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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その3】

前回前々回のつづき。
今回は、戦後育った世代が、どのような思考図式を叩き込まれたのか、そしてそれがどのような結果をもたらしかねないか、について話が展開していきます。

「あたりまえ」の研究 (文春文庫)「あたりまえ」の研究 (文春文庫)
(1986/12)
山本 七平

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前回のつづき)

「やがてまた、マスコミ指導の”国民精神総動員”が来るだろうなあ」とそのときは半ば冗談のように考えていたが、それがほんとうにやってきた――否、少なくともやってきたように見えた。

見えたというのは、確かにリーダーは、上記の二元論的確信論者のような発想でやっていたし、マスコミの戦意高揚記事も同じ発想だったが、参加している戦後生まれの若い人たちの発想は、これとは別だったと思われるからである。

これも正確な日時は忘れたが、新宿でべ平連のデモを見ていたとき、明らかに戦後生まれと思われる一団から、ごく自然発生的に「アメリカは弱い者いじめをヤメロー!」という声があがったからである。

「なるほど、同じようにデモをしていても、戦後生まれの人たちは、戦時中に幼少年が叩き込まれたような思考図式はもう持っていないのだな」と私は思った。

というのは「弱い者いじめをヤメローッ」という声は戦場にはない。

玉砕直前の兵士ですら、この声を敵に対してあげることはない。
否それどころか、彼らは、十数倍の敵を引き受けて、死を覚悟してそこに踏みとどまっている強者であっても、弱者ではない

そして彼が強者でありうるのは、前記の二元論の確信論者として、自己が最後の勝利者の側にいることを信じているからである。

そしてそれに連帯する”国民精神総動員”はこれと同じ精神状態を要請しているから、たとえB29が爆弾の雨を降らせても、また徹底的北爆を行っても、この声は出てこない。

したがってそれに連帯するはずの者が、連帯している対象を「弱い者」と規定することはあり得ない。

したがってこの叫びをあげた者の思考図式はやはり戦後平和時代のものであって、戦時下に叩き込まれた思考図式ではないのである。

もちろん指導者の意識は別であったろう。

北ベトナムパリ協定を無視してサイゴンに突入すれば、それは「歴史の流れ」であり、最初に記した二元論的図式において「歴史の側」に立つと称した人びとには予定の成就だから、双手をあげて歓迎して当然である。

ただ私は当時、表面には表われないが、あの「弱い者いじめをヤメローッ」と叫んでいた青年たちの内心の反応はどうであろうかと思った。

というのは強大なアメリカが北ベトナムを叩くのが弱い者いじめなら、弱体化した南ベトナムヘ協定を無視して進撃するのもまた弱い者いじめだからである。

そして前者の考え方は北ベトナムに精神的に連帯しているが、後者はけっしてそうではなく、戦時中型の二元論的図式はすでにないからである。

となると後者はこのことを、自己の内心の問題としては処理できないはずであり、それが一種の嫌悪――自己嫌悪にもなるであろうし、ベトナム嫌悪にもなるであろう――となることは当然に予測された。

というのは、この世代の受けた教育はまず平等の立場に立つ無条件の話合いであり、そのことは強者や優者の否定であって、同時に弱者の権利の保証であり、最終的にはそれによってもたらされる「結果の平等」の追究だからである。

そしてこれらの前提とされるものが「無条件の話合いに基づく合意」であることは当然で、これが否定されれば、その思考図式自体が成り立たないはずであり、これが何としても排除しなければならぬものは、「弱い者いじめ」乃至は「弱い者いじめ」と見られる現象である。

この発想からいえば「ベトナム政府はボート・ピープルと話合え」ということになるであろうし、そうならずに現出したこの状態自体に一種の嫌悪を感ずるであろう。

おそらくそれが現代の”国民感情”であり、それに対応してマスコミの論理もほぼ二元論的発想を脱却して、この考え方を正当化しているように思われるが――さて、事態の進展は、この図式の固定化より早いのではないかと思われる。

というのは、この発想は最初に記したような考え方にも発展するだけでなく、平等の立場による話合いは結果の平等を招来せず、逆に排除を生み出すからである。

これはキブツにも見られる。
すなわち成員間の完全な平等を指向すれば、能力に応じた収入の格差を認めることはできない

となるとこれは能力の平均した人間で構成されねばならず、その水準を維持しないとキブツ自体が倒産してしまう。

となるとキブツ内ではあくまでも結果の平等が保証されるかわりに、不適格者は除名されるという結果にならざるを得ない。

同じことが同期の平等を指向する官僚社会にもあるということを、堺屋太一氏から聞いたが、これらが全員の話合いで行われ、これのみが絶対とされてそれを外的に規制する法がないと――またあってもマスコミがしばしば主張するように「話合い」絶対で法を無視してよいとなると――法によって自らを守るということは不可能になるからである。

もっともキブツはそれを規約としている任意加入集団だからそれでよいかもしれぬが、日本という国はわれわれにとっては任意加入集団ではない

その状態における「話合い絶対」による「結果の平等」指向が排除の論理を生み出した場合、「話合い」絶対はたいへんな結果を生み出すであろう

それは高校生売春の比ではあるまい。
私はこの事態はすでに始まっていると思っている。

その排除は「話合い」絶対から始まっているのだから、マスコミがいかに「話合え」と強調しても解決にはならず、それは「ベトナム政府はボート・ピープルと話合え」と主張するに等しいであろう。

というのも、ここも結果の平等を目指す社会が生み出している排除だからである。

以上の問題にいかに対処するか。

それは結局は、自己がその幼時に叩き込まれた思考図式との戦いなのであって、この図式を全員が絶対化し、国民精神総動員的に対処しようとすれば、何も解決できないということである。

人が幼時の思考図式から脱却しにくいのはあたりまえのことである。

だが、それが「あたりまえ」と考えるときに、それに対処する方法が出てくるのであって、それはけっして絶対的ではないのである。

【引用元:「あたりまえ」の研究/Ⅰ指導者の条件/話合いの恐怖/P79~】

以下、私なりの解釈・感想を述べていきます。

まず、面白いとおもったのが、戦中の思考図式と、戦後のそれとが異なっていること。
ただ、戦中の思考図式(善悪二元論)というのが、戦後世代から完全に消え去っているとはとても思えないなぁ…。

戦前のように善悪二元論が「絶対視」されなくなったものの、戦後も日本人の思考図式の中には、依然として根強く生きつづけているとしか思えないのですよね。

また、「国民精神総動員」の具体例としては、別著「ある異常体験者の偏見」の中の記述を思い出したので、以下引用紹介しておきます。

(~前略)

軍部が支配したときも同じで、旧憲法でも信教の自由は一応保証されている。

しかし、宣撫班(註…マスコミのこと)は、この「不磨の大典」といわれた明治憲法の保証ですら、「国民精神総動員」の音頭をとって、実質的になくしてしまうのである。

さらにそれが一億総背番号制と合体したらどうなるか。

一億総背番号制などというと何か新しいことのように思う人がいるが、戦争中の「米穀配給通帳」はまさにそれであった。
この登録を消されたらその人間は餓死してしまう。

K市のY牧師は大詔奉戴日に式典に出て行かなかったので、配給所長である町会長に「通帳」を没収されてしまった。
そのままでは餓死する。

彼は、明治大帝の発布された憲法に信教の自由は認められており、従ってこういう処置で人を餓死さすことは「陛下の意思に反し、憲法に反する」と訴えつづけ、全新聞に投書したがもちろんだれも取り合ってくれず、完全に黙殺された

宣撫班がとりあってくれないのは当然といえば当然である。
彼は、鉄道線路の土手の野草と友人たちのわずかな小包(その人たちも飢えていた)でやっと終戦にたどりついた。
餓死一歩手前であった。

この体制は戦争が終っても形を変えて、マック制(註…マッカーサーによる日本占領統治のこと)の下で生きつづける。

当時も今も、人は最高裁が何と判決を下そうと新開が「憲法に違反し……」と書けば憲法違反だと信じているから、憲法にこうあるから、新聞判決の方がおかしいではないかといってもダメなのである。

それはちょうどY牧師が、みんな「天皇」「天皇」といいながら、その「天皇」が発布した憲法に違反しているではないかといくら言ってもだめで、餓死に追いこまれていくのと同じなのである。

(後略~)

【引用元:ある異常体験者の偏見/洗脳された日本原住民/P236~】


”国民精神総動員”状態が、任意加入団体ではない日本において出現したら、憲法であれ天皇であれ当たり前のように無視されてしまい、その状態に従わない「異分子」は排除されてしまう。
「法の保護」が働かない社会というのは、弱者・マイノリティにとっては非常に厳しい社会ですね。
日本社会って同質的な社会であるせいか、このような性向が非常に強いと感じます。

戦後の思考図式「話し合い絶対」と「結果の平等」が、再び「国民精神総動員」状態と結合したら、上記のような状態が再現するのでは…という山本七平の危惧を、我々は真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか。

そもそも、考えてみれば、ネット上での事例を考えてみても、「話し合い絶対」を唱える人たち(護憲派・平和主義者)ほど、異論者を排除する傾向が強いですよね。
こうした傾向をもつ人たちって、いざ「国民精神総動員」状態となれば、率先して協力しそうな気がして仕方がないのですが…。

それはさておき、よく言われる「同調圧力」や「KY(空気読め)」の背後には、「話し合いが絶対なんだ」とか、「結果の平等が大切なんだ」とか、「合意した事が最優先なんだ」という”意識”が作用しているのかもしれません。

最後になりますが、「幼時の思考図式から脱却しにくい」ということを「あたりまえ」だと捉える”意識”というのは本当に重要だと思います。

この意識がなければ、自分がそのような思考図式に捉われていることすら自覚できず、一生、「子供のまま」過ごすことになってしまう。

そうなると、自らの思考図式に何の疑問も抱かずに、「話し合いを絶対視」し、何ら解決も出来ないばかりか、「結果の平等」を重視するあまり、「排除すること」もなんら厭わなくなってしまうのですから。

こう考えてみると、「オトナになる」というのは、意外と難しいのかも知れませんネ。

取りとめのない感想になってしまいましたが、今日はこれまで。
ではまた。

【関連記事】
・「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その1】
・「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その2】


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自ら判断を規制しちゃうと、事実すら認識できなくなるという良いサンプル例

私のところに、久しぶりにApeman先生からトラックバックされたのでその記事を取り上げてみたい。
トラックバックされた記事というのがこれ↓

■[南京事件]抜刀隊について
この記事の中で次のエピソードが紹介されている。

また西南戦争の際、薬丸自顕流の打ち込みを小銃で受けた兵士が小銃ごと頭蓋骨を叩き割られたと云う記録も残っている。薬丸自顕流がいかに実戦的な剣術であるかを証明するエピソードである。


このエピソードに対するApeman先生の考えがこれ↓

>南京事件を離れれば日本刀についてのこういう記述は異を唱えられていない、ということは注目に値する。

Apeman先生のあまりに都合の良すぎる「この解釈」には思わず笑ってしまった。

異は唱えられていないって、そんなの当たり前でしょ。
与太話・ホラ話の類と受け止められてるだけに過ぎないことを、「異は唱えられていない」って判断するところなど、あまりに自分に都合良すぎ~。

このエピソードが与太話でスルーされているのは、このエピソードを以って、「謝罪せよ」とか、「日本人は残虐だ」とか叫ぶApeman先生のような”人種”がいないからに過ぎない、ということぐらいわからないのかね。

こういう思考様式を見るたびに、「人は自分の見たい現実しか見ない」というカエサルの格言が思い浮かぶけど、よくよく考えてみれば、Apeman先生の場合「現実」ですらないんだよな。
なにせ「与太話」が現実になっちゃうくらいだから。

そもそも、小銃だって鉄で出来ているわけですよ。
それが日本刀で頭蓋骨もろとも叩き割られたなんて物理的に有り得ない。
人力で鉄を以って、鉄を切断することなど出来るわけが無い。

それを「有り得る」と信じちゃうところが、Apemanクオリティ。

人間というのは、判断が規制されてしまうと、悲しいかな、1+1=2ということすらわからなくなるようです。
Apeman先生は、自らそれを見事に体現しているわけですね。

こういう人間に、「事実の認定」が出来るわけが無いんだよな。
百人斬りがあった」と強弁する人間は、そろいも揃ってこういう人間ばかりなんですよね。

また、潜水艦さんに教えてもらった、Apeman先生の「七平メソッドとは」という記事もなんだかな~。
よくわからん記事ですね。

結局のところ、Apeman先生は、「山本七平の主張がデマゴガリー(民衆扇動)なんだ」ということが言いたい…ってのはわかるんだけどね。

ただ、Apeman先生の批判では、到底デマガゴリーと決め付けることはちょっと難しい気がする。
何しろ決定的な反証というものを提示できていないし、重箱の隅をつつくような難癖程度の批判ばかりだからね。

一応、そんな批判にも軽く突っ込み入れておきますか。

>自分で勝手に類型を一つに絞り込んでおいて、「それにはあてはまらないから動物的な要素のみだ」というお手盛り論理。

おいおい、お手盛り論理なら、Apeman先生の十八番ではなかったっけか?
上記の日本刀の与太話の件なんか、超お手盛り論理そのものでしょうが!

>七平センセイは「御母堂」の「思い出話」ならぬ推測の妥当性について一切の吟味を放棄する。
>ここには社会科学的な検証に耐えるものはなに一つない。


そんなことを言い切ったら、Apeman先生の主張する「百人斬りの根拠となる」手記とか笠原センセの本とか、みんなそれに当てはまるじゃないか。

以上の批判を考えると、どうもApeman先生が呼称している「七平メソッド」とは、実は「Apemanメソッド」と言い換えても差し支えないのではないかと思えて仕方がないですねぇ。

あと、Apaman先生は、「関東大震災時の朝鮮人虐殺に政府が関与しているのでは…」ということも言いたいみたい。

>日本という国家を虐殺の責任から解放したいという欲望に媚びる印象づけがあるだけだ。

そもそも、山本七平が日本政府免罪論を唱えていると「邪推」している処からして、おかしいんだよな。
普通に読めば、そんなことを山本七平は主張したいが為に書いているわけじゃないのに…。
虐殺の原因を探るのがこの記述の主題であって、日本政府免罪を唱えているわけではない。

これって、単にApeman先生が、「日本政府が裏で虐殺の糸を引いている」と思い込んでいることの裏返しでしょ。
何でもかんでも「日本が悪い」という前提で物事を考えるから、こうなるんだよな。

そして、自説に都合の悪い山本七平を目の敵にする。

で、この記事のように、いろいろと難癖をつけて、「七平メソッド」なるレッテルを張ろうとするわけだ。

まぁ、難癖付けるのはApeman先生のご自由なのだが、先生の卑怯なところは、その難癖を自分の主張には一切適用しないんだよな。
そこら辺も、Apemanクオリティというべきか。

もう一つ、Apeman先生がよく愛用するワードに、「山本”事実であろうと、なかろうと”七平」というのがあるが、これも一部だけを切り抜いて誤解させる手法そのものだよね。

元の記述を読んでみればそのことはすぐにばれる。

朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。この言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない。

【引用元:日本人とユダヤ人/しのびよる日本人への迫害/P195より】


要は、山本七平は、”事実であろうと、なかろうと”日本人として「言うべき主張は言わねばならない」ということを言っているに過ぎないんですね。

これのどこが不適当なのか?批難されねばならないことなのか?
私にはさっぱりわからない。
国際社会では、こんなこと当たり前のことではないですか。

「事実だったら、何も抗議せずに黙って罪を償え、刑に服せ」ということを言いたいのかも知れないが、当のApeman先生の言動を見ても、とてもそうした殊勝な態度をとる人間にはとても思えない。

むしろ、厳然たる事実をいくら指摘しようが、頑として認めずに、却って詭弁を弄しまくる人間に思えてならないんだよね。

そうした人間が、山本「事実であろうと、なかろうと」七平とレッテルを張るのは、まさに笑止千万。

こういうレッテルを張って、如何にも山本七平がいい加減な人間であるかを印象付けようとするApeman先生。
相変わらず、やり口が非常に”せこい”ですね。

結局のところ、レッテル張ることでしか議論できないApeman先生なんだなぁ…と改めて認識した次第。


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「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その2】

前回のつづき。
今回は、戦前の思考様式を叩き込まれた人間が、戦後の民主社会でどのような行動を取ったのか、山本七平の分析をご紹介します。
この分析を読むと、その表現方法は変われども、思考様式が同じである限り、戦後も戦前もそっくり似た行動を取るのだな…ということがわかるのではないでしょうか。

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前回のつづき)

情況が変わっても思考図式はそのまま残ってきたという現象は、戦争中に幼児時代を送った人にも見られる。

この人たちは物心のついたときすでに戦後だから、その表現や行動には戦前的要素が全く見られず、それだけ見ているとまさに戦後的なのだが、幼時に叩き込まれた図式はまさに戦時中そのものなのである。

戦争は人間を善悪二元論的な確信論者にし、かつ集団主義者にするといわれるが、確かに「孤独なる懐疑主義者」や、選択の基準をあくまで自己の内なる規範におく「個人主義的自由主義者」は、最も戦争に向かない人間である。

したがってそれらが完全に排除・否定されていた戦時中の状態で善悪二元論的図式のみを頭に叩き込まれれば、それが戦後的表現や民主的行動の中にそのまま表われてきてもあたりまえのことであり、そうならなければ奇蹟であろう。

おもしろいのは、戦後にまず出てきた図式が、中ソ平和勢力は善で、米帝戦争勢力は悪として、まるで善神〔アフラ=マズダ〕と悪神〔アングラ=アイニュ〕とが地球的規模で終末論的争いをやっているような善悪二元論である。

この場合、善は最終的には必ず悪に勝つのであり、それは戦争であれ、経済競争であれ、宇宙開発であれ同じであると言う発想であった。

同時に出てきたのが欧米対アジアという二元論であり、この場合は「東風は西風を圧す」で、欧米は衰亡の一途をたどり、アジアは興隆へと向かうという図式である。

さらに国内的には封建的と民主的、反動と革新という発想であり、時代の進展は前者を衰えさせて後者を起こす――いわば、戦後世代が増えれば増えるだけ、革新は勢力を増して保守はやがて消えるといった見通しで、この見通しはつい数年前まで当然自明のこととされていた。

戦争の場合の二元論は、善神と悪神との戦いを第三者として眺めているという立場は許容しない
戦時中には映画評などで「時局傍観映画」などときめつけられればそれでおしまいであったように、この場合の二元論は各人にあくまでも「善」の側に立ち、悪と戦うことが要請される

しかし戦うといっても、太平洋戦争の最盛期ですら、戦場に行くのは実際には全国民の五パーセント以下であり、まして幼少年はこれに無関係である。

しかし無関係でも、精神的にはこれに参加しているという連帯を表明しなければならず、それをしなければ「悪の側」とされる。

というのは、”国民精神総動員”的に連帯を表明することが、勝利を招来すると信じなければならない。
その意味では全員が集団主義的な確信論者にならねばならず、孤独なる懐疑家の存在は許されない。

日本は元来集団主義的な国だから、これが徹底すると文字通りに”国民精神総動員”になり、それを完成するのがマスコミの役目とされるわけである。

したがってすべての記事は、正確な報道と厳密な分析ではなく、戦意高揚記事になってしまう

だがこの風景を戦場から眺めると、少々しらけることも否定できない

オバチャンたちが国防婦人会というタスキ型の一種の”ゼッケン”をつけて整然とデモ行進してくれても、それは、切実な戦場の要請とは全く無関係だし、新聞がいくら戦意高揚記事を書いたところで、それは戦場のわれわれの所には送られてくるわけではないが、読めば余計にしらけるであろう。

さらに、そんなことで内地が冷静さを失えば、結果的には戦場のわれわれも不利になるわけだが、しかし、そういった考え方をする者は「悪の側」に立つと見なされても致し方がないのが、集団主義的確信論者の考え方である。

そして戦後これとほぼ同じ形で始まったのがベトナム反戦運動である。

私が、胸に「アメリカはベトナムから出て行け」と書いたゼッケンをつけている背広の青年を神田で見掛けたのは、いつごろのことかもう忘れてしまったが、それは「べ平連」という言葉がまだない時期だったと思う。

というのは、そういった言葉や運動を知っていればあまり驚かなかったであろうが、そのときは全く意外だったので、ある種の驚きとともに、反射的に戦争中のタスキ型ゼッケンを思い出し、同時に、正直に白状すると、その青年を正気かどうか疑った

というのは東京はアメリカではない。
われわれはアメリカ人ではない。

だれが考えても「アメリカはベトナムから出て行け」という意思表示は、アメリカで、アメリカ人に、アメリカ語でやらなければ意味はない。

どうしてそれを、東京で、日本人に、日本語でやるのかが私にはわからなかったからである。
だが少したって、こういう考え方自体が戦時中にも許されなかったことに気がついた

それはいわば当時の言葉でいう「時局傍観者」の態度であり、この青年はつまり、善悪二元論的世界において、自分は「善の側」に身を置いているという意思表示をし、同時に”銃後的な前線への連帯”を表明していたわけである。

いわば国防婦人会の白タスキであろう。

次回へつづく)

【引用元:「あたりまえ」の研究/Ⅰ指導者の条件/話合いの恐怖/P82~】
今でも、この善悪二元論にどっぷり浸かっている人って多くないですか?
(そもそも私自身も、気をつけないとそうした視点に陥りがちですし。)

正義感の強い人間ほど、この罠にはまってしまうような気がします。
戦前の例を見ても、そうした人間が社会を支配すると、ロクなことが無さそうですね。

次回は、戦後生まれた世代が、戦中世代と違う点について分析している処を紹介したいと思います。
ではまた。

【関連記事】
・「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その1】
・「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その3】

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祝!!H-ⅡB打ち上げ成功。

最近ロクでもないニュースばかりでしたが、久々に嬉しいニュース↓。
まずはめでたい

◆HTV技術実証機/H-IIBロケット試験機打ち上げ / Launch of HTV-1/H-IIB TF1 [HD]



宇宙ステーションには、アメリカのスペースシャトル、ロシアのプログレス、欧州のATVという三種類の補給輸送手段があるそうですが、今回の成功で、日本のHTVも一つの輸送手段となり得るわけですね。
後は無事、ドッキングに成功してもらいたいものです。

いろいろ調べて↓みると、アメリカのスペースシャトルが引退してしまったら、日本のHTVでしか運べない荷物があるそうで、活躍が期待できそう。

【参照先HP】
・宇宙ステーション補給機(H-II Transfer Vehicle、 略称:HTV)(Wikipedia)

・宇宙政策シンクタンク「宙(そら)の会」より「HTVの使い方」

・HTVが切り開く有人宇宙船への道

改造すれば、有人宇宙船にもなりそうだし。
いい加減、日本も有人宇宙開発に乗り出すべきだと思うのだけどなぁ…。

なんか、今の日本って先が見えない閉塞感で覆われているようでちょっと残念。
そんな閉塞感を打ち破るようなものが必要ではないでしょうか。

みんなをワクワクさせるような夢のある宇宙開発を目指して欲しいな。
中国みたいに「国威発揚オンリー」じゃない、日本ならではの有人宇宙開発を目指してもらいたいものです。

【追記】
無事ドッキングにも成功しました。ヤッター
◆HTV grapple and berth




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「話し合い」と「結果の平等」がもたらす「副作用」【その1】

日本人って「話し合い」がとにかく好きですよね。
何でも「話し合いで解決する」のを理想と考えている。
それは元来、「和」を尊ぶお国柄だからということに由来するのでしょうけれど。

確かに「話し合い」は大切ですし、重要だと思うのですが、それを声高に主張する人に限って、その「副作用」というものを認識していないのではないでしょうか。

そんなことを考えるキッカケとなった、山本七平のコラムを今日から何回かに分けて紹介して行きます。

「あたりまえ」の研究 (文春文庫)「あたりまえ」の研究 (文春文庫)
(1986/12)
山本 七平

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◆話合いの恐怖

人間は子供のときに頭に叩き込まれた図式が、生涯抜けないらしい。
これはあたりまえのことかもしれぬが、しかしそれは、必ずしもその人の宿命とはいえまい。

問題は、自分の幼時はこうであったから、こういう考え方をしやすいという自己把握をして意識的にそれを制御するか、表現だけは年齢や時代とともに変わっても、幼時に叩き込まれた図式に生涯呪縛され、その図式でしか思考も行動もできなくなるか、そのいずれになるかという点にあるであろう。

オトナとは何か。

簡単にいえば前者のことであり、後者は何歳になってもオトナとはいえまい

もっともこれは図式であって具体的内容ではないから、「そんなことを幼時に教えられたはずはない」と思われる事態を現出しても不思議ではない。

たとえば売春を行った女子高校生はほとんどが中以上の家庭であるという。

もちろんこれらの家庭で売春教育をしたわけではあるまいし、またそれを当然とする環境に教育されたわけでもあるまい。

いわば売春それ自体を教えられたわけではないのだが、補導されたときに異口同音に述べた言葉は、彼女らが子供のときから頭に叩き込まれた図式を示している。

彼女たちはこういった。

「相手も楽しいし、自分も楽しいし、世の中のだれにも迷惑をかけていない。そのうえお金が入る、どうしてこれがいけないのか」と。

これに対して「どう答えてよいか、わからない」といった意味の感想があったが、わからなくて当然である。
というのは、以上の言葉は、マスコミの主張の図式だから、その影響を最も受けやすい、いまの中以上の家庭の思考図式となって不思議でなく、彼女らが、その思考図式に従って行動し、同時にそう行動しましたといえば、これへの反論は成り立たなくて当然である。

もっともこういえばマスコミはそんなことを主張した覚えはないというかもしれない。
確かに売春防止法にマスコミは賛成した。

しかし、ここで売春女子高校生のいっていることは「前提なしの無条件の話合いに基づく合意が絶対であり、それを外部から拘束する法的・倫理的規範は一切認めない」こと、いわば超法規的・超倫理的な「話合いの合意」が絶対的な「義」で、これに干渉する権利はだれにもないということなのである。

となると、常々これを当然としている者には反論の余地がなくても、これまた当然なのである。

と同時にこの論理はそのまま汚職にも適用できる

すなわち「相手は金をもらって満足し、自分も便宜を計らってもらって満足した。しかも仕事がなくてこまっている自分が提示した納入価格は市価以下だから、納税者に迷惑をかけてもいない。相手もよかったし、自分もよかったし、世の中のだれにも迷惑をかけていないし、そのうえ従業員の給料を遅配させないのだから、こんなよいことはない。どうしてこれがいけないのか」と。

要約すればこれと同じになってしまう言葉は、政治家のロからも問題になっている商社のロからもでている。

もう一度いうが、これらの発想の基本にあるものは、超法規的な話合いとそれに基づく当事者同士の合意が一切に優先し、それが世の中に迷惑をかけねば「義」だという発想である。

そしてこれは常にマスコミに主張され、どんなことでも「政府はまず話合え」なのであって、その前には、法も社会倫理もすべて無視することが当然とされてきた

確かにそういっておけば、さしあたっての摩擦はない。

しかし原理原則というものは、それ自身が独立して自らの論理で作用して当然だから、子供たちはそれを無邪気に援用し、大人たちはそれを小ずるく援用するのもまた当然なのである。

だがこの場合もっとも問題なのは子供たちであって、彼女らの多くは、生涯この図式から抜けられないであろう。

もちろんこれは、彼女らだけでなく、その相手の彼らにとっても同じである。

いわばある種の思考図式が表面化しただけなのである。

それは時代が変わり環境が変われば別な表われ方をするであろうが、しかしその基本は変わらないのが普通である。

そしてこの発想からは、「相手も不愉快、自分も不愉快、しかも大きな損失をうけながら、なお、行わねばならぬこともあるし、この逆、すなわち前記のような状態でもなお行ってはならぬことがある」という規範は完全に欠落する

それが将来どうなるかはしばらく措き、ここで過去のことを振り返ってみよう。

次回へつづく)

【引用元:「あたりまえ」の研究/Ⅰ指導者の条件/話合いの恐怖/P79~】

そもそも、日本人が法を犯す際の最大の「歯止め」というのは、拙記事『「法」と「伝統的規範」との乖離』でもご紹介したように「人間関係」に基づく”規範”であって西欧のように「神の戒律」に基づく”規範”ではありません。

その「人間関係」に基づく”規範”というのも、別に絶対的な定義がある(あるとしたら、「他人に迷惑を掛けない」という前提ぐらい)わけではなく、人間関係に拠る”相対的なもの”に過ぎないのですよね。

そうした歯止めが、効かなくなってしまう一因に、この「話し合い」至上主義があるように思います。
周りに「迷惑を掛けず」に、「話し合って」決めたことなら、原理原則を無視しようが、法や規範をないがしろにしようが黙認されてしまう土壌がある。
そして、それに従わない”KY”な者を「排除」しようとさえする。

「迷惑を掛けない」ことや「話し合う」ことが、一種の「免罪符」や「禊」のように作用するわけですね。

日本人が暴走するとしたら、やはりこのパターンが一番ありがちなのではないでしょうか。

そうならないためには、山本七平の言うとおり、叩き込まれた「話し合い至上主義」の図式やその副作用についてしっかり把握し、”オトナ”になって制御する必要があるのでしょうね。

でも、この図式の呪縛に罹っている人は、依然としてたくさんいるように思えます。
マスコミも相変わらず「話し合え」と言ってますしね。

そういえば、最近、教育問題で「規範意識」を植え付けようという主張を見かけますが、上記のことを考えると、単にそう教え込むだけではムリなような気がします。
この「話し合い至上主義」の欠点について、自覚を持たせなければ、結局自分に叩き込まれたこの図式から逃れることはできないでしょうから。

次回もこの続きについて紹介していく予定です。ではまた。

【関連記事】
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名曲紹介:エルガー/チェロ協奏曲byジャクリーヌ・デュ・プレ

ようやく、出張から戻ってまいりました。疲れたです。
たんまり仕事がたまってたので今日も出勤でした(涙)。

疲れてますので、今日はお気楽なクラッシックネタを一つ。

クラッシックの楽器の中でも、花形といえばヴァイオリンとなるのでしょうし、実際、ヴァイオリンがメインの協奏曲(ヴァイオリン協奏曲)は色んな作曲家が必ずといっていいほど手がけていますね。

私もヴァイオリン協奏曲というのは、ピアノ協奏曲と共に大好きな楽曲形式で、お気に入りだけでも十指を下らないほどなのですが、これがヴァイオリンでなくチェロ協奏曲となると、ヴァイオリン協奏曲に比べて少ないせいか、あまり思いつかないのですよ。

今回は、そんな私が知っている数少ないチェロ協奏曲の中でも、私のダントツお気に入りの曲をAmazonやyoutubeからご紹介します。
チェロ協奏曲といったらやっぱコレ↓でしょう。
エルガー&ディーリアス:チェロ協奏曲エルガー&ディーリアス:チェロ協奏曲
(2007/10/24)
デュ・プレ(ジャクリーヌ)

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このCD↑が私のお気に入りですが、鳥肌もんですよ。
エルガーといえば、「威風堂々」を思い浮かべる人が多いでしょうが、私はこの曲がエルガーの代表作だと思いますね。

夭折の天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレと、イギリス人が誇る大作曲家エルガーの組み合わせは最高の一言。
この曲は、とにかく最初から最後までカッコいい!
それをまた、デュ・プレが見事に弾きこなすのですよ。

ジャクリーヌ・デュ・プレをご存じない方はWikipediaを参考にしてください。

ちなみに、youtubeを探したら、夫君ダニエル・バレンボイムとの共演した映像をめっけたので以下ご紹介。4楽章から成りますが、次のとおり5つに分かれてます。
★Elgar Cello Concerto 1st mov.



★Elgar Cello Concerto 2nd mov.



★Elgar Cello Concerto 3rd mov.



★Elgar Cello Concerto 4th mov. - part 1



★Elgar Cello Concerto 4th mov. - part 2



おまけに、映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ(原題:Hilary and Jackie)」の映像シーンも見つかったので以下幾つかご紹介しておきます。
★Hilary and Jackie



★Jacqueline du Pré - Elgar - Emily Watson



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「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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