の経緯を具に語った! (聞き手・構成/フリージャーナリスト 西岡研介)「初めてお会いする方に、こんな言い方は不躾かもしれませんが、我々、日陰のヤクザ者です。本来なら、こういうマスコミに対してお話をすることは、私としては正直、不本意なところもあります。しかしながら、この度は組織人として、上司から命を受けて、神戸山口組の名誉の為にお話しさせて頂くということだけ、ご承知おき下さい」――。初対面の挨拶を交わすと、神戸山口組の織田絆誠若頭代行は先ず、こう断りを入れてから席に着いた。織田代行は1966年、大阪府生まれの49歳。初代『倉本組』を経て、2002年に『4代目健竜会』(井上邦雄会長、現『神戸山口組』組長)入り。井上組長が『4代目山健組』を継承した後は、同組で若頭補佐等を務めた。そして、2015年8月27日の『山口組』分裂、『神戸山口組』の結成後の9月5日、同組の直参に昇格すると共に、若頭補佐に就任。同月24日には若頭代行に就くと共に、4代目山健組の副組長に就任した。若頭補佐就任と同時に織田代行は、『弘道会』の本拠地である名古屋を始め、北は北海道から南は九州まで全国を行脚し、神戸山口組の傘下団体を激励すると共に、6代目山口組系組織に対する示威行動を展開。これらの織田代行の行動が、各地で傘下団体同士の緊張関係を生み、衝突を引き起こしたことから、実話誌でなく、大手紙や民放テレビ等のマスコミから“抗争の行方を左右するキーマン”として注目を集めた。この為、筆者は半年以上前から、複数の神戸山口組最高幹部を通じて織田代行にインタビューを申し込んでいた。が、当の織田代行自身がメディアの取材に応じることを嫌っていた為、色よい返事は貰えなかった。更に、『伊勢志摩サミット』(2016年5月26~27日)前に、双方の山口組関係者や捜査関係者の間で取り沙汰された“幻の和解交渉”(※後述)でも、当事者の1人としてその名前が挙がったことから、筆者は再度、様々なルートを通じて織田代行にインタビューを申し込んだが、実現は叶わなかった。だが、7月に入ってから“潮目”が変わった。きっかけは、同月5日に発売された『扶桑社』発行の『週刊SPA!』7月12日号に掲載された、このような見出しの記事だった。『山口組総本部が異例のコメント発表! “ヤクザジャーナリズム”の功罪』(取材・フリーライター 根本直樹/文・SPA!編集部)。記事は、6代目山口組の“2次団体幹部”、或いは“総本部”の話として、ヤクザジャーナリズムの第一人者である溝口敦氏を批判することに主眼が置かれていたが、その前段として、“幻の和解交渉”について次のように記されていた。少々長くなるが、本稿の前提になるので引用しよう。
これまで、和平の道がなかったわけではない。射殺事件が起きる前に両団体の幹部同士が顔を合わせて交渉する席が設けられたという話が漏れ伝わった。6代目山口組側からは高木康男・清水一家総長、神戸山口組からは織田絆誠・若頭代行が出席し、落としどころを話し合ったとされる。この会談について、2次団体幹部が語る。「山健組の若頭補佐の1人が清水一家の重鎮に『高木総長にご相談があります』と連絡を入れたのが発端だった。『織田と会っていただけないか』との申し出に、全権を委任された立場で来るなら話を聞こう、と会ったのは事実。ただし、いざ会ってみると何の権限も持たず、『どうすれば(山口組に)戻れますか』と聞いてくる。6代目山口組としては『ポツダム宣言なら受け入れる。若い者は救えても絶縁者は救えるわけがないだろ』と蹴って終わった」。噂は瞬く間に広まった。ただし、巷に流布されたのは、極端に歪曲されたものだという。「そんな経緯が織田にかかると、『親分(神戸山口組の井上邦雄組長)の若頭での復帰案を司6代目が呑み、総裁職に退くことになった。ところが獄中にいる髙山若頭が拒絶して破談になった』というフィクションにすり替わる。さも事実であるかのように吹聴するので、始末に悪い」。
そして、記事は「神戸山口組サイドのキーマンとして挙げられる織田若頭代行だが、2次団体幹部の心証は極めて悪い」等と、織田代行に対する個人攻撃を展開していくのだ。が、この“2次団体幹部”が語ったとされる和解交渉の内容は、筆者が6代目山口組・神戸山口組双方の関係者から聞いたそれとは、全く違っていた。そこで、筆者は三度、前述の神戸山口組最高幹部を通じ、和解交渉のもう一方の当事者である織田代行に取材を申し入れたところ、「今回の(和解交渉の)件に限ってならば…」という条件付きで、織田代行自身がインタビューに応じてくれることになった。7月20日14時25分、こちらが会場に指定した神戸市内のレストランの個室に、今や彼のトレードマークとなった三つ揃いのスーツ姿で現れた織田代行は、こちらが前述の条件を呑んだことを伝えると、「では、自分の知り得た範囲の事実のみ、お話しします」と“幻の和解交渉”の全貌を語ってくれた。以下、約3時間に及んだインタビューの内容を、必要最低限の解説を加えた上でお伝えする。 ※()内は筆者の注釈
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テーマ : 暴力団
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