護憲派のブログでも、コメント欄・トラックバックが非承認制のブログとなると殆ど見かけないのですが、そんな数少ない非承認制のブログ「
超左翼おじさんの挑戦」のコメント欄を読んでいると、現役(と思われる)
共産党員?の書き込みがちらほら見受けられます。
そのコメントを読んでいると、結構
共産党指導部に対する党員の不平不満が表れていて興味深いですねぇ。
そんな不平不満の一つに「なぜ
共産党は自らの間違いを認められないのか!!」というのがあるわけですが…。
そういう書き込みを眼にする度に、私は思うんです。
「それを
共産党に求めるのは酷ですし、無駄でしょう」…と。
そもそも、なぜ、
共産党は自らの間違いを認められないのか?
私が思うに、やはり自ら標榜している共産主義というシロモノを、心の底では信じていないからなのではないでしょうか?
要するにこれも
岸田秀が散々指摘する「自己欺瞞」の一種ですよね。
間違いを認めたら、自己欺瞞が明らかになってしまう。
それ故に、自らの正当性にこだわって、明らかな間違いですら認められない精神状態に陥っていく…。
共産党が、
党名変更を頑として拒否するのもその症状の一環ではないでしょうかね。
(私だったら、結果平等党とか弱者救済党とかの党名を推薦しますが…)
そんなことを考えるきっかけとなった
山本七平のコラムを、今日は紹介したいと思います。
◆「変節」とは何か
ある雑誌で、「変節」が問題になったことがあるが、多くの場合、「変節」という言葉で表現されている内容は甚だ曖昧だと思われる。
そこで、その言葉の使い方から、一応これを①対内的変節と②対外的変節に分けて考えてみたいと思う。
①たとえばここに、一人の共産党幹部がいると仮定しよう。
彼はもはや、内心ではマルクス=レーニン主義を信じておらず、共産主義革命が起こるとも起こそうとも思っていない。
しかし彼自身は党の幹部として高給をもらい、住宅も保養施設も保証され、車も秘書もお手伝いも党から派遣され、さらにマスコミには評論家としての活躍の場をもっている。
もし彼が、自己の内心の信に節を立て、もはや共産主義を信じず革命の必然も必要もないと宣言したら、彼はこのすべてを失わねばならぬ。
それは大変に苦痛であるだけでなく、自己の生涯と血の出るような苦難を無にすることになるから、彼にはそれができず、依然として共産主義者として振舞っている。
簡単にいえば、こういった状態が「対内的変節」である。
この状態は対外的には変節ではない。
彼がそのまま生涯を終えれば、一生、節を曲げなかった人ということになる。
こういう実例がカトリックにある。
その司祭は、もはや神など信じていないのに、「職業としての司祭」の役目をまことにソツなくこなしている自分を、克明に日記に告発していた。
それが死後に発見されたが、これはおそらく西欧の伝統である「強迫観念としての懺悔」の結果であり、いつかはそれを人びとに知らせないと安心できないという内的欲求があって、そこでこの対内的変節が明らかになったわけだが、そういう伝統のない国で、無言のまま息を引き取れば、その人は生涯「節」を曲げなかったということになるであろう。
では、これは「変節」ではないのであろうか。
私はそうは思わない。
②の対外的変節は、これと逆の生き方である。
彼は、マルクス=レーニン主義も革命も信じられなくなった。
信じられなくなったがゆえに、そう言明して党を追われ、それまで享受していた一切を失った。
その彼のところに、多くの人が共産党の内情について聞きにきた。
そこで彼は、ありのまま正直に語った。
ところが彼は、変節漢・裏切者として党およびそれに同調する者からあらゆる罵詈讒謗をあびせられ、一般社会も彼を「変節漢」と見なすようになり、社会的に葬られた。
では、彼は果たして「変節」したのであろうか。
少なくとも彼は、己れ自らをも他をも欺いておらず、自らにも他にも誠実だったという意味では、変節したとはいえないであろう。
私は、変節とはむしろ①の「対内的変節」を示す言葉だと思い、私自身が使う場合はこの意味だが、この変節はいわば「神のみぞ知り給う」ですぐには外部に表われないから、実際にはその言葉を使う機会がない。
もっとも、社会一般には変節とされている②の対外的変節も、その人の内心の本当の動機はわからないから、この場合もまた何とも言えない。
というのは、それが真の思想的転向いわば一種の回心への自らの誠実が理由なら、これをとやかく言う権利はだれにもないからである。
ある人が共産主義者になることも、またその人が共産主義者であるのをやめることも、本人の思想信条の自由であって、第三者が容喙すべきことではない。
だが、対外的変節がすべてこのケースかと問われれば、それもその人の内心の問題だから、これもまた「神のみぞ知る」であろう。
以上のことを簡単に要約すれば、変節とはその人の外面的な生き方からは判断できない問題だと一応は言える。
だがそれが対外的であれ対内的であれ、結局はわかる。
というのは変節の目的は常に保身もしくは組織保持であり、その人や組織が口にする思想信条はすでに目的でなく、保身もしくは組織保持の手段になっているからである。
そうでない場合――たとえば「この邪教キリスト教を一日も早く神州より一掃したまえ」と札幌神社に跪いて祈った内村鑑三がキリスト教徒になったような場合――これは保身の逆だから、人はこれを本当の回心と見ても変節とは見ず、少なくとも普通の人はこれを見誤ることはないと言ってよい。
一方この逆、たとえば共産主義者や社会主義者がもはやその主義を信じていないのに、その主義を名乗る組織を給与団体化して自己の生活や収入を維持するため、またその組織の既得権や議席などの社会的地位を保持するため等の手段としてこれらの主義を声高に主張しているなら、人はいつかはそれに気づき黙ってそれに背を向けてしまうのである。
変節とは結局、だれもそれを口にしなくとも時が明らかにしていく問題であろう。
【引用元:「常識」の研究/Ⅲ常識の落とし穴/P110~】
現在、
蟹工船ブームとかで、共産党に注目が集まっているようですが、「自己欺瞞」や「
対内的変節」という根本的問題を抱えている以上、残念ながら一過性のブームに終わってしまうのは間違いないと思いますね。
【関連記事】
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前回の記事『
平和主義の欺瞞【その1】~日本人の平和主義は「強姦された女の論理」~』で、ある護憲派のご婦人とコメント欄にて議論したり、
その方のブログを読んでみてつくづく感じたことは、「人と言うのは本当に自分に都合のよい情報しか受け付けないのだなぁ…」と言うことです。
むろん、これはその方に限った話ではなく、私自身にも当てはまるんですけどね…。
ただ、少なくとも私自身は、自分自身に「その恐れ」があることを自覚しているつもりです。
ところが、「その恐れ」を全く自覚していない人がいる。
前述のご婦人などは、まさにその典型に当てはまるのではないかと思います。
このことについて考えていたときに思い出したのが、昔読んだ
山本七平の次のコラム。
今日は、そのコラムが載っている『「常識」の研究』より以下引用紹介していきたいと思います。
◆情報の価値
さまざまな場合にその例が見られるが、われわれには違和感を感じる記述・統計・報告などを、なかなか受けつけない体質がある。
主婦などが「肌で感じたことと全く違う」といった表現で、政府が発表した数字などを拒否している記事が新聞に出るが、大変に面白い現象だと思う。
というのは、こういった主婦には、巨視的に把握された数字と自分の直接の感触との間に違和感があって当然、否むしろ違和感があるがゆえにその数字が大切なのであり、違和感を感じないなら、その数字はむしろあやしいものだといった発想が全くないからである。
情報は、自己の感触と違うものほど価値がある。
同じなら、ある意味では無用である。
だがこの自明のことが無視され、前記の傾向が極限まで行けば、その人は自己の感触以外は一切信頼せず、他の情報をすべて拒否するか、自己の感触に適合した情報にしか耳を傾けないという態度になって不思議ではない。
そして、これは実質的には感触のみであるから、このとき人は盲目同然となり、自己の触覚で知りうる範囲内だけで判断を下して行動に移る。
これが集団的に起これば、簡単にパニック状態を現出して当然であろう。
現代は、情報社会だという。
しかし情報は、受けとる側にその意志がなければ伝達は不可能である。
この前提を無視した上で、その社会に情報を氾濫させ、取捨選択を各人の自由にまかせれば、人びとは違和感を感じない情報だけを抜き出してそれに耳を傾け、他は拒否するという結果になる。
それは結局、その人の感触の確かさを一方的に裏づける作用しかしないから、情報が氾濫すればするほど、逆に、人びとは自己の感触を絶対化していく。
これは結局、各自はそれぞれ自分で感触し得る世界にだけ往み、感触し得ない世界とは断絶する結果となり、情報の氾濫が逆に情報の伝達を不可能にしていく。
それでいて本人は、自分は多くの情報に通じ、社会のさまざまなことを知っているという錯覚はもっている。
それが感触に基づく判断を社会的に刺激して、それだけで断定的評価を下す結果となり、情報の受容をさらに困難にする。
この悪循環は多くの国で問題とされているが、おそらくこの面での最悪の現象を呈していると思われるのが日本で、不思議に前記のような指摘はなく、これをどう解決すべきかという提案もない。
(後略~)
【引用元:「常識」の研究/Ⅲ 常識の落とし穴/P116~】
ちょっと話がずれてしまうかも知れませんが、これは、いわゆる
メディア・リテラシーの問題にも絡んでくるのではないかと。
そもそも、たとえ情報が氾濫しているといっても、全ての人びとが「情報の価値」を精査して正しく取捨選択できるわけではないことは、もともと人間には「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」がある以上、当たり前であって仕方のない事かも知れません。
けれど、仕方がないと諦めるわけにもいかないですよね。
ではどうすればよいのか?
上手くまとまりませんが、自分の考えを述べたいと思います。
たとえば、情報が制限されているような(いわゆる北朝鮮や中国などのような)統制社会であれば、その情報に扇動や誘導という目的が隠されているのではないか…と、人びとも警戒心を持ち得ます。
しかしながら、中国・北朝鮮のように強権を以って情報を制限することができない日本のような社会ではそうした情報制限を行なうことが出来ません。
そうした場合、扇動者はどのように世論を扇動したり、誘導するのでしょうか?
山本七平は「ある異常体験者の偏見」の中で、パウル=ロナイ教授の言葉を引用しながら次のように説明しています。
パウル=ロナイ教授が『バベルへの挑戦』の中で、言葉には「伝達能力」があると同時に、「隠蔽能力」があることを指摘している。あることを知らせないために百万言を語る…(以下略~)
つまり、あることを知らせないために、わざと情報を氾濫させるわけですね。
そして、「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」との相乗効果を期待する。
なにせ一見情報が溢れていますから、情報を受け取る側には「多くの情報に通じ、社会のさまざまなことを知っているという錯覚」があります。
この”錯覚”が、もともとある「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」をますます助長するわけです。
そうすると、もはや厳然たる事実を目の前に突きつけられても、何もわからなくなってしまう。
多かれ少なかれ誰にもそうした傾向はあると思うのですが、そんな中でも
憲法9条教の人たちは、その傾向がヒドイように見受けられます。
世論を扇動したり、誘導する扇動者の側からみれば、このような言葉のもつ「隠蔽性」や「違和感のある情報を受け付けようとしない体質」を利用しようとするのは当然のことでしょう。
扇動の方法も、情報を統制するという単純な統制方法と違って、扇動されている側が自覚しないという点も洗練されていて、扇動者には好都合ですよね。
その最たる成功例が、占領軍が行なった
プレス・コードなのですが、このことについては
山本七平が「ある異常体験者の偏見」で詳しく説明していますので、近いうちに紹介記事を書きたいな…と思っています。
さて、それでは、情報を受け取る側は、こうした状況にどのように対処すべきなのでしょう。
私が考えるに、次のことではないでしょうか。
1.人はかたより見るものだという前提で考える。
2.違和感を抱く情報こそ貴重だと受け止める。
3.異見を受け入れる度量を示す。もちろん、これが出来ていたとしても、正しい情報がまったく流れていない場合は無力だとは思いますが…。
ただ、これらが出来ていない人というのは、いわば
「扇動者」の資質を多分に持っていると見てよろしいのではないでしょうか。
(護憲派のブログってほとんどこれが出来ていないんですよね)
ちなみにですが、
山本七平はこのコラムの中で、「情報を伝達する側」が取る解決策として、次のように示唆しています。
強い敵意と違和感のため、相手が絶対に受けつけないメッセージを、いかにして相手に伝えるか。
その方法は一つしかない。
これは多神教のローマに進出した初代キリスト教徒が迫害と殉教の中で会得した方法で、その第一歩は「相手が意識していない相手の前提を的確に把握し、まずそれを破壊すること」である。
正直なところ、上記の解説は私にはちょっと抽象的なので、具体的にどうすればよいのか把握できない(まず、私がキリスト教徒が会得した方法を知らないせいもある)のですが、何かこの方法って、どうも「洗脳ではないか」という印象を抱きますね。
そうしないと、相手に「正しく情報を受け入れさすこと」って出来ないのでしょうかねぇ?
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突然ですが、ブログタイトルを下記のとおり変更させていただきます。
新しいブログタイトル
『一知半解なれども一筆言上』…デス。
前々から思っていたのですが、どうも「一言申す」というのは読みにくいな…と。自然で無いな…と。
それに切れがない終わり方のような気がしてたので、思い切って変更することにしました。
一筆言上なら、終わり方もいいですしネ
て、ゆーか、体言止め!?そんなことで、ブログタイトル変更の件、宜しくお願いいたします。
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もうとっくに憲法記念日は過ぎてしまいましたが、今回から何回かに分けて、
岸田秀が日本国憲法及び日本の平和主義についてどのように考えているか、それに加え自己欺瞞がもたらした影響について、著書「日本がアメリカを赦す日」↓より紹介して行きたいと思います。
今回のエントリを読むに当たっては、以前にご紹介した「内的自己/外的自己」とか「精神分裂病/
ストックホルム症候群」なる単語の意味を事前に把握していただいたほうがより良く理解できると思いますので、もしまだ読んでいない方は、まずは下記過去記事↓からどうぞ。
【過去記事】
・「内的自己」と「外的自己」とに分裂した近代日本/きっかけはペリー来航だった!?・「自己欺瞞」と「精神分裂病/ストックホルム症候群」この本を読んでつくづく思ったのは、憲法改正の問題にあたって「真の障害」というのは、単なる法律論うんぬんではなく、
日本人が陥っている自己欺瞞という精神状態であること。
そして、これを打破するには、自ら陥っている自己欺瞞についてはっきりと自覚する以外に道はないのではないかということです。
それでは、戦後日本人が陥った自己欺瞞とは如何なるものなのか?そして、その自己欺瞞に基づく平和主義とは、一体何なのか?
岸田秀の簡潔明快な分析をご覧ください。
(前回のつづき)
■欺瞞の代償
敗戦後の日本は、アメリカとの関係において、パトリシア・ハーストや宮嶋少尉が起こしたようなストックホルム症候群を国を挙げて大規模に大々的に起こしたのではないかと思われます。
本土決戦、一億玉砕を怒号していた日本が、敗戦後、掌を返すようにアメリカ占領軍に迎合し、政治や教育などあらゆる面にわたってアメリカの思想と制度を受け入れ、アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフに憧れた急旋回は、精神分裂病における内的自己から外的自己への反転、あるいはストックホルム症候群としてしか理解できないと思います。
現実的・合理的現象としては説明できないことがあまりにもいっぱいあり過ぎますし、いま言ったような自己欺瞞も多く見られます。
例を挙げてみましょうか。
日本国民は戦争に反対だったが、軍部に強制され、引きずられたのだとか、間違った軍国主義国家から正しい自由民主主義国家へと生まれ変わったのだから、戦争に負けてよかったのだとか、新憲法は人類の反戦平和の理想にもとづく世界に誇るべき憲法であるとか。
これらのことを自己欺瞞だと言うと、いまいくらか勢力を盛り返しつつあるかのように見える右翼思想とか国家主義とかナショナリズムとかを弁護しているかのように誤解されるかもしれませんが、僕は、敗戦前の日本も敗戦後の日本も、方向は正反対ですが、ともに病的現象と見ているだけであって、他意はありません。
敗戦前の日本も敗戦後の日本もともにおかしいのですが、敗戦後の日本がとくにおかしなところは、おのれのおかしさを棚にあげて、あるいはそれに気づかず、敗戦前の日本のおかしさだけをあげつらっている点です。
たとえば、僕は憲法の不戦条項に必ずしも反対ではありません。
しかし、加藤典洋さんがどこかで言っていたと思いますが、日本国民が不戦条項に真に賛成なら、いまの憲法を改正して新しい憲法を作り、そこに不戦条項を入れるべきです。
内容が正しいのであれば、押しつけられたものだっていいではないかという議論がありますが、これは誇りを失った卑屈な者の議論です。
この議論は、強姦されて処女を奪われた女が、何の価値もない処女を長いあいだ後生大事に守っていたわたしは間違っていた、人間は男も女も性交を知ってこそ真に人間らしい生活ができるのだ、わたしを強姦したあの男はわたしに性交という真の人生への扉を開いてくれたのだ、強姦されたわたしは幸運だった、彼に強姦されなかったら、一生、性交を知らず、間違った不幸な人生を送ったであろうと考えて、強姦されたことを正当化し、彼に感謝するのと同じです。
この女の論理はどこかおかしくはないでしょうか。
このおかしさに気づかないのは、誇りを失っているからではないでしょうか。
内容が正しいのであれば、押しつけられたものだっていいではないかという議論は、働いて稼いだお金で買った食べ物も、売春して男にもらったお金で買った食べ物も、乞食になって恵んでもらった食べ物も、おいしくて栄養があれば同じではないかという議論と似ていないでしょうか。
あるいは、この議論は、「目的は手段を正当化する」として暴力革命を正当化したかつての革命政党の議論と似ていないでしょうか。正義の社会を実現するという正しい目的のためなら、暴力という好ましくない手段もやむを得ないというわけです。
しかし、暴力を用いて打ち立てた政権は暴力で維持する他なく、実際にはすべて、打倒した前の政権よりタチの悪い暴力的独裁政権となりました。
正しい目的は不正な手段を正当化するのではなく、不正な手段は正しい目的を腐らせるのです。
目的と手段は一つの有機的全体を成しているのであって、切り離すことはできないのです。
不正な手段で正しい目的を実現することはできないのです。
自ら進んで獲得したのではなく、他から押しつけられた平和主義は、ちょっとしたことですぐ脆くも崩れる偽りの平和主義にしかなりません。
どのような手段で獲得したかによって、形は似ていても違った結果になるのです。
強姦に話を戻します。
実際、強姦されるというと、暗い夜道で見知らぬ男に突然襲われてというイメージがあるようですが、ほとんどの強姦は顔見知りの男が犯人だそうで、いくらかは好意をもっていた男に強姦された女のごく普通の反応は、それが強姦であったことを否認しようとすることです。
とくに処女が強姦された場合はそうです。
強姦されたことは耐え難い屈辱なので、強姦されたと認めると、おのれの屈辱に直面せざるを得ないため、あるいは、人生の最初の性交が強姦であったというようなみっともなく悲惨な事実が自分に降りかかってきたとは思いたくないため、強姦を強姦と認めまいとするのだと思います。
わたしがスキを見せたのは、本当は彼と性交したかったからなのだ、わたしが無意識的にせよ彼を誘ったのだ、この結果はわたしが望んだことなのだ、こうなってよかったのだ、と無理やり思い込もうとします。
そう思い込むことができれば、それは強姦ではなく、おたがいの愛にもとづく性交、あるいは、自分も性欲を満足させるためにした合意の性交ということになります。
もちろん、これは自己欺瞞です。
この自己欺瞞を維持するため、彼女は、その後何回か自発的に性交に応じたりします。
いやむしろ、積極的に彼に性交を求めたりします。
自分はこの男を愛しているんだ、あるいは、自分は性交が好きで、性交はいつも自ら望んでしているのだということを自分に対して証明するためです。
(余談ですが、裁判では、強姦された女が、そのあと犯人の男と自発的に性交すれば、強姦されたと訴え出ても取り上げられないとのことですが、これは、強姦された女の心をあまりにも理解していない仕打ちだと思います。強姦されたがゆえに、そのあと引きずられるということがあるのです。)
しかし、いくら意識的には否認しても、無意識的にというか、心のどこかでは強制的に性関係に引きずり込まれた屈辱を感じていますから、決して性交を楽しむことはできず、そのうち屈辱感、嫌悪感が積もり積もって、ある日突然、後に反逆するか、後から逃げ出すということになります。
現実に強姦された女のこのような反応と、アメリカに対する日本の反応とは実によく似ています。
日本は、最初はペリーに、次にマッカーサーに強姦されたわけですが、最初のときはそれが強姦であったとの認識をどこかで否定しながらも、ある程度はもちつづけたように思われます。
いずれにせよ、無理やり引きずり込まれたアメリカとの友好関係はそのうち必然的に破綻をきたし、日本は、ある日突然、真珠湾を奇襲するわけです。
二回目に強姦されたとき、日本は、以前にもまして、それがあたかも和姦であったかのように思い込みました。
そしてふたたび今、アメリカと友好関係をもっていますが、そこに自己欺瞞があると、また同じようにいつかは破綻する危険があります。
敗戦後の日米関係に関して日本の側に自己欺瞞があることは否定し難いですが、自己欺瞞している日本人も、公式には日米は緊密な同盟関係にあるイコール・パートナーだなどと言いながら、心のどこかでは日本がアメリカの属国、子分であることを知っているんですよ。
(次回につづく)
【引用元:日本がアメリカを赦す日/第三章 ストックホルム症候群/P68~】
私は、以前「押し付けられたから改正しなければならない」という憲法改正論は、憲法を改正する論拠としては若干弱いのではないかと感じていましたが、上記の記述を読んでその認識が浅かったことを痛感しました。
やはり、「押し付けられたもの」と「自主的に掴み取ったもの」というのは、「意識」という点で雲泥の差があります。
そしてその「意識の違い」は、
岸田秀が指摘するように、「形は似ていても違った結果(偽りの平和)」となって表れるのではないでしょうか。
また、「強姦された女の論理」という指摘については、厳しいとは思いますがそう指摘しない限り、気が付かないほど自己欺瞞に陥っている日本人も多いのではないかな。
自分自身を振り返ってみても、心のどこかで日本がアメリカの子分ではなくイコール・パートナーであって欲しいと思いたがっていることは認めざるを得ません。
なかなか現実を直視することは難しいものですね。
ただ、反米感情が強い人、特に左翼に多く見られると思いますが、「日本はアメリカのポチだ」とけなす人がいますけど、そういう人は本当に現実を直視しているといえるのでしょうか?
そうした人びとの主張を見ると、いやそうした人びとに限って現実から遊離した絵空事・綺麗事を言うケースが多いように思います。
つまり、卑屈な「外的自己」的行動をしている日本人を罵るだけの、単なる憂さ晴らしのレベルに堕ちているのです。
これも、屈辱感ばかりに囚われて、それを発散する為の反米的言辞を弄する行為でしかなく、現実を直視しているとはとても言えないでしょう。
日米がイコール・パートナーと思い込む親米派も、「アメリカのポチだ」と罵る反米派も、共に現実から目を逸らし自己欺瞞に逃げ込んでいるといって差し支えないのではないでしょうか。
しかしながら、左右どちらも自己欺瞞に陥っているものの、個人的にはやはり左派の方が重篤であるような気がします。
私はつねづね護憲派の人たちが、どんなに理詰めで説得されても、頑なに
9条護憲にしがみつくのを不思議に感じていたけれど、これは主に二つ要因があるように思います。
1つは、一種の反米的行動としての
9条護憲。
要するに、アメリカが「日本がアメリカに二度と逆らわないように」与えた9条を、頑なに守ることでアメリカに抵抗するという「
順法闘争」的抵抗手段として用いているわけですね。
これは、親の言いつけを過度に守ることで逆に親に逆らう子供の態度と同様です。
親への反抗・抵抗がとにかく目的ですから、理屈なんかどうでもいいわけです。
だから、どうしても硬直的で現実から遊離したものになってしまう。
もう1つは、やっぱり押し付けられたことに起因する「自己欺瞞」によるものですね。
つまり、彼ら自身でも、
”無意識的”に「すぐ脆くも崩れる偽りの平和主義」であることを感じていて、その不安を打ち消す為に、さらにその「偽りの平和主義」にしがみつくということだと思います。
山本七平も、こうした彼らの行動を「ある異常体験者の偏見」のなかで
「この不安は常に、虚構を崩さないで、逆に、虚構を事実と信じて安心しようという方向に動くのである」と指摘しています。
しかし、こうした自己欺瞞は、
岸田秀のいうとおり、結局のところ、ますます現実から目を逸らさせるだけです。
現実から遊離した平和主義がもたらすものは、絶対に平和な世界ではないはずなんですがねぇ。
自己欺瞞の陥った人たちの眼を覚まさせる為には一体どうしたらよいんでしょうか。
(
次回につづく)
【関連記事】
・「ニセ物に固執する精神」~憲法改正がタブー視される理由とは~・平和主義の欺瞞【その2】~自己欺瞞によりますます卑屈になる日本~FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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もうたくさん、あちこちの保守系ブログで突っ込まれているネタで、今更ですがちょっとだけ…。
痛いニュースより
・「海自派遣による海賊対策反対!…でも海賊から守って」 ピースボート、海自護衛艦に護衛依頼 まあ、これじゃネタにされて当然だよねぇ~。
自分の実際の行動規範と違う主張をしているから、信用されなくなるわけだけど、その辺のところ、彼らは自覚しているのだろうか?
なんだかんだ屁理屈をこねて、ごまかして終わるだけなんだろうなぁ…。
それどころか、徹底的に無視して終わりそうな予感。
(護憲派のブログで取り上げているのは、曲がりなりにも
お玉さん処ぐらいか。)
でもね。
ピースボートやそれを支持する護憲派にはよく考えて欲しい。
自分自身でさえ実行できない主張を、平然と主張するのは偽善者若しくは恥知らずと言われても仕方ないということを。
そんな彼らの偽善がはっきりと露呈したニュースでしたね。
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私のipodの愉しみといえばポッドキャスト。
そんなポッドキャストの愉しみを教えてくれたのが、ニフ亭の
ポッドキャスティング落語だったのですが…。
今頃気づいたのですが、4月22日の配信をもって休止していたとは…。
ショックです。
そういや、昔に比べ配信の頻度が落ちているなぁと、感じてはいたんですがまさか休止とは。
若手・二つ目の落語なので当たり外れもあったけど、面白い落語家とかいたんですけどねぇ…。
スポンサーが付かなかったって書いてあったけど、これも不況の影響でしょうか。
一つ楽しみが減って残念無念です。
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前々回の記事『
「内的自己」と「外的自己」とに分裂した近代日本/きっかけはペリー来航だった!?』にて、「内的自己」と「外的自己」という言葉の意味をご紹介しましたが、今日はその続きで、「
精神分裂病」と「
ストックホルム症候群」なる言葉について
岸田秀の説明を、著書「日本がアメリカを赦す日」からご紹介していきたいと思います。
(前回のつづき)
この正反対の方向の二つの反転のうちの、内的自己から外的自己への反転に限って言えば、一種のストックホルム症候群と見ることもできるのではないかと思います。
一九七〇年代、ストックホルムのある銀行を強盗が襲い、人質を取って立てこもったという事件がありました。
そのとき、人質になった被害者たちは、犯人に抵抗するとか、犯人の逮捕に協力するとか、犯人を憎んでいるはずの被害者に当然期待されるようなことはせず、犯人になぜか共鳴し、敬意と好意を寄せ、警官隊の動きを見張る役を自ら買って出て、実際に警官隊が突入したときには警官隊から犯人をかばおうとさえしたという興味深い事件があって、それ以来、被害者が加害者に共鳴してその味方をするという奇妙な現象をストックホルム症候群と呼ぶのですが、人間の不思議さというか、この種の現象はときどき起こります。
アメリカの新聞王ハースト家の令嬢パトリシアが誘拐され、しばらく行方不明になっていたのですが、その後、彼女は自分を誘拐したテロ集団の一員として突然、姿を見せ、他の者たちと一緒に銀行強盗を働き、世間を驚かせました。彼女は、銃で銀行員を脅したりして大いに活躍しました。
脅迫されたり強制されたりしてそうしているのではないことは明らかでした。
先日、釈放されて韓国に引き取られた終身刑囚の金嬉老が、一九六八年、大井川上流の寸又峡温泉の富士見屋旅館(僕は、あとからわざわざ見物にゆきました)に十三人の人質を取って四日間立てこもったときも、そのうち、人質たちが彼に尊敬と信頼をもち始め、人質の一人は、彼に用事を頼まれ外に出て、そのまま逃げればいいのに、「信義は守らねばならない」とか言い、ちゃんと用事を果たして囚われの部屋に戻ったりしました。
捕虜になった日本軍将校が米軍機に乗り込み、機上から爆撃すべき日本軍陣地を指示した話は有名ですが(岩川隆『決定的瞬間』一九八四年)、これもストックホルム症候群の一例ではなかったかと思います。
宮嶋とかいうこの少尉も、拷問や脅迫や強制によってではなく、自ら進んで米軍機に乗り込んだらしく、アメリカ人のほうが驚き呆れています。
これは、例外的なとんでもない日本人が一人いたということではなく、この宮嶋少尉は、戦後の日本人、アメリカの占領を歓迎し、その思想に共鳴し、その文化を称賛した戦後民主主義者の魁、先駆者だったのではないかと思います。
彼は戦争中にすでに戦後日本を先取りしていたのです。
このようなストックホルム症候群も、精神分裂病と同じく、ある程の危機的状況におかれた人間に発生すると考えられます。
その状況とは、簡単に言えば、不本意なことをしなければ生きのびられないという状況です。
自尊心とか主義信念とか節操とかを守っていれば殺される、それを捨てれば生きられるという状況です。
それが軽い程度のものであれば、適当にあしらっていれば済むかもしれませんが、そうもゆかないときがあります。
生きるか死ぬかの重大な危機に直面すると、人間は、往々にして自己欺瞞に逃げ込みます。
精神分裂病というものはまだよくわかっておらず、その原因についてはいろいろな説がありますが、幼児期の親子関係に原因があるとする説もあります。
幼児が、自分を愛してくれず、理解してもくれないで、勝手な要求を押しつけてくる親に育てられているとします。
幼児は、その要求に従いたくはないのですが、従わないと見捨てられる危険があります。
従っている限りは、親は一応、世話し保護してくれます。
こういう場合、親の要求はあくまで自分の意に反し、自分の内なる欲望、言わば内的自己と矛盾するものではあるが、親に見捨てられないためには従わざるを得ないと判断し、親の要求と内的自己とが矛盾対立している事実を明確に認識したまま、現状ではやむを得ないとして不本意ながら親の要求に従うということができるためには、かなり強靭な精神力が必要です。
そのような強靭な精神力をもっている幼児はまずいません。
幼児は、その緊張と葛藤と不安に耐えられず、親の要求と対立する自分の欲望を捨てようとします。
内的自己の存在を否認し、抑圧します。そして、親の要求こそが自分の欲望であると思い込みます。自己欺瞞するわけです。
親の要求に合わせた自分、それが外的自己です。
表面的には、親と自分との対立は見えなくなります。幼児は、そのようにしてつくりあげた偽りの安定感に縋って、何年か十何年かを過ごします。
しかし、親の要求と対立するために抑圧された内的自己は、もちろん消滅するわけではなく、無意識のなかで存続します。
無意識のなかに閉じ込められたということは、すなわち外の世界、現実の世界から切り離されたということであり、そのため、そのまま無傷で健全な形では維持され得ず、無意識的なさまざまな空想と結びついたりして、いろいろと形を変え、歪み、言ってみれば妄想的になってきます。
あるとき、たいていは青年期ですが、それまで抑圧されていた内的自己が、ついに限界点に達し、抑圧の壁を破って噴き出してきます。
この噴き出してきた内的自己は、親をはじめとする周りの人たちの期待に反するもので、かつ、妄想的になっていますから、本人としては、長年がまんして抑えてきた本当の自分をついに表現して解放された気分ですが、周りの人たちには発狂したと見られるわけです。
これが精神分裂病の発病のメカニズムとされています。
ストックホルム症候群は、精神分裂病のように本人の幼児期や親子関係に関係づけられてはいませんが、それが発生する状況は同じようなものです。
同じ現象を、精神分裂病と見る見方は、抑圧されていた内的自己が外的自己を突き破って噴出する時期に重点をおいており、ストックホルム症候群と見る見方は、外的自己が形成されて内的自己が抑圧される時期に重点をおいているという違いがあるに過ぎないと言えます。
いずれにせよ、ストックホルムの銀行で人質になった人たちも、パトリシア・ハーストも、寸又峡温泉で人質になった人たちも、宮嶋少尉も、自分としてはやりたくないが、相手の意に沿わなければ殺されるかもしれない状況(または、そう信じられる状況)におかれたのです。
相手の意に沿うのは屈辱です。相手の意に沿わなければ殺されます。
屈辱的生存か、誇り高き死かの二者択一を迫られたのです。
ここに便利な逃げ道があります。自己欺瞞です。
すなわち、自分はいま、自分の考えにもとづいてこうしているのであって、それがたまたま相手の考えと一致していただけのことだ、自分はもともと相手の意に反するような考えなどもってはいなかったのだ、と考えるわけです。
そのように考えれば、殺されずにすむだけでなく、誇りを保つ(もちろん、主観的に保つだけであって、客観的には卑屈の極みですが)こともできます。
いったん、そのように自己欺瞞すると、自己欺瞞を維持しつづけなければ、抑圧している屈辱感がぶり返してくるので、現実の危険が去っても、自己欺瞞をやめるわけにはゆかなくなります。
すべては推測でしかありませんが、たとえば、パトリシア・ハーストは、テロ集団に誘拐されたとき、彼らを憎んだでしょう。彼らの要求に従いたくはなかったでしょう。
しかし、従わざるを得なかった。そこで彼女は自己欺瞞に訴えます。
どのような集団でも、おのれの存在を意義づけるような、正当化するような何らかの理屈はもっていますから(世のため、人のために悪い奴を懲らしめる必要があり、そのための軍資金が要るので、銀行強盗もやむを得ないとか)、彼女はその理屈に縋りつき、それを受け入れます。
自分はもともと世の中に納得できない矛盾をいっぱい感じていた、それらの矛盾を解決し、理想の世界を実現するには、この集団の大義のために尽さねばならない、と彼女は考えます。
そのように考えるようになったとき彼女は、自ら進んでこの集団と行動をともにすることになります。
脅かされなくなり、強制されなくなったとき、もし、この集団と行動をともにするのをやめれば、彼女は、自分は命欲しさに脅迫と強制に屈し、誇りを捨てて屈辱的なことを平気でした卑屈な人間であったことを認めなければならなくなります。
それを認めたくないので、彼女は、脅迫や強制がなくなっても、いやむしろ、脅迫や強制がなくなった今こそ、自ら進んでこの集団と行動をともにしつづけるのです。
彼女が銀行強盗に加担したのは、そういうときであったと考えられます。
宮嶋少尉に閉しても、同じように推測できるでしょう。
しかし、自己欺瞞はあくまで自己欺瞞です。
自分で自分を騙すわけで、他人を騙すのとは違って、騙されるのも自分だから、心のどこかでそれが嘘であることを知っています。
自己欺瞞によって屈辱感を抑圧しても、屈辱感は消え去りません。
屈辱感とはっきり認識されていないかもしれませんが、心のどこかに何かわだかまりのようなものとして残っています。
人間には、見えていて見えない、知っていて知らない、感じていて感じていない、こういう微妙な状態が可能なんです。
だから、自己欺瞞が成り立つわけです。
そういう例は、日常、よくあるでしょう。ガン患者が、意識的には自分は大丈夫だと思いながら、心の奥のほうのどこかで、もうダメだと知っているとか。夫婦が、もう関係が壊れてしまっているのを薄々知っているのに、何とかやっていけるんじやないかと意識の上では思い込んでいて無理をつづけているとか。いろいろあるんじやないかな。
パトリシア・ハーストも宮嶋少尉もその種の自己欺瞞に陥っていたと考えられます。
自己欺瞞なのですから、彼らも、心の底から全面的に相手に賛同していたわけではありません。
どこかに無埋があります。無理はいつかは破綻します。
しかし、破綻するまでは、自己欺瞞に執着し、自己欺瞞を崩されることに必死に抵抗します。
またしかし、自己欺瞞が崩されたあとは、彼らは、自分がどうしてあのような馬鹿げたことを信じていたのか、あのようなとんでもないことをしたのか、自分のことながら不思議で不思議でどう考えても理解できないのではないかと思います。
(次回につづく)
【引用元:日本がアメリカを赦す日/第三章 ストックホルム症候群/P61~】
今日はここまで。
次回はいよいよ、これらの言葉を踏まえて、戦後日本が陥ったおかしな自己欺瞞について話が展開していくことになります。ではまた。
【関連記事】
・「内的自己」と「外的自己」とに分裂した近代日本/きっかけはペリー来航だった!?・自己欺瞞と偽りの謝罪論【その1】・自己欺瞞と偽りの謝罪論【その2】FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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岸田秀の紹介記事を書こうと思いましたが、こういうニュース↓を読んだものですから、取り上げてみました。
■平頂山事件 民主議員「日本政府に公式謝罪求める」
中国遼寧省の平頂山村で1932年に旧日本軍が村民を虐殺したとされる平頂山事件で、民主党議員有志を代表して相原久美子参院議員が5日、同省撫順市で事件の生存者3人と面会し、公式の謝罪などを日本政府に求めていくことを約束した。
抗日ゲリラによる襲撃の報復として旧日本軍が住民を銃殺した事件は、犠牲者が800人とも3千人ともいわれる。生き残った3人が96年、日本政府に6千万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴、最高裁まで争ったが06年に敗訴した。
このため生存者と弁護団は日本政府に対し、賠償を求めない形で(1)公式な謝罪(2)犠牲者を供養する記念碑などの設置(3)事実を究明し後世に伝える――を求めることを決め、民主党議員24人の協力を取り付けた。
相原議員は生存者の前で「日本政府が謝罪もせず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。真の安定した日中関係を築くには戦後補償問題の解決が不可欠。皆様の要求が実現するように努力します」と述べた。
生存者の王質梅さん(87)は「日本から議員が来てくれて感謝する。生存者は少なくなっているので早く解決してください」と話した。(撫順=西村大輔)
もうひとつ、ブログ「
中南海の黄昏」さんの所から、新華網の日本語訳を転載させていただきます。
(新華網の記事より)
5日朝、日本の参議院議員・相原久美子は、88歳の王質梅老人と抱き合い涙し、相原は王質梅老人に何度も”申し訳ありません”と繰り返した。加害国の一人の議員と、被害側の一人の生存者、中国の東北に位置して77年になる炭鉱の町、撫順市が最も輝いた一瞬だった。
民主党所属の日本の参議院議員・相原久美子女史は、中国の東北に位置する遼寧省撫順市に初めてやってきた。この土地は、70数年前は日本の占領地となり、3,000数名の中国平民が日本軍に殺害された”平頂山惨事”(1932年)が、平山久美子が立っているこの地で発生した。
王質梅老人は、死者の山から這い出たせた生存者で、事件発生当時はたった11歳で、両親と弟とを虐殺によって失っている。
「私の母は、今の王質梅と大体同じぐらいの年齢です。彼女は中国済南で5年生活し、非常に多くの中国人の助けを受けました」、「母は私に、戦争は人を変える、戦争は最大の罪悪であると教えた。私達は歴史を鑑とし、新たな日中友好関係を建設しなければならない」と相原は述べた。
小柄な相原久美子は、東京から中国にやってきて、滞在はたった30数時間。彼女の今回の旅の目的は、一通の手紙を渡すことだ。
この手紙には、10人の日本の衆議院議員、14人の参議院議員の名前が記されており、書面には”平頂山惨事”の生存者に対する謝罪の意に相当することが綴られている。
手紙には次のようにある、”一人の人間として、日本国民によって選出された国家議員の一人として、我々は心の底から謝罪の意を表します”。
”私は、初めて撫順に来て、平頂山事件の真実の現場に初めて触れました”と相原は撫順視察の最初に平頂山惨事遺跡記念館を訪れ、最初に感じたのは”驚き”であったという。
1932年9月16日、中国団欒の中秋を過ぎた頃、中国侵略日本軍は、老人、夫人を含め3,000数名の無抵抗な庶民を平頂山に集め、集団大虐殺を行い、遺体を燃やし痕跡を消し、内外が震撼する”平頂山惨事”を行った。1970年代、撫順市は惨事の遺跡で遺骨の発掘を行い、記念館を建てて弔った。
相原は、生存者達に一通、一通お詫びの手紙を手渡した。彼女は、王質梅の手を取り「申し訳ない、あなたたちは苦しい目にあいました」と述べた。
現在、”平頂山惨事”の生存者はたった5人のみで、平均年齢は90歳近い。
平頂山惨事遺跡記念館を去る前、相原久美子は中国側の人間と一緒に2本の松を植えた。彼女は、日中友好が永遠に続くよう、平頂山受難者の魂が安らかに眠るよう願った。
【引用元:中南海の黄昏/民主党参議院議員、中国謝罪の旅より転載】
一応、相原議員の
オフィシャルサイトを覗いてみたけど、この件についてはまだ何も報告されていませんでした。
とりあえず知りたいのは、被害者に渡したという手紙の内容全文です。
”日本国民によって選出された国家議員の一人として”一体どんなことを書いたのか?
私は一有権者として知っておきたいし、知る権利があると思う。
また、朝日新聞の報道を読んだ限りでは、最高裁で敗訴した生存者と弁護団は次のように要求しているようです。
日本政府に対し、賠償を求めない形で
(1)公式な謝罪
(2)犠牲者を供養する記念碑などの設置
(3)事実を究明し後世に伝える
ところが、記事によれば、相原議員は「戦後補償問題の解決」を口にしている。
一体どのように解決しようとしているのか?それについても問い質してみたいところです。
多分、彼女は下記過去記事↓に当てはまるような人間だと思うんですけどね。
とりあえず今現在は、相原議員の今後の報告や活動状況を注視するにとどめておこうかな。
【過去記事】
・「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか・自己欺瞞と偽りの謝罪論【その1】・自己欺瞞と偽りの謝罪論【その2】FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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今回も
岸田秀のご紹介です
岸田秀の精神分析論には、「内的自己」と「外的自己」という単語が良く出てきます。
これらの単語は、精神分裂を説明するための表現なのですが、この単語を押さえておくと、非常に話がわかり易くなると思いますので、著書「日本がアメリカを赦す日」より本人の記述を引用してみます。
近代の日米関係では、世界の歴史に先例のないことがよく起こっています。
玉砕や特攻隊のような、何か死に急ぐ兵士、あえて死に向かって突き進む兵士(周りの雰囲気でそうせざるを得ないように心理的に強いられた者もいたでしょうが)は日米戦争における日本軍に初めて見られたことですし、原爆投下など、空襲による敵国の一般市民の残忍な大量虐殺はアメリカ軍が初めてやったことですし、敵国民に対してあれほど寛大な占領政策を施行したのはアメリカが初めてですし、占領軍に対してあれほど従順だった国民は日本国民以外にはいません。
不思議と言えば不思議、不可解と言えば不可解な現象です。それがなぜかを、僕は理解したいのです。
■精神分裂
近代日本は、自国を貶め、外国(アメリカを初めとする欧米諸国)を崇拝し、外国のようになろうとする卑屈な外的自己と、外国を憎悪し軽蔑し排除しようとする誇り高い誇大妄想的な内的自己とに分裂した精神分裂病者のようなものであるというのが、僕のかねてからの主張ですが、この見方に立てば、戦争中の、捕虜になってみじめに生きるのを潔しとしない玉砕や、大義のために命を捨てる特攻隊、神国日本の不敗を信じる皇国史観などは内的自己、敗戦後の、占領軍への従順さ、いわゆる自虐史観などは外的自己の表れと見なすことができます。
実際、いずれも現実的・合理的判断にもとづくとは思えない両極端へのこのような分裂は、一種の病的現象とでも考えなければ、説明かつかないのではないでしょうか。
事程左様に、日本および日本人の外的自己から内的自己への、内的自己から外的自己への反転は唐突です。
(次回へつづく)
【引用元:日本がアメリカを赦す日/第三章 ストックホルム症候群/P60~】
従来、右翼・左翼という形で政治的立場が区分けされますが、それに加え、この「外的自己/内的自己」で細分化するとよりわかり易いのではないかと、この記述を読んで思いました。
まず左翼については、比較的反米の姿勢を取る人が多いです。
これはやはりアメリカという存在が「内的自己」を刺激するからでしょう。
ただ、反米の姿勢を取る人でも、反欧の姿勢を取る人は少ないですね。むしろ、親欧というか「出羽の守」状態の人がほとんどではないでしょうか。
フランスべったりとか、北欧べったりでひたすら日本のことを貶す左翼が、よく見受けられます。
こうやってみると、左翼は基本的には「外的自己」傾向だけれど、対アメリカに関してだけは「内的自己」が表れる傾向にある、といえるのではないでしょうか。
まあ、日本人は基本的に舶来を尊んできた民族ですから、進歩的な人が左翼であるケースが多いのは当たり前なんですけどね。そんな人でもアメリカだけは嫌いなのでしょう。
それに対して、右翼は、比較的親米の姿勢を取る人が多いように見受けます。
ただ、そうした姿勢を取る人にも、二種類ありますね。
日本の現状をみて、やむを得ず「親米」姿勢を取る人と、「出羽の守」的に「親米」姿勢を取る人といるように思います。
特に、やむを得ず「親米」姿勢を取る人というのは、意識的にしろ無意識的にしろ「内的自己」を抑えているように思います。
対中国・北朝鮮を考えて親米姿勢を取ってはいるものの、本音では左翼同様、アメリカが嫌いなんでしょうね。
(私自身を分析すれば、これに近いように思う。)
でも、そもそも右翼というのは、おもいっきり「内的自己」が激しい人を指すのではないでしょうか。
極右などは、昔さながらの「尊皇攘夷」的なイメージがあるのですけれど。
こうやってみると、日本人といっても、さまざまに分裂しているのがよくわかりますね。
さて、
岸田秀は、このように「外的自己/内的自己」を規定し、精神分裂の説明をした上で、「近代日本の行動が、精神分裂病者のようである」と指摘しています。
それではなぜ、近代日本が精神分裂病者になってしまったのか?
著書「二十世紀を精神分析する」から、
岸田秀の考える理由を紹介して行きましょう。
ニ、ペリー来航と真珠湾
人間は行動の動機を必ずしも意識していない、あるいは当人が意識している動機は必ずしもその行動の真の動機ではないというのは精神分析の説くところである。
このことは個人にも集団にも当てはまる。
歴史を主として動かしているのはそこに参加した人たちが意識していない動機である。
その例として、日米開戦と真珠湾奇襲だ。
当時の政策決定者が意識していた理由は、ご存じのように、アメリカに石油を禁輸され、中国と仏印からの全面撤兵を要求され、追いつめられた日本がこのまま座して死を待つよりはと、戦争に活路を求め、そのためにはまずアメリカの太平洋艦隊をたたく必要があるので、真珠湾に奇襲をかけたというものである。
敗戦後、生産力が日本の十数倍もあるアメリカに戦争を仕掛けるなんて無謀極まりないど非難されたが、この開戦の理由は、当時としては一応合理的である。
もちろん、アメリカの言いなりになるという選択はあったが、それでは戦わずして負けるのと同じであった。
また、アメリカの言いなりにならずにがんばったとしても、日本は石油を産出せず、石油の備蓄は数カ月分しかなかったから、このままでは数カ月経てば日本軍は確実に無力化する。
言ってみれば、放っておけば間違いなく死ぬ、手術はできないことはないが非常に危険で、たいていは助からない、しかし、一纏の望みがないことはないといった患者のケースで、手術することを日本は選んだのである。
しかし、この理由が合理的と見えるのはそう見えるだけのことであり、日本のこの選択と決断には多くの不合理な動機が隠されている。
わたしはかねてから、日本は一八五三年にペリーに強姦され、その屈辱感を抑圧したために、アメリカを崇拝する外的自己と、憎悪する内的自己とに分裂し、一種の精神分裂病者になったと言っているが、わたしの考えによれば、真珠湾奇襲の真の動機はこの内的自己の暴発である。
日本はペリーによる強姦に対して復讐したかったのである。
日本はアメリカと戦争したかったのである(しかし、全面戦争をしたかったのではなく、ペリーにやられたことをやり返したかっただけである。ペリーは戦艦を四隻つれてやってきたが真珠湾で日本軍は戦艦を四隻撃沈して引きあげている)。
そのため・イギリスとオランダだけに宣戦するという、より合理的な方策は検討すらされない。交渉の余地のあるハル・ノートを最後通牒と見なす。
そのようにして日本はみずからをアメリカと戦わざるを得ないところに追い込んでゆく。
そして、日本軍は真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃したが、燃料タンクや市街地を攻撃しなかったことは、かつてペリーの戦艦に脅迫されたが、それ以上のことはされなかったことと関係がある。
また、日本軍が戦略的には当然やるべき第二次攻撃をやらなかったこと、真珠湾奇襲以後はアメリカ軍に対する勝ち戦さがほとんどないこと、それ以後の戦さはどういう目的と戦略があって戦ったのかさっぱりわからないものばかりであることは、真珠湾の第一次攻撃でペリーへの復讐を遂げて満足してしまったからだと考えられる。
(後略~)
【引用元:二十世紀を精神分析する/ニ、ペリー来航と真珠湾/P14~】
初めて読んだ時、「近代日本はペリーに強姦された」という
岸田秀の見方は、非常に新鮮に感じました。ちなみに彼は「マッカーサーに再び強姦された」とも書いています。
確かにこの精神分析をあてはめてみると、近代以降の日本の行動というものが、うまい具合に説明がつくんですね。そうかな?と思う点も若干ありますが、大筋では結構図星を突いているんじゃないかと思います。
次回は、精神分裂の状態に陥った日本人が、憲法改正の問題にどう関わっているのかについて取り上げていきたいと思います。ではまた。
【関連記事】
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ゴールデンウィークももう終わりですねぇ。皆さんどんな過ごし方されたのでしょうか?
私といえば、お金もないし、人混みはいやということで遠出とかせず、のんべんだらりと休暇を過ごしたわけですが、それでも家族サービスということで、こどもの日の5日に職場の先輩家族と一緒に近場の公園にバーベキューに行きました。
去年は、高麗川の河原でやって物凄い人出だったので、今年はマイナーな場所でやるべぇと思って、ときがわ町の雀川砂防ダム公園↓に行って見ました。
・雀川砂防ダム公園マップこの公園は、比較的最近(平成5年)出来た公園らしく、あまり有名ではないようなのですが、アジサイが結構植わっていて、咲く頃はそれなりに趣きがあるんですね。
ただ、駐車場が少ないこと、またGW中ということで、ひょっとしたらマイナーな公園でも混雑しているかも知れないと思い、早めに現地に到着してブランチバーベキューとしましたが、これが正解。
現地に赴く途中、渡った橋から見た河原は朝9時ごろなのにもう車でいっぱいだったので目的地の公園はどうか?と心配になったけれど、いざ9時半ごろ到着してみると、1番良い場所をゲットできました
その後、何家族か来たものの、全然混む様子はなくて非常にのんびりとバーベキューが出来ました。
(
巾着田や
飯能河原ではこうはいきません。思ったとおり穴場でした。)
沢蟹とかも見つけられたし、子供たちも大満足の一日でした。
昼過ぎには雨も降ってきたので、早めに退散し、近所にある有名なお豆腐屋さん↓に寄りました。
・とうふ工房わたなべここは物凄く繁盛しているんですよ。
確かに豆腐とか厚揚げとか美味しいし、午前中ならおからも無料で持ってかえれるし。
でも、私の一番のお勧めは、おからを使った「おからドーナツ」。
一個60円と手ごろで、もっちりとした食感と自然な甘みが楽しめる一品なんです。
あと、豆乳アイスクリームも、豆の味が楽しめて美味しかったなぁ。
当然、GW中なので大混雑してまして、アイスクリームを買うのに列に並んだり、おからドーナツは注文してから10分程度待たされるなどしましたが、これぐらいは仕方ないのかも。
そういえば、このお店は敷地の中に、井戸水あって自由に汲んで帰れるみたいで何人か容器に入れていました。お水が美味しいからお豆腐も美味しいわけですね。
ここで、お土産に買ったのが「
きらず揚げ」↓です。
一袋280円と非常に高いのですが、美味しいのでいつも購入してしまいます。
これはここのお店の物ではなく他店(
とうふ工房いしかわ)の品物↓なんですが、店頭で扱っているのです。
・【楽天市場】きらず揚げ:とうふや豆蔵このお菓子、とても堅いのですが、ほのかな甘みがあってつい止まらなくなります。
私はこの「堅さ」が気に入ってます。うちの子供が食べるお菓子のなかではダントツに堅いんじゃないかな。
以下、お店の宣伝文句を引用しておきましょう。
現在、日本では食生活は社会環境の変化により、大人から子供まで著しく噛む回数が減少しています。
よく噛むものを選び、育ち盛りのお子様へどうぞ。
・噛むことはあごや歯の発達に役立ちます。
・噛んで出た唾液は、消化作用、殺菌作用など多くの有益効果をもたらします。
・噛むことは記憶力を高めたり、脳の働きを活性化します。
・噛むことは、脳の満腹中枢を刺激するので過食を防ぎ、肥満防止にもつながります。
だそうです。確かに子供のあごを鍛えるのに最適なお菓子ですよ。お勧めです。
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今日は、以前ご紹介した記事
自己欺瞞と偽りの謝罪論【その1】の続きを紹介していきます。
前回からのつづき。
■脆弱な論理
この集団的自己欺瞞が敗戦後の日本を広く支配する共同幻想となったため、大東亜戦争にもいくらかはプラス面があったなんて言うと、いや、この戦争を大東亜戦争と呼んだだけでも、すぐ右翼だと決めつけられました。
僕は別に大東亜戦争という呼び方にこだわっているわけではありませんが、太平洋戦争では中国との戦争が含まれないし、アジア・太平洋戦争とか極東戦争とかいうのはなじみがないし、右翼ではないつもりですが、まあ、大東亜戦争でいいんじやないかと思います。
それにしても、そういう決めつけ方は、戦争中、ちょっとでも戦争をいやがったり、日本の勝利を疑ったりすると、非国民とされたときの決めつけ方とまったく同じなので、この両者は、方向は逆ですが、同種の現象であることがわかります。
偽りの共同幻想は、基盤も構造も脆弱なので、ちょっとでも反対や疑問を許すと、すぐ崩れてしまいそうですから、神経質に反対や疑問を抑えておかねばならないのです。
両者に共通なこのような決めつけ方は、敗戦前の共同幻想も敗戦後のそれもともに、自己欺瞞にもとづく偽りのものであることを示しています。
自分と反対の主張に対して不寛容な主張は、それだけで根拠薄弱な主張と見ていいでしょう。
イギリスだってインドを何百年にもわたって支配し、搾取し、インド人虐殺を繰り返しているのに、インドに謝罪しないし、あの卑劣なアヘン戦争についても中国に謝罪しない。フランスだってベトナムに謝罪しない。オランダだってインドネシアに謝罪しない。
それどころか、この前、オランダのベアトリクス女王が戦後初めてインドネシアを訪問したとき、オランダ人がインドネシアにいたことはオランダの利益にもなったが、インドネシアのためにもなったと、ぬけぬけと演説しました。
アメリカだって原爆について日本に謝罪しない。占領時、日本女性を従軍慰安婦に使ったことについても謝罪しない。
これらの事実を挙げて、日本も、大日本帝国が諸外国に与えた損害に関して謝罪する必要はない、と主張する人たちがいますね。
欧米諸国は謝罪しないのに、悪いことをしたのは欧米諸国よりずうっとあとのことで、しかも、規模も小さかったのに、なぜ日本だけが謝罪しなければいけないんだ、という論理ですね。
日本の謝罪が必要ないと主張する人たちは、アジアヘの日本の進出を侵略ではない、少なくとも単なる侵略ではないと考える人たちで、ナショナリストと言っていいのですが、彼らは矛盾していると思うんですがね。
彼らは、ナショナリストであるだけに、欧米諸国のアジア侵略、植民地主義を激しく攻撃するんですよ。
しかし、日本は謝罪する必要がないという彼らの論理は、論理的に突きつめてゆくと、イギリスもフランスもオランダもアメリカも謝罪する必要がないことになってしまいます。
そうならないためには、日本のアジア支配はアジア解放のためで、欧米諸国のアジア支配は搾取のためだったという理論を立てねばなりませんが、この理論はどうしても弱いですね。
それでは、日本のインドネシア進攻は侵略で、オランダのインドネシア支配はインドネシア人のために優れた文明をもたらすためだったとするオランダ人と同じレベルに堕ちてしまいます。
ナショナリストならナショナリストでいいですが、欧米の植民地主義を非難し、欧米がアジアを侵略し、搾取したことを謝罪しない点を批判するのなら、同時に、日本が謝罪しないことについても批判しないと、論理が一貫しないですね。
要するに、日本は謝罪する必要がないと主張する人たちは、論理的一貫性など無視して、自己中心的に気分でものを言っているところがあるように思います。
こちらから謝罪するのは癪だ、と。しかし、欧米の植民地主義も癪だ、と。
彼らは、自分たちに都合のいいことを、その都度、言っているに過ぎないのではないでしょうか。
確かに、どこの国も自国に都合のいい歴史をつくっている、というところはありますね。
昔、フランスのストラスブール大学に留学していたとき、同じく留学生のイギリス人が、日本のことを、朝鮮を植民地にしてとか、満州をどうのこうのしてとか詳しく知っているのに、セポイの反乱のことを知らなかったので、びっくりしたことがありますが、イギリスの学校では、満州事変のことは教えても、セポイの反乱は教えないんですかね。面白いですね。
近頃は、イギリスだってもうそういうことはないと思いますが……。(注1)
しかし、謝罪を支持する人たちも首尾一貫しているとは言えないですね。
相手がガミガミうるさく言うものだから、心のなかでは悪かったと思っていないのに、「平和と友好のため」ここは頭を下げておこうなんて、とんでもない無節操なことをやりかねないところが一部の政治家に見られます。
卑屈というのは、そういうことを言うのです。
謝罪するのなら、何ゆえに謝罪するのかに関して一貫した理論を築き、それにもとづいて一貫して謝罪すべきです。
少々の金で済むのならと、理の通らない謝罪をしたりすれば、あとで取り返しのつかない禍根を残します。
そして、同じ理論にもとづいて、日本が謝罪を要求すべきところは断固として要求すべきです。
従軍慰安婦に関して、どこかですでに書いたことがありますが、支配下の国の女たちを自軍兵士のための慰安婦として使うことは謝罪し補償すべき犯罪であるとの理論を立てたならば、日本は、韓国などに謝罪し、補償すべきであるし、承諾されるされないは別として、アメリカには謝罪と補償を求めるべきです。
アメリカ軍は、占領中、日本女性を慰安婦にしていたのですから。
もうだいぶ昔のことだし、アメリカとは友好関係にあるし、どうせ相手にされないだろうし、そのようなことで今更アメリカに謝罪と補償を要求しても始まらないと考えるのでしたら、韓国などにも謝罪や補償をすべきではありません。
どちらの側に立つにせよ、必要なのは首尾一貫性です。それがないと大金を払って軽蔑を買うことになります。
(後略~)
【引用元:日本がアメリカを赦す日/第九章 侵略と謝罪/P183~】
日本の戦争責任を巡って、様々な意見や立場がありますが、こうやって
岸田秀の記述を読んでみると、いずれの立場にも「首尾一貫性」という問題があるのがわかりますね。
南京大虐殺や
従軍慰安婦問題を追及するのに熱心な人たちというのは、えてして異なる意見に対して非常に非寛容かつ否定的ですよね。
それは、異論を受け付けない護憲派ブログや、例えば拙ブログのコメント欄でもおなじみのApeman氏の言動を見れば、誰しも納得していただけるのではないでしょうか。
これは、やはり
岸田秀が指摘するように、「偽りの共同幻想にかられ、自己欺瞞に陥っている」が故としか思えません。結局、自己欺瞞に基づく自我が崩されることに、本能的に危機感を覚えてこうした行動に走ってしまうのでしょう。
幸い、このような偽りの共同幻想にひたる人たちというのは、ネットの普及や中韓の振る舞い等の影響により減少傾向であると見てよいでしょう。
そのかわり、日本無罪論に同調する人たちが増えているのは間違いないと思います。
「なぜ、日本だけが責められなくちゃならないんだ!」という感情にも訴えることができるので、こうした人たちが増えるのも当然ですね。田母神さんが、支持されるのもそうした影響でしょう。
そして、確かに日本無罪論を唱える人たちの傾向として、欧米の植民地支配を批判する意見が多いような気がします。
これは、一種の「負い目の裏目
(注)」的な行動でもあるんでしょうね。
(注)…紀南方面?の言葉。「だれかに何らかの負い目を感じている者は、その相手に何か失態があったときに余計に強く言いたてるものだから用心せよ」という意味。下記↓記事も参照されたし。【参照記事】
・戦争責任から、核兵器について、そして「負い目の裏目」について考えるただ、
岸田秀が指摘しているとおり、「日本を無罪としながら、欧米の植民地支配を糾弾する」というのは、確かに論理的に弱いのは間違いないですね。
ですから、「気分でものを言っている」という指摘は、ズバリ的を得ているでしょう。
ネット右翼といわれる人たちの大半は、こうした自己中心的な、いわば感情的な論理で動いてしまっているような気がしますね。
戦後自己欺瞞的な風潮が強かったせいで、その反動なのでしょうけど、ちょっと、危険な匂いがします。
けれど、やっぱり一番いけないのは、「相手がガミガミうるさく言うものだから、心のなかでは悪かったと思っていないのに、「平和と友好のため」ここは頭を下げておこう」というやり方でしょう。
これが一番、日本に害をもたらしたのではないでしょうか。
具体例を挙げるとしたら、
河野談話でしょうね。
まさに戦後日本の「卑屈さ」が、この談話に表れているような気がします。
本当に取り返しのつかないことをしてくれたよなぁ、
河野洋平という男は。
結局のところ、
河野洋平のような政治家が活躍できたというのは、日本社会が卑屈であったからなのかも知れませんが、それでもやっぱり口惜しいですね。
何はともあれ、戦争責任を論じるなら、
「論理の一貫性」を心掛けることが大事だということでしょうか。
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