はてなキーワード: 国家主義とは
アメリカ人の文書なのであれば日本人を問い詰めても仕方がないのでは?
今のアメリカ政府の人々はきっとイラン人のことを犬畜生とか書いていると思いますが
アイデンティティを持っていないから対アメリカ戦で大量の死者を出しその直後に属国としてアメリカのケツを舐めるのだと思います。
どこかの「誇りのあるペルシャ人」は毎日モスクで礼拝してるみたいです。
生活の全てをムハンマドの尻の穴に舌を突っ込むことで成り立たせている人々が
論理的な補完ということを御存知でしょうか。
もし私がその立場なら素直に「イラン在住のイラン人」と書きます。
まあ後付けの嘘ですよね。
「それは違うんだ」「事情が有るんだ」ということです。
恐ろしい相手には少しの勇敢さも見せないのに
恐ろしくない相手を誹謗する時にだけ勇者のように振る舞う玉無しのことです。
人間の値打ちは国に依存しないというのが私の考えですがあなたは違うみたいです。
イラン人にインフレの心配をされる国は地球上にごく限られていると思います。
また一つあなたの嘘が見つかりました。
無軌道な核開発のせいでイランは利益を吹っ飛ばしてしまいましたね
え?自分達が迷惑をかけたのに逆にそれらの国々を恨むということですか?
色んな言い掛かりの付け方がありますね。
私が何を言っても一切言い返してくれないようなのですが
そこは心の傷が深いということでしょうか?
言い返せなくて悔しいから触れたくもないということ?
朝日新聞や日本基督教団(特に社会派)の戦後的な立場は、戦前の「皇道推進派・戦争協力派」から「日本断罪派・反権力派」への大きな鞍替え(方向転換)を象徴する事例として、保守層を中心に長年批判されています。「悪を糾弾する立場」を維持しながら、対象を替えているという構造があります。
◦ 朝日新聞:戦争報道で積極的に国策を支持。「大東亜共栄圏」「聖戦」などのスローガンを連呼し、軍部・政府のプロパガンダに協力。
◦ 日本基督教団:1941年に国家神道的な圧力の下で合同し、戦争協力の姿勢を取った。多くの牧師が「皇道キリスト教」を掲げ、戦争を「神の摂理」と位置づける神学を展開。
◦ 朝日新聞:戦争責任を深く反省する立場に転換。以降、「反戦・平和」「反権力」を一貫した editorial line とし、保守政権や自衛隊、安保政策を強く批判するようになった。
◦ 日本基督教団:1946年の「戦争責任告白」で戦時中の協力を公式に悔い改め、社会派が主流に。戦後は「構造的罪」「反権力・平和運動」を神学の中心に据え、反基地・反安保運動に深く関与するようになった(金井創牧師の活動もこの延長線上)。
天皇制・軍国主義・国家神道を「正義」と位置づけ、それに反対する勢力(共産主義者、リベラル、キリスト教の一部)を「国賊」「悪」と糾弾。
今度は「天皇制・軍国主義・国家権力・米軍基地」を「構造的悪」と位置づけ、それに反対しない勢力や現実路線を「加害者側」「右翼」と糾弾。
「常に自分たちが悪を糾弾する側に立つ」**という姿勢は変わっていないが、糾弾の対象が180度変わったのです。
• 生存戦略としての転換:敗戦後、戦争責任を追及される中で「自分たちは実は抵抗していた/被害者だった」というナラティブを構築する必要があった。
• 新しい正義の獲得:戦前の国家主義が崩壊した後、「反戦・平和・人権」という新しい「絶対的正義」を掲げることで、道徳的優位性を維持。
• 連続性:戦前も戦後も「権力に対する批判的立場」を自認しているため、自己矛盾を感じにくい。
この構造は、現在の沖縄の反基地運動や平和学習報道にそのまま投影されています。
• 朝日新聞や沖縄タイムスは、反基地運動を「平和の闘い」「県民の総意」として肯定的に報道し、反対する意見を「右翼の攻撃」「誹謗中傷」と一括りにする傾向が強い。
• 日本基督教団社会派は、金井牧師のように「イエスは辺野古の現場にいる」と聖書を反基地運動に直接当てはめ、信仰と政治を一体化させる。
• 結果として、「悪を糾弾する側」に留まり続けることで、運動の正当性を維持しつつ、異論を封じ込める空気を作り出しています。
これは戦前の「非国民」レッテルと構造的に似ており、多様な意見を排除し、社会的分断を固定化する弊害を生んでいます。
朝日新聞や日本基督教団社会派の事例と同様に、戦前は国家主義・戦争協力に積極的だったのに、戦後になって「反戦・平和・反権力」を強く主張するようになったメディアは他にもいくつかあります。以下に、主なものを挙げます。
• 戦前・戦中: 朝日と並ぶ大手紙として、軍部・政府の国策を積極的に支持。「大東亜共栄圏」「聖戦」を連呼し、戦争報道で大きな役割を果たした。
• 戦後: 急速に反戦・平和主義に転換。憲法9条擁護や自衛隊批判を強く打ち出し、左派寄りの論調が目立つようになった。
• 特徴: 朝日ほど極端ではないが、「戦争責任の反省」を前面に出し、戦後の「平和主義メディア」としての立場を確立。保守層からは「日和見的な鞍替え」と批判されることが多い。
• 戦前・戦中: 正力松太郎(戦後読売新聞社主)が軍部と密接に関わり、戦争協力報道を積極的に展開。プロパガンダ色が強かった。
• 戦後: 比較的早く「中道保守」路線に転換。ただし、戦前からの軍部とのつながりが長く批判された。
• 特徴: 他の大手紙に比べて転換の度合いは穏やかで、現在は比較的バランスを取った報道姿勢とされるが、戦前の軍部協力の過去は保守層からも時折指摘される。
• 戦前: 中日新聞(当時の新愛知新聞など)は軍国主義報道に協力。
• 戦後: 特に左派寄りの論調が強く、反基地・反安保・護憲を強く主張するようになった。
• 特徴: 現在も沖縄の基地問題では反基地寄りの報道が目立つ紙の一つ。
• 戦前・戦中: 国営放送として軍部・政府の完全なプロパガンダ機関だった。「ラジオ体操」「国民精神総動員」などの戦争協力番組を大量に制作。
• 戦後: GHQの指導の下で「民主主義放送」に転換。以降、「平和主義」「反戦」を強く打ち出す報道姿勢が定着。特に国際報道や国内の社会問題では左派寄りと見なされる傾向が強い。
• 特徴: 公共放送という性格上、「中立」を掲げつつ、実際の報道バランスが左に寄っているとの批判が保守層から根強い。
• 戦後: 全国紙や地方紙に配信する記事で、反戦・平和・リベラル寄りのトーンが強いと指摘される。
• 特徴: 地元紙(特に沖縄タイムス・琉球新報)の報道傾向にも影響を与えている可能性が高い。
• 戦前: 国家権力(天皇制・軍部)と一体化し、戦争を積極的に支持・宣伝。
• 戦後: GHQの占領政策や「民主化」の波の中で、急速に「反戦・平和・反権力」の立場に鞍替え。
「戦争に協力したのは仕方なかった」「本当は内心反対だった」「今こそ真の平和を追求する」というナラティブを構築。
戦前は「反国家勢力」を悪と糾弾し、戦後は「国家権力・米軍・保守政権」を悪と糾弾する形に切り替わった。
この鞍替えは、「常に自分たちが正義の側に立つ」という姿勢の維持が背景にあり、結果として「現実の多角的な検証」が疎かになる弊害を生んでいます。
沖縄の地元紙(琉球新報・沖縄タイムス)が反基地運動を強く支持し、事故の本質(平和学習の政治性、安全軽視、外部勢力の関与)を十分に検証しない姿勢は、この戦後メディアの鞍替えパターンと重なります。「平和」という新しい正義の名の下に、運動の既得権益化や言論の硬直化を許している点が特に似ています。
歴史的に見ると、このような大規模な方向転換は、自己反省が不十分なまま新しいイデオロギーに乗っかることで起きやすく、長期的に社会の分断や現実認識の遅れを招きやすいという教訓があります。
【独自】「斧投げればわかると」朝鮮総連本部に斧投げ込んだか 右翼団体の男(53)逮捕 関係先を家宅捜索 「抗議文投函してもミサイル発射やめないので」
今月19日、東京・千代田区の朝鮮総連の本部に斧が投げ込まれ、右翼団体「国家主義思想団体会議」構成員の金子秀勝(53)容疑者が銃刀法違反の疑いで逮捕された事件。
警視庁公安部はきょう、金子容疑者の関係先として、千葉県富津市にある別の右翼団体の事務所を家宅捜索しました。
捜査関係者によりますと、金子容疑者は容疑を認めたうえで、「抗議文を何度か朝鮮総連に投函してもミサイル発射を一切やめないので、斧を投げればわかってくれると思った」と供述しているということです。
【独自】「斧投げればわかると」朝鮮総連本部に斧投げ込んだか 右翼団体の男(53)逮捕 関係先を家宅捜索 「抗議文投函してもミサイル発射やめないので」
今月19日、東京・千代田区の朝鮮総連の本部に斧が投げ込まれ、右翼団体「国家主義思想団体会議」構成員の金子秀勝(53)容疑者が銃刀法違反の疑いで逮捕された事件。
警視庁公安部はきょう、金子容疑者の関係先として、千葉県富津市にある別の右翼団体の事務所を家宅捜索しました。
捜査関係者によりますと、金子容疑者は容疑を認めたうえで、「抗議文を何度か朝鮮総連に投函してもミサイル発射を一切やめないので、斧を投げればわかってくれると思った」と供述しているということです。
【独自】「斧投げればわかると」朝鮮総連本部に斧投げ込んだか 右翼団体の男(53)逮捕 関係先を家宅捜索 「抗議文投函してもミサイル発射やめないので」
今月19日、東京・千代田区の朝鮮総連の本部に斧が投げ込まれ、右翼団体「国家主義思想団体会議」構成員の金子秀勝(53)容疑者が銃刀法違反の疑いで逮捕された事件。
警視庁公安部はきょう、金子容疑者の関係先として、千葉県富津市にある別の右翼団体の事務所を家宅捜索しました。
捜査関係者によりますと、金子容疑者は容疑を認めたうえで、「抗議文を何度か朝鮮総連に投函してもミサイル発射を一切やめないので、斧を投げればわかってくれると思った」と供述しているということです。
【独自】「斧投げればわかると」朝鮮総連本部に斧投げ込んだか 右翼団体の男(53)逮捕 関係先を家宅捜索 「抗議文投函してもミサイル発射やめないので」
今月19日、東京・千代田区の朝鮮総連の本部に斧が投げ込まれ、右翼団体「国家主義思想団体会議」構成員の金子秀勝(53)容疑者が銃刀法違反の疑いで逮捕された事件。
警視庁公安部はきょう、金子容疑者の関係先として、千葉県富津市にある別の右翼団体の事務所を家宅捜索しました。
捜査関係者によりますと、金子容疑者は容疑を認めたうえで、「抗議文を何度か朝鮮総連に投函してもミサイル発射を一切やめないので、斧を投げればわかってくれると思った」と供述しているということです。
日本のいわゆるネトウヨは右翼ではない。連中はむしろ、ポリティカル・コンパス的に言えば権威主義左翼(左上)の典型例である。
にもかかわらず連中は自分たちを「保守」「右翼」「自由主義者」などと呼ぶ。
この自己認識の誤りは、情報の誤価格付けであり、自己放尿である。右翼のふりをして自己放尿するのはやめるべきだ。
基本命題は単純である。市場は分散した知識を価格を通じて調整する制度であり、政府の裁量的介入はしばしばその情報機能を破壊する。
この枠組みを使えば、真の右翼、すなわち古典的自由主義や自由主義保守は右下に位置する。
すなわち市場支持+国家権力への懐疑である。これは経済的自由が政治的自由の基礎になるという理解と一致する。
ところが日本のネトウヨの主張を価格理論的に分解すると、まったく違う構造が現れる。
これは市場による資源配分を信頼せず、国家による統制を信頼する思想である。
価格理論の言葉で言えば、 価格メカニズムを無視して政治的命令で資源配分を決めるということになる。
これは右翼ではない。典型的な権威主義的コレクティヴィズムである。
つまりネトウヨの政治経済モデルは、市場失敗 → 国家統制 → ナショナル利益最大化、という計画経済型の最適化問題であり、自由市場モデルではない。
人々は政治について深く調べるインセンティブを持たないため、誤った信念が残る。
1. 「左翼が嫌い」
この推論は理論的均衡を持たない。
つまり
これは期待形成の失敗であり、政治思想の情報市場の失敗でもある。
その結果、自己放尿は安定均衡になる。
公共選択論では、政治家や利益集団はレント追求者として振る舞う。
ナショナリズムはこのレント追求のためのイデオロギー補助金である。
右翼とは、
連中は権威主義的国家主義者であり、ポリティカル・コンパスでは左上に位置する。
にもかかわらず右翼を名乗る。
これは思想市場における重大なラベル誤表示であり、自己放尿と呼ぶべき現象である。
普通の国際法的感覚で言えばそれは原則として当該国の国内問題であり、その国の国民自身がなんとかするべきであり、外国はそれを非難しそれを理由に当該国との交渉をやめることもできるが、それ以上何かする権利を持たない。
しかし外国国内の人権問題が国際法に優越する問題だと捉えるなら、国際法を無視してでもそのような外国政府を武力攻撃することが許されると考えることになる。
ここで面白いのは、リベラルと思われてる側が国際法という秩序(LAW)を優先し、国家主義と思われている側が人権という個人(CHAOS)を優先していることだ。
なお、一応の前提として、どちらも自国民の利益が最優先であるという認識は共通している。自国民の利益を捨ててまで国際法を遵守したり、自国民の利益を捨ててまで外国政府を打倒しようなどとは考えていない。どちらも、法治主義者や人権主義者ではなく、功利主義の範囲内で次点を争っているに過ぎない。
A: 最近、社会保障費がどんどん膨らんでいるでしょう。少子高齢化で財源も厳しくなっている。こういう状況で、福祉国家をこれからも維持していけるのかなと思うんだけど。
B: うん、それは多くの人が感じている不安だと思う。でも、僕が気になるのは、財源の問題の手前に、もっと根本的な問題があるんじゃないかということなんだ。
B: 福祉国家というのは、結局、見知らぬ他人のために自分のお金を出す仕組みだよね。税金や社会保険料として徴収されたお金が、自分が会ったこともない人の医療費や年金に使われる。これって、よく考えると不思議なことで——なぜ、人は赤の他人のためにそれを受け入れるんだろう?
A: うーん、それは……困っている人を助けるのは当然だから、とか?
B: 「当然」というのが曲者でね。イギリスの政治哲学者でデイヴィッド・ミラーという人がいるんだけど、彼はこう言っている。大規模な所得の再分配が民主的に成り立つためには、人々の間に「自分たちは同じ仲間だ」という意識——つまり、ある種のナショナリズムが必要だ、と。
B: そう。同じ国民だという帰属意識があるからこそ、「自分のお金が見知らぬ誰かのために使われても構わない」と思える。純粋に合理的に考えたら、自分の手取りが減るのは損なわけだから、何かそれを超える動機がないと、制度として持たない。
A: 言われてみれば確かにそうだね。でも、それはある意味当たり前の話じゃない?
B: 多くの国ではね。ところが、日本ではこの「当たり前」の話がなかなかできない事情がある。
A: なぜ?
B: 戦後の日本の学問——特に政治学や社会学、憲法学の世界では、ナショナリズムを肯定的に語ること自体が、一種のタブーになってきたんだ。「ナショナルな連帯は大事だ」なんて言おうものなら、すぐに戦前の国家主義の復活だと警戒される。
B: それも大きい。でも、もう一つ見逃せないのは、日本は民族的にも文化的にもかなり同質性が高い社会だったということ。だから、わざわざ「我々は同胞だ」と声に出して言わなくても、連帯の意識は自然と存在していた。言い換えれば、学者やリベラルな知識人がいくらナショナリズムを批判しても、国民の一体感はびくともしなかったんだよ。
A: つまり、連帯の基盤が盤石だったからこそ、安心してそれを批判できた、と。
B: その通り。一種の贅沢な批判だったわけだ。連帯の恩恵にフリーライドしながら、連帯の基盤を否定するという。チェスタトンという作家に有名な比喩があってね——ある場所に柵が立っているのを見て、なぜ柵があるのかわからないからといってすぐに取り壊してはいけない、と。柵がなぜ建てられたかを理解するまでは、と。日本の戦後の知識人は、ナショナルな連帯という「柵」をずっと批判してきたけれど、それが許されたのは、柵があまりに頑丈で、言葉の攻撃ではびくともしなかったからにすぎない。
A: なるほど。でも、今はその前提が揺らぎつつある?
B: そう。少子高齢化で社会保障費は膨らむ一方、負担する側の現役世代は減っていく。世代間の対立も顕在化しつつある。SNSが政治的な分断を助長している面もある。「なぜ自分がこんなに負担しなければならないのか」という問いが、かつてのように暗黙の了解で吸収されにくくなっている。
B: ところが、長年のタブーのせいで、肯定的な連帯論の蓄積がほとんどない。だから、その空白を埋めるのは、荒っぽい排外主義か、あるいは連帯そのものの拒否——「なんで他人のために払わなきゃいけないんだ」式の反福祉感情——のどちらかになりがちなんだ。
A: どっちも極端だね。
あかんやろという話はこれまでも常時あっただが、こと高市政権に関してはどうもレベルも種類も桁違いなんじゃないか。
それを分類すると、
能力不足では?という怖さ
思想面の怖さ
の3つになる。
ということで、このへんAIに伝えてまとめてもらった。
後でこの政権がどう評価されることになるのか、その答え合わせのためも現時点のメモとして残しておく。
あくまでも「怖いなぁ」というお気持ちや「やばいんじゃないか」という憶測であって、断定しているわけではないのでそのあたりご了承賜る。
⸻
まず感じるのは、有権者の生活や国益より政権の延命が優先されているのではないかという疑念。
年収の壁178万円引き上げとか、ほんとそれ大丈夫なの?ウケ狙いで見切り発車してない?という怖さ。
手取り増や働き控え解消という分かりやすい言葉が前に出る一方、社会保険の壁や恒久財源といった不都合な論点は後回しにされている。
議員定数削減も同様で、改革している感は出るが、民主主義の代表性や熟議のコストが削られることへの説明は弱い。
議員の数が減れば、少数派や周縁的な意見ほど国会に届きにくくなる。地方やマイノリティの声、短期的な「多数派の空気」とは異なる意見ほど切り捨てられやすくなる可能性についてはほとんど語られない。
積極財政についても、成長戦略や制度改革と結びついた設計というより、支持率をつなぎ止めるための即効性が重視されているように見える。個々の政策はもっともらしいが、全体として見ると「今ウケるカード」を切り続けている印象が強く、その積み重ねが国の基盤を静かに削っていくのではないかという怖さがある。
⸻
次に悪意よりも能力への不信。
全体像やロードマップがほとんど見えない。問題が出るたびに後付けで修正し、説明は最低限、空気で押し切る。
もしこれが意図的な戦略ではなく、単に設計能力や統合力の不足だとしたら、それはそれで相当危険だ。複雑な国家運営を担うには、あまりに心もとない。
AIは、
・国民に正直に説明すれば支持が下がるから言わないという姿勢が透けて見える
・このやり方は大胆さというより制度を制御できていない感じなのでは?
と言うてるが、確信まで持てないがわかるような気もする。
⸻
そして一番怖いのがこれ。
高市政権の背後には、日本会議に代表される国家主義的な思想が透けて見える。
日本会議が目指している国家観は、ざっくり言えば「戦後日本以前」への回帰に近い。とくに明治期の国家観との連続性が指摘されることが多い。もともと神道は地域共同体の中でゆるやかに存在していた宗教だったが、明治政府はそれを国家統合の装置として再編し、天皇を中心とする国家神道へと変形させた。宗教というより、忠誠と道徳を国民に内面化させるための政治的イデオロギーだった。
その延長線上にあったのが、国家のために個人が奉仕するという発想であり、家族もまた「国家を支える最小単位」として位置づけられた。家父長制は単なる家族形態ではなく、国家秩序を末端まで浸透させるための仕組みだったと言われている。戦後憲法、とりわけ憲法24条は、そうした発想を明確に否定し、婚姻や家族を個人の尊厳と平等の上に置き直した条文だった。
日本会議がこの24条を変えたがるのは、単なる家族観の違いというより、「個人より国家を上位に置く秩序」をもう一度取り戻したいという思想的欲求に近いように見える。国旗損壊罪のように、国や象徴を「自然に敬われるもの」ではなく「罰によって守らせるもの」と捉える発想も、同じ文脈にあるのではないか。
選択的夫婦別姓の議論がなぜ噛み合わないのも、たぶんこのあたりが理由だろう。合理性や不便の解消といった現代的な議論をしようとしても、彼らはまったく別の宗教的価値観に近いものに重きを置いているのではないか。
男系男子へのこだわりに関しても、歴史的・制度的理由を装ってはいるが、実際には「そうでなければならない」という宗教的、あるいは霊的な固執に近いものではないかと思える。
血統や系譜が断絶すると、目に見えない何か、たとえば霊的な正統性や象徴的な力が継承されない、などという考えが前提にあるのだとすれば、合理的な議論が成立しないのも無理はない。
話を戻すと、これは一気に社会を軍国主義に戻す、ということではないかもしれないが、制度を少しずつ、価値の優先順位を少しずつ動かしていくことで、気づいたときには「戻れない位置」に来ている、というタイプの怖さがある。制度以上に、こうした思想が政治の中心に近づいてくることのほうが、本当はずっと危険なのではないか、という感覚が拭えない。
⸻
誰も本気で日本を壊そうとは思っていない。ただ、政権を維持するためにその場しのぎを重ね、制度も思想も一貫性を失っていった結果、気づいたときには元に戻せないラインを越えている、ということは十分あり得る。今感じているヒヤヒヤは、その手前に立っている感覚だと思う。これが杞憂で終わるならそれでいい。だが、もしそうでなかった場合のために、現時点の記録として、ここに残しておく。
追記:
4番目の「怖さ」もあったので追記。
それは上に書いた3つをよく知らないまま、70%近くの人がこの政権を支持している点。
正確には70%のうちの数%は世論誘導する立場だろうが、ほとんどの人は、「なんとなく」「初の女性総理だから」「SNSでいいねがいっぱいついてるから」「スパッと決断力があるのが良いリーダーだ」と思い込んでるとか、そんなところじゃないだろうか。
「私にだけ優しい殺人鬼」理論と同じで、その「強さ」が中国に向いてたらかっこいいのかもしれないけど、それがこっち(国民)に向くとわりと切り捨てられかねないんだけど・・・というのもあるが、ともかく、とくに3番目の「怖さ」を補足すると以下のようになる。
まあ我々、空気のように当たり前に民主主義は続くものだと思っている。生まれたときからそうだったから。
しかしどうやら、この政権ではそこが揺らぎかねないということ。
単なる右寄り・保守寄りという話ではなく、日本会議的な価値観では、表現の自由や個人の尊厳、少数意見が守られることが「当たり前」ではなくなり、国家や秩序がそれらに優先するという方向を目指してるらしいので。
憲法9条はよく言われるけど、日本会議が24条変えたがってるのもわりとまずい。
なるべく早く、そこに気づく人が増えるいいなと思う。
あかんやろという話はこれまでも常時あっただが、こと高市政権に関してはどうもレベルも種類も桁違いなんじゃないか。
それを分類すると、
能力不足では?という怖さ
思想面の怖さ
の3つになる。
ということで、このへんAIに伝えてまとめてもらった。
後でこの政権がどう評価されることになるのか、その答え合わせのためも現時点のメモとして残しておく。
あくまでも「怖いなぁ」というお気持ちや「やばいんじゃないか」という憶測であって、断定しているわけではないのでそのあたりご了承賜る。
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まず感じるのは、有権者の生活や国益より政権の延命が優先されているのではないかという疑念。
年収の壁178万円引き上げとか、ほんとそれ大丈夫なの?ウケ狙いで見切り発車してない?という怖さ。
手取り増や働き控え解消という分かりやすい言葉が前に出る一方、社会保険の壁や恒久財源といった不都合な論点は後回しにされている。
議員定数削減も同様で、改革している感は出るが、民主主義の代表性や熟議のコストが削られることへの説明は弱い。
議員の数が減れば、少数派や周縁的な意見ほど国会に届きにくくなる。地方やマイノリティの声、短期的な「多数派の空気」とは異なる意見ほど切り捨てられやすくなる可能性についてはほとんど語られない。
積極財政についても、成長戦略や制度改革と結びついた設計というより、支持率をつなぎ止めるための即効性が重視されているように見える。個々の政策はもっともらしいが、全体として見ると「今ウケるカード」を切り続けている印象が強く、その積み重ねが国の基盤を静かに削っていくのではないかという怖さがある。
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次に悪意よりも能力への不信。
全体像やロードマップがほとんど見えない。問題が出るたびに後付けで修正し、説明は最低限、空気で押し切る。
もしこれが意図的な戦略ではなく、単に設計能力や統合力の不足だとしたら、それはそれで相当危険だ。複雑な国家運営を担うには、あまりに心もとない。
AIは、
・国民に正直に説明すれば支持が下がるから言わないという姿勢が透けて見える
・このやり方は大胆さというより制度を制御できていない感じなのでは?
と言うてるが、確信まで持てないがわかるような気もする。
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そして一番怖いのがこれ。
高市政権の背後には、日本会議に代表される国家主義的な思想が透けて見える。
日本会議が目指している国家観は、ざっくり言えば「戦後日本以前」への回帰に近い。とくに明治期の国家観との連続性が指摘されることが多い。もともと神道は地域共同体の中でゆるやかに存在していた宗教だったが、明治政府はそれを国家統合の装置として再編し、天皇を中心とする国家神道へと変形させた。宗教というより、忠誠と道徳を国民に内面化させるための政治的イデオロギーだった。
その延長線上にあったのが、国家のために個人が奉仕するという発想であり、家族もまた「国家を支える最小単位」として位置づけられた。家父長制は単なる家族形態ではなく、国家秩序を末端まで浸透させるための仕組みだったと言われている。戦後憲法、とりわけ憲法24条は、そうした発想を明確に否定し、婚姻や家族を個人の尊厳と平等の上に置き直した条文だった。
日本会議がこの24条を変えたがるのは、単なる家族観の違いというより、「個人より国家を上位に置く秩序」をもう一度取り戻したいという思想的欲求に近いように見える。国旗損壊罪のように、国や象徴を「自然に敬われるもの」ではなく「罰によって守らせるもの」と捉える発想も、同じ文脈にあるのではないか。
選択的夫婦別姓の議論がなぜ噛み合わないのも、たぶんこのあたりが理由だろう。合理性や不便の解消といった現代的な議論をしようとしても、彼らはまったく別の宗教的価値観に近いものに重きを置いているのではないか。
男系男子へのこだわりに関しても、歴史的・制度的理由を装ってはいるが、実際には「そうでなければならない」という宗教的、あるいは霊的な固執に近いものではないかと思える。
血統や系譜が断絶すると、目に見えない何か、たとえば霊的な正統性や象徴的な力が継承されない、などという考えが前提にあるのだとすれば、合理的な議論が成立しないのも無理はない。
話を戻すと、これは一気に社会を軍国主義に戻す、ということではないかもしれないが、制度を少しずつ、価値の優先順位を少しずつ動かしていくことで、気づいたときには「戻れない位置」に来ている、というタイプの怖さがある。制度以上に、こうした思想が政治の中心に近づいてくることのほうが、本当はずっと危険なのではないか、という感覚が拭えない。
⸻
誰も本気で日本を壊そうとは思っていない。ただ、政権を維持するためにその場しのぎを重ね、制度も思想も一貫性を失っていった結果、気づいたときには元に戻せないラインを越えている、ということは十分あり得る。今感じているヒヤヒヤは、その手前に立っている感覚だと思う。これが杞憂で終わるならそれでいい。だが、もしそうでなかった場合のために、現時点の記録として、ここに残しておく。
国旗損壊罪が表現の自由を奪うとか、国家主義だとか、そういう意見よく見るけど、実際に他の国の状況調べると全然そんな単純な話じゃない。
先進国見ても、国旗損壊を罪にしてる国もあれば、してない国もある。でも、それによって社会が極端に右傾化したとか、表現の自由が死んだとか、そういう事例は見当たらない。
むしろ国旗損壊って、特定の国や民族へのヘイトの道具に使われることもあるんだから、ある程度の制限は社会的にも妥当だと思う。表現の自由を守るのと、他人への攻撃を許すのは別の話でしょ。
もちろん国旗を燃やしたくらいで逮捕はやりすぎって感覚もわかるけど、「この法律がある=独裁の始まり」みたいな論法はちょっと飛躍しすぎてる。実際、他国を見てもそんな相関ない。
自民・公明・維新・立憲は何度も言うが右の思想も左の思想も両方ないって
移民を大量に受け入れたり、帰化人や違法移民を擁護しまくり。中華製太陽光パネルで自然遺産や文化遺産を平気で破壊する
経済連に都合のいいように操られている。優良な天下り先にはバンバン中抜きで税金を投入する。
平気で移民を大量に受け入れる。不法移民すら放置どころか擁護。
自ら社会問題を量産しており、無秩序な国家へと変貌を遂げた。裏金脱税売国なんでもあり。
移民利権団体だらけで、政治家と官僚の金儲けのタネなだけでこんな思想があるわけじゃない。