はてなキーワード: 合理性とは
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
「アメリカでは黙秘権を行使したら取調べが止まる!日本は遅れてる!」
でも、アメリカの刑事司法って“被疑者に優しい世界”じゃないからね。
・超長期刑
っていうのは、かなり都合のいい摘み食いなんだよ。
それは結局、「警察はそれ以上何も聞くな」「本人が黙ればそこで終了」
という方向に近づく。
当然その分、
・組織犯罪
の立証難易度は上がる。
それは裏を返せば、
「立件できずに野放しになる犯罪が増える」
も受け入れるって話でもある。
もちろん、日本の密室取調べや自白偏重への批判には合理性があるし、
ただ、その議論をするなら、
って部分まで含めて語らないと、公平な制度論にはならない。
良いとこ取りだけして、
悪い部分は「それは導入しません」は、
制度論としてはかなり雑だと思う。
似ていると感じるポイントは、どちらも「局所的には決まっているのに、全体としては確率的・関係的にしか見えない」という構造を持っているところだと思います。
まず囲碁は、ルール自体は非常に単純です。石を置く、囲む、取る。それだけです。しかし実際の局面になると、「この一手が本当に良いのか」は局所だけ見ても決まりません。盤全体との関係で価値が変化します。
量子力学も似ています。シュレディンガー方程式のような基礎法則は明確ですが、観測される現象は「状態そのもの」ではなく、状態間の関係や確率として現れます。
特に似ているのは次のあたりです。
囲碁では、一つの石は単独では弱いですが、離れた石同士が“連携”すると急に意味を持ちます。盤上の勢力は、個々の石の足し算ではなく、配置全体の相関で決まります。
量子力学でも、粒子は独立した点として扱うより、「状態の重ね合わせ」や「エンタングルメント(量子もつれ)」のように、系全体の関係性として扱うほうが本質に近いです。
つまり両方とも、
「要素単体には固定的意味がなく、全体との関係で意味が決まる」
さらに、囲碁の「厚み」や「模様」は、まだ確定していない潜在的領域です。現時点では地ではないけれど、将来どちらにも転びうる。
これは量子的な「重ね合わせ」にかなり感覚が近いです。
たとえば中央の模様は、
を同時に含んでいます。
観測されるまで状態が確定しない量子状態ほど厳密ではないですが、「価値が未確定で、多義的に存在している」という感覚はかなり近い。
あと、囲碁AIが人間棋士に与えた衝撃も、少し量子力学っぽかったです。
人間は長く「石はこう働く」「定石はこういう意味」と比較的古典的に理解していました。しかしAIは、「局所的には変に見えるが、全体相関で最適」という手を大量に打った。
とも言えます。
チェスは駒ごとの性能が強く定義されています。ナイト、ルーク、クイーンという“粒子的”世界です。
囲碁は逆で、石そのものにはほぼ性能差がありません。意味は配置と密度から生まれる。これはむしろ電場・波動・確率振幅みたいな「場」の感覚に近い。
だから「囲碁は量子力学っぽい」という直感は、単なる雰囲気ではなく、
この主張は一見筋が通っているようで、実は前提をいくつか飛ばしています。冷静に整理すると、次のように返せます。
まず、「選挙に行かない=政治に対して発言権がない」という考え方は、民主主義の原理とは必ずしも一致しません。選挙権は“権利”であって“義務”ではない以上、行使しなかったことを理由に意見表明そのものを否定する根拠にはなりません。
次に、政治への関与は投票行動だけではありません。言論、署名、デモ、日常的な議論なども含めて広く構成されています。したがって「投票していない=一切の関与をしていない」とは限らない。
一方で、この意見が完全に的外れかというとそうでもなく、「投票という最も直接的な意思表示を放棄しているのに結果だけ批判するのは説得力が弱い」という指摘には一定の合理性があります。これは“発言の権利”ではなく“発言の重み”の問題です。
皇室神道における分祀の概念は同一のものを複数の場所で祀る仕組みであって、合祀した魂をふたたび要素として抜き出すものではないし、分離は出来ないことになっている。 (と説明されている。)
たとえばコーラとオレンジジュースを混ぜてしまったらコーラだけ取り出すことは出来ないだろう。
政治的合理性は存在せずただそう信じる「ことにした」という内心の理屈を反映したものが信仰というものなんだ。
そしてその内心は動かしようがないし、確認も出来ない。
仮に形式的に戦犯の一部を分けることにしてそのための儀式なり手続きなりをしたとしても信仰を持つ人の内心で魂を分離していないつもりで参拝するのは可能だし、命令で内心を変えることは不可能だ。
はい終わり。
……で終わると味気ないから、一応ちゃんと歴史持ち出して叩いていくね。
じゃあ聞くけどさ、条文で戦争防げるなら人類とっくに平和だよね?
現実はどうだった?
→侵略止められませんでした
9条信仰って、これをなかったことにしてる時点で思考停止なんだよね。
じゃあこれどう説明すんの?
・冷戦
→核抑止で直接戦争は避けた?はい、その代わり代理戦争は山ほど発生
つまり
「抑止力がある=安全」ではなく、「ミスったら即地獄」ってだけ
どっちも前提がファンタジーなんだよ。
残念でした、万能解はありません。
0か100かで語ってる対立する立場を罵倒してるだけなので左右どっちも同レベルのお花畑。
どっちも「ぼくのかんがえたさいきょうのへいわろん」だ現実はそんな単純じゃねえよ。
あと一つは?
人と話すときは常に傾聴を意識、一話題話したら、「話し過ぎでないか」頭のなかで確認する。
ウエストポーチを最小単位とし、財布、家の鍵、車のキー、スマホ、充電アダプタ、ケーブルを常に携帯する(家の鍵と車の鍵はポーチに繋いである)
当事者会にも参加し、色々試行錯誤した結果、まあ職場でも「変わった人」程度でやれてる。と思う。
配偶者に何度も追い出されそうになった家もなんとか、まあある程度諦めてくれたのか、住み続けることができている。
一人旅だから、何を忘れようと、忘れた物の数だけ不機嫌になる家族はいない。行き先も都市部だしと、荷造りはきわめて適当に行った。
結果、例の最小構成のうち、充電器をアダプタ部分しか持ってこなかった。出発前に、TypeCケーブルを仕事用カバンのモバイルバッテリーに繋いで充電し、そのまま置いてきたからだ。このことに気づいたのが行きの空港に着いてから(アダプタ部分を確認してヨシ!となっていた)だった。出発に最終便を選んだため、空港内のコンビニはもう閉まっていた。仕方がないのでChargeSPOTで何とかしのぐ。
ラウンジでギリギリまで過ごし、搭乗ゲートまで猛ダッシュ。途中ChargeSPOTの返却口がなかなか見つからず焦るが、何とか離陸を遅らせることなく搭乗。
着いた先のファミマで、片方をTypeA-C変換できるケーブルを買い、「前のより便利!忘れてきてよかった!」という謎の正当化を図る。
ホテル到着。パンツと靴下を忘れた。服を詰める時に、自分の体が上半身だけだと思ったらしい。さらに何を考えたのか、持ってきているはずの肌着は、さっきのファミマで買い足していた。今考えてもよく分からない行動。まあ買い足したいとは思ってたんだけど今それを行う合理性はない。買った肌着はパッケージも開けないまま、1日くらい誤差だと言い聞かせてパンツと靴下を連履きした。
無駄に夜更かしして朝8時に起きる。昨日新しいケーブルでバッチリ充電したスマホは100%に…なっていない。コンセントをドライヤーに差し替えたあと、戻すのを忘れていた。ドンマイ。
帰りの飛行機も早めだし、早めにチェックアウトしようかな〜と思っているうちにあっという間に10時になる。退散。
ここに至るまで旅のプランを全く考えていなかったので、駅前の観光案内所に寄る。生憎の雨なので美術館に立ち寄ることにした。美術館は一人で行くに限る。鑑賞のペース十人十色だ。
美術館へ行くバスに乗り、ぼーっとしていたらいつの間に降りる停留所だったので慌てて降りたら折りたたみ傘を席に忘れてしまった。まああの傘大分ガタが来てたしな…とまたもや脳内で正当化を図る。美術館はとても良かった。
その後も、並んでいる列をガン無視する(言われて気づいて、もちろん後ろに並び直した)などちょいちょいポカを挟みつつ、無事帰路についている。
最高の一人旅だった。一人になると、普段自分がどれだけ緊張状態で暮らしているのかが分かる(マッサージ店行くと、背中が鉄板みたいにガチガチと言われる)。
■登場人物の整理
・語り手(主人公):今の家への執着が強い一方で、言動に大きな矛盾を抱えている。
・連れ合い:新築や買い物感覚の刺激に弱く、その時々の感情で主張が二転三転する。
・デベロッパー:高額な条件提示によって、平穏だった夫婦の関係性に亀裂を生じさせた。
中盤まで「今の家にいたい」「幸せだ」と熱弁していますが、最後の一行で「(田舎への移住の)話をこの一ヶ月していたでしょうよ」と憤っています。語り手自身が移住を前提に話を勧めていたことになり、それまでの「家に残りたい」という悲痛な訴えと完全に衝突しています。
「ホームズ海峡」は「ホルムズ海峡」の誤記と思われます。建築資材の高騰という社会的なリアリティを出す場面で、基礎的な名称を間違えると文章全体の信頼性が失われます。
あと3年で定年、かつ在宅勤務という状況で「通勤に便利」という理由で新築を喜ぶ連れ合いの言動は、あまりに短絡的です。読者には、単に設定を無視して動かされている人形のような印象を与えます。
周辺相場の2倍、あるいはタイトルにある「億」単位の金銭を得られるなら、資材高騰を考慮しても同等以上の家を建てることは可能です。語り手の「もう建てられない」という嘆きは、事実というよりは変化を拒むための感情的な言い訳に見えます。
■総評
家への愛着という情緒的なテーマに対し、最後の一行で語り手自身の論理が崩壊している点が致命的です。語り手が「被害者」なのか「移住の共犯者」なのかを明確にすべきです。
全国一律で同じこと言い始めるから鬱陶しいんだよ
これは
・一分一秒を急ぐことが少ない
・人が少ない
・エスカレーターの数が少ない
からだと思う
片側を空けてどんどん歩かないと駅のホームが溢れかえると皆分かってる(階段は無い)
そして一分一秒を急ぐシーンが多い、一本電車を逃すと乗り換えの関係でかなりの遅れになってしまう
そもそも都市の通勤時間は最も長いため、皆圧縮したくてギリギリの時間で移動しているんだ
だからマジで97%位の人は片側空けをしている、通勤者に限って言えばもっと高いだろう
たった10%でもこれに反する人がいればこの状態にはならないわけだから、かなり合意された状態なんだと思う
「片側空けは同調圧力だ」「本当は両方に乗りたい」「空けてないと怒られる」と言ってる人はどこに住んでるんだろうか
少なくとも強面のおっさんばっかりの場所の方がむしろ全員片側を空けているから、なんか信用できない
単に別のところに住んでるだけじゃないのか
あと、合意が難しい場所では都内の混雑地域でも両側になっている
例えば渋谷のマークシティの長いエスカレーターとか、あれはあれで良い気がする
しかも歩いてる人も居ないから輸送効率を言えば悪いんだけど、単純に長時間他人の隣に立ちたくないだけだろう
これはこれで合理的に見える
輸送効率と言えば、片側を空けない田舎ではどうなのかで言えば、普通に両側に他人同士で立つことはないので、「一段とばしで両側に立つ」が基本になるため輸送効率は全く良くない
そもそも急いでいないんだ
「なぜルールを守らないのか?」と言う人が居るが
いまは数十年あったルールをいきなり変えられた格好である、しかも合理性に欠ける
合理性に欠けるルールは、罰則アリの交通ルールですら守らない、それは分かってるはずだ
日高屋の社長が外国人雇わなかったら日本人雇わないといけなくなるつって炎上してて
その中で「外国人雇えば80万貰えるから」みたいなこと言ってる奴めっちゃいたんだけど
普通に考えて外国人バイト雇って1人当たり80万も出すわけなくね?
もろちんそんなわけなくて草生えた。
おそらくそいつらが言ってるのって
のことで、外国人労働者が働きやすい環境を整える4つのポイントを整えることで
1ポイントにつき20万、上限80万円もらえるって制度のことで
環境が整った時点でもらえる80万円だけ。
もしくはそっちじゃなくて
だとしても
こっちはアルバイトから正社員に登用した上で6ヶ月給料払って尚且つ3%以上のチンageしないともらえない。
どこから外国人を雇うと80万円の補助金が国から出るという話が出てきたのか
その謎を探るため我々はAmazonの奥地へと向かった・・・
ギリシャ神話の運命の三女神モイライは、人生の糸を紡ぎ、測り、容赦なく断ち切る。神々でさえ抗い難いこの絶対的な力は、人間がどれほど賢く逃れようとしても、予言を成就させる残酷な皮肉を宿している。
進化生物学は、この神話の残酷さを、遺伝子と脳の回路という形で証明している。逸脱衝動——加害の快楽を求める衝動と、それを創造の炎に変える想像的逸脱——の起源は、集団の生存戦略として有利だった極端な特性の多様性にある。個人のレベルでは避けがたい不幸と破滅を運命づけるが、集団レベルでは「保険」として機能してきた。これが、進化が生んだ宿命の本質である。
進化の過程で、人間集団は環境の激変に柔軟に対応するため、特性の多様性を戦略的に残した。中脳辺縁ドーパミン系(腹側被蓋野から核 accumbensへの投射回路)は、生存に有利な行動を即時的な快楽で強化するよう設計されている。この回路の感受性を高める遺伝的変異——特にDRD4遺伝子の長型対立遺伝子——は、sensation seeking(感覚追求傾向)という特性を生む。
進化生物学的に見て、これは明確な生存戦略だ。ほとんどの個体が保守的で安定した生存を選ぶ中、少数の極端な個体が未知の領域に踏み込むことで、集団の適応力が飛躍的に向上する。狩猟採集時代には、新しい狩場や技術を発見する冒険者が、集団の存続を支えた。
この多様性は、集団の長期的な生存確率を高める。集団生物学的合理性が、逸脱衝動性を存続させてきた。
しかし、極端なsensation seekingは、報酬系の過剰活性により、日常の穏やかな快楽では満足できなくなる。
記憶再固定の仕組みで長期的に固定され、ストレスや環境再暴露で容易に再燃する。
暴力や性的支配、背徳的スリルがもたらす即時的なドーパミン爆発に深く飲み込まれる。報酬系が再配線されると、日常のささやかな喜びはすべて色褪せてしまう。外部の規則で一時的に抑えられても、自由の瞬間が訪れた途端、古い渇望が再び牙を剥く。
未知への渇きと狂おしい好奇心で科学を、芸術を、思想を高みへと押し上げる。
進化は集団の存続のために、逸脱衝動という極端な特性を残した。しかし、個人の人生にとっては、モイライの糸のように残酷だ。加害の道も創造の道も、深い孤独と避けがたい代償を背負う。
19世紀欧州に勃興した「リベラリズム」というのは、反保守・革新、を意味するのだが
19世紀の当時に、保守ではない、というのがどういう態度を指したかと言うと、
『伝統的歴史的には存在しないし、なんなら今もぜんぜん無理な気がするけど、理屈の上では理想と思われる状態の実現を目指すこと』だった。
19世紀当時、これは非常に強力で正しい態度だった。「科学的根拠や合理性にもとづいた行動」が、そのままリベラリズムに結び付いていたからだ。世論やキリスト教の拒否反応を押し切って天然痘ワクチンの接種を進める、とかがリベラルだった。
お前がタイトルで挙げた項目、「理屈の上では理想と思われる状態の実現」って点で共通しているんだよね。なんならアイドルすらもそうかもな。
あれを「ランドルト環」と呼ぶ。
我々は子供の頃からあのマークに慣れ親しんでいるせいで、ただの「視力検査の記号」として処理してしまいがちだ。
しかし、エンジニア的な視点で改めて観察すると、あれは間違いなく「人類が発明した中で最も洗練されたユーザーインターフェースの一つ」だと言える。
アルファベットを使う視力検査(スネレン指標など)と比較すると、ランドルト環の異常なまでの合理性が際立つ。
アルファベットの「E」や「F」を読み取る検査には、致命的な欠陥がある。
文字を認識する能力と、網膜が解像度を正しく処理できる能力は別物だ。もし検査対象が幼児や、異なる言語圏の人だったらどうなるか?
その点、ランドルト環はただの「切れ目」だ。
「どこが空いているか」を答えるだけでいい。これは言語の壁を完全に排除した、極めて純粋な「視覚解像度の測定」だ。
外径と線の太さと切れ目の幅は、すべて一定の比率(1:5)で設計されている。つまり、どこを向いていても視認難易度は変わらない。
これはエンジニアがベンチマークを取る時の「テスト用データ」そのものだ。
どんな環境(照明やコントラスト)においても、人間の網膜というセンサーが「切れ目を認識できるか」という一点を測定するためだけに作られた、完璧な図形だ。
ランドルト環のUXが優れているのは、説明コストが極限まで低い点にある。
「右、左、上、下」という4方向の指示さえできれば、PCもスマホも必要ない。
物理的な紙と、光さえあれば誰でも同じ基準で測定できる。アップデートも不要。バグも起きない。
最近のUIデザインでは「いかに直感的に操作させるか」が腐心されているが、ランドルト環は「直感」という概念すら必要としない。
「開いている方向を指差す」という、人類共通の身体的反応にダイレクトに接続している。
最近のデジタル機器のUIは、やれフラットデザインだ、やれニューモーフィズムだと装飾を凝らしがちだ。
しかし、最も重要な機能を測定するための道具は、ランドルト環のように、無駄を削ぎ落とし、言語すら介在させない、究極の「無」であるべきなのかもしれない。
結局のところ、片側は歩いて登るレーン、片側は立ち止まるレーンという仕組みが日本人にはしっくりとくるやり方なんだろう。
日本人の感覚的には、かなり合理的に感じる仕組みなんだろうな。
そうじゃなくちゃここまで堅持されないよ。
実際のところ、鬼のように人が多い大きなステーションでは流石に片側を空けることはしなくなってる。
逆だよ。 公式設定を大きく無視するならその原作の二次創作として書く必要ないだろってことになる。
公式設定を尊重した上で、たとえば「描写されていないけどこのあたりの時期にこういうことがあったかもしれない」というように作品の間を埋める形にすれば原作から逸脱しない二次創作は出来るし、それもスタンダードな二次創作のひとつだ。
キャラクターの解釈は原作に則った上で前提となる状況を変えてしまうな二次創作もある。 (極端な例としては学パロが挙げられるだろう。)
もちろんキャラクターの解釈は人それぞれなので有りそうか無さそうかの判断も人それぞれだけど、多くの人が同意できる解釈と多くの人が受け入れられない解釈とその間のどこかのグラデーションがある。
カップリングはキャラクターの強い感情を基礎にしているのでそこが変えられるとキャラクターの根幹が揺らぐし、キャラクターの根幹を変更するのは大きすぎる改変だと考えることに合理性はある。
結局のところは程度問題なので受け入れられないと感じる人が多いなら受け入れられないものなのだという事実として受け止めるしか仕方ない。
何もかも受け入れられるべきだと思ってるわけじゃないだろ?
その上で、受け入れられなくても作って発表する自由はある。 それが表現の自由だ。
「嫌なら見るな」とか言う人もけっこういるけど見る前に嫌かどうかわかるなら苦労はない。 見るから好きになったり嫌いになったりするんだ。