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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

生物としての人間【その1】~残虐日本軍を糾弾する左翼と、インパール作戦を称揚する右翼に通底する「生物学的常識の欠如」~

下記シリーズ記事『「トッツキ」と「イロケ」の世界』では、日本軍の実態に関する山本七平の記述をご紹介してきました。

・「トッツキ」と「イロケ」の世界【その1】~「神がかり」が招いた”餓死”という悲劇~
・「トッツキ」と「イロケ」の世界【その2】~現場の兵士が抱いた”やりきれない気持ち”~
・「トッツキ」と「イロケ」の世界【その3】~部付(ブツキ)はコジキ~
・「トッツキ」と「イロケ」の世界【その4】~大日本帝国陸軍の”大躍進”~
・「トッツキ」と「イロケ」の世界【その5】~二種類いるトッツキ礼賛者~
・「トッツキ」と「イロケ」の世界【その6】~「虚構の世界」が日本を滅ぼした~

これらの記事では、日本軍が持っていた欠陥の一つである「補給の軽視」と「その軽視がもたらした悲劇」について山本七平の実体験に基づく鋭い考察がありましたが、彼が指摘した「日本軍のもっていたあの病根とも宿痾とも病的体質とも先天的奇形ともいいたいあの体質」がなぜ生まれたのか、その”手掛かり”を、別の著書「日本はなぜ敗れるのか/敗因21ヶ条」から探っていきたいと思います。

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(2004/03/10)
山本 七平

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◆第九章 生物としての人間

敗因21 指導者に生物学的常識がなかった事
敗因19 日本は人命を粗末にし、米国は大切にした。


■生物学

生物学を知らぬ人間程みじめなものはない。
軍閥は生物学を知らない為、国民に無理を強い東洋の諸民族から締め出しを食ってしまったのだ。
人間は生物である以上、どうしてもその制約を受け、人間だけが独立して特別な事をすることは出来ないのだ。


■日本人は命を粗末にする(一部)

日本は余り人命を粗末にするので、終いには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気付いてしまった。
生物本能を無視したやリ方は永続するものでない。
特攻隊員の中には早く乗機が空襲で破壊されればよいと、密かに願う者も多かった。


以上の二つの小松氏の言葉は、氏の『虜人日記』の「見方・考え方」の基調であり、ある意味では原点であろう。

本書はさまざまな面から評価できる本であろうが、小松氏自身が言われているように、本書のある一面は、すでに他の人びとも指摘していることかもしれない。

しかし、一見同じ指摘に見えて、それが、基本的には何か違うといった印象を人びとに与える大きな理由の一つは、氏が、農芸化学、すなわち醗酵という一種の「生命現象」を扱う専門家であったという点、一言でいえば「生物学者の戦場体験の記録」という点にあるだろう。

最初に記したように、私が、本書を読んで「三十年ぶりに本ものの記録にめぐりあった」と感じた一番大きな点は、氏が人間を「生物」と捉えている点である。

といってもこれだけでは読者には意味がわかるまいから、例をあげて説明しよう。

たとえば氏の記述にも、戦場のジャングルの実に残酷な記述は出てくる。
それは、そういう事実があったのだから当然だが、その記述にも、読者はいわゆる「残虐人間・日本軍」の記述とは何か違う点を発見するはずである。

どこが違うか。

いわゆる「残虐人間・日本軍」の記述は、「いまの状態」すなわちこの高度成長の余慶で暖衣飽食の状態にある自分というものを固定化し、その自分がジャングルや戦場でも全く同じ自分であるという虚構の妄想をもち、それが一種の妄想にすぎないと自覚する能力を喪失するほど、どっぷりとそれにつかって、見下すような傲慢な態度で、最も悲惨な状態に陥った人間のことを記しているからである。

それはそういう人間が、自分がその状態に陥ったらどうなるか、そのときの自分の心理状態は一体どういうものか、といった内省をする能力すらもっていないことを、自ら証明しているにすぎない

これは「反省力なき事」の証拠の一つであり、これがまた日本軍のもっていた致命的な欠陥であった。
従って氏が生きておられたら、そういう記者に対しても「生物学的常識の欠如」を指摘されるであろう。

氏は、ある状態に陥った人間は、その考え方もいき方も行動の仕方も全く違ってしまうこと、そしてそれは人間が生物である限り当然なことであり、従って「人道的」といえることがあるなら、それは、人間をそういう状態に陥れないことであっても、そういう状態に陥った人間を非難罵倒することではない、ということを自明とされていたからである。

次回へ続く)

【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第九章 生物としての人間/P225~】

Apeman氏に代表されるような、いわゆる戦前の日本軍を糾弾してやまない左翼とは、まさにこの「自分がその状態に陥ったらどうなるか、そのときの自分の心理状態は一体どういうものか、といった内省をする能力すらもっていない」からこそ、平然と先人を批難できるのでしょう。

そのような輩に限って、博愛的な言辞を弄し、自分の意見に反対する人間を、反省が足りない軍国主義者だと一方的に決め付ける。

まさに「反省という語はあっても、反省力なきこと」の見本ですね。
本当に反省すべきは、「日本軍兵士をそのような状態に陥れたこと」のはずです。

それへの反省をなおざりにしたまま、残虐人間・日本軍という”藁人形”を叩き続けることが反省と勘違いしている馬鹿左翼があまりにも多すぎる。

このような勘違い左翼は論外ですが、一方で愚劣極まりないインパール作戦を礼賛するねずきち氏のような一部のネット右翼の思考にも、「生物学的常識の欠如」というものが伺えるのではないでしょうか。

左翼は、環境次第で人間が変わってしまうということすら思い至らないし、右翼は飢餓という状況に置かれても日本軍兵士が忠勇無比の存在であって残虐行為や略奪行為を働かないと思い込んでいる。

このように見てみると、両者の主張のベクトルは違えども、両者の思考の根本には、人間というものが生物学的制約を受けているという「前提」が欠如しており、通底するものがあるといってよいでしょう。

現代日本のような環境にあっては、飢餓状態に陥ることはまずありませんから、そのような「生物学的制約」に気付かないのは仕方ないのかもしれません。
痛い目に遭わないとわからないように。

しかし、そうした目に遭わなくても、そのことを気付かせてくれるのが、小松真一氏の「虜人日記 (ちくま学芸文庫)」であり、山本七平の記述であると私は考えています。
これこそが、彼らが後世の人間のために記してくれた貴重な「提言」だと私は思っています。

次回は、引き続き「生物学的常識の欠如」についての記述を紹介していく予定です。ではまた。


【関連記事】
・マスコミの「予定稿」とは【その1】~田原総一朗の「取材」を例に考える~
・マスコミの「予定稿」とは【その2】~田原総一朗の「取材」を例に考える~

◆生物としての人間【その2】~理性信仰という名の空中楼閣~
◆生物としての人間【その3】~飢えは胃袋の問題ではない~
◆生物としての人間【その4】~飢え(ハングリー)は怒り(アングリー)~
◆生物としての人間【その5】~飢餓状態がむき出しにする「人間の本性」~
◆生物としての人間【その6】~日本は単に物量で負けたのではない~
◆生物としての人間【最終回】~人間らしく生きるために必要なこと~


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「親孝行したい」兵隊たち/~レジスタンスとしての「親孝行」~

前回の記事『「人民日報」的読み方とは/~軍隊的表現の奥にあるものを読み取る能力~』の続き。

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前回の続き)

もちろん北ヴェトナム軍については、徳岡氏の記述から、自分の体験に基づいて類推したにすぎない。

しかしこの類推を正しくないという人は、まず旧日本軍の実態と北ヴェトナム軍の実態を完全に調べあげた上で言うべきであろう。

どちらの実態も知らず、否軍隊なるものの実態さえ知らないで正しいの正しくないのといっても、無意味である

戦死者は必ず親孝行」とか、「兵隊はみんな孝行者」とかいう、ちょっと自嘲的な言葉があった。

戦争中の新聞をひっくりかえして、壮烈な爆死をとげた者の報道を見つけたら、そこを読まれればよい。
必ず「親孝行」であったと書かれているはずである。

だが「孝行」――この言葉の意味は、世問一般の人の意味とは違うのである。

当時の日本はいわゆる核家族ではなかった、従って、一家族には両親がおり、ヨメさんがおり、子供がいる、というのが普通の庶民の生活であった。

従って「親孝行がしたいよナ」というのは、それができるそういう生活にもどりたいということ、いわば、戦争も戦場も軍隊もいやだ、普通の平和な市民生活にもどりたいということに外ならないのである。

そして当時の日本の道徳律は「忠孝」であったから、たとえ兵士が「ああ親孝行がしたい、ああ親孝行がしたい」と言っても、「親孝行がしたいとは何事ダッ」といってとがめる人間は、軍隊の中にもいないのである。

せいぜい「親孝行が十分にしたいとは感心である。だが今はお国のため精一杯働くことが真の親孝行デアル」ぐらいのことでおしまいになるのであった。

従って親孝行という言葉は、兵士の精一杯のレジスタンスなのである。

お母さん」とか「親孝行がしたかった」という、死期近い兵士の言葉には、今の人には考えられないくらい広い広い深い意味があった

それは一言にしていえば、平和がほしい、平和がほしかったということである。

私には、戦後の騒々しい「平和」の叫びより、この無名の兵士たちの「親孝行がしたいよナ」「親孝行がしたかった」という言葉の方が、はるかに胸にこたえる

こういった現象は言葉だけでなく行為や挙止にもある。

「無敵皇軍」は「一死報国」だから、決死隊をつのれば全員が手をあげる――という話は必ずしも嘘ではない。

しかし、全員が手をあげれば、結果においては、だれも手をあげないに等しいのである。

そして古い親切な下士官は、常にこういった種類のことをよく心得て、背後からみなに予め注意してくれたものである。

従って、自由意思なき全体主義集団で全員が手をあげる、ということの意味を、今の常識で判断してはならない

しかしそれが今の人にわからなくなってしまったということは、大変にありがたいことだと私は思う。

そういう知恵が必要とされる社会には、二度となってほしくない

従って「ヨメさんがほしいよナ」も、もちろんほぼ同じ意味もしくは現象だが、この方は、情況がそう悪くなく、将来の平和な生活に希望がもてるときの言葉であった。

従って「親孝行」より陽気な気分のときの言葉である。
「孝行」はいわば失われた過去の平和な生活への追想であり、おそらく二度と帰って来ないその平和を、過去に託して希求しているわけだが、「ヨメさん」の方はそうではなかった。

従って、「ヨメさんが欲しい」といって戦死した兵士はいないであろう。

この場合の「親」とか「ヨメさん」という言葉には、以上のような意味がほとんどであって、言葉通りの具体的な意味合いは、まず皆無に近いのが普通である。

従って「ヨメさん」が欲しいといっていて、その男が復員してからは生涯独身であっても、親孝行を常にロにしていた男が復員後は希代の親不孝であったとしても、それは矛盾でもなければ、彼らが嘘を言っていたのでもない。

従って私は、向井少尉の「『花嫁を世話してくれないか』と冗談を言った」という言葉は、おそらく事実であると共に、文字通りの意味より、軍隊内の慣用的な用法であったとみる。

初対面の新聞記者に、本気で「花嫁のあっせん」を依頼する人間はいない。
しかしこの言い方は上記の意味ではごく普通であって、だれでも口にし、少しも珍しい言い方ではなかったからである。

珍しくも民間人に会った。
そのことが彼に、復員後の生活を連想させ、軍隊語でいえば「里心」を起させたのであろう。

里心――これは、ある情況下で、戦場の人間を襲う発作的なホームシックである。

戦場における全く原因不明の逃亡は、ほとんどがこの発作的ホームシックが原因だったと私は思う。

これがどんなに強烈で抵抗しがたいものか、それを思うと、私が彼の立場にいたら、やはり同じ運命をたどったのではないかと、一種、肌寒くなる思いである

(後略~)

【引用元:私の中の日本軍(上)/「親孝行したい」兵隊たち/P327~】

親孝行したい…というのが精一杯の「レジスタンス」だったという指摘は、やはり今の時代感覚ではなかなか気付かない人も多そうですね(私もこの記述を読んで初めて気付きました…汗)。

戦後の騒々しい「平和」の叫びより、この無名の兵士たちの「親孝行がしたいよナ」「親孝行がしたかった」という言葉の方が、はるかに胸にこたえる。』という山本七平の言葉の裏には、戦後のいわゆる平和活動への疑念というものを濃厚に感じ取ることができるのではないでしょうか。

今回の記述から教訓を得るとすれば、「今の日本の常識で、過去を判断してはならないし、日本以外の社会を判断してはならない。」ということになるかと思いますが、なかなかこれは難しいですよね。

私自身、実行できていないとは思いますが、「無知の知を知れ」と己を戒めつつ、近づいていきたいものです。


【関連記事】
・「人民日報」的読み方とは/~軍隊的表現の奥にあるものを読み取る能力~


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「人民日報」的読み方とは/~軍隊的表現の奥にあるものを読み取る能力~

以前の記事『「トッツキ」と「イロケ」の世界【その6】~「虚構の世界」が日本を滅ぼした~』の続き。
今回は、真意を読み取るとは如何なることかについて書かれた記述部分を紹介してまいります。

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前回の続き)

大本営の気違いども」と言ったのは部隊長ではない。
私がバギオ行の途中で立ち寄ったサンホセの軍兵器廠の弾薬庫の老准尉である。
民間でいえば守衛長兼出納係である。

(~中略~)

老准尉は私に一通の大本営通達を見せて、知っているかといった。
いわゆる「現地自活通達」といわれたもので、「各部隊ハ極力現地自活ヲ達成セラレタク……」に始まり、例の「ラバウルに学べ」がついている通達であった。

もちろん私は知っていた。
しかし何の感慨もなかったし、何も印象に残っていなかったので、これを読んで憤慨する准尉がかえって奇妙に見えた。

もっとも前述のアンガウル島のこと(註)を思えば、九割が餓死しているところへ、やっと大本営から何か送ってきた、開けてみたらこの通達であったら、「気違いメ」といって憤慨するのが当然かも知れない。

(註)…拙記事『「トッツキ」と「イロケ」の世界【その1】~「神がかり」が招いた”餓死”という悲劇~』参照のこと。

従って私にこの准尉が奇妙に見えたのは、補給の実態をよく知らなかったこともあるであろうが、もう一つは、軍隊のこういう書類の読み方をよく知らないので、いわばピンと来なかったのである。

従って老准尉から見れば、私の態度はまさに、自分への死刑宣告文を読みながら、よく理解できずにけろっとしているのと同じに見えたであったろう。

部隊長はこの通達のことは何も言わなかった。

従って昭和二十年一月一日にはじめてこの通達を取りあげ、あらたまった態度で、指揮班長のS中尉以下の本部将校全員に「全滅を覚悟するように」と申しわたし、自分の煙草を全部みなにくばった時まで、私は、何一つ感じていなかった。

部隊長は文字通りのヘビースモーカーで、口から煙草が離れたことがなく、将校行李いっぱい煙草をもっていた。

(~中略~)

従って煙草を分配してしまうことは、もう命は長くないと覚悟をきめた証拠のように思えた。
事実、四ヵ月後に彼はこの世を去った。

こういうタイプの人は、必要がない限り、批評とか解説とかは一切やらない。
いわば評論家的タイプではないのである。
従ってその時までは、この通達の真意を解説する必要はないと思っていたのであろう。

従ってそれまでは、私は何も感じなかった。
これはもちろん私が迂潤で呑気なせいもあるが、もう一つは軍隊的表現の奥にあるものがつかめなかったからであろう。

部隊長や老准尉のように、この道何十年というベテランになると、一種の嗅覚のようなものがあって、私が何の感慨もなくつるつると読んでしまう一片の通達から、自分への死刑の宣告文に等しいものを嗅ぎとるのである。

これはサンケイ新聞の柴田氏が言っておられる「人民日報」の読み方と同じものかも知れない。

普通の人が何気なく読みとばす文章から、林彪の失脚と周恩来時代の到来を読みとる、これが出来るのが本当のエキスパートであろう

いわば「自力更生」「大塞人民公社に学べ」から、読む人は何かを読みとるように、「現地自活」「ラバウルに学べ」から、読む人は何かをすでに読みとっていた。

また「昭和百年戦争」といえば終戦は近いと読むように「文化大革命は百年でも千年でもつづける」は、もう終りに近い証拠と見る。

またこういう通達を受けとる者の中に、必ず「大本営の気違いども」と憤慨する者がいるように、「文革小組の気違いども」という者もいる、と読みとることが出来るか出来ないかの差が、結局、素人と専門家の差であろう。

言葉のできない人間の取材などは論外だが、たとえ言葉ができても、これを読みとることは、本当にその対象を理解し切っていないと出来ない

前にも書いた戦犯調査官のM中尉は、横浜育ちで日本語がペラペラの人で、戦争が終るまでは日本軍の電報の分析をやっていた人物である。

この「電報の分析」とは「暗号の解読」ではない。

解読はその方面の専門家がやり、それによって、ちゃんとした日本語になった文章から、その真意をつかむための分析をするのが仕事だったわけである。

といわれても、実は私には、相手の言うことがよくわからないので怪訝な顔をしていた。
すると彼は次のように説明した。

たとえば「マコトニ申シワケナシ 小官ノ指揮拙劣ニシテ事ツイニココニイタル 兵団長以下当地ニテ玉砕スル決心ナルモ 御指示アリヤ」といった電報を傍受したとする。

この電報と、上級司令部のこれへの返電は、戦場では実に貴重な情報である。
というのは当面の敵が陣地を固守するか撤退するかが、完全にわかるから、的確な指揮で相手を全滅さすことが出来るからである。

従ってこの返電を、みなが、固唾をのんでまつ。

ところが傍受して暗号を解読してみると「勇戦奮闘ヲ謝ス 武運長久ヲ祈ル」と出てきた。

日本軍の暗号はちゃちなものだったから、これの解読はすぐに出来るが、この文章から、その真意すなわち死守か撤退かを解読するのが実に大変であった。

そのまま英訳すれば、ジェネラル山下がチャプレンになって祈祷会を主宰することになるからね」といって彼は笑った。

事実、このことが分からない限り何も分からない。

しかし分からない者には、自分が分かっていないことも分からない、それでいてもっともらしい解説ばかりやるから、さらに分からなくなる。

そして事態が急変したなどと驚く。

事態は急変などはしない、徐々に着実に変化していくだけである。
終戦への道ももちろんそうであった。

しかし、いわば「ジェネラル山下は祈祷会を開く」といった体の解説ばかりきかされ、それを信じていると、予測のつかない結果が出てきて、ただアレヨアレヨと騒ぐだけになってしまう。

常に変らぬ姿である。

(後略~)

【引用元:私の中の日本軍/「トッツキ」と「イロケ」の世界/P119~】
このいわゆる「人民日報」的読み方というのは、私自身も全く出来る自信がありません。
したがって、山本七平の記述を読んで、わずかにそのような世界があることを認識する程度ですね。

これを読みとることは、本当にその対象を理解し切っていないと出来ない」と山本七平は指摘していますが、しょせん、一知半解に過ぎない私はブログで書き散らしているぐらいが関の山で、お似合いなんでしょう(笑)。
しかしながら、せめて、そういう読み方が出来る「本物」を、見分けられるようになれるといいな…とは思っています。

上記の引用に似た話は、「私の中の日本軍(上)」の他の章にも出てきますので、参考までに引用しておきます。

(~前略)

ある種の言葉に全く別の意味をこめる、という言い方は、言論が統制され、この統制にひっかかれば処罰されるという社会なら、どこの国でも必ず行われることらしい。

こういうことは、大は大なり小は小なりに、いろいろな言い方があるらしい。

最近ある人から、中国の新聞のブレジネフの農政批判は、実は周恩来攻撃だから、また政変があるのではないか、というような話を聞いた。
戦前の日本にもこれとよく似た対米批判があったそうである。

ただ私はそういう大きいことはわからないが、非常に小さい面、たとえば兵隊に、絶対にひっかからない独得の言い方で、「戦争はいやだ、軍隊はいやだ、早く日本に帰って普通の生活がしたい」という方法があったことは知っている。

一番よく使われたのが、「親孝行がしたいよナ」であり、次が「ヨメさんがほしいよナ」である。

北ヴェトナム兵にもこういう言い方があるらしいことは、「サンデー毎日」編集次長・徳岡孝夫氏の書かれたものの中に時々見つかる。

氏の書かれるものは非常に的確で、自分の体験と照らしてみて、時々、よくここまで見抜いたなあ、と思わせるものがあるが、しかしこの徳岡氏ですら、全体主義国家もしくは集団の言葉の二重構造の奥までは見抜けないらしい。

しかしこれは見抜けないのが当然で、こういう集団内の言葉は、それを知っている人間同士だけに通ずる一種の暗号のようなものだからである。

しかし、こういった表面的な言葉の背後に、何かが隠されているのではないかと思い、それを見抜こうとされている徳岡氏の態度は立派だと思う。

それがジャーナリストと言うものであろう

それをせずに、表面的な言葉だけを収録して活字にするだけなら、何も人間がわざわざ取材に行く必要はない。
テープレコーダーを送ればたくさんだ。

またこういう集団内の兵士の日記や手紙は、いわば暗号を解読するぐらいのつもりにならないと、なかなか真意はつかめない
もちろんその必要のない本物が出てくることもあるだろう。

しかし、何かを書いてとがめられた場合、それが自分だけですまず、家族にまで一種の危害が及ぶという意識は、そういう社会ではだれにでもある。

(~中略~)

こういう集団内の人間の真意は、本当に、その言葉の二重、三重、四重の奥を探らないと出てこないのである。

従ってこういうものの上っつらだけ眺めて、日本軍はどうの、中国軍はどうの、北ヴェトナム軍はどうのこうのという人びとの浅はかさには、私はただただ驚くだけである

もちろん私は北ヴェトナム軍のことは知らない。

しかし「天皇の軍隊」と戦争中新聞を飾った「無敵皇軍」「米英撃滅」「滅私奉公」等々のスローガンの背後に、「孝行がしたいよナ」という言葉も、「私物の日記」も、『満期操典』『満期ぶし』(註)も、ホモ的感情も存在した事は事実である。

(註)…操典とは旧軍隊で、歩兵・騎兵・砲兵などの各兵種ごとに、戦闘や訓練の方式や兵の運用法を定めた教則。(例)歩兵操典。満期操典や満期ぶしとは、徴兵検査から満期除隊までを揶揄した替え歌のようなもの。

ただそれが報道されなかったというだけである。

「報道されなかったから存在しないことはいえないし、「百人斬り」のように「報道されたのだから事実だ」ともいえない

(次回へ続く)

【引用元:私の中の日本軍(上)/「親孝行したい兵隊たち」/P325~】


日本は思ったことが比較的自由に言える社会ですから、全体主義国家や軍隊などの集団の言葉というものの真意を掴み取ることが出来る能力というのは、なかなか育ちにくい環境にあるように思いますね。

読み取る能力が無いのは仕方ないにしても、せめて、自らの能力の「無さ」というものを自覚できれば、それほど恥を晒すことは無いのかも知れません。
かくいう自分も気をつけていきたいものです。

それはさておき、自分のことを棚に挙げていうのもなんですが、いわゆる「百人斬り」があったと主張している笠原十九司氏などの主張は、当時の新聞報道をそのまま鵜呑みにしており、まさに「上っつらだけを眺めて」いるだけと言えるのではないでしょうか。

人民日報」的読み方があるという”認識”を持つことは、そうした言説に惑わされないキッカケになるのではないか…なんて考えている次第です。

【関連記事】
・書評/笠原十九司著『「百人斬り競争」と南京事件』…を斬る【その1】


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日の丸君が代問題を「思想信条の自由」と勘違いしている教師とその賛同者をプロファイリング【その1】~子供の成長の機会を奪う馬鹿教師達~

卒業式・入学式シーズンを終えると、決まって次のような記事↓が出てきますね。

◆日の丸君が代「7年目の風景」なぜ「4人」は立たなかったか
日の丸君が代「7年目の風景」なぜ「4人」は立たなかったか
上記画像↑をクリックすると大きくなります。
(画像引用元:レイバーネット)

◆君が代不起立、処分激減 東京の教職員 今春の卒業式は4人

とりあえず、これらの記事を読んで、こうした勘違い教師が少なくなったことにちょっと安堵を覚えた次第。
しかし、減ったとはいえ、朝日の記事にあるように、式典をサボタージュまでして職務命令に従おうとしない馬鹿教師がいるとは、呆れてモノが言えません…。

今回は、こうした教師並びにその賛同者の思想的背景について私なりに分析していきましょう。

まず、彼らは、この問題を「思想信条の自由」に対する侵害と考えているのですが、これは以前の拙記事『日の丸・君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。』でも指摘しているように、教育問題に過ぎません。

それでは、この問題を教育という観点から考えてみましょう。
例えば上記記事にて、堀和世とか言う記者が「個々の”違い”を認め合うことが教育の要である」と述べてます。
それなのに、なぜ国旗国歌という画一的な価値観を一方的に子供に押し付けるのか!とこの記者は考えているのでしょう。

もちろん、そうした教育も必要ですが、それはあくまでも応用段階での話でしょ、と私は言いたい。
まだ、社会に出たこともない中学生や高校生に、いきなり応用問題を解かせるようなものです。

ここで、「教育とは何か」と言うことについて書かれた(カムイロケット開発に取り組んでおられる)北大の永田教授の主張を引用させていただきましょう。
その永田教授の文章はブログ移転に伴って消えてしまいましたので引用元は存在しません。サルベージの意味も含めて紹介したいと思います。

◆子供と人権/価値観の押付けと訓練の強制

(~前略)

教育とは、人間形成です。

それは、守破離の段階を追って行われます。

「守」は学びの段階、「破」は洗練と創造の段階、「離」は独自の境地を構築する段階です。
「守」をおろそかにしては、その後の「破」も「離」も達成不可能です。

「守」の段階で行われる教育は、基本的には、価値観の押付けと訓練の強制です。

子供に対してこれをしっかりと提供してあげないということは、彼らが人生において「破」、「離」と成長していく権利を奪うことを意味します

考える力というのは、最初から考える練習をしても身に付きません

まずは、考える道筋をなぞる訓練を積むことが必要です。
正しい論理展開を何度も辿るのです。

これは反復練習であり、知的訓練です。
詰め込み教育や反復練習は創造力の発達を阻害するというのは嘘です。

子供の頃に禄に知的訓練を積まなかった人に限って、そういう主張をします

基本的な技を身に着けずに、独自の技を生み出した剣豪は存在しません。
それと同じことです。

何事にも近道なんかありません。
訓練を楽しいと思えるように好きになること。

僕たちが子供に教えてあげられる最上の道はこれです。

(後略~/引用終了)


こうした観点からみると、日の丸君が代に反対する教師達というのは、いきなり考える練習をさせるような教育を施そうとしているようにしか思えない。
基本を教えることの大切さもわからないで、「個々の違い」とか「多様性」なんていってる場合じゃないと思うのですが。

そもそも「強制される」という体験をしなければ、子供たちもなぜ国旗国歌に対する礼儀を強制されなければならないのか、その意味すら考えたりしないだろうに。

子供たちに、自らが属する共同体について認識させ、日本人としてのアイデンティティを自覚させ、身に付けさせる。
そのためにも、公立学校の式典において、国旗国歌に対する礼儀を教え込むことは当然といってよいでしょう。
(日頃、外国との接触が希薄な日本において、そのような機会は希少なのですから尚更です。)

日本人としての自我を育てて初めて、世界と渡り合うことができる国際人になりうるのであって、そうした基礎を教えなければ、単なる”根無し草”で中身の無い人間が出来るだけです。

そうした基礎がまだ形作られていない段階の半人前の子供を、なぜ一人前の大人同様、尊重してあげなければいけないのか?

それは、尊重などではなく、単なる「甘やかし」でしょう。
甘やかして子供が成長しますか?

するわけがない。
まさに、永田教授が指摘する『「破」、「離」と成長していく権利を奪うこと』に他なりません。

こうしたことに思いを至らせることが出来ない教師達に、子供を教える資格があるでしょうか?
ましてや、子供をダシにして、自らの政治的主張を通そうとする連中に、教育を任せられるでしょうか?

到底まかせることは出来ないですね。私には。
一人の親として、こうした教師は教壇からさっさと消えて欲しい。
本当にそう思います。

さて、次回は、こうした勘違い教師について、私なりの分析を披露していきます。
ではまた。


【関連記事】
・日の丸君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。
・日本人に足りないのは、「公の心」と「判断力」


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”ルーピー”鳩山を一国の宰相に戴く一日本人の独白

更新をサボっている間に、「平成の脱税王」こと鳩山首相にあらたなニックネームが付いてしまった…orz。

ルーピー鳩山
(↑クリックすると大きくなります。しかしどう見ても逝っちゃっているよなぁ…)

◆「哀れでますますいかれた鳩山首相」…米紙酷評
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100415-OYT1T00362.htm

◆【友愛】ホワイトハウスでは「ルーピー鳩山」 米ワシントン・ポスト紙
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51024107.html

◆【友愛】平野官房長官 ホワイトハウス高官による「ルーピー鳩山はクルクルパー」発言を報じたワシントン・ポスト紙へ謝罪と賠償を要求
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51024163.html

◆“ルーピー鳩山、最大の敗者”の米紙記事に、「一国の首脳に対して非礼だ!」と官房長官が不快感
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1460488.html

あぁ…、ここまで外国紙にコケにされた日本国首相がかつて居ただろうか…。
日本人の一人として、本来ならば怒りに燃えても否定してもおかしくは無いが、鳩山首相がルーピー(クルクルパー)であるという現実を目のあたりにしてはそうした行為もむなしい限りなり。

そういう人間をホイホイ戴く政党を選んでしまった、我々日本人がルーピーだったと疑われても仕方ないレベル。
非常に不本意ながら(一貫して反民主党であった)私自身もその一人だと見なされるのも甘んじて受け入れましょう。

それが民主主義なのだから。

しかしながら、前回の総選挙時に民主党を支持した連中は、ルーピーという悪罵が自分に対して放たれた言葉も同然だということに気が付いているだろうか???
騙された…とか、裏切られた…などと自らを犠牲者の立場に置いて免罪し、自らが選択したが故の当然の結果だということを忘れていないだろうか???

ウンコは自らがウンコであることに気が付かないというが…。
手のひらを返したように、今頃になって平然と民主批判を始めている連中を見ると、不愉快になって仕方ない。

なぜ騙されたのか?
その原因追及を避け、自らを犠牲者として免罪してしまい、選択責任を取ろうとしない限り、また同じ過ちを繰り返すことだろう。

所詮、民主主義というものは、自らの選択に責任を持つ人たちにしか釣り合わない制度なんだな…とつくづく痛感する次第。
自らの責任を放棄した人の割合が多ければ多いほど、衆愚政治へと変容してしまう。

今回の報道は、それを改めて考えさせてくれたような気がする。

(追伸)
しかし、まさか、日本の首相がノムヒョン大統領を超える評価を得るとは思わなかった。
斜め上のそのまた上をいくとは…orz。

【関連記事】
・贅沢な民主主義体制/それを支える「前提」について考える。

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密約&官房機密費公開問題一考【その2】~秘密を守るということがどういうことか知らない日本人~

前回の記事「密約&官房機密費公開問題一考【その1】~相互に知らないことが保険の第一歩~」の続き。

今回、ご紹介する引用部分は、密約官房機密費の公開問題に対して多くの日本人が見せた「反応」と照らしあわせてみていただきたいと思います。

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前回の続き)

話は横道にそれるが、これはまた「日本人は秘密を守れない」という通説に通ずるものがある。

確かに日本人には「秘密=罪悪」といった意識があり、すべて「腹蔵なく」話さねば気が休まらない
と同時に、秘密を守るということがどういうことか知らない

アメリカ人はずいぶんアケッピロゲに見えるが、守るべき秘密は正確に守る

良い例が原爆製造である。

日本では、造船所のまわりによしずを張ったり、軍需工場の近くに来ると汽車の窓をしめさせたりしていた――何とナイーブな!

アメリカはB29の写真や設計図まで平然と公表していた。
だが原爆の製造は完全に秘密を守り通していた

私は昭和十六年に日本を去り、二十年の一月に再び日本へ来た。
上陸地点は伊豆半島で、三月・五月の大空襲を東京都民と共に経験した。

もっとも、神田のニコライ堂は、アメリカのギリシア正教徒の要請と、あの丸屋根が空中写真の測量の原点の一つとなっていたため、付近一帯は絶対に爆撃されないことになっていたので、大体この付近にいて主として一般民衆の戦争への態度を調べたわけだが、日本人の口の軽さ、言う必要のないことまでたのまれなくても言う態度は、あの大戦争の最中にも少しも変らなかった。

私より前に上陸していたベイカー氏(彼はその後もこういった職務に精励しすぎて、今では精神病院に隠退しているから、もう本名を書いても差し支えあるまい)などは半ばあきれて、これば逆謀略ではないかと本気で考えていた。

「腹をわって話す」
「口でポンポン言う」
「腹はいい」
「竹を割ったような性格」


こう言った一面がない日本人は、ほとんどいないと言ってよい。
従って相手に気をゆるしさえすれば、何もかも話してしまう

しかし、相手を信用し切るということと、何もかも話すこととは別なのである。

話したため相手に非常な迷惑をかけることはもちろんある。

従って、相手を信用し切っているが故に秘密にしておくことがあっても少しも不思議でないのだが、この論理は日本人には通用しない

個人の安全も一国一民族の安全保障も、原則は同じであろう。

しかし、日本では、牡蠣に果して殻は必要なりや否やで始まるから、知らせないこと、知らないことも、安全には必要だなどという議論は問題にされない。

さらに防衛費などというものは一種の損害保険で、「掛け捨て」になったときが一番ありがたいのだ、ということも(戦前戦後を通じて)、日本では通用しない。

戦前の軍人に「あなた方は、役に立たないことが(すなわち無用の長物であることが)最大の御奉公なのだ」などと言ったら、それこそ「無礼者め」であったろう。

そして咢堂翁の言った「平時の軍人は晴天の唐傘」という言葉も、戦後の「税金泥棒」も、実は、同じ論理の帰結の別の表現にすぎない。

とすれば敗戦の悲劇も、戦後の議論の混乱も、「安全と水とは無料が当然」という生得の考え方に発している。

いや、これは考え方といったような生やさしいものではない。
もう、問答無用の自明の公理なのである。

従って、いかに効率的に、低コストで安全を計るかなどという考えは、その考え方自体が論外になってくる。

自衛隊が災害牧前に出動すると、急にその評価が高まり、新聞の扱い方まで暖かくなる。
いわば、天災に対処するものなら意義はあるが、他の面では、全く無意義かつ有害とされるのである。

ああ、日本人は何と幸福な民族であったことだろう

自己の安全に、収入の大部分をさかねばならなかった民と、安全と水は無料で手に入ると信じ切れる状態におかれた民と、――私は、ただ溜息が出てくるだけである。

だが、余りに恵まれるということは、日本人がよく言うように「過ぎたるは及ばざるが如し」で、特にはかえって不幸を招く。

深窓に育った令嬢や、過保護の青少年は、何かちょっとしたことに出会うと、すぐに思いつめてしまう。
大学受験に失敗して自殺したなどはその典型的な一例であろうし、いわゆる一家心中も、多くはこの部類に入る。

ユダヤ人などは、もし思いつめていたら、とうの昔に、一家心中ならぬ民族心中をやらねばならなかったであろう。
考えてみれば、太平洋戦争の末期における「一億玉砕」の主張は、思いつめた「民族心中」の思考かも知れない

余りに恵まれた民族が、「古今未曾有」の事態に接した場合、こうなっても不思議はあるまい。

(後略~)

【引用元:日本人とユダヤ人/安全と自由と水のコスト/P29~】

密約官房機密費に関して云えば、もちろん、一定期間の後、情報を公開することも必要でしょうが、こと外交交渉に関してはとりわけ慎重な配慮をすべきでしょう。
ましてや、民主党のように、前政権を非難する為の具として利用することは、決していい結果をもたらさないでしょう。
(それでいて、民主党は自らの官房機密費については公開しないようですから、ご都合主義にも程があります。)

しかし、民主党の対応及び世間の反応というのは、まさにベンダサンが上記記述のなかで指摘した、日本人ならではの”思考様式”を背景にしているのではないでしょうか。

その”思考様式”に縛られ、それがもたらすマイナス面に気付かない。
そして、その思考様式を補完・補強するために、いろいろな理屈やタテマエが取って付けられる。

情報公開が民主主義の根幹だから…とか、知る権利を阻害しているから…とかいうのも、そのもっともらしい理屈やタテマエの例でしょう。

しかし、民主主義の国だと言っても、全てが情報公開されている国など世界のどこにあるのでしょうか?

現実はと云えば、アメリカのようにホンネとタテマエを使い分けている国ばかりなのに…。

海外のタテマエを信じて、日本”だけ”ホンネまでさらけ出すようなお馬鹿なことになっていなければ良いのですが…。

今回の公開問題は、日本人の「安全」意識が世界のそれと如何にずれているかを、改めて如実に示しているように思えてなりません。

せめて、世界における秘密を守ることの意味と、日本における意味の「違い」を認識する必要があるのではないでしょうか。

その「違い」を認識できないままでは、日本の安全を図ることなど到底おぼつかないでしょう。

こうした「違い」に気付かないのも、いい育ちのお坊ちゃんたる”証拠”なのかもしれません。

ちなみに、私は、特に左翼の言論にそうした「違い」もわきまえない、悪い意味での”イノセンスさ”というものを濃厚に感じてならないのですが…。

【関連記事】
・密約&官房機密費公開問題一考【その1】~相互に知らないことが保険の第一歩~


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モーツァルト「グレート・ミサ」/ジョン・ラター「こどもたちのミサ」を聴いた。

今日は久しぶりに、コンサートを聴きに行きました。
昔、一緒に合唱で歌っていた知人から、コンサート出るので聴きに来てと誘われまして

場所は、新宿文化センター。
主催は、東京オラトリオ研究会。
曲目は、以下のとおり↓でした。

モーツァルト「グレート・ミサ」
ジョン・ラター「こどもたちのミサ」
モーツァルト「戴冠ミサ」

モーツァルトの二つのミサは、歌ったことがあったので、久しぶりに生で聴いて懐かしかった。

なかでも私は、「グレート・ミサ」の1曲目「キリエ」が大好きなのだ。
この「キリエ」の第9小節目から始まるソプラノの旋律の憂いを帯びた美しさ、神々しさといったら…、堪りません。

映画「アマデウス」の中でも、モーツァルトがコンスタンツェと結婚するシーンで使われていましたから、ご存知の方も多いのではなかろうか。

一応、youtubeで見つけた楽譜付の「キリエ」↓を貼っておきます。
◆Mozart - Great mass in C minor - Kyrie


でも、今回のコンサートで一番収穫だったのが、ラター作曲「子どもたちのミサ」でした。
ラターという人は現代の作曲家で、今も生きている人らしいのです。
今まで聴いたことが無かったのですが、いわゆる現代曲にありがちな難しい曲ではなく、比較的なじみ易く綺麗なメロディだったので、非常に新鮮で楽しめました。
(とは言っても、一緒に連れて行った我が子は、ぜんぜん楽しめなかったらしい…orz。誘ってくれた友達が、「子ども向けだよ」と言っていたから、一応連れて行ったけど、どうやら全然わからなかったようだ。まぁ、小学生低学年には無理だとは思ったんだけどね~。)

それはさておき、参考までに、プログラムに載っていた解説↓を以下転載しておきます。

ジョン・ラター『こどもたちのミサ』
John Rutter(1945-)Mass of the Children

ジョン・ラターは、イギリスの作曲家、指揮者である。

ラターの作品は声楽作品(特に合唱曲)に集中しており、とくにイギリスやアメリ力おいて両年代の作曲家と比べると、彼はおそらくもっとも広く作品が演奏される作曲家である。

彼の音楽は、ホルストヴォーン・ウィリアムズブリテンのようなイギリスの合唱音楽の伝統から生じ、また19世紀終わりから20世紀初頭のヨーロッパ音楽、特にフォーレデュルフレなとの和声やメロディーの音楽語法からも影響を受けている。

『こどもたちのミサ』は、2002年の終わりに書き上げられ、2003年2月にニューヨークのカーネギーホールで初演された。

作曲者自身によれば、作曲の着想は、ブリテンの『戦争レクイエム』の初レコーディングに少年合唱団のメンバーとして参加し、その作品に感動した休験にまでさかのばるといい、子供と大人の声を融合させ、レクイエムという死者を悼む作品ではなく、もっと喜ばしい作品を書きたいという動機から生まれたようである。

ラテン語のミサのテキストの中に、子供たちとソリストによって歌われる英語のテキストが加えられているが、これもブリテンの『戦争レクイエム』と同様であるし、彼が1985年に作曲した『レクイエム』にも英語のテキストが加えられている。

冒頭の英語によるテキストは17世紀に活躍したトーマス・ケン『朝の賛歌』(目覚めよ、わが魂よ)が選ばれ、最後のテキストは同じ作者の夕方の賛歌(なんじに栄光あれ)が子供たちによって歌われるが、ラターによれば、このミサ曲は目覚めから眠りに落ちるまでの丸1日の出来事や感情を表しているということである。


この「こどもたちのミサ」の中で、一番起伏に富んでいて、聴いていて楽しかった「グロリア」のyoutubeを貼っておきます。
良かったら視聴してみてください。
◆John Rutter; "Mass of the Children" - 2. Gloria


やっぱり、新しいお気に入りの曲を見つけることが出来ると嬉しいもんです。
コンサート行ってよかった。誘ってくれた友達に感謝です。

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密約&官房機密費公開問題一考【その1】~相互に知らないことが保険の第一歩~

井上孝司の週刊連載コラム」というネットコラムがあります。
私が日頃、愛読し参考とさせていただいているコラムなんですが、どの記事を読んでも殆ど賛成することばかりで、非常に私自身の考えに近いものがあります。

このコラムで、昨今、民主党政権下で話題になっている密約や官房機密費の公開問題が取り上げられていました。

◆Opinion : 密約あるいは機密費に関する徒然 (2010/3/29)

このコラム↑を読んでいて、ふと思い出したのが「日本人とユダヤ人」の記述。

少し長くなりますので、2回に分けて引用紹介していきたいと思います。
今回ご紹介する箇所は、「安全」は”だだ”であると考えがちな日本人の「保険」に対する考え方が、世界のそれと如何に違っているかについて述べた部分です。

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■安全と自由と水のコスト

(~前略)

こういうゴマのハエ(註)だらけの社会に生きつづけてきた国民は、また特にその中のユダヤ人は、だれでも保険ということを考える。

(註)…盗賊・追いはぎなど犯罪者のたとえ。

しかし日本では厳密な意味での保険といった考え方はきわめて稀薄である。
日本人の生命保険に関する考え方は、戦前には貯金の一形態であり、今でもその色彩が強い。

当時は徴兵保険などというのがあったが、これは保険ではなく一種の貯蓄である。
今でも「子供が大学に入るころ満期になるように」などというのもこれと同じである。

これは少しくおかしい。
保険と貯金とは正反対のはずである。

貯蓄は将来の安全確固が前提のはずで、保険は将来の不安が前提のはずだ。

これは大部分の日本人が、大宅壮一氏と同じようにその心底では保険の必要を認めていない(すなわち安全は「ただ」のはずだ)から、従って保険のセールスマンは、これを一種の貯蓄ですよ、利殖ですよ」といって売り込まざるを得なくなる。

いわば正反対のものにすりかえて売っているのであり、おそらく日本ではこれ以外に方法がないであろう。

本当に保険に入るのなら、その前に、家の構造から子供の教育まで、当然、やっていることがあるはずである。

フランスの農民がナポレオン金貨を床下に埋めるのも一つの損害保険、ユダヤ人がダイヤの指輪をはめるのも一つの生命保険である(といってもおわかりにならないであろう。数人の暴漢に襲われたら、指輪をぬいて「ダイヤだぞ」と叫びつつ相手に投げつけ、そのひまに逃げる)。

これは序の口であって、ユダヤ人なら子供のときから、徹底した保険教育をうける。
それがどのようなものか、次の話を読んでいただきたい。

実をいうとこの話は余りしたくないのである。
もう十年以上前だが、私はある日本女性から「ユダヤ人は嫌いだ」とはっきり面と向って言われたことがある。

彼女はアメリカに留学していたが、ある日、偶然、隣家のユダヤ人か実に奇妙なことをするのを見聞してしまった。
このユダヤ人には五人の子供がいた。

ある日その父が息子のひとりに「二人で財産を隠しておこう」といい、百ドルを屋根うらの壁のすき間に押し込み、それを「兄弟にも母にも絶対に言ってはいけない」と言っているのを知ってしまったのである。

何ということでしょう。本当に守銭奴ですわ、親兄弟にまでお金を隠すなんて――あれじゃあ、偏見をもたれるのもあたりまえですわ」。

そんな奴らは人面獣心といった言い方であった。

私には兄弟はいないが、やや似た経験がある。

私の場合はもちろん、この日本女性が見聞したユダヤ人の場合にも、その前に、父親がこんこんと息子に言ってきかせたことがあるはずなのだ。

これが危険の分散すなわち保険の第一歩なのだ
そして、そうするのが家族のためであり、家族の安全のためであって、家族を愛しているからにほかならない

もしかりに家族のひとりがマフィアにでも誘拐されたとしよう。
リンドバーグの子ならいざ知らず、無名のユダヤ人の子がひとり消えても新聞種にもなるまい。
警察がユダヤ人に何をしてくれよう。
地方警察の中にマフィアの手先がいないとだれが保証してくれるであろう(と考えざるを得ないのは残念なことだが――)。

息子は拷問に合い、家の金のありかをすべて白状させられた上で、嬲り殺されてセメントづめにされて海に投げ込まれても、何のニュースにもならないであろう。

だがもし私がこういう目にあったら、家の金のありかなど知らない方が気が楽であろう。

たとえ自分の身の不幸はなげいても、知らないことは本当に知らないのだから、どんな拷問にあっても家族に累を及ぼす心配はない。
私ならその方が気が楽である。

中世以来、何度もくりかえされたゲットー掠奪は、相互に知らないことが保険の第一歩とユダヤ人に教えた。

もちろん、掠奪が終れば、生き残った家族はみなそれぞれ自分だけが知っている場所から金を取り出して、互いに助け合ったことは言うまでもない。

わざと知らせない、わざと知ろうとしない、ということは、守銭奴とは違う行為なのである

だが、「誘拐に対処するよう教育せよ」といえば「それは人間不信を教えることだ」という反論か出るほど平和な日本では、今でも、このことを本当に理解してくれる人は少ないであろう。

まして十数年前では、私はその日本女性に、何も言えなかったのである。

次回へ続く)

【引用元:日本人とユダヤ人/安全と自由と水のコスト/P26~】

日本とそれ以外の国で、保険を巡る考え方がこのように違ってしまったのは、いかに日本が安全な国であったかという証なのでしょう。

海に囲まれ、気の向いたときだけ外国と付き合っていけた時代なら、そうした考え方でも一向に構わないのでしょうが、残念ながら現代ではそうも行きません。

むしろ、そうした考え方のまま、外国と付き合うことは危険ですらある。

私は左翼の主張を見るに付け、その主張の背景に、依然として根強くこうした考え方に囚われているものがあるように思えてなりません。

左翼の理想的な主張が、世間知らずのお坊ちゃんのそれに見えてしまうのも、こうした考え方が基礎にあるからなのでしょうね。

そして、今回ご紹介した部分で一番重要なのは、「相互に知らないことが、保険の第一歩」という”考え方”が世界では存在するということを我々日本人が認識することではないでしょうか。

さて、次回、ようやく本題である密約や官房機密費の公開問題に関連すると私が思う箇所を紹介していくつもりです。

ではまた。


【関連記事】
◆密約&官房機密費公開問題一考【その2】~秘密を守るということがどういうことか知らない日本人~


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「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

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