今回はようやく、「アントニーの詐術」の一つである「編集の詐術」に入っていきます。
そこで私に相談に来るわけだが、私は学生から軍隊へ直行したから何も知らない。
従ってみなが相談に来たのは、私か目当てはなく、私のボスにそれとなく聞いて相手の考え方を打診してくれということであったと思う。私はある事情で米軍将校の私的な仕事をやらされていた。
最初のボスはL中尉でユダヤ人で本職はニューヨークの弁護士、これが一番長かったと思う。
二代目はS中尉でアイルランド系、本職はカンサスの警察署長であった。
いわば弁護士と警察署長だから、こういう人から何かを聞き出してくれれば、何とかなるかも知れないと思ったからであろう。溺れる者はワラでもつかむのである。
幸い二人とも親切な人だったから、一生懸命いろいろときくのだが、さて、こちらの言うことがさっぱり先方に通じないのである。原因はもちろん私の英語がダメだということだが、この質疑応答が全くトンチンカンになってしまう。
そのとき思い出したのが、学生時代、居眠りしながら聞いた講義の中の「シナ」であった。
謎をとく端緒は、ここにあった。
そこでS中尉にたのんで『シーザー』を借りてもらって――これが意外なほど入手困難だったが、その間の事情は省略する――読んだ。
そしてアントニーの演説には三つの詐術があることを知った。
この三つの詐術がいわば「アントニーの原則」であり「扇動する側の論理」である。
そして「扇動」という意識なくこの論理で話を進め、相手の判断を規制していって、命令同様の効果をあげるのが「軍人的断言法の迂説的話法」である。
もちろん「直接話法」も併用するが、それは次にゆずって、まず、この「アントニーの原則」の「三つの詐術」からはじめよう。
すなわち、それは
(一)編集の詐術、
(ニ)問いかけの詐術、
(三)一体感の詐術、
この三つである。
まず(一)から説明する。
(一)編集の詐術。これは編集者なら説明なくしてわかることと思う。
これを知らない編集者がいるはずがなく、もしいれば、その人は「編集者失格」である。
本多氏も新井氏もたしか編集委員であったと思うから、お二人には説明の必要はないはずであるが、編集という仕事を知らない読者のために少し詳しく説明しよう。
アントニーはまずシーザーの死体を示す、これは事実である。最後に「遺言状」を示す。これも事実である。そしてこの二つの間を事実・事実・事実でつなぐ。これも事実である。すべて一点疑いなき事実であって、だれもこれを否定できない。
ところが実はこれが「トリック」なのである。
なぜか、もう一度いうが編集者なら御存知であろう。説明の必要はあるまい。知らないならまだよい。だが、知っててこれをやってはいけない。
少なくとも編集という仕事をしている人間にとって、常に直面しなければならないのが、「事実に基づくトリック」をどうやって克服するかという問題のはずだからである。
自分の体験に基づいて非常にわかりやすい例をあげよう。
前に私のところで『ジョン・バチェラーの手紙』という本を出した。実に売れなかった本である。
この本は有名な「アイヌの父」ジョン・バチェラーの手紙を、集められるだけ集めて、それを編年史的に編集し、手紙という「事実」だけで構成した「伝記」を作ろうと意図したものであった。
もちろん絶対に手紙の内容には手をふれない。解説が必要なら、小さい字で手紙のあとに短い解説をつけ、それもほとんどすべて同時代の資料だけを利用して、ほぼ資料のまま入れる――という形である。
ところがこれが何年かかっても本にならない。
もっとも私のところは、本になるまで良ければ七年、短くて二年はかかるからこれだけが例外というわけではないが、この場合はちょっと特別で、私自身が何とも編集できなくなってしまったからである。
バチェラーのような人は、がんらい「可もなし不可もなし」のはずかなく、従って非常に性格のきつい面、いわば相当に「我」が強い面があり、いわゆる「敵」も多く、従ってバチェラー嫌いという人もいる。
一方アイヌの間では「神様のような人」というのが定評であった。
また日本人の中にもファンがおり、その事業を高く評価する人もいれば、「売名屋で、アイヌをくいものにし、上流社会にとりいった」という人もいる。
しかし世評はどうでもいい。「事実」を知りたい。
そこで「手紙という事実」だけを集めた。ところがどうにもならない――というのは編集の仕方でどうにでもなる。
ある「手紙という事実」だけを集めてつなげれば彼は文字通り神様になってしまう。
そしてそれが確かに事実だけなのである。
ところが別の「手紙という事実」だけを集めて並べれば彼は「アイヌをくいものにした、くわせもの」になってしまう。
そしてそれも、まぎれもない事実なのである。
従って、そのようにしていけば手紙の集め方で「売名屋」であれ、「上流社会にとり入った男」であれ、はたまた「守銭奴」であれ、全く自由自在、編集者の指先一つで、何とでもなる――それていて、並べてつなげているのは、まぎれもない、動かすことのできない、本人が書いた手紙という「事実」なのである。
一体全体どうしたらよいか。
とうとう最後には、思いあまって、結局何もかも含めて全部の手紙をただ年代順に並べ、おそろしく膨大なものを出版した。
いわばどうにもならなくなっての「編集放棄」であり、仕方ないので「資料集を出したのさ、資料集としては立派なものさ」と負け惜しみを言ったが、それなら二年も三年もとりくんでいる必要はないはず、従って正直にいえば、本当は投げ出したのである。
バチェラーという一人間、そうスケールは大きくない一人間の生涯すら、「事実」だけで構成して、神様にもできればおそらく悪魔にもできる。
これが毛沢東ともなれば、「事実」だけで構成しても、神様にも悪魔にも仕立てあげることができて当然である。
これがさらに規模が大きく複雑な対象、たとえば日本軍ともなれば、「事実」の編集だけで「神兵」にもなれば、「獣兵」にもなろう。
当然である。
人間は神と獣の中間だそうだから、編集の仕方で「神兵」にも「獣兵」にもなるとすれば、それは日本の兵士は人間であったという証拠のようなものであろう。
だがさらにこれとは桁違いというべき想像を絶する巨大な「中国」というような対象となれば、「事実」の並べ方だけで「天国」にもなれば、「地獄」にもなるのはあたりまえであって、そうならなければ不思議である。
編集者なら、そんなことはわかりきったことのはずである。
アントニーは、扇動の第一歩として、シーザーを「神様」にする「事実」だけを編集しているわけである。
そしてその一片一片の事実は、バチェラーの個々の手紙の如くに、あくまでも事実だから、だれもそれを事実でないということはできない。
典型的な「編集の詐術」なのであり、これが実は扇動の基本であり、また「判断の規制」の基本なのである。
新聞が偏向しているとかいないとかいう議論があるが、いかに偏向しまいと思ってもすべての出版物は結局は何らかの偏向を免れることはできないのであって、今私か書いていることももちろん偏向している。
従って私ははっきり「偏見」とことわっている。確かに偏見とか偏向とかは非常にこまったことだが、これを是正する方法は実は一つしかないのである。
それは「アンチ・アントニーの存在を認める」という以外にない。
すなわちシーザーの死体の頭のところにアントニーが立って、事実・事実・問いかけ、をくりかえしていると、同時にシーザーの死体の足のところに「アンチ・アントニー」が立って、同じような方法で、アントニーの言う「事実」に反する「事実」を、同じように、事実・事実・問いかけという形でのべる以外にない。
ここで聴衆は、相反する二つの事実を示されることによって、「自分の判断」ができるはずである。
従って真に「偏向」しているものは何かといえば、それは「アンチ・アントニー」の存在を認めず、あらゆる方法でそれを排除し、その口をふさいでしまう者のはずである。
日本軍は絶対に「アンチ・アントニー」の存在を認めない。
従って、この存在を認めない者を、私は日本軍同様と見なす。それが何と呼ばれていようと――。
ところがアメリカ軍はそうでないのである。
そのために発令者が全責任を負う「命令」というものが明確に存在するのである。
すなわち「命令」という形式が存在することは、対立意見があることを前提としているのであって、「アントニーの詐術」には命令は存在しえないのである。
そして明確な命令があってはじめて責任の所在が明らかになる。しかし扇動には責任者が存在するはずはないのである。
私は偏向者にも扇動者にもなりたくない。そういうものはもうたくさんである。
私は自分の言うことを偏見とことわっているのだから、新井宝雄氏(註)にも徹底的に反論してもらいたい。
(註)…毎日新聞社の編集委員。この「ある異常体験者の偏見」を書くきっかけとなる山本七平の論争相手。
罵詈讒謗でも悪ロでも何でもかまわない。コテンパンにやっつけてもらいたい。というのは、反論されれば、同時に、資料も提出してもらえるからである。
私にとっては、これくらい有難いことはない。
どうか私を徹底的にやっつけて下さるようお願いする―ーもちろんその節は、その反論は全部「資料」として私の方にいただく。それをしてはじめて事実が解明できるはずである。
同時にそれはアントニーとアンチ・アントニーが併存することだから、私は絶対に扇動者にならないですむから。
これがおそらく、「アントニーの原則」の(一)編集の詐術から自分も脱却でき、また、聴衆にも読者にも何の迷感もかけずにすむ、唯一の方法ではないかと思う。
従ってその人が扇動者か否かを見分ける重要なポイントは、その人がアンチ・アントニーの存在を認めるか否かにあると思う。
(~次回へ続く~)
【引用元:ある異常体験者の偏見/アントニーの詐術/P95~】
かつて私はマスコミの偏向報道について怒っていたのですが、この記述を読んで認識が改まりました。
偏向しているのがむしろ自然なんだ、と。
従って、偏向していることそのものに怒りを向けるのではなく、「アンチ・アントニーの存在」を認めないものに怒りを向けるべきなのだ…と思うようになりました。
例えば、朝日新聞は偏向していると批難するのもいいのですけど、問題にすべきは、そうした批難に回答しなかったり、間違っていたとしても訂正記事を書いたりしない朝日新聞の「態度」であって、「偏向」そのものではないと思うのです。
橋下府知事が朝日新聞を批難しているのが最近の話題になっていますが、今まではそうした批難をしてもマスコミからは黙殺され、一般市民に知らされず闇に葬られることが多かったように思います。
橋下府知事の批難は、確かに適当でないかもしれない。
しかし、府知事の批難に対して朝日新聞は自らの主張で応戦すればいいのではないかと思います。
どちらが妥当かは、第三者が判断するでしょうから。
今までマスコミが取り上げなかったことを、ネットが発信しはじめているという事実は、ネットが扇動から逃れる新たな「ツール」となりえる可能性を示しているのではないでしょうか。
市民をコントロールする手段を失いつつある第4の権力者であるマスコミが、ネットを敵視するのも当然かも知れませんネ。
それはさておき、次回はいよいよ「問いかけの詐術」に入っていく予定です。お楽しみに。
【関連記事】
★アントニーの詐術【その1】~日本軍に「命令」はあったのか?~
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