【WEEKEND PLUS】(570) 幸せな日常が一変、ある40代兄妹の死…「この選択は間違っている」、途絶えた家族写真
有名企業でチームリーダーを任されていた女性は、毎日同じような服で出勤していた。昼食は菓子パン一つ。仕事を終えると、決まって自宅に1本の電話を入れ、家路を急いだ。残暑厳しい昨年9月25日。東京都奥多摩町の山間にある湖の傍で、その女性が遺体で見つかった。女性は軽ワゴン車の後部座席に横たわり、運転席では男性が息絶えていた。
警視庁の発表文は、40代の男女が死亡したという記載だけ。2人の名前や関係性は記されていなかった。死因は一酸化炭素中毒。警視庁は自殺とみていた。心中だろうか。私(※岩崎)はそう思った。全国の自殺者数は2003年に3万5000人に迫り、警察庁が統計を取り始めて以降最多となった。その後、減少傾向になり、近年は2万1000人台で推移するが、少ない数字とは言えない。
自殺に関するニュースを報じる際は、プライバシーへの配慮や、誘発防止等に注意を払う必要があり、全てを記事化するわけではない。この2人の死も記事にならなかった。それでも、未だ働き盛りの年齢の男女がどんな苦悩を抱え、人目を避けるように最期を迎えたのか。それが気になり、取材を始めた。
捜査関係者への取材を重ねると、亡くなった女性は当時46歳だった会社員の美里さんで、男性は兄の哲夫さん(※当時48歳、共に仮名)だとわかった。名前を知り、2人が生きていた重みが心の中で増した。女性は大企業に勤めていた。そこから“安定した生活”を想像した。そんな女性が何故、兄と死を選んだのか。最期に何を思ったのか。私は親族や知人らを訪ねた。
兄妹は、多摩地区に佇む築約40年の戸建ての賃貸住宅に2人で暮らしていた。約20年前に両親と一家4人で、都心から移り住んでいた。私が大家の男性の元に何度か足を運ぶうちに、室内の片付けに同行することを了承してくれた。大家の男性によると、家賃の滞納はなかったという。「いつの間にか両親も亡くなっていたが、何も知らされていなかった。2人の身の上に何があったのか」と気にしていた。
兄妹の死から3週間ほど経った日、大家と一緒に兄妹の自宅の玄関を開けた。黴臭さが鼻を突く。カーテンや窓は閉め切られていた。2階建てで3LDKの間取り。廊下や階段にも所狭しと段ボールや衣類が積み重なり、足の踏み場もない。それまでの知人らへの取材では、美里さんに対して“しっかり者”との印象を抱いていた。しかし、目の前の光景は、それとは正反対のものだった。
布団が敷きっ放しのリビングには、コンビニ弁当の空き容器やビニール袋、公共料金の請求書が散乱していた。台所の流し台には、長く使われていないであろう食器がたまっていた。不整脈の薬や向精神薬の袋が手つかずのまま残され、美里さんの名があった。女性物の衣類は殆ど見当たらず、洗面台に化粧品類や整髪料は無い。美里さんの部屋の床には、仕事の工程表がびっしりと書かれたノートや資格取得に向けた参考書が落ちていた。
兄妹は、地方から上京してきた両親の間に生まれた。父は結婚を機にリフォーム業で独立し、母も従業員として家業を手伝った。2020年に他界した父は書斎に、サインペンで“アルバム”と書いた段ボール箱を残していた。大家の許可を得て、箱にあった数冊のアルバムを手に取った(※左上画像、撮影/尾籠章裕)。
美里さんの七五三で、家族揃って渋谷の明治神宮を訪れた時に写した一枚。千歳飴を両手で握る美里さんの隣で、背筋を伸ばしてはにかむ哲夫さん。その後ろで、母が優しい微笑みを浮かべて2人を見守る。小学生の時の運動会では、哲夫さんが選手宣誓し、美里さんがフラフープや縄跳びをしていた。父親の実家に帰省した際の写真もあり、親子4人が食卓を囲み肩を寄せ合う姿をレンズが捉えていた。どのページにも、何気なくも幸せな家族の日常が写っていた。
親戚の女性は、「どこに行くにもいつも一緒で仲の良い家族だった。哲夫も美里も“お母さんっ子”で、小さい頃は傍から離れようとしなかった」と振り返る。しかし、父の書斎には、美里さんが高校生になってから後のアルバムは残っていなかった。アルバムが途絶えた理由を知ったのは、更に取材を進めてからだった。
テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済