はてなキーワード: 開陳とは
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火曜日の朝は、いつも鋭角な匂いがする。しかし、アーチボルド・ペルニッケル氏にとって、そのような些細な幾何学は問題ではなかった。彼の手には、祖父から受け継いだ純銀製の、見事な装飾が施されたバターナイフが握られていたからだ。
午前七時ちょうど、真鍮製の目覚まし時計がジリリリリと暴力的な金属音を部屋中に撒き散らした。通常の人間であれば、頂部のボタンを叩いてその騒動を鎮めるだろう。しかしペルニッケル氏は、手にしたバターナイフを優雅に宙で翻すと、空中に震えるその「音の波」をすくい取った。
「ずいぶんとダマになっているな。これでは胃にもたれる」
彼は呟きながら、ベッドサイドに置かれたトーストの表面に、けたたましいアラーム音を均等に塗り広げていった。彼がバターナイフを握っている限り、この世のあらゆる事象——騒音、哀しみ、あるいは重力さえも——は、平らに塗り伸ばされるべき「ペースト」に過ぎなかった。刃先が滑るたびに、ジリリリという音は徐々にマイルドなハミングへと変わり、最後には完全にパンの気孔の中へと吸収された。
ペルニッケル氏がこの日、音を塗り広げるというアプローチに絶対の自信を持っていたのには、明確かつ(彼にとっては)科学的な理由があった。というのも、つい三十分ほど前、彼は洗面所で「赤い水玉模様の靴下が、完全に裏返っている」という驚くべき現象を目撃したばかりだったのだ。靴下が裏返るということは、世界の裏地が表に出ているということである。今朝の世界は裏返っている。裏返っているのだから、通常は耳で聞くべき音は、舌で味わうべきものへと変換されているはずだ。この直近の鮮烈な記憶は、彼の脳内で圧倒的な統計的優位性を獲得し、他のあらゆる過去の経験や物理法則を瞬時に駆逐していた。
「靴下が裏返っていたのだ。音をパンに塗るのは当然の帰結である」
彼は音の塗られたトーストを一口かじり、カリッという食感とともに午前七時の響きを胃袋へと流し込んだ。
身支度を整え、山高帽を被ったペルニッケル氏は、右手に純銀のバターナイフをステッキ代わりに握りしめ、霧の立ち込める石畳の街へと足を踏み出した。
街は奇妙な活気に満ちていたが、彼の目にはすべてが巨大な朝食のテーブルに見えた。道の向こうから、郵便配達員のモリスが、車輪のついた巨大な皮鞄を引きずりながらやってきた。モリスはひどく困惑した顔で、角の郵便ポストと格闘していた。
「おはようございます、ペルニッケルさん。どうにもこのポストの口が固く閉ざされていましてね。手紙がちっとも入らないのです」
ペルニッケル氏は歩み寄り、赤い鉄の塊を鼻先で検分した。彼の手の中で、純銀のバターナイフが微かに冷たい光を放った。
「モリス君、君は物事の本質を見誤っている。これはポストの口が閉じているのではない。単に、このポストがまだ『冷え切った固いバター』のままであるというだけのことだ。冷たいバターにナイフを立てようとすれば、反発されるのは道理だろう?」
「はあ……バター、ですか?」
モリスが目を白黒させるのをよそに、ペルニッケル氏は真顔で頷いた。そして、なぜ自分がそう確信しているのか、その揺るぎない論理を開陳した。
「考えてもみたまえ。私が家を出る直前、玄関のドアノブがいつもより三度(さんど)ほど冷たかったのだ。直近で確認された最も強烈な事実が『冷たい』なのだから、世界中のあらゆる問題の原因は『冷えによる硬化』に起因していると判断するのが、最も理にかなった確率的推論というものだ。ドアノブが冷たいのだから、ポストも冷たい。疑う余地はない」
ペルニッケル氏はバターナイフの腹をポストの赤い塗装にピタリと当てると、手首のスナップを利かせて、ポストの表面を「削ぐ」ような動作をした。銀の刃が虚空を滑る。すると、物理的な接触は一切ないにもかかわらず、ポストの口はあたかも室温で溶け出したかのように、だらしなく半開きになった。
「ほら見給え。少し削いで、常温に馴染ませてやった。これで手紙という名のジャムを詰め込めるだろう」
「あ、ありがとうございます……?」
混乱の極みにあるモリスを残し、ペルニッケル氏は意気揚々と歩みを進めた。彼にとって、手にした銀の刃は万物を切り開き、ならし、滑らかにする唯一絶対の哲学であった。
広場に出ると、空模様が怪しくなってきた。灰色の重たい雲が、街の煙突を押し潰さんばかりに低く垂れ込めている。道行く人々は傘を準備し、足早に家路を急ごうとしていた。
「なんという不手際だ。空の表面がひどく焦げているではないか。これでは太陽の光が塗れない」
彼はバターナイフを天に向けて高く掲げた。彼にとって、あの黒雲は天候の悪化ではなく、明らかに「焼きすぎたトーストの焦げ目」であった。
どうやってあの焦げ目を落とすべきか? 彼は再び、自らの最新の記憶の引き出しを乱暴に開け放った。そこには、つい先ほど遭遇した「半開きの郵便ポスト」の記憶が、まばゆいばかりの鮮度で鎮座していた。
「そうだ。つい先ほど、ポストは削ぐことで開いた。直近の成功体験によれば、問題は『削ぐ』ことで劇的に解決する。過去千回の雨降りの記憶などどうでもいい。最も新しく、最も強烈な成功こそが、この宇宙の最新のルールなのだ!」
彼は背伸びをし、空に向かってバターナイフを力強く滑らせた。ジョリッ、ジョリッという、巨大な乾パンを削るような音が大気を震わせた。見えない刃が雲の腹を削ぎ落とすと、削りカスとなった灰色の雲が、ボロボロと粉雪のように石畳へと降り注いだ。焦げ目を削ぎ落とされた空の裂け目からは、バターのように濃厚で黄色い陽光が、とろりと街へ滴り落ちた。
「完璧だ。実に滑らかな空になった」
その時、広場のベンチからすすり泣く声が聞こえた。見ると、隣人のマダム・ポルカドットが、両手で頭を抱えて震えている。彼女の足元には、形を持たない半透明の青いゼリーのような塊が、ぶよぶよと不気味に脈打っていた。
「ああ、ペルニッケル氏! 助けてくださいな。私、『火曜日』を落としてしまったのです。落とした拍子に、火曜日がこんなに膨れ上がって、私の足首に絡みついて離れないのです。これでは水曜日に行けませんわ!」
マダム・ポルカドットの足元で蠢くそれは、曜日の概念が実体化したような、非常に厄介で哲学的な代物だった。普通の人間であれば、神父を呼ぶか、精神科医に駆け込む場面である。
しかし、ペルニッケル氏の目は冷静だった。彼は右手のバターナイフの重みを確認し、左手で顎を撫でた。
「なるほど。火曜日が膨張していると。マダム、落ち着き給え。これは全くもって単純な現象だ」
彼は青いゼリー状の『火曜日』に近づいた。道具を持った彼にとって、この不定形の概念もまた、処理されるべき巨大な「食料の塊」に過ぎない。
「なぜ火曜日がこのようにぶよぶよと膨張しているのか? 理由は火を見るより明らかだ。つい一分前、私は空の焦げ目を削ぎ落とした。削ぎ落とされた空は軽くなり、光が満ちた。つまり現在の世界において『削ぎ落とされたもの』と『満ちるもの』は等価なのだ。この最新のデータに基づけば、あなたの火曜日は、空から削ぎ落とされた重力を吸収して膨らんだパン生地に他ならない」
彼の論理は、直近の自らの行動という極小のサンプルのみを根拠として、壮大かつ狂気的な三段論法を構築していた。
ペルニッケル氏は純銀のバターナイフを高く振り上げると、ぶよぶよと膨らむ『火曜日』の中心に深々と突き立てた。そして、手際よく、それを均等な厚さのスライスに切り分け始めた。
「一切れはあなたのポケットへ。一切れは私の帽子の中へ。残りは野良犬の腹の中へ。こうして切り分けて塗ってしまえば、火曜日などというものは、あっという間に消費されてしまうものです」
ナイフが滑るたびに、巨大だった『火曜日』は薄っぺらな青いスライスとなり、やがて空気中へとシュワシュワと溶けて消えていった。足首を解放されたマダム・ポルカドットは、歓喜の声を上げて水曜日の方角(広場の東側)へと駆けていった。
ペルニッケル氏は深く息を吐き、純銀のバターナイフを胸のポケットに丁寧にしまった。
世界は今日も、彼のナイフによって完璧に塗られ、削がれ、切り分けられた。すべての謎は、今朝の靴下と、さっきのポストと、少し前の空の記憶によって、寸分の狂いもなく説明づけられた。彼の心には、一片の疑いもなかった。
帰宅したペルニッケル氏は、夕食のスープを飲み干すと、ふとテーブルの隅に置かれた「真鍮製の巨大な漏斗(じょうご)」に目を留めた。彼はそれを手に取り、じっと見つめた。
「なんと美しいフォルムだろうか。これさえあれば、広すぎる世界も、散らかった思考も、すべて一つの穴に注ぎ込むことができるに違いない」
彼は漏斗を枕元に置き、ベッドに入った。眠りに落ちる直前、窓の外を一羽の巨大な紫色の蛾が横切った。蛾の羽ばたきは、パタパタというよりも、ズズズという重低音だった。
「なるほど」と、ペルニッケル氏は微睡みの中で確信した。「紫色のものが重低音を出すということは、明日の世界はすべて、狭い場所へ注ぎ込まれることで低く唸るのだな。すべてが繋がったぞ」
彼は真鍮の漏斗を抱きしめ、滑らかで、切り分けられた夜の中へと深く沈んでいった。明日は間違いなく、すべてを注ぎ込むための完璧な水曜日になるはずであった。
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
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瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
私は多様性が嫌いだ。
男は強く在るべきだし、成長すべきだ。
基本責任を引き受けるべきは男で、逃げることはある一定の年齢を超えれば許されない。
不幸なことがあってもそこから立ち直るべきだろう。
甘えた態度を続ける男は、場合によっては生きる価値がないとすら思う。
一方で女は違う。
別に弱くてもいいし、幼くてもいい。決断をしたくないならそれでいいし、いい歳してその調子でもまあ悪くないだろう。
この人男だったら今よりニ、三段階社会的に不利な立場にいただろうなと感じる人もそこそこ見る。
それがいいのか悪いのかは分からない。
周りにいる女性のそういう様子を見る度、可哀そうだなと思う。
結構馬鹿にした話だと思うのだが、それを恥ずかしげもなく享受している感じもある。
自分で書いてて余りにも馬鹿にしているなと思うが特にこの考え方を変えるべきだとも思わない。
弱さ全開な所は可愛い。
十分な能力があるにも関わらず、性別を理由にギャップを作るのは本当にくだらない。
営業の仕事をしていると、女性社員が出向くと客先でまともな対応をされないケースがある。
その時は、男の自分が代わりに向かう。なんてカスな社会だと思う。
強い侮辱を感じるし、当の女性社員がそれを笑って話したり頼んだりしにくるのもきつい。
本当は能力があるのにこれで不当に自信を奪われて委縮するようになったら最悪だ。
その手の話は二度と起こしたくない。
私の考えを堂々と言っていい世界は、今よりずっと悪い所だ。
頭に侮辱的な言葉が浮かんだら、必ず言わないようにキャンセルしている。
それがなくてならない姿だと思う。
私は幼い頃から中学生くらいまで、知的障害を持った叔母と同居してきた。
分かりやすさのため敢えてこの表現を使うが、大体犬と同じくらいの知性だ。
意味のある言葉は話せないし、所構わず大声をあげる。怒った時は手加減がないから強めの暴力が飛んでくる。
そんな叔母に対して、特に何も思わない。
当たり前に傍にいたし、そういうものだと思っている。
叔母に意思がないではない。
彼女には彼女なりの優しさがあるし、怒りや悲しみも感じている。
実家で飼っている犬のことは特に好きみたいで、楽しそうに撫でていることもある。
そんな叔母が、障害があるからという理由で差別されるとやはり許せないと思う。
ある時祖母は、自分の母親の法事に(つまり私の曾祖母)祖母、叔父、叔母、母の四人で向かった。
その時障害があるやつを何故連れてきたと言われたことがあるらしい。
祖母は会をぶち壊して途中で帰ってきた。
それは正しい行為だ。少なくとも私にとっては。
ふと視界に入って、反射的にネガティブな感情が出てくることがある。
そしてそれは絶対に表に出してはならない。
障害者に向かって露骨に顔をしかめる。ヘイトを当たり前のようにぶつける。殺してしまえとすら言う。
そんな社会は嫌だ。自分の感情とは別にやるべきことがあり、それを実行すべきだ。
あるべき理想の社会がる。一方で、自分の直感にとって最も快適な社会がある。
そして自分が想像していたより、その偏見が大きかったこともあるはずだ。
社会的に許されない、でも思わず表に出したくなるような強い衝動を伴う不快感。
特別な出来事や理由が無くとも、なんとなくでそれは育っている。
それは正しくない感情のはずだ。
何故ならその感情に素直に従った行動は、筋が通っていなかったり、自分の過去の苦しみを加害者として再演したりするからだ。
自分は嫌だ、これを認めたくないと感じながらも、認めなくてはならないものが存在する。
これは苦しい。自分にとっての理想の社会は有り得ないと認めることも、自分が思う不正義を放置することも、自分が無茶な論理を押し付けようとしていたことに気が付くことも、どれも苦しい。
それでも葛藤と向き合っていくからこそ、多様性という言葉は重い。
言行一致しているか?
素直に他人を排除しようとしたり、かつて排除されていた体験を用いて他人を攻撃したり、そもそも苦しんでいる他人を認めず存在を無かったことにしてないだろうか。
政治や人権について強い関心があったようで、パワポケの二次創作で繋がった相手だったが時折そんな話をしていた。
この前久しぶりに彼のアカウントを見に行く「女性に性犯罪を行うキチガイストーカーが死刑になりますように」とつぶやいていた。
https://x.com/kyoto_spiders/status/2037488161270661540?s=46
『キチガイ』何故使った?
一つは、これまで見過ごされていた苦しみに気が付けるように、という願いがあったと思う。
精神障害は、特に辛さが見えづらい。見た目には分かりやすい変化がない場合もある。
一見忘れられてしまいそうになることを繋ぎとめる。これも人権について考えるでも重要な要素のはずだ。
それを自分で表明しておきながら、あの無様な姿。
多様性なんてどうでもいいと言う奴は論ずるに値しない。
ただ多様性を謳いながらその実全く興味を持ててないやつ、そのことに自覚もない奴は別の醜悪さを孕んでいる。
ましてやそんな人間は社会的に立派そうな立ち位置にいることもある。
自覚無しに人を区別する権力者など、差別主義者より性質が悪い。
それを指摘されても聞く耳を持たない。
俺はああはなりたくない。
辛くて苦しくても、俺たちは悩み続けなければならないはずだ。
その上で他人を踏みつけたとしても。
それでもなお決意をもって踏み込む必要がある。そうでないと社会は変わらない。
私は発達障害がある。
高校生くらいまで社会常識やコミュニケーションが微塵も理解できず、ずっと孤立してきた。
他人の振る舞いを観察し、ある程度型にはまれるようになってきた今で、時折とてつもない見落としがある。
今仕事についてなんとかやれているのは、運よく素晴らしい友人に出会えたからだ。
失敗を許容し、解決策を提示し、黙って機会をくれる人間がいたからここにいる。
もっと根本的に、自分と言う人間を舐めずにそのままぶつかってきてくれたからだ。
今の自分にそれが出来るかは分からない。彼らほど誠実には出来ないかもしれない。
働き出してみると、自分と似たような特性を持った人間に出会う。
彼らが、社会的に尊重される時が来るだろうか。多分ないだろう。
彼らに人権はない。キモいし可哀想じゃない。だからわざわざ考慮しようという人がいない。
だから、共に仕事をする時はどうすれば周りが納得するのかや、どうすれば仕事が終わるかを話すようにしている。
彼らはお礼を言わないし声もはデカいまたは聞こえない。不要な独り言もめちゃめちゃ多いがこちらの態度は変えない。
障害だから変わらなくていいという論理に飲み込まれ、裏でヘイトを溜めながらいつか底が抜けた時に、盛大に排除されるだろうか。そうなるくらいなら、過剰に叩かれながらも自分を変えなければと思い至る可能性がある現状の方が、まだ不幸になる人は少ないのかもしれない。
人権を重んじたことを言いたい方々は役に立たない。興味がないから。
そんなことより隣にいる人間に声をかけられる人間の方がよほど社会のためになる。
嫌な奴に声をかけて、背景を知ったら嫌えなくなってくる回数が増えるほど、多様性は身体の中に作られてくる。
不愉快でたまらないけれど、社会も自分も、それで少しずつ良くなるのだと信じている。
弱いことは悪ではないけど弱く在り続けることは悪だ。
昔はコンテンツを見て涙を流す人のことが全く理解出来なかった。
最近泣きはしないけど、ちゃんと感動したり涙腺が刺激されたりするようになった。
嬉しい。絶対楽しめない物だと思っていたから。もっと普通になりたい。
映画を見て泣ける人は羨ましい。そこまで豊かに何かを感じる事は苦手だ。
でもいつかそうなれる気もする。
男性が甲斐性なくなって子供を持つ権利を失ったのって、甲斐性がなくなった分を補填するような代替価値(イケメンさ、家事育児能力など)を全く身に着けないまま怠けていたからというのが一つと、甲斐性をなくさせた原因である労働分配率の減少(経営層・オーナー層の爺がほとんど吸い取っている)と社保天引きの増大(胃瘻老人、長生きする年金婆などが吸い取っている)が一つなんだけど、なんか有職独身アラサー女を異常な勢いで憎んでて面白いんだよね。
個人レベルでできることである代替価値の最大化、そして社会運動として行うべき高齢者との世代間闘争、そういう部分に全く手をつけられずに有職独身アラサー女を叩きながら搾取願望を開陳することしかできないのが本当に笑える。怠惰に生きるために奴隷をよこせと暴れているだけなのがバレてる、だから売れ残るんだよ。
男性が甲斐性なくなって子供を持つ権利を失ったのって、甲斐性がなくなった分を補填するような代替価値(イケメンさ、家事育児能力など)を全く身に着けないまま怠けていたからというのが一つと、甲斐性をなくさせた原因である労働分配率の減少(経営層・オーナー層の爺がほとんど吸い取っている)と社保天引きの増大(胃瘻老人、長生きする年金婆などが吸い取っている)が一つなんだけど、なんか有職独身アラサー女を異常な勢いで憎んでて面白いんだよね。
個人レベルでできることである代替価値の最大化、そして社会運動として行うべき高齢者との世代間闘争、そういう部分に全く手をつけられずに有職独身アラサー女を叩きながら搾取願望を開陳することしかできないのが本当に笑える。怠惰に生きるために奴隷をよこせと暴れているだけなのがバレてる、だから売れ残るんだよ。
人はしばしば、Instagramを日記だと考える。日常を細かく記録し、日々の出来事を流し込み、アルゴリズムに合わせて頻繁に投稿する。
しかし別の見方もある。Instagramを日記ではなく陳列棚だと考える方法だ。
店に入ったときのことを思い出してほしい。優れた店は、すべての商品を倉庫から持ってきて棚に並べたりはしない。
むしろ逆で、棚に置かれるのは厳選されたサンプルだけだ。棚の目的は、在庫の総量を示すことではない。その店がどんな店なのかを、一目で理解させることにある。
Instagramのプロフィール画面も同じ構造を持っている。人があなたのプロフィールを訪れると、最初に見えるのは3×3のグリッド、つまり9枚の投稿だ。この9枚で「この人はどんな人物か」を判断する。
心理学では、人は少数の情報から全体像を推定する傾向がある。これをthin slicingと呼ぶ。数秒の観察だけで、人は教師の能力や人柄をかなり正確に推定できることが研究で示されている。
Instagramの9枚の投稿は、まさにその薄い断片になる。
だから重要なのは、投稿の量ではない。重要なのは、そこにどんな信号が置かれているかだ。
もしInstagramを陳列棚として設計するなら、9枚で十分だ。むしろ多すぎる投稿はノイズになる。
優れた研究者は論文の数で評価されるわけではない。重要なのは代表作だ。何百本の論文より、数本の強い論文の方がその人を説明する。
Instagramも同じだ。大量の投稿は活動量を示すだけで、人物像を明確にはしない。
むしろ少数の投稿を意図的に配置したほうが、メッセージは強くなる。それは日記を書くという行為ではなく、展示を設計するという行為に近い。
Instagramを日記として使う人もいる。それはそれで構わない。だがもし目的が「自分という人物を伝えること」なら、発想を少し変える価値がある。
原作者の罪がどうこうの話じゃなくて
なんか女とか弱男が大好きな、「あなたは頑張ってる!だからもっとしっかり休んで!!」みたいなエピソードばっかりなんだよな
まだ1巻しか読んでないけど
なんかああいう
「弱者に都合のいい道徳を実践した結果、良い成果が出ました!やはり私たちが正しかった!!」
エンターテインメントとしての面白さを追求しているというよりも
国民の税を無税にしたら国が栄えてうまくいきました、とか
誰をも見捨てない軍隊にしたらうまくいきました、とか
従業員のプライベート生活を大事にしたらうまくいきました、とか
もううんざりなんだよね
それを読んでスタンディングオベーションしてる読者もどうかしてると思うよ
矛盾しているようだがVTuberを90ch調べたら傾向が取れた
正確に言うと「SNSの運用で私生活や思想を開陳する」という領域で性的なバイアスがかかればかかるほど、
チャンネルの登録者数や活動の規模から期待される平均的な視聴数から外れるようになる
別に2.5次元でおっぱい出すとか、ケツ晒すとか、そういう部分に関してはあまり影響がない。
「女体好きの女嫌い」客層にリーチしているのか?という結論は短絡的な気がするし、
ちょっとエッチなのが観たいだけのミーハー層が敬遠しているという可能性もあるし、
単に気の弱いオタクが怖がってるだけの説もある。
自由を謳歌するのは勝手だが、お前のフォロー欄という証拠を見た上で、俺はお前をゴミだと判定する自由がある。
いいか、最近の若造はSNSで自己放尿してる自覚がなさすぎる。
フォローってのはな、ただの趣味の一覧じゃねえ。お前の思想、嗜好、欲望、知能、そして人生の薄っぺらさを全部ぶちまける公開棚卸しだ。
つまりポートフォリオだ。投資家が資産配分を見れば性格がわかるように、フォロー欄を見ればお前の精神の資産配分が丸裸になる。
多様性を尊重してるとか言って、フォロー欄が陰謀論者とスピ系とエロ垢で埋まってたら、それは多様性じゃねえ。
逆に「合理的な情報だけ追ってます」とか言って、フォロー欄がビジネス系インフルエンサーと筋トレと意識高い系ポエムで埋まってたら、それもまた別種の自己放尿だ。
インテリぶったフリして、実態は承認欲求のETFを積み立ててるだけだ。
ポートフォリオってのはな、「自分が何を信じてるか」を数字で語る。
フォロー欄も同じだ。お前が何を見て、何に脳を焼かれて、何に依存してるかが全部出る。
だからな、フォロー欄を隠してる奴は何をしてるかっていうと、損失を抱えたクソ株を見せたくなくて証券口座を閉じてるのと同じだ。
「見ないでください」は通用しねえ。
お前が世界に向けて毎日やってるのは、情報摂取のフリをした自己放尿なんだよ。
いいか、SNSってのは発言が名刺で、フォロー欄は財務諸表だ。
さあ、覚悟決めろ。