Category: 街角探検
遺る古民家 ~瀬戸徘徊④
直島の南端、風光明媚だが山がちなあたりは、開発されて今は美術館エリアとなっている。
そこから100円均一の巡回バスで、本村へ。
海を覗くと、クラゲが気持ち良さそうに、ぷかぷかしながら漂っていた。
典型的な島の集落は、道が狭い。
昼メシだ。
夜は海鮮系が期待できそうにないので、ここにする。
一期一会 快鮮 八代田。
思いのほか空いていて、隣にOLグループだけ。
刺身定食を頼んだら、同じ値段でこっちを薦められた。
快鮮丼。
美味かった。みそ汁の出汁は、亀の手。
夜は外国人だけで満席になることもあるらしい。
街中探検だ。
直島について、ウィキペディアから引用する。
史料上での初出は平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄 巻第二』で、「讃岐の松山に 松の一本歪みたる 捩(もじ)りやすさの捩(すじ)りやすさに猜(そね)うだる かとや 直島の 然許(さばか)んの松をだにも直さざるらん」とある。
この頃、直島は備前国に属していたと見られている一方で、同じく平安時代末期を描いた『保元物語』では保元の乱で敗れて讃岐国へ流された崇徳上皇が一旦直島の御所に移された場面で「当国(讃岐国)直島」と記しているなどはっきりしない。
『日本書紀』の記述を基に品陀和気命大王が吉備国に向かう際に直島に立ち寄り、その上陸地が「宮ノ浦」だとする説がある。宮浦港すぐ傍の住吉神社境内には、応神天皇が上陸した際に腰掛けて休息されたと伝えられる応神天皇御腰懸岩が現存している。
崇徳上皇が讃岐国へ流される際、一旦四国上陸を拒否されたため、3年間を直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごしたとされる。京から追ってきた姫と上皇との伝説が残る姫泊山・琴弾地浜、同じく上皇を訪ねて来た大・中・少納言が船を着けた土地が納言様、上皇が能の舞台を人々に鑑賞させた場所が能見の浜で舞台になった沖合いの島が演題「葛の舞」に因んで葛島、など多数の地名が上皇ゆかりとされ、直島という島名自体も島民の純朴さ、素直さを賞賛して上皇が命名したという言い伝えがある。
古来より農業には向かない地形で、喜兵衛島に痕跡を留めるような製塩業に始まり、瀬戸内の交通の要衝として漁業や交易、海賊(実際には、海難事故の多い難航路を抑えての水先案内が主であったと言われる)で生計を立てていた。
戦国時代末期に小規模な水軍の将、高原次利が直島の八幡山に直島城を築き、その城下町として本村の町並みや寺院群、神社などを整備した。ほかにも丸山城、八日山城、風戸城などの出城を島内各地に作っている。
キリシタン大名でもあった高原次利は、戦国末期に豊臣秀吉に仕え備中高松城水攻めの際に秀吉軍の水先案内をした功績により1582年に男木島、女木島、直島の3島600石の領主となった。その後は秀吉の四国、九州、朝鮮への出兵でも海上輸送で功績が認められ、関ヶ原の戦いのときは東軍に味方し徳川初期の1619年に没するまで所領を守り抜いた。子孫は6代目の時に改易され、1671年に天領となる。直島城は改易後も残っていたが1781年の大火の際に焼失したと推測されている。
海運の大動脈であった瀬戸内の地の利を生かし、廻船業(北前船)などで活躍する家もあった。天領であったため歌舞伎や人形浄瑠璃などの公演が特別に許可され、琴弾地浜や城山での公演では島内外からの一座や観客で大変にぎわった。とくに人形浄瑠璃の人気が高く淡路島から島内に伝わった。
明治維新によって幕藩体制が終焉すると、直島の所属は明治元年(1868年)に高知藩取締、廃藩置県を経て同年中に倉敷県となった後は、明治4年(1871年)に丸亀県、同年に香川県(初代)、1873年(明治6年)に名東県、1875年(明治8年)に香川県(2代目)、1876年(明治9年)に愛媛県と短期間で目まぐるしく変化したが、1888年(明治21年)に香川県(3代目)となり21世紀へ至る。
1917年(大正6年)、島の北端で三菱合資会社の中央製錬所が操業を開始すると、直島は三菱金属鉱業の企業城下町として急速に発展し、働き口が確保されたことによる人口流出の歯止めや豊富な税収によって、瀬戸内の離島においてだけでなく香川県内でも有数の裕福な自治体となっている。一方で、島の北半分および周囲の島々の木々がほとんど枯れるという煙害に悩んだ。
三菱金属鉱業は1967年に新製錬所の建設の方針を打ち出し、小名浜と直島を候補地とした。条件的に不利であった直島から製錬事業を流出させないため、直島町、香川県、直島製錬所労働組合などが本社に陳情を行った結果、直島製錬所を近代化することに決まり、1969年に新製錬所が稼動した。
島の南端の風光明媚な地区を秩序だった観光地にしようと藤田観光を誘致し、キャンプ場が1960年代後半の観光ブームの時期にオープンしたが、国立公園内という制約もあり大規模な開発はできず、石油ショック後は業績が低迷し撤退した。
その後に島を文化的な場所にしたいという意向で町長・三宅親連と福武書店の創業者・福武哲彦との間で意見が一致し、急逝した福武哲彦の跡を継いだ福武總一郎が1987年に一帯の土地を購入し、1989年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープン。福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992年にホテル・美術館の「ベネッセハウス」建設などへと拡大する。
当初美術館は浮き気味で町民の関心も薄かったが、島全体を使った現代美術展(スタンダード展)、本村の無人の古民家を買い上げて保存・再生し現代美術のインスタレーションの恒久展示場とする家プロジェクト(正確には古民家の再生は2件、ほか1件は新築で残る1件は老朽化した神社の再生)などを重ねることで、徐々に活動が町内の理解を得られるようになり、直島でしか見られないプロジェクトや建築は国内外からの注目も集めるようになった。
アーティストの宮島達男は家プロジェクト第1弾の「角屋(かどや)」を創るに当たって町民125人を公募し、作品を構成する125個のデジタル・カウンタの明滅速度を一人一人にセッティングしてもらい、地域住民参加という手法を取ることで、現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感、抵抗を払拭した。
2005年には地中美術館、2010年には李禹煥美術館が開館し、本村の中もカフェや民宿等ができるなど徐々に変化しつつある。
三菱マテリアルで、長崎の軍艦島とも繋がっている。
本村地区では、家プロジェクトと言う、古民家内に現代アートをインスタレーショしていて、6か所を回った。
これはそのひとつ、護王神社。
そして南寺。
客はほとんど外国人だった。
ボォッと見てると、案内嬢がいろんな言葉で話しかけてくる。
町役場も、カッコいい。
町民会館。
やっぱり収入は多そうだ。
疲れてきた。
最後のスポット、その名も、はいしゃ。
やっぱり中は撮影不可。
許可しても良いような気がする。
巡回バスで、積浦エリアにある民宿へ戻り、入浴してひと休み。
近所の飲食店最後の一軒はこれだ、ラーメン店。本村に泊まれば、もっと店は多かった。
暗くなってから突入だ。
落ち着くなぁ、こういう店の方が。
小上りのテーブルで、品選び。
とりあえずハイボールに、ごぼう揚げと冷やっこ。
二杯目は缶酎ハイ、そして塩野菜焼きそば。
呑み切れなかったので、缶酎ハイは持ち帰り、宿の部屋で、DAZN観戦。
そこから100円均一の巡回バスで、本村へ。
海を覗くと、クラゲが気持ち良さそうに、ぷかぷかしながら漂っていた。
典型的な島の集落は、道が狭い。
昼メシだ。
夜は海鮮系が期待できそうにないので、ここにする。
一期一会 快鮮 八代田。
思いのほか空いていて、隣にOLグループだけ。
刺身定食を頼んだら、同じ値段でこっちを薦められた。
快鮮丼。
美味かった。みそ汁の出汁は、亀の手。
夜は外国人だけで満席になることもあるらしい。
街中探検だ。
直島について、ウィキペディアから引用する。
史料上での初出は平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄 巻第二』で、「讃岐の松山に 松の一本歪みたる 捩(もじ)りやすさの捩(すじ)りやすさに猜(そね)うだる かとや 直島の 然許(さばか)んの松をだにも直さざるらん」とある。
この頃、直島は備前国に属していたと見られている一方で、同じく平安時代末期を描いた『保元物語』では保元の乱で敗れて讃岐国へ流された崇徳上皇が一旦直島の御所に移された場面で「当国(讃岐国)直島」と記しているなどはっきりしない。
『日本書紀』の記述を基に品陀和気命大王が吉備国に向かう際に直島に立ち寄り、その上陸地が「宮ノ浦」だとする説がある。宮浦港すぐ傍の住吉神社境内には、応神天皇が上陸した際に腰掛けて休息されたと伝えられる応神天皇御腰懸岩が現存している。
崇徳上皇が讃岐国へ流される際、一旦四国上陸を拒否されたため、3年間を直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごしたとされる。京から追ってきた姫と上皇との伝説が残る姫泊山・琴弾地浜、同じく上皇を訪ねて来た大・中・少納言が船を着けた土地が納言様、上皇が能の舞台を人々に鑑賞させた場所が能見の浜で舞台になった沖合いの島が演題「葛の舞」に因んで葛島、など多数の地名が上皇ゆかりとされ、直島という島名自体も島民の純朴さ、素直さを賞賛して上皇が命名したという言い伝えがある。
古来より農業には向かない地形で、喜兵衛島に痕跡を留めるような製塩業に始まり、瀬戸内の交通の要衝として漁業や交易、海賊(実際には、海難事故の多い難航路を抑えての水先案内が主であったと言われる)で生計を立てていた。
戦国時代末期に小規模な水軍の将、高原次利が直島の八幡山に直島城を築き、その城下町として本村の町並みや寺院群、神社などを整備した。ほかにも丸山城、八日山城、風戸城などの出城を島内各地に作っている。
キリシタン大名でもあった高原次利は、戦国末期に豊臣秀吉に仕え備中高松城水攻めの際に秀吉軍の水先案内をした功績により1582年に男木島、女木島、直島の3島600石の領主となった。その後は秀吉の四国、九州、朝鮮への出兵でも海上輸送で功績が認められ、関ヶ原の戦いのときは東軍に味方し徳川初期の1619年に没するまで所領を守り抜いた。子孫は6代目の時に改易され、1671年に天領となる。直島城は改易後も残っていたが1781年の大火の際に焼失したと推測されている。
海運の大動脈であった瀬戸内の地の利を生かし、廻船業(北前船)などで活躍する家もあった。天領であったため歌舞伎や人形浄瑠璃などの公演が特別に許可され、琴弾地浜や城山での公演では島内外からの一座や観客で大変にぎわった。とくに人形浄瑠璃の人気が高く淡路島から島内に伝わった。
明治維新によって幕藩体制が終焉すると、直島の所属は明治元年(1868年)に高知藩取締、廃藩置県を経て同年中に倉敷県となった後は、明治4年(1871年)に丸亀県、同年に香川県(初代)、1873年(明治6年)に名東県、1875年(明治8年)に香川県(2代目)、1876年(明治9年)に愛媛県と短期間で目まぐるしく変化したが、1888年(明治21年)に香川県(3代目)となり21世紀へ至る。
1917年(大正6年)、島の北端で三菱合資会社の中央製錬所が操業を開始すると、直島は三菱金属鉱業の企業城下町として急速に発展し、働き口が確保されたことによる人口流出の歯止めや豊富な税収によって、瀬戸内の離島においてだけでなく香川県内でも有数の裕福な自治体となっている。一方で、島の北半分および周囲の島々の木々がほとんど枯れるという煙害に悩んだ。
三菱金属鉱業は1967年に新製錬所の建設の方針を打ち出し、小名浜と直島を候補地とした。条件的に不利であった直島から製錬事業を流出させないため、直島町、香川県、直島製錬所労働組合などが本社に陳情を行った結果、直島製錬所を近代化することに決まり、1969年に新製錬所が稼動した。
島の南端の風光明媚な地区を秩序だった観光地にしようと藤田観光を誘致し、キャンプ場が1960年代後半の観光ブームの時期にオープンしたが、国立公園内という制約もあり大規模な開発はできず、石油ショック後は業績が低迷し撤退した。
その後に島を文化的な場所にしたいという意向で町長・三宅親連と福武書店の創業者・福武哲彦との間で意見が一致し、急逝した福武哲彦の跡を継いだ福武總一郎が1987年に一帯の土地を購入し、1989年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープン。福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992年にホテル・美術館の「ベネッセハウス」建設などへと拡大する。
当初美術館は浮き気味で町民の関心も薄かったが、島全体を使った現代美術展(スタンダード展)、本村の無人の古民家を買い上げて保存・再生し現代美術のインスタレーションの恒久展示場とする家プロジェクト(正確には古民家の再生は2件、ほか1件は新築で残る1件は老朽化した神社の再生)などを重ねることで、徐々に活動が町内の理解を得られるようになり、直島でしか見られないプロジェクトや建築は国内外からの注目も集めるようになった。
アーティストの宮島達男は家プロジェクト第1弾の「角屋(かどや)」を創るに当たって町民125人を公募し、作品を構成する125個のデジタル・カウンタの明滅速度を一人一人にセッティングしてもらい、地域住民参加という手法を取ることで、現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感、抵抗を払拭した。
2005年には地中美術館、2010年には李禹煥美術館が開館し、本村の中もカフェや民宿等ができるなど徐々に変化しつつある。
三菱マテリアルで、長崎の軍艦島とも繋がっている。
本村地区では、家プロジェクトと言う、古民家内に現代アートをインスタレーショしていて、6か所を回った。
これはそのひとつ、護王神社。
そして南寺。
客はほとんど外国人だった。
ボォッと見てると、案内嬢がいろんな言葉で話しかけてくる。
町役場も、カッコいい。
町民会館。
やっぱり収入は多そうだ。
疲れてきた。
最後のスポット、その名も、はいしゃ。
やっぱり中は撮影不可。
許可しても良いような気がする。
巡回バスで、積浦エリアにある民宿へ戻り、入浴してひと休み。
近所の飲食店最後の一軒はこれだ、ラーメン店。本村に泊まれば、もっと店は多かった。
暗くなってから突入だ。
落ち着くなぁ、こういう店の方が。
小上りのテーブルで、品選び。
とりあえずハイボールに、ごぼう揚げと冷やっこ。
二杯目は缶酎ハイ、そして塩野菜焼きそば。
呑み切れなかったので、缶酎ハイは持ち帰り、宿の部屋で、DAZN観戦。
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